【国等の委託研究の成果に係る記載事項】(出願人による申告)平成26年度科学技術振興機構 研究成果展開事業 研究成果最適展開支援プログラム 産業技術力強化法第19条の適用を受ける特許出願
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
【背景技術】
【0002】
質量分析装置において試料成分をイオン化する手法として、大気圧雰囲気下でイオン化する大気圧イオン化法(アンビエントイオン化法)が知られている。大気圧イオン化法は、特別な試料の調製や前処理を行うことなく、リアルタイムでその場(in situ)質量分析を可能とする技術であり、今日まで、放電プラズマによって励起された希ガスや不活性ガスと呼ばれるガスを利用した大気圧イオン化技術が多数開発されてきた。
【0003】
その代表的な先行技術文献として、
(1)リアルタイム直接分析(Direct Analysis in Real Time:DART)法(例えば、特許文献1、非特許文献1参照。)
(2)大気圧固体分析プローブ(Atmospheric-pressure Solids Analysis Probe:ASAP)法(例えば、特許文献2、非特許文献2参照。)
(3)脱離コロナビームイオン化(Desorption Corona Beam Ionization:DCBI)法(例えば、特許文献3、非特許文献3参照。)
(4)大気圧アフターグロー(Flowing Atmospheric Pressure Afterglow:FAPA)法(例えば、非特許文献4参照。)
が挙げられる。
DART・DCBI・FAPAでは、ヘリウムガスとグロー放電を、ASAPでは窒素ガスとコロナ放電を組み合わせている。
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
上記のように大気圧イオン化法では、不活性ガスとしてヘリウムガスが多く用いられている。これは励起ヘリウムガスの有するエネルギー(19.8eV)が極めて多種類の試料の第一イオン化エネルギーを上回っており、どのような試料でも分子イオン化、プロトン化および/または脱プロトン化し得るためである。
【0007】
質量分析では、試料物質を容易に同定するために、試料のプロトン化分子および/または脱プロトン化分子のみが検出される単純なマススペクトルを得たいという要望がある。これは大気圧イオン化法を用いる場合でも同様である。
しかし、励起ヘリウムガスを用いたイオン化では、励起ヘリウムガスの有するエネルギーが19.8eVと高いため、たとえば、水分子のペニングイオン化反応(12.6eV)を起点とした試料のプロトン化分子および/または脱プロトン化分子生成反応を求めた場合、プロトン化分子および/または脱プロトン化分子の他に、試料内に蓄積する余剰エネルギーによって酸素付加イオンや水素脱離イオン等が副次的に生成されてしまい、マススペクトルを合理的に解析することができず、試料物質を同定することが極めて困難であるといった問題があった。
【0008】
また、ヘリウムガスを用いたイオン化の場合、ヘリウムガスは原子量が小さく軽いため、質量分析装置に対する負荷を考慮しなければならないといった問題があった。即ち、通常の質量分析装置では、過剰なガスの流入は質量分析装置の真空度の低下だけでなく、装置寿命を縮めることに繋がるため、ターボ分子ポンプを複数台搭載し、羽根を回してガス分子をはじき飛ばし真空を作り出しているが、ヘリウムガスを用いた場合、ヘリウムガスは原子量(質量4)が小さく軽いため羽根をすり抜けてしまい、真空度が低下するといった事態が生じる。真空度が低下するとターボ分子ポンプの破損を引き起こすおそれがあり、質量分析装置の寿命を縮めることに繋がる。このため、ヘリウムガスを用いる場合は、ヘリウムガスの排除を可能にするヘリウムガス専用の特殊な真空排気系を別途用意しなければならなかった。これは質量分析装置のコストアップの大きな要因となる。
【0009】
また、ヘリウムガスは軽いため吹き出し口から吹き出されたヘリウムガスは拡散し易く、そのためヘリウムガスを使用するイオン源を搭載した質量分析装置では、ヘリウムガスの吹き出しノズルとグロー放電やコロナ放電用の針電極とイオン導入管との間の距離が短いことが好ましく、イオン化した試料をイオン導入管から効果的に吸引させるために試料は前記針電極の一次側に配置するように構成されているので、大きい試料の質量分析には適さないと言った問題があった。
さらには、ヘリウムガスは入手が困難で高価であり、質量分析のコストアップに繋がり持続的な利用は難しく、大気圧イオン化法には適していないといった問題があった。
【0010】
また、不活性ガスとして窒素ガスを用いた場合、窒素ガスは二原子分子でありその励起帯は多種類存在するため、種々の副次反応を伴ったイオン化反応が起こってしまい、特に未知化合物の測定の場合、イオンピークのどのピークがプロトン化分子および/または脱プロトン化分子に相当するのか判別できず、マススペクトルを合理的に解析することができず、試料物質を同定することが極めて困難であるといった問題があった。
