【実施例】
【0045】
《概要》
ドープする金属元素(ドープ元素)またはその含有量が異なるDLC膜で被覆された種々の供試材(摺動部材)と、Mo三核体化合物(油溶性モリブデン化合物)を含有した潤滑油(「潤滑油A」という。)またはそれを含有しない潤滑油(「潤滑油B」という。)と組合わせてブロックオンリング摩擦試験を行った。この試験結果に基づいて、本発明をより具体的に説明する。
【0046】
《試料の製造》
(1)基材
焼入れ処理した鋼材(JIS SUS440C)からなるブロック状(6.3mm×15.7mm×10.1mm)の基材を複数用意した。各基材の表面(DLC膜の被覆面)は鏡面仕上げ(表面粗さRa:0.08μm)した。
【0047】
DLC膜を被膜しない比較試料(表1の試料C1)として、浸炭処理しただけの鋼材(JIS SCM420)も用意した。その浸炭面(硬さHV600)も同様な表面粗さに鏡面仕上げした。
【0048】
(2)DLC膜の成膜
上記の各基材表面に、表1に示すようにドープ元素またはH含有量の異なるDLC膜を成膜した供試材(試料10〜15)と、表2に示すようにCr含有量の異なるDLC膜を成膜した供試材(試料20〜24)を用意した。
【0049】
(i)ドープ元素を含有したDLC膜の成膜は、アンバランスドマグネトロンスパッタリング装置(株式会社神戸製鋼所製UBMS504)を用いて行った。具体的には次の通りである。先ず、DLC膜の形成前に、その密着性を確保するため、鏡面仕上げした基材表面にCr系中間層を形成した。この中間層は、上記のスパッタリング装置内を1×10
−5Paまで排気した後、基材表面に対向配置した純クロムターゲットをArガスでスパッタし、これに続けてCH
4ガスを装置内へ導入して形成した。この中間層の厚さは約0.5μm以上あった。なお、各試料に係る基材表面とターゲット表面との距離は100〜800mmの範囲内で調整した。なお、本明細書でいう膜厚は、CMS社製Calotestにより得られた摩耗痕から特定した(以下同様)。
【0050】
次に、その基材表面に対向配置した各種のドープターゲット(ドープ元素(Cr、Al、WまたはV)の純金属)およびグラファイトターゲットをArガスでスパッタリングした。これに続けてArガスおよびCH
4ガス(炭化水素系ガス)を装置内へ導入した。この際、スパッタ出力または各ガスの導入量を適宜変更して、所望組成のDLC膜を成膜した。こうして、上述した中間層上に、各種のDLC膜(膜厚:1〜1.5μm)が成膜された供試材を得た。なお、CH
4 /Arのガス流量比(体積比率)を5%程度としたときに、硬質なCr−DLC膜が形成された。
【0051】
(ii)ドープ元素を含有せず、H含有量の多いDLC膜(試料11または試料20)は、ドープターゲットをCに変更し、CH
4ガスを導入して成膜した。またHフリーDLC膜(試料10)は、特開2004−115826号公報等に記載されているアークイオンプレーティング法(カソードアーク法)により形成した。
【0052】
《試料の測定》
(1)膜組成
各DLC膜の膜組成は次のように測定した。膜中のドープ元素は、電子プローブ微小部分析法(EPMA)により定量した。Hは、弾性反跳粒子検出法(ERDA)により定量した。ERDAは、2MeVのヘリウムイオンビームを膜表面に照射して、その膜からはじき出される水素を半導体検出器により検出して水素濃度を測定する方法である。こうして得られた各DLC膜の組成を表1および表2に併せて示した。
【0053】
(2)膜構造
透過型電子顕微鏡(TEM)を用いて、各DLC膜の厚さ方向の断面中央部へ電子線を照射して電子線回折像を得た。各電子線回折像から、ハローパターンが観察されており、各DLC膜はアモルファス構造であることが確認された。
【0054】
(3)表面硬さおよび表面粗さ
