【新規性喪失の例外の表示】特許法第30条第2項適用 開催日 平成25年9月11日 集会名、開催場所 第61回質量分析総合討論会 つくば国際会議場エポカルつくば(茨城県つくば市竹園2−20−3)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
前記判別ステップにおいて、前記所定の糖鎖由来フラグメントイオンは、N‐アセチルグルコサミンの2−3位および4−5位のC−C結合で開裂した非還元末端側のフラグメントイオンであり、
前記所定の糖鎖由来フラグメントイオンと(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンとの質量電荷比の差が240である場合は、コアフコースの付加無し、
前記所定の糖鎖由来フラグメントイオンと(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンとの質量電荷比の差が386である場合は、コアフコースの付加有り、
として、前記判別が行われる、請求項12に記載の糖ペプチドの分析方法。
質量分析により得られた分析データが記憶される分析データ記憶部;既存の糖鎖構造データベースから得られる構造情報が記憶されるデータベース記憶部;および前記分析データ記憶部のデータと前記データベース記憶部のデータの照合を行うためのコンピュータを備えるデータ処理部、を備える糖鎖構造解析システムを用いて、アスパラギンにN‐結合型糖鎖が結合した糖ペプチドのN‐結合型糖鎖の構造を同定するための糖鎖構造解析用プログラムであって、
前記分析データ記憶部には、糖ペプチドの負イオン由来の(G+97−z)/zの質量電荷比を有する負のフラグメントイオンをプリカーサとして、MSn分析を実行することにより取得されたMSnスペクトルまたはMSnピークリストを含むデータが記憶され、
前記データベース記憶部には、任意の既知のN‐結合型糖鎖の質量をGxとした場合に、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサイオン(ただし、zxは負イオンの電荷数であり自然数である)を開裂させて得られるフラグメントイオンの、既知のMSNスペクトルまたはMSNピークリスト(ただし、Nは2以上の整数である)を含むデータが記憶され、
前記分析データ記憶部のデータと前記データベース記憶部のデータとを照合することにより、両者が一致するか否かの判断、または両者の類似度のスコア付けを行うステップを、前記データ処理部のコンピュータに実行させることを特徴とする、糖鎖構造解析用プログラム。
質量分析により得られた分析データが記憶される分析データ記憶部;既存の糖鎖構造データベースから得られる構造情報が記憶されるデータベース記憶部;および前記分析データ記憶部のデータと前記データベース記憶部のデータの照合を行うためのコンピュータを備えるデータ処理部、を備える糖鎖構造解析システムを用いて、アスパラギンにN‐結合型糖鎖が結合した糖ペプチドのN‐結合型糖鎖の構造を同定するための糖鎖構造解析用プログラムであって、
前記分析データ記憶部には、糖ペプチドの負イオン由来の(G+97−z)/zの質量電荷比を有する負のフラグメントイオンをプリカーサとして、MSn分析を実行することにより取得されたMSnスペクトルまたはMSnピークリストを含むデータが記憶されており、
前記データベース記憶部には、任意の糖鎖データベースに格納されている糖鎖構造に基づいて計算された、(Sx+79−zx)/zxの質量電荷比を有するフラグメントイオンの仮想MSNスペクトルまたは仮想MSNピークリスト(ただし、Sxは既知のN‐結合型糖鎖の質量であり、zxは電荷数であり自然数であり、Nは2以上の整数である)を含むデータが記憶されており、
前記分析データ記憶部のデータと前記データベース記憶部のデータとを照合することにより、両者が一致するか否かの判断、または両者の類似度のスコア付けを行うステップ を、前記データ処理部のコンピュータに実行させることを特徴とする、糖鎖構造解析用プログラム。
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0015】
上記のように、負イオンモードの多段階質量分析による、糖ペプチドの糖鎖構造解析方法がいくつか提案されている。しかしながら、特許文献2にも記載されているように、N‐結合型糖鎖のMS
2分析では、CID開裂の際にコアフコースの脱離が生じる可能性があり、コアフコースの有無の同定は困難であった。また、非特許文献1,2において、負イオンモードMS
2で検出される
2,4A
Rフラグメントは、糖鎖構造の大部分を含んでいるが、糖鎖還元末端のGlcNAcの1,2,5,6位の炭素を含んでいない。コアフコースは、GlcNAcの6位に付加するため、糖鎖がコアフコースを含むか否かに関わらず、
2,4A
Rフラグメントはコアフコースを含んでいない。そのため、
2,4A
Rフラグメントをさらに開裂させMS
3以上の多段階質量分析を行っても、コアフコースの有無を判断することはできない。
【0016】
このように、従来技術では、N‐結合型糖鎖を含む糖ペプチドの多段階質量分析によって、糖鎖の分枝構造やコアフコースの有無等を反映した糖鎖由来フラグメントを得ることは困難である。すなわち、ペプチド部分の構造に大きな影響を受けることなく、データベースとのマッチング等を用いて、詳細な糖鎖構造を容易に同定し得るユニバーサルな糖鎖構造の分析方法は未だ開発されていない。このような現状に鑑み、本発明は、多段階質量分析により、複雑な糖鎖構造やコアフコースの有無をも同定し得る糖ペプチドの分析方法の提供を目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0017】
本発明者は、N‐結合型糖鎖を含む糖ペプチドの負イオンMS
2スペクトルを数多く取得して、糖鎖構造の解析方法について検討を進める中で、糖鎖残基+96の質量電荷比(m/z)を有するMS
2フラグメントが生成することを見出した。この[糖鎖残基+96]
−フラグメントをMS
3で詳細に解析したところ、完全な糖鎖残基構造を含んでおり、MS
3分析により、コアフコースの有無も解析可能であることが判明した。また、[糖鎖残基+96]
−フラグメントは、ペプチド部分のアミノ酸配列に依存することなく、同一のMS
3ピークを示すことが判明した。
【0018】
本発明は、上記知見に基づいてなされたものであり、アスパラギンにN‐結合型糖鎖が結合した糖ペプチドを、質量分析装置を用いて分析する方法に関する。本発明の分析方法では、糖ペプチドの負イオンMS
n分析(nは2以上の整数)が行われる。本発明の分析方法は、糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンの中からMS
nプリカーサを選定するMS
nプリカーサ選定ステップ;およびMS
nプリカーサ選定ステップで選定されたMS
nプリカーサを開裂させ、MS
n分析を実行するMS
n分析ステップ、をこの順に有する。
【0019】
本発明の分析方法では、MS
nプリカーサ選定ステップにおいて、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンが、MS
nプリカーサとして選定される。ここで、Gは糖鎖残基の質量である。糖鎖残基の質量とは、糖鎖を構成する単糖残基の質量の総和である。単糖残基の質量とは、単糖の質量から水一分子の質量を引いた値である。zは自然数であり、MS
nプリカーサの電荷数である。例えば、MS
n−1で得られるフラグメントイオンが1価の負イオンである場合、z=1であり、選定されるMS
nプリカーサは、m/z=(G+96)である。
【0020】
なお、基準とする糖鎖残基の質量計算にはモノアイソトピックマスが好適に用いられる。この場合MS
nプリカーサとして選択されるのはモノアイソトピックマスで計算した(G+97−z)/zに一致するピークのみでも良いし、その同位体ピークを含んでいてもよく、同位体ピークのみであっても良い。質量分析装置の性能(分解能)によっては、モノアイソトピックピークとその同位体ピークとを分離できない場合がある。このような場合は、糖鎖残基の質量の計算に平均質量が用いられても良い。MS
nプリカーサを選定する際の選択幅は質量分析装置の性能に応じて適宜選択され、例えば、モノアイソトピックマスで計算した値の±10の範囲内、好ましくは±5の範囲内、より好ましくは±2の範囲内である。
【0021】
本発明の分析方法の一形態では、MS
nプリカーサ選定ステップの前に、アスパラギンにN‐結合型糖鎖が結合した糖ペプチドを負イオン化し、MS
1分析を実行するMS
1分析ステップ;およびMS
1分析ステップで得られた糖ペプチドの負イオン、またはMS
1分析ステップで得られた糖ペプチドの負イオンを開裂させて得られたフラグメントイオンを、MS
n−1プリカーサとして開裂させ、MS
n−1分析を実行するMS
n−1分析ステップ、を有する。ここでは、nは3以上の整数である。例えば、n=3の場合は、MS
1分析ステップで得られた糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサ(MS
n−1プリカーサ)として、MS
2分析が実行され、MS
2分析で得られた糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントの中から(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンがMS
3プリカーサ(MS
nプリカーサ)として選定される。
【0022】
本発明の好ましい形態において、MS
n−1分析ステップに供されるMS
n−1プリカーサは、ペプチドのC末端アスパラギン残基、またはC末端のアミノ酸残基に隣接するアスパラギン残基に、N‐結合型糖鎖が結合している糖ペプチド由来の負イオンである。C末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合したペプチドの負イオンをMS
n−1プリカーサとしてMS
n−1分析を行った場合、MS
n−1スペクトルにおいて、[糖鎖残基+96]
−フラグメント(質量電荷比がG+96のフラグメントイオン)の強いピークが現れる傾向がある。そのため、MS
n分析ステップに供されるMS
nプリカーサの量が多くなり、低濃度試料でも高精度の分析が可能となる。例えば、n=2の場合は、MS
2分析の前に、MS
1分析で得られたMS
1スペクトルに現れる糖ペプチド由来の負イオンの中から、C末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合した負イオンをMS
2プリカーサとして選定すればよい。
【0023】
MS
1分析において、C末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合した負イオンを得るためには、例えば、糖ペプチドをMS
1分析ステップに供する前の試料調製ステップにおいて、糖鎖が結合したアスパラギンのC末端、糖鎖が結合したアスパラギンのC末端側に隣接するアミノ酸残基等で、ペプチド結合が切断されるように、プロテアーゼを選択すればよい。本発明の一形態では、試料調製ステップにおいて、プロテアーゼとして、エンドペプチダーゼとエキソペプチダーゼの両方が用いられる。
【0024】
本発明の分析方法において、MS
nプリカーサとして、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンを選定する方法は特に限定されない。例えば、MS
n−1ステップで得られたMS
