【実施例】
【0035】
《概要》
複数の試料(摺動部材)と複数の潤滑油を用意し、それらを種々組合わせて、多数の摺動試験(ブロックオンリング摩擦試験)を行った。このような具体例に基づいて本発明をより詳細に説明する。
【0036】
《試料の製作》
(1)基材
焼入れ処理した鋼材(JIS SUS440C)からなるブロック状(6.3mm×15.7mm×10.1mm)の基材を複数用意した。各基材の表面(被覆面)は鏡面仕上げして表面粗さRa:0.08μmとした。ちなみに、鋼材(SUS440C)はC:0.95〜1.2質量%、Cr:16〜18質量%、残部:Feおよび不純物からなる。
【0037】
成膜せずに浸炭処理した鋼材(JIS SCM420)からなる比較試料(表1の試料C0)も用意した。その浸炭面(硬さHV700)も同様な表面粗さに鏡面仕上げした。
【0038】
(2)成膜
上述した基材(SUS440C)の被覆面に、アンバランスドマグネトロンスパッタリング装置を用いて成膜した。具体的にいうと、チャンバー内を予備排気した後、純CrターゲットをArガスでスパッタリングし、基材表面にCr中間層(厚さ約0.5μm)を形成した。これに続けて、C
2H
2ガスをさらに装置内へ導入して成膜(Cr−C膜の合成)を行った。この際、基材表面とターゲット表面の距離(100〜800mm)と、Arガスに対するC
2H
2ガスのガス流量比(体積比率:2〜30%)を調整して、膜中のCr組成を調整した。こうして表1に示す試料1〜4を得た。
【0039】
また、特開2004−115826号公報等に記載されているアークイオンプレーティング法(カソードアーク法)により、HフリーDLC膜(非晶質炭素膜)を基材表面に成膜した。こうして表1に示す試料C1を得た。
【0040】
試料1〜4はいずれも膜厚:2μm、試料C1は膜厚:1μmであった。試料1〜4およびC1は、いずれも表面粗さRa:0.01〜0.02μmであった。膜厚はCMS社製Calotestで測定した。表面粗さは後述の非接触表面形状測定機で測定した。
【0041】
《膜測定》
(1)膜組成
膜組成は次のように測定した。Hは、ラザフォード後方散乱分析装置(National Electrostatics Corporation製 Pelletron 3SDH)を用いてERDA法により定量した。具体的には、2MeVのヘリウムイオンビームを膜表面に照射して、その膜からはじき出される水素を半導体検出器により検出して水素濃度を測定した。Crは、EPMA(日本電子社製JXA−8200)により特定した。こうして得られた各膜組成を表1に示した。
【0042】
(2)膜構造
試料2および試料3に係る膜を走査型透過電子顕微鏡(STEM) とエネルギー分散型X線分析装置(EDX)を用いて、観察・分析した。膜表面について得られたSTEM像とEDX像を
図1に併せて示した。STEM像として、明視野(BF)像と環状暗視野(ADF)像の両方を示した。EDX像はCとCrについて示した。
【0043】
STEM−BF像に基づく画像解析(画像処理ソフト:JTrim)により、各像に現れた粒状物(CrC粒子)の粒径(面積相当径の平均値)と、観察域に対して粒状物が占める総面積の割合(面積率)を算出した。その結果を表1に併せて示した。
【0044】
また、STEMを用いて、試料2の粒状物以外の部分(マトリックス)について、膜厚方向の断面中央部へ電子線を照射したところ、ブロードなハローパターンの電子線回折像を得た。このことから、マトリックスはアモルファス構造であることが確認された。
【0045】
(3)膜硬さ、表面粗さ
膜硬さは、ナノインデンター試験機(TRIBOSCOP,HYSITRON社製)で測定した。得られた結果を表1に併せて示した。
【0046】
表面粗さは、白色干渉法非接触表面形状測定機(Zygo社製NewView5022)により測定した。
