特許第6156098号(P6156098)IP Force 特許公報掲載プロジェクト 2022.1.31 β版

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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6156098
(24)【登録日】2017年6月16日
(45)【発行日】2017年7月5日
(54)【発明の名称】イオントラップ質量分析装置
(51)【国際特許分類】
   G01N 27/62 20060101AFI20170626BHJP
   H01J 49/42 20060101ALI20170626BHJP
【FI】
   G01N27/62 V
   H01J49/42
   G01N27/62 D
【請求項の数】7
【全頁数】16
(21)【出願番号】特願2013-244500(P2013-244500)
(22)【出願日】2013年11月27日
(65)【公開番号】特開2015-102476(P2015-102476A)
(43)【公開日】2015年6月4日
【審査請求日】2016年4月1日
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】特許業務法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】村瀬 雅樹
(72)【発明者】
【氏名】関谷 禎規
【審査官】 伊藤 裕美
(56)【参考文献】
【文献】 国際公開第2012/137806(WO,A1)
【文献】 特開2010−256101(JP,A)
【文献】 特開2006−292603(JP,A)
【文献】 国際公開第2005/095941(WO,A1)
【文献】 特開2011−108488(JP,A)
【文献】 米国特許出願公開第2009/0206245(US,A1)
【文献】 米国特許出願公開第2014/0224973(US,A1)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 27/62
H01J 49/00−49/48
G01N 33/68
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
分析対象のタンパク質又はペプチドである化合物由来のイオンを捕捉するとともに捕捉したイオンを開裂させるイオントラップを具備し、開裂により生成されたプロダクトイオンを該イオントラップ自体で又は該イオントラップの外側に設けた質量分離器により質量分離して検出するイオントラップ質量分析装置において、
a)前記イオントラップに捕捉したイオンに対し特定のイオンを選択的に残すイオン選別操作を行うことなく所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン非選択開裂制御部と、
b)前記イオントラップに捕捉したイオンに対しイオン選別操作に引き続き所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン選択開裂制御部と、
c)前記イオン選択開裂制御部の制御の下でMSn分析(ただしnは2以上の整数)を実行することで得られたMSnスペクトルにおいて、タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群を検出する特徴ピーク群検出部と、
d)前記特徴ピーク群検出部によりピーク群が検出された場合に、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記ピーク群をプリカーサイオンとした開裂操作を実行してマススペクトルを取得するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御する分析制御部と、
を備えることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項2】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は、ペプチドからのアミノ酸残基中の特定結合部位の開裂により生じたピーク群であり、アミノ酸2個以上の配列がスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むことを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項3】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は、糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群であり、2個以上の糖鎖又はその環開裂断片がスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むことを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項4】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は、糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群であり、N型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークであることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項5】
請求項1に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は、ジスルフィド結合により結合した複数のペプチドに特徴的である32Da又は34Da間隔で並ぶトリプレットピークであることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項6】
請求項3に記載のイオントラップ質量分析装置であって、
