【課題を解決するための手段】
【0018】
摺動部材の被覆膜として硬質炭素膜の形成を行う場合、従来より、PVD法やCVD法などの気相成長法を用いて行われているが、その際、基材温度が高くなるとsp
3結合性炭素が生成しにくくなり耐摩耗性に劣る硬質炭素膜が形成されてしまうことと、基材の軟化を防ぐため、基材温度を200℃以下に制御して成膜を行っていた。
【0019】
しかし、本発明者が上記課題の解決について、種々の実験と検討を行うにあたって、上記した従来の概念にとらわれることなく、PVD法を用いて、基材温度を上げて硬質炭素膜の形成を行ったところ、基材温度を250℃以上、バイアス電圧を−275V以下にして硬質炭素膜を形成した場合、従来とは全く異なる構造の硬質炭素膜が形成されるという、発明者自身も驚く結果が得られた。
【0020】
具体的には、得られた硬質炭素膜の断面を明視野TEM(透過電子顕微鏡:Transmission Electron Microscope)像により観察したところ、基材に対して垂直な方向に柱状に結晶成長した硬質炭素層が形成されていることが分かった。
【0021】
そして、この柱状の硬質炭素膜の摺動特性を測定したところ、本来トレードオフの関係にある低摩擦性と耐摩耗性との両立が従来よりも遙かに改善されているだけでなく、耐チッピング性(耐欠損性)や耐剥離性も十分に改善されており、摺動性が必要とされる部材の表面に被覆させる硬質炭素膜として極めて好ましいことが分かった。
【0022】
このような効果が得られた理由は、以下のように考えられる。
【0023】
明視野TEM像において柱状の硬質炭素層は相対的に黒色の部分と相対的に白色の部分を有しているが、この柱状の硬質炭素層での白色と黒色は密度差ではなく、わずかな方位差を表していると思われる。即ち、柱状の硬質炭素層は(002)面を基材に平行とし、C軸が基材に垂直に成長した組織を有するが、柱状組織の1本1本が少しずつ回転した形で成長しており、明視野TEM像で色調差があるのは、この方位差が観察されているだけで、密度差を表しているものではないと考えられる。そして、この柱状の硬質炭素層は、電子線回折で全て回折スポットを有し、結晶質と考えられる。
【0024】
柱状の硬質炭素は、微細な粒径のまま厚み方向に成長しており、アスペクト比が大きい。アスペクト比の大きい微細な柱状組織は非常に強度に優れているため、低摩擦性だけでなく、耐チッピング性も向上させることができる。また、厚み方向に柱状化した硬質炭素組織は剥離に強いため、優れた耐剥離性を発揮することができる。さらに、微細に柱状化した硬質炭素は耐摩耗性に優れる。
【0025】
この結果、このような硬質炭素膜を摺動性が必要とされる部材の表面に被覆させた場合、従来の硬質炭素膜を被覆させた場合に比べて、低摩擦性、耐摩耗性、耐チッピング性、耐剥離性を大幅に上昇させることができる。
【0026】
なお、このように膜が基材に対して垂直な方向に柱状に成長した硬質炭素は、PVD法を用いて成膜することが好ましい。
【0027】
即ち、従来より、CVD法でも硬質炭素を成膜できることが知られていたが、CVD法の場合には、成膜温度が高いために、高密度の硬質炭素を形成させる成膜方法として好適とは言えず、本発明者は、検討の結果、PVD法を採用し、成膜温度を適切に制御することにより、上記のような構造の硬質炭素膜が形成されることを見出した。また、CVD法では水素を含むガス原料を用いるため、膜の硬度が低下しやすく油中での低摩擦性にも劣るが、PVD法ではカソードに固体の炭素原料を用いるため、水素や不純物金属を含まない高硬度で、油中での低摩擦性に優れる硬質炭素を成膜できるメリットがある。
【0028】
そして、この柱状の硬質炭素層をラマン分光法で測定したとき、ラマン分光スペクトルのDバンドとGバンドのピークの面積強度比であるID/IG比が大きすぎると耐摩耗性が低下しやすく、一方、ID/IG比が小さすぎると耐チッピング性向上効果が十分ではない。本発明者は検討の結果、好ましいID/IG比は1〜6であり、1.5〜5であると特に好ましいことを見出した。このような範囲に制御することにより、耐摩耗性と耐チッピング性を十分に両立させることができる。
【0029】
請求項1に記載の発明は、上記の知見に基づくものであり、
基材の表面に被覆され
、摺動部材に用いられる被覆膜であって、
断面を明視野TEM像により観察したとき基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素層が形成されており、