【0047】
《潤滑油》
(1)調製
表2に示すように、炭化水素系ベースオイル(SK lubricants社製YUBASE 8)からなる基油(潤滑油N)に、各添加剤を所定割合(質量%)で配合し、60℃×30分間の加熱撹拌することにより、各潤滑油(潤滑油A、B1〜B3)を調製した。ここで用いたセカンダリーアルキルタイプのZnDTP(摩耗防止剤/酸化防止剤、Lubrizol社製1371)、塩基価が300mgKOH/gの過塩基性カルシウムスルホネート(金属清浄剤 Lubrizol社製6477C)およびポリブテニルコハク酸イミド(無杯分散剤、Lubrizol社製6412)は、いずれも市販エンジン油に一般的に配合されている代表的な添加剤である。これらの配合量は、いずれの潤滑油でも同じにした。
【0048】
また、表2に示すように、MoDTCまたはMoDTPを含む添加剤は、潤滑油全体に対するMo含有量が100、300または500ppmMo相当となるように配合した。MoDTC含有添加剤は株式会社ADEKA製S−165(SAKURA-LUBE 165)、MoDTP含有添加剤は株式会社ADEKA製S−300(SAKURA-LUBE 300)を用いた。
【0049】
(2)組成
調製した各潤滑油の組成は表2に併せて示した。潤滑油の組成は、各種添加剤の代表組成情報とそれらの配合量割合から計算した。
【0050】
《摺動試験》
(1)摩擦係数
ブロックオンリング摩擦試験(単に「摩擦試験」という。)を行い、各潤滑油下における各試料(供試材)の摺動面における摩擦係数(μ)をそれぞれ測定した。この際、各試料の供試材(摺動面幅6.3mm)をブロック試験片とし、浸炭鋼材(AISI4620)から成るFALEX社製S−10標準試験片(硬さHV800、表面粗さ1.7〜2.0μmRzjis)をリング試験片(外径φ35mm、幅8.8mmの)とした。
【0051】
また、試験荷重:133N(ヘルツ面圧:210MPa)、すべり(摺動)速度:0.3m/s、油温:40℃(一定)または80℃(一定)、試験時間:30分間とした。摩擦係数は、摩擦試験終了直前の1分間に測定したμの平均値とした。こうして得られた各試料に係る摩擦係数を対比して、
図2A(MoDTC、MoDTP/油温:40℃)、
図2B(MoDTC/油温:80℃)および
図2C(MoDTP/油温:40℃、80℃)に示した。これらを併せて単に「
図2」という。なお、特に断らない限り、摩擦試験には、MoDTCまたはMoDTPが500ppmMo相当含まれた潤滑油(表2の潤滑油A、B1)を用いた。
【0052】
さらに、試料2について、MoDTPの配合量(0〜500ppmMo)を変えた各潤滑油(表2の潤滑油B1〜B3、N)を用いて同様な摩擦試験を行った。これにより得られたMoDTP量(Mo相当量)による摩擦係数の変化を
図6に示した。
【0053】
(2)摩耗深さ
摩擦試験後の各摺動面に形成された摩耗痕(摩耗深さ)を、既述した非接触表面形状測定機を用いて、表面粗さと同様に測定した。摩耗深さは、摩耗痕の最大深さにより特定した。こうして得られた各摩耗深さを対比して
図3A(MoDTC、MoDTP/油温:40℃)に示した。それらの一部の試料について、摩耗痕の様子を
図3Bに示した。両図を併せて単に「
図3」という。
【0054】
(3)摺動面の分析
摩擦試験後の各摺動面を、飛行時間型2次イオン質量分析装置(TOF−SIMS/Ion-Tof社製)を用いて分析した。この際、1次イオンとして30keVのBi
+ビームを用いて、領域100μm×100μmで高分解能スペクトル測定を実施した。摩擦試験後の一部の試料について得られた代表的な元素の二次イオン像を
図4(潤滑油A:MoDTC/油温:40℃)と、
図5A、
図5B(潤滑油B1:MoDTP/油温:40℃)とに示した。なお、
図5Aと