前記分析制御部は、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記ピーク群をプリカーサイオンとした開裂操作を実行して取得したマススペクトルに対しN型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークを検出し、該特徴的なトリプレットピークが検出された場合には該トリプレットピークをプリカーサイオンとしたMSn+1分析を実行するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御することを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【請求項7】
分析対象のタンパク質又はペプチドである化合物由来のイオンを捕捉するとともに捕捉したイオンを開裂させるイオントラップを具備し、開裂により生成されたプロダクトイオンを該イオントラップ自体で又は該イオントラップの外側に設けた質量分離器により質量分離して検出するイオントラップ質量分析装置において、
a)前記イオントラップに捕捉したイオンに対し特定のイオンを選択的に残すイオン選別操作を行うことなく所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン非選択開裂制御部と、
b)前記イオントラップに捕捉したイオンに対しイオン選別操作に引き続き所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン選択開裂制御部と、
c)MSn+1分析を実施したと仮定したときに、ペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定が可能であるプロダクトイオンが、低質量カットオフ以上の質量電荷比範囲に現れる、と推定されるようなプリカーサイオンが、前記イオン選択開裂制御部の制御の下でMSn分析(ただしnは2以上の整数)を実行することで得られたMSnスペクトルにプロダクトイオンとして検出されるか否か判定する特徴イオン検出部と、
d)前記特徴イオン検出部によりプロダクトイオンが検出された場合に、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記プロダクトイオンをプリカーサイオンとした開裂操作を実行してマススペクトルを取得するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御する分析制御部と、
を備えることを特徴とするイオントラップ質量分析装置。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、イオンを一時的に保持するとともに保持したイオンを開裂させるイオントラップを備えたイオントラップ質量分析装置に関し、さらに詳しくは、タンパク質・ペプチドなどの生体由来の化合物の同定や構造解析に好適なイオントラップ質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
糖鎖やペプチドなどの生体由来の高分子化合物の同定や構造解析においては、3次元四重極型イオントラップを搭載した質量分析装置が広く用いられている。イオントラップに一時的に保持した各種イオンを質量分析する手法としては、イオントラップ自体の質量分離機能を利用する場合と、イオントラップからイオンを放出し、イオントラップの外側に配置した飛行時間型質量分離器(TOFMS)によりイオンを質量分離して検出する場合とがあるが、以下の説明では、それらを包含してイオントラップ質量分析装置ということとする。
【0003】
イオントラップ質量分析装置を用いた一般的な高分子化合物の分析手法は次の通りである。
【0004】
分析対象である化合物をマトリクス支援レーザ脱離イオン化(MALDI)イオン源などによりイオン化して得られた各種イオンをイオントラップ内に捕捉したあと、特定の質量電荷比m/zを有するイオンをプリカーサイオンとして選択的にイオントラップ内に残し、他の不要なイオンをイオントラップ外部に排出するようなイオン選別操作を行う。その後、イオントラップ内に衝突誘起解離(CID=Collision-Induced Dissociation)ガスを導入し、プリカーサイオンを励振させてCIDガスに衝突させることで、該イオンを開裂させる。1回の開裂操作だけで目的とする構造体が十分に解離しない場合には、プリカーサイオンの選別操作と開裂操作とを複数回繰り返すこともある。そうして分析対象である化合物由来のイオンに対し1回以上の開裂操作を行うことで細かく断片化させたプロダクトイオンについて、質量走査を伴うイオンの検出を実行してMSnスペクトルを取得し、このMSnスペクトルを解析して分析対象化合物の構造を推定する。
【0005】
このように、イオントラップにおいてCIDによる開裂操作を行う際には、通常、それに先立って、特定の1種(場合によっては複数種)のプリカーサイオンをイオントラップ内に残すイオン選別操作が実施される。ただし、このイオン選別操作は必須の操作ではなく、イオン選別操作を行うことなく開裂操作を実施することも可能である。
【0006】
例えば特許文献1に記載の質量分析装置では、MS2スペクトル上でプリカーサイオンからのリン酸基やアルカリ金属イオンの優先的な脱離により生成されたプロダクトイオン(該文献における「ドミナントイオン」)が検出された場合に、このドミナントイオンについてイオン選別操作を行うことなく開裂操作を行うような制御が行われている。なお、ここでいう「優先的な脱離」とは、活性化エネルギが小さいために切断され易い結合部位が切れることで生じる断片の脱離であるから、脱離する断片は殆ど既知である。
【0007】
また特許文献2に記載の質量分析装置では、リン酸やシアル酸のような遊離性の高い分子による修飾を受けた精製タンパク質について、プリカーサイオンを選択するイオン選別操作を行うことなく開裂操作を行うことにより修飾分子の脱離を促進させ、量が増大した修飾を受けていないペプチドイオンをプリカーサイオンとしてMS2分析を実施している。
【0008】
ところで、イオントラップには安定的に捕捉可能であるイオンの最低質量電荷比(低質量カットオフ、LMC=Low Mass Cut-off)が存在するため、イオントラップ質量分析装置では、LMCよりも小さな質量電荷比を持ったイオンを測定することができない。イオントラップを構成する電極に印加する電圧を調整することで低質量カットオフを下げることは可能であるが、低質量カットオフを下げると、低質量カットオフよりも大きな質量電荷比範囲におけるイオン捕捉のためのポテンシャル井戸が浅くなってイオンの捕捉効率が下がってしまう。MSn分析におけるイオン選別操作及び開裂操作の際には、プリカーサイオンに対する捕捉効率をできるだけ上げる必要があり、そうすると低質量カットオフを或る程度高くせざるをえない。一般的に、低質量カットオフの値はプリカーサイオンの質量電荷比の20〜30%程度である。即ち、プリカーサイオンの質量電荷比m/zが1000であれば、低質量カットオフの値は200〜300程度である。
