(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0003】
外歯車と内歯車を備えた波動歯車が回転駆動力を伝達する際、外歯車は内歯車と噛み合いながらの回転に際して継続的に大きな弾性変形を強いられる。しかし、上記の従来の製造方法では、熱間鍛造の工程で過度な熱処理が加えられるため、金属内部の組織が変質したり、不必要な応力が加わって内部応力が残留したりし易く、その結果として所期の強度あるいは弾性変形特性が得られない虞があった。この問題を解決する方法として、必要な機械的特性を有する無垢材をまず作製し、この無垢材から外歯車用の基材を長時間掛けて削り出し、次に同基材を切削加工することで精密な歯を付けるという製造方法(以下、バルク切削法と略称する)も実践された。しかし、切削による多量の切り粉が生じて、資源、エネルギーの消費量および切削用刃具費用が大である、著しく長時間の加工期間を要するなどの結果を招いた。
【0004】
そこで、本発明の目的は、上に例示した各従来技術による製造方法が与える課題に鑑み、波動歯車装置のうち特に外歯車として必要な所期の強度と弾性変形特性とを備えながら、しかも作業工数および製造コストを効果的に抑制可能な製造方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0005】
本発明による波動歯車用基材の製造方法の第1の特徴構成は、
炭素含有量が
0.5%以下の
鋼を、冷間加工によって波動歯車の外歯車の形状に一次成形し、
この一次成形品をA
3変態温度より高い温度域まで加熱し、
前記A3変態温度より高い温度域で、浸炭性あるいは浸炭浸窒性のガス雰囲気中で所定時間保持し、
マルテンサイト変態開始温度よりも高い所定の温度まで急冷すると共に、
当該温度を所定の時間に亘って維持することで、
金属組織をベイナイト
とし、
その後、常温まで冷却する点にある。
【0006】
本発明の第1の特徴構成による波動歯車用基材の製造方法では、先ず、板状などの素材を絞り加工や増肉加工などの冷間加工によって目的とする最終的な外歯車の形状に近い形状まで一次成形する。このため、切削による多量の切り粉を生じることなく、外歯車用の基材を短時間で得ることができる。この際に、炭素含有量が
0.5%以下の
鋼を素材として用いる。よって、冷間加工しても割れやクラックなどの欠陥が生じ難い。次に、一次成形品をA
3変態温度より高い温度域まで加熱する。これにより、冷間加工時に基材に生じ、使用中の割れの原因となり得る残留応力は除去される。
また、A3変態温度より高い温度域で、浸炭性あるいは浸炭浸窒性のガス雰囲気中で所定時間保持することで、炭素濃度が0.5%以下の任意の鋼材を所望の硬度に制御することが可能である。同加熱後にマルテンサイト変態開始温度よりも高い所定の温度まで急冷した後に、この温度を所定の時間に亘って維持してベイナイトを析出させ金属組織とする。これにより、波動歯車用基材として必要なバネ特性および靱(じん)性と、歯切り加工のために望ましい切削加工性とが両立した良好な一次成形品(波動歯車用基材)を安定的に得ることができる。
【0007】
本発明による波動歯車用基材の製造方法の第2の特徴構成は、
炭素含有量が0.15%より大きく0.5%以下の鋼を、冷間加工によって波動歯車の外歯車の形状に一次成形し、
この一次成形品をA
3変態温度より高い温度域まで加熱し、
マルテンサイト領域まで急冷したのち焼き戻すことで、ソルバイトを析出させ、
その後、常温まで冷却する点にある。
【0008】
