【実施例】
【0043】
実施例を挙げて本発明をより具体的に説明する。
[実施例1]
《摺動部材》
摺動部材となる供試材として、次のようなブロックオンリング摩擦試験用評価材とエンジン動弁系摩擦試験用評価材を用意した。
【0044】
〈ブロックオンリング摩擦試験用評価材〉
(1)基材
基材として、焼入れ処理を施したブロック状(6.3mm×15.7mm×10.1mm)の鋼材(JIS SUS440C)を用意した。その鋼材の鏡面仕上げ面(表面粗さRzjis0.1μm/摺動面)に、表1に示す各種のDLC膜を後述のようにして成膜した。またDLC膜を被膜しない比較評価材として、浸炭処理しただけの鋼材(JIS SCM420)も用意した。その浸炭面(硬さHV800)も同様な表面粗さの鏡面仕上げ面とした。こうしてブロックオンリング摩擦試験用の各ブロック試験片を用意した。なお、摺動面にDLC膜を設けた試験片は、そのDLC膜の呼称(表1参照)を用いて表し、摺動面にDLC膜を設けなかった試験片は単に「鋼材」として表す。これは後述のエンジン動弁系摩擦試験でも同様である。
【0045】
(2)DLC膜の成膜
上記のDLC膜の成膜は、アンバランスドマグネトロンスパッタリング装置(株式会社神戸製鋼所製UBMS504)を用いて行った。具体的には次の通りである。先ず、DLC膜を形成する前に、予め鏡面仕上げした基材表面に中間層を形成した。上記のスパッタリング装置内を1×10
−5Paまで排気して、基材表面に対向配置した純クロムターゲットをArガスでスパッタした。こうして基材表面にCr膜を形成した。これに続けて、CH
4ガスを装置内へ導入し、Cr膜の表面にCr−C系膜を形成した。こうして合計の厚さが約0.8μm程度の中間層を形成した。なお本実施例を通じて、基材表面とターゲット表面との距離は100〜800mmに調整した。なお、膜厚はCMS社製Calotestにより特定した(以下同様)。
【0046】
次に、その基材表面に対向配置したドープ元素(特定元素)源である各種のドープターゲットおよびグラファイトターゲットをArガスでスパッタリングした。これに続けて、200sccmのArガス、10sccmのCH
4ガス(炭化水素系ガス)および1sccmのH
2ガスを装置内へ導入した。このときの装置内のガス圧は0.7Paであった。こうして中間層上に各種DLC膜を成膜した評価材を得た。なお、各DLC膜の厚さは約1.5μmであった。また、ドープ元素がBであるときのドープターゲットにはB
4Cを用いた。またドープ元素がTi、VおよびMoであるときは、それぞれの純金属をドープターゲットとした。ドープ元素がなくHが多いDLC膜(D7)は、ドープターゲットをCに変更し、CH
4ガスを導入して成膜した。またHフリーのDLC膜(D6)は、特開2004−115826号公報に記載されているアークイオンプレーティング法により形成した。
【0047】
(3)膜組成
表1に示した各DLC膜の膜組成は次のように測定した。膜中のドープ元素は、電子プローブ微小部分析法(EPMA)、X線光電子分光法(XPS)、オージェ電子分光法(AES)またはラザフォード後方散乱法(RBS)により定量した。Hは、弾性反跳粒子検出法(ERDA)により定量した。ERDAは、2MeVのヘリウムイオンビームを膜表面に照射して、その膜からはじき出される水素を半導体検出器により検出して水素濃度を測定する方法である。こうして得られた各DLC膜の組成を表1に併せて示した。
【0048】
(4)膜構造
透過型電子顕微鏡(TEM)を用いて、各DLC膜の厚さ方向の断面中央部へ電子線を照射して電子線回折像を得た。各電子線回折像から、ハローパターンが観察されており、各DLC膜はアモルファス構造であることがわかった。
【0049】
(5)表面硬さおよび表面粗さ
各DLC膜の表面硬さは、ナノインデンター試験機(株式会社東陽テクニカ製MTS)による測定値から求めた。こうして得られたDLC膜の表面硬さを表1に併せて示した。なお、本明細書でいう表面粗さは、後述するSPMを用いる場合など特に断らない限り、白色干渉法非接触表面形状測定機(Zygo社製NewView5022)により測定した。
【0050】
〈エンジン動弁系摩擦試験用評価材〉