【0009】
生体由来の化合物の中には分子量が非常に大きなものがあり、例えば生体内で前駆体タンパク質より産生される生理活性ペプチド(内因性ペプチド)には分子量が5000Da以上であるものも少なくない。このように大きなペプチドをイオントラップ質量分析装置で分析しようとする場合、MS2測定時のイオントラップにおける低質量カットオフがm/z1000(アミノ酸残基数で10個程度に相当)以上とかなり大きくなり、捕捉可能なプロダクトイオンが質量電荷比が高いもののみに片寄ってしまう。つまり、質量電荷比が小さなプロダクトイオンに関する情報は得られなくなり、構造解析などに支障をきたすことになる。
【0010】
一方、上述した例とは逆に、質量電荷比m/zが1000程度と比較的小さなペプチドを対象とした同定処理では、ペプチドを構成するアミノ酸の数が少ないために、通常のプロテオミクス解析に使われるタンパク質データベース検索ではアミノ酸配列候補を一意に絞り込むことが難しい場合がしばしばある。こうした場合に、高エネルギCIDを用いたTOF/TOF型質量分析装置による分析では、低質量電荷比範囲に現れるアミノ酸の側鎖を含むインモニウムイオンやペプチドの末端イオンを検出することによってペプチド候補を絞り込むことも可能である。しかしながら、イオントラップ質量分析装置では、低質量カットオフが200程度と比較的大きいことから、構造解析に有用なインモニウムイオンやペプチドの末端イオンを捕捉することができず、ペプチド候補の絞り込みのための情報が不足することになる。
【0011】
上記のような2つのケースにおいて、イオントラップ質量分析装置を用いて目的ペプチドの同定や構造解析を行うためには、nが3以上である多段のMSn分析を行うことで、より小さな質量電荷比を有するプロダクトイオンの情報を収集する必要がある。しかしながら、そうした多段のMSn分析を行う場合には、異なる部分構造を持つと推定される複数のプロダクトイオンをそれぞれ次のプリカーサイオンとした質量分析を行う必要があり、分析に多大な時間を要する。また、イオン選別操作では、プリカーサイオン以外の不要なイオンのみを除去することは難しくプリカーサイオンの一部も意図せずに除去されてしまうため、イオン選別操作を経るとプリカーサイオン量も減少する。そのため、多段のMSn分析において十分な分析感度を確保するには、データの積算回数を増やすために繰り返し測定回数を多くする必要がある。これも、分析時間の増加につながるし、またサンプル消費量の増大を招くこととなる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0012】
【特許文献1】米国特許第7586089号明細書
【特許文献2】特開2011−145089号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0013】
本発明は上記課題に鑑みて成されたものであり、その主な目的は、生理活性ペプチドのような分子量が大きな化合物について、或いは、逆に分子量が小さなペプチドなどの化合物について、MSn分析における分析時間の短縮とサンプル消費量の節約を図りつつ、同定や構造解析のために有用な情報を収集することができるイオントラップ質量分析装置を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0014】
上記課題を解決するためになされた本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様は、分析対象のタンパク質又はペプチドである化合物由来のイオンを捕捉するとともに捕捉したイオンを開裂させるイオントラップを具備し、開裂により生成されたプロダクトイオンを該イオントラップ自体で又は該イオントラップの外側に設けた質量分離器により質量分離して検出するイオントラップ質量分析装置において、
a)前記イオントラップに捕捉したイオンに対し特定のイオンを選択的に残すイオン選別操作を行うことなく所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン非選択開裂制御部と、
b)前記イオントラップに捕捉したイオンに対しイオン選別操作に引き続き所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン選択開裂制御部と、
c)前記イオン選択開裂制御部の制御の下でMSn分析(ただしnは2以上の整数)を実行することで得られたMSnスペクトルにおいて、タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群を検出する特徴ピーク群検出部と、
d)前記特徴ピーク群検出部によりピーク群が検出された場合に、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記ピーク群をプリカーサイオンとした開裂操作を実行してマススペクトルを取得するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御する分析制御部と、
を備えることを特徴としている。
【0015】
ここで、分析対象のタンパク質やペプチドは、糖ペプチドなど各種修飾を受けたタンパク質やペプチドを含む。
また、イオントラップにおける開裂操作は典型的には、イオントラップ内に導入されたガスと励振されたイオンとの衝突による衝突誘起解離(低エネルギ衝突誘起解離)である。
【0016】
以下の説明では、イオン非選択開裂制御部の制御の下で実施される、イオントラップに捕捉したイオンに対し特定のイオンを選択的に残すイオン選別操作を行うことなく所定のプリカーサイオンについて行われる開裂操作をプリ開裂操作といい、「MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で、前記ピーク群をプリカーサイオンとした開裂操作を実行して」取得されたマススペクトルをMSn+preCIDスペクトルということとする。なお、ここでは「preCID」という記号を用いているが、開裂操作はCIDに限らない。
