(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
分析対象である目的化合物由来のイオンを一時的に捕捉するとともにその捕捉したイオンの解離を促進させるイオントラップを具備する質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記イオントラップの内部空間に捕捉したイオンをクーリングするために該イオントラップ内に供給されるクーリングガスによる該イオントラップ内のガス圧条件が異なる複数回の質量分析を同一試料に対し実行し、それぞれマススペクトルを取得する分析実行ステップと、
b)前記異なるガス圧条件の下でそれぞれ取得された複数のマススペクトルについて同一質量電荷比であるピークの信号強度を比較することにより、同一の基幹構造体を有し、該基幹構造体に結合している修飾物の数が相違する複数のイオンを識別し、それらイオンの少なくとも1つをプリカーサイオンとして選定するプリカーサイオン選定ステップと、
を有することを特徴とする質量分析方法。
【背景技術】
【0002】
糖鎖やペプチドなどの高分子化合物の同定や構造解析においては、MALDI(マトリクス支援レーザ脱離イオン化)イオン源と3次元四重極型イオントラップとを搭載したイオントラップ質量分析装置が広く用いられている。イオントラップに一時的に保持した各種イオンを質量分析する手法としては、イオントラップ自体の質量分離機能を利用する場合と、イオントラップから一斉にイオンを吐き出しイオントラップ外部に設けた飛行時間型質量分析器によりイオンの質量分離を行って検出する場合とがあるが、ここではそれらを包含してイオントラップ質量分析装置ということとする。
【0003】
イオントラップ質量分析装置を用いた高分子化合物の一般的な分析手法は次の通りである。
分析対象である目的化合物をMALDI法によりイオン化してイオントラップ内に捕捉したあと、その目的化合物由来の特定の質量電荷比m/zを有するイオンをプリカーサイオンとして選択的にイオントラップ内に残し、他の不要なイオンをイオントラップ外部に排出するイオン選択操作を行う。その後、イオントラップ内に衝突誘起解離(Collision-Induced Dissosiation:CID)ガスを導入し、高周波電場の作用によりプリカーサイオンを励振させてCIDガスに衝突させることで該プリカーサイオンの解離を促進させる。場合によっては、1回のCID操作では目的とする構造体が十分に解離しないため、プリカーサイオンの選択とCID操作とを複数回繰り返すこともある。そうして目的化合物由来のイオンに対し1回以上のCID操作を行うことで細かく断片化させたプロダクトイオンについて、質量走査を伴うイオンの検出を実行してMS
nスペクトルを取得し、このMS
nスペクトルを例えばデータベース検索などに供することで化合物を同定したりその構造を推定したりする。
【0004】
上述したような化合物の同定や構造解析においてその精度を上げるため、或いは測定や解析に要する時間を短縮してスループットを向上させるためには、CID操作の対象となるプリカーサイオンとして適切な質量電荷比のイオンを選択することが重要である。従来の一般的なプリカーサイオンの選択方法としては、CID操作を行わない通常の質量分析を行うことで取得したマススペクトル(MS
1スペクトル)に現れるピークを検出し、例えば信号強度が閾値以上である等、所定の基準を満たすピークを全て抽出して該ピークに対応するイオンをプリカーサイオンとして選択するという手法が採られている。通常、所定の基準を満たすようなピークはマススペクトル上に多数存在するため、それら全てについてMS
2分析を実行するとなると測定だけでも膨大な時間が掛かる。また、測定の回数が増えると、それだけ試料の消費量も多くなるため、大量の試料を用意しなければならない。
【0005】
上記のような問題を回避するためには、マススペクトル上で所定の基準を満たすピークを全て抽出するのではなく、例えば強度順に優先順位を付けて所定数のピークのみを抽出する、といった制約を課す方法が考えられる。しかしながら、信号強度が相対的に高いピークが目的化合物の構造を特徴付けるイオンピークであるとは限らないため、強度順等に従って機械的にピークを抽出しただけでは、同定や構造解析に有効なプリカーサイオンを選択できないおそれもある。