エンジン動弁系摩擦試験用評価材として、内燃機関(ガソリンエンジン)のカムに接するシムを用意した。各シムは、上述したブロックオンリング摩擦試験用のブロック試験片と同様に、鏡面仕上げ後の基材(JIS SUS440C)表面へ、表1に示すHフリ−DLCおよび6B−DLCを被覆したものである。また、比較のため、DLC膜を成膜していない浸炭鋼材からなるシム(市販の補修部品)も用意した。
【0051】
《潤滑油》
(1)ブロックオンリング摩擦試験およびエンジン動弁系摩擦試験において、上述した摺動部材(試験片)と組み合わせて使用する潤滑油として、表2に示す各種のエンジン油を調製した。具体的には次の通りである。先ず、粘度グレード0W−20でILSAC GF−5規格に相当する3種の開発油を用意した。それぞれGF−5開発油A、GF−5開発油B、GF−5開発油Cと呼称する。
【0052】
次にGF−5開発油Aをベースにして、オイル添加剤として、Infineum社の公開資料「Molybdenum Additive Technology for Engine Oil Applications」にて“Trinuclear”と記されたMo三核体化合物(適宜、単に「Mo三核体」という。)を、オイル全体に対するMo含有量で150ppmMo相当になるように追加配合したオイルも調製した。これをGF−5開発油A改と呼称する。
【0053】
なお、GF−5開発油AおよびGF−5開発油BはMo三核体化合物を含有していないが、GF−5開発油CはMo三核体化合物を80ppmMo含有している。また、これらのオイル(表2に示す潤滑油L0、L110〜130)はいずれも、モリブデンジチオカーバメート(MoDTC)を含んでいない。
【0054】
(2)さらに成分を単純化したモデルエンジン油として、SKコーポレーション社製の水素化分解鉱油YUBASE8(100℃での動粘度8mm
2/s)に、Lubrizol社製の2級ZnDTP、過塩基性Caスルホネートおよびアルケニルコハク酸イミドの3種類のみを配合した試作A系オイルを調製した。
【0055】
また、この試作A系オイルに、異なる種類の摩擦調整剤(以下「FM」という。)をそれぞれ1種類のみ添加した5種類のFM配合油も調製した。配合した各FMと配合量は、グリセロールモノオレート(花王株式会社製レオドールMo−50、これを「GMo」という。):1.0質量%、オレイルアミン(ライオン株式会社製アーミンOD、これを「アミン系FM」という。):1.0質量%、脂肪酸アミド(花王株式会社製脂肪酸アマイドO−N、以後、これを「アミド系FM」という。):1.0質量%、モリブデン酸アミン(株式会社ADEKA製サクラルーブ700、これを「Moアミン」という。):0.34質量%(150ppmMo相当)またはMo三核体化合物:0.36質量%(200ppmMo)のいずれかである。これらFM配合油を順に、適宜、試作A系オイル改1〜試作A系オイル改5と呼称する。
【0056】
なお、試作A系オイルでは、粘度指数向上剤を配合していない。前述したように試作A系オイルの基油は100℃での動粘度が8mm
2/sであり、これは粘度グレード0−20Wのエンジン油と同レベルだからである。
【0057】
(3)さらに、前述した基油となる鉱油YUBASE8へ、API規格SNグレードのガソリンエンジン油用添加剤パッケージ(Lubrizol社製PV1020)を8.0質量%配合した試作B系オイルも調製した。
【0058】
また、この試作B系オイルに、前述したMo三核体化合物を0.05〜0.36質量%(25〜200ppmMo相当)または前述したInfineum社製MoDTCを0.10〜0.61質量%(50〜300ppmMo相当)をそれぞれ配合した9種のFM配合油を調製した。これらFM配合油を順に、適宜、試作B系オイル改1〜試作B系オイル改9と呼称する。なお、試作B系オイルも、試作A系オイルと同様に、粘度指数向上剤は配合していない。また試作A系オイルおよび試作B系オイルは、表2に示すように代表的なエンジン油添加剤の元素成分であるS、Zn、P、N、Caの各量がGF−5開発油A〜Cと概ね同レベルになるよう調整した。
【0059】
(4)比較のため、市販のエンジン油(トヨタ自動車株式会社製、モーターオイルSL 5W−30)も用意した。これを「GF−3市販油」と呼称する。
