特許第6383436号(P6383436)IP Force 特許公報掲載プロジェクト 2022.1.31 β版

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  • 特許6383436-神経系細胞の製造方法 図000006
  • 特許6383436-神経系細胞の製造方法 図000007
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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6383436
(24)【登録日】2018年8月10日
(45)【発行日】2018年8月29日
(54)【発明の名称】神経系細胞の製造方法
(51)【国際特許分類】
   C12N 5/0793 20100101AFI20180820BHJP
   C12N 5/077 20100101ALI20180820BHJP
   A61P 25/00 20060101ALI20180820BHJP
   A61K 35/12 20150101ALI20180820BHJP
   A61K 35/30 20150101ALI20180820BHJP
【FI】
   C12N5/0793
   C12N5/077
   A61P25/00
   A61K35/12
   A61K35/30
【請求項の数】4
【全頁数】13
(21)【出願番号】特願2016-570628(P2016-570628)
(86)(22)【出願日】2016年1月18日
(86)【国際出願番号】JP2016051302
(87)【国際公開番号】WO2016117510
(87)【国際公開日】20160728
【審査請求日】2018年2月1日
(31)【優先権主張番号】PCT/JP2015/059651
(32)【優先日】2015年3月27日
(33)【優先権主張国】JP
(31)【優先権主張番号】特願2015-8870(P2015-8870)
(32)【優先日】2015年1月20日
(33)【優先権主張国】JP
【早期審査対象出願】
(73)【特許権者】
【識別番号】509349141
【氏名又は名称】京都府公立大学法人
(74)【代理人】
【識別番号】100100158
【弁理士】
【氏名又は名称】鮫島 睦
(74)【代理人】
【識別番号】100122301
【弁理士】
【氏名又は名称】冨田 憲史
(74)【代理人】
【識別番号】100170520
【弁理士】
【氏名又は名称】笹倉 真奈美
(72)【発明者】
【氏名】戴 平
(72)【発明者】
【氏名】高松 哲郎
【審査官】 伊達 利奈
(56)【参考文献】
【文献】 国際公開第2010/068955(WO,A1)
【文献】 特表2011−517560(JP,A)
【文献】 特表2013−501502(JP,A)
【文献】 特表2013−501505(JP,A)
【文献】 国際公開第2014/058080(WO,A1)
【文献】 特表2013−523134(JP,A)
【文献】 国際公開第2013/187416(WO,A1)
【文献】 特開2013−123436(JP,A)
【文献】 THOMA E. C., et al.,Chemical Conversion of Human Fibroblasts into Functional Schwann Cells,Stem Cell Reports,2014年10月,Vol.3,P.539-547
【文献】 医学のあゆみ, 2015.01.10, Vol.252, No.2, pp.195-196
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C12N 5/00
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
CAplus/MEDLINE/EMBASE/BIOSIS(STN)
PubMed
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
神経系細胞を製造する方法であって、トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤及びp53阻害剤を含有する培地中で体細胞を10日間以上培養する工程を包含する方法であって、体細胞をヒストン脱アセチル化酵素阻害剤に接触させる工程を含まないこと、および人為的な遺伝子導入工程を含まないことを特徴とし、ここに、該体細胞がヒト線維芽細胞であり、該神経系細胞がグルタミン酸作動性神経細胞及び抑制性神経細胞である、方法
【請求項2】
トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤及びp53阻害剤と、グリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナル阻害剤、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナル阻害剤、アデニル酸サイクラーゼ活性化剤からなる群より選択される物質とを含有する培地中で体細胞の培養が実施される請求項記載の方法。
