【実施例】
【0035】
[カルボキシル変性SBR]
次に、上記実施の形態で示した変性SBRポリマー鎖一本の動態解析方法の実施例について説明する。
変性SBRの構造と機能の関係を明らかにするため、従来の手法では不可能であった、変性基の分子内位置および機能の直接解析に挑んだ。その結果、非変性SBRと変性SBRの1分子像およびダイナミクスを比較することで、変性基の分子内位置および基材マイカへの定着機能を定量評価すなわちパラメータ化することに成功した。
具体的には、まず分子鎖にカルボキシル基を導入した変性SBRポリマー(COOH変性SBR、化3)をマイカ基板に固定して高速原子間力顕微鏡によりポリマー鎖一本の動態画像を取得した(第1〜第4ステップ)。
【化3】
【0036】
カルボキシル変性SBRポリマーは、既報告の方法に従い(T. A. Antkowiak, A. E. Oberster, A. F. Halasa, D. P. Tate, J. Polym. Sci. Part A−1: Polym. Chem. 10, 1319−1334 (1972))、n−ブチルリチウムを開始剤としたリビングアニオン重合によるスチレンと1,3−ブタジエンの共重合反応の完了後、3-メルカプトプロピオン酸(2)と過酸化ラウロイル(3)を加え撹拌し、所定の後処理を行った後、減圧下で乾燥させることで合成した。また、3-メルカプトプロピオン酸は、リビングアニオン重合開始剤に対して4等量を反応系に加えた。反応機構は、チオール(2)がラジカル開始剤(3)によって水素を引き抜かれ、生じたチイルラジカル(4)がSBR中のビニル基(1)に付加することでSBRポリマーに官能基が導入される(5)。生じたラジカルが別のチオールから水素を引き抜き安定構造となる(6)。1回の反応で新たにチイルラジカル(4)が生成し、これが別のビニル基を攻撃するので、連鎖反応となる。本反応では、チオール(2)に3-メルカプトプロピオン酸を用いたので、カルボキシル基が導入される。
【化4】
【0037】
次に、カルボキシル変性SBRポリマー(COOH変性SBR, Mw: 2.14 × 10
5, Mw/Mn: 1.17)のテトラヒドロフラン(THF)希薄溶液を調製した。ここで、SBRポリマー鎖の凝集を防止するために、THF(Dehydrated THF, Kanto Chemical, Tokyo, Japan)中には微量の水分も含まない。一方、劈開したマイカの表面を、水を溶解可能な有機溶媒、脱水THFでリンスすることで吸着水を除去する。吸着水の除去作業は乾燥空気雰囲気中で行う。
観測試料は、ポリマーの希薄THF溶液をマイカ基板にキャストすることで調製した。ポリマー溶液(1 μl)をマイカ基板にキャストし、静置(ca. 20 s)した後、THF(1.0 ml)でリンスして余分なポリマー鎖を洗い流して基板上に孤立鎖を残す方法、またはポリマー溶液(1 μl)をマイカ基板にスピンキャスト(1,500 r.p.m.)する方法で調製できる。
マイカ表面に露出している水酸基と変性SBRポリマー鎖の変性基とを結合・相互作用させることで、
図2に示したように変性SBRポリマー鎖一本一本が分散し、且つ適度に伸長した状態でマイカ表面に固定することができる。
【0038】
液中ダイナミック(タッピング)モード高速走査型原子間力顕微鏡 (FS-AFM, NVB500, Olympus, Tokyo, Japan)をベースにポリマー観測仕様に改造した。
n−オクチルベンゼン中、25 ℃でポリマー鎖一本の構造動態をムービー撮影した。観測溶媒は、n−オクチルベンゼン、n−オクチルエーテル、ヘキサデカン、およびデカメチルテトラシロキサンなどが1分子イメージングに有用であることが確認されている。観測溶媒の種類によって、ポリマー鎖と基板との相互作用が異なるので、ポリマー鎖の動態観測に適した溶媒を選択する。
また、非変性SBRポリマーについてもマイカ基板に吸着させ高速AFMによりデカメチルテトラシロキサン中、25 ℃でポリマー鎖一本の構造動態をムービー撮影した。カンチレバーはオリンパス製AC−10EGSまたはナノワールド製USC−F1.2−k0.15, (NanoWorld AG, Switzerland)を使用した。
ポリマー鎖一本の動態解析では、ムービー撮影されたポリマー鎖の各計測点を追跡し、ある時間Δtに対する平均二乗変位(MSD)をΔtに対してプロットした。各計測点のMSD−Δtプロットを線形近似した直線の傾きを4で割ることで、拡散係数D (nm
