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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-02-19
(45)【発行日】2024-02-28
(54)【発明の名称】低摩擦摩耗膜及びその製造方法
(51)【国際特許分類】
   C23C 14/06 20060101AFI20240220BHJP
   C23C 14/14 20060101ALI20240220BHJP
   C23C 14/22 20060101ALI20240220BHJP
   B32B 15/04 20060101ALI20240220BHJP
   B32B 9/00 20060101ALI20240220BHJP
【FI】
C23C14/06 N
C23C14/06 B
C23C14/14 D
C23C14/06 F
C23C14/22 Z
B32B15/04 Z
B32B9/00 A
【請求項の数】 3
(21)【出願番号】P 2020080336
(22)【出願日】2020-04-30
(65)【公開番号】P2021172873
(43)【公開日】2021-11-01
【審査請求日】2023-02-13
(73)【特許権者】
【識別番号】000000011
【氏名又は名称】株式会社アイシン
(73)【特許権者】
【識別番号】391001790
【氏名又は名称】株式会社東研サーモテック
(74)【代理人】
【識別番号】110000213
【氏名又は名称】弁理士法人プロスペック特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】金 成姫
(72)【発明者】
【氏名】鈴木 奉努
(72)【発明者】
【氏名】梶野 正樹
(72)【発明者】
【氏名】北村 和也
(72)【発明者】
【氏名】大森 直之
【審査官】▲高▼橋 真由
(56)【参考文献】
【文献】中国特許出願公開第107400873(CN,A)
【文献】国際公開第2019/025627(WO,A1)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C23C 14/00-14/58
B32B 15/04
B32B 9/00
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
金属基材表面に形成されたCr層と、
前記Cr層の表面上に形成され、Cr及びWCを含み、前記Cr層から厚み方向に離れるに従いCrの組成比率が減少し且つWCの組成比率が増加する傾斜組成を有するCr-WC傾斜層と、前記Cr-WC傾斜層の表面上に形成されたWCからなるWC均一層とを有し、前記Cr-WC傾斜層と前記WC均一層との境界にW単体が存在するW濃化層が形成されていないWC層と、
前記WC層の表面上に形成されたトップ層としてのDLC層と、
を備え
前記Cr-WC傾斜層が前記Cr層の表面に直接形成されている、低摩擦摩耗膜。
【請求項2】
請求項1に記載の低摩擦摩耗膜であって、
前記WC層中のWの原子濃度とCの原子濃度の総和(W+C)に対するWの原子濃度の比率(W/(W+C))が50%以下である、低摩擦低摩耗膜。
【請求項3】
金属基材表面に形成されたCr層と、
前記Cr層の表面上に形成され、Cr及びWCを含み、前記Cr層から厚み方向に離れるに従いCrの組成比率が減少し且つWCの組成比率が増加する傾斜組成を有するCr-WC傾斜層と、前記Cr-WC傾斜層の表面上に形成されたWCからなるWC均一層とを有するWC層と、
前記WC層の表面上に形成されたトップ層としてのDLC層と、を備える低摩擦摩耗膜の製造方法であって、
真空槽内に設置されたCrからなるCrターゲットに不活性ガスイオンを衝突させて前記Crターゲットから叩き出されたCr原子を前記金属基材の表面に付着させることにより、前記Cr層を成膜するCr層成膜工程と、
前記真空槽内に設置された前記Crターゲット及びWCからなるWCターゲットに不活性ガスイオンを衝突させて前記Crターゲットから叩き出されたCr原子及び前記WCターゲットから叩き出されたWC成分を前記Cr層の表面に付着させることにより、前記Cr-WC傾斜層を成膜するCr-WC傾斜層成膜工程と、
前記真空槽内に設置された前記WCターゲットに不活性ガスイオンを衝突させて前記WCターゲットから叩き出されたWC成分を前記Cr-WC傾斜層の表面に付着させることにより、前記WC均一層を成膜するWC均一層成膜工程と、
前記真空槽内に炭化水素ガスを導入するとともに、導入した炭化水素ガスをイオン化する炭化水素イオン化工程と、
前記炭化水素イオン化工程にてイオン化された炭化水素を前記WC均一層の表面に付着させることにより、前記DLC層を成膜するDLC層成膜工程と、
を含み、
前記炭化水素イオン化工程が、前記Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始される、低摩擦摩耗膜の製造方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、低摩擦摩耗膜及びその製造方法に関する。特に、本発明は、トップ層にDLC層を有し、且つ耐アルカリ性が高められた低摩擦摩耗膜及びその製造方法に関する。
【背景技術】
【0002】
DLC(ダイヤモンドライクカーボン)は、高硬度であり、摩擦係数が低く、且つ耐摩耗性を有する。従って、トップ層(最表面の層)にDLC層が形成された皮膜は、低摩擦且つ低摩耗な膜、すなわち低摩擦摩耗膜として、様々な分野での利用が期待されている。例えばダイカスト金型の表面に、トップ層がDLC層である低摩擦摩耗膜を形成することにより、金型の長寿命化を図ることができる。
【0003】