【請求項3】
トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤、p53阻害剤、グリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナル阻害剤、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナル阻害剤及びアデニル酸サイクラーゼ活性化剤を含有する培地中で体細胞の培養が実施される請求項記載の方法。
【請求項4】
請求項1〜のいずれか記載の方法により神経系細胞を製造し、該神経系細胞を有効成分として含有させることを含む、神経系疾患治療用の組成物の製造方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は体細胞を材料として神経系の細胞を製造する方法に関する。本発明はまた、前記方法により得られる神経系細胞、当該細胞を有効成分として含有する神経系疾患治療用の組成物に関する。
【背景技術】
【0002】
近年の細胞関連研究の発展、とくに多能性細胞に関する多くの研究成果は、個体への移植に利用可能な品質、量の治療用細胞の入手に道を開いた。すでにいくつかの疾患についてはその治療に有効な形質を有する細胞を患者に移植する試みが開始されている。
神経系疾患もその例外ではなく、脊髄損傷、パーキンソン病、アルツハイマー病、筋萎縮性側索硬化症等の疾患について、胚性幹細胞(ES細胞)や人工多能性幹細胞(iPS細胞)に由来する神経系の細胞もしくは神経前駆細胞を使用した治療の可能性について検討が行われている。
【0003】
神経系疾患の再生医療においても、治療用細胞を入手、作製する手段は課題とされている。非自己ドナー由来の細胞、胚性幹細胞から分化させた細胞は拒絶反応のおそれがあるため、自己の細胞より多能性幹細胞(例えばiPS細胞)を作製し、これを適切な神経系細胞に分化させたものが治療用細胞として期待されている。この方法では、iPS細胞の作製(リプログラミング)、神経系細胞への分化の双方のステップで高い転換効率を得ることが必要である。また、神経系細胞を得るために数カ月に及ぶ期間を要するため、治療等への使用において適用可能な疾患が限られるという問題も有していた。
【0004】
一方、線維芽細胞のような体細胞を直接神経系の細胞に転換する方法も報告されており、体細胞への遺伝子の導入により実施する方法[非特許文献1]、化学物質と共に体細胞を培養する方法、両者を組み合わせた方法が知られている。細胞に人為的に遺伝子を導入した場合、導入法やその他の条件が細胞内での遺伝子発現に影響を与える場合がある。したがって、遺伝子導入を行わずに体細胞から神経系細胞への転換を行う方法はより有効な選択肢である可能性がある。
【0005】
Thomaらは、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤であるバルプロ酸で処理した線維芽細胞を、複数のキナーゼの活性を阻害する化合物(化合物B)、トランスフォーミング増殖因子(transforming growth factor:TGF)−βシグナル阻害剤及びグリコーゲン合成酵素キナーゼ3β(GSK3β)阻害剤を含有する培地中で培養することにより、シュワン細胞を取得できると報告している[非特許文献2]。また、Chengらは、バルプロ酸、TGF−βシグナル阻害剤、GSK3β阻害剤を含む培地中、低酸素条件で繊維芽細胞を培養することにより、神経前駆細胞が得られることを報告している[非特許文献3]。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0006】
【非特許文献1】実験医学、2012年、第30巻、189−196頁
【非特許文献2】ステム セル リポーツ(Stem Cell Reports)、2014年、第3巻、539−547頁
【非特許文献3】セル リサーチ(Cell Research)、2014年、第24巻、第665−679頁
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0007】
本発明の目的は、人為的な遺伝子導入を行うことなく、体細胞から短期間に直接かつ効率よく神経系の細胞を誘導する方法を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0008】
本発明者らは、治療その他の用途に使用できる神経系細胞を得る方法について鋭意研究を重ねた結果、体細胞を培養する際にSmadシグナル並びにp53シグナルを阻害することにより、高効率で神経系の細胞を誘導できることを見出し、本発明を完成させた。
【0009】
すなわち、本発明は、
[1]神経系細胞を製造する方法であって、Smadシグナル及びp53シグナルの阻害下に体細胞を培養する工程を包含する方法、