【0011】
また、放電を使用した既存の大気圧イオン化法は、全て発光現象を伴う持続放電を利用しているが、持続放電を起こすためには、高
電圧が必要である。例えば、DART法では5kV、DCBI法では3kV(10〜40μA)、FAPA法では25mA(500V)、ASAP法では通常の大気圧化学イオン化(APCI)法で使用される電圧(約3kV)を必要とする。このように、高
電圧を必要とするイオン源は、その場の
電圧状況によっては利用不可となり得るといった問題があった。よって、どのような状況でも利用可能となる、より低
電圧で可動するイオン源の開発が求められている。
【0012】
本発明者等は上記のような問題点を解決すべく試験研究を重ねた。
先ず、不活性ガスとして、原子量(質量40)がヘリウムガスより10倍も大きく、またヘリウムガスに比べ遙かに容易に且つ安価に入手できるアルゴンガスを用いることに着目した。アルゴンガスは、11.5eV、11.8eVの安定したエネルギーを持つ励起アルゴンガス(励起種)の他に、10
-5s以上の寿命と15.6eVの安定したエネルギーを持つ励起アルゴンガスの存在が知られている。
【0013】
従来、11.5eV、11.8eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスの生成技術は確立されており(液体イオン化質量分析法:Liquid Ionization Mass Spectrometry(LI−MS))、試料の分子イオンの生成に用いられている。
しかし、水分子のペニングイオン化は12.6eVのエネルギーが必要であり、励起エネルギーが11.5eV、11.8eVの励起アルゴンガスでは水分子のペニングイオン化を起こすことができず、試料のプロトン化分子および/または脱プロトン化分子を生成させることができない。
励起アルゴンガスのエネルギーが15.6eVであれば、水分子のペニングイオン化のエネルギーの12.6eVを超え、しかも15.6eVを持つ励起アルゴンガスは10
-5s以上の寿命を有しているので、十分に水分子のペニングイオン化反応を起こすことが可能といえる。
【0014】
また、15.6eVを持つ励起アルゴンガスは励起ヘリウムガスの有するエネルギー(19.8eV)よりも低いため、水分子のペニングイオン化反応を起点とした試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応を求めた場合、試料内に蓄積される余剰エネルギーが少なく、酸素付加イオンや水素脱離イオン等の副次物生成反応が起こりにくいと考えられる。すなわち、試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応の効率が上がり、試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子のイオン強度が高く、それらを同定しやすいマススペクトルが得られることとなる。
【0015】
15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスを生成する試みとして、上記したDARTやASAPにアルゴンガスを流したところ、プロトン化分子または/および脱プロトン化分子を含む全体的なイオン強度が激減し、15.6eVを持つ励起アルゴンガスを生成することができず、また、その他既存のイオン化法でも15.6eVを有する励起アルゴンガスを生成することが困難であることがわかった。
【0016】
そこで発明者等は、15.6eVを有する励起アルゴンガスを生成すべく試験研究を重ねた結果、発明者等が先に出願した特開2013−37962号公報で開示されている先端部を
二葉回転双曲
面に形成した針電極を使用し、この針電極に発光現象を伴わない非持続放電、すなわち、暗流の
電圧(これまでに利用されてきた持続放電に必要な
電圧に比べ極めて低い
電圧)を印加して放電させることにより、多種類の試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子を質量分析装置で十分に検出されるイオン量を持続して生成させることを見出した。
【0017】
ここで、上記試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子以外の副次生成イオンは検出されない、もしくはそれらの強度は非常に小さかった。これはすなわち、15.6eVを有する励起アルゴンガスが上記放電条件で効率よく発生している(これは試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子を、質量分析装置によって十分に検出されるイオン量で持続して生成させることができることが可能である)ことを意味し、これにより本発明を成すに至った。
