【課題を解決するための手段】
【0013】
本願発明者らはこれまで、遅延引き出し法における様々な改良手法を提案している。例えば特許文献3に記載のTOFMSでは、レーザ光をサンプルに照射する時点で、サンプルプレートから引き出し電極に向かって緩やかに下がる電位勾配を有する電場を形成しておく。この電場の作用により、サンプル表面で発生したイオンは質量電荷比に応じた速度を持ち、質量電荷比が小さなイオンほど引き出し電極に近づく。そして、レーザ光照射時点から所定の遅延時間が経過した後にサンプルプレートに印加する電圧を上げ、サンプルプレートから引き出し電極に向かう電位勾配を急にしてイオンを加速する。すると、質量電荷比が大きなイオンは質量電荷比が小さなイオンに比べて相対的に大きなエネルギを受ける。これにより、質量電荷比毎に適切なエネルギ変化をイオンに与えることができ、エネルギ収束が行われる質量電荷比の範囲を拡大することができる。以下の説明では、この方法を「改良遅延引き出し法」と称す。
【0014】
また、特許文献4に記載のTOFMSでは、引き出し電極をイオン光軸方向に複数に分割した構成とし、レーザ光照射時点から所定の遅延時間が経過した後に、サンプルプレートに近づくほど電位勾配が急であるような非線形の電位勾配を有する加速電場を引き出し領域に形成するようにサンプルプレート及び複数の引き出し電極にそれぞれ所定の電圧を印加する。特許文献4に記載されているように、レーザ光照射時点から適宜の期間中に、直線的な傾斜を持つ電位勾配によってイオンをおおまかに質量分離したあとに初期速度のばらつきによる運動エネルギの差を加速電圧で補償する場合、加速電場形成後の該加速電場における理想的な電位勾配は、サンプルプレートと引き出し電極との間の所定の位置で電位が無限大になるような非線形形状となる。そこで、複数の引き出し電極にそれぞれ所定の電圧を印加することで、この非線形形状の電位勾配を有する加速電場を形成し、質量電荷比に応じたより適切なエネルギ補償を行っている。
【0015】
上述したような電位勾配が非線形形状である電場を利用したエネルギ補償は、イオンが質量電荷比に応じて或る程度分離された状態でないと適用できない。換言すれば、イオンが質量電荷比に応じて或る程度分離された状態であれば、非線形形状の電位勾配を有する加速電場を利用したエネルギ補償は、イオンの引き出し領域のみならず、イオンを加速する加速領域やイオンを自由に飛行させる飛行領域においても有効であると推測される。本願発明者はこうした知見の下に計算機シミュレーション等による検討を繰り返し、本発明をするに至った。
【0016】
即ち、上記課題を解決するためになされた本発明の第1の態様による第1の飛行時間型質量分析装置は、試料から発生したイオンを加速して飛行空間に導入し、該飛行空間内で質量電荷比に応じてイオンを分離して検出する飛行時間型質量分析装置において、
a)試料を保持する試料保持部から所定距離離間して配設された引き出し電極と、
b)前記試料保持部から見て前記引き出し電極よりも遠い位置に配設された加速電極と、
c)前記引き出し電極と前記加速電極との間の加速領域で加速されたイオンが送り込まれる飛行空間中に、イオン光軸方向に沿って配設された複数の補助電極と、
d)イオン発生開始時点か
ら所定の遅延時間が経過するまでの期間中に、試料表面から前記引き出し電極に向けてイオンを質量電荷比に応じて移動させる電場を形成するべく、前記試料保持部の電位を前記引き出し電極の電位よりも、前記所定の遅延時間及び前記所定距離に応じた第1の電位差だけ高く保ち、前記所定の遅延時間が経過した時点及びそれ以降には、前記試料保持部と前記引き出し電極との間の空間にあるイオンが一斉に加速されて該引き出し電極を通り過ぎる電場が形成されるように、前記試料保持部の電位を前記引き出し電極の電位よりも、第1の電位差より大きな第2の電位差だけ高く保つように、前記試料保持部及び前記引き出し電極に対し所定の電圧を印加するとともに、前記加速領域で加速され前記飛行空間に導入されたイオンが前記補助電極の設置部位を通過するときに、イオン光軸に沿ったイオン通過方向にイオンを加速する電位勾配が該飛行空間の奥側よりも手前側で相対的に大きい疑似曲線形状又は折れ線状である加速電場が形成されるように、前記複数の補助電極にそれぞれ所定の電圧を印加する電圧印加部と、