DLC層をトップ層に持つ低摩擦低摩耗膜(以下、単に低摩擦摩耗膜と言う)を金属基材表面に形成するにあたり、その密着性を向上させるため、低摩擦摩耗膜に、クロム層(Cr層)と炭化タングステン(WC)を含む層(WC層)が形成されることがある。この場合、金属基材表面にCr層が形成され、Cr層の表面上にWC層が形成され、WC層の表面上にDLC層が形成される。Cr層により基材との密着性が高められ、WC層によりDLC層の密着性が高められる。
【0004】
特許文献1は、金属基材表面に、Cr層、Cr-WC傾斜層、DLC層がこの順に形成された低摩擦摩耗膜を開示する。Cr-WC傾斜層は、Cr層との界面におけるクロム含有量が100wt%であり、DLC層との界面におけるクロム含有量が0wt%であり、Cr層からDLC層に向かってCrの組成比率が減少しWCの組成比率が増加するように形成される。特許文献1に開示の低摩擦摩耗膜によれば、より密着性を高めることができる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0005】
【文献】特開2001-225412号公報
【発明の概要】
【0006】
(発明が解決しようとする課題)
トップ層にDLC層を持つ従来の低摩擦摩耗膜は、アルカリ耐性の観点からさらなる改善が求められる。そこで、本発明は、耐アルカリ性が高められた低摩擦摩耗膜及びその製造方法を提供することを、目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明に係る低摩擦摩耗膜は、Cr層(11)と、Cr-WC傾斜層(12)及びWC均一層(13)を有するWC層(14)と、DLC層(15)とを備える。Cr層(11)は、金属基材表面に形成される。Cr-WC傾斜層(12)は、Cr層(11)の表面上に直接形成され、Cr及びWCを含み、Cr層(11)から厚み方向に離れるに従いCrの組成比率が減少し且つWCの組成比率が増加する傾斜組成を有する。WC均一層(13)は、Cr-WC傾斜層(12)の表面上に形成され、WCからなる。DLC層(15)は、WC層(14)の表面上に形成されるトップ層である。そして、WC層(14)は、Cr-WC層(12)とWC均一層(13)との境界にW単体が存在するW濃化層が形成されていないように構成される。
【0008】
従来の低摩擦摩耗膜は、金属基材表面に形成されたCr層と、Cr層の表面上に形成されたCr-WC傾斜層及びCr-WC傾斜層の表面上に形成されたWC均一層を有するWC層と、WC層の表面上に形成されるDLC層とを有するが、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にはタングステン(W)単体が存在するW濃化層が形成されている。このようなW濃化層の存在は、耐アルカリ性の低下を招く。これに対し、本発明に係る低摩擦摩耗膜は、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にW濃化層が形成されていないから、耐アルカリ性が高い。したがって、本発明によれば、耐アルカリ性が高められた低摩擦摩耗膜を提供することができる。
【0009】
この場合、WC層中のWの原子濃度(Wat%)とCの原子濃度(Cat%)の総和(W+C)に対するWの比率(W/(W+C))が50%以下であるとよい。上記比率を50%以下に調整することにより、W濃化層の形成を阻止することができる。なお、WC層中に過剰のC成分が存在する場合、そのC成分とWC成分により、WC層内にWC-C層が形成される。
【0010】
また、本発明に係る低摩擦摩耗膜の製造方法は、金属基材表面に形成されたCr層(11)と、Cr層(11)の表面上に形成され、Cr及びWCを含み、Cr層(11)から厚み方向に離れるに従いCrの組成比率が減少し且つWCの組成比率が増加する傾斜組成を有するCr-WC傾斜層(12)及びCr-WC傾斜層の表面上に形成されたWCからなるWC均一層(13)を有するWC層(14)と、WC層(14)の表面上に形成されたトップ層としてのDLC層(15)と、を備える低摩擦摩耗膜の製造方法であって、真空槽(101)内に設置されたCrからなるCrターゲット(111)に不活性ガスイオン(Ar)を衝突させてCrターゲット(111)から叩き出されたCr原子を金属基材の表面に付着させることにより、Cr層(11)を成膜するCr層成膜工程と、真空槽(101)内に設置されたCrターゲット(111)及びWCからなるWCターゲット(112)に不活性ガスイオン(Ar)を衝突させてCrターゲット(111)から叩き出されたCr原子及びWCターゲット(112)から叩き出されたWC成分をCr層(11)の表面に付着させることにより、Cr-WC傾斜層(12)を成膜するCr-WC傾斜層成膜工程と、真空槽(101)内に設置されたWCターゲット(112)に不活性ガスイオン(Ar)を衝突させてWCターゲット(112)から叩き出されたWC成分をCr-WC傾斜層(12)の表面に付着させることにより、WC均一層(13)を成膜するWC均一層成膜工程と、真空槽(101)内に炭化水素ガスを導入するとともに、導入した炭化水素ガスをイオン化する炭化水素イオン化工程と、炭化水素イオン化工程にてイオン化された炭化水素をWC均一層(13)の表面に付着させることにより、DLC層(15)を成膜するDLC層成膜工程と、を含む。そして、炭化水素イオン化工程が、Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始される。
【0012】
上記発明によれば、炭化水素イオン化工程は、Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始される。従って、WC均一層成膜工程の開始時にイオン化された炭化水素を十分に真空槽内に存在させておくことができるので、WC均一層成膜工程にて生じる過剰のWのほぼ全てをイオン化された炭化水素と結合させることができ、これによりWC均一層成膜工程の成膜初期に生じる過剰のWによるW濃化層の形成を阻止することができる。加えて、Cr-WC傾斜層成膜工程の成膜終期に生じる過剰のWがイオン化された炭化水素と結合してWCを形成することにより、Cr-WC傾斜層成膜工程の成膜終期に生じる過剰のWによるW濃化層の形成を阻止することができる。
