【課題を解決するための手段】
【0020】
本発明者らは、上記の課題を解決するために、飛来塩分量の多い環境の腐食進行メカニズムについて検討した結果、このような環境下では、FeCl
3溶液の乾湿繰り返しが腐食の本質的な条件となり、Fe
3+の加水分解によりpHが低下した状態で、かつFe
3+が酸化剤として作用することによって腐食が加速されることを見出した。
【0021】
このときの腐食反応は、以下に示すとおりである。
【0022】
カソード反応としては、主として、次の反応(1)が起こる。
Fe
3++e
−→Fe
2+ (Fe
3+の還元反応) ・・・・・・(1)
【0023】
そして、この反応以外に、次のカソード反応(2)および(3)も併発する。
2H
2O+O
2+2e
−→4OH
−・・・・・・(2)
2H
++2e
−→H
2・・・・・・(3)
【0024】
一方、上記のFe
3+の還元反応に対して、次のアノード反応(4)が起こる。
アノード反応:Fe→Fe
2++2e
− (Feの溶解反応) ・・・・・・(4)
【0025】
従って、腐食の総括反応は、次の(5)式のとおりである。
2Fe
3++Fe→3Fe
2+・・・・・・(5)
【0026】
上記(5)式の反応により生成したFe
2+は、空気酸化によってFe
3+に酸化され、生成したFe
3+は再び酸化剤として作用し、腐食を加速する。この際、Fe
2+の空気酸化の反応速度は低pH環境では一般に遅いが、濃厚塩化物溶液中では加速され、Fe
3+が生成され易くなる。このようなサイクリックな反応のため、飛来塩分量が非常に多い環境では、Fe
3+が常に供給され続け、鋼材の腐食が加速され、耐食性が著しく劣化することになることが判明した。
【0027】
また、塩化物環境では、塩化物イオンを取り込むことで結晶構造が安定になるβ−FeOOHが錆層中に生成し易い。しかし、このβ−FeOOHは、錆の保護性を著しく低下させる上に、電気化学的に活性で酸化剤として作用するため腐食反応を促進する。
【0028】
このように、塩化物環境における鋼材の腐食では、鉄の溶出反応によってまずFe
2+が生成し、これが大気中の酸素によりFe
3+に酸化された後、主に、保護性に乏しいβ−FeOOHとして沈殿して、鋼材の腐食が促進される。同時に、Fe
3−δO
4も多量に生成する。このFe
3−δO
4は電子伝導性が高く、腐食反応におけるカソード反応(酸素還元反応)のサイトして働くため、腐食を加速する。
【0029】
したがって、塩化物イオン濃度の高い濃厚塩化物環境では保護性を有するα−FeOOHからなる錆層の形成は期待できない。しかし、鋼材の合金成分を溶出させることで、腐食促進錆であるβ−FeOOHの結晶生成と結晶成長を抑制し、保護性を有するα−FeOOHを優先的に生成させることができれば、α−FeOOHを主体とする保護性錆の早期形成が可能となり、高濃度の塩化物イオン環境下での鋼材の耐食性を著しく高めることができるとの着想を得た。すなわち、濃厚塩化物環境であっても、α−FeOOHを主体とする保護性錆層を適切に形成することができれば、鋼材に高い耐食性を付与することが期待できる。
【0030】
そこで、本発明者らは、Snの塩化物水溶液を用いてFeOOHの無機合成を基にした基礎実験を行い、濃厚塩化物環境でも保護性錆のα−FeOOHを形成することができることを知得した。
【0031】
表1に当該実験条件と結果を示す。0.05〜0.1mol/Lの塩化鉄(III)に対し、Snの塩化物または硫酸塩を添加して、Sn/Feのモル比がそれぞれ、1/1000、1/100および1/10の溶液を作製した。そして、各溶液のpHを調整した後に、80℃で約2日間加熱をして、錆を加速生成させた。生成した錆はX線回折法にて定性分析を行った。比較のために、0.05〜0.1mol/Lの塩化鉄(III)に対し、それぞれ、Ce、Cu、Cr、Ni、Mo、Sbの各塩化物を添加して、Feに対するモル比が1/1000の溶液を作製した。そして、各溶液のpHを調整した後に、80℃で約2日間加熱をして、錆を加速生成させた。生成した錆はX線回折法にて定性分析を行った。表1に示すように、Snの塩化物および硫酸塩については、保護性錆のα−FeOOHが生成した。特に、2価のSnの場合には、広い濃度範囲で、α−FeOOHのみが生成し、より好ましい保護性錆層を形成できることが明らかになった。
【0032】