2/s) は算出される。
【0039】
図13は取得したカルボキシル(COOH)変性SBRポリマー鎖一本の動画像の中から10フレームに1枚の間隔で静止画像を抜き出して左上から右方向に時系列で並べた図である。ラインプロファイルの計測より、ポリマー鎖の高さは0.55 ± 0.17 nmであった。分子モデルのサイズより、紐状構造体はポリマー鎖一本であると考察された。また、ポリマー中、4カ所に玉状構造が確認され、玉状構造の高さは1〜2 nmであった。この4カ所は動かないことより、ここがマイカ表面と水素結合しているカルボキシル基導入位置であると考察した。
また、ポリマー鎖一本の長さの時間変化を解析したところ、カルボキシル変性SBRポリマー鎖長の平均値は142 nm、標準偏差(SD)は2.84 nmと計測され、鎖長に変化はほとんど無いことからも変性基の高いアンカリング能が示された。
【0040】
図14はCOOH変性SBRポリマー鎖一本の動画像を構成する各静止画像のうち任意の1画像を選択し(第5ステップ)、一本鎖の体幹に沿って等間隔で複数部位に番号付け(重心1, 鎖末端2〜鎖末端18)を行った状態を示している。(第6ステップ)
図15は番号付けを行った各部位の軌跡を示している。
図16は各部位の平均二乗変位 MSD [nm
2]を縦軸、時間Δt [s]を横軸にとることで各部位の運動性を数値化したグラフである。(第7及び第8ステップ)
具体的には
図16は、
図15の軌跡データを元に各部位の平均二乗変位 MSD (nm
2) を縦軸、時間 Δt (s) を横軸にとることで各部位の運動性を数値化したグラフである。計測点1〜18の内、1, 2, 7, 9, 11, 13, 15, 16, 18を表示してある。運動性が高い点と低い点にグループ分けできた。0.2 s ≦ Δt ≦ 0.8 s では、MSD−ΔtプロットはΔtに対してほぼリニアに変化したことから、これらはミクロブラウン運動と考察される。Δt ≧ 1.0 s では異常拡散の挙動が確認され、運動が制限されていることが分かる。さらに、Δt ≧ 1.0 s でプロットが複雑で多様であることは、セグメントのコンホメーション変化を伴う基板との相互作用がこのタイムスケールで生じていることを示唆している。
変性基導入位置で玉状構造が形成される理由は、カルボキシル基がマイカ基板表面と水素結合した後、n−オクチルベンゼン中に置かれた際に、極性の高いカルボキシル基を覆い隠すように分子鎖が手繰り寄せられたためと考えている。その他の観測された分子鎖にも同様の玉状構造が4個程度確認されている。
【0041】
図17は、0.2 s ≦ Δt ≦ 0.8 s における変性SBRポリマー鎖のブラウン運動(計測点1)およびミクロブラウン運動(計測点2-18)の拡散係数(D)を計測した結果(MSD−Δtプロット)である。
D
1 = 0.22 nm
2/s(ポリマー鎖の重心)
D
2 = 0.03 nm
2/s
D
7 = 5.97 nm
2/s
D
9 = 1.83 nm
2/s
D
11 = 1.08 nm
2/s
D
13 = 0.73 nm
2/s
D
15 = 1.46 nm
2/s
D
16 = 0.45 nm
2/s
D
18 = 0.06 nm
2/s
という結果になり、とくに鎖末端D
2と高運動性の鎖中D
7との比は、D
7 / D
2 = 200であり、拡散係数が200倍異なり、変性基導入位置の計測点(D
2)のマイカに対する結合能を拡散係数比として算出できた。
ここで、ポリマー鎖重心の拡散係数D
1は低い値を示しているが、これは一本鎖に4ヶ所変性基によって基板にピン留めされているためである。
また、拡散係数の比較的高い計測点においても近傍に定着点(変性基位置)が存在するため、後述の非変性SBRの拡散係数と比べると低い値であり、4個の変性基がポリマー鎖の運動に与える影響は分子鎖全体に及ぶことが分かった。
【0042】
図18はカルボキシル基を導入した4箇所、すなわちアンカリングポイント (定着点1〜4) の計測結果である。ポリマー鎖の両末端付近に2ヶ所(1と4)、鎖中に2ヶ所(2と3)の変性基導入位置が確認された。変性基の間隔は、ナンバリングにより、線分(Line segment)[1,2]が53.1 nm、[2,3]は44.7 nm、[3,4]は48.2 nmと計測された。