【0018】
本発明の目的は、質量分析装置において試料をイオン化するに際し、暗
流で生成させた励起アルゴンガスを用いて、副次的なイオン反応を伴うことなく水分子のペニングイオン化反応を起点とした試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応を可能にした大気圧イオン化方法を提供することにある。
本発明の他の目的は、試料のイオン化を容易に、低
電圧で、且つ安価に行えるようにした大気圧イオン化方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0019】
上記の目的を達成するために、本発明は、針電極に電
圧を印加して放電させ、放電域に不活性ガスを流入させて励起させ、励起した不活性ガスと試料とを反応させて試料をイオン化する大気圧イオン化方法において、前記不活性ガスとしてアルゴンガスを用い、前記アルゴンガスを一定の流量および温度で大気雰囲気中に噴出させるためのガス流路制御部およびガス吹き出しノズルと、前記ガス吹き出しノズルの吹き出し口とイオンを導入するイオン導入管の導入口の間に配置され、先端部が
1μm以上30μm未満の曲率半径を有する二葉回転双曲
面に形成された針電極と、前記ガス吹き出しノズルの中心軸に対する前記針電極の相対位置および/または相対角度を調整するための針電極支持機構と、前記針電極に
電圧を印加する
電圧発生部と、を含み、前記
電圧発生部から前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させ、該暗流によりアルゴンガスを励起し、励起アルゴンガスと試料とを反応させてイオン化することを特徴としている。
【0020】
本発明によれば、先端部を
1μm以上30μm未満の曲率半径を有する二葉回転双曲
面に形成した前記針電極に
電圧を印加すると前記針電極の先端部上の異なる部位に、その位置の曲率に応じて異なる電界強度(不平等電界)が発生し、前記針電極の最先端とその周辺面という「ある範囲の領域」に、極めて高い強度の電界が発生する。
前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させるだけで前記針電極の最先端とその周辺面で持続的に加速および/または放出された「ある程度の量」の電子に15.6eV以上のエネルギーを持たせることができる。
【0021】
すなわち、本発明では、前記針電極の先端部を
1μm以上30μm未満の曲率半径を有する二葉回転双曲
面に形成したので、前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させることにより、前記針電極の最先端とその周辺面という「ある範囲の領域」に極めて高い強度の電界が発生し、「ある範囲の領域」から、後述するところの、持続して水分子のペニングイオン化反応(12.6eV)を起点とした試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応させ、質量分析装置で検出できるイオン量を得るのに必要な 励起アルゴンガスを持続して生成することのできる量の15.6eV以上のエネルギーを持つ電子を放出させることができる。
【0022】
前記針電極の先端部から発生する電界の強度は、対向電極と針電極の距離、対向電極に対する針電極の先端部の向き(角度)、および針電極に印加する
電圧に依存する。
すなわち、対向電極と針電極との距離が短いほど、針電極の先端部の向きが、針電極の先端部から対向電極に向かって発生する電気力線の距離がより短くなるような向きとなるほど、また、印加
電圧が大きいほど、電界強度が高くなる。
【0023】
本発明の目的は、「低電力」で実施できる大気圧イオン化方法を提供することにあり、より低電力で励起アルゴンガスを生成させることができる暗流状態を作り出すためには、対向電極と針電極の距離を短くし、対向電極に対する針電極の先端部の向きを、針電極の先端部から対向電極に向かって発生する電気力線の距離がより短くなるような向きにすることが好ましい。
【0024】
前記のようにして針電極の先端部から放電された15.6eV以上のエネルギーを持つ電子が存在する放電域にアルゴンガスを流入させると、アルゴンガスが電子と衝突および反応し、15.6eVのエネルギーを持ち、質量分析装置で検出できるイオン量を得るのに必要な量の励起アルゴンガスが持続して生成される。
