【実施例】
【0036】
以下、実施例によって本発明をさらに具体的に説明するが、これらの実施例は本発明を限定するものではない。
【0037】
(実施例1)ジゴサッカロミケス・ルキシーにおける不快臭生成に関与する遺伝子の同定
(1−1)ジゴサッカロミケス・ルキシーにおけるBAT1遺伝子の探索
サッカロミケス・セレビシエにおいてBAT1及びBAT2遺伝子が不快臭成分の生合成経路に関わることが知られていたことから、ジゴサッカロミケス・ルキシーにおいても同様の遺伝子が存在するかを確認するため、サッカロミケス・セレビシエのBAT1遺伝子またはBAT2遺伝子の推定翻訳産物をクエリとし、ジゴサッカロミケス・ルキシーのゲノムデータベースに対する相同性検索を行った。その結果、ゲノムデータベース上ではジゴサッカロミケス・ルキシーは1つのBAT1遺伝子ZYRO0G00396gを持つことが明らかとなった。
【0038】
そこで、ジゴサッカロミケス・ルキシーのBAT1遺伝子を破壊するため、表1に示すプライマーを用い、ジェネティシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことで、BAT1遺伝子破壊コンストラクトを作成した。
【0039】
【表1】
【0040】
このコンストラクトを用いて、ゲノムシーケンスに用いられたATCC2623株のウラシル要求性株および食塩を高含有する醤油諸味より分離されたジゴサッカロミケス・ルキシーZ3株(以下これらの株を「親株」と称することがある)を形質転換した。
【0041】
BAT1、BAT2による反応は可逆反応であり、分岐鎖アミノ酸を分解するだけでなく、生合成経路の最終段階としても働いている。したがって、サッカロミケス・セレビシエのBAT1、BAT2の二重遺伝子破壊株は分岐鎖アミノ酸を合成することができず、分岐鎖アミノ酸要求性となる(Kispal G, Journal of BiologicalChemistry, 271, 24458−24464 (1996))。
【0042】
そこで、得られたジゴサッカロミケス・ルキシー形質転換株についても栄養要求性を確認するため、最少培地(イーストナイトロジェンベース・アミノ酸不含0.67%、グルコース2%、寒天2%)に要求性を見たい分岐鎖アミノ酸(イソロイシン、バリン、ロイシン)以外のアミノ酸を各0.05%添加した培地を調製し、ここに細胞懸濁液を滴下して30度で5日間培養した。
【0043】
その結果、
図1に示すとおりATCC2623株のウラシル要求性株を親株とした形質転換株は、イソロイシン及びバリン要求性を示すことが確認された。しかし、食塩を高含有する醤油諸味より分離されたジゴサッカロミケス・ルキシーZ3株において、このBAT1遺伝子を破壊しても、その栄養要求性になんら変化は認められず、不快臭成分の合成は抑制されていないと考えられた。醤油から分離される大部分の株は由来の異なる複数のゲノムが混在する異質倍数体であることが知られており(Tanaka Y,Food Microbiology,31,100−106 2012)、したがって醤油諸味由来であるジゴサッカロミケス・ルキシーZ3株においても配列が異なるBAT1遺伝子が他にも存在することが予想されたため、この遺伝子のクローニングを試みた。
【0044】
(1−2)醤油由来ジゴサッカロミケス・ルキシーにおけるBAT1様遺伝子の探索
醤油諸味より分離されたジゴサッカロミケス・ルキシーZ3のもう1つのBAT1様遺伝子を同定するため、ショットガンクローニングを行った。まず、ジゴサッカロミケス・ルキシーZ3株のゲノミックDNAを制限酵素Sau3AIで処理した。制限酵素処理産物をアガロースゲル電気泳動により分離し、5〜8キロベースペアの断片を回収した。回収したDNA断片を、事前にBamH1処理しておいたURA3遺伝子を有する多コピー型のプラスミドとライゲーションし、Z3株のゲノミックDNAライブラリーを構築した。構築したゲノミックライブラリーで大腸菌DH5α株を形質転換した後、大腸菌からプラスミドを回収し、ライブラリーの品質を確認した結果、平均インサート長6.8キロベース、インサート保持率80%以上の約20,000の独立したクローンから構成されるライブラリーが構築できた。
【0045】