【0017】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様において、MSnスペクトル、例えばMS2スペクトルに、上記例示したような複数のピークを含む特徴的なピーク群が存在した場合、それらピークはタンパク質や糖タンパク質(或いはペプチドや糖ペプチド)の基本的な構造部分を含むイオンピークである可能性が高い。そこで、特徴ピーク群検出部により、実測のMSnスペクトルにおいてこうした特徴的なピーク群が検出されると、分析制御部は、その特徴的なピーク群をプリカーサイオンとしたプリ開裂操作を実行するようにイオン選択開裂制御部及びイオン非選択開裂制御部を制御する。それによって、上記特徴的なピーク群に含まれるピークに対応したイオンが開裂してプロダクトイオンが生成されるから、このプロダクトイオンを質量分析することでMSn+preCIDスペクトルを取得する。
【0018】
上記特徴的なピーク群に含まれるピークをプリカーサイオンとした開裂操作を実行する前に該プリカーサイオンを選択するイオン選別操作を行ってしまうと、不要なイオンが除去される反面、そのプリカーサイオン自体の量も減少する。これに対し、プリ開裂操作の場合、それに先立つイオン選別操作は実行されないのでプリカーサイオンの量は減らず、開裂操作によって生成されるプロダクトイオンの量も多くなる。もちろん、開裂操作を実行する際には低質量カットオフを下げて捕捉可能な質量電荷比範囲の下限を広げる必要があり、それによってプリカーサイオンの捕捉効率が下がる可能性はあるものの、それによるイオンの減少の程度はイオン選別操作を実行することによる減少に比べれば少なくて済む。それ故に、通常のMSn+1分析を行う場合に比べて開裂によって生成されるプロダクトイオンの量は多くなり、プロダクトイオンの信号強度は高くなる。また、低質量カットオフを下げることで低い方向に拡大される質量電荷比範囲に観測されるプロダクトイオンの信号強度も高くなる。
【0019】
なお、MSn+preCIDスペクトルは、例えば単独で又は他のマススペクトルと併せてタンパク質データベースを利用したデータベース検索に供され、タンパク質やペプチドの同定や構造解析が実施される。或いは、上記MSn+preCIDスペクトルは、MSn+1分析のための特定のピーク又はピーク群を抽出するために利用される。
【0020】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様において、上記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は例えば、ペプチドからのアミノ酸残基中の特定結合部位の開裂により生じたピーク群であり、アミノ酸残基2個以上のアミノ酸配列がスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むものとすることができる。
【0021】
また本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様において、上記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は例えば、糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群であり、2個以上の糖鎖又はその環開裂断片がスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むものとすることができる。
【0022】
また本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様において、上記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は例えば、糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群であり、N型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークであるものとすることができる。即ち、この場合のトリプレットピークとは、低質量電荷比側から、糖が全て脱離したペプチドイオン、糖HexNAcの環開裂により生じた0,2X(83Da)付加ペプチドイオン、及びHexNAc(203Da)付加ペプチドイオンにそれぞれ対応する3本のピークである。
【0023】
さらにまた本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一の態様において、上記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群は例えば、ジスルフィド結合により結合した複数のペプチドに特徴的である32Da又は34Da間隔で並ぶトリプレットピークであるものとすることができる。
【0024】
また、上記タンパク質又は糖タンパク質に特徴的であるピーク群が、糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群で、2個以上の糖鎖又はその環開裂断片がスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含む場合、前記分析制御部は、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記ピーク群をプリカーサイオンとした開裂操作を実行して取得したマススペクトル、つまりMSn+preCIDスペクトルに対しN型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークを検出し、該特徴的なトリプレットピークが検出された場合には該トリプレットピークをプリカーサイオンとしたMSn+1分析を実行するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御する構成とすることができる。
【0025】
この構成によれば、MSn+1分析を実行しながら、開裂操作の回数は1回多い、実質的にはMSn+2分析を行ったのと同等のマススペクトルを得ることができる。これにより、N型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークに対応するイオンが開裂することで生成された各種プロダクトイオンを高い感度で検出することができ、ペプチドの同定や構造解析を高い精度で行うことができる。
【0026】