【図面の簡単な説明】
【0013】
図1図1は、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜の一部分の断面の模式図を示す。
図2図2は、従来の低摩擦摩耗膜の一部分の断面の模式図を示す。
図3図3は、従来の低摩擦摩耗膜における剥離の発生箇所に残された部分の断面のTEM画像を示す。
図4図4は、図3のTEM画像をCr成分、C成分、W成分ごとにマッピングしたマッピング画像を示す。
図5図5は、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜を製造するためのスパッタリング装置を平面方向(上方向)から模式的に示す断面図である。
図6図6は、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜の製造プロセスのイメージを表す模式図である。
図7図7は、従来技術に係る低摩擦摩耗膜の製造プロセスのイメージを表す模式図である。
図8図8は、実施例1にて作製したサンプルに形成された低摩擦磨耗膜のうちCr層からWC層までの断面を示すTEM画像及び、このTEM画像をCr成分、W成分、C成分ごとにマッピングしたマッピング画像である。
図9図9は、比較例1にて作製したサンプルに形成された低摩擦磨耗膜のうちCr層からWC層までの断面を示すTEM画像及び、このTEM画像をCr成分、W成分、C成分ごとにマッピングしたマッピング画像である。
【発明を実施するための形態】
【0014】
図1に、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜の一部分の断面の模式図を示す。図1に示すように、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10は、Cr層11と、Cr-WC傾斜層12及びWC均一層13を有するWC層14と、トップ層としてのDLC層15とを備え、これらの層がこの順に、金属基材1の表面に形成される。
【0015】
Cr層11は、クロム(Cr)からなる層である。Cr層11は、金属基材1の表面に形成される。金属基材1として、特にCr層との密着性の観点から鉄基材が好ましく用いられる。鉄基材として、例えば、金型や工具に用いられる合金工具鋼(SKD、SKS等)を例示することができるが、これに限定されない。また、Cr層11は、典型的には、スパッタリングにより金属基材1の表面に成膜される。
【0016】
Cr-WC傾斜層12は、Cr層11の表面上に形成される。Cr-WC傾斜層12は、Crと炭化タングステン(WC)の組成比率が厚み方向に傾斜した傾斜組成を有するように構成される。具体的には、Cr-WC傾斜層12は、Cr層11から膜厚方向(低摩擦摩耗膜の厚み方向)に離れるに従ってCrの組成比率が減少し且つWCの組成比率が増加するように形成される。CrとWCの組成比率の変化の態様は特に限定されず、一次的な変化でも二次的な変化でもそれ以外の変化でも良い。
【0017】
Cr-WC傾斜層12は、典型的には、スパッタリングによりCr層11の表面上に成膜される。このときスパッタリングに用いられるクロム(Cr)ターゲットに印加する電圧と炭化タングステン(WC)ターゲットに印加する電圧との電圧比を調整することにより、Cr-WC傾斜層12が形成され得る。
【0018】
WC均一層13は、Cr-WC傾斜層12の表面上に形成される。WC均一層13は、WCからなる層である。WC均一層13は、典型的には、スパッタリングによりCr-WC傾斜層12の表面上に成膜される。
【0019】
WC層14は、上記のCr-WC傾斜層12とWC均一層13を有する。なお、WC層14は、WCに微量の炭素(C)原子が混入してなるWC-C層を含んでいても良い。このようなWC-C層は、WC均一層13の表面上に、すなわちWC均一層13とDLC層15との間に、形成されることがある。
【0020】
また、Cr-WC傾斜層12とWC均一層13との境界部分には、タングステン(W)単体が存在するW濃化層が形成されていない。つまり、WC層14は、Cr-WC傾斜層12及びWC均一層13を有し、これらの層の境界にW濃化層が形成されていないように構成される。このようにW濃化層が形成されていないことによる効果、及びその製造方法については後述する。
【0021】
DLC層15(ダイヤモンドライクカーボン層)は、WC層14の表面上に形成される。このDLC層15が、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10のトップ層を構成する。DLC層15は、ダイヤモンドのsp結合とグラファイトのsp結合の両者を炭素原子の骨格構造としたアモルファスカーボン膜である。したがって、ダイヤモンドに近い性質及びグラファイトに近い性質を兼ね備える。よって、DLC層15をトップ層に備えることにより、硬度が高く、低摩擦及び低摩耗な膜を形成することができる。このDLC層15は、例えばプラズマCVD法により、WC層14の表面上に成膜される。
【0022】
このように、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10は、Cr層11、Cr-WC傾斜層12及びWC均一層13を有するWC層14、及びDLC層15を備える。そして、Cr-WC傾斜層12とWC均一層13との境界には、上記したようにW濃化層が形成されていない。一方、従来の低摩擦摩耗膜においては、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にW濃化層が形成されている。これについて、以下に説明する。