n−1スペクトルのピークリストと、任意の既知の糖鎖のデータベースにおける各糖鎖の質量Sxとを照合することにより、MS
nプリカーサを選定できる。この場合、既知の糖鎖の質量Sxに対して、(Sx+79−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンをMS
nプリカーサとして選択すればよい。
【0025】
また、MS
n−1分析ステップで得られたMS
n−1スペクトルのピークリストから、2つ以上のピークを抽出し、抽出されたピークのm/zの差が、予め設定された所定値と一致するピークの組み合わせから、MS
nプリカーサを選定することもできる。予め設定される所定値は、1つでもよく、2つ以上でもよい。例えば、上記所定値は、240および386である。この場合は、m/zの差が240または386である2つのピークが抽出され、m/zの大きい方のフラグメントイオンが、MS
nプリカーサとして選定される。
【0026】
なお、本明細書において、質量電荷比m/zが「一致する」との記載、あるいは等号(=)は、m/zが完全に一致することを要するものではなく、質量分析装置の性能等に応じて、±1(好ましくは±0.5以内、より好ましくは±0.1以内)の範囲の誤差を許容する。
【0027】
上記のように、2つのピークのm/zの差が240および386である場合、m/zが小さい方のフラグメントイオンは、
2,4A
R(還元末端のN‐アセチルグルコサミンの2−3位および4−5位のC−C結合で開裂した非還元末端側のフラグメントイオン)である。m/zが大きい方のフラグメントイオンは、m/z=G+96(ただし、z=1である)のフラグメントイオンであり、2つのピークのm/zの差が240の場合はコアフコースを有しておらず、m/zの差が386の場合はコアフコースを有している。
【0028】
なお、MS
n分析を実行しなくとも、MS
n−1スペクトルにおける、所定の糖鎖由来フラグメントイオンと、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンとの、質量電荷比の差に基づいてコアフコースの有無を判別することもできる。例えば、
2,4A
Rと、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンとの、質量電荷比の差を算出し、質量電荷比の差が240である場合は「コアフコース無し」、質量電荷比の差が386である場合は「コアフコース有り」と判別することができる。
【0029】
解析ステップにおいて、N‐結合型糖鎖の構造情報の抽出は、例えば、MS
n分析ステップで得られたMS
nスペクトルと、既知の糖鎖由来フラグメントのMS
Nデータベースとを照合することにより行われる。ここで、Nは2以上の整数であり、nと同一でもよく異なっていてもよい。一形態において、既知の糖鎖由来フラグメントイオンのMS
Nデータベースは、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサイオンを開裂させて得られるフラグメントイオンの、既知のMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストを含むデータベースである。別の形態において、既知の糖鎖由来フラグメントイオンのMS
Nデータベースは、任意の糖鎖データベースに格納されている糖鎖構造に基づいて計算された、(Sx+79−zx)/zxの質量電荷比を有するフラグメントイオンの仮想MS
Nスペクトルまたは仮想MS
Nピークリストを含むデータベースである。ここで、Sxは既知のN‐結合型糖鎖の質量である。zxは自然数であり、フラグメントイオン(プリカーサ)の電荷数である。
【0030】
さらに、本発明は、上記の質量分析を行うための質量分析装置に関する。本発明の質量分析装置は、質量分析部;データベース部;および前記分析対象の糖ペプチドの糖鎖構造の同定を行うデータ処理部、を備える。質量分析部は、質量分離手段およびイオン開裂手段を備え、分析対象の糖ペプチドのMS
n分析を行う。データ処理部は、質量分析部でのMS
n分析により得られた分析対象の糖ペプチドのMS
nスペクトルと、データベース部に格納されたMS
NスペクトルもしくはMS
Nピークリスト、またはデータベース部に格納された仮想MS
Nスペクトルもしくは仮想MS
Nピークリストとを照合し、糖鎖構造を同定する。
【0031】
また、本発明は、既存のデータベースや、既存のデータベースに基づいて計算される仮想MS
Nスペクトル等と、上記の負イオンMS
n分析で得られたMS
nスペクトルとを照合することにより、糖ペプチドのN‐結合型糖鎖の構造を同定するための糖鎖構造解析用プログラムに関する。
【0032】
[用語の定義]
本明細書において、「質量」とは、統一原子質量単位(unified atomic mass unit: u) またはDa, およびそれに準ずる単位によって表される値であり、無次元数である。また、質量電荷数比(m/z)は、上記の質量mをイオンの電荷数zで割ったものである。
【0033】
本明細書において、「糖ペプチドの負イオン」とは、糖ペプチドからのプロトンの脱離等によって糖ペプチドが負イオン化されたものである。「糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオン」とは、糖ペプチドの負イオンのイオン開裂により生成するフラグメントイオンである。なお、糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンは、必ずしも糖ペプチドが負イオン化された後に開裂されるとの順により生成するものである必要はない。例えばある種のインソース分解のように、糖ペプチドの開裂を生じた後に負イオン化されたものであっても、糖ペプチドが負イオン化された後に開裂されたものと同一の構造を有していれば「糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオン」に該当する。
【0034】
「MS
n分析」とは、1段階目(MS
1)で試料がイオン化され、2段階目(MS
2)以降でイオンが開裂され、開裂されたイオン(フラグメントイオン)を検出する分析方法である。本明細書では、試料をイオン化して得たマススペクトルを「MS
1スペクトル」、MS
1スペクトルで観測された特定のイオンをプリカーサとして取得したプロダクトイオンスペクトルを「MS
2スペクトル」、MS
2スペクトルで観測された特定のイオンをプリカーサとして取得したプロダクトイオンスペクトルを「MS
3スペクトル」と表記する。また、MS
nスペクトルで観測された特定のイオンをプリカーサとして取得したプロダクトイオンスペクトルを「MS
n+1スペクトル」と表記する。
【0035】
なお、インソース開裂(ISD)では、イオン化と略同時に開裂が生じ、フラグメントイオンが生成する。本明細書においては、ISDのように、イオン化(n=1)と開裂(n=2)とが略同時に生じるものを2段階であるとみなし、ISDにより略同時に生じるイオン化と開裂は、イオン化(1段階目)と開裂(2段階目)が生じているとみなす。ISDによって、イオン化(n=1)と開裂(n=2)が略同時に生じ、これによって得られるフラグメントイオンをプリカーサとして、さらにイオン開裂を行う場合、ISDによるイオン化および開裂の時点で、一般的な質量分析(ポストソース開裂)によるMS
2と等価のフラグメントイオンが得られていると解釈できる。そのため、ISDによるイオン化および開裂で得られたフラグメントイオンをプリカーサイオンとして、これをさらに開裂させる場合は、MS
3分析であるとみなす。
【発明の効果】
【0036】
糖ペプチドの負イオンを開裂させたときに生じるm/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンは、糖ペプチドの糖鎖の完全な構造を含んでおり、コアフコースの有無等の糖鎖構造情報を反映している。このフラグメントイオンをMS
3プリカーサとして開裂させることにより得られるMS
3スペクトルは、ペプチド部分の構造に大きな影響を受けず、糖鎖構造が同一であれば、同一のMS
3ピークが得られる。そのため、本発明によれば、データベースとのマッチング等を用いて、詳細な糖鎖構造を容易に同定することができる。
【発明を実施するための形態】
【0038】
本発明の糖ペプチドの分析方法では、アスパラギン(Asn)にN‐結合型糖鎖が結合した糖ペプチドを分析対象として、質量分析法により糖鎖構造の解析が行われる。糖ペプチドは、N‐結合型糖鎖を含むものであれば、特に限定されない。分析対象の糖ペプチドは、予め調製されたものをそのまま用いてもよい。好ましくは、本発明の分析方法に適するように試料調製が行われる。
【0039】
以下では、MS
1で糖ペプチドを負イオン化し、MS
1分析で得られた糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとしてMS
2分析を行い、MS
2分析で得られた糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンの中からMS
3プリカーサを選定し、MS
n分析(n=3)が行われる場合を中心に、本発明の実施形態について説明する。
【0040】
[試料調製]
一般に、質量分析によるペプチドの構造解析において、ペプチド部分のアミノ酸残基数が多いと、MS
1でのイオン化が困難となったり、MS
2スペクトルにおけるピーク数が増大し、解析が困難となる傾向がある。そのため、プロテアーゼ消化や化学処理を行い、ペプチド部分を質量分析に適した長さ(アミノ酸残基数)に切断したペプチド断片を用いて分析が行われる。同様に、本発明の糖ペプチドの分析方法においても、質量分析を実行する前の試料調製において、プロテアーゼ消化等により、質量分析に適した長さを有する糖ペプチド断片が生成されることが好ましい。質量分析に適した長さとは、例えば、アミノ酸残基数が30以下、好ましくは20以下、より好ましくは15以下である。一方、糖ペプチドの由来を明確とする観点から、ペプチド部分のアミノ酸残基数は2以上が好ましい。
【0041】
試料調製に用いられるプロテアーゼは特に限定されず、エンドペプチダーゼ(特定の配列の特定の結合を選択的に切断する)およびエキソペプチダーゼ(C末端またはN末端のアミノ酸のペプチド結合を切断する)のいずれも使用できる。
【0042】
エンドペプチダーゼとしては、トリプシン(塩基性アミノ酸残基(ArgおよびLys)のC末端側でペプチドを切断する)、Lys‐C(LysのC末端側でペプチドを切断する)、アルギニンエンドペプチダーゼ(ArgのC末端側でペプチドを切断する)、キモトリプシン(芳香族アミノ酸(Phe、TyrおよびTrp)のC末端側でペプチドを切断する)、ペプシン(芳香族アミノ酸(Phe、TyrおよびTrp)のN末端側でペプチドを切断する)等が広く知られている。また、レグマチュレインのように、AsnのC末端側でペプチドを切断するアスパラギンエンドペプチダーゼ(Asn−C)も好適に用いられる。上記の他、サーモリシンやプロテイナーゼKのような特異性の低いエンドペプチダーゼを用いることもできる。
【0043】
エキソペプチダーゼとしては、ペプチドのN末端から順次ペプチド結合を切断するアミノペプチダーゼ、C末端から順次ペプチド結合を切断するカルボキシペプチダーゼのいずれも用いることができる。
【0044】
後に詳述するように、本発明の分析方法の一形態では、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとしてMS
2分析が行われる。この場合、MS
2プリカーサは、ペプチドのC末端のAsn、またはC末端のアミノ酸残基に隣接するAsnに、N‐結合型糖鎖が結合していることが好ましい。そのため、プロテアーゼ消化による試料調製では、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチド断片が生成されることが好ましい。換言すれば、本発明においては、試料調製の際に、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドが生成されるように、プロテアーゼが選択されることが好ましい。
【0045】
プロテアーゼは、ペプチドのアミノ酸配列を考慮して選択される。例えば、上述のアスパラギンエンドペプチダーゼを単独で用いることにより、C末端のAsnに糖鎖が結合している糖ペプチドが得られる。また、糖鎖が結合したAsnのC末端側に隣接してArgまたはLysが存在する場合は、トリプシンを単独で用いることにより、C末端のアミノ酸残基に隣接するアスパラギン残基に糖鎖が結合している糖ペプチドが得られる。
【0046】
また、試料調製に用いるプロテアーゼとして、エンドペプチダーゼとエキソペプチダーゼの両方を用いてもよい。例えば、エンドペプチダーゼ単独では、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドを得ることが困難な場合は、エンドペプチダーゼとエキソペプチダーゼの両方を用いることで、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドを生成させることができる。エンドペプチダーゼによる消化とエキソペプチダーゼによる消化は、両方を同時に行ってもよく、順次行ってもよい。また、プロナーゼEのような、エキソペプチダーゼとエンドペプチダーゼの混合物を用いることもできる。
【0047】
プロテアーゼ消化の条件は特に限定されず、使用するプロテアーゼに応じた適宜のプロトコールが採用される。例えば、プロテアーゼの至適pH近傍に調製された緩衝溶液中で、通常37℃程度の温度で、4時間〜20時間程度インキュベートすることが好ましい。プロテアーゼ消化に先立って、試料中のタンパク質およびペプチドの変性処理やアルキル化処理が行われてもよい。変性処理やアルキル化処理の条件は特に限定されず、公知の条件が適宜に採用される。
【0048】
プロテアーゼ消化後の糖ペプチド試料は、必要に応じて、精製、脱塩、可溶化、濃縮、乾燥等の処理が行われても良い。これらの処理は、公知の方法を利用して行うことができる。特に、複数の糖ペプチドが含まれる試料や、他のペプチドとの混合物等の複雑な試料の分析を行う場合は、質量分析に供する前に、液体クロマトグラフ(liquid chromatography: LC)や、固相抽出(solid-phase extraction: SPE)等により、糖ペプチドを分離・濃縮することが好ましい。
【0049】
LCにより試料の分離を行う場合、質量分析の前段としてLCを備えるLC/MSを用い、LCからの溶出液を直接イオン化しイオン開裂に供しても良い。また、LCからの溶出液を一度分取してから、質量分析に供してもよい。LCのカラムやSPEの担体は特に限定されず、ペプチドの分析に一般的に用いられるC30,C18,C8,C4等の疎水カラムや、親水性アフィニティークロマトグラフィー用の担体等を適宜に選択して用いることができる。また、糖ペプチドの異性体を分離する目的で、カーボンカラムやカーボン担体が用いられてもよい。
【0050】
[質量分析]
糖ペプチド試料は、多段階質量分析に供される。多段階質量分析の2段階目(MS
2)以降は、フラグメントイオンの開裂を生じさせる分析法であり、イオン開裂法は、ポストソース型とインソース型に分類される。ポストソース型のイオン開裂法としては、ポストソース分解(Post Source Decay; PSD)、衝突誘起解離(Collision Induced Dissociation; CID)、赤外多光子解離(infrared multiphoton dissociation; IRMPD)、表面誘起解離(surface-induced dissociation; SID)、および光誘起解離(photo-induced dissociation; PID)等が挙げられる。また、電子捕獲解離(electron-capture dissociation; ECD)、電子移動解離(electron-transfer dissociation; ETD) 、電子脱離解離(electron-detachment dissociation; EDD)およびそれらに準じる奇数電子誘発型の解離技術が用いられても良い。MS
3分析により糖ペプチドの構造解析を行う場合は、MS
2およびMS
3におけるイオン開裂が、衝突誘起解離(collision induced dissociation; CID)、ならびに赤外多光子解離(infrared multiphoton dissociation; IRMPD)およびこれに準ずる振動励起を伴うイオン活性化法であることが好ましい。CIDやIRMPDによるイオン開裂を実施可能な質量分析装置としては、衝突室、又は衝突室の機能を持つ四重極もしくはイオントラップを有する質量分析装置が挙げられる。具体的には、イオントラップ型質量分析計、二重収束型質量分析計、三連四重極型質量分析計、四重極飛行時間型質量分析計、四重極−イオントラップ型質量分析計、四重極−フーリエ変換型質量分析計、四重極−オービトラップ型質量分析計、イオントラップ−飛行時間型質量分析計、飛行時間型−飛行時間型質量分析計等が挙げられる。
【0051】
なお、MS
n(nは4以上)の多段階質量分析が行われる場合は、(n−2)段階目あるいはそれよりも前の段階のMSにおいて、ペプチド部分を特異的に開裂させる開裂法を用いることも好ましい。例えば、MS
2において、電子脱離解離(electron-detachment dissociation; EDD)のように、ペプチド部分を特異的に開裂させる開裂法を採用することにより、ペプチドのC末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンが得られる。この場合は、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとしてMS
2分析を行う場合と同様のフラグメントイオンが得られ、分析精度の向上が期待できる(詳細後述)。
【0052】
インソース開裂(in-source dissociation; ISD)としては、イオン化の際に用いるイオン化補助物質(例えばMALDI法の際のマトリックス等)との相互作用に基づいて開裂させる方法、イオン化の際に用いるレーザーや電圧の付加を高めることによって開裂を誘発する方法、イオン化直後にイオン化室内で残存ガスとの衝突により開裂を誘発する方法等が挙げられる。ISDではイオン化の際に1段階でフラグメントイオンが生じる。
【0053】
上記の中でも、MALDI法の際のマトリックスをイオン化及び開裂補助物質とするMALDI−ISD法では、マトリックスを選択することにより、糖ペプチドのペプチド部分を特異的に開裂させることができる。そのため、MALDI−ISD法等では、イオン化と略同時に生じる開裂によって、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチド由来の負イオン、すなわち、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとしてMS
2分析を行う場合と同様のフラグメントイオンが得られる場合があり、分析精度の向上が期待できる(詳細後述)。
【0054】
ISDを実施する場合、上記の衝突室または衝突室の機能を有する質量分析装置に加えて、四重極型、飛行時間型質量分析計、磁場型質量分析計等のように衝突室の機能を持たない質量分析計を用いても良い。
【0055】
ISDにより生じたフラグメントイオンをプリカーサとして、さらにイオン開裂を生じさせることもできる。この場合、インソース型とポストソース型を組み合わせても良い。前述のように、ISDによるイオン化および開裂で得られたフラグメントイオンをプリカーサイオンとして、これをさらに開裂させる場合は、MS
3分析であるとみなす。
【0056】
<MS
1分析>
糖ペプチドの質量分析においては、MS
1分析ステップにおいて、糖ペプチドが負イオン化され、MS
1分析が実行される。第一質量分析(MS
1)のイオン化法としては、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)法、エレクトロスプレーイオン化(ESI)やナノエレクトロスプレーイオン化(nano−ESI)法等が挙げられる。特に、MALDI法が好適である。
【0057】
<MS
2プリカーサ選定、およびMS
2分析>
次いで、MS
2分析(MS
n−1分析ステップ)において、MS
1で得られた負イオンがCIDやIRMPD等により開裂され、MS
2分析が実行される。MS
2分析では、MS
1で得られた全てのピークを網羅的にMS
2に供することもできるが、MS
1スペクトルに現れる糖ペプチド由来の負イオンをMS
2プリカーサとして選定し、選定された負イオンを選択的にMS
2に供することが好ましい。
【0058】
分析対象の糖ペプチドの質量が既知の場合は、当該質量から算出される負イオンのm/zに基づいて、MS
2プリカーサを選定できる。また、ほぼ全てのN‐結合型糖鎖は、還元末端に、Manα1-6(Manα1-3)Manβ1-4GlcNAcβ1-4GlcNAcの構造(トリマンノシルコア)を有しており、トリマンノシルコアの非還元末端に付加する単糖の種類も有限であるため、N‐結合型糖鎖が採り得る質量は有限である。そのため、糖鎖部分の質量が未知の場合でも、[ペプチド部分の質量+N‐結合型糖鎖残基の採り得る質量]に基づいて、糖ペプチドの負イオンが採り得るm/zの候補を算出することができ、これらの候補と、MS
1スペクトルに現れるピークのm/zとを照合することにより、MS
2プリカーサを選定できる。なお、N‐結合型糖鎖残基の採り得る質量は、既存の糖鎖データベース等を利用して算出できる。
【0059】
本発明においては、C末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオンが、MS
2プリカーサとして選定されることが好ましい。中でも、選定されるMS
2プリカーサは、ペプチドのC末端のAsn、またはC末端のアミノ酸残基に隣接するAsnに、N‐結合型糖鎖が結合していることが特に好ましい。
【0060】
本発明者は、N‐結合型糖鎖を有する糖ペプチドの負イオンMS
2分析において、質量電荷比m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンが生成しており、特に、z=1、すなわちm/z=G+96のフラグメントイオンの生成量が多い傾向があることを見出した。ここで、Gは糖鎖残基の質量であり、zはイオンの電荷数である。さらに、このm/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンをプリカーサとしてMS
3分析を行った場合、ペプチド部分の構造に関係なく、糖鎖構造が同一であれば、同一のMS
3ピークを有するMS
3スペクトルが得られることが見出された。また、糖鎖の骨格が同一であり、還元末端のN‐アセチルグルコサミン(GlcNAc)にコアフコースが付加している糖鎖とコアフコースが付加していない糖鎖とでは、MS