図5Bを併せて単に「
図5」という。
【0055】
《評価》
(1)膜特性(Cr−C膜)
図1から明らかなように、ADF像で観られる白い斑点は原子番号が大きいものを示しており、EDX像に観られるCrを示す斑点とほぼ対応している。この事実と、STEMによる電子回折結果とを併せて考えると、その斑点部分は炭化クロム(CrC)であるといえる。従って、試料2〜4に係る膜は、微細なCrC粒子が均一的に分散した炭素膜であることがわかった。なお、Cr含有量の少ない試料1では、CrC粒子は観察されなかった。
【0056】
表1から明らかなように、CrC粒子は、Cr量の増加に伴い、粒径と面積率が増加する傾向となった。また、試料2〜4の膜硬さは、HフリーDLC膜よりも小さいが、鋼材よりも遙かに硬いものであった。
【0057】
(2)摩擦係数
図2Aから明らかなように、MoDTCまたはMoDTPを含む潤滑油A、B1を用いて、油温を40℃としたとき、試料C0、C1の摩擦係数は0.06以上となった。これに対して、試料1〜4の摩擦係数は、同条件下でもかなり低くなった。特に、Crを2%以上さらには3%以上含む試料2〜4は摩擦係数が0.03〜0.04となり、十分に摩擦係数を低減できることがわかった。また、その傾向は、MoDTCとMoDTPのいずれの添加剤を用いたときもほぼ同様であった。
【0058】
図2Bから明らかなように、MoDTCを含む潤滑油Aを用いて油温を80℃としたときでも、やはり、試料2と試料3は摩擦係数は0.025〜0.03となり、十分に小さくなった。試料C0の摩擦係数は油温の上昇により0.04程度まで低下したが、試料C1の摩擦係数は油温の高低に拘わらず、高いままであった。
【0059】
図2Cから明らかなように、MoDTPを含む潤滑油B1を用いた場合、試料C0の摩擦係数は、油温が高くなれば低下するものの、油温が低いときはかなり高かった。一方、試料2では、その潤滑油の油温が高いときは勿論、油温が低いときでも、摩擦係数が安定して低くなった。つまり、MoDTPは、一般的に摩擦係数が上昇し易い低温下でも、Cr−C膜との相乗作用により、十分な低摩擦特性を発揮することがわかった。
【0060】
(3)耐摩耗性(摩耗深さ)
図3Aから明らかなように、潤滑油A、B1を用いて、油温を40℃としたとき、試料C0の摩耗深さは0.9μm以上となり非常に大きくなった。このことは
図3Bからも明らかである。
【0061】
これに対して、試料1〜4の摩耗深さは、同条件下でも小さくなった。MoDTCを含む潤滑油Aを用いた場合、Crが多い試料2〜4では、摩耗深さが相応に小さくなった。これらのことも
図3Bからも明らかである。
【0062】
特に、MoDTPを含む潤滑油B1を用いた場合、試料1〜4は、摩耗深さが硬質な試料C1の摩耗深さと同程度となり、殆ど摩耗しなかった(潤滑油Aを用いたときの1/10以下)。つまり、MoDTPとCr−C膜は、それらが相乗的に作用して、低温下でも、低摩擦特性のみならず、優れた高耐摩耗性も発揮することがわかった。この傾向は、Crが比較的少ない(10at%以下)である試料1、2で顕著であった。
【0063】
(4)摺動面
図4および
図5から次のことがわかる。なお、図中の明い部位ほど、各イオンを含む化合物の吸着・反応量が多いことを意味している。また、各図にしめした( )内の数値は、最大イオンカウント数によるカラーイメージのフルスケール値である。
【0064】
図4から明らかなように、潤滑油A(40℃)を用いた摩擦試験後の各摺動面における各物質の吸着状況は様々であった。試料2の摺動面には、MoS
2-以外に、Mo三核体を含まないにもかかわらずMo
3S
7-が比較的多く吸着していった。その吸着量は、MoDTCを添加せずにMo三核体を添加した場合よりも多かった。一方、試料C0、試料C1では、MoS
2-の吸着が多いが、Mo