【0023】
図2は、従来の低摩擦摩耗膜50の一部分の断面の模式図を示す。図2に示すように、従来の低摩擦摩耗膜50は、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10と同様に、金属基材1の表面に形成されたCr層51と、Cr層51の表面上に形成されたCr-WC傾斜層52及びCr-WC傾斜層52の表面上に形成されたWC均一層53を有するWC層54と、WC層54の表面上に形成されたDLC層55とを有する。また、従来の低摩擦摩耗膜50には、W濃化層56が形成されている。W濃化層56は、Cr-WC傾斜層52とWC均一層53との境界に形成される。
【0024】
このようなW濃化層56が形成される理由は以下の通りである。
Cr-WC傾斜層中のWC成分、及び、WC均一層を構成するWC成分は、一般的にWCターゲットのスパッタリングにより各層中に供給されるが、WCターゲットから叩き出されるWC成分のうちW成分(タングステン成分)の量はC成分(炭素成分)の量よりも多いことが判明している。すなわち、Wのスパッタ率の方がCのスパッタ率よりも高い。このためCr-WC傾斜層52の成膜終期及びWC均一層53の成膜初期には過剰のW成分によってW単体が存在する層が形成される。こうして形成されたW単体が存在する層が、W濃化層として、Cr-WC傾斜層52とWC均一層53との境界に形成される。なお、Cr-WC傾斜層52の成膜初期にはWCの組成比率が小さいために、W濃化層は形成されないと考えられる。また、WC均一層53の成膜終期には、WCターゲットから叩き出されるW成分とC成分が同量程度になるため、W濃化層は形成されないと考えられる。
【0025】
Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にW濃化層が形成された場合、W濃化層を起点として膜が剥離する虞がある。この理由について以下に説明する。
図1に示す本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10及び図2に示す従来技術に係る低摩擦摩耗膜50を過酷な条件下で使用すると、膜表面にクラックが生じることがある。また、成膜時に膜内にピンホールのような欠陥が生じ、その欠陥が表面まで露出することがある。そして、従来技術に係る低摩擦摩耗膜50のようにW濃化層56が形成されている場合、上記のクラック或いは欠陥がW濃化層56にまで達することもある。
【0026】
クラック或いは欠陥がW濃化層56にまで達した状態で、従来技術に係る低摩擦摩耗膜50を使用し続けると、クラック或いは欠陥を通じてW濃化層56にまで雰囲気(例えば空気)中の酸素が進入し、進入した酸素がW濃化層56中のWと接触して、以下の酸化反応が起きる。
2W+3O→2WO
さらに、上記反応により生成した酸化タングステンがアルカリ液(水酸化ナトリウム)に接すると、以下の反応が起きる。
WO+2NaOH→NaWO+H
【0027】
上記の反応により生じたタングステン酸ナトリウムは、アルカリ液に溶け込む。つまり、タングステン酸はアルカリ液に可溶である。このためW濃化層56が溶出する。W濃化層56が溶出すると、その上に形成されている部分(WC均一層53及びDLC層55)が剥離する。
【0028】
図3は、従来の低摩擦摩耗膜における剥離の発生箇所に残された部分の断面のTEM画像である。図3に示すように、Cr-WC傾斜層よりも上側の層(WC均一層及びDLC層)が剥離しており、金属基材(Fe)の表面にはCr層及びCr-WC傾斜層のみが残されている。また、図4は、図3のTEM画像をCr成分、C成分、W成分ごとにマッピングしたマッピング画像である。図4(a)がCrのマッピング画像、図4(b)がCのマッピング画像、図4(c)がWのマッピング画像である。図4(c)に良く示すように、剥離箇所に残された部分の表面にW成分が検出されており、このW成分の検出部分にC成分が検出されていない。このため、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にW濃化層が形成され、このW濃化層が形成された部分を起点として剥離が生じていることが確認された。
【0029】
このような剥離現象は、例えば、従来技術に係る低摩擦摩耗膜50をダイカスト金型の表面にコーティングした場合等に、顕著に発生する。ダイカスト金型の使用環境は過酷であるために、トップコートのDLC層55にクラックが発生することがあり、その状態で使用を継続した場合、クラックがW濃化層56にまで達する。すると、上記したようにW濃化層56中のWが酸化する。また、ダイカスト金型に付着したアルミニウム等を除去するために、アルカリ洗浄液中にダイカスト金型を浸漬する。すると、上記したようにタングステン酸ナトリウムが生成することによりW濃化層56がアルカリ洗浄液中に溶出する。これにより、DLC層55及びWC均一層53が剥離する。
【0030】
従って、従来技術に係る低摩擦摩耗膜50によれば、Cr-WC傾斜層52とWC均一層53との境界にW濃化層56が形成されているためアルカリ耐性が低く、耐食性に乏しい。これに対し、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10によれば、Cr-WC傾斜層12とWC均一層13との境界にW濃化層が形成されていないようにWC層14が構成される。このため、たとえ膜中にクラック等の欠陥が形成されていたとしても、WC層14中に酸化タングステンが形成されることはなく、そのためアルカリ液に浸漬した場合であっても、DLC層15及びWC均一層13の剥離は防止される。
【0031】