2で検出される、m/z=(G+96)のフラグメントイオン(ただし、z=1である)のm/zの差が146である。この差は、フコース(分子量164)から水分子が脱離したフコース残基の質量と同一であり、m/z=(G+96)のフラグメントイオンは、コアフコースの有無も含めた完全な糖鎖構造を反映している。
【0061】
(フラグメントの推定構造)
現段階では、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンの分子構造は明らかではないが、このフラグメントイオンは糖鎖残基よりも質量が大きく、かつペプチド部分のアミノ酸配列に影響を受けないことから、N‐結合型糖鎖残基と、糖鎖が結合しているアスパラギン(分子量:132)の一部とを含む負イオンと考えられる。アスパラギンの分子量が132であることから、G+97は、G+Asn−35と表すことができ、質量35に相当する化学種がAsnから脱離したものであると考えられる。アスパラギンの化学式を考慮すると、ONH
5=35が脱離している可能性が高く、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンは、アスパラギンからH
2OおよびNH
3が脱離した化学構造と糖鎖残基とを含むものと推定される。なお、電荷数zの負のフラグメントイオンでは、z個のプロトンが脱離しているため、フラグメントイオンの質量電荷比m/zは(G+97−z)/zとなり、z=1の場合、m/z=G+96である。
【0062】
G+97(=G+Asn−35)の質量を有する分子構造としては、例えば、下記式で表されるように、マレイミドの窒素原子に糖鎖残基が付加した構造が推定される。
【0064】
タンパク質の翻訳後修飾では、以下の化学式で表されるように、AsnのC末端側のペプチド結合を構成する窒素原子の不対電子がAsnの側鎖を求核攻撃し、スクシンイミド中間体を経てアスパラギン酸(Asp)を生じることが知られている(生化学的脱アミド)。
【0066】
ペプチドの負イオン開裂では、以下の化学式で表されるように、Aspの不斉炭素とアミノ基との間のC−N結合における優先的な開裂が生じ、AspのN末端側のペプチド(下記式のc)が脱離することが知られている。また、この開裂に伴って、AspのC末端側のペプチド結合を構成する窒素原子の不対電子がAspの側鎖を求核攻撃し、N‐置換マレイミド構造を有するz−H
2Oタイプの負イオンが生成することが知られている。
【0068】
上記のように、AsnおよびAspの側鎖は、いずれも窒素原子の求核反応により五員環イミド構造を生じやすいこと、および負イオン開裂の際に、五員環イミド(マレイミド)構造とともにN末端側での開裂が生じやすいことが知られている。これらを勘案すると、糖鎖が付加したAsn((g)Asn)を含む糖ペプチドの負イオンMS
2においても、Aspを含むペプチドの負イオン開裂の際と同様に、AsnのC−N結合での開裂が生じ、以下の推定メカニズムで表されるように、z−H
2Oタイプの負イオンが生成すると推定される。
【0070】
上記のように、Asnの不斉炭素とアミノ基との間で開裂が生じるとの推定メカニズムによれば、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンにおいて、アスパラギンから1個の窒素原子が脱離していることを合理的に説明できる。また、糖鎖が結合したAsnのN末端側のペプチドのアミノ酸配列とは無関係に、同一の化学種(負イオン)が生じることも合理的に説明可能である。
【0071】
なお、上記の推定メカニズムでは、糖ペプチドのC末端アミノ酸として、糖鎖の付加したAsn((g)Asn)が示されているが、本発明者の検討によれば、(g)AsnのC末端側にアミノ酸を有する糖ペプチドの負イオンのMS
2においても、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンが検出されることが確認されている(例えば、
図7(A)参照)。ペプチドの負イオン開裂では、上述のようにAsnのC−N結合で選択的な開裂が生じやすいことに加えて、ペプチドのC末端アミノ酸のN末端側のペプチド結合での開裂が生じ、C末端アミノ酸残基の脱離が生じることも報告されている(Journal of Mass Spectrometry, 41 (2006), pp. 939-949)。そのため、(g)AsnのC末端側にアミノ酸を有する糖ペプチドの負イオンがMS
2プリカーサである場合は、MS
2の負イオン開裂によって、先に、C末端側のアミノ酸の脱離が生じてC末端が(g)Asnとなり、その後、上記推定メカニズムと同様に、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンが生成する等のメカニズムが考えられる。
【0072】
なお、上記報告では、C末端アミノ酸が、酸性アミノ酸(GluもしくはAsp)またはSerである場合に、C末端の脱離が顕著であることが報告されている。一方、本発明における糖ペプチドの質量分析方法では、後の実施例で示すように、(g)AsnのC末端側に隣接するアミノ酸が、塩基性アミノ酸であるLysの場合にもC末端アミノ酸の脱離が生じることが示されている。そのため、MS
2プリカーサが、(g)AsnのC末端側にアミノ酸を有する糖ペプチドの負イオンである場合、(g)AsnのC末端側のアミノ酸が、Glu,Asp,Ser以外でも、m/z=(G+97−z)/zのMS
2ピークが検出されることがわかる。
【0073】
前述のように、(g)Asnの不斉炭素とアミノ基のC−N結合の開裂は、位置選択的(アミノ酸選択的)であり、(g)AsnのN末端側に多数のアミノ酸を有するペプチドでも、当該開裂が生じると考えられる。一方、(g)AsnのC末端側の脱離は、C末端アミノ酸からの順次脱離であると考えられる。そのため、MS
2プリカーサは、(g)AsnのN末端側に多数のアミノ酸を有していてもよいが、(g)AsnのC末端側のアミノ酸残基数が多くなると、m/z=(G+97−z)/zのMS
2ピーク強度が急激に小さくなる傾向がある。したがって、本発明の分析方法におけるMS
2プリカーサは、C末端付近に(g)Asnを有することが好ましく、C末端アミノ酸またはC末端のアミノ酸に隣接するアミノ酸が(g)Asnであることが特に好ましい。なお、MS
n分析(nは4以上)により糖ペプチドの糖鎖構造の解析が行われる場合は、MS
n−1プリカーサが、C末端付近に(g)Asnを有することが好ましい。
【0074】
<MS
3プリカーサ選定、およびMS
3分析>
MS
3分析(MS
n分析ステップ)では、MS
2で得られた負のフラグメントイオンがCIDやIRMPD等により開裂され、MS
3分析が実行される。MS
3分析は、糖ペプチドにおける糖鎖構造の解析を目的として行われる。そのため、MS
2ピークの中から、質量電荷比m/z=(G+97−z)/zを有するフラグメントイオンをMS
3プリカーサとして選定した上で、MS
3分析が行われる。
【0075】
糖鎖の質量(または分子量)が既知の場合は、G+96(電荷数z=1の場合)、(G+95)/2(z=2の場合)、(G+94)/3(z=3の場合)等のm/zを有するMS
3プリカーサ候補を容易に選定できる。糖鎖の質量(または分子量)が未知の場合は、(G+97−z)/zの取り得る値を推測することにより、MS
3プリカーサ候補を選定できる。
【0076】
(G+97−z)/zの取り得る値は、例えば、既知の糖鎖の質量から算出できる。この場合、MS
2スペクトルのピークリストと、既知の糖鎖データベースに格納された各糖鎖の質量Sxとを照合して、MS
2スペクトルのピークリストの中から、(Sx+79−z)/zの質量電荷比を有する一次フラグメントイオンをMS
3プリカーサ候補として選定できる。なお、糖鎖残基の質量は、糖鎖を構成する単糖残基の質量の総和であり、糖鎖の質量から水一分子の質量を引いた値であるため、糖鎖の質量をSとした場合、(G+97−z)/z=(S+79−z)/zである。
【0077】
また、MS
2スペクトルのピークリストから、質量電荷比の差が所定値である2つのピークを抽出することにより、MS
3プリカーサを選定することもできる。糖ペプチドの負イオンMS
n(nは2以上)では、特定のフラグメントイオンが大きなピーク強度で検出される傾向があることが知られている。本発明の分析方法においても、MS
2スペクトルにおいて、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオン以外に、従来知られているのと同様の糖鎖由来のフラグメントイオン(
2,4A
R,
2,4A
R−1,B
R−1等)が検出される。N‐結合型糖鎖の非還元末端側の構造は多様性を有しているが、前述のように、ほぼ全てのN‐結合型糖鎖の還元末端は、トリマンノシルコアであり、コアフコースの有無のみが異なる。そのため、m/z=(G+97−z)/zのフラグメンイオントと、
2,4A
R,
2,4A
R−1,B
R−1等の所定の糖鎖由来のフラグメントイオンのm/zの差が採り得る値は一定である。
【0078】
例えば、負イオンMS
n(nは2以上)では、
2,4A
Rフラグメントイオンの強いピークが現れることが知られている。
2,4A
Rフラグメントイオンおよびm/z=G+96のフラグメントイオンの両者がいずれも1価の負イオンである場合、これらのm/zの差は、糖鎖の還元末端単糖にコアフコースを有していない場合は240、コアフコースを有している場合は386である。そのため、MS
2ピークリストの中から、m/zの差が、240あるいは386である2つのピークを抽出し、これら2つのピークのうちm/zの大きい方のフラグメントイオンがm/z=(G+97−z)/z(ただし、z=1)であると判断して、MS
3プリカーサ候補として選定できる。
【0079】
なお、上記では、m/z=(G+97−z)/zのMS
3プリカーサが1価の負イオン(z=1)である場合を例示したが、MS
3プリカーサは2価以上の負イオンであってもよい。また、MS
3プリカーサ選定の基準となる
2,4A
R等の糖鎖由来フラグメントイオンも、2価以上の負イオンであってもよい。フラグメントイオンの電荷数が2以上の場合は、MS
3プリカーサ選定のための「予め設定された1以上の所定値」は、電荷数を考慮して設定する必要がある。
【0080】
例えば、抽出された2つのフラグメントイオンのm/zが、それぞれa
1およびa
2であり、前者の電荷数がz
1、後者の電荷数がz
2である場合、それぞれのフラグメントの負イオン化(脱プロトン化)前の化学種の質量を、A
1およびA
2とすると、
a
1=(A
1−z
1)/z
1 …(式1)
a
2=(A
2−z
2)/z
2 …(式2)
と表すことができる。
【0081】
これら2つのフラグメントイオンが、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンと、
2,4A
Rフラグメントイオンの組み合わせである場合、A
1とA
2の差は、240(コアフコース無しの場合)または386(コアフコース有の場合)に等しい(ただし、A
1>A
2)。
【0082】
上記(式1)および(式2)を整理すると、
A
1=a
1z
1+z
1 …(式1a)
A
2=a
2z
2+z
2 …(式2a)
であるから、
A
1−A
2=a
1z
1+z
1−a
2z
2−z
2 …(式3)
となる。
【0083】
これらの関係から、A
1−A
2の値(上記式3の左辺)が、240または386に等しいことは、抽出された2つのピーク(m/z=a
1およびm/z=a
2)に関して、a
1z
1+z
1−a
2z
2−z
