特許第6035524号(P6035524)IP Force 特許公報掲載プロジェクト 2022.1.31 β版

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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6035524
(24)【登録日】2016年11月11日
(45)【発行日】2016年11月30日
(54)【発明の名称】嗅覚障害治療剤
(51)【国際特許分類】
   A61K 38/28 20060101AFI20161121BHJP
   A61P 11/02 20060101ALI20161121BHJP
   A61P 27/00 20060101ALI20161121BHJP
   A61K 9/08 20060101ALI20161121BHJP
【FI】
   A61K37/26ZMD
   A61P11/02
   A61P27/00
   A61K9/08
【請求項の数】4
【全頁数】19
(21)【出願番号】特願2016-28504(P2016-28504)
(22)【出願日】2016年2月18日
(65)【公開番号】特開2016-155816(P2016-155816A)
(43)【公開日】2016年9月1日
【審査請求日】2016年2月18日
(31)【優先権主張番号】特願2015-30755(P2015-30755)
(32)【優先日】2015年2月19日
(33)【優先権主張国】JP
【新規性喪失の例外の表示】特許法第30条第2項適用 第54回日本鼻科学会総会・学術講演会(平成27年10月 2日)の学会発表資料 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrhi/54/3/54_380/_pdf
【早期審査対象出願】
(73)【特許権者】
【識別番号】515047699
【氏名又は名称】久保木 章仁
(73)【特許権者】
【識別番号】515047703
【氏名又は名称】菊田 周
(74)【代理人】
【識別番号】100149032
【弁理士】
【氏名又は名称】森本 敏明
(72)【発明者】
【氏名】久保木 章仁
(72)【発明者】
【氏名】菊田 周
【審査官】 石井 裕美子
(56)【参考文献】
【文献】 Lacroix MC et al.,Insulin, a survival factor for olfactory epithelium,Chem. Senses,2011年,Vol. 36,p. E75
【文献】 Chem. Senses,2000年,Vol. 25,pp. 93-101
【文献】 Neurosci. Res.,2009年,Vol. 65 Supplement 1,p. S165,P2-f25
【文献】 J. Neuroendocrinol.,2011年,Vol. 23,pp. 627-640
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
A61K 38/00−38/58
A61K 9/08
A61P 11/02
A61P 27/00
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
CAplus/WPIDS/MEDLINE/EMBASE/BIOSIS(STN)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
インスリン及び、インスリンアルパルト、インスリンリスプロ、インスリングルリジン、インスリンデグルデク、インスリングラルギン、インスリンデテミル及びこれらの薬学的に許容される塩からなる群から選ばれるインスリン類縁体からなる群から選ばれる少なくとも1種の有効成分を含有し、かつ、投与期間が7日間以上である、嗅覚障害治療剤。
【請求項2】
前記嗅覚障害治療剤は、その形態が点鼻剤である、請求項1に記載の嗅覚障害治療剤。
【請求項3】
前記嗅覚障害治療剤は、嗅覚障害を有し、かつ、インスリン分泌障害若しくはインスリン抵抗性を有する者又はそのリスクのある者に使用される、請求項1又は2に記載の嗅覚障害治療剤。
【請求項4】
インスリン及び、インスリンアルパルト、インスリンリスプロ、インスリングルリジン、インスリンデグルデク、インスリングラルギン、インスリンデテミル及びこれらの薬学的に許容される塩からなる群から選ばれるインスリン類縁体からなる群から選ばれる少なくとも1種の有効成分を含有する、嗅覚障害治療剤であって、
前記嗅覚障害治療剤は、嗅上皮障害後の7〜14日目に少なくとも投与される、前記嗅覚障害治療剤
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、嗅覚障害治療剤に関する。
【背景技術】
【0002】
嗅覚障害は、障害部位によって様々な原因で生じ得るところ、その多くが嗅上皮組織において腫脹や分泌異常などが発生することによって生じ得る嗅上皮性嗅覚障害及び嗅上皮性と他の原因によって生じ得る混合性嗅覚障害である。
【0003】
このような嗅覚障害の治療法としては、ツムラ漢方当帰芍薬などの内服療法やナゾネックス(モメタゾンフランカルボン酸エステル水和物)、点鼻用リンデロンA液(硫酸フラジオマイシン及びリン酸ベタメサゾンの合剤)などのステロイド剤による点鼻療法が挙げられる。
【0004】