また、上記課題を解決するためになされた本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第二の態様は、分析対象のタンパク質又はペプチドである化合物由来のイオンを捕捉するとともに捕捉したイオンを開裂させるイオントラップを具備し、開裂により生成されたプロダクトイオンを該イオントラップ自体で又は該イオントラップの外側に設けた質量分離器により質量分離して検出するイオントラップ質量分析装置において、
a)前記イオントラップに捕捉したイオンに対し特定のイオンを選択的に残すイオン選別操作を行うことなく所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン非選択開裂制御部と、
b)前記イオントラップに捕捉したイオンに対しイオン選別操作に引き続き所定のプリカーサイオンについての開裂操作を実施するイオン選択開裂制御部と、
c)MSn+1分析を実施したと仮定したときに、ペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定が可能であるプロダクトイオンが、低質量カットオフ以上の質量電荷比範囲に現れる、と推定されるようなプリカーサイオンが、前記イオン選択開裂制御部の制御の下でMSn分析(ただしnは2以上の整数)を実行することで得られたMSnスペクトルにプロダクトイオンとして検出されるか否か判定する特徴イオン検出部と、
d)前記特徴イオン検出部によりプロダクトイオンが検出された場合に、前記MSn分析と同じイオン選別操作及び開裂操作に引き続き、前記イオン非選択開裂制御部の制御の下で前記プロダクトイオンをプリカーサイオンとした開裂操作を実行してマススペクトルを取得するように前記イオン選択開裂制御部及び前記イオン非選択開裂制御部を制御する分析制御部と、
を備えることを特徴としている。
【0027】
低質量カットオフのおおよその値はプリカーサイオンの質量電荷比から推定可能であるから、例えばMS2スペクトルにおいて観測されるプロダクトイオンのうち、どの質量電荷比を持つイオンピークに対してプリ開裂操作を行えば、低質量カットオフ以上の質量電荷比範囲に、ペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定が可能なプロダクトイオンが現れるかを推定することが可能である。そこで、本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第二の態様において、特徴イオン検出部は、そうしたイオンが、実際に得られたMSnスペクトルにプロダクトイオンとして検出されるか否か判定する。そして、そうしたイオンが存在する場合に、分析制御部は該イオンをプリカーサイオンとするプリ開裂操作を伴うMSn+PreCID分析を実施する。
【0028】
これにより、ペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定に有用であって、しかも、MSn+PreCID分析によって確実に観測されるプロダクトイオンが生成されるようなプリカーサイオンに対してプリ開裂操作を実行することができる。したがって、換言すれば、アミノ酸配列推定ができないような無駄なプリカーサイオンに対するプリ開裂操作を実施することを回避することができる。
【発明の効果】
【0029】
本発明に係るイオントラップ質量分析装置の第一及び第二の態様によれば、MSn分析においてプリカーサイオンのイオン選別回数を減らしながら実質的にイオン選別回数を減らさない状態と同等のマススペクトルを得ることができる。そのため、従来手法と同等の感度やSN比などを得るために必要な分析回数が少なくて済み、分析時間の短縮とサンプル消費量の低減を達成することができる。また、従来手法と同程度の分析時間を確保する場合には、マススペクトルの感度やSN比が向上するので、例えば従来であれば観測できなかった低質量電荷比のプロダクトイオンの情報が得られるようになり、ペプチドや糖ペプチドの同定や構造解析の精度向上が図れる。
【図面の簡単な説明】
【0030】
図1】本発明の一実施例であるイオントラップ質量分析装置の概略構成図。
図2】本実施例のイオントラップ質量分析装置における特徴的な分析動作を示すフローチャート。
図3】第1実測例におけるMS2スペクトル及びMS2+PreCIDスペクトルを示す図。
図4】第2実測例におけるMS2スペクトル及びMS2+PreCIDスペクトルを示す図。
【発明を実施するための形態】
【0031】
本発明の一実施例であるイオントラップ質量分析装置と該装置により実施される特徴的な質量分析方法について、添付図面を参照して説明する。
【0032】
図1は本実施例のイオントラップ質量分析装置の全体構成図である。このイオントラップ質量分析装置は、目的試料をイオン化するイオン源1と、イオンを保持するとともに質量電荷比に応じて分離する3次元四重極型のイオントラップ2と、イオンを検出する検出部3と、を備える。
【0033】
イオン源1は例えばMALDI法を用いたMALDIイオン源であり、図示しないが、パルス状のレーザ光を出射するレーザ照射部、目的化合物を含むサンプルが付着されたサンプルプレート、レーザ光の照射によってサンプルから放出されたイオンを引き出すとともにその引き出し方向を限定するアパーチャ、引き出されたイオンを案内するイオンレンズなどを含む。もちろん、イオン源1はMALDIイオン源に限るものではなく、例えばエレクトロスプレイイオン化(ESI)法などによる大気圧イオン源を用いることもできる。
【0034】
イオントラップ2は、円環状の1個のリング電極21と、これを挟むように対向して配置された、入口側エンドキャップ電極22及び出口側エンドキャップ電極24と、からなり、これら3個の電極21、22、24で囲まれた空間がイオン捕捉領域となる。入口側エンドキャップ電極22の略中央にはイオン入射口23が穿設され、イオン源1から出射したイオンはイオン入射口23を経てイオントラップ2内に導入される。一方、出口側エンドキャップ電極24の略中央にはイオン出射口25が穿設され、イオン出射口25を経てイオントラップ2内から排出されたイオンは検出部3に到達して検出される。また、イオントラップ2の内部には、ガス供給部4から適宜のガスが導入されるようになっている。
【0035】