当該ライブラリーからプラスミドDNAを大量調整し、ATCC2623株のウラシル要求性株のBAT1破壊株を形質転換し、イソロイシン・バリン要求性が抑圧された(要求性を示さなくなった)株をスクリーニングした。その結果、イソロイシン・バリン要求性が抑圧された株が複数得られたので、これらの株が保持するプラスミドDNAを回収し、一旦大腸菌で増幅した後、シーケンス解析に供した。シーケンスの結果、ジゴサッカロミケス・ルキシーゲノムデータベースのBAT1遺伝子と完全に一致する配列(配列表の配列番号3)と、それに類似した配列(配列表の配列番号1)とが得られた。後者が目的の遺伝子であると判断し、これを破壊するために、表2のプライマーを用いゼオシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことで2つ目のBAT1様遺伝子を破壊するための破壊コンストラクトを作成した。このコンストラクトで、前述のZ3のBAT1遺伝子機能欠損株(以下「bat1Δ」と表記)株を形質転換し、配列番号1および3に示した双方の遺伝子が欠損しているZ3bat1Δ/bat1Δ株を得た。Z3bat1Δ/bat1Δ株についても実施例1−1と同様の方法で分岐鎖アミノ酸要求性を確認したところ、
図2に示すとおり、この株はATCC2623株のウラシル要求性株のBAT1破壊株と同様にイソロイシン・バリン要求性を示すことが確認された。
【0046】
【表2】
【0047】
(1−3)ジゴサッカロミケス・ルキシーにおけるARO8、ARO9様遺伝子の探索
サッカロミケス・セレビシエにおいて分岐鎖アミノ酸アミノトランスフェラーゼをコードするBAT1及びBAT2遺伝子を破壊した場合、イソロイシン・バリン・ロイシン要求性になることが知られている。しかし、ジゴサッカロミケス・ルキシーにおいては、分岐鎖アミノ酸アミノトランスフェラーゼをコードする遺伝子を破壊してもロイシン要求性にはならなかった。
【0048】
このことは、ジゴサッカロミケス・ルキシーがBAT1などの分岐鎖アミノ酸アミノトランスフェラーゼ以外にも不快臭成分の生合成を担う酵素遺伝子を有していることを示唆している。そこで、本発明者らは芳香族アミノ酸アミノトランスフェラーゼをコードするARO8とARO9について解析を行った。
【0049】
サッカロミケス・セレビシエのARO8,ARO9遺伝子の推定翻訳産物をクエリとし、ジゴサッカロミケス・ルキシーのゲノムデータベースに対する相同性検索を行った。その結果、ジゴサッカロミケス・ルキシーはARO8遺伝子ZYRO0C06028g及びARO9遺伝子ZYRO0G05346gを各1つ有することが明らかになった。
【0050】
そこで、表3のプライマーを用い、ジェネティシン耐性遺伝子を有するプラスミドまたはゼオシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことでARO8遺伝子破壊コンストラクトを、表4のプライマーを用いゼオシン耐性遺伝子を有するプラスミドまたはノーセオスリシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことでARO9遺伝子破壊コンストラクトをそれぞれ作成した。
【0051】
これらの破壊コンストラクトでATCC2623のウラシル要求性株を親株として用い形質転換し、ARO8遺伝子機能欠損株(以下「aro8Δ」と表記)、ARO9遺伝子機能欠損株(以下「aro9Δ株」と表記)、およびARO8遺伝子、ARO9遺伝子二重機能欠損株(以下「aro8Δaro9Δ株」と表記)を作製した。その結果、
図3に示すとおり、ホモロジー検索でジゴサッカロミケス・ルキシーから見出されたARO8遺伝子ZYRO0C06028g及びARO9遺伝子ZYRO0G05346gの機能を同時に欠損させたaro8Δaro9Δ株は、サッカロミケス・セレビシエのそれと同様にチロシン、フェニルアラニン要求性を示した。
【0052】
【表3】
【0053】
【表4】
【0054】
次に、ARO8やARO9がジゴサッカロミケス・ルキシーのロイシン代謝に関与しているのかどうかを確認するため、ATCC2623のウラシル要求性株のbat1Δ株を上記のARO8遺伝子破壊コンストラクト、ARO9遺伝子破壊コンストラクトで形質転換し、BAT1遺伝子、ARO8遺伝子二重機能欠損株(以下「bat1Δaro8Δ株」と表記)、BAT1遺伝子、ARO9遺伝子二重機能欠損株(以下「bat1Δaro9Δ株」と表記)、およびBAT1遺伝子、ARO8遺伝子、ARO9遺伝子三重機能欠損株(以下「bat1Δaro8Δaro9Δ株」と表記)を作製した。これらの株の栄養要求性を確認した結果、bat1Δaro8Δ株がイソロイシン、バリン、ロイシン要求性であることが確認された(