【0006】
具体例を挙げて詳しく説明する。イオントラップ質量分析装置でしばしば分析対象とされるペプチド等の生体高分子化合物には、脱離し易い修飾物や官能基などが含まれている場合がよくある。代表的な修飾物としては、シアル酸、硫酸基、リン酸基などがよく知られている。例えば酸性糖の一種であるシアル酸が結合している糖鎖やシアル酸結合糖鎖が付加した糖ペプチドでは、低エネルギCIDによりシアル酸が優先的に脱離することが知られているが、こうしたシアル酸の脱離はCIDの過程のみならず、インソース分解やイオントラップ内でのクーリングガスとの衝突によっても容易に生じる(例えば特許文献1、2参照)。そのため、上記のような脱離容易な修飾物が複数結合している化合物が試料に含まれている場合、CIDを実行せずに得られたマススペクトル上には、修飾物が基本構造体から全く脱離していないイオン由来のピーク、複数の修飾物のうちの一部が基本構造体から脱離したイオン由来のピーク、全ての修飾物が基本構造体から脱離したイオン由来のピーク、が混在して現れる。このため、マススペクトルはかなり複雑になる。また、基本構造体を含むイオンの強度が複数のピークに分散するために、各ピークの強度が相対的に低くなってしまうことがある。このような場合、上述したように強度順に従って決まった個数のピークを抽出する手法では、化合物の特徴をよく表す基本構造体を含むイオンがプリカーサイオンとして選択されなくなるおそれがある。
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0008】
本発明は上記課題に鑑みて成されたものであり、その目的とするところは、脱離し易い修飾物や官能基などが存在する高分子化合物の同定や構造解析を行うに際し、マススペクトルに現れるピークの中で目的化合物を特徴付ける適切なイオンピークを抽出してプリカーサイオンとして選択しMS
2分析を行うことができる質量分析装置及び質量分析方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0009】
上記課題を解決するために成された第1発明は、分析対象である目的化合物由来のイオンを一時的に捕捉するとともにその捕捉したイオンの解離を促進させるイオントラップを具備する質量分析装置であって、
a)前記イオントラップの内部空間に捕捉したイオンをクーリングするためのクーリングガスを該イオントラップ内に導入するガス供給手段と、
b)前記ガス供給手段により前記イオントラップ内に供給されるガスによる該イオントラップ内のガス圧条件が異なる複数回の質量分析を同一試料に対し実行し、それぞれマススペクトルを取得する分析実行手段と、
c)前記異なるガス圧条件の下でそれぞれ取得された複数のマススペクトルについて同一質量電荷比であるピークの信号強度を比較することにより、同一の基幹構造体を有し、該基幹構造体に結合している修飾物の数が相違する複数のイオンを識別し、それらイオンの少なくとも1つをプリカーサイオンとして選定するプリカーサイオン選定手段と、
を備えることを特徴としている。
【0010】
また上記課題を解決するために成された第2発明は、分析対象である目的化合物由来のイオンを一時的に捕捉するとともにその捕捉したイオンの解離を促進させるイオントラップを具備する質量分析装置を用いた質量分析方法であって、
a)前記イオントラップの内部空間に捕捉したイオンをクーリングするために該イオントラップ内に供給されるクーリングガスによる該イオントラップ内のガス圧条件が異なる複数回の質量分析を同一試料に対し実行し、それぞれマススペクトルを取得する分析実行ステップと、
b)前記異なるガス圧条件の下でそれぞれ取得された複数のマススペクトルについて同一質量電荷比であるピークの信号強度を比較することにより、同一の基幹構造体を有し、該基幹構造体に結合している修飾物の数が相違する複数のイオンを識別し、それらイオンの少なくとも1つをプリカーサイオンとして選定するプリカーサイオン選定ステップと、
を有することを特徴としている。
【0011】