2の値(上記式3の右辺)が、240または386となるz
1およびz
2(いずれも自然数)の組合せが存在することと等価であるといえる。すなわち、a
1z
1+z
1−a
2z
2−z
2の値が240または386となるz
1とz
2の組合せが存在することを基準として、MS
3プリカーサ候補の選定を行い得ることが分かる。このような組み合わせが存在する場合に、m/z=a
1=(A
1−z
1)/z
1のフラグメントイオンを、MS
3プリカーサ候補として選定できる。
【0084】
なお、
2,4A
Rフラグメントイオンは、そのほとんどが1価の負イオンであるため、検出および選定の精度を高めるためには、1価の
2,4A
Rフラグメントイオンを基準として、m/zの差が、予め設定された1以上の所定値と等しいか否かによって、MS
3プリカーサ選定が行われることが好ましい。この場合、上記(式2)において、z
2=1であるから、a
1z
1+z
1−a
2の値が、241または387となる自然数z
1が存在することを基準として、MS
3プリカーサ候補を選定できる。
【0085】
2つのフラグメントイオンがいずれも1価の負イオンの場合、z
1=1,z
2=1であるから、a
1−a
2の値が240または386となることを基準として、MS
3プリカーサ候補が選定される。この場合は、前述のように、m/zの大きい方(m/z=a
1)のフラグメントイオンが、m/z=(G+97−z)/z(ただし、z=1)であると判断して、MS
3プリカーサ候補が選定される。
【0086】
MS
3プリカーサ選定のための「予め設定された1以上の所定値」は、
2,4A
R以外の糖鎖由来フラグメントイオンを基準として設定することもできる。例えば、
2,4A
R−1フラグメントイオンとm/z=G+96のフラグメントイオン(いずれも1価の負イオン)のm/zの差は、糖鎖がコアフコースを有していない場合は443、コアフコースを有している場合は589である。そのため、m/zの差がこれらのいずれかと一致する2つのピークを抽出することによっても、MS
3プリカーサ候補を選定できる。
【0087】
また、MS
2スペクトルから、3つ以上のピークを抽出し、各ピークのm/zの差に基づいてMS
3プリカーサ候補の選定、あるいは絞り込みを行うこともできる。例えば、抽出された3つのピーク(いずれも1価の負イオンフラグメント)のそれぞれのm/zの差を算出し、m/zが最も大きいフラグメントイオンと、m/zが2番目に大きいフラグメントイオンのm/zの差が、240または386であれば、上述のようにm/zが最も大きいフラグメントイオンをMS
3プリカーサ候補として抽出できる。
【0088】
ここで、
2,4A
Rフラグメントイオンと
2,4A
R−1フラグメントイオンのm/zの差は、コアフコースの有無に関わらず203である。そのため、抽出された3つのピークのうち、m/zが最も大きいフラグメントイオンと、m/zが2番目に大きいフラグメントイオンのm/zの差が、240または386であり、かつ、m/zが2番目に大きいフラグメントイオンとm/zが最も小さいフラグメントイオンのm/zの差が203であれば、3つのピークが、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオン、
2,4A
Rフラグメントイオンおよび
2,4A
R−1フラグメントイオンの組み合わせに対応している蓋然性が高いといえる。一方、m/zの差が、240または386である2つのピークが抽出された場合でも、m/zの差が203である3番目のピークが存在しない場合は、抽出された2つのピークは、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンと
2,4A
Rフラグメントイオン以外の組み合わせである可能性が高いため、MS
3プリカーサ候補から除外できる。
【0089】
このように、3つ以上のピークのm/zの差に基づいてMS
3プリカーサ候補の選定を行うことにより、MS
3プリカーサ候補の絞り込みを行うことができ、プリカーサ選定の信頼性を高めることができる。なお、3つ以上のピークのm/zの差に基づいてMS
3プリカーサの選定を行う場合も、3つ以上のピークの中から、2つを抜き出して、そのm/zの差の算出が行われる。そのため、当該形態は、「2つのピークの抽出結果に基づいてMS
3プリカーサ(MS
nプリカーサ)が選定される」形態に包含される。
【0090】
MS
3プリカーサの選定において、プリカーサ候補は必ずしも1つに絞り込む必要はない。上記のようなプリカーサ選定方法を単独で、あるいは複数を組み合わせて、MS
3プリカーサの選定を行った結果として、複数のMS
3プリカーサ候補が選定された場合は、複数のMS
3プリカーサを順次MS
3分析に供してもよい。
【0091】
選定されたMS
3プリカーサが、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンとして適切であるか否かは、そのフラグメントのMS
3スペクトルからも確認することができる。m/z=(G+97−z)/zは、糖鎖の完全な構造を含んでいるため、このフラグメントイオンをMS
3プリカーサとして負イオン開裂させたMS
3スペクトルは、
2,4A
R等の糖鎖由来フラグメントイオンのピークを含む。そのため、MS
3スペクトルにこれらの糖鎖由来フラグメントが予想されるm/zに検出されているか否かにより、MS
3プリカーサの選定が適切であったか否かを判断できる。
【0092】
例えば、MS
3プリカーサとそのフラグメントイオンが共に一価のイオンであり、糖鎖がコアフコースを含有している場合は、MS
3プリカーサよりもm/zが386小さいフラグメントイオン(
2,4A
R)、MS
3プリカーサよりもm/zが446小さいフラグメントイオン(B
R−1)、MS
3プリカーサよりもm/zが589小さいフラグメントイオン(
2,4A
R−1)等の強いピークが、MS
3スペクトルで検出されることが多い。また、糖鎖がコアフコースを含有していない場合は、MS
3プリカーサよりもm/zが240小さいフラグメントイオン(
2,4A
R)、MS
3プリカーサよりもm/zが443小さいフラグメントイオン(
2,4A
R−1)等の強いピークが、MS
3スペクトルで検出されることが多い。
【0093】
このような、MS
nプリカーサとMS
nフラグメントイオンのm/zの差を「ニュートラルロス」と称する場合がある。上記のように、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントをMS
3プリカーサとして、MS
3分析を実行すれば、
2,4A
R、
2,4A
R−1、B
R−1等の糖鎖由来のフラグメントイオンを生成する場合のニュートラルロスは、糖鎖構造の異同に関わらず普遍的である。そのため、MS
3スペクトルにおいてこれらのニュートラルロスに相当するピークが検出されているか否かによって、MS
3プリカーサの選定が適切であったか否かを判断できる。m/z=(G+97−z)/z以外のフラグメントをプリカーサとしてMS
3分析を実行した場合、MS
3スペクトルにおいて、これらのフラグメント群は検出されない。あるいは、仮に、これらのフラグメント群が検出されたとしても、(G+97−z)/zのm/zからニュートラルロスを差し引いたm/zにピークが観測されないため、MS
3プリカーサの選定が不適切であったと判断できる。この場合は、再度MS
3プリカーサの選定を実施して、MS
3分析を実行すればよい。なお、二価の(G+97−z)/zから一価の
2,4A
R、B
R−1、
2,4A
R−1が生成する場合もあるため、プリカーサもしくはフラグメントイオンまたはその両方の電荷数が2以上の場合は、MS
3プリカーサの選定が適切であったか否かを判断するためのニュートラルロスの値を、電荷数を考慮して設定する必要がある。
【0094】
[糖鎖構造情報の抽出]
本発明の分析方法では、得られた質量分析結果(MS
1,MS
2およびMS
3スペクトル)に基づいて、N‐結合型糖鎖の構造情報が抽出され、糖鎖構造の解析が行われることが好ましい。抽出される糖鎖の構造情報は特に限定されない。
【0095】
例えば、分析前に糖鎖の質量が未知の場合、MS
2スペクトルから、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンのm/zの値に基づいて、糖鎖残基の質量Gを算出できる。糖鎖残基の質量Gは、N‐結合型糖鎖の構造情報の一例である。また、前述のように、MS
2スペクトルのピークリストに基づいて、所定の糖鎖由来フラグメントイオン(例えば、
2,4A
R)とm/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンのm/zの差を算出することにより、糖鎖還元末端単糖へのコアフコースの付加の有無を判別できる。
【0096】
なお、フラグメントイオンが2価以上の場合は、MS
3プリカーサの選定に関して前述したように、a
1z
1+z
1−a
2z
2−z
2の値(上記式3の右辺)が、240または386となるz
1およびz
2の組合せが存在するか否かによって、糖鎖還元末端単糖へのコアフコースの付加の有無を判別することもできる。また、3つ以上のフラグメントイオン(例えば、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオン、
2,4A
Rフラグメントイオンおよび
2,4A
R−1フラグメントイオン)を抽出し、それぞれのm/zの差を算出することにより、コアフコースの有無を判別することもできる。このように、3つ以上のフラグメントイオンのm/zを基準として判別を行えば、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンと
2,4A
Rフラグメントイオンの組み合わせ以外に、m/zの差が240あるいは386であるピークの組み合わせが存在する場合等においても、誤判断が抑止され、分析の信頼性を高めることができる。
【0097】
なお、糖鎖(残基)の質量やコアフコース有無等の糖鎖構造情報は、MS
3分析を実行しない場合でも抽出可能である。また、前述のように、MS
3分析を実施して、MS
2スペクトルとMS
3スペクトルとを照合することにより、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンが正しく選定されているか否かを確認することができ、MS
2スペクトルから抽出される糖鎖構造情報の信頼性を高めることができる。
【0098】
MS
3スペクトルからも、種々の糖鎖構造情報を抽出できる。MS
2のm/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンは、完全な糖鎖残基構造を含んでいるため、これをプリカーサとして得られるMS
3スペクトルは、
2,4A
R等の糖鎖由来フラグメントイオンをプリカーサとして得られるMS
3スペクトルよりも、多数の糖鎖構造情報(例えばコアフコースの有無に関する情報)を有している場合が多い。さらに、m/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンは、糖ペプチドのペプチド部分のごく一部(糖鎖が結合したアスパラギンの一部)のみを含むため、
2,4A
R等の糖鎖由来フラグメントイオンを開裂させた場合と同様に、糖鎖構造に関する情報を選択的にかつ精度高く抽出できる。
【0099】
また、ペプチドのC末端アスパラギン残基、またはC末端のアミノ酸残基に隣接するアスパラギン残基に、N‐結合型糖鎖が結合している糖ペプチドを、MS