[2]Smadシグナルがトランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤又は骨形成タンパク質シグナル阻害剤により阻害される[1]の方法。
[3]p53シグナルがp53阻害剤により阻害される[1]の方法、
[4]さらにグリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナルの阻害下、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナルの阻害下、細胞内cAMP濃度を増加させる条件下から選択される培養条件下に体細胞の培養が実施される[1]の方法、
[5]トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤及びp53阻害剤と、グリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナル阻害剤、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナル阻害剤、アデニル酸サイクラーゼ活性化剤からなる群より選択される物質とを含有する培地中で体細胞の培養が実施される[4]の方法、
[6]さらにグリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナル及び分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナルの阻害下、かつ細胞内cAMP濃度を増加させる条件下に体細胞の培養が実施される[1]の方法、
[7]トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤、p53阻害剤、グリコーゲン合成酵素キナーゼ3βシグナル阻害剤、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼシグナル阻害剤及びアデニル酸サイクラーゼ活性化剤を含有する培地中で体細胞の培養が実施される[6]の方法、
[8]体細胞をヒストン脱アセチル化酵素阻害剤に接触させる工程を含まないことを特徴とする[1]の方法、
[9]体細胞が分化した細胞である[1]の方法、
[10]体細胞が線維芽細胞である[9]の方法、
[11]体細胞がヒト細胞である[10]の方法、
[12][1]〜[11]いずれかの方法で得られる神経系細胞、及び
[13][12]の細胞を有効成分として含有する、神経系疾患治療用の組成物、
に関する。
【発明の効果】
【0010】
本発明の方法によれば、材料に使用する体細胞の給源の年齢や背景によらず、高い効率で、かつ短期間で神経系細胞を直接誘導できる。また、細胞への外来遺伝子の挿入のリスクもなく、より安全性の高い神経系細胞の取得が可能となる。
【図面の簡単な説明】
【0011】
図1】本発明の方法で得られた神経系細胞の活動電位の測定結果を示す。
図2】本発明の方法で得られた神経系細胞の活動電位のデータから抽出されたスパイク様波形を示す。
【発明を実施するための形態】
【0012】
(1)本発明の神経系細胞の製造方法
本発明は、Smadシグナル及びp53シグナルの阻害下に体細胞を培養する工程を包含する、神経系細胞の製造方法に関する。
【0013】
生物の細胞は体細胞と生殖細胞に大きく二分される。本発明の神経系細胞の製造方法には、その出発材料として任意の体細胞が使用できる。体細胞には特に限定はなく、生体から採取された初代細胞、株化された細胞のいずれでもよい。本発明には分化の種々の段階にある体細胞、例えば、最終分化した体細胞、最終分化への途上にある体細胞、初期化され多能性を獲得した体細胞を使用することができる。本発明に使用できる体細胞としては、特に本発明を限定するものではないが、神経系細胞に属しない任意の体細胞、例えば造血系の細胞(各種のリンパ球、マクロファージ、樹状細胞、骨髄細胞等)、臓器由来の細胞(肝細胞、脾細胞、膵細胞、腎細胞、肺細胞等)、筋組織系の細胞(骨格筋細胞、平滑筋細胞、筋芽細胞、心筋細胞等)、繊維芽細胞、骨芽細胞、軟骨細胞、内皮細胞、間質細胞、脂肪細胞が挙げられる。またこれら細胞の前駆細胞、癌細胞、各種の幹細胞(造血幹細胞、間葉系幹細胞、肝幹細胞等)にも本発明の方法を適用できる。
【0014】
上記の体細胞の給源としては、ヒトもしくは非ヒト動物が例示されるがこれらに限定されるものではない。ヒトへの投与を目的として本発明の方法により神経系細胞を製造する場合、好ましくはレシピエントと組織適合性抗原のタイプが一致又は類似したドナーより採取された体細胞が材料とされる。より好ましくはレシピエント自身より採取された体細胞が神経系細胞の誘導に供される。
【0015】
本発明の方法で得られる神経系細胞にも特に限定はなく、神経細胞(ニューロン)、グリア細胞(アストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリア)、シュワン細胞が例示される。以上の最終分化した細胞の他、それらに分化することが運命づけられた種々の前駆細胞も本発明における神経系細胞に包含される。