検出部3は、例えばイオンを電子に変換するコンバージョンダイノードと、コンバージョンダイノードから到来する電子を増倍して検出する二次電子増倍管とからなり、入射したイオンの量に応じた検出信号をデータ処理部5に送る。データ処理部5は、イオントラップ2において質量分離されつつ順次排出されるイオンに対して検出部3で得られる検出信号に基づいてマススペクトル(1以上であるnに対するMSnスペクトル)を作成するマススペクトル作成部51、マススペクトル上で所定の基準に従ってプリカーサイオンを抽出するプリカーサイオン選択部52、マススペクトル上で予め設定された特徴的な複数のピークからなるピーク群を検出する特徴ピーク検出部53、マススペクトルから抽出されたピーク情報に基づいてデータベース検索などによりペプチドを同定するペプチド同定部54、などの機能ブロックを含む。
【0036】
主電源部7は分析制御部6による制御の下に、イオントラップ2のリング電極21にイオン捕捉用の高周波電圧を印加する。また、補助電源部8は同じく分析制御部6による制御の下に、イオントラップ2に捕捉されているイオンをCID(低エネルギCID)する際に該当イオンを共鳴励振させたり、或いは、イオントラップ2からイオンを排出したりするために、エンドキャップ電極22、24にそれぞれ小振幅の高周波電圧を印加する。
【0037】
分析制御部6は、通常CID実行制御部61、プリCID実行制御部62などの機能ブロックを含み、分析を実行するために、主電源部7、補助電源部8のほか、イオン源1、ガス供給部4、データ処理部5などの各部を制御する。
なお、分析制御部6及びデータ処理部5の一部はパーソナルコンピュータに予めインストールされた専用の処理・制御ソフトウエアを該コンピュータで実行することにより、後述する各機能を実施する構成とすることができる。
【0038】
分析対象の試料は例えば糖タンパク質を含むタンパク質由来のペプチド混合物であり、本実施例のイオントラップ質量分析装置は該試料を分析して収集されたデータを処理することで、試料に含まれるペプチドや糖鎖を同定したりその化学構造を推定したりする。図2はこの際に実施される特徴的な分析動作を示すフローチャートである。図2に従って、本実施例のイオントラップ質量分析装置における特徴的な分析動作を説明する。
【0039】
分析が開始されると、まず、分析制御部6の制御の下で、目的試料に対しCIDを実施しない通常の質量分析が実施され、データ処理部5のマススペクトル作成部51ではMS1スペクトルが作成される(ステップS1)。より詳しく説明すると、分析制御部6の制御の下に、イオン源1において目的試料にレーザ光が照射され、該試料中の目的化合物がイオン化される。生成されたイオンはオン入射口23を通してイオントラップ2内に導入され、主電源部7からリング電極21に印加される電圧によって形成される高周波電場の作用でイオンはイオントラップ2内に捕捉される。なお、このとき、ガス供給部4から供給されるクーリングガスの作用により、イオンはイオントラップ2の捕捉領域の中心近傍に収束される。
【0040】
そのあと、捕捉されているイオンは、補助電源部8からエンドキャップ電極22、24に印加される高周波電圧によって質量電荷比の順に励振され、イオン出射口25を経て排出される。検出部3は排出されたイオンを順次検出し、イオン量に応じた検出信号を生成してデータ処理部5へと送る。マススペクトル作成部51は受け取った検出信号に基づき、所定の質量電荷比範囲のMS1スペクトルを作成する。このMS1スペクトルデータは図示しないデータ格納部に格納される。
【0041】
プリカーサイオン選択部52はまずnの値を初期値である2に設定し(ステップS2)、MSn-1スペクトルを解析し所定の基準に照らしてMSn分析のためのプリカーサイオンを検出する(ステップS3)。即ち、ステップS2の直後にステップS3が実施される場合には、最初に得られたMS1スペクトルに現れたピークの中で、例えば信号強度が所定閾値以上であるピークに対応するイオンをMS2分析のためのプリカーサイオンとして検出する。最初のプリカーサイオン選択のための所定の基準はこれに限らず適宜に定めることができる。また、選択されるプリカーサイオンの数も適宜に定めることができる。そのあと、MSn分析のためのプリカーサイオンが少なくとも一つ検出できたか否かを判定し(ステップS4)、検出できなければそのまま処理を終了する。
【0042】
一方、MSn分析のためのプリカーサイオンが一つ以上検出されれば、プリカーサイオン選択部52は該プリカーサイオン情報を分析制御部6の通常CID実行制御部61に送る。すると、通常CID実行制御部61は検出されたプリカーサイオンのうちの一つを次のMSn分析のプリカーサイオンとして設定し(ステップS5)、通常の、つまり設定されたプリカーサイオンを選択的にイオントラップ2に残すイオン選別操作を伴うCID操作を実施することで、目的試料に対するMSn測定を実行する。nが2である条件の下ではMS2測定が実施され、それにより得られたデータに基づいてマススペクトル作成部51はMSnスペクトルを作成する(ステップS6)。このときに作成されるMSnスペクトルは、ステップS5で設定された特定のプリカーサイオンをCIDにより開裂させて生成されるプロダクトイオンの信号強度を示すスペクトルである。
【0043】
こうして得られたMSnスペクトルについて、特徴ピーク検出部53は予め定められた特徴的なピーク又はピーク群が存在するか否かを調べる。具体的には、以下の(1)〜(5)のいずれか一つ又は複数の特徴的なピーク又はピーク群の存在を調べる。
(1)ペプチドからのアミノ酸残基中の特定結合部位の開裂により生じたピーク群であり、アミノ酸2個以上の配列がMSnスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むピーク群。
(2)糖鎖のニュートラルロスにより生じたピーク群であり、2個以上の糖鎖又はその環開裂断片がMSnスペクトル上のピーク間隔から推定可能である複数のピークを含むピーク群。
(3)N型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピーク(3本のピークからなるピーク群)。
(4)タンパク質に含まれる硫黄を用いたジスルフィド結合(Disulfide bond)により結合した複数のペプチドに特徴的である32Da又は34Da間隔で並ぶトリプレットピーク。
(5)着目しているピークをプリカーサイオンとしたMSn+1分析を実施したと仮定したときに、ペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定が可能であるプロダクトイオンがそのときの低質量カットオフ以上の質量電荷比範囲に現れる、と推定されるようなプリカーサイオンに対応するピーク。