2プリカーサとして選定すれば、MS
2スペクトルにおいて、m/z=G+96(ただし、z=1)のフラグメントイオンが、
2,4A
R等の糖鎖由来フラグメントイオンよりも、大きなピーク強度で検出される傾向がある。そのため、m/z=G+96のフラグメントをMS
3プリカーサとして得られるMS
3スペクトルからは、他の糖鎖由来フラグメントイオンをプリカーサとするMS
3に比して、より精度の高い糖鎖構造情報の抽出が期待できる。
【0100】
<データベースとの照合による糖鎖構造情報の抽出>
さらには、MS
2におけるm/z=(G+97−z)/zのフラグメントイオンは、ペプチド部分の糖鎖が結合したアスパラギンの一部のみを含むため、糖ペプチドにおけるN‐結合型糖鎖の構造が同一であれば、このフラグメントイオンの化学構造は、ペプチドのアミノ酸配列に依存することなく、同一である。そのため、このフラグメントイオンをMS
3プリカーサとしてMS
3分析を実施した場合は、糖鎖の構造が同一であれば、同一のMS
3スペクトルが得られる。すなわち、本発明の分析方法により得られるMS
3スペクトルは、ペプチド部分の構造に大きな影響を受けないため、MS
3スペクトルやMS
3ピークリストのデータベース化が容易である。
【0101】
例えば、糖鎖構造が既知である糖タンパク質や糖ペプチドを試料として、MS
N分析(Nは2以上)を行い、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサイオンを開裂させて得られるフラグメントイオンのMS
Nスペクトルを取得し、そのMS
NスペクトルやMS
Nピークリストをデータベース化することができる。ここで、Gxは既知の糖鎖残基の質量である。zxはプリカーサイオンの電荷数であり、自然数である。
【0102】
このように、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサイオンを開裂させて得られるフラグメントイオンのMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストをデータベース化しておけば、分析対象の糖ペプチドの質量分析により得られたMS
3スペクトルと、当該データベースとを照合することにより、糖鎖の構造情報の抽出、より具体的には糖鎖構造の同定を行い得る。
【0103】
糖ペプチドのMS
3スペクトル(またはピークリスト)とデータベースに格納されたMS
Nスペクトル(またはピークリスト)との照合は、実験者の目視等により実行してもよく、糖鎖構造解析用プログラムを用いて実行してもよい。
【0104】
糖鎖構造の解析を行う糖鎖構造解析システムは、分析データ記憶部とデータベース記憶部とデータ処理部とを備える。糖鎖構造解析用プログラムを用いて、糖ペプチドのN‐結合型糖鎖の構造解析(同定)を行う場合、当該プログラムは、データ処理部のコンピュータに、分析データ記憶部のデータとデータベース記憶部のデータとの照合を実行させる。データの照合においては、例えば2つのデータを対比し、両者が一致するか否かの判断、または両者の類似度のスコア付けが実行される。
【0105】
分析データ記憶部には、質量分析により得られた、糖ペプチドのMS
3スペクトルまたはMS
3ピークリストを含むデータが記憶される。分析データ記憶部には、MS
3のデータに加えて、糖鎖残基の質量やコアフコースの有無等のMS
2分析で得られた情報や、分析情報等が記憶されてもよい。
【0106】
データベース記憶部には、任意の既知のN‐結合型糖鎖の質量をGxとした場合に、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサイオン(ただし、zxは電荷数であり自然数である)を開裂させて得られるフラグメントイオンの、既知のMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストを含むデータが記憶される。当該データは、(Gx+97−zx)/zxの質量電荷比を有するプリカーサを開裂させて得られるフラグメントイオンのMS
Nスペクトルまたはピークリストのデータベースから取得できる。データベース記憶部には、MS
Nプリカーサイオン(MS
N−1スペクトルのピークに相当)における、N‐結合型糖鎖の質量Gxや、コアフコースの有無等の情報が記憶されてもよい。
【0107】
図1は、質量分析データとデータベースとを照合して、糖鎖の構造解析を行う方法の一例を示すフローチャートである。まず、質量分析により得られたMS
3の結果が、分析データ記憶部に記憶される(S101)。この際、糖鎖残基の質量G、あるいは糖鎖の質量S等の質量に関するデータも分析データ記憶部に記憶されることが好ましい。
【0108】
次いで、データベースに格納されている既知糖鎖残基の質量Gxと、分析データ記憶部に記憶された質量Gとを対比し、一致するものが抽出される(S102)。このように、質量に基づいて一次判断を行うことにより、照合の対象を絞り込むことができ、解析精度が高められるとともに、データの処理を簡略化できる。なお、既知の糖鎖のMS
Nスペクトルや質量等の情報を格納したデータベースは、プログラムを実行するためのコンピュータ内に予め記憶されていてもよく、記憶媒体や電気通信回線等を通じて外部から取得されてもよい。
【0109】
分析データにおける糖鎖残基の質量Gと、既知の糖鎖残基の質量Gxとが一致するもの(すなわち、照合を行うべき糖鎖(残基)の候補)がK個抽出され(S103)、各候補(k=1〜K)のMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストのデータが、データベース記憶部に記憶される。既知の糖鎖のMS
NスペクトルやMS
Nピークリストは、予め分析データ記憶部に記憶されていてもよく、k番目の候補に対応するMS
NスペクトルやMS
Nピークリストを、その都度データベースから取得して、データベース記憶部に記憶させてもよい。
【0110】
データ処理部において、分析データ記憶部に記憶された糖ペプチドのMS
3スペクトルまたはMS
3ピークリストと、データベース記憶部に記憶されたk番目の糖鎖のMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストとの照合が行われる(S114)。本発明のプログラムは、マススペクトルまたはピークリストの照合を、データ処理部のコンピュータに実行させる。
【0111】
ここでの照合は、例えば、両者が一致するか否か(糖鎖の同一性)の判断、あるいは両者の類似度のスコア付け(S115)である。マススペクトルあるいはピークリストの同一性や類似度は、ピークのm/zの値や、ピーク強度比に基づいて判断することができ、その方法は特に制限されない。その後、必要に応じて照合結果(例えば類似度のスコア)が、任意の記憶部に記憶される(S116)。
【0112】
k=1番目からK番目までのすべての糖鎖(残基)の候補に対して、この照合(S114〜S118)が行われた後、ディスプレイや印刷媒体等の表示部や、適宜の記憶部に、照合結果が出力される(S122)。類似スコア等の解析結果は、必要に応じてスコア順等の順番に並べ替えを行った後(S121)、データ出力が行われる(S122)。
【0113】
なお、
図1および上記の説明は、糖鎖構造解析用プログラムを用いた、N‐結合型糖鎖の構造解析(同定)の形態の一例を示すものである。糖ペプチドの質量分析により得られたMS
3データと、糖ペプチド由来の(G+97−z)/zの質量電荷比を有する負のフラグメントイオンをプリカーサとして、MS
3分析を実行することにより取得されたMS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストとを照合することにより、糖鎖の同定を行う方法は上記に限定されない。
【0114】
図1では、予め質量が一致するか否かを基準として、照合を行う糖鎖の数の絞り込みを行っているが、データベースに格納されている全ての糖鎖のMS
Nと分析により得られたMS
3との対比が行われてもよい。また、
図1では、k=1番目からK番目の候補の全てに対して類似度のスコア付けが行われているが、所定のスコアを超える照合結果が得られた時点で、照合を終了してもよい。データベースに格納されている糖鎖と、分析対象の糖鎖とが一致するか否かの判断により、照合が行われる場合は、k=x番目の候補が一致すると判断された段階で、照合を終了してもよい。
【0115】
上記では、糖ペプチドの分析により得られたMS
3スペクトルと、予め測定された糖鎖のMS
Nスペクトルとの照合による糖鎖の同定方法について説明したが、既存の糖鎖構造データベースを基に、生成し得る糖鎖の理論フラグメントの仮想MS
Nスペクトルや、仮想MS
Nピークリストとの照合により、分析データから糖鎖構造を同定する方法も採用し得る。
【0116】
仮想MS
NスペクトルやMS
Nピークリストは、任意の糖鎖データベースに格納されている糖鎖構造に基づいて計算することができる。例えば、質量がSxであるN‐結合型糖鎖の構造から、上記の推定メカニズムに記載されているような、マレイミドの窒素原子に糖鎖残基が付加したz
1−H
2O化学種を生成させる。この化学種の脱プロトンにより得られる仮想負イオンは、(Sx+79−zx)/zxの質量電荷比を有する。なお、zxは仮想負イオン(フラグメントイオン)の電荷数である。
【0117】
この仮想負イオンをMS
Nプリカーサとして開裂させた場合に生じる理論フラグメントは、種々の手法(理論フラグメント予測プログラムの利用等)により計算することができ、理論フラグメントのリストから、仮想MS
Nスペクトまたは仮想MS
Nスペクトルを生成できる。
【0118】
仮想MS
Nスペクトルまたは仮想MS
Nピークリストと、分析により得られたMS
3スペクトルとの照合は、実験者の目視等により実行してもよく、糖鎖構造解析用プログラムを用いて実行してもよい。
【0119】
糖鎖構造解析用プログラムが用いられる場合、糖鎖構造解析システムのデータベース記憶部には、(Sx+79−zx)/zxの質量電荷比を有するフラグメントイオンの仮想MS
Nスペクトルまたは仮想MS
Nピークリスト含むデータが記憶される。データ処理部のコンピュータにより、分析データ記憶部に記憶されたMS
3スペクトルまたはMS
3ピークリストを含むデータと、データベース記憶部に記憶されたデータとの照合が行われる。糖鎖構造解析用プログラムはコンピュータに上記の照合を実行させる。この場合における照合は、上記の
図1の例と同様であり、例えば、2つのデータの対比により、両者が一致するか否かの判断や両者の類似度のスコア付けが行われる。
【0120】
図2は、このプログラムを用いて、質量分析データと仮想MS
Nとを照合して、糖鎖の構造解析を行う方法の一例を示すフローチャートである。
図2のフローチャートは
図1と類似であるため、以下では、
図1と
図2で共通する部分の説明は省略する。
【0121】
質量分析により得られたMS
3の結果が、分析データ記憶部に記憶される(S201)。糖鎖残基の質量Gと、糖鎖データベースにおける糖鎖の質量Sxとを対比し、両者の差が18(糖鎖残基で脱離した水分子の質量)に等しいものが抽出される(S202)。なお、糖鎖データベースにおける糖鎖の質量Sxに基づいて糖鎖残基の質量Gxを算出し、これと質量分析により得られた糖鎖残基の質量Gとを対比して、一致するものを抽出してもよい。
【0122】
質量が一致する糖鎖(残基)の候補がK個抽出され(S203)、各候補(k=1〜K)の仮想MS
Nスペクトルまたは仮想MS
Nピークリストのデータが、データベース記憶部に記憶される。データ処理部では、分析データ記憶部に記憶された糖ペプチドのMS