図4)。この結果から、BAT1遺伝子に加えてARO8遺伝子もロイシン代謝に関与することが初めて示され、分岐鎖アミノ酸代謝が抑制されたこれらの機能欠損株において、不快臭が低減する可能性が示唆された。
【0055】
(1−4)醤油由来ジゴサッカロミケス・ルキシーにおけるARO8、ARO9様遺伝子の探索
醤油由来のZ3株において、BAT1遺伝子とARO8遺伝子の機能を同時に欠損させた場合に不快臭が低減するのかを実証するために、BAT1遺伝子とARO8遺伝子の二重破壊株を作製した。
【0056】
ただし、前述のとおり、Z3株は異質倍数体であり配列の異なる2つのARO8遺伝子を有することが考えられたため、まずはこの遺伝子のクローニングを試みた。実施例1−2にて作成したゲノムライブラリーでATCC2623ura3Δbat1Δaro8Δ株を形質転換し、ロイシン要求性を抑圧するコロニーを選抜した。その結果、ロイシン要求性が抑圧された株が複数得られたので、これらの株が保持するプラスミドDNAを回収し、一旦大腸菌で増幅した後、シーケンス解析に供した。その結果、ゲノムデータベースのARO8遺伝子と完全に一致する配列(配列表の配列番号4)及びそれに類似した配列(配列表の配列番号2)が得られた。
【0057】
そこで、これらの遺伝子を破壊するために、表3のプライマーを用いジェネティシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことでARO8遺伝子破壊コンストラクトを、表5のプライマーを用いゼオシン耐性遺伝子を有するプラスミドを鋳型にPCRを行うことでもう一方のARO8様遺伝子破壊コンストラクトを作成した。
【0058】
これらのコンストラクトで前述のZ3bat1Δ/bat1Δ株を形質転換するためには、2つのBAT1遺伝子を破壊するために利用した2つのマーカーを事前に除去する必要がある。そこで、Z3bat1Δ/bat1Δ株のマーカーリサイクルを目的として一旦Creリコンビナーゼを有するプラスミドで形質転換し、その作用によってゲノム内に挿入されたマーカー遺伝子が脱落した株を取得した。この株をYPD(イーストエクストラクト1%、ペプトン2%、グルコース2%)培地で培養し、導入したCreリコンビナーゼを有するプラスミドを脱落させた。この株を前述のARO8遺伝子破壊コンストラクトおよびARO8様遺伝子破壊コンストラクトで形質転換し、配列番号1、2、3および4に示した全ての遺伝子が欠損したZ3のBAT1遺伝子、BAT1様遺伝子、ARO8遺伝子、ARO8様遺伝子多重破壊株(以下「bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株」と表記)を作製した。
【0059】
【表5】
【0060】
次に、作製したこれらの株が産膜を形成するかどうか確認するために、YPD液体培地でフルグロースするまで酵母を前培養し、培養液の一部を1.8M NaClを含むYPD液体培地に植え継ぎ、30度で5日間静置培養した。その結果、
図5に示すとおり、試験に供したZ3bat1Δ/bat1Δ株およびZ3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株は親株と同様に産膜を形成した。また、Z3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株はATCC2623ura3Δbat1Δaro8Δ株と同様に、イソロイシン・バリン要求性だけではなくロイシン要求性も示した(
図6)。
【0061】
(実施例2)遺伝子機能欠損株における不快臭成分の生成
次に、Z3親株、Z3bat1Δ/bat1Δ株およびZ3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株の不快臭成分の生成量を測定した。
【0062】
