【実施例】
【0021】
本発明の具体的な実施例について図面に基づいて説明する。
【0022】
本実施例は、基材上に形成される切削工具用ダイヤモンド皮膜であって、この切削工具用ダイヤモンド皮膜のラマン散乱分光分析により測定されたラマン散乱分光スペクトルを、次の(1)〜(7)の7つのガウス関数の和であると仮定し、このラマン散乱分光スペクトルをピーク分離した場合において、Jのピーク強度をIJ、Nのピーク強度をINと定義し、IJ及びINの強度比[IN/IJ]が、基材表面から皮膜表面方向0.5μmの範囲における任意の測定位置A点で0.01以上0.30以下であり、皮膜表面から基材方向0.5μmの範囲における任意の測定位置B点で1.0以上30.25以下であるものである。
【0023】
(1)ラマンシフト1550±40cm
−1にピークを持つJ
(2)ラマンシフト1500±150cm
−1にピークを持ち、且つ、半値幅が20
0cm
−1以上であるK
(3)ラマンシフト1470±30cm
−1にピークを持つL
(4)ラマンシフト1340±40cm
−1にピークを持つM
(5)ラマンシフト1330±20cm
−1にピークを持ち、且つ、半値幅が20c
m
−1以下であるN
(6)ラマンシフト1200±40cm
−1にピークを持つP
(7)ラマンシフト1130±20cm
−1にピークを持つQ
【0024】
本発明者等は、種々のダイヤモンド皮膜のラマン散乱分光分析の結果、及び、セラミックス等の硬質材料を加工した際のダイヤモンド皮膜の摩耗状態について研究した結果から、当該ダイヤモンド皮膜のラマン散乱分光分析より得られたラマン散乱分光スペクトルは前記7つのガウス関数の和であると仮定し、このラマン散乱分光スペクトルを日本分光株式会社製「spectra Manager ver.2カーブフィッティング」を用いてピーク分離し、耐摩耗性及び耐溶着性に優れる皮膜組成となる条件を種々の実験結果から特定した。なお、本実施例においては波長532nmのレーザー光を用いてラマン散乱分光分析を行った。
【0025】
即ち、本実施例は、切削工具の基材上に形成される切削工具用ダイヤモンド皮膜であって、少なくとも、基材直上の微結晶ダイヤモンド皮膜部分と、皮膜表面の結晶粒径が大きく結晶性の良いダイヤモンド皮膜部分とから構成されているもので、前記[IN/IJ]が所定の数値範囲内にあるものである。
【0026】
各部を具体的に説明する。
【0027】
本実施例においては基材として、WCを主成分とする硬質粒子とCoを主成分とする結合材とから成る超硬合金製で、WC粒子の平均粒径が0.3μm以上3μm以下に設定され、Coの含有量が重量%で3%以上15%以下に設定されたものを採用している。
【0028】
この基材上に、工具先端の皮膜断面をラマン散乱分光分析した場合に所定の測定結果となるようにダイヤモンド皮膜を形成することで、
図1の測定位置A点(基材直上から皮膜表面方向所定範囲)は微結晶ダイヤモンド皮膜、測定位置B点(皮膜表面から基材方向所定範囲)は結晶性の良いダイヤモンド皮膜とすることができ、耐摩耗性及び耐溶着性に優れたダイヤモンド皮膜を実現できる。
【0029】
具体的には、前記測定位置A点は、基材表面より皮膜表面方向に0.5μmの範囲の任意の位置とし、この測定位置A点における、ラマン散乱分光スペクトルをピーク分離した場合、[IN/IJ]が0.01以上0.30以下の範囲となる皮膜とする。測定位置A点の[IN/IJ]が0.01以上0.30以下であると、良好な耐摩耗性が得られるためである。これは、ダイヤモンド皮膜の基材表面側所定範囲で非ダイヤモンド成分が多くなり、この非ダイヤモンド成分がセラミックス等の加工時の加工衝撃を緩和することで、皮膜の剥離を抑制するとともに、結晶粒の脱落を抑制し、耐摩耗性を向上できるためであると考えられる。
【0030】