3スペクトルまたはMS
3ピークリストと、データベース記憶部に記憶されたk番目の糖鎖の仮想MS
3スペクトルまたは仮想MS
3ピークリストとの照合が行われる(S213)。照合の前に、糖鎖の仮想負イオンから、仮想MS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストが生成される(S212)。
【0123】
なお、
図2では、質量SxがG+18と一致する糖鎖を抽出し(S202)、抽出された糖鎖構造から、都度、仮想MS
Nを生成させるフローが示されているが、仮想MS
Nスペクトルや仮想MS
Nピークリストは、任意の糖鎖データベースから予め生成させておき、データベース化しておいてもよい。
図2のフローにおいて、データの照合方法、および照合後のフローは、
図1の場合と同様である。
【0124】
[質量分析装置]
本発明の分析方法は、上記のプログラム、あるいはその他のデータ照合手段を備える糖ペプチドの糖鎖構造解析用質量分析装置を用いて実施することもできる。この質量分析装置は、質量分析部、質量分析部で得られた分析データが記憶される分析データ記憶部、既存の糖鎖構造データベースから得られる構造情報が記憶されるデータベース記憶部、および分析対象の糖ペプチドの糖鎖構造の同定を行うデータ処理部を備える。
【0125】
質量分析部は、質量分離手段およびイオン開裂手段を備える。質量分離手段は、質量電荷比に基づいて、イオンを分離する。イオン開裂手段は、選定されたイオンを、CIDやIRMPDなどの手法により開裂させ、フラグメントイオンを生成させる。この質量分析部において、分析対象の糖ペプチドのMS
3分析が行われる。
【0126】
データ処理部はコンピュータを備える。このコンピュータは、質量分析部における分析を制御するためのコンピュータと同一でもよい。データ処理部は、分析データ記憶部に記憶されている分析データと、データベース記憶部に記憶されているMS
nスペクトルまたはMS
nピークリストとを照合することにより、糖鎖構造の同定を行い得るように構成されている。
【0127】
データ処理部で、糖鎖構造の同定を行うためのプログラムは、先に説明したように、既存のデータベース等から得られるMS
NスペクトルやMS
Nピークリストと、質量分析結果との照合を、コンピュータに実行させる。なお、ここでの、MS
NスペクトルやMS
Nピークリストは、計算により生成された仮想MS
NスペクトルまたはMS
Nピークリストでもよい。
【0128】
上記プログラムや、糖鎖データベース、あるいは糖鎖のMS
Nスペクトルデータベース等は、質量分析部とは別個に提供されてもよく、例えば、記憶媒体に記憶された状態で入手することや、インターネット等の通信手段を介して入手することができる。
【0129】
[nが4以上の場合のMS
n分析]
以上、MS
1で負イオン化された糖ペプチドを、MS
2で開裂させ、MS
2スペクトルにおける糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンの中から、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンをMS
3プリカーサとして選定する場合、すなわち、n=3のMS
n分析を中心に、本発明の実施形態を説明した。なお、糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンの中から、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンをプリカーサとしてMS
n分析を実行することによる糖ペプチドの分析は、nが4以上のMS
n分析にも適用できる。
【0130】
例えば、MS
2で得られた糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンを、MS
3(MS
n−1)で開裂させ、MS
3で得られた(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンをプリカーサとしてMS
4(MS
n)分析が行われてもよい。この場合、MS
2のイオン開裂法として、EDDのように、ペプチド部分を優先的に開裂し得る開裂法を採用すれば、MS
2プロダクトイオンとして、ペプチドのC末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンを得ることもできる。このように、質量分析のイオン開裂によりペプチド部分を開裂させれば、試料調製(プロテアーゼ消化)によって、C末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合したペプチド断片が得られていない場合でも、ペプチドのC末端付近のAsnに糖鎖が結合した糖ペプチドの負イオン由来のフラグメントイオンが得られる。このフラグメントイオンを、MS
n−1プリカーサとしてMS
n−1分析を実行することで、(G+97−z)/zの質量電荷比を有するフラグメントイオンの生成量が増加するため、分析精度の向上が期待できる。
【実施例】
【0131】
以下に、実施例を示して、本発明を具体的に説明するが、本発明は下記の実施例に限定されるものではない。なお、以下において、%の記載は特に断りがない限り重量%を表す。
【0132】
<セルロースマイクロチップの作製>
200μLのマイクロピペットチップの先端に、少量のコットンを詰め、その上に1mgのセルロースパウダーを加えた。得られたセルロースマイクロチップに、上から水100μLを加え、上方からシリンジで空気を送り、下方(チップ先端)から排出した。これを2回繰り返した。さらに50%アセトニトリル(ACN)、0.1%TFA水溶液100μLで2回、80%ACN、0.1%TFA水溶液で2回、同様の操作を行い、セルロースマイクロチップの洗浄および平衡化を行った。
【0133】
[実施例1:IgG由来糖ペプチドの分析]
<測定用糖ペプチドの調製>
SIGMAより購入したヒト免疫グロブリンG(IgG)を、尿素:6M、重炭酸アンモニウム:50mM、およびトリス(2‐カルボキシエチル)ホスフィン塩酸塩(TCEP):5mMの存在下、室温で45分反応させ、変性および還元を行った。次いで、ヨードアセトアミド(IAA):10mMの存在下、室温遮光条件下で45分反応させアルキル化を行った後、ジチオスレイトール(DTT):10mM存在下、室温遮光条件下で45分反応させ、余剰のIAAを不活性化した。その後、プロナーゼEを加え、37℃で一夜反応させ、プロテアーゼ消化を行った。消化後、カーボンカラムを用いて脱塩を行った。
【0134】
脱塩後のIgG消化物に、80%ACN,0.1%TFA水溶液を100μL加えて溶解させた。これを、洗浄および平衡化後のセルロースマイクロチップに加え、上方からシリンジで空気を送り、下方から排出した。排出した溶液を、再度セルロースマイクロチップに加えて同様に排出し、これをさらにもう1回繰り返した。最後に、50%ACN,0.1%TFA水溶液を20μL加えて、セルロースマイクロチップから、糖ペプチドを溶出した。これを2回繰り返し、これらの溶出液をあわせて乾固した。
【0135】
<質量分析>
得られた試料を水に再溶解し、MALDIプレート上で、3−アミノキノリンとα−シアノ−4−ヒドロキシケイ皮酸からなる液体マトリックス(3AQ/CHCA)と混合し、MALDI‐MS分析装置(島津製作所製、AXIMA(登録商標)‐Resonance)により負イオンCIDによる多段階質量分析を行った。
【0136】
<分析1および分析2>
分析1および分析2では、MS
1で得られたm/z=1900.7の負イオン(コアフコースを含まない糖ペプチドの脱プロトン化体)、およびm/z=2046.8の負イオン(コアフコースを含む糖ペプチドの脱プロトン化体)のそれぞれをプリカーサとして、負イオンCIDにより開裂させ、MS
2分析を行い、
図3(A)および
図4(A)に示すMS
2スペクトルを得た。なお、MS
1で得られた上記の脱プロトン化体は、いずれもペプチド部分がPhe‐Asnのアミノ酸配列を有しており、アスパラギンに糖鎖が付加した糖ペプチドの脱プロトン化体である。
【0137】
(分析1:コアフコースを含まない糖ペプチドのMS
3分析)
コアフコースを含まない糖ペプチドから1個のプロトンが脱離した負イオン(m/z=1900.7)のMS
2(
図3(A))で得られた、m/z=1478.5のフラグメントイオン(
2,4A
R)およびm/z=1718.5のフラグメントイオン([Glycan+96]
−)のそれぞれをプリカーサとして、さらにCIDにより開裂させMS
3分析を行い、
図3(B1)および
図3(B2)に示すMS
3スペクトルを得た。なお、
2,4A
Rと[Glycan+96]
−とのm/zの差は240である。
【0138】
(分析2:コアフコースを含む糖ペプチドのMS
3分析)
コアフコースを含む糖ペプチドから1個のプロトンが脱離した負イオン(m/z=2046.8)のMS
2(
図4(A))で得られた、m/z=1478.5のフラグメントイオン(
2,4A
R)およびm/z=1864.7のフラグメントイオン([Glycan+96]
−)のそれぞれをプリカーサとして、さらに負CIDにより開裂させMS
3分析を行い、
図4(B1)および
図4(B2)に示すMS
3スペクトルを得た。なお、
2,4A
Rと[Glycan+96]
−とのm/zの差は386である。
【0139】
<分析3および分析4>
MS
1で得られたm/z=2931.2の負イオン(分析3)およびm/z=3119.3の負イオン(分析4)のそれぞれをプリカーサとして、CIDにより開裂させ、MS
2分析を行い、
図5(A)および
図6に示すMS
2スペクトルを得た。なお、m/z=2931.2の負イオン、およびm/z=3119.3の負イオンは、それぞれ、Thr‐Lys−Pro−Arg−Glu−Glu−Gln−Tyr−Asn、およびThr‐Lys−Pro−Arg−Glu−Glu−Gln−Tyr−Asn−Ser−Thrのアミノ酸配列を有しており、アスパラギンに糖鎖が付加した糖ペプチドの脱プロトン化体である。これらは、いずれも分析2の糖ペプチドと同一構造の糖鎖を有している。
【0140】
図5(A)および
図6のMS
2スペクトルでは、いずれも分析2(
図4(A))と同様に、m/z=1478.5のフラグメントイオン(
2,4A
R)およびm/z=1864.6のフラグメントイオン([Glycan+96]
−)が得られた。分析3(
図5(A))における[Glycan+96]をプリカーサとして、さらにCIDにより開裂させMS
3分析を行い、
図5(B)に示すMS
3スペクトルを得た。
【0141】
<分析1〜4の評価>
図3(A)のMS
2スペクトルおよび
図4(A)のMS
2スペクトルでは、いずれも
2,4A
R、B
R−1、
2,4A
R‐1、D等のフラグメントイオンが同一のm/zを有しており、
2,4A
Rのm/zは1478.5である。また、
図3(A)および
図4(A)のいずれにおいても、
2,4A
Rよりも大きいもピーク強度の大きい[Glycan+96]
−フラグメントイオンが検出されている。
図3(A)および
図4(A)のいずれにおいても、[Glycan+96]
−フラグメントイオンは、糖ペプチド負イオン[M−H]
−よりもm/zが182小さく、[M−H]
−から同一の化学種が脱離したものであることがわかる。[Glycan+96]
−および[M−H]
−のm/zは、いずれも、分析2(
図4(A))が分析1(
