【実施例1】
【0026】
シス−ペルメトリン(cis-Permethrin:以下、「cPER」)は、昆虫の神経を標的とした化学物質(神経毒)であり、いわゆるピレスロイド系殺虫剤の主成分として広く使われている、合成ピレスロイドの一つである。
昆虫が農薬に対する耐性を獲得するメカニズムの一つとして、解毒酵素群による農薬の分解・無毒化が考えられている。生物で広く発見されている解毒酵素としては、シトクロームP450(Cytochrome P450:以下「CYP」)ファミリーが知られているが、カイコのゲノム上にも86種のCYP遺伝子が発見されている。
そこで、本実施例としては、cPER刺激に対するカイコガの培養細胞の反応を、トランスクリプトームデータを取得することで観測・考察した。
【0027】
[実験例1−1:高濃度cPER]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、cPERを2.5mモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。
[実験例1−2:低濃度cPER]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、cPERを250μモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。
[実験例1−3:コントロール]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、cPERを含まないMGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。
【0028】
[発現変動遺伝子(DEG)抽出]
高濃度cPER(実験例1−1)及び低濃度cPER(実験例1−2)の各条件で、コントロール区である実験例1−3に対して遺伝子発現量がどのように変化したのかを観測するため、上記のようにして得られた、各実験例のトランスクリプトームデータを基に、各遺伝子の発現量を求め、統計解析を行って発現頻度変化の大きかった上位10遺伝子を抽出(DEG抽出)した。
【0029】
その結果、実験例1−1においては、CYPファミリーの遺伝子はDEGとして抽出されなかったのに対して、実験例1−2においては、CYPファミリーのひとつであるCYP6AV1の発現量が増加し、DEGとして抽出された。なお、その発現変動量としては全遺伝子中4番目であった。
【0030】
すなわち、250μモル/Lといった低濃度のcPER刺激に晒されたカイコガの脂肪体細胞は、CYP6AV1遺伝子の発現量を増加させて、cPERを分解・解毒する反応を示したのに対して、2.5mモル/Lといった高濃度のcPER刺激に晒されたカイコガの脂肪体細胞は、何らのCYPファミリーの遺伝子発現が誘導されなかった。
【0031】
これは、実験例1−2では、カイコガの脂肪体細胞はCYP6AV1を介してcPERを分解・解毒する機構を備えていることが観測されたのに対して、実験例1−1では、カイコガの脂肪体細胞が、CYPファミリーを介した何らかのcPERに対する分解・解毒能を備えていることは、何も観測できていないことになる。
【0032】
このことは、実験例1−1の条件、すなわち、2.5mモル/Lといった高濃度の条件は、cPER等の合成ピレスロイドに対する昆虫の防御機構を解明することを目的とした場合には不適切であったことを示す。
【0033】
また、実験例1−1の条件であってもDEG抽出そのものは可能であるが、実験例1−1の条件では本来観測したい事象、すなわち、合成ピレスロイドに対する昆虫細胞の防御反応が生じていないか、生じていたとしてもより大きな変化が細胞に生じていることが示唆されることから、実験例1−1の条件で得られたトランスクリプトームデータによって抽出されたDEGは、合成ピレスロイドに対する昆虫の防御機構との関連性が高い遺伝子である可能性は低く、このDEGに着目して研究を進めるのは、合成ピレスロイドに対する昆虫の防御機構の解明を目的とした研究を進める上では、効率が悪いことが示唆される。
【0034】
[実験条件妥当性指標1の算出]
各実験区ごとに、トランスクリプトームの生データから得られる各遺伝子の発現頻度P
iに対して、下記の式にして求められる値Hを、実験条件妥当性指標1として算出した。なお、P
iは、P
i=(当該遺伝子iの発現量)/(全遺伝子の発現量)で表される確率を意味する。
H = −Σ(P
i×logP
i) (但し、P
i=0の遺伝子については除外した)
【0035】
上記、Hの算出にあたっては、1列目に遺伝子名が、2列目に発現量が収まった行列トランスクリプトームデータについてR言語環境を備えたコンピュータ上で自動計算することによって求めた。自動計算に用いたプログラムは以下のとおりである。
Hx(※)<-function(x){
x2<-x/sum(x)
x3<-x2*log2(x2)
x4<-x3[!is.na(x3)]
-sum(x4)
}
※:"Hx"は、英数字からなる任意の文字列であれば良い
上記のようにして得られた、各実験例のHの値を表1に示し、基づく棒グラフを、
図1に示す。
【0036】
【表1】
【0037】
[実験条件妥当性指標2の算出]
各実験区ごとに、トランスクリプトームの生データから得られる各遺伝子の発現頻度P
iに対して、下記の式にして求められる値Sを、実験条件妥当性指標2として算出した。なお、aの値は、0.00001、0.0001、0.001、0.005、0.01、0.05、0.1の、7通りに変化させた。
S = −Σ(P
i−a) (但し、P
i<aとなる遺伝子については除外した)
上記S値の算出にあたっては、1列目に遺伝子名が、2列目に発現量が収まった行列トランスクリプトームデータについてR言語環境を備えたコンピュータ上で自動計算することによって求めた。自動計算に用いたプログラムは以下のとおりである。
a<-n #(nは任意の実数)
Sx(※)<-function(x){
x2<-x/sum(x)
x3<-x2-a
x3<-ifelse(x3<0,0,x3)
sum(x3)
}
※:"Sx"は英数字からなる任意の文字列であれば良い