【0016】
SmadはTGF−βスーパーファミリーの細胞内シグナル伝達を担っている一群の分子である。TGF−βファミリーのサイトカインが結合したレセプターによりリン酸化を受けると、核内に移行して転写活性化因子として機能する。Smadにより伝達されるシグナルは細胞の増殖、分化、アポトーシスの制御に関わっている。
【0017】
本発明の方法における「Smadシグナルの阻害下」の培養条件を達成するための手段には特に限定はなく、Smadシグナルを阻害することができる公知の手段を利用することができる。本発明にはSmadに直接作用してその機能を阻害する物質(例えば抗Smad抗体やその他の薬剤)や、Smad自体の産生を抑制する薬剤等を利用することができる。また、Smadが関わるシグナル伝達をその上流で阻害することによってもSmadシグナルを阻害することができる。すなわち、TGF−βファミリーのサイトカイン及び/又はそのレセプターの機能を阻害することにより、本発明を実施することができる。当該方法には、抗サイトカイン抗体、抗サイトカインレセプター抗体(アンタゴニスト抗体)、サイトカインレセプター阻害剤等が使用できる。本発明では、特に本発明を限定するものではないが、阻害剤として作用する物質でTGF−β及び/又は骨形成タンパク質(bone morphogenetic protein:BMP)が関わるシグナル伝達を阻害することにより、Smadシグナルを阻害することが好適である。
【0018】
本発明に使用できるTGF−βシグナル阻害剤としては、SB431542(CAS No. 301836−41−9)、RepSox[E−616452](CAS No. 446859−33−2)、A−83−01(CAS No. 909910−43−6)、LY364947(CAS No. 396129−53−6)、SD208(CAS No. 627536−09−8)が例示される。また、本発明に使用できるBMPシグナル阻害剤としては、LDN−193189(CAS No. 1062368−24−4)、Dorsomorphin(CAS No. 866405−64−3)、ノギン(Noggin:J Neuroscience, 1995, Vol. 15, p6077−84)が例示される。神経系細胞の誘導に有効なTGF−βシグナル阻害剤、BMPシグナル阻害剤の濃度は適宜決定すればよい。特に本発明を限定するものではないが、例えば、SB431542は0.2μM〜20μM、LDN−193189は0.1μM〜10μMの範囲で、それぞれ本発明の方法に使用することができる。
【0019】
p53タンパク質はがん抑制遺伝子として知られているp53遺伝子の産物であり、細胞周期調節やアポトーシス制御に関わっている。その機能はDNAとの特異的結合並びに遺伝子発現制御を通じて発揮されている。
【0020】
本発明における「p53シグナルの阻害下」の培養条件を達成するための手段には特に限定はなく、p53シグナルを阻害することができる公知の手段を利用すればよい。p53タンパク質の活性は細胞やDNAのダメージの影響を受けることが知られており、適切な物理的、化学的処理を細胞に施すことでp53シグナルを阻害することができる。前記の物理的処理としては振動、可視光もしくは放射線の照射、温度刺激等が挙げられる。また、抗p53タンパク質抗体や公知のp53シグナル阻害剤も本発明に好適である。本発明に使用できるp53阻害剤としては、ピフィスリン(Pifithrin)−α(CAS No. 63208−82−2)、ピフィスリン−β(CAS No. 511296−88−1)、ピフィスリン−μ(CAS No. 64984−31−2)、NSC66811(CAS No. 6964−62−1)、Nutlin−3(CAS No. 548472−68−0)が例示される。神経系細胞の誘導に有効なp53阻害剤の濃度は適宜決定すればよい。特に本発明を限定するものではないが、例えば、ピフィスリンは0.5μM〜50μMの範囲で本発明の方法に使用することができる。
【0021】
本発明によれば、Smadシグナル及びp53シグナルの阻害下で体細胞を培養することにより、神経系細胞を誘導することができる。さらに、GSK3βシグナルの阻害下、分裂促進因子活性化タンパク質キナーゼ(mitogen−activated protein kinase:MAPK)シグナルの阻害下、細胞内cAMP濃度を増加させる条件、のいずれかの培養条件、もしくはこれらを組合せた培養条件で培養することにより、体細胞からの神経系細胞の誘導効率を向上させることができる。
【0022】
GSK3βはグリコーゲン合成酵素をリン酸化して不活性化するプロテインキナーゼとして見いだされた。本酵素は種々のタンパク質をリン酸化する活性を有しており、グリコーゲン代謝のみならず、細胞分裂、細胞増殖他の生理現象にも関わっている。
【0023】
