【課題を解決するための手段】
【0009】
上記課題を解決するために成された本発明は、被検試料に含まれる化合物由来のイオンに対する質量分析を複数回実施し、その1回毎の質量分析により得られたデータを積算することで得られたデータに基づいて前記化合物を同定する質量分析装置において、
a)被検試料中の、種類及び濃度が既知である標準化合物に対する質量分析を所定回数実施し、得られたデータを積算して評価用積算データを求めるように当該装置の各部を制御する標準化合物測定制御部と、
b)前記標準化合物測定制御部による制御の下で得られた前記評価用積算データに基づくデータベース検索を実行することにより、前記標準化合物を推定するとともに、その推定の確度を示す指標値を算出する標準化合物推定部と、
c)前記標準化合物推定部による化合物推定の成否及び前記指標値に基づいて、適切なデータの積算回数を決定する積算回数決定部と、
を備えることを特徴としている。
【0010】
本発明に係る質量分析装置におけるイオン化法やイオンを質量電荷比に応じて分離する質量分離手法は特に限定されないが、例えばイオン化法としては、上述したMALDI法のほか、マトリクスを用いないレーザ脱離イオン化法(LDI)、表面支援レーザ脱離イオン化法(SALDI)、二次イオン質量分析法(SIMS)、脱離エレクトロスプレイイオン化法(DESI)、エレクトロスプレイ支援/レーザ脱離イオン化法(ELDI)などを用いればよい。また、質量分離手法は上述した飛行時間型質量分析計のほかに、四重極型質量分析計などでもよい。
【0011】
また本発明に係る質量分析装置は、例えばイオントラップ飛行時間型質量分析装置やタンデム四重極型質量分析装置のように、イオンを1又は複数段階解離させ、それによって生成されたプロダクトイオンを質量分析するものでもよい。その場合、質量分析により得られたデータはMS/MSスペクトルデータ又はMS
nスペクトルデータ(nは2以上の整数))である。
【0012】
本発明に係る質量分析装置を用いた分析では、例えば同定したい目的化合物を含む被検試料に濃度と種類が既知である標準化合物を内部標準物質として加える。標準化合物の濃度は目的化合物の濃度と同程度であることが好ましいから、分析者が目的化合物の濃度を予測可能であるときには、その予測した濃度の標準化合物を用いるとよい。そして、目的化合物に対する測定を実行する前に、標準化合物測定制御部による制御の下で標準化合物に対する質量分析を所定回数実施し、各質量分析により得られたデータを積算する。ここでいうデータは、所定質量電荷比範囲に亘る生の信号強度を示すプロファイルデータ又は該プロファイルデータを波形処理することにより得られたマススペクトル(上述したMS/MSスペクトルやMS
nスペクトルを含む)データである。
【0013】
標準化合物推定部は評価用積算データが得られると、該データに基づくデータベース検索を実行することにより標準化合物を推定する。目的化合物や標準化合物がタンパク質又はペプチドである場合、データベースは多数のタンパク質やペプチドのアミノ酸配列を収録したデータベースである。また、データベース検索には、MS
nスペクトルから求まるプロダクトイオンの質量電荷比を利用してペプチドのアミノ酸配列を推定する一つの方法である、MS/MSイオンサーチを用いることができる。この手法を利用するソフトウエアとしては、英国マトリクスサイエンス社が提供しているマスコット(MASCOT)やX! TANDEMがよく知られている(非特許文献1、2参照)。
【0014】
MS/MSイオンサーチでは、タンパク質データベースに登録されている全てのタンパク質を実測の際の前処理で用いられた酵素(実際には、検索条件の一つとして設定された酵素)で消化して得られるペプチドのアミノ酸配列を計算したあとに、そのアミノ酸配列から得られる理論上のプロダクトイオンの質量電荷比を計算し、それと実測により得られたMS
nスペクトル上のプロダクトイオンの質量電荷比との一致度を調べる。MASCOTではこの一致度がスコアであり、X! TANDEMにおいては、この一致度はハイパースコアと呼ばれる値である。さらにまた、X! TANDEMでは、一致度の信頼性を統計的に示す指標値として、ハイパースコアの分布に基づいて期待値(e-value)が算出され、この期待値を用いてペプチドが同定されたか否かを判断することができる。したがって、これらスコア、ハイパースコア、期待値などを、化合物推定の確度を示す指標値として用いることができる。
【0015】
標準化合物は既知であるから、標準化合物推定部により推定された化合物が確かに標準化合物であればデータベース検索による化合物推定は成功、そうでなければ失敗である。この結果とともに化合物推定に伴って得られる指標値も利用して、積算回数決定部は、適切なデータの積算回数を決定する。例えば、化合物推定が成功であって指標値が所定の閾値以上であれば、そのときのデータ積算回数は適切であると判断し、目的化合物の測定の際のデータ積算回数を定める。一方、化合物推定が失敗であった場合や成功であっても指標値が所定の閾値未満である場合には、マススペクトルデータのSN比が不足しているものと判断し、データ積算回数を所定数だけ増加させる。
【0016】
なお、このようにデータ積算回数を所定数だけ増加させたとしても、その状態でマススペクトルデータのSN比が化合物推定に十分なものとなっているとは限らない。