上記のようにして得られた、各実験例のSの値を表2に示し、グラフを
図2に示した。
【0038】
【表2】
【0039】
実験条件妥当性指標1は、トランスクリプトームのいわゆる情報エントロピー(シャノンエントロピー)である。この実験条件妥当性指標1について、コントロール実験区である実験例1−3と比較すると、実験条件として好ましくないことが示唆される実験例1−1では大きく低下しているのに対して、実験条件として好ましい実験例1−2では低下していないことがわかる。
【0040】
また、実験条件妥当性指標2についても同様に、コントロール実験区である実験例1−3と比較すると、実験条件として好ましくないことが示唆される実験例1−1では大きく低下しているのに対して、実験条件として好ましい実験例1−2では低下していないことがわかる。
【実施例2】
【0041】
フェノバルビタール(Phenobarbital:以下、「PB」)は、抗てんかん薬の主成分として用いられる、バルビツール系中枢神経抑制作用剤である。PBは薬剤代謝を誘導する化学物質として知られており、CYP遺伝子の誘導を目的として一般的に用いられている。
そこで、本実施例としては、PB添加刺激に対するカイコガの培養細胞の反応を、トランスクリプトームデータを取得することで観測・考察した。
【0042】
[実験例2−1:PB 250μM]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、PBを250μモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。データセット数nは3とした。
【0043】
[実験例2−2:PB 1mM]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、PBを1mモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。データセット数nは4とした。
【0044】
[実験例2−3:PB 2.5mM]
MMGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、PBを2.5mモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。データセット数nは4とした。
【0045】
[実験例2−4:PB 12.5mM]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)に、PBを12.5mモル/Lとなるように添加した培地を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。データセット数nは4とした。
【0046】
[実験例2−5:コントロール]
MGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を80時間培養した後、PBを含まないMGM−450昆虫培地(10体積%FBSを含む)を用いて、カイコガ培養細胞を10時間培養した後、トランスクリプトームデータを取得した。データセット数nは3とした。
【0047】
[発現変動遺伝子(DEG)抽出]
PB 250μM(実験例2−1)、PB 1mM(実験例2−2)、PB 2.5mM(実験例2−3)及びPB 12.5mM(実験例2−4)の各条件で、コントロール区である実験例2−5に対して遺伝子発現量がどのように変化したのかを観測するため、上記のようにして得られた各実験例のトランスクリプトームデータを基に、各遺伝子の発現量を求め、統計解析を行って発現頻度変化の大きかった上位10遺伝子を抽出(DEG抽出)した。
【0048】
その結果、DEGとして抽出された上位10遺伝子の中に、CYPファミリー遺伝子が含まれていたのは、実験例2−1のみであった。実験例2−1でDEGとして抽出されたCYPファミリー遺伝子は、CYP4G23b(全遺伝子中2番目の変動量)、CYP4G23a(同、7番目の変動量)であった。
【0049】
すなわち、CYPファミリーの誘導という、PB刺激による反応として期待される反応を生じている実験区はPBの投与濃度が250μモル/Lの実験例2−1のみであり、1mモル/L以上の濃度のPBが投与されている実験区(実験区2−2〜2−4)では、PB刺激によって本来観測されるべきであると考えられるCYPファミリーの誘導が生じていないか、生じていたとしても、より大きな変化が培養細胞に生じており、培養細胞において観測したい事象が観測できない状態になっていることが示唆された。
【0050】
これは、実験例2−1によって示唆される、カイコガの脂肪体細胞の、CYP4G23b及びCYP4G23aを介したPBの代謝機構の存在について、実験例2−2〜2−4では、何も観測できていないことを意味する。
【0051】
このことから、PB刺激に対して生じるカイコガ脂肪体細胞の事象を適切に観測するための実験区としては実験例2−2〜2−4の投与濃度の設定は、不適切であることが示唆される。
【0052】
そのため、実験例2−2〜2−4の条件であってもDEG抽出そのものは可能であるが、実験例2−2〜2−4の条件では本来観測したい事象、すなわち、PBを代謝する反応が生じていないか、生じていたとしてもより大きな変化が細胞に生じていることが示唆され、実験例2−2〜2−4の条件で得られたトランスクリプトームデータによって抽出されたDEGは、PBの代謝機構との関連性が高い遺伝子である可能性は低く、このDEGに着目するのは、PBの代謝機構との関連性が高い遺伝子であることを期待して研究を進める上では、効率が悪いことが示唆される。
【0053】
[実験条件妥当性指標1及び2の算出]
実施例1と同様にして、トランスクリプトームの生データから得られる各遺伝子の発現頻度P
iに対して、下記式で求められる値H、Sを、実験条件妥当性指標1、2として算出した。
H = −Σ(P
i×logP
i) (但し、P
i=0の遺伝子については除外した)
S = −Σ(P
i−a) (但し、P
i<aとなる遺伝子については除外した)
【0054】