次に、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10の製造方法について説明する。図5は、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10を製造するためのスパッタリング装置100を平面方向(上方向)から模式的に示す断面図である。図5に示すように、スパッタリング装置100は、内部空間を有する真空槽101を備える。この真空槽101内に回転テーブル102が配設される。
【0032】
回転テーブル102の平面形状は図5に示すように円形状に形成される。この回転テーブル102の上面に、複数(図5においては8個)の円板状の基材ホルダ103が回転テーブル102の周方向に一定の間隔をあけて配列される。各基材ホルダ103の中心軸線は、回転テーブル102の中心軸線に平行である。そして、複数の基材(本実施形態では鉄基材)が複数の基材ホルダ103にそれぞれ載置されるとともに保持される。
【0033】
回転テーブル102は、図示しない駆動手段によって、その中心軸線回りに所定の回転方向(例えば図5の矢印Aにより示す時計回転方向)に回転(自転)するように構成されている。また、回転テーブル102上に設けられた複数の基材ホルダ103は、図示しない駆動手段によって、その中心軸線回りに所定の回転方向(例えば図5の矢印Bにより示す時計回転方向)に回転(自転)するように構成されている。従って、回転テーブル102及び基材ホルダ103がともに回転することにより、基材ホルダ103上の鉄基材は公転しながら自転することになる。また、回転テーブル102にはバイアス電源104が接続される。このバイアス電源104は、回転テーブル102、基材ホルダ103及び基材ホルダ103に保持された鉄基材に負バイアス電圧を印加することができるように構成される。
【0034】
また、真空槽101には、排気口105と、Arガス導入口106と、炭化水素ガス導入口107が、設けられている。排気口105は真空ポンプに接続され、Arガス導入口106はArガス源に接続され、炭化水素ガス導入口107は炭化水素ガス源に接続される。炭化水素ガス源として、例えばアセチレンガス源、メタンガス源が、例示できる。
【0035】
また、真空槽101内に、一対のCrターゲット111,111及び一対のWCターゲット112,112が設置される。一対のCrターゲット111,111はそれぞれクロムからなり、図5に示すように平面方向から見て回転テーブル102を挟んで回転テーブル102の径方向に互いに対向配置される。一対のWCターゲット112,112はそれぞれ炭化タングステンからなり、図5に示すように平面方向から見て回転テーブル102を挟んで回転テーブル102の径方向に互いに対向配置される。一対のCrターゲット111,111の対向方向と、一対のWCターゲット112,112の対向方向は、ほぼ直交する。したがって、各ターゲットは、回転テーブル102の周方向に90度間隔で配列されていることになる。一対のCrターゲット111,111には、それぞれ、真空槽101外に配置したCrスパッタ電源113,113が各々接続される。一対のWCターゲット112,112には、それぞれ、真空槽101外に配置したWCスパッタ電源114,114が各々接続される。各スパッタ電源によって、これらのターゲットに負電圧(スパッタ電圧)が印加される。
【0036】
上記構成を有するスパッタリング装置100を用いて本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10を製造する場合、まず、基材ホルダ103に鉄基材を保持させる。次いで、真空槽101を密閉するとともに、排気口105に接続された真空ポンプを作動させて真空槽101の内部空間を所定の低圧まで減圧する。また、回転テーブル102及び各基材ホルダ103を回転させて、基材ホルダ103に保持された鉄基材を自転及び公転させる。鉄基材を真空槽101内で自公転させることにより、鉄基材表面に均一に低摩擦摩耗膜10を成膜することができる。
【0037】
次いで、Cr層成膜工程が実施される。Cr層成膜工程では、真空槽101の内圧が所定の低圧に維持された状態で、Arガス源に接続されたArガス導入口106から不活性ガスとしてのArガスを真空槽101内に導入するとともに、Crターゲット111に所定の負の高電圧が印加されるように、Crスパッタ電源113を制御する。これによりCrターゲット111から放電が起こり、Crターゲット111の前面(回転テーブル102を向いた面)にプラズマ121が発生する。このプラズマ121内でArガスがイオン化され、イオン化されたArガス(Ar)が負電圧に帯電されたCrターゲット111に衝突することにより、Crターゲット111からCr原子が叩き出される。そして、叩き出されたCr原子が基材ホルダ103に保持された鉄基材表面に付着することにより、鉄基材表面にCr層11が形成(成膜)される。
【0038】
所定時間の経過後、或いはCr層11の膜厚が所定の膜厚に達した後に、Cr層成膜工程が終了し、次いで、Cr-WC傾斜層成膜工程が実施される。Cr-WC傾斜層成膜工程では、Crターゲット111への負電圧の印加と同時に、WCスパッタ電源114によってWCターゲット112にも負電圧を印加して、WCターゲット112の前面にもプラズマ122を発生させる。また、このCr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に、炭化水素ガス源に接続された炭化水素ガス導入口107から、アセチレン等の炭化水素ガスを真空槽101内に導入する。真空槽101内に導入された炭化水素ガスは、プラズマ121内及びプラズマ122内でイオン化される(炭化水素イオン化工程)。つまり、炭化水素イオン化工程は、Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始される。なお、従来においては、この炭化水素ガスイオン化工程における炭化水素ガスの導入は、後述するWC均一層成膜工程の開始と同時に開始される。