前記測定位置B点は、皮膜表面より基材方向に0.5μmの範囲の任意の位置とし、この測定位置B点における、ラマン散乱分光スペクトルをピーク分離した場合、[IN/IJ]が1.00以上30.25以下の範囲となる皮膜とする。測定位置B点の[IN/IJ]が1.00以上30.25以下であると、良好な耐溶着性が得られるためである。これは、皮膜表面側所定範囲でダイヤモンド成分が多くなり、微視的な表面粗さが平滑となることで、アルミニウムや樹脂などの軟質材料の耐溶着性を向上できるためであると考えられる。
【0031】
即ち、測定位置A点の[IN/IJ]が0.01以上0.30以下、且つ、測定位置B点の[IN/IJ]が1.00以上30.25以下の範囲のダイヤモンド皮膜を用いることで、高硬度絶縁層を含むアルミニウム複合材料やFRP材料などに対して、良好な耐摩耗性及び耐溶着性を得ることができる。
【0032】
ところで、成膜条件を変えてダイヤモンド皮膜の結晶粒径を小さくしていくと、1140cm
−1付近にピークが現れることが知られている。本実施例は、測定位置A点の範囲では、結晶粒径が小さいことを特徴とするものであるから、上述の通りにラマン散乱分光スペクトルをピーク分離した場合、1130±20cm
−1に現れるピークQを用いて特徴づけることができる。
【0033】
そして、前記Qのピーク強度をIQとしたとき、上記の条件に加え前記測定位置A点で前記IQと前記INの強度比[IN/IQ]が0.15以上1.30以下であると、良好な耐摩耗性が得られる。これは、前記[IN/IQ]が0.15以上1.30以下では、微結晶ダイヤモンドの比率が増加することで、結晶粒の微細化に伴い粒界が増加し、硬いセラミックス等の材料の加工時に、加工衝撃等による亀裂の伝搬を阻害し(破壊靭性の向上)、結晶粒が脱落しにくくなり、耐摩耗性の向上につながるためと考えられる。
図2に本実施例の測定位置A点のラマンスペクトル及びピーク分離の結果を示す。
【0034】
また、測定位置B点は、結晶粒径が大きいことを特徴とするものであるから、微結晶ダイヤモンドの比率が少ないダイヤモンド皮膜が好適である。即ち、上記の条件に加え前記測定位置B点で前記[IN/IQ]が1.50以上45.36以下であると、耐溶着性が良好となる。これは、前記[IN/IQ]が1.50以上45.36以下では、ダイヤモンドの結晶粒径が大きくなることで、溶着に影響する皮膜表面の微視的な表面粗さを減少させることができるため、耐溶着性が向上するものと考えられる。
図3に本実施例の測定位置B点のラマンスペクトル及びピーク分離の結果を示す。
【0035】
また、本実施例は、基材直上に設けられ測定位置A点を含む基材側の微結晶ダイヤモンド皮膜層[A]と、この皮膜層[A]上に設けられ測定位置B点を含む結晶粒径が大きく結晶性の良い皮膜表面側のダイヤモンド皮膜層[B]とから成る2層構成としている。即ち、測定位置A点で好適なラマン分光スペクトルを持つ皮膜層[A]、及び、測定位置B点で好適なラマン分光スペクトルを持つ皮膜層[B]の2層構成としている。
【0036】
また、皮膜層[A]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅は、0.005μm以上0.15μm以下としている。皮膜層[A]は、結晶粒を小さくし結晶粒界を増やすことで加工時の衝撃を緩和させ、耐摩耗性を向上させる特徴を持つ。皮膜層[A]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅が0.005μm未満の場合、結晶粒界が多くなりすぎることで、ダイヤモンド皮膜としての硬さが維持できず、十分な加工性能が得られないと考えられる。また、皮膜層[A]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅が0.15μmを超える場合、結晶粒が大きくなることに伴う粒界破壊に起因する耐摩耗性の悪化が考えられる。以上より、皮膜層[A]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅は0.005μm以上0.15μm以下の範囲が望ましい。