しかし、点鼻用リンデロンA液などの高力価なステロイド剤には副作用の問題があり、例えば、満月様顔貌、肥満、動脈硬化、高脂血症、高血圧症に加えて、血糖値の上昇や副腎皮質ホルモンバランスへの影響、B型肝炎ウイルス感染者におけるウイルス再賦活化などが起こり得るため、しばしば臨床現場でも問題となっており、特に罹患患者数の多い糖尿病患者に対する使用には注意を要する。そこで、これらの副作用が抑えられたものとして、プレドニゾロン誘導体を有効成分とする嗅覚障害治療剤が知られている(特許文献1を参照)。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0005】
【特許文献1】特許第4263782号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
しかし、プレドニゾロン誘導体はいわゆるソフトステロイド剤に属するものであり、長期間の投与によって、他のステロイド剤と同様の副作用が生じる危険性がある。
【0007】
そこで、本発明は、傷などの障害を受けた嗅上皮を修復又は再生する作用を有し、かつ、長期間の投与が可能である嗅覚障害治療剤を提供することを、発明が解決しようとする課題とする。
【課題を解決するための手段】
【0008】
本発明者らは、上記課題を解決するために鋭意検討を積み重ねたところ、驚くべきことに、マウスを用いたin vivo試験から、インスリンが格別顕著な嗅上皮再生作用を示し、嗅覚障害の改善に有用であることを突き止めることに成功した。
【0009】
インスリンは糖代謝のみならず中枢神経に対する作用としての記憶力の向上や認知障害の改善を導き得ることが報告されている。しかし、インスリンが嗅上皮の修復や再生に良好な影響を及ぼすことについては、これまでに全く知られていないことであり、本発明者らによって初めて見出されたことである。
【0010】
特に、嗅上皮の組織恒常性は、様々な因子によって制御されており、終生にわたり巧妙に維持されるものである。インスリンは神経成長因子として神経の生理機能維持に重要な役割を果たす可能性があることが明らかになりつつあるが、インスリンを介するシグナル伝達が嗅上皮細胞動態にどのような影響を与えるのかについては全く不明である。したがって、本発明者らが初めて見出したインスリンと嗅上皮再生との関係は、薬学的及び医学的な観点からも非常に意義のあることである。本発明は、このような成功例や知見に基づき、完成された発明である。
【0011】
したがって、本発明によれば、インスリン、インスリン類縁体及びインスリン分泌促進物質からなる群から選ばれる少なくとも1種の有効成分を含有する、嗅覚障害治療剤が提供される。
【0012】
好ましくは、前記嗅覚障害治療剤は、その形態が点鼻剤である。
【0013】
好ましくは、前記嗅覚障害治療剤は、嗅覚障害を有し、かつ、インスリン分泌障害若しくはインスリン抵抗性を有する者又はそのリスクのある者、又は嗅覚障害治療としての長期ステロイド使用による医原性の血糖値上昇や副腎皮質ホルモンバランスの乱れが懸念される者に使用される。
【発明の効果】
【0014】
本発明の嗅覚障害治療剤は、成熟嗅神経細胞を増加させることにより、障害を受けた嗅上皮の修復又は再生を促進して、欠失又は低下した嗅覚を回復させることができる。
【図面の簡単な説明】
【0015】
図1a図1aは、実施例におけるメチマゾール投与後14日目のDMマウスの嗅上皮組織のDAB染色した写真図を示す。
図1b図1bは、実施例におけるメチマゾール投与後14日目の通常マウスの嗅上皮組織のDAB染色した写真図を示す。
図2a図2aは、実施例におけるメチマゾール投与後28日目のDMマウスの嗅上皮組織のDAB染色した写真図を示す。
図2b図2bは、実施例におけるメチマゾール投与後28日目の通常マウスの嗅上皮組織のDAB染色した写真図を示す。
図3a図3aは、実施例におけるメチマゾール投与後7日目、14日目及び28日目の嗅上皮の厚み(thickness)の評価結果を表わした図である。図中のMetはメチマゾール投与通常マウスを表わし、STZ+Metはメチマゾール投与DMマウスを表わし、d28 Salineはメチマゾールの代わりに生理食塩水を投与した通常マウスの結果を示す。また、数値は平均値(n=7)を表わし、バーは標準偏差を表わす。「*」は通常マウスとDMマウスとの間の値について、Mann−Whitney’s U検定により、危険率5%で有意差ありという結果を示し、「n.s」は有意差がないという結果を示す。
図3b図3bは、実施例におけるメチマゾール投与後7日目、14日目及び28日目の嗅神経細胞数の評価結果を表わした図である。図中の記号の意味は図3aと同様である。
図3c図3cは、実施例におけるメチマゾール投与後7日目、14日目及び28日目のOMP陽性細胞数の評価結果を表わした図である。図中の記号の意味は図3aと同様である。
図4a図4aは、実施例における通常マウスの嗅上皮組織についてDAPI、Insulin R及びMergeを用いて組織学的に染色した結果を示す。
図4b図4bは、実施例におけるDMマウスについて血糖値を調べた結果を示す。
図4c図4cは、実施例におけるDMマウスについて体重を調べた結果を示す。
図4d図4dは、実施例における28日目のDMマウスの嗅上皮組織の冠状断切片について、HE染色結果及びOMP陽性細胞数の確認結果を示す。
図4e図4eは、実施例における90日目のDMマウスの嗅上皮組織の冠状断切片について、HE染色結果及びOMP陽性細胞数の確認結果を示す。
図5a図5aは、実施例におけるメチマゾール投与後の嗅覚障害モデルマウスについて、インスリン受容体抗体及びリン酸化インスリン受容体抗体で免疫染色した結果を示す。
図5b図5bは、実施例におけるメチマゾール投与後の嗅覚障害モデルマウスについて、嗅上皮におけるHE染色した結果を示す。