15.6eV以上のエネルギーを持つ電子とアルゴンガスの反応を効率よく起こさせ、より多くの15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスを生成させるためには、15.6eV以上のエネルギーを持つ電子を大量に生成させることに加え、反応に関わるアルゴンガスの量が多い方が良い。また、針電極に対する対向電極は、アルゴンガスを吹き出すガス吹き出しノズルの吹き出し口に極めて近いことが好ましい。なぜなら、中性であるアルゴンガスは電界の影響を受けず、ガス吹き出しノズルの吹き出し口から吹き出された後は大気中に拡散してしまうため、最もアルゴンガスの密度の高いのは吹き出し口付近である。ここに対向電極を設置すれば、暗流状態で発生した15.6eV以上のエネルギーを持つ電子とアルゴンガスが極めて効率よく反応を起こし、より多くの15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスを生成することができることになる。
【0025】
このようにして生成された励起アルゴンガスと試料とを反応させると、15.6eV以上のエネルギーでイオン化反応する副次物生成反応は抑えられ、水分子のペニングイオン化反応(12.6eV)を起点とした試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応だけが起き、プロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応で生成された試料由来のイオン(試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子)を効果的に取り出すことができた。これによりマススペクトルを合理的に解析することができ、試料物質を容易に同定することができることになる。
【0026】
また、中性である15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスは、電界の影響を受けず大気中に拡散するが、アルゴンガスは質量が大きく重いため直進性が高い。そのため、アルゴンガスを吹き出すガス吹き出しノズルの吹き出し口と針電極とイオンを導入するイオン導入管の導入口との間の距離が長くても、ガス吹き出しノズルの吹き出し口から吹き出されたアルゴンガスが殆ど拡散すること無くイオン導入管の導入口へ到達する。
【発明の効果】
【0027】
本発明に係る大気圧イオン化方法によれば、先端部を
1μm以上30μm未満の曲率半径を有する二葉回転双曲
面に成形した針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させ、アルゴンガスを放電域に流入して励起させることにより、15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスを生成することができ、このようにして生成された励起アルゴンガスと試料とを反応させることにより、副次的なイオン反応を伴うことなく水分子のペニングイオン化反応を起点とした試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応によりプロトン化分子または/および脱プロトン化分子生成反応で生成された試料由来のイオン(試料のプロトン化分子または/および脱プロトン化分子)を効果的に取り出すことができ、これによりマススペクトルを合理的に解析することができ、試料物質を容易に同定することができる。
【0028】
また、アルゴンガスは原子量(質量40)がヘリウムガスより10倍も大きく重いので、通常の質量分析装置に備えられているターボ分子ポンプで容易に排除でき質量分析装置の真空度の低下を防ぐことができ、ヘリウムガスを排除するような特殊な真空排気系を別途用意する必要はないので、質量分析装置のコストアップを抑えることができる。
【0029】
また、中性である15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスは、電界の影響を受けず大気中に拡散するが、アルゴンガスは質量が大きく重いため直進性が高い。そのため、アルゴンガスを吹き出すガス吹き出しノズルの吹き出し口と針電極とイオンを導入するイオン導入管の導入口との間の距離が長くても、ガス吹き出しノズルの吹き出し口から吹き出されたアルゴンガスが殆ど拡散すること無くイオン導入管の導入口へ到達するので、針電極の二次側を試料配置位置(試料イオン反応域)としたとき、針電極とイオン導入管の導入口との間の距離を長くすることが可能となり、ヘリウムガスを用いたイオン源を搭載した質量分析装置に比べはるかに大きい試料の分析を行うことができる。
また、アルゴンガスはヘリウムガスに比べ安価に入手することができ、質量分析のコストダウンを図ることができる。
【0030】
また、本発明は、前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させ、該暗流によりアルゴンガスを励起するものであり、前記針電極から発生する電界強度が低いので、コロナ放電等の持続放電となる高い電界強度が発生した場合にみられる針電極の先端部の経時的な変形がなく、安定した状態で15.6eVのエネルギーを持つ励起アルゴンガスを長時間生成することができる。
【発明を実施するための形態】
【0032】