イオントラップ質量分析装置では一般に、検出感度や質量分解能の向上を目的として、イオントラップ内に捕捉しているイオンをその捕捉空間中心付近に集めるためにクーリング操作が行われる。クーリングとは、不活性ガスであるHe等のクーリングガスをイオントラップ内に導入し、捕捉しているイオンをこれらガスと接触させることによりイオンの運動エネルギを減衰させる操作である。運動エネルギの小さなイオンは捕捉電場の影響を受け易いため、捕捉空間内でのイオンの空間的拡がりが抑えられ、捕捉空間中心付近にイオンが集まり易くなる。一般的に上述したような質量分析のための一連の行程の中では、外部からイオントラップ内にイオンが導入された後やCIDによりプリカーサイオンが解離され生成されたプロダクトイオンが捕捉された後にクーリングが実行される。
【0012】
第1発明及び第2発明における分析対象の化合物は、典型的には、イオン化の過程や外部に設けられたイオン源からイオントラップまでイオンが輸送される過程、或いはイオントラップ内におけるクーリングの過程などの際に、容易に脱離する修飾物や官能基が基幹構造物に対し1乃至複数結合している化合物である。具体的には、こうした修飾物・官能基としてシアル酸、硫酸基、リン酸基などを挙げることができる。
【0013】
脱離容易な修飾物や官能基が基幹構造物に対し1乃至複数結合している化合物が目的試料に含まれている場合、イオントラップ内のガス圧が低い(真空度が高い)とクーリング作用が弱く、捕捉されているイオンが持つ運動エネルギは相対的に大きい。このエネルギのために、基幹構造物に結合している修飾物や官能基は容易に脱離する。逆にイオントラップ内のガス圧が高い(真空度が低い)とクーリング作用が強く、イオンが持つ運動エネルギは相対的に低い。このため、基幹構造物に結合している修飾物や官能基の脱離は生じにくい。そのため、同一試料に対して異なるガス圧の下で取得された複数のマススペクトル間では、同一基幹構造体に修飾物が1個以上付加されているイオンのピークや修飾物が全て脱離したイオンのピークの強度に差が生じる。例えば、同じ質量電荷比であってガス圧が高い状態から低い状態に変化したときに信号強度が高くなるピークは、修飾物が脱離したイオンに対応したピークであると推定できる。
【0014】
そこで、第1発明に係る質量分析装置においてプリカーサイオン選定手段は、例えばガス圧条件の異なる2つのマススペクトルについて質量電荷比毎にピークの強度差を計算し、強度差が正値を示すピークと強度差が負値を示すピークの組で、それらピークの質量電荷比差が既知の修飾物や官能基の質量又はその整数倍に一致するようなピークの組を探索する。こうした探索により得られたピークの組は、同じ基幹構造体を有し修飾物や官能基の数のみが相違するイオンであると考えられるから、例えば得られたピークの組の中の1つをプリカーサイオンとして選定する。こうして選定されたプリカーサイオンは目的化合物の構造の特徴をよく表したものである筈である。したがって、該プリカーサイオンをCID等により解離させることで得られたMS
2スペクトルを目的化合物の同定や構造解析に用いることで、同定や構造解析の精度を向上させることができる。
【発明の効果】
【0015】
第1発明に係る質量分析装置及び第2発明に係る質量分析方法によれば、翻訳後修飾を受けたペプチドなど、脱離し易い修飾物や官能基が基幹構造物に対し1乃至複数結合している化合物の同定や構造解析を行う際に、その構造の特徴をよく表すプリカーサイオンを的確に選定することができる。これにより、高分子化合物の同定や構造解析の精度が向上する。また、同定や構造解析に有益でない不適切なプリカーサイオンに対するMS
2分析の実行を回避できるので、MS
2分析回数を減らして測定時間を短縮するのに有効である。
【発明を実施するための形態】
【0017】
以下、本発明の一実施例であるマトリクス支援レーザ脱離イオン化イオントラップ飛行時間型質量分析装置(MALDI−IT−TOFMS)と該装置により実施される特徴的な質量分析方法について、添付図面を参照して説明する。
【0018】