前記硬質炭素層をラマン分光法で測定したとき、ラマン分光スペクトルのDバンドとGバンドのピークの面積強度比であるID/IG比が1〜6であり、
柱状の前記硬質炭素層が
、非晶質硬質炭素とグラファイト結晶とからな
り、
前記グラファイト結晶のc面が、前記基材と平行方向に配向していることを特徴とする被覆膜である。
【0030】
請求項2に記載の発明は、
前記基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素の幅が、1〜500nmであることを特徴とする請求項1に記載の被覆膜である。
【0031】
基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素の幅(柱状を構成する硬質炭素の線幅)を細くすることにより、外部からの衝撃吸収能力を向上させることができる。また、硬質炭素の幅を細くすると組織が細かくなるため、耐摩耗性が向上する。この結果、耐チッピング性と耐摩耗性のバランスが優れた被覆膜を提供することができる。好ましい幅は、1〜500nmであり、特に3〜60nmであることが好ましい。
【0032】
請求項3に記載の発明は、
前記基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素が、被覆膜断面の電子線回折で回折スポットを示すことを特徴とする請求項1または請求項2に記載の被覆膜である。
【0033】
基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素が被覆膜断面の電子線回折で回折スポットを有し結晶質であるため、繰り返し応力や正負の応力が負荷された場合の耐チッピング性が向上し、耐摩耗性が向上する。そして、そのアスペクト比は2〜300であることが好ましい。
【0034】
請求項4に記載の発明は、
前記基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素が、被覆膜断面の電子線回折で格子間隔0.3〜0.4nmの位置に回折スポットを示すことを特徴とする請求項1ないし請求項3のいずれか1項に記載の被覆膜である。
【0035】
基材に対して垂直な被覆膜断面における電子線回折で0.3〜0.4nmの位置に回折スポットを示す硬質炭素の場合には、グラファイトやグラフェンのC面、(002)面が積層するように配向するため、潤滑性が向上して好ましい。また、(002)面が積層することで、柱状の硬質炭素層の厚み方向の導電性は低いものとなり、厚み方向に垂直方向の導電性も細かい結晶粒子の柱状化により多数の結晶粒界を有することになるため、二端子法で測定すると、導電体上に被覆した場合でも、1〜1000Ω・cmの電気抵抗を示す。
【0036】
請求項5に記載の発明は、
柱状の前記硬質炭素層の水素含有量が、10原子%以下であることを特徴とする請求項1ないし請求項4のいずれか1項に記載の被覆膜である。
【0037】
水素含有量が多い硬質炭素層は、油中での摩擦低減効果が水素を含まない場合に比べて小さく、また、硬度も低下しやすいため、耐摩耗性が低下しやすい。水素含有量が10原子%以下の場合、硬質炭素層が全体に高硬度となるため、耐摩耗性を向上させることができる。5原子%以下であると特に好ましい。さらに、水素以外に窒素(N)や硼素(B)、珪素(Si)、その他の金属元素については不可避不純物を除き、含まないことが好ましい。
【0038】
請求項6に記載の発明は、
柱状の前記硬質炭素層のナノインデンテーション硬度が、10〜35GPaであることを特徴とする請求項1ないし請求項5のいずれか1項に記載の被覆膜である。
【0039】
ナノインデンテーション硬度が大きすぎると、耐チッピング性が低下しやすい。一方、ナノインデンテーション硬度が小さすぎると、耐摩耗性が不足しやすい。特に好ましいナノインデンテーション硬度は15〜30GPaであり、特に、耐チッピング性を効果的に向上させることができる。
【0040】
請求項7に記載の発明は、
前記基材に対して垂直な方向に柱状に連なっている硬質炭素のsp
2/sp
3比が、0.3〜0.9であることを特徴とする請求項1ないし請求項6のいずれか1項に記載の被覆膜である。
【0041】
sp
2/sp
3比が小さすぎると、耐チッピング性向上効果が十分ではない。一方、sp
2/sp
3比が大きすぎると、耐摩耗性が大きく低下する。好ましいsp
2/sp
3比は0.3〜0.9、より好ましくは0.4〜0.8であり、このような範囲に制御することにより、耐チッピング性と耐摩耗性を十分に両立させることができる。また、高荷重や繰り返し荷重を受けた際にも被覆膜が破壊しにくい。