【0060】
《ブロックオンリング摩擦試験》
図1に示すブロックオンリング摩擦試験にて、各摺動部材と各エンジン油とを組み合わせたときの摩擦係数(適宜「μ」と略記する。)を測定した。本試験は、摺動面幅6.3mmのブロック試験片側を評価材に用いて、相手となる外径φ35mm、幅8.8mmのリング試験片には浸炭鋼材(AISI4620)から成るFALEX社製S−10標準試験片(硬さHV800、表面粗さ1.7〜2.0μmRzjis)を用いた。試験荷重:133N、すべり速度:0.3m/s、油温:80℃(一定)として、30分間の摩擦試験を行い、試験終了直前の1分間におけるμ平均値を本試験における摩擦係数とした。
【0061】
《エンジン動弁系摩擦試験》
実機(トヨタ自動車株式会社製直列4気筒ガソリンエンジン5A−FE)の直打式エンジン動弁系を構成するカムと円盤形状のフォロワ(単に「シム」という。)を部分的に再現したカム/シム間摩擦試験機を用いて、カム軸一回転中における摩擦力を測定した。この摩擦力から換算されるμ平均値を本試験における摩擦係数とした。この摩擦係数により各摺動部材(本試験では摺動面にDLC膜を被覆したシム)と各エンジン油とを組み合わせたときの摩擦低減効果を検討した。
【0062】
なお、摩擦力の検出は、
図2に示すように、シムを保持するシムホルダとバルブリフタの間に設けた板ばねのひずみ量をひずみゲージで検出することにより行った。本試験で用いた試験機の詳細は、日本トライボロジー学会のトライボロジー会議予稿集 東京 20011-5のP.419〜P.420“直打式動弁系の摩擦損失低減”に記載されている。
【0063】
《摩擦特性の評価》
(1)従来のエンジン油との組み合わせ
従来のエンジン油(潤滑油L0〜L130)と各種DLC膜とを組み合わせて得られたブロックオンリング摩擦試験に係る摩擦係数を
図3に示した。
【0064】
GF−3市販油を用いた場合、6Ti−DLCおよび6B−DLCは鋼材に比べて低摩擦特性が得られている。しかし、現在のエンジン油規格であるGF−5を満たすGF−5開発油AおよびGF−5開発油Bを用いた場合、6Ti−DLCおよび6B−DLCの摩擦係数は、 GF−3市販油に比べて増大している。この場合、DLC膜は鋼材に対して摩擦低減効果を殆ど発揮していないことがわかる。
【0065】
つまり、GF−5開発油AおよびGF−5開発油BのようにMoDTCを含有していないエンジン油の場合、6Ti−DLCや6B−DLCのようなDLC膜で摺動面が被覆されていても、低μ化が図れないことがわかる。なお、エンジン油規格の改訂に伴って、GF−3規格油は廃止されてきており、現行のGF−5規格油に沿って低摩擦特性を確保する必要がある。この結果から、所望する低μ特性を得るために適したDLC膜とエンジン油(潤滑油)の組み合わせを明確にすることに大きな意義がある。
【0066】
(2)6B−DLCに適した有効なエンジン油(添加剤)の特定
ブロックオンリング摩擦試験を用いて、各種FMを配合した試作A系オイルと6B−DLCとを組み合わせたときの摩擦係数を
図4に示した。
図4から明らかなように、Mo三核体化合物を配合することにより、摩擦係数が0.02程度となり、非常に優れた低摩擦特性(超低μ特性)が得られることが明らかとなった。一方、Mo三核体化合物を配合した場合以外は、FMを配合しない場合と大差なく、低摩擦特性が得られないことがわかる。
【0067】
Mo含有量を同一(150ppmMo)として、Mo三核体化合物またはMoDTCを配合した試作B系オイルと6B−DLCとを組み合わせたときの摩擦係数を比較した結果を
図5に示した。API規格SNグレード用の添加剤パッケージを配合した試作B系オイルでも、Mo三核体化合物を配合すると超低μ特性が得られた。一方、MoDTCを配合した場合は、非配合の場合と大差なく、摩擦係数の低減は殆ど無かった。
【0068】
(3)6B−DLCに適したMo三核体化合物の配合量
6B−DLCと、Mo三核体化合物またはMoDTCの配合量を変えた試作B系オイルを用いて、ブロックオンリング摩擦試験に係る摩擦係数を測定した結果を
図6に示した。
【0069】