図1は本実施例のMALDI−IT−TOFMSの要部の構成図である。このMALDI−IT−TOFMSは、図示しない真空チャンバ内に、目的試料をイオン化するイオン源1と、イオンを保持するとともにその内部でイオンを解離させる3次元四重極型のイオントラップ2と、イオンを質量電荷比に応じて分離して検出する飛行時間型質量分析部3と、を備える。
【0019】
イオン源1はMALDIイオン源であり、パルス状のレーザ光を出射するレーザ照射部11、目的化合物を含むサンプルSが付着されたサンプルプレート12、及び、レーザ光の照射によってサンプルSから放出されたイオンを引き出すとともに引き出されたイオンを案内するイオン光学系13、などを含む。
【0020】
イオントラップ2は、円環状の1個のリング電極21と、これを挟むように対向して配置された、入口側エンドキャップ電極22及び出口側エンドキャップ電極24と、からなり、これら3個の電極21、22、24で囲まれた空間が捕捉領域となる。入口側エンドキャップ電極22の略中央にはイオン入射口23が穿設され、上記イオン源1から出射したイオンはイオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。一方、出口側エンドキャップ電極24の略中央にはイオン出射口25が穿設され、このイオン出射口25を経てイオントラップ2内からイオンが飛行時間型質量分析部3へと放出される。また、イオントラップ2内には、ガス供給源28からガス導入管26を通してクーリングガスやCIDガスが供給され、そのガス量はパルスバルブ27の開放時間により制御される。
【0021】
飛行時間型質量分析部3は、リフレクトロン32によりイオンが折返し飛行する飛行空間31と、この飛行空間31を飛行してきたイオンを検出するイオン検出器4とを含む。イオントラップ2の内部からイオン出射口25を通して一斉に放出されたイオンは飛行空間31を飛行するが、各イオンは質量電荷比に応じた飛行速度を持つため、飛行する間に質量電荷比に応じて時間差を生じてイオン検出器4に到達する。イオン検出器4は入射したイオンの量に応じた検出信号を生成し、該信号をデータ処理部5へと送る。
【0022】
データ処理部5は、上述のように入力された信号をデジタル値に変換し、そのデータに基づいてマススペクトル(MS
nスペクトル)を作成したり、該マススペクトルを利用した定性(同定)、定量、或いは構造解析などを実行する。特に本発明に特徴的なデータ処理を実行するために、データ処理部5は、データ収集部51、データ記憶部52、スペクトル比較部53、プリカーサイオン判定部54、同定・構造解析処理部55などの機能ブロックを含む。
【0023】
分析制御部6は、上述した、イオン源1、イオントラップ2、飛行時間型質量分析部3、データ処理部5などの各部を制御する機能を有する。また、入出力制御や分析制御部6よりもさらに上位の統括的な制御を行う中央制御部7には、入力部8と表示部9とが接続されている。なお、データ処理部5、分析制御部6、及び中央制御部7は、パーソナルコンピュータをハードウエア資源とし、該パーソナルコンピュータに予めインストールされた専用の処理・制御ソフトウエアをコンピュータ上で実行することにより具現化されるものとすることができる。
【0024】
次に、本実施例のMALDI−IT−TOFMSに特徴的な化合物の構造解析のための処理及び制御動作について
図2を参照して説明する。ここで構造解析の対象となる化合物は、脱離容易な修飾物や官能基を含む高分子化合物であり、代表的な修飾物や官能基としては、シアル酸、硫酸基、リン酸基などがある。また、分析対象である化合物としては、シアル酸結合糖鎖、シアル酸結合糖鎖が付加した糖ペプチド、硫酸化糖鎖、硫酸化ペプチド、リン酸化糖鎖、リン酸化ペプチドなどが代表的なものである。こうした化合物が所定のマトリクスと混合されてサンプルSとして用意される。
【0025】
分析者による入力部8からの指示により分析が開始されると、分析制御部6の制御の下に、まず、イオントラップ2内へのクーリングガスの導入時間をT1に設定した条件の下で目的化合物を含むサンプルSに対する質量分析が実行され、その分析によって得られるデータに基づいてマススペクトルが作成される。
【0026】