【表1】
【0033】
さらに、発明者等は、上述の塩化物環境における腐食メカニズムを基に、鋼材の腐食に対するSnの抑制効果を詳細に調査した。
【0034】
その結果、Snは、Sn
2+として溶解し、次の(6)式の反応により、Fe
3+の濃度を低下させることが分かった。
2Fe
3++Sn
2+→2Fe
2++Sn
4+・・・・・・(6)
【0035】
このように、Fe
3+の濃度を低下させることができるので、 (5)式で示される腐食の総括反応を抑制することができる。さらに、Snには、アノード溶解を抑制し、Sn自体が鋼材の腐食の抑制に有効であることを見出した。
【0036】
濃厚塩化物環境、すなわち、pHが著しく低下した環境における鋼材の腐食に対するSnの抑制効果は、次の(a)〜(g)に示すメカニズムによるものであると考えられる。
【0037】
(a) 鋼材表面のSnは、濃厚塩化物環境においてSn
2+イオンとして溶解し、前記(4)式のアノード反応(Fe溶解反応)を抑制するので、鉄の溶出を防止することができる。これは、
図1の左図に示すように、Sn
2+イオンが鋼材表面の吸着活性点に優先的に結合し、塩化物または水酸化物形態の吸着中間体またはFeOH
ad(adは吸着)の生成を妨害するからである。
【0038】
(b) また、SnはSn
2+イオンとして溶解した後、低pH溶液では鋼材表面の電極電位により還元されて鋼材表面にSnとして析出する。
【0039】
(c) 鋼材表面に析出したSnは、
図1の右図に示すように、酸性環境でのFeの溶解反応(アノード反応)の対反応である、
2H
++2e
−→H
2
で示される、前記(3)式の水素イオンのカソード反応(還元反応)を著しく抑制する。これは、高水素過電圧によるものと考えられる。
【0040】
(d) Snの析出は鋼材の溶出部に集中するため、溶解したSn
2+は腐食している部分のみに効率的にSnとして析出する。
【0041】
(e) 一度析出したSnは、腐食が進行するとSn
2+として再溶出して,腐食抑制効果を発揮し、腐食している部分に再びSnとして析出する。
【0042】
(f) 溶存酸素濃度が高い環境では、Sn
2+→Sn
4+への空気酸化速度が速いことが知られている。空気酸化物であるSn
4+はFeのアノード反応により供給された電子によって再びSn
2+に還元され、さらにSnとして析出する。このFeのアノード反応を電子供給源としたSnのサイクリックな反応が腐食を抑制する。
【0043】
(g) したがって、鋼材表面にSnまたはSn
2+もしくはSn
4+イオンが存在すると、枯渇することなく繰り返し腐食を抑制できる、すなわち、半永久的な腐食抑制効果を得ることができる。
【0044】
このように、鋼材表面にSnまたはSn
2+もしくはSn
4+イオンが存在する場合、α−FeOOHによる保護性錆層の防食効果だけでなく、Sn自体の腐食抑制作用も期待できる。したがって、濃厚塩化物環境でもα−FeOOHの形成を促進でき、保護性錆による耐食性により鋼材の腐食を抑制可能である。
【0045】
鋼材表面に生成する錆層の保護性とは、錆の電気化学的性質(錆のカソード反応耐性)を指標として定義することができる。保護性を有するα−FeOOHは還元され難い性質を有し、腐食を促進するβ−FeOOHやγ−FeOOHは還元されやすい性質を有する。ゆえに、本発明に係る錆の保護性は、保護性錆層中の下記の(A)式で表されるCPの値で評価することが可能であり、CP値が1.0以上であれば保護性錆が生成していると判断できる。
CP=α−FeOOH/(γ−FeOOH+β−FeOOH)・・(A)
ここで、α−FeOOH、β−FeOOHおよびγ−FeOOHは、錆層中のそれぞれの結晶質錆の含有量であり、X線積分値から算出される。
【0046】
さらに、発明者らは、Sn以外の合金元素の耐食性への影響について調査し、検討した。その結果、次の(h)〜(p)に示す知見が得られた。
【0047】
(h) Wは腐食環境で酸素酸イオンもしくはポリ酸イオンの形でタングステン酸イオンとして溶解し、鉄のアノード反応を抑制するとともに、錆層に吸着して、錆層を緻密化し、腐食促進因子のCl