Mo三核体化合物の場合、僅か50ppmMoの配合量で摩擦係数が0.03程度まで低下し、Mo三核体化合物が増加しても超低μ状態が維持されることがわかる。一方、MoDTCは、その配合量と共に摩擦係数が低下し、0.03程度まで摩擦係数を低下させるには300ppmMo程度必要であることがわかる。従って、Mo三核体化合物を用いれば、MoDTCの1/5〜1/6程度の配合量で、MoDTCと同等以上の超低μ特性を得ることができる。この結果から、Mo三核体化合物を用いることにより、レアメタルの一種であるMoの使用量低減やエンジン油の低コスト化等を図ることができる。
【0070】
(4)Mo三核体化合物の配合油に適したDLC膜の特定
Mo三核体化合物を配合したB系試作オイル改5を用いて、摺動部材を6B−DLC、Hフリ−DLCおよび鋼材としたときのブロックオンリング摩擦試験に係る摩擦係数を
図7に示した。Hフリ−DLCの摩擦係数は0.06程度であり、鋼材の摩擦係数(0.08程度)よりは僅かに小さいが、6B−DLCの摩擦係数(0.02程度)と比較すると未だかなり大きい。従って、Mo三核体化合物を配合しても、全てのDLC膜で超低μ特性が得られる訳ではなく、少なくとも
図7より、Hを含有しないDLC膜では超低μ特性が得られないことがわかる。
【0071】
Mo三核体化合物を含有したGF−5開発油Cと各種のDLC膜で被覆した摺動部材とを組み合わせたときのブロックオンリング摩擦試験に係るμ特性を
図8にまとめて示した。比較のために、Mo三核体化合物を含有していないGF−5開発油Aと各摺動部材とを組合せたときのμ特性も併せて示した。
【0072】
Mo三核体化合物を含有したGF−5開発油Cを用いた場合、B、V、TiまたはMoのいずれかを含有したDLC膜で被覆された摺動部材と組み合わせることにより優れた低μ特性が得られることがわかる。なかでも特に、BまたはVをドープしたDLC膜と組み合わせたときの摩擦係数が低くなっている。一方、
図7に示したHフリ−DLCと同様に、26H−DLCと組み合わせたときは、摩擦係数の低下が僅かであった。
【0073】
また、Mo三核体化合物を含有していないGF−5開発油Aを用いた場合、いずれのDLC膜と組み合わせても摩擦係数の低減が観られず、特に6B−DLCと組み合わせたときは摩擦係数が殆ど低下しなかった。
【0074】
従って、Mo三核体化合物を配合した潤滑油と、B、V、TiまたはMoの一種以上を含有したDLC膜で被覆された摺動部材とを組み合わせることにより、非常に優れた低摩擦特性が選択的に発現されることが明らかとなった。
【0075】
(5)エンジン動弁系摩擦試験による摩擦低減効果
上述した結果を踏まえて、GF−5開発油A、GF−5開発油A改またはGF−5開発油Cと、6B−DLC、Hフリ−DLCおよび鋼材とを組み合わせたときのエンジン動弁系摩擦試験に係る摩擦係数を
図9にまとめて示した。
【0076】
エンジン動弁系摩擦試験に係る摩擦係数も、前述したブロックオンリング試験に係る摩擦係数と同様な傾向を示した。つまり、Mo三核体化合物を含むエンジン油と特定のDLC膜(本試験では6B−DLC)で被覆された摺動部材とを組み合わせることにより、選択的に優れた低摩擦特性が得られることが、実機に近い本試験においても確認できた。
【0077】
《低摩擦特性の解析》
(1)摺動面の表面形状
6B−DLCとMo三核体化合物を配合したエンジン油との組合せによって低μ特性が発現される機構を解析するため、次のような分析を行った。ブロックオンリング摩擦試験を行ったブロック試験片の摺動面(脱脂後)のナノスケール表面形状を、走査型プローブ顕微鏡(株式会社島津製作所製、SPM−9500J3、以下単に「SPM」という。)を用いて原子間力顕微鏡(AFM)モードで測定した。SPMプローブには、先端の曲率半径が10nm以下のSi製プローブ(Nanosensors社製PPP−CONTR)を用いた。
【0078】
FM非配合の試作B系オイルまたはMo三核体化合物を配合した試作B系オイルと6B−DLCまたはHフリ−DLCとを組み合わせたときにできるブロックオンリング摩擦試験後の摺動面を、1μm×1μmの領域で測定した結果を
図10に示した。また、6B−DLCの試験前の摺動面(初期面)を同様に測定した結果も
図10に併せて示した。
【0079】