本発明の第2の特徴構成による波動歯車用基材の製造方法では、先ず、板状などの素材を絞り加工や増肉加工などの冷間加工によって目的とする最終的な外歯車の形状に近い形状まで一次成形する。このため、切削による多量の切り粉を生じることなく、外歯車用の基材を短時間で得ることができる。この際に、炭素含有量が0.15%より大きく0.5%以下の鋼を素材として用いるので冷間加工しても組織の劣化が生じ難い。次に、一次成形品をA
3変態温度より高い温度域まで加熱する。これにより、冷間加工時に基材に生じ、使用中の割れの原因となり得る残留応力は除去される。同加熱後にマルテンサイト領域まで急冷し、その後焼き戻しを実施してソルバイトを析出させ金属組織とする。この結果、波動歯車用基材として必要なバネ特性および靱(じん)性と、歯切り加工のために望ましい切削加工性とが両立した良好な一次成形品(波動歯車用基材)を安定的に得ることができる。
【0009】
本発明による製造方法の他の特徴構成は、
前記鋼として炭素含有量が0.4%以下のクロムモリブデン鋼を用いる点にある。
【0010】
本構成であれば、熱処理の素材の表面と内部との間での硬度差が特に少ない波動歯車用基材が得られる。そのため、次工程での切削によって形成される歯底の部位に対しても十分に高い硬度が得られ、好都合である。
【0011】
本発明による製造方法の他の特徴構成は、前記A
3変態温度より高い温度域で、浸炭性あるいは浸炭浸窒性のガス雰囲気中で所定時間保持することで、最終的に得られる金属組織の硬度をHv300〜500に設定する点にある。
【0012】
本構成であれば、このような浸炭処理または浸炭浸窒処理によって波動歯車用基材の表面および内部の炭素濃度を0.3〜1.0%に高めることができる。この結果、波動歯車用基材の表面及び内部の硬度がHv300〜500まで上昇し、良好なバネ特性が得られ、耐磨耗性も向上する。また、浸炭処理または浸炭浸窒処理の雰囲気や時間を調整することによって、炭素濃度が0.15%より大きく0.5%以下の任意の鋼材を所望の硬度に制御することが可能である。
【0013】
本発明による製造方法の他の特徴構成は、前記A
3変態温度より高い温度域で、浸炭性あるいは浸炭浸窒性のガス雰囲気中で所定時間保持することで、基材の表面から2mm深さまでの範囲における金属組織の最大硬度と最小硬度の差をHv130以内に設定する点にある。
【0014】
本構成であれば、熱処理の素材の表面と内部との間での硬度差が更に少ない波動歯車用基材が得られる。このため、次工程での切削によって形成される歯底の部位に対しても更に高い硬度が得られる。
また、熱処理の素材の表面と内部との間での硬度差があると、もしも熱処理によって元々円形の素材に歪みが生じた場合、次工程で円形に切削された後に、最終的に形成される歯の硬度が周方向に沿って異なる虞があるが、本構成であれば、外歯車完成品における各歯の強度が十分なレベルまで均一化される。
【0015】
本発明による製造方法の他の特徴構成は、前記A
3変態温度より高い温度域からの冷却を、不活性ガスを用いたガス冷却により行なう点にある。
【0016】
窒素やヘリウムなどの不活性ガスを用いたガス冷却は、一般的には油冷却に比べて冷却能力が低いために所期の冷却速度を実現することが難しく、フェライトやパーライトを生成し易いという問題がある。しかし、薄肉で比表面積が大きい波動歯車用基材を熱処理対象品とした場合、本構成のようにガス冷却によっても、フェライトやパーライトが析出し難く、硬度の高い均質な組織を持つ一次成形品が得られる。また、窒素やヘリウムなどの不活性ガスを用いたガス冷却であれば、鋼の酸化を防止することができる。また、ソルトバスや油槽を用いた冷却方式に比べて環境負荷が大幅に低減され、後工程洗浄を不要にすることができる。
【0017】
本発明による製造方法の他の特徴構成は、前記A