SCD液体培地(イーストナイトロジェンベース アミノ酸・硫酸アンモニウム不含0.17%、ドロップアウトミックス0.14%、グルコース2%)にイソロイシン0.4%、バリン0.4%、ロイシン0.6%、ウラシル0.15%、寒天2.0%を添加した固体培地を作成した。この培地上に培養した酵母の水懸濁液を重層した後、プレートを逆さまにすることで余剰の懸濁液を除去し、酵母菌体をプレート全面に均一に植菌した。このプレートを30度で7日間培養し、スプレッダーで表面の酵母を除去した後、1ミリのメッシュで培地を細断した。細断した培地をチューブに回収し、滅菌水15mlを加えた後、4度で一晩静置した。デカントと遠心分離で液部を6ml回収し、3mlのジエチルエーテルを加え香気成分を抽出した。ジエチルエーテル層を回収し、無水硫酸ナトリウムを適当量添加し、脱水した。100mg/Lの2,3−ジメチルピラジン溶液と等量混合し、GCMS解析により目的の成分を定量した。GCMSはVARIAN 1200 plus CP−3800を使用した。カラムはCPWAX−52CBを用いた。220度にあらかじめ加温した注入口に2マイクロリッターのサンプルをスプリットレスでアプライした。40度で10分ホールドした後、1分当たり10度の割合で250度まで昇温し、20分保持した。1秒に2.5回の割合で、m/zが20−400のイオンをスキャンした。標準物質のリテンションタイムとマススペクトルとが一致することをもって、目的の物質を同定し、あらかじめ作成した検量線から目的の物質を定量した。
【0063】
その結果、
図7に示すとおり、Z3bat1Δ/bat1Δ株では、不快臭成分であるイソ吉草酸の生成は親株と比較して半分程度に減少し(親株比で0.45)、イソ酪酸や2−メチルブタン酸の生成はさらに顕著に減少した(それぞれ親株比で0.11、0.04)。また、さらに2つのARO8遺伝子を破壊したZ3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株では、イソ酪酸、2−メチルブタン酸およびイソ吉草酸全てが顕著に減少した(それぞれ親株比で0.06、0.03、0.14)。これらの結果から、BAT1遺伝子の破壊だけでも不快臭の生成を抑制するのには効果的であるが、BAT1遺伝子に加えさらにARO8遺伝子を破壊することで、より効果的に不快臭成分の生成を抑制できることが示された。
【0064】
(実施例3)本発明の酵母を利用した醸造食品の製造
次に、実際の醤油において同様の効果が得られるかどうか検証した。
市販の醤油を2倍希釈したサンプル10ミリリットルをプラスチックシャーレに入れ、被検菌を植菌し、30度で7日間培養した。その結果、
図8に示すとおり、試験に供したZ3bat1Δ/bat1Δ株およびZ3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株は、親株と同様に醤油表面に産膜を形成した。次に、6ミリリットルの醤油を回収し、3mlのジエチルエーテルを加え香気成分を抽出し、前述の方法と同様に不快臭成分の生成量を測定した。その結果、
図9に示すとおり、Z3bat1Δ/bat1Δ株では、不快臭成分であるイソ吉草酸の生成量は減少し(親株比で0.27)、イソ酪酸や2−メチルブタン酸の生成も顕著に減少した(それぞれ親株比で0.18、0.07)。さらに、2つのARO8遺伝子を追加で破壊したZ3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株では、イソ酪酸、2−メチルブタン酸およびイソ吉草酸全ての生成量が顕著に減少した(それぞれ親株比で0.1、0.01、0.02)。これらの結果から、BAT1遺伝子の破壊だけでも不快臭の生成を抑制するのに効果的であるが、BAT1遺伝子に加えさらにARO8遺伝子を破壊することで、より効果的に不快臭成分の生成を抑制できることが醤油においても示された。
【0065】
次に、官能評価により、当該醤油において不快臭が低減しているかどうかについての検討を実施した。その結果、表6に示すとおり、Z3bat1Δ/bat1Δ株を用いた試作品(表6中「bat1Δ」)の不快臭は親株と比較して低減はしているが、やや不快臭を感じる状態であった。一方、Z3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株を用いた試作品(表6中「bat1Δaro8Δ」)は不快臭がほぼ感じられない状態となっていた。また、予想外なことに、Z3bat1Δ/bat1Δ aro8Δ/aro8Δ株を使用した試作品は、特有の香気が醤油に付与されており、元の醤油とは官能的な性質を異にするものとなった。これらのことから、本特許で開発した酵母を用いることで、元の醤油とは差別化された官能特性を持つ醤油の開発が可能であると考えられた。
【0066】
【表6】