先ず、6B−DLCの初期面には、高さ50nm程度の微細凹凸がある。次に、Mo三核体化合物を含まない試作B系オイルを用いた場合、6B−DLCの試験後の摺動面は表面粗さが最大高さで10nm以下となっており、その初期面に比べて平滑化している。さらに、Mo三核体化合物を含む試作B系オイルを用いた場合、その6B−DLCの試験後の摺動面の表面粗さが最大高さで2nm以下という超平滑面となることがわかった。なお、Mo三核体化合物を含む試作B系オイルを用いた場合でも、Hフリ−DLCの試験後の摺動面は平滑化されるものの、その表面粗さは最大高さで20nm程度もあった。
【0080】
FM非配合の試作B系オイルまたはMo三核体化合物を配合した試作B系オイルと6B−DLCとを組み合わせたときにできるブロックオンリング摩擦試験後の摺動面を、より広範囲な10μm×10μmの領域で測定した結果を
図11に示した。この
図11により、各試験後の6B−DLCの摺動面に形成されたミクロな凸部が明確に把握される。
【0081】
Mo三核体化合物を配合した試作B系オイルと6B−DLCを組み合わせたときにできる試験後の摺動面の超平滑面は、半導体部品に用いられるSiウエハと同レベルであり、通常の機械研磨加工等では得られ難いものである。こうした超平滑面が、Mo三核体化合物を配合した潤滑油と特定のDLC膜との組み合わせた摺動により形成されたことになる。このような超平滑面が摺動面に形成されるようになると、その摺動面上で油膜が安定的に存在し易くなり、対向する摺動面同士が直接接触することが抑止される。その結果、前述したような超低μ特性がマクロ的な現象として発現したと考えられる。
【0082】
(2)超平滑面の形成機構
上述した超平滑面が形成される機構を解析するため、Mo三核体化合物を配合していない試作B系オイルまたはMo三核体化合物を配合した試作B系オイルと6B−DLCとを組み合わせたときのブロックオンリング摩擦試験後の摺動面を、走査型電子顕微鏡(SEM)とオージェ電子分光法(AES)を用いて観察または分析した。Mo三核体化合物が非配合な場合について得られた結果を
図12に、Mo三核体化合物を配当した場合について得られた結果を
図13にそれぞれ示した。
【0083】
図12に示したSEM像から、Mo三核体化合物を非配合としたエンジン油を用いた場合、試験後の摺動面に直径がサブミクロン以下である斑点が多く存在することが観察された。これは、AES像に現れたCaが多く存在する部位の分布と概ね一致している。Caは、エンジン油中に金属清浄剤として配合される過塩基性Caスルホネートに由来する吸着物あるいは反応生成物であると考えられる。
【0084】
一方、
図13に示したSEM像およびAES像から、Mo三核体化合物を配合したエンジン油を用いた場合、試験後の摺動面には上記のような斑点やCaの偏在部が殆ど観られなかった。
図11に示した結果と、
図12および
図13に示した結果を総合的に考慮すると、Mo三核体化合物を配合しないエンジン油を用いた場合、試験後の摺動面に形成される最大高さ20nm程度の凸部は、摺動面に吸着反応により生じたCa系化合物が原因であると考えられる。逆に、Mo三核体化合物を配合したエンジン油を用いた場合、試験後の摺動面が超平滑面となるのは、そのようなCa系化合物が摺動面に形成され難いためと考えられる。この理由として、過塩基性Caスルホネートと競争吸着の関係にあるMo三核体化合物が、摺動面を被覆するDLC膜上の特定部位(ドープ元素が存在する部分)に選択的に吸着し、過塩基性Caスルホネートが摺動面上で吸着反応することを阻害したためと推察される。ここでは6B−DLCについて説明したが、ドープ元素がB以外のTi、VまたはMoであるDLC膜についても、超低μ特性が生じていることから、6B−DLCの場合とどうような現象が生じていると考えられる。
【0085】
(3)摺動面上の生成物
摺動面上における生成物に着目して低μ特性が発現する要因を解析するため、種々のエンジン油とDLC膜を組み合わせて行ったブロックオンリング試験後の摺動面(適宜、単に「摩擦面」という。)を、飛行時間型2次イオン質量分析法(TOF−SIMS)により測定した。Ion−Tof社製TOF−SIMS5装置を用いて、30keVのBi+ビームを1次イオンとして、摺動面の100μm×100μmの測定領域に対して高分解能スペクトル測定を行った。