非変性SBRでは各点の運動性は特にグループは見られなかったが、変性SBRでは低運動性と高運動性のグループに明確に分かれた。低運動性グループはマイカ基板と強く相互作用し分子運動が抑制されている点、すなわち定着点(変性点)を示している。また各点のMSDは、変性基と基板との相互作用(定着力)を定量的に示している。
図19は変性SBRポリマーの玉状構造体の重心をトラッキングする方法で得た軌跡データを元にした0.2 s ≦ Δt ≦ 0.8 s におけるMSD−Δtプロットであり、線形近似した直線の傾きを4で割った値が拡散係数である。
D
1 = 0.17 nm
2/s
D
2 = 0.45 nm
2/s
D
3 = 0.03 nm
2/s
D
4 = 0.35 nm
2/s
何れの計測点も極めて低い拡散係数を示しており、定着点と考えてよい。マイカ基板に対する定着能を拡散係数として評価できた。また各点の拡散係数が異なることより、定着状態には個性があることが分かる。
【0043】
なお、上記実施例ではポリマー鎖一本に沿って等間隔で点1〜点18の計18の部位に番号付けを行ったが、
図20のようにそれ以上でもよく、番号付けを行う部位の数は特に制限されない。また、番号付けは必ずしも等間隔で行う必要はない。
本発明の変性SBRポリマー鎖一本の動態解析方法によれば、SBRの変性基の分子内位置や、変性基の機能を直接的かつ詳細に定量することができるので、SBRの分子構造とタイヤ性能の関係の解明や、タイヤ性能向上のための最適分子設計指針の獲得に活用できる。
【0044】
[非変性SBR]
次に、本発明の動態解析方法を非変性SBRポリマー鎖一本の解析に用いた場合の実施例について説明する。
図21に示すように非変性SBRポリマー鎖一本の動画像を構成する各静止画像のうち任意の1画像を選択し、一本鎖の体幹に沿って等間隔で複数部位に番号付け(重心1, 鎖末端2〜鎖末端18)を行った。
図22は番号付けを行った各部位の軌跡を示している。
非変性SBR鎖のイメージングではマイカ基板表面に固定された部位は鎖末端の観測点2のみで鎖中では確認されていない。
図23は、高速AFMムービー撮影で得たポリマー鎖の映像から一本鎖中の各観測点の軌跡データを元に、各点の平均二乗変位 MSD (nm
2) を縦軸、時間 Δt (s) を横軸にとることで、各点の運動性を数値化したグラフである。計測点1〜18の内、1, 2, 6, 10, 14, 18を表示した。0.2 s ≦ Δt ≦ 2.0 s では、MSDはΔtに対してほぼリニアに増加したことから、これらはミクロブラウン運動と考察される。
図22より、観測点10から14は顕著にSBR鎖が伸縮運動している部位であることが観察された。SBRは、1分子で既にゴムであることが分かる。
【0045】
[ポリマー鎖一本のバネ定数]
本願発明者はこれがゴム弾性の起源ではないかと考えた。そこで、ポリマー鎖一本の長さの時間変化を解析したところ、非変性SBRポリマー鎖長の平均値は140 nm、標準偏差(SD)は17.2 nmと計測された。
バネが蓄えるエネルギーと熱エネルギー(k
BT)との関係は次の式で記述できる。
E = 1/2 × k
chain × x
2 = k
BT
ここで、Eはエネルギー、k
chainはバネ定数、xはバネの変位である。
温度はT = 298 K、ボルツマン定数はk
B = 1.38 × 10
-23 J/K (J = N m)であるから、
k
BT = 4.11 × 10
-21 [N m]である。
バネの変位(x)はSD値で、x = 17.2×10
-9 [m] を代入すると、SBR鎖一本のバネ定数(k
chain)は、次の数1と算出された。
【数1】
この値は、モータータンパク質 ミオシン1分子のサブフラグメント−2の部位が弛んだ紐のような柔らかい状態における硬さ(stiffness)に近い [M. Kaya and H. Higuchi, Science 329, 686−689 (2010)]。
また、x = 17.2 [nm] における力は、
F = k
chain x = 2.78×10
-2×17.2
= 4.78×10
-1 [pN]
であった。
これは、SBRポリマー鎖一本のバネ定数と力を計算した世界で初めての成果である。
一方、カルボキシル変性SBRはポリマー鎖一本にアンカリングポイントが4つ存在するため、バネの変位(x)はSD値でx = 2.84×10
-9 [m] と小さい。バネ定数は、次の数2と算出された。
【数2】