以下、本発明に係る大気圧イオン化方法の実施の形態の一例を詳細に説明する。
本例の大気圧イオン化方法は、針電極に電圧を印加して放電させ、放電域に不活性ガスを流入させて励起させ、励起した不活性ガスと試料とを反応させて試料をイオン化する大気圧イオン化方法において、前記不活性ガスとしてアルゴンガスを用い、前記アルゴンガスを一定の流量および温度で大気雰囲気中に噴出させるためのガス流路制御部およびガス吹き出しノズルと、前記ガス吹き出しノズルの吹き出し口とイオンを導入するイオン導入管の導入口の間に配置され、先端部が
二葉回転双曲
面に形成された針電極と、前記ガス吹き出しノズルの中心軸に対する前記針電極の相対位置および/または相対角度を調整するための針電極支持機構と、前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加する電力発生部と、を含み、前記電力発生部から前記針電極に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させ、該暗流によりアルゴンガスを励起し、励起アルゴンガスと試料とを反応させてイオン化する。
【0033】
図1は本発明を実施するために用いるイオン化装置を備えた質量分析装置の一例を示すものであり、
図1により本発明に係る大気圧イオン化方法の実施例を説明する。
先ず、本発明を実施するために用いるイオン化装置1を備えた質量分析装置2について説明する。
質量分析装置2は、大気圧雰囲気中に配置されたイオン化装置1と、図示していない高性能の真空ポンプにより真空排気される高真空雰囲気である分析室3との間に、段階的に真空度が高められた第1中間真空室4および第2中間真空室5を備えた多段差動排気系の構成を有する。このイオン化装置1と次段の第1中間真空室4との間は、細径のイオン導入管6を通して連通している。
【0034】
第1中間真空室4と第2中間真空室5との間は頂部に小孔を有するスキマー7で隔てられ、第1中間真空室4と第2中間真空室5とにはそれぞれ、イオンを収束させつつ後段へ輸送するためのイオンガイド8、9が配置されている。この例では、イオンガイド8は、イオン光軸Cに沿って配列された複数の電極板を1本の仮想的ロッド電極とし、イオン光軸Cの周囲に複数本(例えば4本)の仮想的ロッド電極を配置した構成である。また、イオンガイド9は、イオン光軸Cに沿う方向に延伸するロッド電極をイオン光軸Cの周囲に複数本(例えば8本)配置した構成である。ただし、イオンガイド8、9の構成はこれに限らず適宜変更することができる。
【0035】
また、分析室3内部には、イオンを質量電荷比m/zに応じて分離する質量分離部10と該質量分離部10を通り抜けたイオンを検出するイオン検出器11が配置されている。質量分離部10には、四重極マスフィルタ、イオントラップ、飛行時間計測型ドリフトチューブ、フーリエ変換型サイクロトロンまたはオービトラップ、電場、磁場等の全ての種類の質量分離部が利用できる。イオン検出器11による検出信号は、データ処理部12へと送られる。
【0036】
電源部13は、分析制御部14の制御の下に、イオンガイド8、9、質量分離部10などにそれぞれ所定の電圧を印加するものである。分析制御部14には、ユーザー(分析者)により操作される入力部15や表示部16が接続されている。なお、一般に、分析制御部14やデータ処理部12は、パーソナルコンピュータをハードウェア資源とし、該コンピュータに予めインストールされた専用の制御・処理ソフトウェアを実行することにより、それぞれの機能を達成する構成となっている。
【0037】
また、イオン化装置1は、分析対象である試料Aを保持する試料ホルダ17と、試料ホルダ17を駆動する試料駆動機構18と針電極19と、後述するガス吹き出しノズルの中心軸に対する針電極19の相対位置および/または相対角度を調整するための針電極支持機構20と、針電極位置駆動部21と、針電極19に
1.8kV以上の電圧を印加する電圧発生部22と、対向電極23と、ガス吹き出しノズル24と、ガス加熱機構25と、ガス流路制御部26と、が配設されている。
ガス加熱機構25には、アルゴンガスを導入するためのガス導入管27が接続されている。ガス流路制御部26は、分析制御部14の制御の下に、流量を制御されたアルゴンガスを加熱機構25に導入する。ガス吹き出しノズル24の吹き出し口、もしくは吹き出し口の近傍(以下、単に吹き出し口という。)に対向電極23が設置されている。対向電極23はリング状またはグリッド状で、ガスを通過させる機能を有する。
【0038】
試料ホルダ17は、ガス吹き出しノズル24の吹き出し口と針電極19の間、もしくは針電極19とイオン導入管6の導入口の間のどちらにも設置することができる。
本例では、試料ホルダ17は、ガス吹き出しノズル24の吹き出し口と針電極19の間に設置されている。
【0039】