【0044】
上記(1)〜(4)のピーク群はペプチド又は糖ペプチドの主要な構造を有するイオンに対応するピークである可能性が高い。一方、上記(5)のピークはペプチド又は糖ペプチドの主要な構造を有するイオンに対応するピークである可能性が高く、しかもそれを開裂させたときに生成されるプロダクトイオンは検出可能である可能性が高い。したがって、こうしたピークは次の段(nの数を1つ増加したときの)のMSn分析のプリカーサイオンとして有用であると考えられるものの、イオン選別操作を行うとプリカーサイオンの量自体が減ってプロダクトイオンが検出できなくなる(厳密に言えば、検出できないほど量が少なくなる)おそれがある。そこで、ここでは、上記のように抽出された特徴的なピーク群又はピークに対しCID操作に先立つイオン選別を実施しないプリCIDを実行するプリCID候補とする(ステップS7)。
【0045】
そして、分析制御部6においてプリCID候補があるか否かが判定され(ステップS8)、プリCID候補があると判定されると、目的試料に対し、ステップS5、S6で実施したプリカーサイオンについてのイオン選別及びCID操作が行われたあとに、プリCID実行制御部62による制御の下で、プリCID候補である1又は複数のイオンに対するプリCID操作が実行され、それによって生成されたプロダクトイオンが検出される。それにより得られたデータに基づいてマススペクトル作成部51はMSn+PreCIDスペクトルを作成する(ステップS9)。nが2である場合には、ステップS9においてMS2+PreCIDスペクトルが作成される。
【0046】
プリCID操作はCID操作に先立つイオン選別操作が省略される以外は、通常のCID操作と同じである。即ち、プリCID実行制御部62による制御の下に補助電源部8はエンドキャップ電極22、24に所定の高周波電圧を印加し、プリCID候補とされた1又は複数のイオンをプリカーサイオンとして選択的に共鳴励振させ、CIDガスに衝突させる。これにより、該イオンは開裂してプロダクトイオンが生成される。このとき、プリカーサイオン以外のイオンは共鳴励振されないので開裂を生じないので、プリCID操作後には、プリCID操作により生じたプロダクトイオンとそれ以前から捕捉されていたプリCID候補以外のイオンとが共に捕捉されることになる。
【0047】
作成されるMS2+PreCIDスペクトルは、MS2スペクトル上で観測された特定のピークに相当するイオンがCIDにより開裂されて生成されたプロダクトイオンの信号強度を示すスペクトルである。したがって、2回目のCID操作の前にイオン選別がなされていないので「MS2+PreCIDスペクトル」となっているが、CID操作回数、つまりは開裂により生じたプロダクトイオンの世代からいえば実質的にはMS3スペクトルである。一方、イオン選別は1回目のCID操作の前にしか行われていないので、MS2+PreCIDスペクトル上で観測されるプロダクトイオンの量はMS2スペクトルに近い。このため、MS2+PreCIDスペクトルには、ペプチド又は糖ペプチドの主要な構造の推定に有用なプロダクトイオンが高い感度で観測される。
なお、ステップS8においてプリCID候補がないと判定された場合には、プリCID操作する対象が存在しないので、ステップS9をスップしてステップS10へ進む。
【0048】
ステップS9においてMS2+PreCIDスペクトルが得られたならば、或いはプリCID候補が見つからなかった場合には、ステップS3で検出された全てのプリカーサイオンについてステップS5〜S9の測定及び処理がなされたか否かが判定され(ステップS10)、未だ測定及び処理がされていないプリカーサイオンがある場合にはステップS5へと戻る。これにより、ステップS3で検出された全てのプリカーサイオンについてMS2測定が実施され、MS2スペクトル上に特徴的なピーク群があればMS2+PreCIDスペクトルが取得される。そして、ステップS10でYesと判定されたならば、次にnが予め設定された所定上限値であるか否かが判定される(ステップS11)。例えば所定上限値が2であれば、ステップS11でNoと判定されることはなく、その時点で処理は終了する。
一方、所定上限値が3以上であれば、ステップS11において少なくとも1回はNoと判定され、nの値がインクリメントされて(ステップS12)ステップS3へと戻る。そうして、さらに多段のMSn分析について同様の測定及び処理を実行する。
【0049】
以上のようにして、本実施例のイオントラップ質量分析装置では、MSnスペクトルにペプチドや糖鎖に特徴的であるピーク群又はピークが検出された場合に、プリCID操作を実施してMSn+PreCIDスペクトルが得られる。一つの目的試料に対して得られたMS1スペクトル上で複数のプリカーサイオンが検出された場合には、そのプリカーサイオン毎のMSnスペクトルについてそれぞれMSn+PreCIDスペクトルが得られる可能性がある。上述したようにMSn+PreCIDスペクトルにはペプチド又は糖ペプチドの主要な構造の推定に有用なプロダクトイオンが高い感度で観測される可能性が高い。そこで、ペプチド同定部54は上述したように収集されたマススペクトル上で観測されるピークの情報を抽出し、このピーク情報をデータベース検索に供することで又はデノボシーケンシング法を用いることにより、目的試料中のペプチドや糖鎖を同定したりその構造を推定したりする。
【実施例】
【0050】
以下、本実施例のイオントラップ質量分析装置を利用した、幾つかの実測例について説明する。
【0051】
[実測例1]
実測例1において、目的試料はラビットのグリコーゲンホスホリラーゼ(Rabbit Glycogen phosphorylase B)のトリプシン消化物ペプチドである。
図3(a)はトリプシン消化物ペプチド中のアミノ酸配列[LLSYVDDEAFIR](m/z 1441)をプリカーサイオンに設定して得られたMS2スペクトルである。なお、データの積算回数は40回である。図示するように、MS2スペクトル中には質量電荷比がm/z750、m/z635、m/z506である3本のピークが観測され、それらピークの間隔はタンパク質の構成要素であるアスパラギン酸(D)とグルタミン酸(E)に相当する。そのため、この複数のピークは上記(1)の特徴的なピーク群であると推定される。なお、このMS2スペクトルから抽出したピーク情報をタンパク質データベース検索に供してもペプチドを同定することはできなかった。
