【実施例】
【0035】
以下、実施例により本発明をより具体的に説明するが、本発明の技術的範囲はこれらに限定されない。
【0036】
≪実験方法≫
[実験動物]
すべての動物実験プロトコールは、千葉大学大学院医学研究院附属動物実験施設運営委員会により承認されたものである。実験には、16匹のC57BL/6マウス(雄・成体;11〜12週齢;日本エスエルシー株式会社)を用いた。これらのマウスには水およびマウス用食餌を随時与えながら、12時間ごとの昼夜サイクル下、20±2℃の温度条件下で飼育した。
【0037】
[脳虚血の誘導]
マウスにおける脳虚血の誘導は、20分間の両側頸動脈一時遮断(BCCAO)法(Onken M, et al. Simple model of forebrain ischemia in mice. J Neurosci Methods 2012;204:254-261;Yang et al., C57BL/6 strain is most susceptible to cerebral ischemia following bilateral common carotid occlusion among seven mouse strains: selective neuronal death in the murine transient forebrain ischemia. Brain Res. 1997;752:209-218)により行った。マウスの麻酔には、酸素中のイソフルラン(導入には5%;維持には1.5%)を用いた。また、体温の維持には保温パッドを用いた。BCCAOの後、モノフィラメントナイロン縫合糸で頸部切開部を閉じた。自発呼吸の再開後にマウスから抜管し、次いで虚血後の低体温を防止するために保温チャンバーへと移した。
【0038】
[パルミチン酸レチノールによる処置]
飼育した16匹のマウスを4匹ずつ、以下の4群に分けた。なお、パルミチン酸レチノールとしては、チョコラA(登録商標)(エーザイ株式会社製)を用いた。また、パルミチン酸レチノール処置群における投与量は、ヒトにおける用量をマウスによる取り込みに変換(Olson, Recommended dietary intakes (RDI) of vitamin A in humans. Am. J. Clin. Nutr. 1987;45:704-716)することにより決定した。さらに、処置群における投与は、BCCAOの直前に腹腔内に行った。
・BCCAO群(パルミチン酸レチノール処置;1.2mg/kg)
・BCCAO群(パルミチン酸レチノール処置;12mg/kg)
・BCCAO群(生理食塩水処置)
・疑似手術群(
図1〜3において「Sham」と記載)。
【0039】
[局所脳血流(rCBF)の測定]
局所脳血流(rCBF)の測定は、柔軟な0.5mm径の光ファイバーが結合したマスタープローブを備えるレーザードップラー血流計により行った。頭蓋骨を温度プローブの反対側で、前項より3mm後方、正中線より2mm外側の領域5mmで薄くした。主要な血管系が存在しない脳領域上の頭蓋骨の表面に、プローブのチップを装着した。虚血の開始5分前から、虚血の20分間、そして再灌流の最初の10分間に、rCBFの記録を行った。そして、虚血の開始前に記録されたrCBFを100%の血流レベルとした。
【0040】
[組織病理学的評価]
すべてのマウスをBCCAOの開始から2日後に屠殺した。脳を速やかに取り出し、組織学的評価および免疫組織化学的評価のために4%パラホルムアルデヒドで固定した。常法に従って、脳組織をパラフィン中に包埋し、10μm厚さの冠状断面に切断した。次いで、ヘマトキシリン−エオジン(HE)およびクレシルバイオレットを用いて切片を染色した。
【0041】
[免疫蛍光染色]
脳切片の免疫蛍光染色は、Notch1タンパク質に対するヤギポリクローナル抗体(sc-6014、サンタクルーズ社製)およびグリア細胞繊維性酸性タンパク質に対するウサギポリクローナル抗体(Z0334、ダコ・ジャパン社製)を一次抗体として用いて行った。4℃にて一晩、組織切片を希釈一次抗体(1:500)とともにインキュベートした。0.05%Tween-20を含有するリン酸緩衝食塩水(PBST)で洗浄し、次いで二次抗体とともに室温にて2時間インキュベートした。二次抗体としては、Alexa Fluor 594−ロバ抗ウサギIgG抗体(A-21207、Molecular Probes(登録商標)、ライフテクノロジーズ社製)およびFluor 488−ロバ抗ヤギIgG抗体(A-11055、Molecular Probes(登録商標)、ライフテクノロジーズ社製)をそれぞれ用いた。PBSTで洗浄後、カバースリップを両面に配置した。
【0042】
[定量および統計解析]