図2は、ガス吹き出しノズル24の吹き出し口に設置される対向電極23とイオン導入管6の導入口との間に設置される針電極支持機構20の概略図である。
針電極支持機構20は、針電極19を図中のX軸およびY軸の2軸方向にそれぞれ移動可能なX−Y軸駆動機構28と、Z軸方向に移動可能なZ軸駆動機構29と、Z軸方向を中心にその全周で所定角度だけ針電極19を傾動可能な傾動機構30と、を含む。本例では、ガス吹き出しノズル24からのガス噴出方向およびイオン導入管6のイオン吸い込み方向を共にX軸方向と定めている。
【0040】
上記X−Y軸駆動機構28、Z軸駆動機構29、傾動機構30はいずれもモータ又はそれ以外のアクチュエータを含み、それぞれ針電極位置駆動部21から供給される駆動信号により駆動される。これによって、イオン導入管6に対する針電極19の相対位置や相対角度は、所定範囲で自由に設定可能となっている。ただし、このような針電極19の位置や傾き角度の調整は、モータ等の駆動源に依らず、マニュアルで行えるようにしてもよい。
【0041】
図3は、針電極19の先端部を示す拡大図であり、針電極19の先端部
19aは、中心軸Sの周りに回転対称である双曲面、放物面、又は楕円面で近似され、且つ最先端の曲率半径が1μmから30μmの曲面状に形成されている。
【0042】
このような先端曲率を有する針電極19に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させると、針電極19の先端部19a上の異なる部位に、その位置の曲率に応じて異なる電界強度(不平等電界)が発生し、針電極19の最先端とその周辺面という「ある範囲の領域」に、極めて高い強度の電界が発生する。
したがって、針電極19に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させるだけで針電極19の先端部19a、すなわち、最先端19bとその周辺面で持続的に加速および/または放出された「ある程度の量」の電子に本発明の目的を達成させるために必要な15.6eV以上のエネルギーを持たせることができる。
【0043】
すなわち、針電極19の表面は等電位面であるが、針電極19の先端部19aの曲率は各位置によって異なるので、各位置に発生する電界強度は異なる。針電極19の表面において、最先端部19bの曲率が最も大きく(=曲率半径が最小)、最先端部19bから離れるほど曲率は小さくなる。すなわち、或る
電圧で発生する電界強度は、最先端部19bが最大で、最先端部19bから離れるほど小さくなる。
一方、針電極19の表面全体に発生する電界の強さは、対向電極23と針電極19の距離、対向電極23に対する針電極19の先端部19aの向き、および針電極19に印加する
電圧に依存する。電界の強さが強まると、針電極19の先端部19a(最先端部19bおよびその周辺)に発生する電界強度が全体的に高まる。これは、15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を生成できる領域が広がり、結果的に15.6eV以上の運動エネルギーの電子をより多く生成できることを意味する。
【0044】
例えば、
図4に示すように、針電極19の先端曲率が1μm、針電極19と対向電極23の距離が3mm、対向電極23に対する針電極19の先端部の向きが0°(=針電極19の先端軸Sが対向電極23に垂直)の時、針電極19に印加する電圧を1.9kV、2.7kV、3.5kVと上げていくと、15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を生成できる領域は、針電極19の最先端部19bからYとZ軸方向に0.01mm、0.015mm、0.02mm、と広がっていく。
【0045】
電子の持ち得る運動エネルギーKE
i[eV]は、電子が加速および/または放出される針電極表面位置iの電界強度E
i [Vm
-1]と大気中における電子の平均自由行程λ[m](大気圧下では66.3×10
9 [m])の積によって見積もられる。よって、KE
i = E
i× λとなる。
KE
i=E
i×λについて、また、針電極先端に発生する不平等電界に対する針先端曲率・電極間距離・向き・電圧依存性については、発明者等の論文(K.Sekimoto et al., Eur. Phys. J. D, vol.60, pp.589-599, 2010)に記載されている。
【0046】
針電極19への
電圧の印加にあっては、分析制御部14からの指示に従って、
電圧発生部22が暗流域の直流(正極性または負極性)または交流の電圧を針電極19に印加するので、針電極19の先端部19a他、どこにも発光は認められない。対向電極23は、例えば接地されることで0Vに固定されるか、あるいは
電圧発生部22から印加される所定の電位(≠針電極19に印加する電位)に設定される。そのため、
電圧が印加された針電極19の先端部19aと対向電極23との間に電界が形成される。
【0047】