図5c図5cは、実施例におけるメチマゾール投与後の嗅覚障害モデルマウスについて、嗅上皮におけるOMP抗体で免疫染色した結果を示す。
図5d図5dは、実施例におけるメチマゾール投与後の嗅覚障害モデルマウスについて嗅球(Olfactory bulb;OB)におけるOMP陽性領域を分析した結果を示す。
図5e図5eは、実施例におけるメチマゾール投与後の嗅覚障害モデルマウスについて嗅球(Olfactory bulb:OB)におけるOMP陽性領域を分析した結果を示す。
図6a図6aは、実施例におけるOBの冠状断片を模式的に示した図である。
図6b図6bは、実施例におけるOB中のc−fos発現の分析結果を示す。
図6c図6cは、実施例におけるOB中のc−fos発現の分析結果を示す。
図7a図7aは、実施例における嗅上皮再生過程におけるKi−67陽性細胞数を比較した結果を示す。
図7b図7bは、実施例における嗅上皮再生過程におけるKi−67陽性細胞数を比較した結果を示す。
図8a図8aは、実施例における嗅上皮再生過程における活性化カスパーゼ−3陽性細胞数を比較した結果を示す。
図8b図8bは、実施例における嗅上皮再生過程における活性化カスパーゼ−3陽性細胞数を比較した結果を示す。
図8c図8cは、実施例におけるメチマゾール投与後14日目における、OMP、活性化カスパーゼ−3及びmergo陽性細胞数を比較した結果を示す。
図9a図9aは、実施例における嗅覚障害モデルマウスインスリンを補充する時期を模式的に表わした図である。
図9b図9bは、実施例における嗅覚障害モデルマウスにインスリンを補充する時期を模式的に表わした図である。
図9c図9cは、実施例における嗅覚障害モデルDMマウスにインスリンを投与した後の嗅上皮を免疫染色した結果を示す。
図9d図9dは、実施例における嗅覚障害モデルDMマウスにインスリンを投与した後の嗅上皮のOMP陽性細胞数を分析した結果を示す。
図9e図9eは、実施例における嗅覚障害モデルDMマウスにインスリンを投与した後の嗅上皮の厚さを分析した結果を示す。
図9f図9fは、実施例における嗅覚障害モデルDMマウスにインスリンを投与した後の嗅上皮の嗅神経細胞数(OSNs)を分析した結果を示す。
図10a図10aは、実施例の結果を総合してOE非障害状態下でのインスリンシグナルの低下を模式的に表わした図である。
図10b図10bは、実施例の結果を総合してOE障害状態を模式的に表わした図である。
【発明を実施するための形態】
【0016】
以下、本発明を詳細に説明する。
本発明の嗅覚障害治療剤は、インスリン、インスリン類縁体及びインスリン分泌促進物質からなる群から選ばれる少なくとも1種の有効成分を有効量で含有するものである。本発明の嗅覚障害治療剤は、有効成分として、インスリン、インスリン類縁体及びインスリン分泌促進物質のいずれか1種、2種又は全部を含むものであり得る。
【0017】
本発明の嗅覚障害治療剤は、使用者に外因性のインスリンやインスリン類縁体を投与することにより、及び/又は使用者の内因性のインスリンの分泌を促進するためにインスリン分泌促進物質を投与することにより、使用者の脳内のインスリン濃度を高め、未熟嗅神経細胞から成熟細胞へ分化、再生を促進して成熟嗅神経細胞数の増加を介して嗅上皮を修復や再生することにより、使用者の嗅覚障害を治療や予防することができる。ここで、治療や予防とは、使用者における疾患や症状の発症の防止及び遅延;使用者の疾患や症状の発症の危険性の低下;疾患、症状及び状態の好転;疾患、症状及び状態の悪化の防止や遅延;疾患や症状の進行の逆転、防止及び遅延などを包含する。
【0018】
インスリンは通常当業者により知られる意味のものであれば特に限定されず、例えば、CAS番号が9004−10−8であるものとして知られている。本発明に用いられるインスリンは、任意の種に由来するインスリンが挙げられ、例えば、ブタのインスリン、ウシのインスリン及びヒトのインスリンなどであり得る。また、インスリンは、インスリンの薬学的に許容される塩、例えば、亜鉛の塩及びプロタミンの塩などであってもよい。インスリンは、これらのうちの1種又は2種以上を組み合わせたものであり得る。
【0019】
インスリン類縁体は、インスリンと一部の構造が相違し、かつ、インスリン様成長因子1(IGF−1)受容体、インスリン様成長因子2(IGF−2)受容体若しくはグルカゴンペプチド1(GLP−1)受容体に結合してインスリンと同一のインスリン活性又はインスリンシグナルにより発動される複雑なインリンカスケードにおいて相互作用(クロストーク)を及ぼし得るものを示すものであれば特に限定されず、例えば、1個から複数個のアミノ酸残基が別のアミノ酸残基で置換されたインスリン、1個から複数個のアミノ酸残基が欠失したインスリン、1個から複数個のアミノ酸残基が付加されたインスリンなどが挙げられる。「1個から複数個」の範囲は、例えば、1個、2個、3個、4個、5個及び6個であり、好ましくは1個、2個、3個、4個及び5個であり、より好ましくは1個、2個、3個及び4個であり、さらに好ましくは1個、2個及び3個である。インスリン類縁体の具体例は、インスリンアルパルト、インスリンリスプロ、インスリングルリジン、インスリンデグルデク、インスリングラルギン、インスリンデテミル及びこれらの薬学的に許容される塩などが挙げられるが、これらに限定されない。インスリン類縁体は、これらのうちの1種又は2種以上を組み合わせたものであり得る。
【0020】