を備えることを特徴としている。
また上記課題を解決するためになされた本発明の第1の態様による第2の飛行時間型質量分析装置は、試料から発生したイオンを加速して飛行空間に導入し、該飛行空間内で質量電荷比に応じてイオンを分離して検出する飛行時間型質量分析装置において、
a)試料を保持する試料保持部から所定距離離間して配設された引き出し電極と、
b)前記試料保持部から見て前記引き出し電極よりも遠い位置に配設された加速電極と、
c)前記引き出し電極と前記加速電極との間の加速領域で加速されたイオンが送り込まれる飛行空間中に、イオン光軸方向に沿って配設された複数の補助電極と、
d)イオン発生開始時点以降に、前記試料保持部と前記引き出し電極との間の空間においてイオンを該試料保持部から該引き出し電極に向かう方向に引き出す電位勾配の傾斜が、所定の同一又は異なる時間が経過する毎に段階的に大きくなる電場が形成されるように、前記試料保持部に対し、前記引き出し電極の電位に対する前記試料保持部の相対的な電位を段階的に増加させた電圧を印加するとともに、前記加速領域で加速され前記飛行空間に導入されたイオンが前記補助電極の設置部位を通過するときに、イオン光軸に沿ったイオン通過方向にイオンを加速する電位勾配が該飛行空間の奥側よりも手前側で相対的に大きい疑似曲線形状又は折れ線状である加速電場が形成されるように、前記複数の補助電極にそれぞれ所定の電圧を印加する電圧印加部と、
を備えることを特徴としている。
【0017】
また上記課題を解決するためになされた本発明の第2の態様による飛行時間型質量分析装置は、試料から発生したイオンを加速して飛行空間に導入し、該飛行空間内で質量電荷比に応じてイオンを分離して検出する飛行時間型質量分析装置において、
a)試料を保持する試料保持部から所定距離離間して配設された引き出し電極と、
b)前記試料保持部から見て前記引き出し電極よりも遠い位置に配設された加速電極と、
c)前記引き出し電極と前記加速電極との間の加速領域に、イオン光軸方向に沿って配設された1又は複数の補助電極と、
d)イオン発生開始時点か
ら所定の遅延時間が経過するまでの期間中又は少なくともその期間中の一部期間において、試料表面から前記引き出し電極に向けてイオンを質量電荷比に応じて移動させる電場を形成するべく、前記試料保持部の電位を前記引き出し電極の電位よりも所定の第1の電位差だけ高くし、前記所定の遅延時間が経過した時点及びそれ以降には、前記試料保持部と前記引き出し電極との間の空間にあるイオンが一斉に加速されて該引き出し電極を通り過ぎる電場が形成されるように、前記試料保持部の電位を前記引き出し電極の電位よりも、第1の電位差より大きな第2の電位差だけ高く保つべく、前記試料保持部及び前記引き出し電極に対し電圧を印加するとともに、前記試料から生成され前記引き出し電極を通過して加速領域に引き出されたイオンを加速して飛行空間へ送り込むために該加速領域に加速電場を形成する際に、イオン光軸方向に沿った電位勾配が前記加速電極側よりも前記引き出し電極側で相対的に大きい疑似曲線状である加速電場を形成するように、前記引き出し電極、前記補助電極、及び前記加速電極にそれぞれ所定の電圧を印加する電圧印加部と、
を備えることを特徴としている。
【0018】
また上記課題を解決するためになされた本発明の第3の態様による飛行時間型質量分析装置は、試料から発生したイオンを加速して飛行空間に導入し、該飛行空間内で質量電荷比に応じてイオンを分離して検出する飛行時間型質量分析装置において、
a)試料を保持する試料保持部から所定距離離間して配設された引き出し電極と、
b)前記試料保持部から見て前記引き出し電極よりも遠い位置に配設された加速電極と、
c)前記引き出し電極と前記加速電極との間の加速領域に、イオン光軸方向に沿って配設された1又は複数の補助電極と、
d)イオン発生開始時点で、試料表面で発生したイオンが加速されて前記引き出し電極を通り過ぎる電場が前記試料保持部と該引き出し電極との間の空間に形成されるように、該引き出し電極に所定の電圧を印加しつつ該引き出し電極への印加電圧よりも所定の電位差だけ高い電圧を前記試料保持部に印加するとともに、前記試料から生成され前記引き出し電極を通過して加速領域に引き出されたイオンを加速して飛行空間へ送り込むために該加速領域に加速電場を形成する際に、イオン光軸方向に沿った電位勾配が前記加速電極側よりも前記引き出し電極側で相対的に大きい疑似曲線状である加速電場を形成するように、前記引き出し電極、前記補助電極、及び前記加速電極にそれぞれ所定の電圧を印加する電圧印加部と、