上記の各機構を含むイオン化装置1は、以下のような動作原理により、試料ホルダ17に設置された試料Aに含まれる各種成分をイオン化する。すなわち、ガス導入管27を通して、ガス流路制御部26によって流量を制御されたアルゴンガスが加熱機構25に導入され、加熱されたアルゴンガスが吹き出しノズル24の吹き出し口から噴出する。
この状態で、
電圧発生部22から、針電極19に
1.8kV以上の電圧を印加して暗流状態を発生させると、15.6eV以上のエネルギーを有する電子を生成し得る電界強度を有する針電極19の先端部19aの“或る領域(最先端部19bとその周囲)”で、15.6eV以上のエネルギーを有する電子が“或る量”生成され、これら電子がアルゴンガスに衝突および反応し、R1の反応式を通じて15.6eVの励起アルゴンガスが“或る量”生成する。
Ar+e
fast -(>15.6eV)→Ar
* (15.6eV)+e
slow -(R1)
【0048】
続いて、15.6eVの励起アルゴンガス(Ar
*)はイオン化装置1に存在する大気中の水分子をペニングイオン化する(R2)。これにより生成された水分子イオン
H2O+はさらに大気中の水分子と反応し、オキソニウムイオン
H3O+を生成する(R3)。一方、R2で生成した低速の電子e
slow - は大気中の酸素に付着し、スーパーオキシドアニオンO
2 -を生成する(R4)。
注:Ar
*=励起アルゴンガス
H
2O+Ar
*→H
2O
++e
slow-+Ar (R2)
H
2O
++H
2O→H
3O
++OH (R3)
O
2+e
slow-+P→O
2-+P(P:N
2やO
2、Ar等の第三体)(R4)
【0049】
また、15.6eVの励起アルゴンガスを含むガスは加熱機構25で加熱されて高温であるため、このガスが試料Aに吹きかけられると、試料A中の成分分子は気化する。気化により発生した成分分子MにR3で生成したオキソニウムイオンH
3 O
+やR4で生成したスーパーオキシドアニオンO
2 - が作用すると、プロトン移動反応を生じて該成分分子のプロトン化分子[M+H]
+および/または脱プロトン化分子[M−H]
- が生成する(R5、R6)。
M+H
3O
+→[M+H]
++H
2O (R5)
M+O
2-→[M−H]
-+HO
2 (R6)
【0050】
ここで、励起アルゴンガスの有するエネルギー15.6eVは他の不活性ガスの有するエネルギー(例えば、励起ヘリウムガスのエネルギーは19.8eV)よりも低いため、上記反応R2・R6が起こる間に試料A内に蓄積される余剰エネルギーが少なく、プロトン化分子[M+H]
+ および/または脱プロトン化分子[M−H]
- 以外の酸素付加イオンや水素脱離イオン等の副次物はほとんど生成しない。
【0051】
R5とR6で生成する試料中の該成分分子のプロトン化分子[M+H]
+および/または脱プロトン化分子[M−H]
-を質量分析装置で感度良く検出し、意義のあるマススペクトル(試料のプロトン化分子または脱プロトン化分子のイオンのピークに対するS/N比が3倍以上となっているマススペクトル)を取得するためには、[M+H]
+および/または[M−H]
-を質量分析装置で検出し得る「検出限界以上の或る程度の量」を「持続的に」生成させることが必要となる。そのためには、[M+H]
+および/または[M−H]
-を生成させるH
3 O
+とO
2 - が相当量必要、すなわち、H
3 O
+とO
2 -を生成させるAr
* による水分子のペニングイオン化(R2)を“持続して或る程度”起こす必要がある。そのためには、それが可能な“相当量”のAr
* すなわち15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子が必要であるため、15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を“相当量”生成させることができる針電極19の先端表面領域を確保することが必須である。すなわち、これが可能となる暗流域の電界(=暗流域の中でも高めの限られた電界)を利用する。
【0052】
次に、先端が
二葉回転双曲面に形成され先端曲率半径の異なる複数の針電極を使用し、大気圧イオン化法の作用を確認するため試料の質量分析を行った実験結果をグラフで示し、本発明の作用を例証する。
本実験では、針電極19と対向電極23との間の距離は15mm、対向電極23に対する針電極19の先端部19aは90°(=針電極19の先端軸Sが対向電極23に垂直)とする。本実験では、イオントラップ型質量分析装置を用い、先端曲率半径の異なる複数の針電極を使用したときに発生するそれぞれの大気中成分由来のバックグラウンドイオンの総イオン量を正イオンモードで測定した。
【0053】
実験1:
先端が
二葉回転双曲面に形成され先端曲率半径が1μmの針電極19を用いた。
実験結果は、