【0086】
この測定により、μ特性と摺動面上の生成物との関係に特徴が認められた代表的な二次イオン質量スペクトルを
図14および
図15に示した。各図中には、ブロックオンリング摩擦試験により得られたμ値も付記した。
【0087】
図14は
40Ca
+ に着目した摺動面の二次イオン質量スペクトルである。Mo三核体化合物を配合したエンジン油と6B−DLCを組み合わせた場合、
40Ca
+のスペクトル強度が小さく、Ca系化合物の生成が少ないことが認められる。そして、このような場合に摩擦係数が0.02程度になる超低μ特性が発現していた。逆に、それ以外の場合は、
40Ca
+のスペクトル強度が大きく、Ca系化合物の生成が多いことが認められる。この場合、摩擦係数も0.06〜0.08程度にまで増大していた。
【0088】
図15は質量数300〜600の負イオンに着目した摺動面の二次イオン質量スペクトルである。Mo三核体化合物を配合したエンジン油では、いずれもMo
2S
6−、Mo
3S
7−、Mo
3S
8−などの硫化モリブデン化合物の生成が認められる。このうち、摩擦係数が0.02程度となる超低μ特性を示す摺動面では、Mo
3S
7−に関するスペクトルが相対的に強く認められた。このMo
3S
7−は、Infineum社の公開資料「Molybdenum AddiTive TecHnology for Engine Oil ApplicaTions」を参照すればわかるように、Mo三核体化合物(Triumclear)の骨格を構成する化学構造に一致する(
図19参照)。
【0089】
(4)Ca系化合物およびMo
3S
7−化合物の生成量とμの関係
上述したTOF−SIMSにより得られた二次イオン質量スペクトルに基づき、
40Ca
+とMo
3S
7−のイオン強度に着目して、Ca系化合物およびMo
3S
7化合物の生成量とμの関係を
図16〜
図18に整理した。
【0090】
図16に示すように、
40Ca
+のカウント数とμの間には明確な定量的関係を認め難い。また
図17に示すように、Mo
3S
7−のカウント数とμの間にも明確な定量的関係を認め難い。しかし、両者のカウント数比(Mo
3S
7−/
40Ca
+)に着目すると、
図18に示すように、μとの間に定量的な関係が明確に存在していることがわかる。すなわち、カウント数比が0.006以上さらには0.01以上となる領域で、摩擦係数が0.02程度になることが認められる。つまり、Mo三核体化合物が配合された潤滑油の存在下で、Ca系化合物の吸着量が少なくMo三核体化合物の吸着量が多くなるDLC膜を摺動面に形成することにより、摩擦係数を従来よりも遥かに低くできることがわかった。
【0091】
[実施例2]
(1)成膜
実施例1の場合と同様に、ブロック状の鋼材(JIS SUS440C)の表面にCr−C系膜からなる中間層を形成した後、その中間層上に、Bを含みHを実質的に含まないDLC膜(単に「HフリB−DLC」と呼称する。)を成膜した。HフリB−DLCの成膜は、B
4Cとグラファイトをターゲットとしたスパッタリングにより行った。このスパッタリングは、基本的に実施例1の場合と同様にアンバランスドマグネトロンスパッタリング装置を用いて行ったが、H源となるCH
4ガス(C源ともなる。)やH
2ガス等の装置内の導入は行わなかった。
【0092】
こうして、膜組成(原子%)がC−11.8%B−1.6%H(適宜、「B:12%」と表す。)とC−19.8%B−1.0%H(適宜、「B:20%」と表す。)である各HフリB−DLCを摺動面に有する2種類のブロック試験片を用意した。なお、膜組成および膜構造は実施例1の場合と同様にして求めた。これらHフリB−DLCがHを僅かに含有しているのは、成膜炉内に残留水分や酸素が存在しているためである。
【0093】
(2)摩擦試験
これらブロック試験片(摺動部材)と表2に示す潤滑油L130(Mo三核体化合物を80ppmMo含有しているGF−5開発油C)とを用いて、実施例1の場合と同様にブロックオンリング摩擦試験を行い、各ブロック試験片の摩擦係数を求めた。また、試験後の各摺動面を前述した非接触表面形状測定機により測定して、各摺動面の摩耗深さと立体形状を求めた。なお、摩耗深さは、非接触表面形状測定機により得られた立体形状に基づき測定した、非摺動面から摺動面の最深部までの距離とした。こうして得られた各試験片の摩擦係数を