インスリン及びインスリン類縁体を取得する方法は特に限定されず、例えば、インスリンを分泌する生物の組織から分離及び精製することやインスリンのアミノ酸配列を参照するなどして遺伝子組換え技術によって製造することができる。インスリン及びインスリン類縁体は、市販されているものを用いてもよい。例えば、ノボラピッド、ノボリン、トレシーバ、レベミル、ノボペン、ユーマログ、ヒューマリン、ヒューマペン、アピドラ、ランタス、イタンゴ、イノレット(それぞれ登録商標)などの名称で市販されているインスリン製剤を、そのままで、又はその内容物を別の投与形態に適用して使用できる。インスリン及びインスリン類縁体は、インスリンの分泌を促進する作用やインスリンの作用を増強する作用を有する物質などであってもよく、例えば、グルカゴン様タンパク質(GLP)などが挙げられる。
【0021】
インスリン分泌促進物質は、膵β細胞を剌激することや膵β細胞のスルホニル尿素受容体への結合を介してATP感受性K+チャネル電流を阻害することなどにより内因性のインスリンの分泌を促進する活性を有する物質であれば特に限定されず、例えば、ナテグリニド、ミチグリニド、レパグリニド、ランゲルハンス島活性化タンパク質、グルカゴン様ペプチドなどが挙げられるが、これらに限定されない。また、インスリン分泌促進物質には、細胞内でインスリン−インスリン受容体間結合によって活性化されるチロシンキナーゼによって媒介されるシグナル伝達を導き得る物質を包含する。インスリン分泌促進物質は、これらのうちの1種又は2種以上を組み合わせたものであり得る。
【0022】
インスリン分泌促進物質を取得する方法は特に限定されず、例えば、その構造式やアミノ酸配列を参照して製造してもよいし、市販されているものを使用してもよい。
【0023】
本発明の嗅覚障害治療剤における有効成分の含有量は、本発明の嗅覚障害治療剤を投与した使用者の嗅上皮における成熟嗅神経細胞数が増加する程度の量であれば特に限定されないが、例えば、体重1kg当たり1日約0.001国際単位(IU)〜1000IUであり、好ましくは約0.01〜約500IUであり、より好ましくは0.1〜10IUである。また、本発明の嗅覚障害治療剤における有効成分の含有量は、例えば、1日約0.01〜500IU、好ましくは0.1〜200IUとすることができる。1IUとは、ヒトインスリン(遺伝子組換え)の1国際単位を意味する。有効成分がインスリン類縁体である場合は、上記IUに相当する量である。有効成分がインスリン分泌促進物質である場合は、上記IUに相当する量のインスリンを生体内で分泌し得る量である。
【0024】
本発明の嗅覚障害治療剤は、インスリンやインスリン類縁体を含有するものである場合は、その形態は非経口投与される形態である。また、インスリン分泌促進物質を含有するものである場合は、その形態は、該物質の性質に合わせて経口又は非経口投与される形態である。
【0025】
本発明の嗅覚障害治療剤は、その投与経路について特に限定されないが、患部に近い方が投与量を少なくすることができ、低血糖などの副作用が生じることを回避することができることから、経鼻的に投与されることが好ましい。したがって、本発明の嗅覚障害治療剤は、その形態が点鼻剤又は点眼剤であることが好ましく、点鼻剤であることがより好ましい。
【0026】
本発明の嗅覚障害治療剤は、有効成分のみからなるものであってもよいし、有効成分とは異なるその他の成分を含有するものであってもよい。その他の成分としては、例えば、本発明の嗅覚障害治療剤が点鼻剤である場合には、これまでに当業者に知られている点鼻剤一般に用いられる添加物を挙げることができ、具体的には保存剤、等張化剤、緩衝剤、安定化剤、pH調整剤、増粘剤、懸濁化剤などを挙げることができる。
【0027】
保存剤としては、例えば、パラベン類(パラオキシ安息香酸メチル、パラオキシ安息香酸プロピルなど)、逆性石ケン類(塩化ベンザルコニウム、塩化ベンゼトニウム、グルコン酸クロルヘキシジン、塩化セチルピリジニウムなど)、アルコール誘導体(フェネチルアルコールなど)、有機酸及びその塩類(デヒドロ酢酸ナトリウム、ソルビン酸及びその塩など)、フェノール類(パラクロルメトキシフェノール、パラクロルメタクレゾールなど)及び有機水銀剤(チメロサール、硝酸フェニル水銀、ニトロメゾールなど)などが挙げられる。
【0028】
等張化剤としては、例えば、塩化ナトリウム、ソルビトール、濃グリセリン及びマンニトールなどが挙げられる。
【0029】
緩衝剤としては、例えば、ホウ酸及びその塩、リン酸塩、酢酸塩及びアミノ酸塩などが挙げられる。
【0030】
安定化剤としては、例えば、酸化防止剤(亜硫酸ナトリウム、亜硫酸水素ナトリウム、メタ亜硫酸水素ナトリウムなど)及びキレート剤(エデト酸ナトリウム、クエン酸及びその塩など)などが挙げられる。
【0031】
pH調整剤としては、例えば、塩酸、酢酸、水酸化ナトリウム、リン酸などが挙げられる。
【0032】
増粘剤としては、例えば、糖類(ソルビトール、マンニトール、ショ糖など)、セルロース類(メチルセルロース、カルボキシメチルセルロースナトリウム、ヒドロキシプロピルメチルセルロースなど)及び合成高分子(ポリビニルアルコール、ポリビニルピロリドン、カルボキシビニルポリマーなど)などが挙げられる。
【0033】
懸濁化剤としては、例えば、上記セルロース類、合成高分子化合物、結晶セルロース・カルメロースナトリウム及び界面活性剤(第4級アンモニウム塩などの陽イオン界面活性剤、アルキル硫酸塩などの陰イオン界面活性剤、ポリソルベート80、ポリオキシエチレン硬化ヒマシ油、チロキサポールなどの非イオン界面活性剤及びレシチンなどの両性イオン界面活性剤など)などが挙げられる。
【0034】