本発明の方法における「GSK3βシグナルの阻害下」の培養条件には特に限定はなく、GSK3βの活性を阻害する物質、例えば抗GSK3β抗体やGSK3β阻害剤のようなGSK3βシグナル阻害手段を利用することができる。また、GSK3βは自身の特定の部位がリン酸化されると活性を失うことから、当該リン酸化を促進する手段もGSK3βシグナルの阻害に利用することができる。本発明に使用できるGSK3βシグナル阻害剤としては、CHIR99021(CAS No. 252917−06−9)、BIO((2’Z,3’E)−6−Bromoindirubin−3’−oxime;CAS No. 667463−62−9)、Kenpaullone(CAS No. 142273−20−9)、A1070722(CAS No. 1384424−80−9)が例示される。本発明の方法に有効なGSK3βシグナル阻害剤の濃度は適宜決定すればよく、特に限定はされないが、例えば、CHIR99021は0.1μM〜10μMの範囲で本発明の方法に使用することができる。
【0024】
MAPKはリン酸化を介したシグナル伝達に関わるプロテインキナーゼである。MAPKは自身がリン酸化されると核内に移行し、主に転写活性化因子をリン酸化/活性化することにより、細胞質のシグナルを核内に伝える役割を担っている。
【0025】
本発明の方法における「MAPKシグナルの阻害下」の培養条件には特に限定はなく、MAPKの活性を阻害する物質、例えば抗MAPK抗体やMAPK阻害剤のようなMAPKシグナル阻害手段を利用することができる。また、MAPKの活性化に関わる酵素、例えばMAPKキナーゼ(MAPKK)やMAPKキナーゼキナーゼ(MAPKKK)等を阻害する手段もMAPKシグナルの阻害に利用することができる。本発明に使用できるMAPKシグナル阻害剤としては、PD0325901(CAS No. 391210−10−9)、PD184352(CAS No. 212631−79−3)、PD98059(CAS No. 167869−21−8)、PD334581(CAS No. 548756−68−9)が例示される。本発明の方法に有効なMAPKシグナル阻害剤の濃度は適宜決定すればよく、特に限定はされないが、例えば、PD0325901は0.1μM〜10μMの範囲で本発明の方法に使用することができる。
【0026】
環状アデノシン1リン酸(cAMP)はセカンドメッセンジャーとして種々の細胞内シグナル伝達に関わっている物質である。cAMPは、細胞内ではアデニル酸サイクラーゼ(adenylate cyclase)によりアデノシン3リン酸(ATP)が環状化されることで生成する。
【0027】
本発明の方法における「細胞内cAMP濃度を増加させる条件下」の培養条件には特に限定はない。cAMPの生成に関わる酵素であるアデニル酸サイクラーゼに直接作用して活性化できる物質、アデニル酸サイクラーゼの発現を促進しうる物質の他、cAMPを分解する酵素であるホスホジエステラーゼを阻害する物質等を細胞内cAMP濃度を増加させる手段として使用することができる。細胞内でcAMPと同じ作用を持つ、cAMPの構造類似体であるジブチリルcAMP(dibutyryl cAMP)も本発明に使用できる、本発明に使用できるアデニル酸サイクラーゼ活性化剤としては、フォルスコリン(forskolin;CAS No. 66575−29−9)やフォルスコリン誘導体(例えば特開2002−348243)が例示される。本発明の方法に有効なアデニル酸サイクラーゼ活性化剤の濃度は適宜決定すればよく、特に限定はされないが、例えば、フォルスコリンは0.5μM〜50μMの範囲で本発明の方法に使用することができる。
【0028】
本発明による神経系細胞の製造では、Smadシグナル及びp53シグナルが阻害された条件下で体細胞の培養が実施される。この際、GSK3βシグナルを阻害する手段、MAPKシグナルを阻害する手段、細胞内cAMP濃度を増加させる手段のいずれか、もしくはこれらの組合せを共存させてもよい。
【0029】
本発明の好適な態様では、Smadシグナルを阻害する手段としてのトランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤ならびに骨形成タンパク質シグナル阻害剤、及びp53シグナルを阻害する手段としてのp53阻害剤に加え、GSK3βシグナル阻害剤、MAPKシグナル阻害剤及びアデニル酸サイクラーゼ活性化剤から選択される1以上の物質を含有させた培地中で体細胞を培養することにより神経系細胞の誘導が実施される。前記の阻害剤、活性化剤は、神経系細胞の誘導に有効な濃度で培地に添加される。神経系細胞の誘導に有効な濃度は、適宜決定すればよく、特に限定されないが、例えば、0.1μM〜50μM程度である。
【0030】
特に好適な態様においては、トランスフォーミング増殖因子−βシグナル阻害剤、骨形成タンパク質シグナル阻害剤、p53阻害剤、GSK3βシグナル阻害剤、MAPKシグナル阻害剤及びアデニル酸サイクラーゼ活性化剤のすべてを含有する培地中での一段階の培養で、体細胞から直接神経系の細胞が誘導される。
【0031】