10μm厚さの組織切片のうち、前項の後ろ1.7〜2.5mmの間に位置する切片(10枚おきで計6枚)をクレシルバイオレットで染色し、海馬ニューロンの総数を見積もるのに用いた。クレシルバイオレット染色では、核の断片化の所見とともに高密度の球状物質が明らかに蓄積しているか、または萎縮した周核体および縮小して暗く染まった核を有するニューロンは、死にゆくものとみなした(Vereczki et al., Normoxic resuscitation after cardiac arrest protects against hippocampal oxidative stress, metabolic dysfunction, and neuronal death. J. Cereb. Blood Flow Metab. 2006;26:821-835)。分析した各切片について、対象とする領域は虚血領域内から選択し、測定は所定の部位で行った(Lim et al., Therapeutic effects of human umbilical cord blood-derived mesenchymal stem cells after intrathecal administration by lumbar puncture in a rat model of cerebral ischemia. Stem Cell Res. Ther. 2011;2:38)。海馬のCA1、CA2、CA3およびDG領域における固定領域(300μm×300μm)中で虚血性変化を示した細胞の数の百分率を算出した。疑似手術群と比較した場合の、CA1領域における固定領域(300μm×300μm)中の海馬ニューロンの数の比率を指標として定義した。CA1領域における固定領域(300μm×300μm)中のGFAP陽性細胞またはNotch1陽性ニューロンの数を測定した。定量分析には、画像処理ソフトウェア(Image-J、NIH、米国)を用いた。各群間を比較するための統計解析には、1要因分散分析(one-way ANOVA)とそれに続くBonferroniの事後検定を用いた。さらに、2群の平均値の比較にはStudentのt検定を用いた。すべてのデータは、4匹のマウスの平均値±標準誤差で表記する。また、p値が0.05未満のときに統計的に有意であるものとした。
【0043】
≪結果≫
[脳虚血および再灌流時の血流変化の確認]
脳における虚血の状態を明らかにすべく、上述したようにrCBFの変化をレーザードップラー血流計を用いて検出した。BCCAOによってrCBFは急速に、ベースラインに対して約25〜30%低下した。20分間のBCCAOの後、マイクロクリップを取り外したところ、rCBFは再灌流によってベースラインまで回復した(データは示さず)。これらのデータから、虚血領域へのrCBFはBCCAOによって減少することが示された。
【0044】
[虚血は海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化を引き起こす]
虚血によって誘起されるマウス海馬ニューロンにおける形態変化を確認すべく、脳虚血を20分間のBCCAOによって誘導し、次いで2日間再灌流を行った。HE染色およびクレシルバイオレット染色により、海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化が確認できた(
図1のF〜J)。虚血を誘導した脳では海馬ニューロンにおいて「虚血ニューロン」が顕著に観察され(
図1のC、E、HおよびJ)、CA1領域およびCA2領域では、虚血ニューロンの細胞数はBCCAO群において疑似手術群よりも多かった(
図1のK、疑似手術群CA1領域 0.025±0.003 vs. BCCAO群CA1領域 0.328±0.048、P=0.005;疑似手術群CA2領域 0.016±0.002 vs. BCCAO群CA2領域 0.09±0.019、P=0.053)。また、統計的に有意ではなかったものの、CA3領域およびDG領域でもより多くの虚血ニューロンが観察された。さらに、クレシルバイオレット染色によればニューロン数の顕著な減少が確認され(
図1のD、E、IおよびJ)、これはCA1領域、CA2領域およびCA3領域では疑似手術群よりもBCCAO群においてより重篤であった(
図1のL、疑似手術群CA1領域 102.75±1.831 vs. BCCAO群CA1領域 63.25±3.92、P<0.001;疑似手術群CA2領域 112.25±3.843 vs. BCCAO群CA2領域 79.375±4.655、P=0.001;疑似手術群CA3領域 99.25±1.898 vs. BCCAO群CA3領域 64.563±4.141、P=0.002)。しかしながら、DG領域ではニューロン数の有意な減少は観察されなかった(
図1のL)。これらの結果から、BCCAOによって誘起される脳虚血はマウス海馬ニューロンにおいて虚血性の細胞変化を引き起こすことが示された。
【0045】
[パルミチン酸レチノールは海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化を阻害する]
