(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6765668
(24)【登録日】2020年9月18日
(45)【発行日】2020年10月7日
(54)【発明の名称】摩擦力制御方法及び摩擦力制御装置
(51)【国際特許分類】
B81B 5/00 20060101AFI20200928BHJP
G01Q 60/26 20100101ALI20200928BHJP
【FI】
B81B5/00
G01Q60/26
【請求項の数】16
【全頁数】12
(21)【出願番号】特願2016-138964(P2016-138964)
(22)【出願日】2016年7月13日
(65)【公開番号】特開2018-8349(P2018-8349A)
(43)【公開日】2018年1月18日
【審査請求日】2019年6月18日
(73)【特許権者】
【識別番号】301023238
【氏名又は名称】国立研究開発法人物質・材料研究機構
(72)【発明者】
【氏名】佐々木 道子
(72)【発明者】
【氏名】後藤 真宏
(72)【発明者】
【氏名】徐 一斌
【審査官】
永井 友子
(56)【参考文献】
【文献】
特開2009−144786(JP,A)
【文献】
特表2009−505084(JP,A)
【文献】
特開平11−142105(JP,A)
【文献】
特開2004−020516(JP,A)
【文献】
特表2005−510698(JP,A)
【文献】
特開2005−265435(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
B81B 5/00
G01Q 60/26
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
第1の物体と、
前記第1の物体の表面と摺動する表面を有する第2の物体と、
前記第1の物体の表面と前記第2の物体の表面の少なくとも一方が光によって励起されて電子状態が変化する分子を有し、
前記光によって励起されて電子状態が変化する分子を有する面を2×10−4Pa以下の圧力の真空中において光照射を行うことでその摩擦力を変化させる、
摩擦力制御方法。
【請求項2】
前記光はレーザー光またはLED光である、請求項1に記載の摩擦力制御方法。
【請求項3】
前記分子は、クマリン、クマリン誘導体、フタロシアニン、フタロシアニン誘導体、ポルフィリン、ポルフィリン誘導体、アントラセン、アントラセン誘導体、ピレン、ピレン誘導体、ペリレン、ペリレン誘導体、ペンタセン、ペンタセン誘導体、フルオレセイン、フルオレセイン誘導体、CdTe、CdSe、ZnS及びCdSからなる群から選択された少なくとも一種類の分子である、請求項1または2に記載の摩擦力制御方法。
【請求項4】
前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は前記照射される光を透過し、
前記光照射は前記光を透過する物体を介して行われる、
請求項1から3の何れかに記載の摩擦力制御方法。
【請求項5】
第1の物体と、
前記第1の物体と接触し得る第2の物体と、
前記第1の物体と前記第2の物体との接触面に光を選択的に照射する光源と、
前記接触面を2×10−4Pa以下の圧力の真空状態とする手段と
を設けるとともに、
前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方の前記接触面に、前記光源から照射される光によって励起されて電子状態が変化する分子を設けた、
前記真空状態において二つの物体の間の摩擦力を制御する摩擦力制御装置。
【請求項6】
前記光源はレーザーまたはLEDである、請求項5に記載の摩擦力制御装置。
【請求項7】
前記分子は、クマリン、フタロシアニン、ポルフィリン、アントラセン、ピレン、ペリレン、ペンタセン、フロレッセイン、CdTe、CdSe、ZnS及びCdSからなる群から選択された少なくとも一種類の分子である、請求項5または6に記載の摩擦力制御装置。
【請求項8】
前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は前記照射される光を透過し、
前記光源は前記光を透過する物体を介して前記接触面を照射する、
請求項5から7の何れかに記載の摩擦力制御装置。
【請求項9】