【0039】
Cr-WC傾斜層成膜工程が実施されると、Crターゲット111の前面に形成されているプラズマ121中のArがCrターゲット111に衝突してCrターゲット111からCr原子が叩き出されるとともに、WCターゲット112の前面に形成されているプラズマ122中のArがWCターゲット112に衝突してWCターゲット112からWC成分が叩き出される。ここで、WCターゲット112から叩き出されるWC成分は、WC粒子、W原子、C原子を含む。Crターゲット111から叩き出されたCr原子及びWCターゲット112から叩き出されたWC成分が、鉄基材表面に形成されているCr層11の表面にそれぞれ付着する。
【0040】
また、Cr-WC傾斜層成膜工程では、Crターゲット111に印加されている負電圧が時間の経過とともに負方向に漸減し、WCターゲット112に印加されている負電圧が時間の経過とともに負方向に漸増するように、Crスパッタ電源113及びWCスパッタ電源114が制御される。このため、Crターゲット111から叩き出されるCr原子の量が次第に減少するとともに、WCターゲット112から叩き出されるWC成分の量は次第に増加する。その結果、Cr-WC傾斜層成膜工程では、CrとWCの組成比率が傾斜した膜であるCr-WC傾斜層12が、Cr層11の表面上に形成(成膜)される。このCr-WC傾斜層12は、Cr層11から膜厚方向に離れるに従い、Crの組成比率が低下しWCの組成比率が増加するような、傾斜組成を有する。
【0041】
ここで、WCターゲット112のスパッタリングにおいては、上記したようにWCターゲット112から叩き出されるWC成分中のW原子の量はC原子の量よりも多い。このため過剰のW原子によりW濃化層が形成される虞がある。特に、Cr-WC傾斜層成膜工程の終期にはWCターゲット112,112から叩き出されるWC成分が増加するので、成膜終期に過剰のW原子が発生する。このため従来では、Cr-WC傾斜層12の成膜終期にW濃化層が形成されていた。これに対して本実施形態によれば、Cr-WC傾斜層12の形成の開始段階で炭化水素イオン化工程が開始されて、炭化水素ガス導入口107から炭化水素ガスが導入されるとともに導入された炭化水素ガスが上記したように各プラズマ121,122内でイオン化される。そして、イオン化された炭化水素が過剰なW成分と結合してWCを形成する。こうして過剰のWがWCの形成に消費されるため、Cr-WC傾斜層12の成膜終期におけるW濃化層の形成が阻止される。
【0042】
Cr-WC傾斜層成膜工程は、Crターゲット111に印加されている負電圧が所定の電圧にまで降下した時点で終了する。その後、WC均一層成膜工程が実施される。WC均一層成膜工程では、Crターゲット111への負電圧の印加を停止するとともに、WCターゲット112に印加されている負電圧を所定の電圧に維持する。これにより、WCターゲット112のみからWC成分が叩き出される。こうして叩き出されたWC成分は、鉄基材上に成膜されたCr-WC傾斜層12の表面に付着する。これにより、Cr-WC傾斜層12の表面上にWCからなるWC均一層13が形成(成膜)される。
【0043】
また、WC均一層成膜工程では、Cr-WC傾斜層成膜工程から引き続き炭化水素イオン化工程が実施されていて、炭化水素ガス導入口107からの炭化水素ガスの導入が継続して行われる。ここで、上記したようにWCターゲット112から叩き出されるWC成分中のW原子の量は、C原子の量よりも多い。そのため従来では、WC均一層13の成膜初期に生じる過剰のW成分によりW濃化層が形成されていた。これに対し、本実施形態では、WC均一層成膜工程の実施よりも前に炭化水素イオン化工程が開始されていて、WC均一層成膜工程の開始時にはプラズマ122中にイオン化された炭化水素が十分に含まれている。このため、WC均一層成膜工程の初期に生じた過剰のWはイオン化された炭化水素と結合してWCを形成する。つまり、WC均一層の成膜初期に生じた過剰のWは、炭化水素イオン化工程にて生じた炭化水素イオンと結合してWCを形成することにより消費される。よって、WC均一層13の成膜初期におけるW濃化層の形成が阻止される。このようにして、Cr-WC傾斜層12の成膜終期及びWC均一層13の成膜初期におけるW濃化層の形成が阻止されるため、Cr-WC傾斜層12とWC均一層13との境界には、W濃化層が形成されない。
【0044】
所定時間経過後、或いはWC均一層13の膜厚が所定膜厚に達した後に、WC均一層成膜工程が終了し、次いで、DLC層成膜工程が実施される。DLC層成膜工程では、WCターゲット112への負電圧の印加を停止する。また、所定の流量で、炭化水素ガスを炭化水素ガス導入口107から真空槽101内に導入し、さらに、回転テーブル102に接続されたバイアス電源104により基材ホルダ103及び基材ホルダ103に保持された鉄基材に所定の負電圧を印加する。これにより、鉄基材周囲にプラズマが発生し、そのプラズマにより真空槽101内に導入した炭化水素ガスがイオン化される。つまり、DLC層成膜工程においても炭化水素イオン化工程が継続される。こうしてイオン化された炭化水素がDLCとして、鉄基材に成膜されたWC均一層13の表面に付着する。このようにして、プラズマCVD法により、WC均一層13の表面上に(すなわちWC層14の表面上に)、DLC層15が成膜される。
【0045】
以上の各工程を経て、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜10が製造される。なお、上記の各工程は、本発明の説明に必要な工程のみを示したものであり、実際の製造に際してはそれ以外の工程を付加しても良い。例えば、Cr層成膜工程の前に、バイアス電源104により鉄基材に負電圧を印加してArを鉄基材に衝撃させることにより、クリーニング工程を実施してもよい。また、各成膜工程においてバイアス電源104により鉄基材に所定の電圧を印加して、膜質の改善を図っても良い。さらに、図5に示すスパッタリング装置100は、本発明の説明に必要な構造のみを概略的に示したものであり、実際の製造装置はそれ以外の構造を備えていても良い。たとえば、スパッタリング装置100をマグネトロンスパッタリング装置として用いて成膜速度を向上させるように構成してもよい。