【0052】
上述したように3本のピークは特徴的なピーク群であると推定されるため、これらがプリCID候補となる。そして、この中で、アミノ酸残基DE又はEを含むと推定されるプロダクトイオンm/z 750とm/z 635とをプリカーサイオンとしてプリCID操作を伴うMS2+PreCID分析を実施した結果、図3(b)に示すようなMS2+PreCIDスペクトルが得られた。このときの低質量カットオフは約100である。図3(b)に示すように、MS2スペクトルでは観測されなかった低質量電荷比領域に多数のプロダクトイオンが観測される。特に、m/z 175にピークが確認され、これはアルギニン(R)のy1イオンであることから、分析対象分子のC末端のアミノ酸残基はアルギニンであると推定される。
図3(a)、(b)に示したMS2スペクトル及びMS2+PreCIDスペクトルからそれぞれ得られたピークリストを統合したピーク情報をタンパク質データベース検索に供して同定処理を行った結果、ペプチドは正しく同定された。
【0053】
上記実測例1ではMS2スペクトル上のピーク間隔から部分的なアミノ酸配列を推定したが、目的化合物はN型又はO型糖ペプチドであってもよく、3本以上のピーク間隔から抽出される情報は特定の糖鎖又は特定の糖の環開裂によるニュートラルロスであってもよい。即ち、この場合、この複数のピークは上記(2)の特徴的なピーク群であると推定される。このような場合には、そうしたニュートラルロス由来であると推定された複数のピークの中で質量電荷比が最小であるピーク、又はその複数のピークの中でピーク強度が一定以上であり且つ質量電荷比が最小であるピークに対応するイオンを対象としてプリCIDを実行すればよい。
【0054】
目的化合物がN型糖ペプチドであって、MS2スペクトル上で観測される複数のピークが上記(3)の特徴的なピーク群であると推定される場合には、そのトリプレットピークのいずれか一つ以上のピークに対応するイオンを対象としてプリCIDを実行すればよい。トリプレットピークからプリCID対象を決める際には、各ピークの質量電荷比のほか、ピーク強度やトリプレットピーク間の質量電荷比順位、相対強度、相対強度順位などを基準とすればよい。また、MS2スペクトル上で観測される複数のピークが上記(4)の特徴的なピーク群であると推定される場合においても、そのトリプレットピークのいずれか一つ以上のピークに対応するイオンを対象としてプリCIDを実行すればよく、トリプレットピークからプリCID対象を決める際には、各ピークの質量電荷比のほか、ピーク強度やトリプレットピーク間の質量電荷比順位、相対強度、相対強度順位などを基準とすればよい。
【0055】
図3(b)の例では、MS2スペクトルでは観測できなかったy1イオンをMS2+PreCIDスペクトルにおいて検出することができた。このときの低質量カットオフの大きさはプリカーサイオンの質量電荷比等によって定められていることから、MS2スペクトルで観測される複数のプロダクトイオンの中で、どの質量電荷比を持つイオンをプリCIDすれば低質量カットオフがペプチドのN/C末端配列又はインモニウムイオンを用いたアミノ酸配列組成推定が可能な質量以下となるのか、を見積もることが可能である。ここで使用した装置では低質量カットオフがプリカーサの質量電荷比の約20%となるから、特徴的なピーク群の中で質量電荷比がm/z 506.635であるイオンを対象にプリCIDを実施することにより、トリプシン消化物に特有のアルギニン(R)又はリシン(K)をy1イオン(それぞれm/z 175、m/z 147)として検出可能である。
【0056】
[実測例2]
この実測例2では、目的試料はウシフェチュイン由来の三分岐糖ペプチドである三分岐N結合型糖ペプチド(m/z 6536.72(Ave.))である。この三分岐糖ペプチドのシアル酸脱離イオン(m/z 5662.9(Ave.))に対するMS2スペクトルから特定糖やその環開裂によるニュートラルロスに由来するプロダクトイオンを抽出し、これを対象としたプリCIDを実施した。さらに、それによって得られたMS2+PreCIDスペクトルにおいてN型糖ペプチドに特徴的なトリプレットピークを検出し、そのいずれか一つ以上をプリカーサイオンとしたMS3分析を実施した。
【0057】
図4(a)は三分岐N結合型糖ペプチドに対するMS2スペクトルである。このMS2スペクトルにおいて、六炭糖やHexNAcなど、糖鎖のニュートラルロスにより生じたプロダクトイオンがラダー状に並んでいることが確認された。次に、これらの糖鎖ニュートラルロス由来であると確認されたピークの中でピーク強度が最大であるm/z 3103のイオンを対象としたプリCIDを実施した結果、図4(b)に示すようなMS2+PreCIDスペクトルが得られた。図4(b)に示すように、MS2スペクトルでは検出されなかったN型糖ペプチドに特徴的であるトリプレットピーク(m/z 1114、m/z 1197、m/z 1317:ピーク間隔は低質量電荷比側から83Da、120Da)が観測された。この結果から、ペプチドの質量電荷比はm/z 1114であると推定された。また、このトリプレットピークのいずれか一個以上を対象としてMS3分析を行い、その結果を利用して糖鎖結合部位の同定が可能であった。
【0058】
以上のように、本実施例のイオントラップ質量分析装置によれば、従来は同定や構造解析が困難であったペプチドや糖ペプチドについても、同定や構造解析が可能となる可能性が高まる。また、プリCIDではイオン選別を行わない分だけ分析時間が短くて済むので、ペプチドや糖ペプチドの同定作業の効率を向上させることができる。
【0059】
なお、上記実施例は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加等を行っても本願請求の範囲に包含されることは当然である。
【符号の説明】
【0060】
1…イオン源
2…イオントラップ
21…リング電極
22、24…エンドキャップ電極
23…イオン入射口
25…イオン出射口
3…検出部
4…ガス供給部
5…データ処理部
51…マススペクトル作成部
52…プリカーサイオン選択部
53…特徴ピーク検出部
54…ペプチド同定部
6…分析制御部
61…通常CID実行制御部
62…プリCID実行制御部
7…主電源部
8…補助電源部
図1
図2
図3
図4