図20に、各摩耗深さを
図21に、各摺動面の立体形状を
図22に示した。
【0094】
なお、比較のため、実施例1で用いた鋼材(SCM420)からなる試験片、6B−DLC(表1のD1)で被覆された試験片およびHフリ−DLC(表1のD6)で被覆された試験片と同様な3種の比較試験片をそれぞれ新たに用意した。これら試験片も上記のブロックオンリング摩擦試験に供した。こうして得られたそれぞれの摩擦係数、摩耗深さおよび摺動面形状も、
図20〜
図22に併せて示した。
【0095】
(3)評価
図20からわかるように、HフリB−DLCの摩擦係数が0.035前後であり、Bを含有しないHフリ−DLCの摩擦係数(0.07)に対して約半減することが明らかとなった。しかも、HフリB−DLCの摩擦係数は、そのB含有量が変化してもあまり変化しないことから、HフリB−DLCは低摩擦特性を安定的に発現することも明らかとなった。
【0096】
図21および
図22からわかるように、HフリB−DLCの摩
耗深さは、0.2〜0.3μmであり、H含有B−DLCBの摩耗深さ(0.6μm)に対して約1/3〜1/2となることが明らかとなった。そしてHフリB−DLCの摩耗深さも、そのB含有量が変化してもあまり変化せず、HフリB−DLCは高耐摩耗性を安定的に発現することも明らかとなった。これは、Hフリー化により膜硬さが上昇していることにより得られていると考えられる。
【0097】
以上から、HフリB−DLCは、Mo三核体化合物を配合した潤滑油と組合わせて用いることにより、低摩擦性と耐摩耗性を高次元で両立できることがわかった。なお、HフリB−DLCが低摩擦特性以外に高耐摩耗性をも発現した理由は必ずしも定かではないが、現状では次のように考えられる。DLC膜は、通常、Cのsp
2 混成軌道成分(単に「sp
2成分」という。)とCのsp
3 混成軌道成分(単に「sp
3成分」という。)が混在した膜構造を有する。DLC膜の製法にも依るが、一般的には、sp
3成分が増加するほど、DLC膜は硬質化し、その耐摩耗性は向上し得る。本発明に係るHフリB−DLCは、Bを含有しつつH量が低減したために、適度なsp
2成分を維持しつつsp
3成分が増加して、低摩擦特性と併せて高耐摩耗性を発現したと考えられる。
【0098】
[実施例3]
(1)成膜、摩擦試験および測定
実施例1および実施例2に示したB−DLCと組成が異なる新たなB−DLCを成膜したブロック試験片をさらに用意し、摩擦試験に供した。成膜条件および摩擦試験条件は実施例2の場合と同様である。こうして得られた新たなブロック試験片に係る摩擦係数を、実施例1および実施例2で製造したブロック試験片に係る摩擦係数と併せて表3に示した。また、表3に基づいて、DLC膜中のB含有量と摩擦係数の関係を
図23に示した。
【0099】
また、各B−DLC膜について測定した硬さと弾性率を表4にまとめて示した。なお、弾性率は、硬さと同様に前述したナノインデンター試験機で測定した。
【0100】
(2)評価
先ず、表3および
図23から明らかなように、DLC膜中にB等が含有されていないときの摩擦係数は大きいが、DLC膜中に僅かでもBが含有されると、摩擦係数が急激に低下することがわかった。そして、DLC膜中のB含有量が変化しても、安定した低摩擦特性が発揮されることも明らかとなった。なお、表3および
図23に示した各DLC膜では、B含有量の影響を評価するために、DLC膜中のH含有量をいずれも20原子%前後とした。
【0101】
次に、表4から、DLC膜の硬さと弾性率は、DLC膜中のH含有量が増加するほど増加し、DLC膜中のB含有量にはあまり影響されないこともわかった。このことは、例えば、H含有量の変化が小さくてB含有量の変化が大きい試料31と試料32、またはH含有量の変化が大きくてB含有量の変化が小さい試料32と試料33を、それぞれ比較すれば明らかである。
【0102】
【表1】
【0103】
【表2】
【0104】
【表3】
【0105】
【表4】