上記添加物の使用量は当業者により適宜設定されるものであり、特に限定されない。本発明の嗅覚障害治療剤は、点鼻剤である場合、鼻の生理状態に近似させた状態(鼻汁と等張である状態)のものであることが好ましい。例えば、浸透圧は0.2〜4.0w/v%の食塩液に相当する範囲、好ましくは0.5〜2.0w/v%の食塩液に相当する範囲、より好ましくは0.8〜1.5w/v%の食塩液に相当する範囲であるものである。
【0035】
また、本発明の嗅覚障害治療剤を点鼻剤として使用する場合は、例えば、そのpHは一般的な点鼻剤に通常使用されるpH範囲であり、具体的にはpH5〜7であり;その浸透圧は一般的な点鼻に通常使用される浸透圧の範囲であり、具体的には140〜1140mOsm、好ましくは200〜870mOsm、より好ましくは280〜310mOsmであり;その粘度は一般的な点鼻剤に通常使用される粘度の範囲であり、具体的には25,000cps以下、好ましくは5,000〜1cpsである。
【0036】
本発明の嗅覚障害治療剤は、その他の成分として、他の嗅覚障害治療剤、他の医薬製剤又はそれらの有効成分を含有することができる。例えば、非ステロイド系抗炎症剤、抗ヒスタミン剤、抗アレルギー剤、抗生物質、血管収縮剤、降圧剤及びこれらの有効成分が挙げられる。
【0037】
本発明の嗅覚障害治療剤は、その投与量や投与形態によっては、使用者に対して有効成分の作用による低血糖のリスクを防止するために、糖や糖類似体を含有するものとすることができ、又は糖や糖類似体とともに用いられるものであり得る。
【0038】
本発明の嗅覚障害治療剤は、使用者に投与することにより、未熟嗅神経細胞の分化、成長及び/又は再生を促進し、結果として嗅上皮における成熟嗅神経細胞数の増加や嗅上皮の修復や再生を誘導し、嗅覚障害を治療し得る。また、本発明の嗅覚障害治療剤の有効成分はステロイド系化合物ではないことから、本発明の嗅覚障害治療剤は、ステロイド剤を投与することによって生じる副作用の問題がなく、長期的な投与に適したものである。
【0039】
本発明の嗅覚障害治療剤の使用方法は特に限定されず、その形態に準じて適宜使用することができ、例えば、点鼻剤である場合は、通常知られている点鼻剤一般に用いられている方法に従って使用することができる。この場合、例えば、滴下法によって使用することができる。具体的には、本発明の嗅覚障害治療剤を、懸垂頭位のままで両側鼻腔にそれぞれ2〜3滴ずつ滴下し、そのまま5〜10分間保ち、これを朝と晩の1日2回行う方法などが挙げられる。
【0040】
本発明の嗅覚障害治療剤の投与間隔は、その投与量や投与形態などによって適宜選択され、特に限定されないが、例えば、0.1〜10U/kg(0.1〜10IU/kg)の有効成分を、1日2回、7日間以上、好ましくは10日間以上、より好ましくは14日間以上の期間で経鼻的に投与することが挙げられる。
【0041】
本発明の嗅覚障害治療剤の使用者は特に限定されず、例えば、乳児、幼児、小児、少年、成人などのヒトが挙げられる。また、本発明の嗅覚障害治療剤は、例えば、ネコ、イヌ、ウシ、ウマなどの哺乳動物に使用してもよい。
【0042】
インスリンは、本来健常者であれば、生体内に分泌されるものである。しかし、糖尿病罹患者のように、インスリンの分泌に障害がある者やインスリンに対して抵抗性のある者が存在する。そこで、本発明の嗅覚障害治療剤は、嗅覚障害を有し、かつ、インスリン分泌障害やインスリン抵抗性を有する者若しくはそのリスクのある者又は嗅覚障害治療としての長期ステロイド使用による医原性の血糖値上昇や副腎皮質ホルモンバランスの乱れが懸念される者に使用されることが好ましい。さらにいえば、本発明の嗅覚障害治療剤は、中高年者や2型糖尿病をはじめとするメタボリックシンドロームの危険性がある運動不足者に使用されることがより好ましい。
【0043】
以下、本発明を実施例によりさらに詳細に説明するが、本発明はこれら実施例に限定されるものではなく、本発明の課題を解決し得る限り、本発明は種々の態様をとることができる。
【実施例】
【0044】
以下のとおりに、マウスを用いたin vivo試験にて、インスリンが格別顕著な嗅覚障害改善作用を示すことを以下のとおりに実証した。
【0045】
[I.1型糖尿病モデルマウスを用いたインスリンによる嗅覚障害の改善効果(1)]
1.1型糖尿病モデルマウス(DMマウス又はSTZマウス)の作成
10週齢のC57BL/6マウス(通常マウス;日本SLC株式会社)にストレプトゾトシン(STZ;Sigma−Aldrich社)120mg/kgを0日目(初回投与)、1日目及び2日目というように3日連続して腹腔内に投与し、7日目に空腹時血糖(fasting blood sugar level:FBS)250mg/dl以上の値を認めたものを、膵臓β細胞が特異的に障害されたDMマウスとした。また、以降の操作には、STZ投与から約一週間後の随時血糖が250mg/dlより大きいものを使用した。
【0046】
2.嗅覚障害モデルマウスの作成
通常マウスに生理食塩水のみを投与した陽性対照マウス及びDMマウスのそれぞれにメチマゾール(Sigma−Aldrich社)80mg/kgを腹腔内投与し嗅覚障害モデルマウスを作成した。嗅覚障害モデルマウスはメチマゾールの代謝産物が嗅上皮を選択的に傷害することにより作成される。嗅覚障害の機序としては、カスパーゼが活性化することにより、嗅細胞に対してアポトーシスを誘導すると考えられている。通常マウスにメチマゾールを投与した場合、障害された嗅上皮は投与後約28日目にほぼ正常なレベルまで再生し得る。また、通常マウスに、メチマゾールの代わりに生理食塩水を投与したものをコントロールとした。体重及び尾部静脈の血糖値はメチマゾール注射後28日目に測定した。