これは非変性SBR鎖のバネ定数と比べて36.7倍高い値、すなわち硬さ(stiffness)である。
また、x = 2.84 [nm] における力は、
F = 1.02×2.84
= 2.90 [pN]
であった。
これは非変性SBR鎖の力と比べて6.07倍高い。変性基導入の効果をバネ定数と力という力学的パラメータによって評価することができた。
【0046】
図24は、0.2 s ≦ Δt ≦ 2.0 s におけるMSD−Δtプロットであり、線形近似した直線の傾きを4で割った値が拡散係数である。非変性SBRポリマー鎖のブラウン運動(計測点1)およびミクロブラウン運動(計測点2−18)の拡散係数(D)は、
D
1 = 3.83 nm
2/s(ポリマー鎖の重心)
D
2 = 0.09 nm
2/s
D
6 = 2.17 nm
2/s
D
10 = 13.4 nm
2/s
D
14 = 10.6 nm
2/s
D
18 = 3.15 nm
2/s
という結果となり、とくに重心D
1と高運動性の鎖中D
10との比は、
D
10 / D
1 = 3.5
であり、拡散係数が3.5倍異なる。SBR鎖セグメントのバネのような伸縮運動を拡散係数比で計測できた。
ここで、非変性SBRポリマー鎖の拡散係数D
1は低い値ではなく、鎖末端D
18と同等の値であった。これはカルボキシル変性SBRとは異なる結果であり、分子鎖の重心移動が可能であることが確認された。
翻って、
図17のカルボキシル変性SBRのMSD−Δtプロットを見返すと、異常拡散挙動が顕著に認められ、変性基の効果が絶大であることが分かる。一本鎖にカルボキシル基がわずか4個導入されるだけで、ポリマー鎖一本のダイナミクスが劇的に変化した。さらに、カルボキシル基を導入した変性SBRからなるバルク材料は、非変性SBR材と比べて、ゴム特性(tanδ)に性能の向上が確認されていることから、一本鎖ダイナミクスとバルク材料との相関関係が示された。実際、変性基がポリマー鎖一本に数個導入された変性SBRがタイヤトレッド用のゴムコンパウンドとして実用されている。
【0047】
[カルボキシル変性SBRポリマー鎖からなるネットワーク]
図25(a)は、カルボキシル変性SBRポリマー鎖がマイカ基板上で形成したネットワークをn−オクチルベンゼン中室温でAFMムービー撮影して得た連続画像の内、抜粋したAFM像である。図中の1は、ネットワークの中で運動性の高いところで、複数のポリマー鎖が動的な絡み合い構造を形成している箇所である。一方、図中の2は、変性基が水素結合を介してマイカ基板表面と強く結合しているアンカリングポイントの一つである。観測点1と2の軌跡データを元にMSD−Δtプロット解析した結果を
図25(b)に示す。MSD−Δtプロットを線形近似して、その傾きを4で割った値が拡散係数(D)である。
D
1 = 16.4 nm
2/s
D
2 = 1.66 × 10
-2 nm
2/s
すなわち
D
1 / D
2 = 988
となり、アンカリングポイントと比べて動的絡み合い構造が約一千倍も高い拡散係数を有することが明らかとなった。
AFMムービー(
図26はAFMムービーから抜粋した連続画像)の観察からも分かることではあるが、この動的絡み合い構造は複数本のポリマー鎖から形成されており周囲に配置されたアンカリングポイントからもたらされるテンションを受けながら室温のゆらぎによってランダムにポリマー鎖ネットワークが伸び縮みして運動した。これは、数本のポリマー鎖の絡み合いからなるゴム弾性の起源を直接観測した世界で初めての成果である。ポリマー鎖一本から少数本へと分子レベルの階層を上がることで、マテリアルの本質に迫ることができる。すなわち、「ポリマーらしさ」「ゴムらしさ」はどの分子レベルで発現するのか?という問いに答えることができる。また本発明によって、タイヤトレッドコンパウンドの内部構造を模擬的に再現したマイカ表面とポリマー鎖ネットワークとの動的多点相互作用を解析できる。
【0048】
今回、カルボキシル変性SBRの成果を示したが、その他、種々の変性SBRについてもポリマー鎖一本の動態を解析することで、従来不明確であったタイヤ用高分子の開発指針を明確化できる。すなわち、如何なる高分子構造がどのようなフィラー表面への定着性を有するのかという高分子構造と機能の相関をパラメータ化できる。さらにタイヤ性能指標(tanδ)との相関、またX線分析法やコンピュータシミュレーションとの連携によって理解がさらに深化する。