上記のようにして得られた、各実験例のHの値を表3に示すと共にグラフを
図3に示し、各実験例のSの値を表4及び表5に示すと共にグラフを
図4に示した。
【0055】
【表3】
【0056】
【表4】
【0057】
【表5】
【0058】
トランスクリプトームの情報エントロピー(シャノンエントロピー)である実験条件妥当性指標1について、コントロール実験区である実験例2−5と比較すると、実験条件として好ましくないことが示唆される実験例2−2〜2−4では大きく低下しているのに対して、実験条件として好ましい実験例2−1では低下していない。
【0059】
また、実験条件妥当性指標2についても同様に、コントロール実験区である実験例2−5と比較すると、実験条件として好ましくないことが示唆される実験例実験例2−2〜2−4では大きく低下しているのに対して、実験条件として好ましい実験例2−1では低下していない。
【0060】
[実験条件妥当性指標1のt検定]
実験条件妥当性指標1(H値)について、有意な差が生じているかどうかを以下のとおりt検定を行い確認した。
正規性については、実験例2−1〜2−5のH値についてコルモゴロフ-スミノフ検定を行い、全ての実験区について正規性が確認された。
等分散性については、コントロール実験区である実験例2−5に対して、実験例2−1〜2−4のそれぞれについてF検定を行い、全ての比較について比較H値間の等分散性が確認された。
実験例2−5に対して、実験例2−1〜2−4のそれぞれについて、比較H値間の平均値の差についてt検定を行った。結果を以下に示す。
【0061】
・実施例2−1と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がなかった。(p=0.9183)
・実施例2−2と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0001109)
・実施例2−3と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0001486)
・実施例2−4と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=5.177e−05)
【0062】
[実験条件妥当性指標2のt検定]
実験条件妥当性指標2(S値)について、有意な差が生じているかどうかを、以下のとおりt検定を行い確認した。なお、a値は0.01、0.0001の場合で確認した。、
実験例2−1〜2−5のS値についてコルモゴロフ-スミノフ検定を行い、全ての実験区について正規性が確認された。
次いで、コントロール実験区である実験例2−5に対して、実験例2−1〜2−4のそれぞれについてF検定を行い、全ての比較について比較S値間の等分散性が確認された。
実験例2−5に対して、実験例2−1〜2−4のそれぞれについて、比較S値間の平均値の差についてt検定を行った。結果を以下に示す。
【0063】
<a=0.01>
・実施例2−1と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がなかった。(p=0.9096)
・実施例2−2と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=4.731e−05)
・実施例2−3と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0001163)
・実施例2−4と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=2.943e−05)
【0064】
<a=0.0001>
・実施例2−1と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がなかった。(p=0.985)
・実施例2−2と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0002291)
・実施例2−3と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0001562)
・実施例2−4と実施例2−5の比較では平均値に有意な差がないとは言えなかった。(p=0.0001082)
【0065】
なお、実験例1−1と実験例1−2及び1−3との比較、実験例2−1及び2〜5と、実験例2−2〜2〜4との比較から、トランスクリプトームとして観測できる細胞の状態には、いわば2つの相が存在することが予測される。
【0066】
すなわち、実験例1−1ないし実験例2−2〜2−4はコントロールである、実験例1−3ないし実験例2−5に対して、過大な薬物刺激を受けたことによって、いわば相転移が生じている状態であり、そのため、正常な細胞であれば生じうるはずのCYPファミリーの誘導が観測できなかったものと考えられる。
【0067】
一方、実験例1−2及び実験例2−1においては相転移が生じていないため、CYPの誘導という好ましい反応が観測できたものと考えられる。
従って、特定の条件刺激に対する生命現象を観察するためにDEG抽出やパスウェイ解析を行う際には、実験条件妥当性指標1(H値)ないし2(S値)を用いて、コントロール群に対して相転移が生じていないことが確認された実験区について絞り込んで、DEG抽出やパスウェイ解析を行うことで、条件刺激とより関連性の高い遺伝子やパスウェイの抽出に結びつく可能性が高くなるものと示唆される。
【0068】
また、
図2及び4からわかるように、aの値が大き過ぎる(0.1以上)または小さ過ぎる(0.0001以下)場合は、S値の違いを判別しにくくなるため、トランスクリプトームのS値を用いて後続の発現変動遺伝子抽出又はパスウェイ解析にかける実験区を選定する場合は、aの値を、0.00001<a<0.1としておくことが好ましい。
【0069】
また、データセット数nが2以下の実験区に対しては、t検定を行うことはできないが、S値(平均値)の直接比較を行えば良い。なお、aの値を0.001≦a≦0.01としてS値を算出した場合は、S値が0.1以下となる組合せをDEG抽出やパスウェイ解析の対象として選定すれば良い。