【0046】
図6は、上記のようにして製造した本実施形態に係る低摩擦摩耗膜の製造プロセスのイメージを表す模式図である。図6のグラフの横軸は時間である。また、図6の二点鎖線により表されるグラフは、Crターゲット111への印加電圧の経時変化のイメージを示し、図6の一点鎖線により表されるグラフは、WCターゲット112への印加電圧の経時変化のイメージを示し、図6の実戦により表されるグラフは、炭化水素ガスの導入量の経時変化のイメージを示す。
【0047】
図6に示すように、時間の経過とともに、Cr層、Cr-WC層、WC均一層、DLC層が、この順に成膜されていく。図6のグラフでは、成膜の開始から時間t1までの間にCr層が成膜され、時間t1から時間t2までの間にCr-WC傾斜層が成膜され、時間t2から時間t3までの間にWC均一層が成膜され、時間t3から時間t4までの間にDLC層が成膜される。
【0048】
また、Cr層の成膜時、すなわち成膜開始から時間t1までの間には、Crターゲット111のみに負電圧が印加される。このためCrターゲット111から叩き出されたCr原子によりCr層が形成される。
【0049】
Cr-WC傾斜層の成膜時、すなわち時間t1から時間t2までの間には、Crターゲット111及びWCターゲット112の双方に負電圧が印加される。また、時間の経過とともにCrターゲット111の印加電圧が低下し且つWCターゲット112の印加電圧が上昇する。このため、Cr-WC傾斜層は、Cr層から膜厚方向に離れるに従い、Crの組成比率が減少しWCの組成比率が増加する傾斜組成となるように、形成される。また、Cr-WC傾斜層の成膜開始と同時に、炭化水素イオン化工程が開始されて炭化水素ガスが真空槽101内に導入される。導入された炭化水素ガスは真空槽101内でイオン化され、イオン化された炭化水素がWCターゲットから叩き出された過剰のWと結合してWCを形成することにより、Cr-WC傾斜層の成膜終期におけるW濃化層の形成が阻止される。
【0050】
また、WC均一層の成膜時、すなわち時間t2から時間t3までの間には、Crターゲット111への電圧の印加が停止されるとともにWCターゲット112のみに負電圧が印加される。このためWCターゲット112から叩き出されたWC成分によりWC均一層が形成される。また、WC均一層の成膜時においても炭化水素ガスが導入され続けているため、WCターゲット112から叩き出された過剰のWがイオン化された炭化水素と結合してWCを形成する。これによりWC均一層の成膜初期におけるW濃化層の形成が阻止される。そして、上記のようにCr-WC傾斜層の成膜終期及びWC均一層の成膜初期におけるW濃化層の形成が阻止されるため、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界には、W濃化層が形成されない。
【0051】
なお、WC均一層の成膜時には、WCターゲットから叩き出されるW原子の量とC原子の量がほぼ等しくなって過剰のW原子が減少することにより、イオン化された炭化水素によりC層が形成されることもある。この場合、WCターゲット112から叩き出されたWC成分とイオン化された炭化水素中の炭素とによって、WC-C層が形成されることもある。つまり、WC層にWC-C層が含まれる場合もある。この場合、WC-C層は、Cr-WC傾斜層及びWC均一層と、DLC層との間に形成される。
【0052】
そして、DLC層の成膜時、すなわち時間t3から時間t4の間には、Crターゲット及びWCターゲットの双方への電圧の印加が停止されるとともに、炭化水素ガスの導入量が所定の導入量まで増加される。また、鉄基材に所定のバイアス電圧が印加される。これにより炭化水素ガスがイオン化されるとともに、イオン化された炭化水素によりDLC層が成膜される。
【0053】
図7は、従来技術に係る低摩擦摩耗膜の製造プロセスのイメージを表す模式図である。図7のグラフの横軸は時間である。また、図7の二点鎖線により表されるグラフ、一点鎖線により表されるグラフ、実線により表されるグラフは、図6と同様に、それぞれ、Crターゲットへの印加電圧の経時変化のイメージ、WCターゲットへの印加電圧の経時変化のイメージ、炭化水素ガスの導入量の経時変化のイメージを示す。
【0054】
図6のグラフと図7のグラフとの違いは、炭化水素ガスの導入タイミングのみ、つまり炭化水素イオン化工程の開始タイミングのみである。図7に示す場合には、炭化水素ガスの導入(炭化水素イオン化工程)は、WC均一層成膜工程の開始と同時に開始される。このため、Cr-WC傾斜層の形成時には炭化水素ガスが導入されていないので、Cr-WC傾斜層の成膜時に発生した過剰のWにより、Cr-WC傾斜層の成膜終期にW濃化層が形成される。また、WC均一層の成膜初期には炭化水素ガスが導入されているが、導入量が少ないので、WC均一層の成膜初期に発生した過剰のWと十分に結合するだけのCが足りない。このため、WC均一層の成膜初期にもW濃化層が形成される。従って、W濃化層は、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界に形成される。このようにして形成されたW濃化層中のWが、上述したように酸化するとともに酸化タングステンがアルカリ液と反応して、剥離現象が生じるのである。
【0055】