続いて、虚血性細胞変化に及ぼすビタミンAの影響を、パルミチン酸レチノールを用いて調べた。その結果、海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化の程度は、パルミチン酸レチノール処置群では虚血コントロール群と比較してより小さかった(
図2のA〜P)。また、CA1領域ではニューロンの減少はほとんど観察されなかった(
図2のI〜P)。BCCAOコントロール群とパルミチン酸レチノール処置群との間には、海馬ニューロンにおける形態変化およびニューロン減少について有意な差が見られた(
図2のQ、BCCAO群CA1領域 0.328±0.048 vs. 疑似手術群CA1領域 0.025±0.003、P=0.005;BCCAO群CA1領域 vs. RP1.2+BCCAO群CA1領域 0.135±0.073、P=0.049;BCCAO群CA1領域 vs. RP12+BCCAO群CA1領域 0.017±0.003、P=0.004;
図2のR、BCCAO群CA1領域 63.25±3.92 vs. 疑似手術群CA1領域 102.75±1.831、P<0.001;BCCAO群CA1領域 vs. RP12+BCCAO群CA1領域 98±6.474、P=0.022)。このように、パルミチン酸レチノール処置によって虚血ニューロンは確実に減少した。パルミチン酸レチノール処置は、低用量および高用量ともに、虚血による形態変化を顕著に阻害した(
図2のA〜H、QおよびR)。これらの結果から、パルミチン酸レチノール処置によってマウス海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化が阻害されることが示された。
【0046】
[Notch1の発現および反応性アストロサイトはパルミチン酸レチノールによってほぼ抑制された]
虚血に対するパルミチン酸レチノールの作用の分子メカニズムを解明すべく、本発明者らは、アストロサイトおよびニューロンの分化に関与しているNotch1に着目し、その発現を脳組織における免疫組織化学によって確認した。
図3のBに示すように、BCCAO後の海馬組織では反応性アストロサイトの形成が顕著に観察された。同時に、海馬ニューロンにおける虚血性細胞ではNotch1が顕著に発現していた。疑似手術群では、Notch1の発現は非常に弱く観察されたのみである(
図3のA)。
図3のGに示すように、Notch1は虚血ニューロンに発現する。さらに、Notch1および反応性アストロサイトの発現はCA1領域において顕著に見られ、パルミチン酸レチノール処置群ではこれらの発現はいずれも弱かった(
図3のE、BCCAO群CA1領域 72±4.8 vs. 疑似手術群CA1領域 19±4.05、P<0.0001;BCCAO群CA1領域 vs. RP1.2+BCCAO群CA1領域 44±2.734、P=0.002;BCCAO群CA1領域vs. RP12+BCCAO群CA1領域 19.286±2.775、P<0.0001;
図3のF、BCCAO群CA1領域 25±4.7 vs. 疑似手術群CA1領域 1.57±0.782、P=0.002;BCCAO群CA1領域 vs. RP1.2+BCCAO群CA1領域 8.286±2.6、P=0.054;BCCAO群CA1領域 vs. RP12+BCCAO群CA1領域 3.714±1.304、P=0.006)。このような海馬ニューロンCA1領域における虚血性細胞変化に対するパルミチン酸レチノールの作用から、Notch1の発現が反応性アストロサイトに生じる虚血誘発性の細胞変化に密接に関連していることが示唆される。
【0047】
≪考察≫
上述した結果から、パルミチン酸レチノール処置によって虚血誘発性のニューロンの損傷およびNotch1の発現を低減させることができることが示された。局所的虚血では、血流の減少は閉塞動脈の領域の中央で最も重篤である(Astrup et al., Thresholds in cerebral ischemia. The ischemic penumbra. Stroke 1981;12:723-725)。10〜30分間の虚血でニューロン損傷が生じ(Inoue et al., Emphasized selective vulnerability after repeated nonlethal cerebral ischemic insults in rats. Stroke 1992;23:739-745)、脳虚血状態では海馬は低酸素症による細胞に特有の不可逆的形態変化を示し、虚血性細胞変化が進行することも報告されている(Brown and Brierly, Anoxic-ischemic cell change on rat brain. Light microscopic and fine structural observation. J. Neurol. Sci. 1972;16:59-84)。上述した結果から、再灌流の開始2日後に、虚血性細胞変化は海馬の特にCA1錐体ニューロンにおいてはっきりと確認されることが示された。よって、BCCAO技術を用いた本実験のモデルはマウスにおける虚血の研究に適したものであるといえる。