【0037】
また、皮膜層[B]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅は、0.2μm以上30μm以下としている。皮膜層[B]は結晶粒を大きくすることで、微視的な表面粗さを小さくすることにより、耐溶着性を向上させる特徴を持つ。皮膜層[B]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅が0.2μmよりも小さい場合、微視的な表面粗さが大きくなるため、耐溶着性が悪くなると考えられる。また、皮膜層[B]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅が30μmよりも大きい場合、結晶粒界の面積が大きくなり、小さな力でも結晶粒が脱落しやすくなると考えられる。以上より、皮膜層[B]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅は0.2μm以上30μm以下の範囲が望ましい。
【0038】
また、本実施例の膜厚(全体の膜厚)は、5μm以上20μm以下とする。5μm未満では工具性能が得られず、20μmを超えると、工具のエッジが丸まり過ぎることにより、バリやめくれ等が発生しやすく、基板の加工品質が悪くなるためである。
【0039】
また、後述の実験例より、皮膜層[B]の厚さは0.2μm以上10μm以下の範囲に設定する。皮膜層[B]の厚さは0.2μm以上あれば、耐溶着性を確保できる。皮膜層[B]の厚さが0.2μm未満では、十分な耐溶着性が得られず、基材加工時にアルミなどが溶着しやすくなるためと考えられる。また、皮膜層[B]の厚さは10μm以下がとする。皮膜層[B]の厚さが10μmを超えると、結晶粒界の面積が大きくなり、小さな力でも結晶粒が脱落しやすくなる。これにより、皮膜層[A]が露出し、耐溶着性の効果が得られなくなる。よって、皮膜層[B]の厚さは0.2μm以上10μm以下の範囲であることが望ましい。
【0040】
更に、皮膜層[B]の割合は、全体の膜厚の1%以上50%以下の厚さとすることが望ましい(従って、皮膜層[A]の割合は50%以上99%以下の厚さとすることが望ましい。)。
【0041】
また、本実施例においては、皮膜層[A]は前記測定位置A点の範囲を超えて皮膜層全体が前記所定の[IN/IJ]及び[IN/IQ]を満たし、皮膜層[B]は前記測定位置B点の範囲を超えて皮膜層全体が前記所定の[IN/IJ]及び[IN/IQ]を満たす構成としているが、夫々、少なくとも測定位置A点及び測定位置B点の範囲で満たしていれば、十分な耐摩耗性及び耐溶着性が得られることを確認している。
【0042】
なお、上述の測定位置A点及びB点におけるラマン散乱スペクトルを満足するような皮膜であれば、本実施例の構成に限らず、単一層構成若しくは3層以上の多層構成としても良いし、皮膜成長方向で皮膜組織が均一でない傾斜組織を有する構成としても良いし、これらを組み合わせた構成としても良い。ただし、皮膜が十分な性能を出すためには、[IN/IJ]が0.01以上0.30以下の範囲である、耐摩耗性の高い層は、皮膜全体の厚さに対してある程度の厚さが必要であり、皮膜全体の厚さに対して50%以上99%以下とすることが望ましい。
【0043】
本実施例は、基材上に熱フィラメント法等のダイヤモンド気相合成法により形成することができる。この際、基材直上に形成されるダイヤモンド皮膜は、基材表面をショットブラスト、薬品、電解処理等による荒らし処理を施した後、形成することで密着性良く形成することが可能となる。
【0044】
本実施例は上述のように、基材直上のダイヤモンドの結晶粒を微結晶にすることにより、セラミックスやガラス、カーボンファイバーなどへの耐摩耗性が向上し、さらに皮膜表面付近ではダイヤモンドの結晶粒を大きくすることで、アルミニウムや樹脂への耐溶着性を向上することができる。