を備えることを特徴としている。
【0019】
本発明に係る第1乃至第3の態様の飛行時間型質量分析装置において、試料からイオンを発生させるためのイオン化法としては、MALDI、LDI(Laser Desorption/Ionization)等のレーザ光を利用した方法、SIMS(Secondary Ion Mass Spectrometry)等のイオン線を利用した方法、DESI(Desorption ElectroSpray Ionization)等の帯電噴霧流を利用した方法、PDI(Plasma Desorption Ionization)等のプラズマを利用した方法、などが考えられる。
【0020】
本発明に係る第1の態様の飛行時間型質量分析装置において、電圧印加部は、飛行空間に導入されたイオンがちょうど補助電極の設置部位付近を通過するタイミングで、イオン光軸に沿ったイオン通過方向にイオンを加速する電位勾配が該飛行空間の奥側よりも手前側で相対的に大きい疑似曲線形状(曲線に近似させた折れ線状)である補助的な加速電場が形成されるように、複数の補助電極にそれぞれ所定の電圧を印加する。加速領域で加速された各種イオンは、補助電極の設置部位付近に達した時点で未だそれほど空間的に分散してはいないものの、質量電荷比に応じておおまかに分離されている。このとき、同一イオン種は空間的に比較的近い位置に存在するため、補助加速電場の形成により、同一イオン種に対してはほぼ同程度の加速エネルギが与えられる。また、質量電荷比が大きいイオンは相対的に飛行空間の手前側に、逆に質量電荷比が小さいイオンは相対的に飛行空間の奥側を飛行している。そのため、質量電荷比が小さいイオンよりも質量電荷比が大きいイオンに対して、電位勾配の傾斜がより大きな補助加速電場が作用し、大きな加速エネルギが与えられることになる。
【0021】
後述するように、引き出し領域に加速電場を生じさせてイオンの初期エネルギを補償する場合、理想的な加速電場は、引き出し電極側から試料保持部側へ向かう電位勾配が略放物線状に増加し、試料保持部に近い或る位置で電位が無限大に発散する形状となる電場である。本発明の第1の態様による飛行時間型質量分析装置では、飛行空間中に一時的に形成する補助加速電場のイオン光軸に沿った電位勾配を直線的ではなく疑似曲線状とすることで、引き出し領域に理想的な加速電場を生じさせるのとほぼ同等のエネルギ補償を行うことができる。その結果、幅広い質量電荷比を持つイオンに対してそれぞれの質量電荷比に応じた適切な加速エネルギを与えることが可能となり、広い質量電荷比範囲に亘って質量分解能を改善することができる。
また本発明の第1の態様による飛行時間型質量分析装置では、改良遅延引き出し法を併せて利用する。そのため、飛行空間中の加速電場ではイオン引き出し時に補償しきれなかった分のエネルギを通過するイオンに対して付与すればよい。それにより、改良遅延引き出し法を併用しない場合に比べて、補助加速電場の電位勾配を全体として緩やかなものとすることができる。
【0022】
一方、本発明の第2又は第3の態様による飛行時間型質量分析装置では、飛行空間中ではなく、引き出し電極と加速電極との間の空間に1又は複数の補助電極を配置し、この加速領域においてイオンを加速する際に、電位勾配が加速電極側よりも引き出し電極側で相対的に大きい疑似曲線状であるような加速電場を形成する。ただし、従来の一般的な遅延引き出し法では、イオンが加速領域に達した時点でイオンは質量電荷比に応じて分離されていない。加速領域に形成された上記のような加速電場によって各イオンが持つエネルギを適切に補償するには、加速領域において加速される際にイオンが質量電荷比に応じておおまかに分離されている必要がある。そこで、第2の態様では、特許文献3に記載された改良遅延引き出し法によって試料表面付近からイオンを引き出し、加速領域へと移動させる。また、第3の態様では、遅延引き出しを行わずにイオン発生時点で試料保持部と引き出し電極との間の空間にイオンを加速する傾斜電場を形成しておき、この電場によりイオンを質量電荷比に応じておおまかに分離したあとに、加速領域に形成された電場によって各イオンが持つエネルギを適切に補償する。