図3(A))よりも146大きく、この差は、フコース(分子量164)から水分子が脱離したものと同一である。これらの結果から、
図3(A)と
図4(A)のMS
2スペクトルの相違([Glycan+96]
−フラグメントイオンのm/zの相違)は、糖鎖構造におけるコアフコースの有無を反映したものであるといえる。
【0142】
2,4A
RのCID開裂により得られた
図3(B1)と
図4(B1)のMS
3スペクトルは略同一であり、いずれも同一の糖鎖構造に由来していることが分かる。また、[Glycan+96]
−のCID開裂により得られた
図3(B2)および
図4(B2)では、いずれのMS
3スペクトルにおいても、m/z=1478.5を有する
2,4A
Rのピークや、D,E,
1,3A
3等のフラグメントイオンが、MS
2スペクトルと共通している。これらの結果から、MS
2の[Glycan+96]フラグメントイオンは、
2,4A
Rよりもさらに還元末端側の糖鎖構造、すなわち、糖鎖残基の全構造を含有するフラグメントイオンであることが分かる。
【0143】
分析2(
図4)、分析3(
図5)および分析4(
図6)では、糖ペプチドの糖鎖の構造はいずれも同一であり、ペプチド部分のアミノ酸配列のみが相違している。これらのMS
2分析では、共通の
2,4A
Rおよび[Glycan+96]
−が得られている。また、分析2の[Glycan+96]
−のMS
3スペクトル(
図4(B2))と、分析3の[Glycan+96]
−のMS
3スペクトル(
図5(B))は略同一であり、いずれも同一の糖鎖構造に由来していることが分かる。一方、糖鎖がコアフコースを有していない分析1のMS
3スペクトル(
図3(B))は、
図4(B2)や
図5(B)と共通のフラグメントイオンが観測されているものの、スペクトルのパターンは明らかに異なっている。
【0144】
これらの結果から、m/zが糖鎖残基+96であるフラグメントイオンをプリカーサとしてMS
3分析を行うことにより得られるMS
3スペクトルは、ペプチド部分のアミノ酸配列が異なっていても、糖鎖構造が同一であれば、略同一のスペクトル形状を有することが分かる。また、糖鎖の還元末端のGlcNAcへのコアフコース付加の有無によって、MS
3スペクトルの形状(ピークリスト)が変化するため、MS
3からもコアフコースの有無の同定が可能である。
【0145】
ペプチドのC末端のアスパラギンに糖鎖が付加した糖ペプチドに関する分析1〜3のMS
2(
図3(A)、
図4(A)および(
図5(A))では、
2,4A
Rよりもピーク強度の大きい[Glycan+96]
−フラグメントイオンが検出されている。そのため、[Glycan+96]
−をプリカーサとするMS
3分析は、低濃度の試料でも実施可能であり、糖ペプチドの分析方法として優れているといえる。
【0146】
一方、糖鎖修飾されたアスパラギンのC末端側に2アミノ酸残基(Ser−Thr)を有する糖ペプチドを用いた分析4では、分析1〜3に比してMS
2における[Glycan+96]
−のピーク強度が小さくなっている(
図6)。この結果から、本発明の分析方法では、ペプチドのC末端付近のアスパラギンが糖鎖修飾された糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとすることにより、[Glycan+96]
−フラグメントイオンの生成量(ピーク強度)が増大し、分析精度の向上が可能であるといえる。
【0147】
また、分析3(
図5)に用いた糖ペプチドは、糖鎖が付加しているアスパラギンのN末端側に8個のアミノ酸残基を有しているが、分析2等と同様に、MS
2スペクトルにおいて、[Glycan+96]
−の強いピークが検出されている。この結果から、本発明の分析方法において、MS
2プリカーサとして選択される糖ペプチド負イオンは、ペプチドのC末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合していることが好ましいが、糖鎖が付加しているアスパラギンのN末端側のアミノ酸配列は特に制限されず、2または3以上のアミノ酸を有していてもよいことが分かる。
【0148】
[実施例2:トランスフェリン由来糖ペプチドの分析]
<測定用糖ペプチドの調製>
SIGMAより購入したヒトトランスフェリンを、実施例1に準じて、トリプシンで消化した後、カーボンカラムを用いて脱塩を行った。脱塩後のトランスフェリン消化物を、80℃の0.8%TFA水溶液中で40分処理し、糖鎖還元末端のシアル酸を除去した。実施例1と同様に、セルロースマイクロチップにより精製および濃縮を行った試料を用いて、負イオンCIDによる多段階質量分析を行った。
【0149】
<分析5>
分析5では、MS
1で得られたm/z=3097.3の負イオン([M−H]
−)をプリカーサとしてCID開裂させたMS
2スペクトル(
図7(A))、およびMS
2で得られたm/z=1718.6の[Glycan+96]
−をプリカーサとしてさらにCID開裂させたMS
3スペクトル(
図7(B))を得た。なお、m/z=3097.3の負イオンは、ペプチド部分がCys−Gly−Leu−Val−Pro−Val−Leu−Ala−Glu−Asn−Tyr−Asn−Lysのアミノ酸配列(Cys残基はカルバミドメチル化されている)を有しており、C末端から2残基目のAsnに糖鎖が付加した糖ペプチドの脱プロトン化体である。MS
2スペクトル(
図7(A))において、
2,4A
Rと[Glycan+96]
−とのm/zの差は240であった。
【0150】
[実施例3:α1−酸性糖タンパク質由来糖ペプチドの分析]
<測定用糖ペプチドの調製>
SIGMAより購入したヒトα1−酸性糖タンパク質(α-Acid glycoprotein)を、実施例1と同様にプロナーゼEで消化した後、カーボンカラムによる脱塩およびセルロースマイクロチップによる精製および濃縮を行い、この試料を用いて、負イオンCIDによる多段階質量分析を行った。
【0151】
<分析6>
分析6では、MS
1で得られたm/z=2445.0の負イオンをMS
2プリカーサとしてCID開裂させてMS
2分析を実施し、MS
2おけるm/z=1718.6の[Glycan+96]
−フラグメントイオンをMS
3プリカーサとしてさらにCID開裂させ、MS
3スペクトルを得た(
図8(A))。なお、m/z=2445.0の負イオンは、ペプチド部分がArg−Asn−Glu−Glu−Tyr−Asnのアミノ酸配列を有しており、C末端のAsnに糖鎖が付加した糖ペプチドの脱プロトン化体である。MS
2スペクトル(
図8(A))において、
2,4A
Rと[Glycan+96]
−とのm/zの差は240であった。
【0152】
<分析5および分析6の評価>
図8(A)、
図8(B)および
図8(C)は、それぞれ、分析6(α1−酸性糖タンパク質)、分析1(IgG)および分析5(トランスフェリン)のマススペクトルであり、各図において上段はMS
2スペクトル、下段はm/z=1718.6の[Glycan+96]
−フラグメントイオンをプリカーサとして得られたMS
3スペクトルである。
図8の各MS
3スペクトルは、いずれも略同一であることから、糖鎖がコアフコースを有していない場合も、コアフコースを有する場合(分析2および分析3)と同様に、m/zが糖鎖残基+96であるフラグメントイオンをMS
3プリカーサとして得られるMS
3スペクトルは、ペプチド部分の構造とは無関係に、同一のスペクトルパターンを示すことが分かる。
【0153】
分析5(
図7(A)、(B)および
図8(C))では、糖鎖修飾されたアスパラギンのC末端側に1アミノ残基(Lys)を有する糖ペプチドを用いているが、分析1および分析6と同様に、MS
2において、m/z=1718.5の[Glycan+96]
−フラグメントイオンの強いピークが現れている。この結果から、本発明の分析方法の対象となる糖ペプチドは、C末端のアスパラギンが糖鎖修飾された糖ペプチドに限定されず、糖鎖修飾されたアスパラギンのC末端側に1アミノ酸残基を有する糖ペプチドにおいても、高い分析精度で実施可能であることが分かる。
【0154】
[実施例4:ラクトフェリン由来糖ペプチドの分析]
<測定用糖ペプチドの調製>
SIGMAより購入したヒトラクトフェリンを、実施例1と同様にプロナーゼEで消化した後、カーボンカラムによる脱塩およびセルロースマイクロチップによる精製および濃縮を行い、この試料を用いて、負イオンCIDによる多段階質量分析を行った。
【0155】
<分析7および分析8>
MS
1で得られたm/z=1619.6の負イオン(分析7)およびm/z=1819.7の負イオン(分析8)のそれぞれをMS
2プリカーサとして、CIDにより開裂させ、MS
2分析を行い、
図9(A)および
図10に示すMS
2スペクトルを得た。分析7では、さらにMS
2におけるm/z=1312.4の[Glycan+96]
−フラグメントイオンをMS
3プリカーサとしてCID開裂させたMS
3スペクトル(
図9(B))を得た。なお、m/z=1619.6の負イオンは、ペプチド部分がSer−Gly−Gln−Asnのアミノ酸配列を有しており、m/z=1819.7の負イオンは、ペプチド部分がSer−Gly−Gln−Asn−Val−Thrのアミノ酸配列を有しており、いずれもアスパラギンに糖鎖が付加した糖ペプチドの脱プロトン化体である。分析7および分析8のいずれも、MS
2スペクトル(
図9(A)および
図10)において、
2,4A
Rと[Glycan+96]
−とのm/zの差は240であった。
【0156】
<分析7および分析8の評価>
分析7および分析8のいずれも、MS
2スペクトルにおいて、m/z=1072.4の
2,4A
Rに加えて、m/z=1312.4の[Glycan+96]
−フラグメントイオンが得られている。また、分析7のMS
3(
図9(B))では、m/z=1072.4を有する
2,4A
Rのピークの他、B
R−1、
2,4A
R−1、D、
0,3A
R−1、C
2等のMS
2スペクトルと共通するフラグメントイオンが得られている。この結果から、MS
2の[Glycan+96]フラグメントイオンは、
2,4A
Rよりもさらに還元末端側の糖鎖構造を有するフラグメントイオンであることが分かる。このMS
3スペクトルは、上記の分析1〜3、5、6のMS
3スペクトルとは明らかにパターンが相違しており、糖鎖構造の相違を反映していることが分かる。
【0157】
実施例4で用いたラクトフェリン由来の糖ペプチドは、実施例1〜3で用いた糖ペプチドとは糖鎖構造が異なっているが、上記分析1〜6と同様に、[Glycan+96]
−のMS
2フラグメントイオンが生成している。上記の結果から、本発明の分析方法は、種々のN‐結合型糖鎖を有する糖ペプチドに適用可能であることが分かる。
【0158】
糖鎖修飾されたアスパラギンのC末端側に2アミノ酸残基(Val−Thr)を有する糖ペプチドを用いた分析8(
図10)では、分析7(
図9(A))に比してMS
2における[Glycan+96]
−のピーク強度が小さくなっている。このように、糖鎖修飾されたアスパラギンのC末端側に2アミノ酸残基を有する糖ペプチドの負イオンをMS
2プリカーサとした場合に、[Glycan+96]
−フラグメントイオンのMS
2ピーク強度が低下するとの結果は、上記分析4(
図6)と同様の傾向である。
【0159】
この結果から、本発明の分析方法では、糖鎖の構造に関わらず、MS
2プリカーサとして選択される糖ペプチド負イオンは、ペプチドのC末端付近のアスパラギンに糖鎖が結合していることが好ましいが、糖鎖が付加しているアスパラギンのN末端側のアミノ酸配列は特に制限されず、2または3以上のアミノ酸を有していてもよいことが分かる。