前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は回転部材である、請求項5から8の何れかに記載の摩擦力制御装置。
【請求項10】
前記第1の物体の表面の少なくとも一部の領域に前記分子が設けられ、
前記領域中の前記第1の物体と前記第2の物体とが現在接触している前記接触面を少なくとも含む部分に不均一な光照射を行うことで、前記部分内の摩擦力を不均一化する、
請求項5から9の何れかに記載の摩擦力制御装置。
【請求項11】
少なくとも前記接触面内で前記不均一な光照射を行う、請求項10に記載の摩擦力制御装置。
【請求項12】
前記部分は前記接触面の隣接領域を含む、請求項10または11に記載の摩擦力制御装置。
【請求項13】
請求項5から12の何れかに記載の摩擦力制御装置を含むマイクロマシン。
【請求項14】
第1の物体と、
前記第1の物体の表面と摺動する表面を有する第2の物体と、
前記第1の物体の表面が光によって励起されて電子状態が変化する同定対象の分子を有し、
前記同定対象の分子を有する前記第1の物体の表面を2×10−4Pa以下の圧力の真空中において波長可変のレーザー光を照射しながら測定した前記第2の物体との摩擦力に基づいて前記分子を同定する、
分子同定方法。
【請求項15】
前記第1の物体の表面と摺動する前記第2の物体の表面は第2の物体とナノメートルサイズの領域で接触する、請求項14に記載の分子同定方法。
【請求項16】
前記摩擦力と前記同定対象の分子を有する前記第1の物体の表面に照射を行わずに測定した未照射時の摩擦力とに基づいて前記分子を同定する、請求項14または15に記載の分子同定方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は摩擦力の制御に関し、特に光照射によって摩擦力を変化させる方法及び装置に関する。
【背景技術】
【0002】
mmオーダー以下のサイズを有する超小型機械であるマイクロマシン(MEMS)に関する研究分野では、ナノオーダーで摩擦力の制御を行うことに対し、大きな関心が持たれている(非特許文献1〜4)。MEMSの性能を変えるためには、MEMSのマイクロコンポーネント間の摩擦力もしくは接着力の相互作用をナノスケールで変える必要がある。例えば、ダイヤモンドライクカーボン(DLC)(非特許文献5)、自己組織化単分子(SAM)(非特許文献6)、生体模倣プロセス(非特許文献7)、湿度制御(非特許文献8)などのコーティングによる表面改質方法が、摩擦力および密着力を変えることに用いられている。また、Liangらは、ナノスケールオーダーの固体潤滑材として厚さの制御可能なフッ素含有有機膜で覆われたシリコン(Si)の摩擦力や摩耗寿命に関して報告している(非特許文献9)。
【0003】
しかしながら、それらの方法を用いて、コンポーネント間の界面の摩擦特性を人為的に短い応答時間で繰り返し制御することは困難である。もし、これが可能になればマイクロマシンの運動が外部から制御できることになり、新たな可能性が広がる。
【0004】
ナノスケールオーダーで摩擦力を制御するための方法の一つは、光照射により表面との接着力を変えることである。2013年に後藤らは、水中環境下において、ピレン分子コーティングした窒化ケイ素カンチレバーとサファイア基板との間の摩擦力を、光照射することにより減少させることに成功した(非特許文献10)。ただし、この方法では、光照射直後に摩擦力の減少は生じたが、いったん減少した摩擦力は光照射をオフにした後でも直ぐには元に戻らず、時間をかけてゆっくり回復した。しかしながら、リアルタイムでMEMSの運動を制御するためには、摩擦力変化の応答速度が高いことが望まれる。
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
本発明の課題は、ナノスケールオーダーに至るまでの微小領域の摩擦力を、制御信号として与えられる光照射の変化に高速で追随して制御することにある。
【課題を解決するための手段】
【0006】
本発明の一側面によれば、第1の物体と、前記第1の物体の表面と摺動する表面を有する第2の物体と、前記第1の物体の表面と前記第2の物体の表面の少なくとも一方が光によって励起されて電子状態が変化する分子を有し、前記光によって励起されて電子状態が変化する分子を有する面を真空中において光照射を行うことでその摩擦力を変化させる、