3変態温度より高い温度域に加熱して浸炭性あるいは浸炭浸窒性のガス雰囲気中で所定時間保持し、その後の熱処理の途中で前記一次成形品を所定期間に亘って低カーボンポテンシャルの脱炭性雰囲気に暴露する点にある。
【0018】
本構成であれば、素材の表面が脱炭され、特定の厚さの表層部の硬度が低下するので、切削工程における刃物の寿命を延長できる。
【発明を実施するための形態】
【0020】
以下に本発明を実施するための形態について図面を参照しながら説明する。
本発明による製造方法は、非常に大きな減速比で回転トルクを伝えることの可能な波動歯車用基材を対象としており、特に波動歯車のうちでも、円形から楕円状への弾性変形を介して内歯車(サーキュラースプライン)と噛合する外歯車(フレックススプライン)のための基材を対象としている。
【0021】
(鋼材)
本発明の出発材料として用いる素材は、炭素含有量が約0.5%以下の鋼材である。例えば、冷延鋼板・熱延鋼板・高張力鋼板・炭素鋼板・低合金鋼板・ステンレス鋼板などを使用できる。特に、S40C材、S45C材、S48C材などの炭素鋼板、SCM420材、SNCM220材などの低合金鋼板が使用可能である。
参考として、本発明で使用可能な素材の代表例であるSCM420材及びS45C材の成分規格値(JIS)を下記の表1に記載する。
【0023】
(成形)
図1に示すように、上記の条件に適合する板材2を、プレス加工、絞り加工、増肉加工、冷間鍛造、回転絞り加工、ロータリースウェージングなどにより、目的とする最終的な外歯車の形状に近い形状まで室温で一次成形する。尚、この冷間加工に先立って、板材に対して球状化焼鈍処理を行うと冷間加工を実施し易く好適である。
【0024】
一次成形された加工物3は、波動歯車を構成する外歯車の最終的な完成形状に近似しており、小径状の出力部4Aと、出力部4Aの他端から径方向外側に延びたフランジ部4Bと、フランジ部4Bから軸心Xに沿って延びた大径状の円筒状胴部4Cとを有する。
【0025】
円筒状胴部4Cの外周には、熱処理後に、内歯車と噛合するための外歯(不図示)がホブ盤などによって切削加工されることになる。
【0026】
(熱処理)
一次成形された加工物3に対して施す熱処理方法としては、用いる鋼種に応じて、浸炭オーステンパと、浸炭焼入焼戻と、浸炭なしのオーステンパと、浸炭なしの焼入焼戻とのいずれかを適用可能である。熱処理の目的は、加工物3に対して波動歯車を構成する外歯車として必要なバネ性を与えること、耐久性の阻害要因となる歪みを低く抑えることである。熱処理は厳密な温度制御、特に、急冷が可能な熱処理設備を用いるのがよい。
【0027】
(浸炭オーステンパ処理)
図2は、浸炭オーステンパ処理の温度シーケンスを、共析炭素鋼の恒温変態線図と共に示す説明図である。
図2の温度シーケンスに示すように、先ず通電加熱などによって加工物3をA
3変態温度若しくはA
1変態温度より高い、金属組織の主相がほぼオーステナイトとなる領域の所定温度T1(例えば930℃)まで加熱(S1)し、次に、同温度T1で所定時間保持する(S2)。S2工程における温度T1での温度保持によって安定なオーステナイト組織が形成される。また、同時に、冷間加工時に生じた内部歪みが効果的に解放される。
【0028】
次に、加熱された加工物3をA
1変態温度より高く温度T1よりも低い温度T2(例えば870℃)まで降温(S3)して、同温度T2で所定時間保持する(S4)。この温度保持によって、熱処理に伴う歪みの発生が抑制される。歪み抑制の効果で製品化された外歯車の最終歪みが小さく抑えられる。また、後続する切削加工の加工量を減らすことも可能となる。
【0029】