【0047】
3.免疫組織化学
マウスの心臓内に0.1M リン酸緩衝液中の4% パラホルムアルデヒドをかん流した。マウスを屠殺し、同一の固定剤を用いて24時間後に固定した。OEを含む鼻孔組織を、10% EDTA溶液(pH 7.0)を用いて脱灰し、次いでパラフィン中に埋入した。冠状切片(厚さ4μm)を切削し、シラン被覆スライドに載せた。脱パラフィン化した切片を、抗原回復のためにTarget Retrieval Solution(S1700;Dako)内で10分間オートクレーブした。免疫組織化学を、次の抗体のいずれか1つを使用して実施した:抗インスリン受容体、抗リン酸化インスリン受容体、抗嗅覚マーカータンパク質(OMP、ヤギポリクローナル、1:4000希釈;ワコーケミカルズ)、抗活性化カスパーゼ−3(ウサギポリクローナル、1:5000;セルシグナリングテクノロジー)、抗Ki−67(マウスモノクローナル、1:500;BDバイオサイエンス)及び抗c−fos抗体(ウサギIgG、1:1000;サンタクルーズバイオテクノロジー)。
【0048】
Histofine Simple Stain MAX−PO第2抗体システム(ニチレイ)を用いて、抗OMP(ヤギ)、抗活性化カスパーゼ−3(ラット)、抗Ki−67(マウス)及び抗c−fos(ウサギ)について免疫反応を検出した。抗OMP(抗OMP抗体、ヤギポリクローナル、1:4000;ワコーケミカルズ)及び抗カスパーゼ−3(抗活性化カスパーゼ−3抗体、ウサギポリクローナル、1:5000;セルシグナリングテクノロジー)抗体を用いて二重免疫染色に対して第1次抗体を使用した。
【0049】
洗浄後、ロバ抗ヤギAlexa Fluor 488及びロバ抗ウサギAlexa Fluor 594(1:100;インビトロジェン)とともに組織を室温で1時間培養した。
【0050】
4.分析
マウス間及びマウス内での解剖学的変化(例えば、含気鼻甲介)によるデータ値のバラつきを抑えるために、OE分析を、鼻腔内の右側及び左側における鼻中隔及び鼻甲介上部のOE(嗅上皮)に限定して解析を行った。
【0051】
切片を500μm間隔で切削した。嗅神経上皮は次の二つの細胞系を含む:嗅神経細胞(OSNs)、及び基底幹細胞。OE中の固有層上にある矩形細胞を基底細胞と定義した。残りの細胞をOSNsとして定義した。固有層から表面までの距離である厚さを、ImageJソフトウェアを用いて測定した。抗OMP、抗活性化カスパーゼ−3、及び抗Ki−67抗体で標識したOSN数を、各抗原について単一的に免疫染色し、ヘマトキシリンで対比染色した切片を用いて、定量的に分析した。固有層下の結合性組織について、中間バックグラウンド強度の標準偏差の2倍を上回った細胞の免疫染色を陽性であるとみなした。OSN及び免疫染色した細胞(OMP陽性細胞、Ki−67陽性細胞及びカスパーゼ−3陽性細胞)の数を、右側及び左側の両側に対して(正常群及びSTZ群のそれぞれの)顕微鏡観察のイメージにおける鼻中隔の全長に沿って計測した。これらの計測値の平均値及び標準偏差は、OSN、OMP陽性細胞及びKi−67陽性細胞の数について、100μmの鼻中隔の長さあたりの各群について算出し;及びカスパーゼ−3陽性細胞の数は鼻中隔の長さあたりで定量した。
【0052】
鼻内の全ての嗅上皮における嗅細胞数を計測することは不可能に近いことから、全領域の嗅上皮から伸びる嗅神経は全て嗅球に収束するという事実から、嗅球の全領域を観察することにより嗅上皮の一部だけに起こっている現象ではなく、嗅上皮全体で同様な現象が起きているといえる。よって、嗅球全体の組織を観察した。
【0053】
各OBに対して、1つの冠状断片をそのOBの中央領域から選択し、次いで7つの糸球体を、OBの個々の切片においてランダムに選択した(図6aを参照)。有意であるOMP染色領域は、染色がOBの外部網状層内のバックグラウンド強度の平均値の2倍の標準偏差を上回るものとして定義した。
【0054】
有意であるOMP染色領域のパーセンテージを、有意であるOMP染色領域の面積を糸球体(OMP染色領域/糸球体領域×100)の総面積で割ることにより、糸球体において計算した。免疫染色領域の分析を、ImageJソフトウェアを用いて実施した。
【0055】
5.統計分析
統計分析は、Mann−Whitney Uテストを用いて行った(STZマウスvs通常マウス;障害後及び生理食塩水投与後)。エラーバーは平均値±SDを示す。p値<0.05は統計的に有意であるとみなした。
【0056】
6.通常マウス及びDMマウスの嗅覚障害の改善評価
メチマゾール投与後3日目、7日目、14日目及び28日目のマウス(n=7)をウレタン麻酔下で屠殺し、嗅上皮組織を採取した。嗅上皮組織はマウス頭部から嗅球前端までの冠状断切片を作成した。作成した切片をヘマトキシリン・エオジン(HE)染色することにより、鼻中隔及び鼻甲介上部における嗅上皮の厚み及び嗅神経細胞数(OSNs)を計測並びに評価した。また、嗅神経細胞数のうち、成熟嗅神経細胞数の評価には抗OMP(olfactory marker protein;Wako Chemicals社)抗体を用い、基底細胞の分裂能の評価には抗Ki−67抗体(BD Biosciences社)を用いて免疫染色を行った。なお、基底細胞の分裂能は、基底細胞が元となり成熟嗅神経細胞への分化及び増殖が起こることから、嗅上皮修復への予備能力及び潜在能力を評価している。
【0057】