本発明の神経系細胞の製造方法の好適な態様では、体細胞を培養する工程においてヒストン脱アセチル化酵素阻害剤を使用しない。核初期化因子によるリプログラミングを促進すると言われるヒストン脱アセチル化酵素阻害剤を使用しない本発明の方法では、意図しない分化を起こしかねない多能性細胞が誘導されるリスクはより低いと言える。
【0032】
本発明における体細胞の培養は、使用する体細胞の種類に応じた培地、温度、その他の条件を選択し、前記の各種シグナルに対する阻害手段等を発揮させて実施すればよい。培地は公知の培地や市販の培地から選択することができる。例えば、一般的な培地であるMEM、DMEM、DMEM/F12やこれらを改変した培地に適切な成分(血清、タンパク質、アミノ酸、糖類、脂肪酸類、抗生物質等)を添加して使用することができる。
【0033】
培養条件としては、一般的な細胞培養の条件を選択すればよい。37℃、5%COの条件が例示される。培養中は適切な間隔で培地の交換を実施することが好ましい。繊維芽細胞を材料として本発明の方法を実施する場合、この条件では10日間〜3週間で神経系の細胞が出現する。使用する体細胞として培養の容易なものを選択することにより、あらかじめ細胞数を増加させた体細胞を神経系細胞に転換することも可能である。したがってスケールアップした神経系細胞製造も容易である。
【0034】
前記の培養には、プレート、ディッシュ、細胞培養用フラスコ、細胞培養用バッグ等の細胞培養用器材(容器)を使用することができる。なお、細胞培養用バッグとしては、ガス透過性を有するものが好適である。大量の細胞を必要とする場合には、大型培養槽を使用してもよい。培養は開放系又は閉鎖系のどちらでも実施することができるが、得られた神経系細胞のヒトへの投与等を目的とする場合には、閉鎖系で培養を実施することが好ましい。
【0035】
(2)本発明の方法により得られる神経系細胞
上記の、本発明の神経系細胞の製造方法により、神経系細胞を含有する細胞集団を得ることができる。
【0036】
本発明による神経系細胞の誘導は、例えば細胞の形態的変化により確認することができる。神経系の細胞は、細胞の種類によって特徴的な形態をとることから、培養前後の細胞の形態を比較することによって神経系細胞の存在を知ることができる。また、神経系細胞に特徴的な分子、例えば酵素、レセプター、低分子化合物等を検出して神経系細胞を確認することもできる。神経系細胞に特徴的な分子としては、β3−チューブリン、シナプシンI、ベジクル型グルタミン酸トランスポーター(vesicular glutamate transporter:vGULT)、微小管関連タンパク質(microtubule−associated protein:MAP)2、γ−アミノ酪酸(GABA)、チロシン水酸化酵素等が挙げられるが、これらに限定されるものではない。前記の分子の検出には免疫的方法(抗体による検出)を利用できるが、タンパク質分子に関してはそのmRNA量の定量により検出を実施してもよい。神経系細胞に特徴的な分子を認識する抗体は、本発明により得られた神経系細胞を単離、精製するうえでも有用である。
【0037】
本発明の方法により得られる神経系細胞ならびに当該細胞を含有する組成物は、神経系疾患の治療に有用である。前記神経系細胞および前記組成物が治療に有効な神経系疾患としては脊髄損傷、脳血管障害(脳梗塞等)、パーキンソン病、アルツハイマー病、筋萎縮性側索硬化症等が挙げられるが、これらに限定されるものではない。前記神経系細胞は、神経系疾患の治療のための医薬用組成物を製造するために使用することもできる。
【0038】
本発明の神経系細胞を医薬用の組成物とする場合には、常法により、当該細胞を医薬的に許容される担体と混合するなどして、個体への投与に適した形態の製剤とすればよい。担体としては、例えば、生理食塩水、ブドウ糖やその他の補助薬(例えば、D−ソルビトール、D−マンニトール、塩化ナトリウム等)を加えて等張とした注射用蒸留水を挙げることができる。さらに、緩衝剤(例えば、リン酸塩緩衝液、酢酸ナトリウム緩衝液)、無痛化剤(例えば、塩化ベンザルコニウム、塩酸プロカインなど)、安定剤(例えば、ヒト血清アルブミン、ポリエチレングリコールなど)、保存剤、酸化防止剤等を配合してもよい。
【0039】
本発明で得られる神経系細胞は、研究、例えば神経細胞分化に関する研究や神経系疾患の医薬スクリーニング、医薬候補化合物の効能・安全性評価等に使用することもできる。本発明によれば、一度の操作で多くの神経系細胞を取得することができることから、これまでのように細胞のロット差の影響を受けずに、再現性のある研究結果を得ることが可能となる。
【実施例】
【0040】
以下、実施例により本発明を具体的に説明するが、本発明は実施例の範囲に限定されるものではない。
【0041】
実施例1 ヒト線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導(1)
1) ヒト線維芽細胞
材料としたヒト線維芽細胞はDSファーマバイオメディカル株式会社から購入した。使用した4つの細胞の背景情報を表1に示す。
【0042】
【表1】
【0043】