図3に示すように、本実施形態では、浸炭オーステンパ処理として、材料をオーステナイト領域の温度で所定時間保持する工程(S2)と、温度T2まで降温する工程(S3)と、同温度T2で所定時間保持する(S4)工程とを、浸炭性のガス雰囲気中で行う(浸炭処理)。同処理によって、金属組織の炭素濃度を0.3〜1.0%、望ましくは0.4〜0.8%にまで高めることで、金属組織の硬度がHv300〜500となるように制御する。浸炭処理の長さは加工物3の厚さや設計(高バネ性付与領域など)に応じて判断す
るが、浸炭処理として真空浸炭処理を用いれば処理時間を短縮できる。尚、浸炭処理(真空浸炭処理)の代わりに浸炭浸窒処理(真空浸炭浸窒処理)を採用してもよい。
【0030】
より具体的な浸炭処理の方法としては、
図3に例示するように、T1での保持工程(S2)では、先ず約0.5時間に亘って素材中の温度を均一化させ(S2−1)、次に、約4.5時間に亘って高い炭素濃度(CP値:約1.15)で浸炭処理し、最後に、約3時間に亘って少し低い炭素濃度(CP値:約0.75)で浸炭処理する。次に、その炭素濃度(CP値:約0.75)を維持したままで、温度T2までの降温工程(S3)と、温度T2での保持工程(S4)とを行う。
【0031】
次に、マルテンサイト変態開始温度よりも高い所定温度T3(例えば400℃)までガス冷却またはソルト(塩浴)冷却などで急冷する(S5)。この急冷に際しては、パーライトおよびフェライトの析出を避けるために、
図2に記入された恒温変態線図における変態開始線のノーズ(一般に550℃付近)に掛からないように短時間(1〜10数秒)で急冷する。このような急冷を可能とするためには、
図1に示されるように、一次加工された加工物3の肉厚を薄くすると良い。
【0032】
引き続き、同温度T3で十分に長い所定時間に亘って保持する(S6)。当該温度保持の途中では変態開始線との交点(Bs)付近から変態終了線との交点(Bf)付近までの期間に下部ベイナイトが析出する。下部ベイナイトは針状の組織をしており、マルテンサイトのようには硬過ぎない十分な硬度と高い靱(じん)性をもつ。
【0033】
S6の終了後、室温まで急冷する(S7)。最終的に得られる波動歯車用基材は下部ベイナイトを主相とする金属組織を有するため、適度な加工性を持ちながら、硬度を確保して良好なバネ特性と十分な靭性を兼ね備えた波動歯車用基材となる。得られた波動歯車用基材は、後続する切削加工によって外形形状をさらに精密に整えられた後、ホブ盤などで外歯を切られることで、寸法精度と耐久性とバネ性とを兼ね備えた外歯車が得られる。
【0034】
尚、設備上の都合によっては、S1からS4までの一連の工程と、S6からS7までの一連の工程とを、互いに距離的に隔てられた別の設備で行わねばならない場合が生じる。その場合には、第1の設備にてS4の工程が終了した後に、S5の工程として、例えば素材を空中に曝しながら第2の設備まで素材温度がT3(400℃など)を下回らないように搬送し、第2の設備への到着後に、S6、S7の各工程を行うことができる。以降、この方法を工程分割法と呼ぶ。
【0035】
(浸炭焼入焼戻処理)
浸炭焼入焼戻では、一次成形品を金属組織の主相がオーステナイト組織となる温度域まで加熱する。次に、マルテンサイト領域まで急冷したのち焼き戻すことで、最終的に得られる波動歯車用基材の金属組織の主相がソルバイト組織となる。この結果、波動歯車を構成する外歯車として必要なバネ性と十分な硬度が得られる。
【0036】
図4は、浸炭焼入焼戻処理の温度シーケンスを示す説明図である。
図4の温度シーケンスに示すように、加工物3の熱処理に係るS1からS4の各工程は
図2及び
図3に示す熱処理工程と同様である。
【0037】
図4に示す浸炭焼入焼戻処理の温度シーケンスが