これに対して図6に示す本実施形態の場合には、炭化水素ガスの導入(炭化水素イオン化工程)は、WC均一層成膜工程の実施よりも前に開始される。具体的には、炭化水素ガスの導入(炭化水素イオン化工程)は、Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始される。このため、本実施形態に係る低摩擦摩耗膜においては、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界部分にW濃化層が形成されていない。よって、たとえ膜表面にクラックが生じてそのクラックがCr-WC傾斜層とWC均一層との境界まで達しているとしても、その境界にW濃化層が存在しないので酸化タングステンが形成されることはなく、酸化タングステンがアルカリ液と反応することに起因する剥離現象が生じることはない。このため本実施形態に係る低摩擦摩耗膜の耐アルカリ性は高い。
【0056】
(実施例)
図1に示すようなスパッタリング装置100を用い、上述した製造方法により、円柱状の鉄基材表面に、Cr層、Cr-WC傾斜層、WC均一層、DLC層を、この順に形成した。この場合において、WC層(Cr-WC層及びWC均一層)中のWの原子濃度W[at%]とCの原子濃度C[at%]の総和(W+C)に対するWの原子濃度W[at%]の比率(W/(W+C))[%]が、表1の実施例1乃至4並びに比較例1に示す比率となるように、WCターゲット112に印加するスパッタ電圧、及び、炭素ガスの導入量並びに導入タイミングを制御した。これにより、鉄基材表面に低摩擦摩耗膜が形成された各実施例及び比較例1に係るサンプルを作製した。なお、実施例1乃至4に係るサンプルの作製においては、炭化水素ガスの導入(炭化水素イオン化工程)を、Cr-WC傾斜層成膜工程の開始と同時に開始し、比較例1に係るサンプルの作製においては、炭化水素ガスの導入(炭化水素イオン化工程)を、WC均一層成膜工程の開始と同時に開始した。
【0057】
次いで、作製した各サンプルを、6%のアルカリ水溶液(NaOHとKOHの混合溶液)に浸漬し、雰囲気温度40℃の恒温槽に48時間放置した。その後、恒温槽から各サンプルを取り出し、鉄基材表面に形成した低摩擦摩耗膜の剥離の有無を目視及びSEMにより確認した。剥離状態の確認結果を併せて表1に示す。
【表1】
【0058】
表1の実施例1乃至4に示すように、比率W/(W+C)が50%以下である場合、膜の剥離は確認されなかった。これは、WC層(Cr-WC傾斜層及びWC均一層)中の比率W/(w+C)が50%以下であれば、WC層中に過剰のWが存在することはないため、W単体が存在するW濃化層が形成されないためと考えられる。一方、比較例1に示すように、WC層中の比率W/(W+C)が77%である場合、膜の剥離が確認された。これは、WC層中におけるWの比率が高いためにWC層中にW濃化層が形成されており、このW濃化層を起点として剥離が生じたと考えられる。この結果から、WC層中の比率W/(W+C)は、50%以下であるのがよいことが確認された。
【0059】
図8は、実施例1にて作製したサンプルに形成された低摩擦摩耗膜のうちCr層からWC均一層までの断面を示すTEM画像及び、このTEM画像をCr成分、W成分、C成分ごとにマッピングしたマッピング画像である。図8(a)がTEM画像、図8(b)がCrのマッピング画像、図8(c)がWのマッピング画像、図8(d)がCのマッピング画像である。図8に示すように、鉄基材表面から、Cr層、Cr-WC傾斜層、WC均一層が形成されていることがわかる。また、図8(c)からわかるように、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にWが濃化している部分は認められない。このため、実施例1に係るWC層は、Cr-WC層及びWC均一層を有し、これらの境界にW濃化層が形成されていないように構成されていることがわかる。
【0060】
図9は、比較例1にて作製したサンプルに形成された低摩擦磨耗膜のうちCr層からWC均一層までの断面を示すTEM画像及び、このTEM画像をCr成分、W成分、C成分ごとにマッピングしたマッピング画像である。図9(a)がTEM画像、図9(b)がCrのマッピング画像、図9(c)がWのマッピング画像、図9(d)がCのマッピング画像である。図9、特に図9(c)に示すように、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界に、Wの組成比率が高い層が検出される。この層にはC成分がほとんど検出されていないので、この層はW濃化層と考えられる。従って、比較例1においては、Cr-WC傾斜層とWC均一層との境界にW濃化層が形成されており、このW濃化層を起点として剥離が生じたと考えられる。
【0061】
以上、本発明の実施形態について説明したが、本発明は、上記実施形態に限定されるべきものではない。例えば、本発明に係る低摩擦摩耗膜の適用用途は、上記したダイカスト金型表面へのコーティング膜として用いることができるが、これに限定されず、例えば、自動車部品でアルカリ環境下で使用される部品として、尿素水が使われる尿素インジェクターや、ブレーキフルードが使われているブレーキ用リニア弁等の表面へのコーティング膜としても用いることができる。また、本発明に係る低摩擦摩耗膜を製造するための製造装置は、上記実施形態で示したスパッタリング装置100の構造に限定されない。本発明は、その趣旨を逸脱しない限りにおいて、変形可能である。
【符号の説明】
【0062】
1…金属基材、10…低摩擦摩耗膜、11…Cr層、12…Cr-WC傾斜層、13…WC均一層、14…WC層、15…DLC層、56…濃化層、100…スパッタリング装置、101…真空槽、102…回転テーブル、103…基材ホルダ、104…バイアス電源、105…排気口、106…ガス導入口、107…炭化水素ガス導入口、111…Crターゲット、112…WCターゲット、113…Crスパッタ電源、114…WCスパッタ電源
図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9