2) ヒト線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導
表1に示したヒト繊維芽細胞を、それぞれ35mm ディッシュに8×10個ずつ撒き、10%FBS、100U/mLペニシリン、100μg/mLストレプトマイシンを添加したDMEM high glucose培養液で、37℃、5% COの条件下で2日間インキュベートした。各細胞は下記の継代数で培養に供した。
細胞1: Passage 5(P5)とP20
細胞2: P5とP21
細胞3: P5とP17
細胞4: P5とP15
【0044】
Smadシグナルを阻害する2つの化合物、即ちBMPシグナル阻害剤であるLDN−193189(和光純薬社製:終濃度1μM)とTGF−βファミリー阻害剤であるSB−431542(Tocris社製:終濃度2μM)、GSK3β阻害剤であるCHIR99021(和光純薬社製:終濃度1μM)、MEK/ERK阻害剤であるPD0325901(和光純薬社製:終濃度1μM)、p53シグナルの阻害剤であるピフィスリン−α(和光純薬社製:終濃度5μM)並びにcAMPの生産促進剤であるフォルスコリン(和光純薬社製:終濃度7.5μM)を含む神経細胞培地を調製した。この神経細胞培地は1%(v/v) N2 サプリメント(ライフテック社製)を含んだDMEM/F12と、2%(v/v) B27 サプリメント(ライフテック社製)を含んだNeurobasal Medium(ライフテック社製)を1:1で混合したものである。前記の、2日間培養したヒト繊維芽細胞のディッシュの培地をこの神経細胞培地に置換し、37℃、5% COの条件で3日毎に培地交換し培養を継続した。
【0045】
3) 神経系細胞の評価
a)神経細胞マーカーの細胞免疫染色
3週間培養したヒト線維芽細胞は、形態的に神経細胞に類似していた。この細胞を2% PFA(パラホルムアルデヒド)で固定した後、免疫染色を行った。細胞免疫染色で使用した抗体は、次の通りである。Tuj1について、陽性となった細胞(神経系細胞)の存在比を表2に示す。
マウス抗βIII−tubulin[Tuj1](Covance社製;MMS−435P)
ウサギ抗βIII−tubulin[Tuj1](Covance社製;PRB−435P)
ウサギ抗MAP2(Millipore社製)
【0046】
【表2】
【0047】
表2に示す通り、6種の物質を含有する培地を使用した場合には、材料とした細胞の給源の違い(年齢、性別、細胞採取部位)にかかわらず、80%を超える高い効率で神経系細胞マーカーであるTuj1陽性の細胞が出現した。また、どの細胞でも誘導開始前の継代数が誘導効率に影響を与えなかったことから、本発明の方法では細胞自体の老化の影響を受けないことも明らかとなった。さらに、得られた神経系細胞では成熟した神経細胞のマーカーであるMAP2の発現も確認された。
【0048】
以上のことから、上記6物質を培養時に使用することによって繊維芽細胞から神経系細胞への直接誘導が可能であることが示された。
【0049】
b)神経系細胞の機能的評価
上記a)同様の操作により固定した細胞を下記の各抗体を用いた免疫染色に供し、神経細胞の機能を評価した。
マウス抗βIII−tubulin[Tuj1](Covance社製;MMS−435P)
ウサギ抗vGLUT1(Synaptic Systems社製)
ウサギ抗GABA(Sigma−Aldrich社製)
ウサギ抗Tyrosine Hydroxylase(Millipore社製)
【0050】
作製された神経系細胞はグルタミン酸作動性マーカーであるvGLUT−1を発現しており、また、抑制性神経伝達物質マーカーであるγ−アミノ酪酸(GABA)の存在が確認されたが、ドーパミン作動性マーカーであるTyrosine Hydroxylaseの発現は確認できなかった。よって、本発明で作製した神経細胞はグルタミン酸作動性神経細胞と抑制性神経細胞の両面性を持っていると推測できる。
【0051】
実施例2 ヒト線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導(2)
実施例1で使用された6種の物質を含有する神経細胞培地、ならびにこれら6種類の物質のそれぞれ1つを欠いた神経細胞培地を使用して線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導を行った。また、対照として6種の物質すべてを含有しない神経細胞培地での培養も実施した。
【0052】
上記の各培地を使用し、実施例1記載の細胞2(P5)を実施例1に記載のように培養した。培養2週間後に細胞を2% PFAで固定し、マウス抗βIII−tubulinを用いた免疫染色を行った。この結果を表3に示す。表中、「6c−[化合物名]」との記載は、6種の物質を含有する神経細胞培地から当該化合物を除いた培地が使用されていることを示す。
【0053】
【表3】
【0054】