摩擦力制御方法が与えられる。
ここで、前記光はレーザー光またはLED光であってよい。
また、前記分子は、クマリン、クマリン誘導体、フタロシアニン、フタロシアニン誘導体、ポルフィリン、ポルフィリン誘導体、アントラセン、アントラセン誘導体、ピレン、ピレン誘導体、ペリレン、ペリレン誘導体、ペンタセン、ペンタセン誘導体、フルオレセイン、フルオレセイン誘導体、CdTe、CdSe、ZnS及びCdSからなる群から選択された少なくとも一種類の分子であってよい。
また、前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は前記照射される光を透過し、前記光照射は前記光を透過する物体を介して行われてよい。
本発明の他の側面によれば、第1の物体と、前記第1の物体と接触し得る第2の物体と、前記第1の物体と前記第2の物体との接触面に光を選択的に照射する光源と
を設けるとともに、前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方の前記接触面に、前記光源から照射される光によって励起されて電子状態が変化する分子を設けた、二つの物体の間の摩擦力を制御する摩擦力制御装置が与えられる。
ここで、前記光源はレーザーまたはLEDであってよい。
また、前記分子は、クマリン、フタロシアニン、ポルフィリン、アントラセン、ピレン、ペリレン、ペンタセン、フロレッセイン、CdTe、CdSe、ZnS及びCdSからなる群から選択された少なくとも一種類の分子であってよい。
また、前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は前記照射される光を透過し、前記光源は前記光を透過する物体を介して前記接触面を照射してよい。
また、前記第1の物体と前記第2の物体の少なくとも一方は回転部材であってよい。
また、前記第1の物体の表面の少なくとも一部の領域に前記分子が設けられ、前記領域中の前記第1の部材と前記第2の部材とが現在接触している前記接触面を少なくとも含む部分に不均一な光照射を行うことで、前記部分内の摩擦力を不均一化してよい。
また、少なくとも前記接触面内で前記不均一な光照射を行ってよい。
また、前記部分は前記接触面の隣接領域であって、少なくとも前記隣接領域の一部に前記不均一な光照射を行ってよい。
本発明の更に他の側面によれば、前記何れかの摩擦力制御装置を含むマイクロマシンが与えられる。
本発明の更に他の側面によれば、第1の物体と、前記第1の物体の表面と摺動する表面を有する第2の物体と、前記第1の物体の表面が光によって励起されて電子状態が変化する同定対象の分子を有し、前記同定対象の面を真空中において波長可変のレーザー光を照射しながら測定した前記第2の物体との摩擦力に基づいて前記分子を同定する、分子同定方法が与えられる。
ここで、前記第1の物体の表面と摺動する前記第2の物体の表面は第2の物体とナノメートルサイズの領域で接触してよい。
また、更に前記前記照射を行わずに測定した前記摩擦力に基づいて前記分子を同定してよい。
【発明の効果】
【0007】
本発明により、光照射という遠隔的、非接触的な操作によって摩擦力を可逆的にしかも高速で制御することができる。
【図面の簡単な説明】
【0008】
【
図1】光照射により摩擦力を変化させるとともに、当該変化を測定するための装置構成を示す概念図。
【
図2】(a)コーティングしていないカンチレバーを使用した場合の光照射前、光照射中及び光照射後のLFM信号強度を示す図。(b)クマリン6でコーティングしたカンチレバーを使用した場合の光照射前、光照射中及び光照射後のLFM信号強度を示す図。
【
図3】コーティングしていないカンチレバーを使用して、カンチレバーにかける負荷を変化させた場合の光照射前、光照射中及び光照射後のLFM信号強度を示す図。
【
図4】クマリン6でコーティングしたカンチレバーを使用して、カンチレバーにかける負荷を変化させた場合の光照射前、光照射中及び光照射後のLFM信号強度を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0009】