より詳しく説明すると、分析制御部6の制御の下にレーザ照射部11は短時間レーザ光を出射する。このレーザ光はサンプルSに照射され、サンプルS中のマトリクスは急速に加熱されて目的化合物を伴い気化する。この際に目的化合物がイオン化される。これとほぼ同時に又は先行して、パルスバルブ27が所定時間T1(後述する時間T2よりも十分に長い)だけ開放され、ガス導入管26を通してイオントラップ2内にクーリングガスが供給される。レーザ照射により発生したイオンはイオン光学系13により形成される静電場によって収束され、イオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。導入されたイオンは、リング電極21に印加されている高周波電圧により形成される電場によりイオントラップ2の内部空間に捕捉される。
【0027】
イオントラップ2への導入に際しイオンは比較的大きな運動エネルギを有しているが、イオントラップ2内にはクーリングガスが充満しているため、捕捉されたイオンはクーリングガスに接触して運動エネルギを失う。ガス導入管26を通して供給されるガスの単位時間当たりの流量は一定であるから、パルスバルブ27の開放時間が長いほどクーリングガスの総量は多く、イオントラップ2内のクーリングガスの密度は高くなる。
図2(a-1)に示すように、イオントラップ2内のガス密度が高い場合にはイオンがガスに接触する確率が高くなり、そのためにイオンが持つ運動エネルギは低くなる。脱離容易な修飾物が結合している化合物イオンは、その内部エネルギが大きいほど修飾物の自発的な脱離が生じ易い。したがって、イオントラップ2内のガス密度が高くイオンのエネルギが低い場合には、修飾物の脱離はあまり促進されない。その結果、
図2(a-2)に示すように、イオンの基幹構造体100に修飾物101が結合した状態が維持され易い。
【0028】
イオントラップ2では導入されたイオンに対するクーリングが所定時間実行された後に、エンドキャップ電極22、24に所定の直流電圧が印加されることで、捕捉されていたイオンがイオントラップ2内から一斉に放出され、飛行時間型質量分析部3に導入される。そして、飛行空間31を飛行する間に各種イオンは質量電荷比に応じて分離され、イオン検出器4に到達して検出される。データ収集部51はイオン検出器4から信号を受け取り、飛行時間に対するイオン強度を示す飛行時間スペクトルを作成した後に飛行時間を質量電荷比に換算してマススペクトルを作成する。上述したように、このときには修飾物は比較的脱離しにくいので、
図2(a-3)に示すように、マススペクトル上には、基幹構造体100に修飾物101が結合した状態であるイオンに対応したピークが大きな信号強度を以て観測される。一方、基幹構造体100から修飾物101が脱離したイオンに対応したピークの信号強度は小さい。こうして得られたマススペクトルデータはデータ記憶部52に格納される。
【0029】
次に、分析制御部6の制御の下に、イオントラップ2内へのクーリングガスの導入時間をT1よりも十分に短いT2に設定した条件の下で目的化合物を含むサンプルSに対する質量分析が実行され、その分析によって得られるデータに基づいてマススペクトルが作成される。このときにはパルスバルブ27の開放時間が短いので、
図2(b-1)に示すように、イオントラップ2内のクーリングガスの密度は低い。そのため、イオンがガスに接触する確率は低く、そのためにイオンが持つ運動エネルギはあまり減衰されずに高い状態に維持される。その結果、イオンの基幹構造体100からの修飾物101の自発的な脱離が進み、
図2(b-2)に示すように、イオンの基幹構造体100から全ての修飾物101が脱離したイオンや一部の修飾物101のみが結合した状態であるイオンが多くなる。
【0030】
したがって、このときにデータ収集部51で作成されるマススペクトル上では、
図2(b-3)に示すように、修飾物101が全く脱離していないイオンのピークは殆ど観測されず、その代わりに、全ての修飾物101が脱離したイオンに対応したピークや一部の修飾物101が脱離したイオンに対応したピークが大きな信号強度を以て出現する。