表3に示す通り、6種の物質を含有する培地を使用した場合には高効率で神経系細胞が誘導された。ピフィスリン−αを欠く培地、6種の物質をすべて含有しない培地では神経系細胞は出現しなかったが、他の培地では神経系培地の誘導が確認された。すなわち、このことから、線維芽細胞からの神経細胞直接誘導にはp53シグナルを阻害することが必須であると推測された。
【0055】
また、LDN−193189とSB−431542の2つを欠く培地、すなわちSmadシグナルを阻害する手段が存在しない状態で培養を行った場合にも神経系細胞の誘導は観察されなかった。
【0056】
以上の結果より、培養時にp53シグナルおよびSmadシグナルの2つの経路を阻害することが、線維芽細胞からの神経系細胞の直接誘導に必須であることが示された。
【0057】
実施例3 ヒト線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導(3)
実施例1記載の細胞2(P5)を、実施例1に記載された6種の物質を含有する神経細胞培地中で、実施例1と同じ条件で培養した。前記培地での培養開始から1週間後、2週間後、3週間後、4週間後に細胞の一部を採取して2% PFAで固定し、それぞれマウス抗βIII−tubulinを用いた免疫染色を行ってTuj1陽性細胞を定量した。この結果を表4に示す。
【0058】
【表4】
【0059】
表4に示す通り、6種の物質を含有する培地では、培養開始から2週間後に神経系細胞の割合は50%を超えていた。また、神経系細胞の誘導はほぼ3週間で最高値にまで達することが示された。
【0060】
実施例4 活動電位の測定
1)神経系細胞の誘導
実施例1と同じ操作でヒト繊維芽細胞(48歳女性skin/labia由来)から神経系細胞を誘導した。4週間の培養で誘導した神経系細胞を0.25%トリプシン(和光純薬)を用いて剥離し、神経細胞培地[1%(v/v) N2 サプリメント(ライフテック社製)を含んだDMEM/F12と、2%(v/v) B27 サプリメント(ライフテック社製)を含んだNeurobasal Medium(ライフテック社製)の1:1混合物]に懸濁した。
【0061】
2)活動電位の測定
神経細胞活動電位の測定にはマイクロエレクトロード・アレイシステム(MED64−Basic system:アルファメッドサイエンティフィック株式会社)を使用した。使用に先立って、電極を備えたMEDプローブの表面をコラーゲンでコートした。まず、神経細胞培地でコラーゲン(セルマトリックス Type I−C:新田ゼラチン)の10倍希釈液を調製した。このコラーゲン溶液をMEDプローブに添加して10分間放置した後にコラーゲン溶液をプローブから除去し、クリーンベンチ内で紫外線を照射しながらプローブを風乾した。
【0062】
コラーゲンでコートされたMEDプローブを滅菌水で3回洗浄した後、実施例4−1)で得た神経系細胞の懸濁液をプローブに添加し、実施例4−1)で使用した培地中、37℃で7日間培養した。その後、プローブをマイクロエレクトロード・アレイシステムに接続して活動電位を測定した。図1に、電位を経時的に測定して得られた波形の例を示す。図1中、横軸は経過時間、縦軸は電圧を示す。図2は活動電位のデータから抽出されたスパイク様波形を示す。この図では20の波形を重ねあわせて表示したものであり、それらを平均した波形を実線で示している。このように、本発明の方法により得られた神経系細胞は活動電位を発生するものであることが確認された。
【0063】
実施例5 ヒト線維芽細胞からの神経細胞直接誘導(4)
実施例1で使用された6種の物質を含有する神経細胞培地に、さらにDorsomorphin(BMPシグナル阻害剤:和光純薬)を終濃度5μMとなるように添加した。この培地を使用して線維芽細胞からの神経系細胞直接誘導を行った。
【0064】
実施例1と同様に10%FBS、100U/mLペニシリン、100μg/mLストレプトマイシンを添加したDMEM high glucose培地中で前培養したヒト線維芽細胞について、培地を前記の神経細胞培地に交換して37℃、5% COの条件で3日毎に培地交換しながら培養を行った。11日間の培養後の細胞について抗Tuj1抗体、抗MAP2抗体、抗SnynapsinI抗体(Millipore)を用いた免疫染色を実施し、これらマーカーが陽性の神経系細胞が得られていることを確認した。また、Dorsomorphinの終濃度を1μM、10μMにそれぞれ変更して培養を行った場合も、ほぼ同様の結果が得られた。
【0065】
このように、複数の化合物でBMPシグナルを阻害することによっても神経系細胞を誘導することが可能であることが明らかとなった。また、Dorsomorphinを併用したことにより、神経系細胞の出現までの期間が短縮された。
【産業上の利用可能性】
【0066】
本発明により、高い効率で、かつ短期間で神経系細胞を直接誘導可能な方法が提供される。本発明の方法は、材料に使用する体細胞の性質や背景の影響を受けないこと、スケールアップも容易であることから、安定した神経系細胞の供給を可能とする。本発明の方法により得られる神経系細胞は各種の研究、医療の分野において有用である。
図1
図2