図5に示すように、針電極19への印加電圧が1.7kVまでは全くイオンが検出されないが、1.8kVから暗流を保ちつつイオンが検出され、その強度は30分たっても変化しなかった。生成するイオン種も変化しないことが、マススペクトルから確認された。
また、針電極19の先端の形状は、30分後も全く変化していなかった。
【0054】
実験2:
先端が
二葉回転双曲面に形成され先端曲率半径が25μmの針電極19を用いた。
実験結果は、
図6に示すように、針電極19への印加電圧が2.3kVまでは全くイオンが検出されないが、2.4・2.5kVから暗流を保ちつつイオンが検出された。ただし、そのイオン量は上記の先端曲率半径が1μmの針電極19に比べて、約4分の1であった。
これは、イオンが検出され始める電圧が該針電極19の方が1μmの針電極19に比べて高いのは、先端曲率半径が大きいことで,針電極19の先端表面に発生する電界強度が全体的に低いためである。つまり、より大きい
電圧を必要としているということを意味している。
【0055】
実験3:
先端が
二葉回転双曲面に形成され先端曲率半径が30μm超の針電極19を用いた。
実験結果は、
図7に示すように、電圧を上げていっても、暗流域では全くイオンは検出されなかった。これは、先端曲率半径が大きすぎて、暗流域では、質量分析装置で観測できるほどのイオン量を生成し得る“或る量”以上の励起アルゴンガスおよび15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を生成することが可能な針電極19の先端部19aの領域が確保できないためである。暗流域を越え、発光現象を伴う不連続な絶縁破壊が起きたときにのみ、スパイク状にイオンが検出された。
【0056】
実験4:
先端が逆曲面に形成され先端曲率半径が1μm未満の針電極19を用いた(
図9参照。)。
実験結果は、
図8に示すように、針電極19への印加電圧が2.3kVまでは全くイオンが検出されないが、2.4〜2.5kVから暗流を保ちつつイオンが検出された。しかし、5分ほどすると総イオン量は激減し、そのイオン量は上記の先端曲率半径が1μmの針電極に比べて、約5分の1であった。
これは、先端曲率半径が小さすぎるため、経時的に先端表面形状が変化し、先端表面に発生する電界(電界強度)を一定に保てないことに依る。また、イオンが検出され始める電圧が該針電極19の方が1μmの針電極19に比べて高いのは、逆曲面の場合、先端曲率半径のみが極めて小さい、すなわち最先端周囲の曲率半径は急激に大きくなってしまうため、質量分析に必要な“或る量”以上の15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を生成することが可能な針電極の先端部の領域を確保するためには、より大きな電力を必要とするためである。
【0057】
次に、大気圧イオン化法の作用を確認するため、先端が
二葉回転双曲面に成形され先端曲率半径が1μmの針電極19を使用し、種々の放電条件でアミノ酸の一種であるトリプトファン(分子量204)を測定した実験結果をグラフで示す。
本実験では、針電極19と対向電極23との間の距離は15mm、対向電極23に対する針電極19の先端部19aは90°(=針電極19の先端軸Sが対向電極23に垂直)とする。本実験では、イオントラップ型質量分析装置を用い、トリプトファンに由来するイオンの絶対強度を正イオンモードで測定した。
【0058】
実験5:
実験結果は、
図10に示すように、アルゴンガスによる暗流域の低電界時(1.0kV時)では、トリプトファンに由来するイオンおよび大気中成分由来のバックグラウンドイオンは全く検出されない。これは、電界が低すぎて、質量分析装置で観測できるほどのイオン量を生成し得る「或る量」以上の励起アルゴンガスおよび15.6eV以上の運動エネルギーを有する電子を生成することが可能な針電極の先端部の領域が確保できないためである。
【0059】
実験6:
実験結果は、
図11に示すように、アルゴンガスによる暗流域の高電界時(2.5kV時)では、トリプトファンのプロトン化分子(m/z 205.07)が非常に高い強度で観測される。トリプトファンは非常に酸化しやすい(すなわち、酸素付加イオンが生成しやすい)試料として知られるが(励起ヘリウムガスを用いた持続放電では、酸素付加イオンが多く検出される)、本発明を使用した場合、プロトン化分子以外の酸素付加イオン等の副生成物は全く検出されない。本放電状態を持続させても、針電極先端形状は全く変化せず、長時間(例えば30分)試料のプロトン化分子を感度良く検出することが可能である。
【0060】
実験7:
実験結果は、
図12に示すように、アルゴンガスによる持続放電時(5.5kV時)では、イオンの生成が極めて不安定でノイズが多く、試料由来のイオンは検出できない。持続放電の時には針電極の先端形状が経時的に変化してしまうため、針電極先端表面に安定した電界(電界強度)が持続して発生しないことが原因と考えられる。