3S
7-の吸着は殆ど吸着していなかった。
【0065】
また、試料C1の摺動面にはCa
+やFe
+が、試料C0の摺動面にはCa
+やZn
+がそれぞれ吸着していた。一方、試料2の摺動面にはCa
+、Zn
+、Fe
+は殆ど吸着していなかった。なお、Fe
+は相手材からの移着と考えられる。
【0066】
図5から次のことがわかる。なお、図中に示したS
-は硫黄元素を含有するカルシウムスルホネート、ZnDTP、MoDTPまたはMoDTCのいずれか1種以上に主に由来し、P系化合物イオンおよびZn
+はZnDTPに主に由来し、Ca
+はオイル添加剤であるカルシウムスルホネートに主に由来し、Fe
+は相手材(移着物)に主に由来していると考えられる。
【0067】
MoDTPを含む潤滑油B1(油温:40℃)を用いた場合、低摩擦特性を示した試料1、2の摺動面は、試料C1の摺動面と比較すると明らかなように、Fe
+、Zn
+、Mo
+、S
-、P系化合物イオン(PO
2-、PSO
2-)、Mo系化合物イオン(MoO
4-、MoS
2-、Mo
3S
7-)等の吸着が少なかった。この傾向は、潤滑油B1(油温:40℃)の下で、摩擦係数がより小さかった試料2の方が顕著であった。
【0068】
また、試料2の摺動面でも、潤滑油B1(MoDTP)を用いた場合の方が、潤滑油A(MoDTC)を用いた場合よりも、Mo
+、S
-、P系化合物イオン、Mo系化合物イオン等の吸着が少なかった。
【0069】
逆に、Ca
+は、潤滑油B1(MoDTP)を用いた場合の方が、潤滑油A(MoDTC)を用いた場合よりも多かった。この傾向は、潤滑油B1(油温:40℃)の下で、摩擦係数がより小さかった試料2の方が顕著であった。
【0070】
これらのことから、MoDTPとCr−C膜は、少なくとも低温域において反応性が低く、そのことが低摩擦化や高耐摩耗化に影響していると考えられる。また、MoDTPを含む潤滑油下でCr−C膜上に、Ca系反応膜が生成されることも、低摩擦化や高耐摩耗化に影響していると考えられる。これらは、従来の知見と異なり、新たな機構による摺動または摺動面の生成が生じていると推察される。
【0071】
(5)Mo相当量
図6から明らかなように、潤滑油に含まれるMoDTPが増加するにつれて、試料2の摩擦係数が低下することがわかる。特に、潤滑油中のMoDTP量が300ppmMo以上、400ppmMo以上さらには500ppmMo以上になると、摩擦係数が顕著に低減することがわかった。
【0072】
(6)考察
以上のことから、CrC粒子が分散した炭素膜(Cr−C膜)とMoDTCまたはMoDTPを含む潤滑油との組合わせにより、優れた摺動特性(低摩擦化と高耐摩耗化)が得られることが確認された。その理由は次のように考察される。
【0073】
Cr−C膜は、MoDTCを含有した潤滑油の存在下において、微細に分散したCrC粒子の作用により、摺動面上に、硫化モリブデン化合物を多く吸着するようになる。この硫化モリブデン化合物は層状構造で低せん断特性を示す結果、摩擦係数や摩耗深さが大幅に低減するに至ったと推察される。
【0074】
特に本実施例の場合、摺動面に吸着される硫化モリブデン化合物として、添加剤には本来含まれていないMo
3S
7-が、MoS
2-と同等以上に多く摺動面に生成された点が大きく従来と異なっていた。詳細なメカニズムは不明であるが、その点が優れた摺動特性の発現要因の一つと考えられる。
【0075】
一方、Cr−C膜は、MoDTPを含有した潤滑油の存在下(特に低温域下)において、反応性が低く、低摩擦化に有効といわれているMo系化合物等を摺動面上に殆ど生成しない。この場合、詳細なメカニズムは不明であるが、従来と異なる作用により、低摩擦化と高耐摩耗化の両立が実現されていると推察される。
【0076】
【表1】
【0077】
【表2】