各DLC膜の表面硬さは、ナノインデンター試験機(株式会社東陽テクニカ製MTS)による測定値から求めた。また、本明細書でいう各供試材の表面粗さは、特に断らない限り、白色干渉法非接触表面形状測定機(Zygo社製NewView5022)により測定した。こうして得られた各DLC膜の膜特性を表1および表2に併せて示した。
【0055】
《潤滑油》
摩擦試験に用いる潤滑油として表3に示す2種類のエンジンオイルを用意した。潤滑油Aは、粘度グレード0W−20でILSAC GF−5規格に相当するエンジンオイル(トヨタ自動車株式会社製モーターオイルSN 0W−20)をベースに、Infineum社の公開資料「Molybdenum Additive Technology for Engine Oil Applications」にて“Trinuclear”と記されたMo三核体化合物(適宜、単に「Mo三核体」という。)を、オイル全体に対するMo含有量が80ppmMo相当となるように追加配合したものである。一方、潤滑油Bは、そのようなオイル添加剤を追加配合していないベースのエンジンオイルである。なお、いずれの潤滑油も、モリブデンジチオカーバメート(MoDTC)を含んでいない。
【0056】
《ブロックオンリング摩擦試験》
(1)摩擦係数
各供試材と各潤滑油とを組合わせてブロックオンリング摩擦試験(単に「摩擦試験」という。)を行い、各摺動面の摩擦係数(μ)を測定した。Mo三核体を含有した潤滑油Aを用いたときの各供試材の摩擦係数を表1および表2に併せて示した。
【0057】
摩擦試験は、各供試材を摺動面幅6.3mmのブロック試験片とし、浸炭鋼材(AISI4620)から成るFALEX社製S−10標準試験片(硬さHV800、表面粗さ1.7〜2.0μmRzjis)をリング試験片(外径φ35mm、幅8.8mmの)として行った。この際、試験荷重:133N(ヘルツ面圧:210MPa)、すべり速度:0.3m/s、油温:80℃(一定)として、30分間の摩擦試験を行い、試験終了直前の1分間におけるμ平均値を本試験における摩擦係数とした。
【0058】
(2)摺動面上の生成物
摩擦試験後の各供試材の摺動面を、飛行時間型2次イオン質量分析法(TOF−SIMS)により測定した。Ion−Tof社製TOF−SIMS5装置を用いて、30keVのBi+ビームを1次イオンとして、摺動面の100μm×100μmの測定領域に対して高分解能スペクトル測定を行った。この測定により得られた代表的な二次イオン質量スペクトルを
図4に示した。同図中には摩擦試験により得られたμ値も付記した。なお、
図4に示したいずれのスペクトルも、潤滑油Aを用いた摩擦試験後の摺動面を測定したものである。
【0059】
(3)摺動面の摩耗
潤滑油Aを用いた摩擦試験後の各供試材の摺動面を、前述した非接触表面形状測定機により測定した。こうして得られた各摺動面の立体形状(摩耗深さ)を
図7にまとめて示した。
【0060】
《評価》
(1)摩擦特性
先ず、ドープ元素の異なる各DLC膜と潤滑油A(Mo三核体含有)とを組合わせたときの摩擦係数を
図1に示した。Cr−DLC膜の摩擦係数が、他のDLC膜の摩擦係数やDLC膜を有さない浸炭材の摩擦係数よりも、著しく低下していることがわかる。
【0061】
また、Cr−DLC膜または浸炭材と、潤滑油Aまたは潤滑油B(Mo三核体非含有)とを組合わせたときの摩擦係数を
図2に示した。浸炭材の場合、いずれの潤滑油を用いても摩擦係数は殆ど変化しなかった。これに対してCr−DLC膜(Cr:13at%)の場合、潤滑油Aを用いたときの摩擦係数が潤滑油Bを用いたときの摩擦係数よりも、大幅に低下した。このことからCr−DLC膜とMo三核体を含有した潤滑油との組合わせにより、特異な超低摩擦特性が発現されることが明らかとなった。
【0062】
次に、こうして得られた結果を受けて、Cr−DLC膜中のCr含有量と潤滑油Aを用いたときの摩擦係数との関係を
図3に示した。