【0045】
よって、本実施例は、密着性が良いため切削時に剥離し難く、且つ、アルミニウムの複合材料やFRP材料のような、軟らかい材料と硬い材料の複合材に対する耐摩耗性及び耐溶着性が良好となり、切削工具の工具寿命を大幅に延長することが可能なものとなる。
【0046】
本実施例の効果を裏付ける実験例について説明する。
【0047】
WCを主成分とする硬質粒子とCoを主成分とする結合材からなる超硬合金母材を材料としたPCB加工用の超硬合金製ルーター(シャンク径φ3.175、直径φ2)に熱フィラメント型化学蒸着装置を用い、ルーターの温度を650℃〜800℃、ガス圧力が500Pa〜1500Paとなるように、H
2ガス、CH
4ガス及びO
2ガスを導入しながらダイヤモンド皮膜を成膜した。ガス流量比は、H
2:CH
4:O
2=100:1〜10:0〜5とした。皮膜の層構成は比較の単純化のため、単一層または2層の構成とした。
【0048】
図4に図示した各ダイヤモンド皮膜を被覆したルーターを切削工具として用い高硬度絶縁層を含むアルミニウム複合基板(基板厚さ1.0mm、絶縁層0.12mm)を被削材として、切削テストを行った。回転速度:30000min
−1、XY方向の送り速度:600mm/min、Z方向の送り速度100mm/min、軸方向切込み深さ1mmとして溝加工を行い、500mm(0.5m)加工毎に基板および工具を確認し、最大で10mの加工を行い評価した。
【0049】
耐溶着性は、基板加工時にバリが発生するまでの加工距離であるバリ発生加工距離と、工具が折れるまでの加工距離である折損発生加工距離とを用いて評価した。
【0050】
耐摩耗性は、基板加工時に皮膜が摩耗し、基材である超硬合金母材が露出するまでの距離である摩滅摩耗距離を用いて評価した。
【0051】
加工評価の結果を
図4に示す。
図4の結果から、比較例のダイヤモンド皮膜を被覆したルーターに比べて、実験例のダイヤモンド皮膜を被覆したルーターは、高硬度絶縁層を含むアルミニウムの複合材の切削に対して優れた工具寿命を得られることがわかる。
【0052】
以上から、本実施例に係るダイヤモンド皮膜により、切削時の早期摩耗や溶着を抑制することが可能となり、高硬度絶縁層を含むアルミニウムの複合材料やFRP材料などの、複合材料に対する工具寿命を向上させることが可能であることを確認できた。
【0053】
また、本実施例の膜厚及び結晶粒径を上述の範囲に設定するに至った一例について説明する。
【0054】
図4の実験例2の皮膜を断面TEM法により観察したところ、以下の知見を得た。なお、皮膜層[A]の厚さは約6.0μm、皮膜層[B]の厚さは約2.5μmである。
【0055】
図4の実験例2の工具の断面TEM像を
図5及び
図6に示す。
図5は明視野像、
図6は暗視野像である。
【0056】
図6右上の電子線回折像は当該試料のダイヤモンド皮膜に電子線を照射して得られた電子線回折像であるが、格子面間隔dとして、2.04±0.10Åはダイヤモンドの(111)面、1.24±0.10Åはダイヤモンドの(220)面と一致することから、この皮膜の電子線回折像より本皮膜はダイヤモンド皮膜であると言える。
【0057】
図6右上の前記電子線回折像は、その丸印で囲った結晶面(111)面を結像させて
図6の暗視野像を撮影したものである。
【0058】
図6から、皮膜層[B]に比べて皮膜層[A]の結晶粒径が小さいことが認められる。
【0059】
また、皮膜層[A]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅を測定した結果、当該結晶粒の幅は0.005μm以上0.15μm以下であることを確認した。
【0060】
同様に皮膜層[B]の皮膜成長方向に垂直な方向の結晶粒の幅を測定した結果、当該結晶粒の幅は0.2μm以上0.4μm以下であることを確認した。
【0061】
以上のような実験結果から、本実施例の膜厚及び結晶粒径は上述の範囲に設定した。