【0023】
即ち、第2の態様による飛行時間型質量分析装置では、例えばイオン発生開始時点において試料保持部と引き出し電極との間の空間に、イオンを試料表面から引き出し電極の方向に引き出す電場が形成されている。このときの試料保持部と引き出し電極との間の電位差(第1の電位差)は生成された全てのイオンを一斉に且つ大きな加速度で以て加速するほどは大きくなく、その電位差により形成される電場の作用により、各種イオンは緩慢に試料表面から引き出し電極に向かって移動する。一定の電場の下ではイオンの速度はサイズに逆比例するから、小さな(一般的には質量電荷比が小さな)イオンほど引き出し電極に近づき、逆に大きなイオンは試料に近い位置に存在する。そのため、所定の遅延時間が経過した時点では、引き出し領域におけるイオンの空間分布はおおまかに質量電荷比に依存したものとなる。
【0024】
そして、所定の遅延時間が経過しイオンを一斉に加速させるべく試料保持部と引き出し電極との電位差を拡大する際に、空間的に比較的近い位置に存在する同一のイオン種には、ほぼ同程度の加速電圧が与えられる。これにより、各種イオンに対し質量電荷比に応じた加速電圧が与えられる。こうして引き出し領域から送り出された各イオンが加速領域を通過するタイミングで、加速領域では上述したような非線形形状の電位勾配を有する加速電場が形成されるため、特に質量電荷比が大きなイオンに対しても十分なエネルギ補償が考慮された加速エネルギが付与される。それによって、広い質量電荷比範囲に亘って質量分解能を改善することができる。
【0025】
また第2の態様による飛行時間型質量分析装置の他の形態では、イオン発生開始時点から或る遅延時間が経過した時点で試料保持部の相対的な電位が上がり、電位勾配を持つ電場が試料保持部と引き出し電極との間の空間に形成されると、その空間に存在していたイオンは加速されて引き出し電極に向かって移動し始める(1回目の加速操作)。このとき、質量電荷比の小さなイオンほど移動し易いから、その直前のイオンの空間分布が質量電荷比に依存しない状態であっても、質量電荷比が小さなイオンのほうが質量電荷比が大きなイオンに比べて早く引き出し電極を通過する傾向にある。このため、1回目の加速操作を行った時点から或る時間が経過した時点では、試料保持部と引き出し電極との間の空間に残るイオンは質量電荷比が相対的に大きなものの割合が多くなる。
【0026】
試料保持部の相対的な電位がさらに上げられ電位勾配の傾斜が急になると、残っていた質量電荷比が比較的大きなイオンに追加的に運動エネルギが付与され、これによってそのイオンは加速されて引き出し電極に向かって移動する(2回目の加速操作)。この加速操作は2回以上の任意の回数行うことができる。また、加速操作のためには、引き出し電極の電位を固定にしたまま試料保持部の電位を上げる、試料保持部の電位を固定したまま引き出し電極の電位を下げる、或いは、試料保持部の電位を上げると同時に引き出し電極の電位を下げる、のいずれを行ってもよい。このように段階的に加速電圧を上げていくことにより、各種イオンに対し質量電荷比に応じた加速電圧を与えることが可能となる。
【0028】
また第1乃至第3の態様のいずれにおいても、補助電極の数が多いほど、疑似曲線状の電位勾配を理想曲線に近付けることができる。したがって、好ましくは、補助電極の数を増やして各補助電極にそれぞれ適宜の電圧を印加する構成とすることが好ましい。
【0029】
また本発明に係る飛行時間型質量分析装置は、リニア飛行時間型質量分析装置、リフレクトロン飛行時間型質量分析装置のいずれにも適用可能である。ただし、第1の態様による飛行時間型質量分析装置をリフレクトロン飛行時間型質量分析装置に適用する場合、原理的には、リフレクトロンでイオンが折り返したあとの飛行経路上に補助電極を配置することも可能ではあるものの、この場合、リフレクトロンでエネルギ収束が行われたあとのイオンに対して加速エネルギを与えることになるので、複数の補助電極に印加すべき電圧の算出が複雑になる。そのため、リフレクトロンでイオンが折り返される前の飛行経路上に補助電極を配置し、そこで所望のエネルギ収束を実施することが好ましい。