図2に示すように、或る基幹構造体100に同じ修飾物101が2個結合した状態のイオンの質量電荷比がM3であるとき、1個の修飾物101が脱離したイオンはその修飾物101の質量電荷比Δに相当する分だけ小さな質量電荷比M2を有する。また、全ての、つまり2個の修飾物101が脱離したイオンはその修飾物101の質量電荷比Δに相当する分だけさらに小さな質量電荷比M1を有する。
【0031】
上記のようにイオントラップ2内のガス圧が異なる状況の下でそれぞれマススペクトルが得られたならば、スペクトル比較部53はその2つのマススペクトルを比較する。具体的には、例えば質量電荷比毎に一方のマススペクトル上のピークの信号強度から他方のマススペクトル上のピークの信号強度を差し引いた差分マススペクトルを求める。
図2(c)は
図2(a-3)のマススペクトルから
図2(b-3)のマススペクトルを差し引いた差分マススペクトルである。
【0032】
次いで、プリカーサイオン判定部54は差分マススペクトルを解析することにより、MS
2分析に適したプリカーサイオンを選択する。例えば、
図2(c)に示した差分マススペクトルにおいては、質量電荷比がM3である正値のピークは、高ガス圧→低ガス圧の条件変更によって信号強度が大きく減じたピークであり、質量電荷比がM1である負値のピークは、逆に、高ガス圧→低ガス圧の条件変更によって信号強度が大きく増加したピークである。この2本のピークの組の質量電荷比の差は既知である修飾物101の質量の2倍に一致することから、これらは同じ基本構造体を有するイオン由来のピークであると推定できる。また、質量電荷比がM1であるピークよりも下に修飾物101の質量に相当するだけ離れたピークは存在しないから、質量電荷比がM1であるピークは修飾物101が全て脱離したイオンであると推定できる。そこで、これら2本のピークのいずれかをプリカーサイオンとして選定する。いずれのピークを選定するのは、MS
2分析時のクーリングにパルスバルブ27の開放時間をT1、T2のいずれにするのかに応じて決めればよい。何故なら、MS
2分析時のプリカーサイオンの強度はできるだけ高い、つまりはイオン量が多いほうが好ましいからである。
【0033】
プリカーサイオン判定部54により選定されたプリカーサイオンの質量電荷比は分析制御部6に伝えられる。引き続き、分析制御部6は、選定されたプリカーサイオンの質量電荷比を設定したMS
2分析を同じサンプルSに対して実行するように各部を制御する。これにより、サンプルS中の目的化合物由来のイオンがイオントラップ2内に一旦捕捉された後、上記選定されたプリカーサイオンのみがイオントラップ2内に残り他のイオンが排出又は除去されるように各電極21、22、24へ電圧が印加される。その後、イオントラップ2内にCIDガスが供給されて、イオンが共鳴励振されることで、該イオンの解離が促進され、生成されたプロダクトイオンがイオントラップ2内に捕捉される。そして、プロダクトイオンがイオントラップ2から放出されて飛行時間型質量分析部3により質量分析されることで、データ収集部51ではMS
2スペクトルが作成される。同定・構造解析処理部55はMS
2スペクトル上で観測される各ピークの質量電荷比及びその強度を利用して、例えばデータベース検索を実行することにより目的化合物の構造を推定する。
【0034】
本実施例のMALDI−IT−TOFMSでは、プリカーサイオンを選定する際に目的化合物の構造の特徴をよく表すイオンをプリカーサイオンとして選定することができる。それにより、多くの有用な情報をデータベース検索に供することができるので、検索の精度が向上し、構造推定をより正確に行うことができる。また、単に修飾物の付加個数が相違するだけの複数のイオンをプリカーサイオンとして選定してしまうことを避けることができるので、無駄なMS
2分析を実行することがなくなり、分析時間を短縮するのに有効である。
【0035】
なお、上記実施例では、イオントラップ2内にクーリングガスを供給するパルスバルブ27の開放時間を2段階に変えて2つのマススペクトルを取得したが、より多数の異なるガス圧条件の下でそれぞれ同じサンプルSに対するマススペクトルを取得し、それら多数のマススペクトルの中の2つのマススペクトル間の差分マススペクトルを複数求め、この複数の差分マススペクトルに基づいてプリカーサイオンを選定するようにしてもよい。
【0036】