図3から明らかなように、CrがDLC膜中に僅か1at%以上(さらには3at%以上)含まれるだけでも、摩擦係数が十分に低減されることがわかった。そして、Cr含有量が22at%以上になっても、超低摩擦特性が発揮されることもわかった。これらのことから、Mo三核体を含有した潤滑油とCr−DLC膜とを組合わせたときの超低摩擦特性は、DLC膜中のCr含有量にあまり影響を受けず、安定的に発現し得ることがわかった。
【0063】
(2)摺動面上の生成物
図4に示すTOF−SIMSの分析結果から明らかなように、Cr−DLC膜(Cr:13at%)とHフリ−DLC膜の場合、潤滑油Aを用いた摩擦試験後の摺動表面には、−Mo
3S
7、−Mo
3S
8 等のMoxSyのフラグメントが検出されており、Mo三核体の吸着が確認された。一方、浸炭材の場合は、そのようなMo三核体の吸着は認められなかった。
【0064】
このTOF−SIMSの分析結果を受けてさらに調査したところ、
40Ca
+に係る二次イオン質量スペクトル量がCr−DLC膜とHフリ−DLC膜で異なることがわかった。具体的にいうと、Cr−DLC膜がHフリ−DLC膜よりも
40Ca
+のスペクトル強度が相当小さいことが明らかとなった。これは、Cr−DLC膜の方がHフリ−DLC膜よりも、摩擦試験後の摺動面に付着または生成するCa化合物が少ないことを意味している。なお、Caはエンジンオイルに酸の中和作用やデポジット等の清浄作用を付与するためにしばしば配合される過塩基性Ca-スルホネートに由来する成分と考えられる。
【0065】
これらの結果から、潤滑油Aを用いたときにCr−DLC膜が他のDLC膜と異なって超低摩擦特性を発現した理由は、摺動面にMo三核体が吸着すると共にCa化合物の吸着・生成が抑制されたためと考えられる。このようなMo三核体とCa化合物が摩擦係数に及ぼす影響を定量化するために、Mo
3S
7−および
40Ca
+のカウント数比(Mo
3S
7−/
40Ca
+)と摩擦係数の関係を
図5に示した。
図5から明らかなように、カウント数比が0.006以上、0.01以上さらには0.015以上となるときに摩擦係数が大幅に低下するといえる。
【0066】
以上をまとめると、Mo三核体を含有した潤滑油の存在下で、摺動面がCr−DLC膜で被覆された摺動部材を用いると、その摺動面に硫化モリブデン化合物(Mo
3S
7、Mo
3S
8等のMo三核体)が吸着する。この硫化モリブデン化合物は、MoS
2と類似した層状構造を有しており、その低せん断特性が上述した摩擦係数の低減に寄与したと考えられる。
【0067】
さらに、潤滑油中にCa系添加剤(過塩基性Ca-スルホネート等)が配合されている場合、その硫化モリブデン化合物は、摩擦係数の増大をもたらすCa化合物が摺動面に吸着・生成することを抑制する。この点も、上述した摩擦係数の低減に寄与したと考えられる。
【0068】
なお、本実施例に係るCr−DLC膜の表面粗さはいずれもRa0.01〜0.02μmであり、非常に平滑な状態であった。これにより、上述した摩擦係数の低減効果が摺動開始直後から安定的に発現したと考えられる。
【0069】
(3)耐摩耗性
ドープ元素の異なる各DLC膜の硬さを
図6に対比して示した。
図6から明らかなように、Cr−DLC膜は、他のドープ元素を含むDLC膜よりも十分に硬く、H−DLC膜と同程度な硬さを有している。なお、各DLC膜中のH含有量は同程度であるため、各DLC膜の硬さはドープ元素の種類に依るものと考えられる。
【0070】
また摩擦試験後の各摺動面を示す
図7から、Cr−DLC膜はCr含有量に拘わらず、殆ど摩耗しておらず、優れた耐摩耗性を発揮することもわかった。
【0071】
このようにCr−DLC膜が高硬度で耐摩耗性に優れる理由は必ずしも明確ではないが、硬質で微細な強化粒子であるクロム炭化物(CrC)がマトリックスであるDLC中に均一的に分散しており、そのCrCがマトリックス(DLC)との整合的であることが一因と考えられる。なお、DLC膜中におけるCrCの分散状態は、TEM等により確認することができる。
【0072】
【表1】
【0073】
【表2】
【0074】
【表3】