【0042】
請求項8に記載の発明は、
柱状の前記硬質炭素層の下層に、さらに、柱状ではない硬質炭素層を有しており、
前記下層の硬質炭素層のsp
2/sp
3比が0.1〜0.3であることを特徴とする請求項1ないし請求項7のいずれか1項に記載の被覆膜である。
【0043】
柱状の硬質炭素層の下層に存在する柱状でない硬質炭素層は、柱状の硬質炭素層よりもsp
3結合成分を多く含むため、より高密度で耐摩耗性に優れており、特に、sp
2/sp
3比を0.1〜0.3、特に、0.15〜0.3の範囲に制御することにより、耐摩耗性を十分に向上させることができる。
【0044】
そして、このような硬質炭素層を下層として、耐チッピング性に優れた柱状の硬質炭素層を積層して2層構造の被覆膜とすることにより、さらに優れた耐チッピング性と優れた耐摩耗性とを両立させた被覆膜を提供することができる。
【0045】
請求項9に記載の発明は、
前記下層の硬質炭素層は、ナノインデンテーション硬度が35〜80GPaであることを特徴とする請求項8に記載の被覆膜である。
【0046】
下層の硬質炭素層のナノインデンテーション硬度が35〜80GPaであると、被覆膜の耐摩耗性をより一層向上させることができるため好ましい。
【0047】
請求項10に記載の発明は、
アーク式PVD法を用いて、
前記基材温度が250〜400℃に維持されるように、バイアス電圧、アーク電流、ヒーター温度および/または炉内圧力を制御すると共に、
前記基材を自転および/または公転させながら、前記基材の表面に前記硬質炭素膜を被覆することにより、
請求項1ないし請求項9のいずれか1項に記載の被覆膜を製造することを特徴とする被覆膜の製造方法である。
【0048】
アーク式PVD法は、イオン化率が高い活性なカーボン粒子を生成させて被覆させることが可能な成膜法であり、バイアス電圧やアーク電流、ヒーター温度、炉内圧力などを最適化することによって、活性なカーボン粒子から白色の硬質炭素を生成させて、これを成長起点として柱状の硬質炭素層を形成させることができる。
【0049】
請求項11に記載の発明は、
前記バイアス電圧が−275〜−400Vであることを特徴とする請求項10に記載の被覆膜の製造方法である。
【0050】
上記した各パラメータの最適化に当って、特に重要なパラメータは、バイアス電圧、アーク電流、ヒーターによって制御される基材温度である。
【0051】
即ち、バイアス電圧が−275Vを超えると柱状の硬質炭素層を形成することが難しく、−400V未満の場合には柱状の硬質炭素層の耐摩耗性が低下しやすい。
【0052】
そして、アーク電流が10A未満であると放電が難しく、200Aを超える場合には耐摩耗性が低下しやすい。
【0053】
また、基材温度が低すぎると柱状の硬質炭素を形成することが難しく、高すぎると柱状の硬質炭素の耐摩耗性が低下しやすい。好ましい基材温度は250〜400℃であり、250〜350℃であると特に好ましい。
【0054】
請求項12に記載の発明は、
請求項10または請求項11に記載の被覆膜の製造方法に用いられるPVD装置であって、
前記基材の温度を250〜400℃に制御する制御手段が備えられたアーク式PVD装置であることを特徴とするPVD装置である。
【0055】
アーク式PVD法を用いて硬質炭素を形成する場合、アーク式PVD装置のバイアス電圧によっては基材温度が250℃に到達しなかったり、成膜中に基材温度が400℃を超えたりするケースが生じることがあり、上記のような構造の被覆膜が形成されない恐れがある。
【0056】
このため、本発明に係るアーク式PVD装置においては、基材温度が250〜400℃となるように制御することができる制御手段を設けて、基材を適切な温度で均一に加熱することを行っている。
【0057】
具体的な制御手段としては、基材を均一に加熱するためのヒーターを設ける方法や、基材をセットする冶具に冷却機構を導入する方法、また、熱電対でモニターした基材温度を基にバイアス電圧やアーク電流を自動制御する方法などを挙げることができる。
【0058】
請求項13に記載の発明は、
前記基材を自公転自在に支持する基材支持手段と、
前記基材の自転および/または公転の回転速度を制御する回転制御手段と
を備えていることを特徴とする請求項12に記載のPVD装置である。
【0059】
基材を自公転自在に支持して、その自公転を制御することにより、一層、基材を均一に加熱することができる。