結果として、メチマゾール投与後7日目までは通常マウスとDMマウスとにおいて、嗅上皮の厚み、OSNs、及び成熟嗅神経細胞数の各項目について有意差は認められなかった。しかし、メチマゾール投与後14日目において、DMマウスにおける嗅上皮の厚み、OSNs及び成熟嗅神経細胞数(OMP陽性細胞数)が通常マウスと比較して明らかに減少していた(図1a及び1b並びに3a〜3cを参照)。すなわち、図1aは、OMP陽性細胞(茶色染色部)がほとんど存在しておらず、成熟嗅神経細胞がほとんど無いことを示す。それに対して、図1bは、OMP陽性細胞が多いことを示す。
【0058】
また、メチマゾール投与後28日目において、同様の結果が得られた(図2a及び2b並びに3a〜3cを参照)。すなわち、図2aではほとんどOMP陽性細胞が少ないことを示すのに対して、図2bではほぼすべての嗅神経細胞においてOMP陽性となっていることを示す。
【0059】
メチマゾール投与14日目を境に嗅上皮の厚み、OSNs及び成熟嗅細胞数(OMP陽性細胞数)に関して、DMマウスで有意な減少を認めた(図3a〜3c)。この結果より、シナプス形成期に相当する障害14日目を境に、嗅上皮の厚み及び嗅細胞数においてDMマウスで有意な減少が認められた。
【0060】
7.長期インスリン分泌不全を呈したDMマウスの評価
通常マウスから嗅上皮組織を採取し、固定切片を作製した後、DAPI、Insulin R及びMergeを用いて組織学的に染色した(図4aを参照)。図4aから、通常マウス(p−Insulin R)の嗅上皮全体にインスリン受容体及びリン酸化されたインスリン受容体が発現していることが確認された。嗅上皮全域にインスリン受容体が発現しているという報告は無く、ここからは、嗅上皮の恒常性維持においてインスリンシグナルが何らかの重要な役割を担っている可能性が示唆される。
【0061】
DMマウスについて、血糖値及び体重を調べた(図4b及び4cを参照)。DMマウス(post−STZ ad.)は、通常マウス(pre−STZ ad.)に比べて、絶食時(fasting)及び通常時(casual)のいずれにおいて血糖値が有意に上昇していることがわかった(図4bを参照)。また、DMマウスは、通常マウスに比べて、糖尿病による多尿の影響からか、体重が若干減少していることが確認された(図4cを参照)。
【0062】
長期のインスリン分泌不全自体が嗅上皮に影響を与え得るかを確認するためにDMマウスにメチマゾールを投与せずに生理食塩水を投与し(0日目)、28日目及び90日目に経過観察した。図4d及び4eは、それぞれ28日目及び90日目の嗅上皮組織の冠状断切片について、HE染色結果及びOMP陽性細胞数の確認結果を示す。図4d及び図4eに示すとおり、STZマウスの嗅上皮は、約1カ月及び約3ヵ月経過した時点でも嗅上皮の厚み及び嗅細胞数について変化しなかった。結果として、約3ヶ月間のインスリン低下は、嗅上皮に対しては組織学的な変化を引き起こさなかった。
【0063】
図5aは、メチマゾール投与後3日目、7日目及び14日目の嗅覚障害モデルマウスについて、インスリン受容体抗体及びリン酸化インスリン受容体抗体で免疫染色した結果を示す。これらの結果より、嗅上皮障害直後から完全に成熟するまでの全ての時期においてインスリン受容体及びリン酸化インスリン受容体が基底幹細胞レベルで嗅上皮全体に発現していることが確認された。図5bは、メチマゾール投与後3日目、7日目、14日目及び28日目の嗅覚障害モデルマウスについて、HE染色した結果を示す。図5bが示すとおり、通常マウスにメチマゾールを投与したMet群の方において嗅上皮組織は障害後28日目に正常レベルの嗅上皮に回復した。なお、STZ+Metでは障害後28日目においても嗅上皮はやや薄く、OSNsも少なかった。図5bの結果を表したものが図3a及び3bである。図5cの結果を表したものが図3cである。
【0064】
図5cは、メチマゾール投与後7日目、14日目及び28日目の嗅覚障害モデルマウスについて、OMP抗体で免疫染色した結果を示す。図5cが示すとおり、成熟嗅細胞マーカーであるOMP陽性細胞は、嗅上皮障害後2週目(嗅神経が嗅球とシナプスを形成する時期に相当)の時期を境に、STZマウス群において有意な減少を認めた。その後もSTZマウスにおいて再生遅延は継続した。図5d及び5eは、メチマゾール投与後14日目及び28日目の嗅覚障害モデルマウスについてOMP陽性領域を分析した結果を示す。図5d及び5eが示すとおり、図5c及び図3cと同様の結果が嗅球におけるOMP陽性領域に関しても認められた。
【0065】
8.まとめ
長期間のインスリン低下は、成熟した嗅細胞で占められた嗅上皮に対しては組織学的な変化を引き起こさなかった。しかし、嗅上皮が障害を受け、新生した未熟な嗅細胞による再生過程においては、嗅上皮の再生が著しく遅延するのが観察された。この結果は、インスリンシグナルは生理的な嗅上皮の恒常性維持ではなく、障害後の恒常的再生過程において極めて重要な役割を果たすことを示唆し、特に障害後約14日目における神経のシナプス形成期において神経成長因子としてインスリンシグナルの依存度が高まる可能性を示す。インスリンシグナルは、未熟嗅細胞が成熟する上でキーシグナルとして作用し、このシグナルが不足すると嗅覚機能の再生も不完全に終わり、結果として嗅覚機能の低下を来たす可能性がある。
【0066】
[II.嗅覚障害モデルマウスを用いたOB中の臭気物質誘導c−fos発現]
0日目にメチマゾールを各群のマウスに腹腔内に注入した。メチマゾール投与28日後に、各マウスを隔離箱に収容し、チャコール・フィルタに通して脱臭し清浄空気を供給した。マウスに臭気物質を適用する前に(n=3マウス)、4時間食物ペレットを与えずに新たなケージ中に維持した。