また、上記実施例では、クーリングガスをイオントラップ2に供給するパルスバルブ27の開放時間を変更することでイオントラップ2内のガス圧、つまりはガス密度を変えるようにしていたが、ガス流量を変えることが可能なバルブを用いた場合にはガス流量を変えればよい。
【0037】
[実測例]
上記実施例による処理を適用した実測例を説明する。使用した装置は、Shimadzu/KratosのAXIMA-QITであり、試料は0.5[μL]のカゼイン消化物(Caseine digests)1pmol、マトリクスは 0.5μL of DHBA 12.5mg/mL solution in 50/50 0.1% TFA/MeCN solventである。また、クーリングガス導入時のパルスバルブの開放時間は、0[μsec]、25[μsec]、50[μsec]、75[μsec]、95[μsec]の5種類である。なお、ここで用いた質量分析装置における通常のパルスバルブ開放時間は95[μsec]である。
【0038】
図3は、パルスバルブの開放時間を0[μsec]、50[μsec]、95[μsec]としたときの実測マススペクトルである。開放時間95[μsec]ではガス圧が高く修飾物の脱離が起こりにくいために、m/z3122.29のピークの信号強度が大きく、該ピークから98Da×4だけ下方向に離れた位置にはピークが観測されない。これに対し、開放時間0[μsec]ではガス圧が低く修飾物の脱離が起こり易いために、m/z3122.29のピークから98Da×4だけ下方向に離れた位置に信号強度が大きなピークが現れ、逆に、m/z3122.29のピークの信号強度はきわめて低い。この2本のピークの質量電荷比差は既知のリン酸基の質量の4倍に一致し、さらに上記2本のピークの間で98Daだけ離れた位置には離散的なピークが観測されることから、m/z3122.29のピークはリン酸化ペプチドであり、98Da×4だけ下方向に離れた位置のピークはリン酸基が全て脱離したペプチドであると推定することができる。
【0039】
さらなる確認のために、ガス圧条件の異なるマススペクトルを次のような手順で比較した。
(1)パルスバルブの開放時間を95[μs]に設定して取得したマススペクトルにおいて、ピーク強度(%Area)が0.2%以上のピークを抽出する。このピークをUとする。
(2)パルスバルブの開放時間を0[μsec]、25[μsec]、50[μsec]、75[μsec]に変更して取得したマススペクトルそれぞれにおいて、(1)で抽出されたピークと質量電荷比が一致するピークの強度を抽出する。このときのピークをNとする。
(3)各ピークについて、次の(1)式により強度比Pを計算する。
P={%Total of (N)−%Total of (U)}/{%Total of (U)} …(1)
【0040】
計算結果をマススペクトルの態様で示したのが
図4である。図中に▲印で示したリン酸基が脱離したペプチドイオンの信号強度はパルスバルブの開放時間を短くすると(ガス圧を低くすると)増加している。一方、●印で示したリン酸化ペプチドイオンの信号強度はパルスバルブの開放時間を短くすると(ガス圧を低くすると)減少している。●印で示したピーク以外にも通常のペプチドで信号強度が減少しているものもある。しかしながら、そうしたピークには、質量電荷比が98Daに一致するような組となるピークは存在しないことが分かる。したがって、パルスバルブの開放時間を短くしたときに、信号強度が増加するピークと減少するピークとで質量電荷比差が98Daに一致するピークの組が見つかれば、信号強度が減少しているピークはリン酸化ペプチド由来のピークであると推測できる。このように、信号強度が増加しているピークと信号強度が減少しているピークとを組として探索することで、既知の修飾物や官能基などが結合している又は脱離したピークを精度よく抽出することができ、同定や構造解析に有益なプリカーサイオンを選定することが可能となる。
【0041】
なお、上記実施例は本発明の一例にすぎないから、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加等を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。