図2の浸炭オーステンパ処理と異なる点は、次に、前記所定温度(T2)からマルテンサイト領域の温度までガス冷却などで急冷(S5)して同温度で保持し(S6)、ソルバイトが析出し易い温度(約550℃)まで焼き戻す(S7、S8)ことで、金属組織の主相をソルバイト組織とし、その後、常温まで急冷(S9)することにある。ソルバイト組織はフェライト生地の中に多量のセメンタイト(微細粒子)が析出した組織からなり、マルテンサイトのようには硬過ぎない十分な硬度と高い靱(じん)性をもつ。鋼材製歯車の焼戻処理は150℃付近で行われることが一般的であるが、ここでは波動歯車基材として望ましい特性を付与するために約550℃という高温での焼戻を行っている。
【0038】
図5に示すように、本実施形態では、浸炭焼入焼戻処理として、浸炭オーステンパに対応する
図3と同様に、材料をオーステナイト領域の温度で所定時間保持する工程(S2)と、温度T2まで降温する工程(S3)と、同温度T2で所定時間保持する(S4)工程とを、浸炭性のガス雰囲気中で行う(浸炭処理)。ここでも、浸炭処理(真空浸炭処理)の代わりに浸炭浸窒処理(真空浸炭浸窒処理)を採用してもよい。
【0039】
図5に示すように、焼戻処理工程(S8)では浸炭は行わないが、カーボンエンリッチされたN2ガス雰囲気で行われる。N2ガスは素材表面の酸化を防止するために用いられ、ブタンガスなどによるカーボンエンリッチは、前工程の浸炭処理で侵入した炭素が金属組織外に抜け出ることを防止するために行われる。焼戻処理工程(S8)の後の最終的な室温までの急冷(S9)は約120℃などのオイルによる油冷が用いられる。
【0041】
(鋼種及び熱処理条件による特性比較)
上に示す表2は、波動歯車用基材を製造するための素材の候補として選択した複数の鋼種について、材料コスト、プレス成形性、種々の熱処理によって得られた特性等を示す。検討対象とした鋼種には、SCM420(炭素含有量約0.2%のクロムモリブデン鋼)、S45C(炭素含有量約0.45%の炭素鋼)、SNCM220(炭素含有量約0.2%のニッケルクロムモリブデン鋼)、SNCM439(炭素含有量約0.39%のニッケルクロムモリブデン鋼)、SPH440(炭素含有量約0.15%の高張力圧延鋼)が含まれる。
【0042】
熱処理方法として、
図2及び
図3の熱処理プロセスに基づく浸炭オーステンパ処理、
図2の熱処理プロセスに基づくオーステンパ処理(浸炭なし)、
図4及び
図5の熱処理プロセスに基づく浸炭焼入焼戻処理、
図4の熱処理プロセスに基づく焼入焼戻処理(浸炭なし)の4種類が比較検討された。
尚、浸炭オーステンパ処理及びオーステンパ処理(浸炭なし)では、設備の都合から前記工程分割法を用いた。
【0043】
特に、SNCM439は、前述したバルク切削法における無垢材として用いられる材料であり、本発明による波動歯車用基材の性能を実証する参照材料の役割を果たす。尚、SNCM439については、浸炭処理による著しい硬度過剰、靭性不足、切削性低下が予測されるため浸炭処理を含む熱処理は行っていない。
【0044】
全試料について、プレス成形性はカップ形状に深絞り成形した後の真円度によって評価し、真円度が0.1未満の材料を良とした。熱処理における歪は熱処理によって生じる寸法的な歪みを指す。硬度はビッカース硬度計によって評価し、HV330〜400の範囲を良とした。
【0045】
尚、表2において、SNCM220及びSNCM439について材料コストの評価を不良(×)としているのは、これらの鋼種の価格がSCM420やS45Cの数倍に達するためと、現状では板材としての市場流通性が低いためである。
【0046】
表2から理解されるように、SCM420を浸炭オーステンパ処理したもの(以下でA1と称する)は、材料コスト、プレス成形性、硬度、組織状態、歪のいずれも基準値を満たしている。SCM420を浸炭焼入焼戻処理したもの(以下でA2と称する)も、歪がA1に比べて僅かに大きくなるものの全ての基準値を満たしている。