−の鋼材面への透過を抑制する作用がある。特に、錆層中にSnとWの両方を含有させると、Sn単独添加の場合に比べて鋼材表面の薄膜水中のFeイオン濃度が低くなり、その結果薄膜水のpHの低下が抑制される。ただし、飛来塩分の多い環境下ではpHが1.0以下の強酸性域まで低下する。強酸性域ではSnが効果的に鉄のアノード反応を抑制するので、WとSnを複合して含有させた場合には、WまたはSnを単独で含有させた場合よりも腐食量を抑えることができる。Wはタングステン酸イオンとして溶解し、錆の緻密化に寄与し、Snによるα―FeOOHの形成を促進する。この結果、高濃度の塩化物イオン環境下での鋼材の耐食性を著しく高めることができる。
【0048】
(i) Cuは、従来から飛来塩分の多い環境において耐食性改善効果を発揮する基本元素であり、比較的濡れ時間が長い環境において耐食性改善効果は見られる。しかしながら、塩化物濃度がさらに高くなり、局部的にpHが下がるような環境、例えば塩分が付着し、湿度が変化することにより乾湿が繰り返され、β−FeOOHが生成するような比較的ドライな環境では、Cuはむしろ腐食を促進する。
【0049】
(j) Niは、Snと複合添加した場合には、飛来塩分の多い環境における耐食性改善効果が無く、多量に添加すると、逆に耐候性を劣化させる。このNiの挙動は、Ni添加量が増すほど耐候性が向上するという従来の知見とは相反するものである。
【0050】
(k) Crは、単独添加した場合には、飛来塩分量の多い環境において耐候性を劣化させるが、Snと複合添加した場合には、飛来塩分量の多い環境での耐候性を向上させる効果を発揮する。
【0051】
(l) Alを含有させると海浜耐候性が向上する。
【0052】
(m) Nはアンモニアとして溶解し、腐食界面のpHを上昇させる作用を有する。飛来塩分量の多い環境では、上記Fe
3+の加水分解によりpHが低下するが、Nを含有させることにより、腐食界面のpHは中和により低下が抑制され、耐候性および塗膜剥離性が向上する。
【0053】
(n) さらに、Ti、Nb、V、Ca、CoおよびMoから選んだ1種または2種以上を含有させても、飛来塩分の多い環境下での耐候性の改善に効果がある。
【0054】
(o) Ceは、鉄のアノード反応のインヒビターとして作用するとともに、保護性の高い錆層の形成に寄与する。
【0055】
(p) REMは、Ceを除いて、鋼材の溶接性を改善すると共に鋼中硫化物を形成し、腐食の起点となる非金属介在物MnSの生成量を減少させる作用を有する。
【0056】
(q)鋼材の表面の少なくとも一部を単層または複層の有機または無機の樹脂で被覆することによって、防食処理をすると、耐食性が一段と向上するとともに、耐久性が向上する。
【0057】
本発明は、上記の知見に基づいて完成したものであって、その要旨は下記の(1)〜
(4)に示す耐食性に優れた鋼材である。
【0058】
(1) 質量%で、C:0.001%以上0.30%未満、Si:0.01〜2.5%、Mn:0.5〜2.5%、P:0.03%以下、S:0.005%以下、W:
0.05〜1.0%
、Sn:0.01〜0.50%
およびCe:0.001〜0.5%ならびに残部がFeおよび不純物からなり、不純物中のCu:0.5%以下およびNi:0.5%以下である化学組成を有し、Cu含有量のSn含有量に対する比Cu/Snが1.0以下である鋼材であって、鋼材表面がSnおよびWの両方を金属換算で合わせて0.5〜200mg/m
2含有する保護性錆層で覆われており、かつ、保護性錆層中の下記の(A)式で表されるCPの値が1.0以上であることを特徴とする耐食性に優れた鋼材。
CP=α−FeOOH/(γ−FeOOH+β−FeOOH)・・(A)
ここで、α−FeOOH、β−FeOOHおよびγ−FeOOHは、錆層中のそれぞれの結晶質錆の含有量であり、X線積分値から算出される。
【0059】
(2) さらに、質量%で、Cr:5.0%以下、Al:0.1%以下、N:0.1%以下、Ti:3.0%以下、Nb:1.0%以下、V:1.0%以下、Ca:0.1%以下、Co:1.0%以下およびMo:1.0%以下のうちの1種もしくは2種以上を含有することを特徴とする、上記(1)の耐食性に優れた鋼材。
【0061】
(3) さらに、質量%でCe以外のREMを0.02%以下含有することを特徴とする、
上記(1)または(2)の耐食性に優れた鋼材。
【0062】
(4) 鋼材表面の少なくとも一部に
単層または複層の有機または無機の樹脂で被覆することによって防食処理が施されたことを特徴とする、
上記(1)〜(3)のいずれかの耐食性に優れた鋼材。