本願発明者は、真空中で摺動し得る2つの物体のうちの少なくとも一方の表面に、光によって励起されて電子状態が変化する分子をコーティング等することで設けることで、摺動時にレーザー等の光を照射した場合と照射しなかった場合とで、当該摺動面の摩擦力が異なることを見出した。なお、真空中で光照射を行うのは、大気中や液中では水等の分子が介在するために、電子励起状態の相互作用変化だけではなく、それに伴う液体の反応が関与することになり、すばやい応答ができなくなるからである。本願発明者は、上記知見に基づいて本願発明を完成させるに至った。
【0010】
この摩擦力変化については、充分長期間光照射を行っていなかった摺動面の摩擦力(以下、初期摩擦力とも称する)から光照射を受けて変化した摩擦力(以下、励起摩擦力とも称する)へ、また光照射を打ち切ることによる励起摩擦力から初期摩擦力への変化の何れも極めて早いことがわかった。このように摩擦力変化の時定数が小さくまた光の照射開始の際の時定数と照射打ち切りの際の時定数の差が小さいことは、この摩擦力変化現象を応用するに当たって非常に好都合である。このような応用としては、特にこれに制限する意図はないが、非限定的に例示すれば、マイクロマシンにおいて小型のギアなどのパーツを回転させる場合に、その回転速度を光のオン・オフのみで制御できるようになる。
【0011】
あるいは面上を部材が摺動しながら移動するという構造において、当該面に光によって励起されて電子状態が変化する分子をコーティング等することによりその面内の摩擦力を光照射で制御できるようにしておけば、摺動面上だけでなく、摺動部材の現在位置の周囲の領域上で光ビームを高速で走査する等の処理を行うことで、摺動面及びこの領域上を不均一に照射して、摺動面及びこの領域に不均一な摩擦力(つまり摩擦係数)の分布を動的に形成することができる。この分布を、例えば低摩擦力の経路の両側が高摩擦領域で囲まれた形状の分布とすれば、摺動部材にある方向の力及び/または振動を与えることで、摺動部材が、摩擦力を制御できる面上に光照射によって上記動的に描かれた経路に沿って移動するように導くことができる。
【0012】
更には、経路の両側を囲む代わりに、摩擦力が相対的に大きな領域を設けることで、摺動部材がその領域を避けて移動するようにもできる。もちろん、このような経路や領域を摺動が起こる面全体に形成しておく必要はなく、各時点で実際にこのような摺動が起こっているごく狭い範囲内だけに動的に形成すればよい。また、以下で説明する実施例のように、この分子が面上ではなく、摺動する部材の先端部のような狭い領域にコーティングされている場合であっても、同じような手法によりこの部材の移動を制御できる。具体的には、例えば先端部の小さな摺動領域(あるいは更にその周辺の近傍領域も)に不均一な光照射を行うことでこの領域内の摩擦力が不均一化されている状態で摺動部材に力及び/または振動を与えることにより、先端部のうちで摩擦力が相対的に小さい方へ向かって摺動部材を導くことができる。このようにして、本発明を用いることにより、面上での摺動部材の動的な位置制御や移動経路制御を簡単に実現することができる。
【0013】
なお、ここで不均一に光照射するとは、対象としている範囲内の一部だけに光照射を行い、範囲内の残りの箇所には光を全く照射しない場合と、範囲内の残りの箇所にも異なる強さで光照射を行う場合の両方を意味することに注意する必要がある。
【0014】
更に別の応用として、本発明に基づいて分子同定を行うことができる。ごく最近、試料をカンチレバーとともにレーザーで光励起して、両者の間の相互作用の変化から試料の分子を同定する方法が見いだされた(非特許文献11)。非特許文献11ではレーザー光の波長を変化させて相互作用を変化させ、これをAFMのノンコンタクトモードで観測することで、分子の同定を行う方法が見いだされた。本発明を応用すれば、上記情報の最終段階であるAFMによる観測に代えて、相互作用の変化を摩擦力の測定によって検出することで、分子の同定を行うことができる。
【0015】
具体的には、レーザー光による分子の電子励起により、分子の電子分布状態が変化する。この電子分布の状態は、分子に固有のものであり、いわば分子同定のための指紋となる。もちろん、レーザー光の未照射状態の分子も、それ特有のナノトライボロジー特性(本発明の場合で言えば、上述のようにして測定された摩擦力)を有してはいるが、そのナノレベルの摩擦力の違いから分子種を判断できるほどの正確な情報を得ることは困難であった。そこで、前述のレーザー光による電子励起状態のナノトライボロジー特性と合わせて評価することにより、分子種の位置選択的な同定を行うことができる。