S45Cを焼入焼戻処理(浸炭なし)したもの(以下でA3と称する)は、硬度が僅かに基準値に及ばなかった点を除いて全ての基準値を満たしており、且つ、材料コストにおいてSCM420に比べて優位な点を考慮して判定を良としている。
【0047】
SNCM220及びSNCM439については、熱処理後の各特性は概して良好であったが、SNCM220はプレス成形において真円度が0.1を大きく超えて基準値を満たさず、SNCM439ではプレス成形において割れが生じたため、評価結果を可とした。これらの材料については、温間成形やサーボプレスなどを用いることでプレス成形性を改善することが可能である。以下、SNCM439をオーステンパ処理したものを参照材料R1と称し、SNCM439を焼入焼戻処理したものを参照材料R2と称する。
SPH440は、プレス成形性は良好で、材料コストにおいてはS45Cよりも優位だが、硬度の基準値を満たさず、熱処理後の組織内にフェライトの析出が観察されたため、評価結果を不可とした。
【0049】
(物性比較1)
表3は、表2に示す評価結果に基づいて波動歯車用基材に最も適合すると判断された3つの材料(A1、A2、A3)、及び、参照材料としての2材料(R1、R2)に関するさらに詳細な物性値(硬度、疲労限、引張試験)の測定結果を示す。硬度は試料表面(試料表面から0.75mmの位置)及び中心付近(試料表面から1.5mmの位置)の2箇所を測定している。
【0050】
JIS Z2275に基づく平面曲げ疲労試験により、厚さが3.5mmの試料を用いて、200万回(N/mm2)における疲労限を測定した。引張試験は厚さが2mmで幅が約6mmの板状の試験片に基づいて実施した。
表3から理解されるように、硬度、疲労限、引張試験の結果のいずれを見ても、SCM420は浸炭オーステンパ処理したもの(A1)と、浸炭焼入焼戻処理したもの(A2)とのいずれも、同等の熱処理(但し浸炭なし)を加えた参照材料としてのSNCM439(R1、R2)と遜色のない物性値を示すことがわかった。
【0051】
S45Cを焼入焼戻処理したもの(A3)は、他の材料(A1、A2、R1、R2)に比して硬度の測定値が低いが、疲労限及び引張試験の結果については著しい差異は認められないため、熱処理条件の微調整などによって採用可能な物性レベルにまで向上する可能性が、或いは、波動歯車の適用領域次第では採用可能な可能性があると思われる。
【0052】
(物性比較2)
図6は、表3に示す評価結果に基づいて波動歯車用基材として最も適合すると判断された2つの材料(A1、A2)について、試料の表面からの深さ毎に硬度を測定した硬度分布を示す。尚、A1については、
図3を基本とした前記工程分割法にて熱処理した。
図6から理解されるように、試料の表面からの深さと無関係に2つの材料(A1、A2)のいずれも、300〜500HVの比較的狭い範囲に収まる、良好な結果を示している。2つの材料(A1、A2)を比較すると、最も表面に近い部位(0.1〜0.8mm)の硬度に関しては、SCM420の浸炭焼入焼戻処理品(A2)がSCM420の浸炭オーステンパ処理品(A1)よりも高い硬度を示す。試料の内部側(0.8〜2.0mm)の硬度に関しては、逆に、浸炭オーステンパ処理品(A1)が(A2)浸炭焼入焼戻
処理品よりも高い硬度を示している。
【0053】
SCM420の浸炭オーステンパ処理品(A1)は、表面から0.5mm深さでの硬度(420HV)が最大値を示し、同位置から表面に近付くほど硬度が低下し、また、同位置を基準に表面から離れるほど硬度が低下する両肩下がりの傾向を有し、全体としては420HV(最大値)から365HV(最小値)までの範囲(最大値と最小値の差は55HV)に収まっている。