そこで、本発明に係る質量分析装置の好ましい一実施態様として、
前記積算回数決定部が、前記標準化合物推定部による化合物推定の成否及び前記指標値に基づいてそのときのデータ積算回数が不足していると判断しデータ積算回数を増加させた場合に、前記標準化合物測定制御部、前記標準化合物推定部、及び前記積算回数決定部により、増加されたデータ積算回数における質量分析の結果であるデータに基づく化合物の推定を再度実行し、その結果を用いて、増加されたデータ積算回数の適宜を判断する構成とするとよい。
【0017】
この構成では、データ積算回数が多すぎることを避けるために、標準化合物を最初に測定する際のデータ積算回数、つまりデータ積算回数の初期値は小さめにしておき、データ積算回数が不足していると判断されたならば、徐々にデータ積算回数を増やしていくようにするとよい。これにより、データ積算回数が必要以上に多くなりすぎることを抑えることができる。
【0018】
また、本発明に係る質量分析装置においては、
d)前記積算回数決定部によりデータ積算回数が決定されたあとに、前記被検試料中の目的化合物に対する測定をそのデータ積算回数だけ実施し、得られたデータを積算するように当該装置の各部を制御する目的化合物測定制御部と、
e)前記目的化合物測定制御部による制御の下で得られた積算データに基づくデータベース検索を実行することにより前記目的化合物を推定する目的化合物推定部と、
をさらに備える構成とするとよい。
目的化合物推定部は上記標準化合物推定部と同様の手法で、目的化合物を推定すればよい。
【0019】
この構成によれば、標準化合物を用いたデータ積算回数の条件決めに引き続いて、同じ被検試料に含まれる目的化合物の測定を実施することができる。それによって、データ積算回数以外の、例えば周囲環境や装置状態、試料調製状態などについて標準化合物の測定時とほぼ同じ条件の下で、目的化合物に対する測定を行うことができる。
【0020】
ただし、仮に標準化合物と目的化合物の濃度が同じであったとしても、化合物の種類の相違(ペプチドではアミノ酸配列の相違)によってイオン化効率が異なる場合には、最適なデータ積算回数が必ずしも同じにはならない。
【0021】
そこで、本発明に係る質量分析装置において、好ましくは、
f)標準化合物に対して得られたマススペクトルに基づいてスペクトル品質評価値を算出するスペクトル品質評価部と、
g)目的化合物に対して得られたマススペクトルに基づいて算出されるスペクトル品質評価値が前記スペクトル品質評価部で算出された値に達するまで、前記積算回数決定部により決定されたデータ積算回数よりもさらに回数を増加させる積算回数調整部と、
をさらに備え、前記目的化合物推定部は、前記積算回数調整部により調整されたあとのデータ積算回数の下で得られた積算データに基づくデータベース検索を実行することにより前記目的化合物を推定する構成とするとよい。
【0022】
上述したMASCOTなどの一般的なデータベース検索ソフトウエアにおいては、ペプチドのアミノ酸配列から予測されるb系列/y系列などのプロダクトイオンがマススペクトルに出現しているか否かを評価することで、上述したような同定結果の信頼性等を示す値、スコアや期待値などを求めている。即ち、この評価値は或るペプチドのアミノ酸配列に対して計算される値であって、マススペクトルの品質を評価しているわけではない。これに対し、プロテオミクスの分野では、マススペクトルの品質そのものを評価する手法も知られている。
【0023】
例えば特許文献2、非特許文献6には、マススペクトル上のプロダクトイオンの信号強度とその順位との関係を利用してスペクトルの品質を評価する方法が記載されている。これら文献には、このスペクトル品質評価方法を測定後のマススペクトルをフィルタリングするのに用いることで、不正解のタンパク質が同定されることを防止するのに有効であることが記載されている。また、非特許文献3〜5にも、同様にスペクトルの品質を評価する別の手法が記載されている。スペクトル品質を評価するために、非特許文献3ではMS/MSスペクトルの特徴量が、非特許文献4では適切なSN比を動的に計算するアルゴリズムが、非特許文献5ではスペクトルに現れるピークの信号強度順位の分布が、それぞれ利用されている。
上記構成において、スペクトル品質評価部及び積算回数調整部は、例えばこれら手法のいずれかを用いて、標準化合物のマススペクトルについてのスペクト
ル品質評価値を求めるようにすることができる。
【0024】
例えば、目的化合物の濃度が標準化合物の濃度に比べて低い場合や、目的化合物が標準化合物に比べてイオン化されにくい場合には、目的化合物に対して得られたマススペクトルに基づいて算出されるスペクトル品質評価値がスペクトル品質評価部で算出された値よりも低くなる。その場合、その時点における目的化合物に対するマススペクトルを用いても、目的化合物が正しく同定される可能性は低い。そこで積算回数調整部は、積算回数決定部により決定されたデータ積算回数よりもさらに回数を増加させることにより、マススペクトルの品質を高める。それによって、目的化合物の種類や濃度に応じた最小限のデータ積算回数で該目的化合物を同定できる可能性が高くなる。その結果、上述したように目的化合物の濃度が標準化合物の濃度に比べて低い場合や目的化合物が標準化合物に比べてイオン化されにくい場合であっても、目的化合物を同定できないような事態に陥ることを回避することができる。