【0016】
これに対して、上でも言及した非特許文献10で報告されている摩擦力変化では、光照射を打ち切った時の摩擦力の変化時間が光照射を開始した場合の摩擦力の変化時間に比べて非常に長くなるため、例えばMEMSの機械的動作を摩擦力変化によって制御しようとする場合に高速制御の妨げになり、その応用が制限されてしまう。
【0017】
また、本発明では光照射に当たって、摺動面を真空状態とするため、特定の液体や気体は摺動面に存在しない。このため、本発明の摩擦力制御を利用した装置の構造が簡単になる。また、使用を継続した際の液体や気体の交換や補充も当然不要であるため、装置の保守が簡易化される。
【0018】
本発明の一態様では、摩擦力を制御したい領域にレーザー光等の光を照射しながら摺動させる。光の照射を打ち切ると摩擦力は短時間で初期摩擦力に復帰するため、通常は、摺動している間、この摺動面に光照射を継続することになる。摺動面へ光を照射するためには、例えば摺動面で接触している二つの部材の一方を透明とし、この透明部材を通して摺動面にある光照射で摩擦力の変化する分子へ光を到達させることができる。以下で説明する実施例では、先端にクマリン6をコーティングしたカンチレバーを透明なサファイア基板上で摺動させながら、サファイア基板の裏面からこの摺動が起こっている個所へ向けてレーザーを照射することで、摩擦力の制御を行なった。
【0019】
なお、ここで透明というのは摺動面に必要とされる光を到達させることができる程度に光を通すということであるので、必ずしも完全に透明でなくてもよいことに注意されたい。また、摺動面に必要な光を供給することができる手段であれば、上述した構成以外を採用することもできる。また、光源はレーザーに限定されるものではなく、LED等の他の光源を使用することもできる。
【0020】
また、上の説明や実施例では、先端が極めて細いカンチレバー先端を平面上で摺動させ、また光によって励起されて電子状態が変化する分子(実施例ではクマリン6)はカンチレバー先端にコーティングした。この構成としたのは、極細のカンチレバー先端にこの分子をコーティングした方が平面上の広い領域にコーティングした場合に比べて摺動する領域内でのコーティングむらが少なくなり、またサファイア基板の裏面を介してカンチレバー表面を光照射する方がこの分子の層の表面に確実に光照射することができるなどの実験の都合によるだけであり、この構成は本発明の必須の条件ではない。水平力顕微鏡で使用されるカンチレバー先端よりもはるかに曲率半径の大きな部材を摺動させてもよいし、また摺動する相手側部材表面も必ずしも平面でなくてもよい。また、光によって励起されて電子状態が変化する分子を設置する部材は、鋭い先端部を有している側ではなく、平面等の曲率半径が大きな方の部材であってもよい。なお、平面や曲率半径の大きな面上にこの分子をコーティング等によって設置する際には、その均一性が高いことが望ましい。
【0021】
また、光によって励起されて電子状態が変化する分子は、光照射によって分解されにくいものであることが好ましい。実施例で使用されるクマリン6はレーザー色素として使用されるものであって、光に対する耐久性が高いため、本発明で好適に使用することができる。本発明に好適なこの種の分子はクマリン6に限定されるものではなく、例としてクマリン及びその誘導体、フタロシアニン及びその誘導体、ポルフィリン及びその誘導体、アントラセン及びその誘導体、ピレン及びその誘導体、ペリレン及びその誘導体、ペンタセン及びその誘導体、フルオレセイン及びその誘導体を挙げることができる。更に、無機ナノ粒子であるCdTe、CdSe、ZnS、CdS等も使用することができる。なお、本発明は光による電子状態の励起を利用しているため、この現象を発現させるためのフォトンのエネルギーには分子毎に決まる下限が存在するが、これよりもエネルギーが小さい場合であっても非常に強い光を照射すると多光子吸収が生じて分子が励起されることがある。
【0022】