【0067】
3つの臭気物質として、アルデヒド(プロピルアルデヒド、n‐バレルアルデヒド、N−ヘプチルアルデヒド、ベンズアルデヒド及びペリルアルデヒド)、ラクトン(γ−ブチロラクトン及びγ−ヘプタラクトン、σ−ヘキサラクトン、σ−ノナラクトン及びYオクタラクトン)及びエステル(アミルヘキサノアート、b−γ−ヘキセニル酢酸、酢酸テルピニル及び酢酸イソアミル)を鉱物油で1/10濃度に希釈し、次いで得られた希釈溶液 100μlに浸漬したコットン紙をディッシュ中に置いた。
【0068】
臭気物質は、10分間隔で1時間毎に2度、ケージ中にディッシュを置くことにより適用した。最後の臭気物質を適用した後、マウスを固定剤でかん流し、OB中のc−fos発現の分析に供した。OB中のc−fos発現の分析結果を、図6b及び図6cに示す。
【0069】
図6b及び6cが示すとおり、嗅上皮障害後1カ月の時点で、正常マウス及びSTZマウスのc−fos陽性細胞数(嗅覚入力における最初期応答遺伝子であり、嗅覚機能を反映する)を比較した。STZマウス群において有意にc−fos陽性細胞数の減少を認めた。このことから、嗅上皮組織の再生遅延と一致して嗅覚の機能低下もSTZマウスで認められることがわかった。
【0070】
また、図7a及び7bは両群間の嗅上皮再生過程におけるKi−67陽性細胞数を比較した結果を示す。図7a及び7bは両群間においてKi−67陽性細胞数の有意な差は認めなかった。このことから両群間における嗅細胞の分裂能には差がないことが示唆された。
【0071】
さらに、図8a及び8bは、両群間の嗅上皮再生過程における活性化カスパーゼ−3陽性細胞数(アポトーシスを起こす直前に陽性となる)を比較した結果を示す。STZマウス群において嗅上皮障害後の2週目に最も活性化カスパーゼ−3陽性細胞数が多いことがわかった(有意差あり)。図8cは、メチマゾール投与後14日目における、OMP、活性化カスパーゼ−3及びmergo陽性細胞数を比較した結果を示す。これらのことからシナプス形成時期に相当する嗅上皮障害後の2週目に、インスリンシグナルが不足したSTZ群において未熟な嗅細胞はシナプスを形成できず、アポトーシスに入る細胞が多いことがわかった。
【0072】
[III.1型糖尿病モデルマウスを用いたインスリン投与による嗅覚障害の改善効果(2)]
DMマウスにインスリン製剤を投与して、嗅上皮の再生及び成熟不良に対する改善効果を評価した。
【0073】
インスリン製剤には、「レベミル(登録商標)注フレックスペン」(以下、レベミルとよぶ。)を用いた。レベミルをインスリンデテミル2〜3U/kg単位で、DMマウスに連日1回/日腹腔内投与した。この結果、DMマウスの高血糖は是正され、血糖値は約130mg/dl前後の正常に近いレベルに血糖維持することができたため、本インスリン用量によりDMマウスのインスリン不足を適切に解消できる量とした。DMマウスにメチマゾール投与後14日目の嗅上皮組織を、インスリンを補充する時期別(a群、b群及びc群)に観察した(図9a及び図9bを参照)。図9a及び9bのとおり、インスリンデテミル 3U/kgをメチマゾール投与後の第1日目から第13日まで連日腹腔内投与して補充した群をa群、インスリンデテミル 3U/kgをメチマゾール投与後の第1日目から第日までのみ腹腔内投与した群をb群、第日〜第13日までのみ腹腔内投与した群をc群として分けた。メチマゾール投与14日目にa〜c群全てのマウスをパラフィン固定し、上述の方法で各群における嗅上皮の嗅神経細胞数(OSNs)、嗅上皮の厚み及びOMP陽性細胞数をカウントした。結果を、図9c〜9fに示す。
【0074】
その結果、a群及びc群においてメチマゾール投与後14日目において、DMマウスにおける成熟嗅神経細胞数(OMP陽性細胞数)は通常マウスとほぼ同定度であった。また、嗅上皮の厚み及び嗅神経細胞数についても通常マウスとDMマウスとで有意な差は認められなかった。
【0075】
図9c〜9fに示すとおり、障害後14日目においてb群のみ嗅上皮の厚み、OSNs及びOMP陽性細胞数において、a、c群と比較して有意な減少を認めた。a群とc群においては嗅上皮の厚み、OSNs及びOMP陽性細胞数において有意な差を認めなかった。このことから、インスリンシグナルは嗅上皮障害後の0〜日に重要なのではなく、嗅上皮障害後の7〜14日目(シナプス形成時期に相当)に適切なインスリンシグナルが存在するかしないかで、その後の嗅上皮の分化、成熟が正常に行われるかが決まるという可能性が示唆された。このことから、インスリンシグナルの依存度はシナプス形成時期に、特に高まる可能性があることが示唆された。
【0076】
以上の結果より、インスリンシグナルがシナプス形成時期にあるか無いかで、その後の嗅上皮再生の運命が決まるという事実を見出した(図10aを参照)。また、インスリンシグナルはシナプス形成時期にその依存度が高まる可能性が示唆された(図10bを参照)。神経刺激因子は、従来、常に一定程度に作用していると思われていた。しかし、本発明者らによって、依存度が時期によって変化するという初めての知見が得られた。
【産業上の利用可能性】
【0077】
本発明の嗅覚障害治療剤は、嗅覚障害を被る者の健康と福祉に貢献でき、さらに嗅覚障害に纏わる医療費の低減や労働力低下の解消など、国民経済全体に資するものである。
図1a
図1b
図2a
図2b
図3a
図3b
図3c
図4a
図4b
図4c
図4d
図4e
図5a
図5b
図5c
図5d
図5e
図6a
図6b
図6c
図7a
図7b
図8a
図8b
図8c
図9a
図9b
図9c
図9d
図9e
図9f
図10a
図10b