【0048】
また、上述した結果から、虚血性細胞変化はBCCAO後の海馬CA1錐体ニューロンにおけるNotch1の発現を伴うものであることも判明した。そして、この領域では反応性アストロサイトが強く観察された。ここで、Notch遺伝子はアストロサイトの分化を促進する一方でニューロンの分化を阻害することが報告されている(Grandbarbe et al., Delta-Notch signaling controls the generation of neurons/glia from neural stem cells in a stepwise process. Development 2003;130:1391-1402)。Notchは細胞表面の膜貫通受容体であり、細胞の相互作用を介して複数の重要な細胞機能を媒介している。リガンドがNotchに結合すると、Notchはその膜貫通ドメインの内部で開裂してNotch細胞内ドメイン(NICD)を放出し、次いでこれが核へ移行して遺伝子の発現を制御する(Lathia et al., Notch: from neural development to neurological disorders. J. Neurochem. 2008;107:1471-1481)。近年の研究から、Notchのシグナル伝達は脳卒中、アルツハイマー病、中枢神経系の腫瘍といった疾患を引き起こす病理学的変化に関与している可能性が示唆されている。Notchは虚血後のCA1領域においてアップレギュレートされ、虚血状態におけるニューロン中でのシグナル伝達がアポトーシスのシグナル伝達カスケードを強めている可能性もある(Oya et al., Attenuation of Notch signaling promotes the differentiation of neural progenitors into neurons in the hippocampal CA1 region after ischemic injury. Neuroscience 2009;158:683-692)。さらに、脳の虚血−再灌流の損傷がγ−セクレターゼを一時的に活性化し、これによってNotch1の開裂およびNICDレベルの上昇が引き起こされている可能性もある(Arumugam et al., Gamma secretase-mediated Notch signaling worsens brain damage and functional outcome in ischemic stroke. Nat. Med. 2006;12:621-623)。
【0049】
パルミチン酸レチノールは、ビタミンAサプリメントにおける酢酸レチノールの合成類縁体であり、分子量が小さいことから血液脳関門を通過することができる。このため、パルミチン酸レチノールはヒトにおけるビタミンA欠乏症の薬物治療に用いられている(Harris et al., Vitamin A deficiency and its effects on the eye. Int. Ophthalmol. Clin. 1998;38:55-61)。上述した結果から、BCCAOの直前にパルミチン酸レチノール処置を行うことでNotch1の発現を伴う海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化が抑制されることが示された。1.2mg/kgおよび12mg/kgのパルミチン酸レチノールを用いた処置により、CA1錐体ニューロンにおける虚血性細胞変化が有意に低減された。ヒトの生体内にビタミンAが蓄積すると、その脂溶性によってビタミンA過剰症が引き起こされるが(Astrup et al., 1981)、本実験の結果では従来用いられている一日量よりもずっと少ない量で良好な治療効果が得られている。抗酸化性の栄養剤としてはビタミンA、C、EおよびFが挙げられ、これらはフリーラジカルとして知られる不安定な分子によって引き起こされる損傷から細胞を保護する機能を有している。ここで、フリーラジカルは細胞の正常な機能における副産物である。細胞がエネルギーを産生するときには、不安定な酸素分子も産生するのである。フリーラジカルによる損傷は、脳虚血障害後の組織の崩壊を説明するための仮説における最初期のメカニズムの1つであった(Flamm et al., Free radicals in cerebral ischemia. Stroke 1978;9:445-447)。脳梗塞の治療戦略については、ニューロンの細胞死を抑制するための研究がなされているが、初期段階では、虚血誘発性のニューロン細胞死は細胞外のグルタミン酸による神経細胞毒性によって媒介される。パルミチン酸レチノールは、この初期段階における海馬ニューロンにおける虚血性細胞変化を阻害するための最も有効な治療法になりうるものと考えられる。