【0054】
SCM420の浸炭焼入焼戻処理品(A2)では、表面から0.2mm深さでの硬度(455HV)が最大値を示し、同位置を基準に表面から離れるほど硬度が低下する概して右肩下がりの傾向を有し、全体としては455HV(最大値)から330HV(最小値)までの範囲(最大値と最小値の差は約130HV)に収まっている。
【0055】
少なくともSCM420に関しては、浸炭オーステンパ処理品(A1)と浸炭焼入焼戻処理品(A2)のいずれに関しても、熱処理による歪の大きさは0.5mm以内であることが判明しており、波動歯車用基材として実際に処理する際には、このような熱処理プロセスで生じる歪み(0.5mm以内)を見込んだ大きめの加工物3が一次成形される。すなわち、
図6の硬度分布において浸炭オーステンパ処理品(A1)に見られる表面側の僅かに低硬度の部位(表面から0.5mmまでの範囲)は、熱処理後の切削によって除去されるため、問題視する必要はなく、むしろ、切削に用いる刃物の延命化をもたらす好ましい性状といえる。
【0056】
図7は、同じく波動歯車用基材として最も適合すると判断された2つの材料(A1、A2)について、EPMAによって炭素濃度を測定した炭素濃度分布を示す。
図7から理解されるように、2つの材料(A1、A2)を比較すると、試料の内部(0.5〜1.5mm)の炭素濃度は、いずれの熱処理方法でも表面に近付くほど炭素濃度が直線的に高くなる一般的な傾向を示し、炭素濃度の値自体も略等しく、浸炭処理が良好に進められたことを示している。
【0057】
他方、最も表面に近い部位(0〜0.5mm)に関しては、浸炭焼入焼戻処理品(A2)では、表面に近付くほど炭素濃度が高くなる一般的な傾向を示すが、浸炭オーステンパ処理品(A1)では、表面に近付くほど概して炭素濃度が低くなる傾向を示している。この浸炭オーステンパ処理品(A1)が表面付近で示す炭素濃度の低下傾向は、
図6において浸炭オーステンパ処理品(A1)に関して見られた表面側の低硬度化の現象を裏付けていると思われ、
図3を基本とした前記工程分割法による熱処理プロセスにおいて、S4工程後の搬送工程において好適温度まで空気中で放冷した際に、素材表面からの脱炭が生じたことが推測される。
【0058】
本発明の好適な実施形態では、熱処理完了後の波動歯車用基材の厚さが約0.5mmの表層部は、いずれにせよ次の切削工程において除去される。このため、切削工程における刃物寿命の延長などの効果を得る目的で、熱処理の途中で意図的に素材の表面を脱炭させることで、特定の厚さの表層部の硬度を低下させることが可能である。
【0059】
脱炭の方法としては、前記工程分割法で行ったように、S5の工程で素材を一定期間だけ空気(低カーボンポテンシャルの脱炭性雰囲気の一例)中に暴露する方法を採用することができる。また、前記工程分割法によらずに一連の熱処理を同一設備で実施する場合にも、処理プロセスの後半において、例えば
図3や
図5のS3以降ないしはS2−3以降の一定期間において、低カーボンポテンシャルの脱炭性雰囲気に制御する方法を採用することができる。この意図的な脱炭操作に際しては、意図的な脱炭工程で形成された低硬度の表層を後続する切削工程で全て除去し、除去後の製品の表面については所期の高い硬度が確保されるように、低カーボンポテンシャルの脱炭性雰囲気への暴露期間、カーボンポテンシャル、保持温度などを適宜選択することで、脱炭領域の表面深さを適宜設定することが可能である。
【0060】
また、浸炭処理または浸炭・浸窒処理に際して、高いバネ性と歯部耐久性を必要とする円筒状胴部4Cが他の出力部4A、フランジ部4Bに比して高い炭素濃度となるように、部分的な浸炭・浸窒制御を行ってもよい。