また、以下の実施例ではナノメートルスケールで摩擦力測定を行ったが、本発明の摩擦力制御の対象となる領域の大きさには原理的には制限がない。例えば、マイクロマシン等には数十〜数百ミクロンレベルのものがある。本発明を利用することで、これらの駆動部の全体あるいは一部に光を照射してその摩擦力を制御することで、マイクロマシンの各種の動作を制御することが可能である。その用途によって絞る光ビームのスポットサイズが決定される。例えば、レーザービームスポットは、原理的には波長程度までは容易に絞ることが可能である。あるいは必要に応じて通常のマイクロマシンのサイズよりも大きな領域における摩擦力制御を行なってもよい。
【0023】
また、摩擦力には動摩擦力と静止摩擦力とがあるが、本発明はこれら二種類の摩擦力の両方を制御できることに注意されたい。
【実施例】
【0024】
以下、実施例に基づいて本発明を説明する。当然のことではあるが、この実施例は本発明の理解を助けるためのものであって、本発明をこれに限定する意図はないことに注意すべきである。
【0025】
本実施例では、
図1に示すように、水平力顕微鏡(LFM)のカンチレバーの先端部にクマリン6(C6)をコーティングし、このカンチレバーを用いてLFMによる通常の摩擦力測定を行った。具体的にはカンチレバーをサファイア基板上でカンチレバーの長軸と直角な方向に摺動させた。この摺動によりカンチレバー先端とサファイア基板表面との間に摩擦力が発生し、カンチレバーがその長軸の周りで捩れる。この捩れは、
図1に示すようにLFM内に設けられたレーザーからミラーを介してカンチレバーの上側表面に照射された光の反射方向の変化を引き起こす。従って、この反射光をミラーを介して位置検出素子(PSD)に導入することで、捩れの大きさがわかる。カンチレバーの力学的なパラメータが既知であれば、捩れ量から摩擦力を求めることができる。このような摩擦力を測定するための構成及び動作はLFMの通常の構成及び動作そのものであって当業者には周知であるので、これ以上の説明は省略する。
【0026】
本実施例では、
図1右側に示す別のレーザーからのレーザー光をサファイア基板の背面(
図1ではサファイア基板の下側の面)からカンチレバー先端に照射することで、カンチレバー先端とサファイア基板表面との間の摩擦力を制御した。このレーザー光のオン/オフによる摩擦力の変化を、上述した構成・動作により測定した。また、比較のため、C6コーティングを行っていない通常のカンチレバーを使用して同じ測定を行った。
【0027】
以下で、実際に行った摩擦力制御及びその測定を更に具体的に説明する。
【0028】
ナノスケールオーダーで摩擦力を制御できることを実証するため、LFMを用いて摩擦力を測定し、真空環境下においてレーザー光照射をON/OFFをしながら評価を行った。ナノスケール領域での摩擦力測定は、原子間力顕微鏡(AFM)のLFMモードを使用して行った。使用装置はSII製の環境制御型走査型プローブ顕微鏡E-sweepであった。試料基板には単結晶サファイアを用い、相手材にはSiカンチレバー(SII製SI−DF3)を用いた。なお、AFM等に使用されるカンチレバー先端の曲率半径は10〜20nmである場合が多いことから、カンチレバーの先端ともう一方の物体とが接触して摺動する場合の接触領域の大きさについては、上記もう一方の物体が大きく変形しない限り、通常はカンチレバー先端の曲率半径範囲と同じく半径が10〜20nm程度の領域となる。
【0029】
図1に示す概略構成により、光照射下でのLFM観察を行った。クロロホルムにクマリン6(Sigma-Aldrich製、純度99%以上)を溶解させたものにSiカンチレバーの先端部を浸漬し、引き揚げて乾燥させることにより、Siカンチレバー先端部表面にクマリン6分子を修飾させた。
【0030】
サンプルを照射するために使用したレーザー光は、
図1右下に図示したレーザーから、NDフィルター、ビームエキスパンダー、アイリス絞り、ミラーを介してチャンバーの右下隅付近に設けられた側面ビューポートから導入し、試料ホルダブロックの下部に設置された小さなミラーを使用してサファイア基板の背面から導入した。このレーザーとして、波長405nmの青色レーザー(RGBLase LLC., FBB-405-200-FS-C-1-0)を使用した。環境制御用の真空チャンバーの到達圧力は、2×10
−4Pa以下とした。
【0031】
摩擦力測定条件としては、カンチレバーの走査周波数は0.2Hz(一定)、走査距離10μm、往復1回、光照射なし−光照射あり−光照射なしをワンセットとし、荷重10〜13nNで測定を行った。つまり、片道2.5秒の走査を一往復させた後、光照射なし/ありを切り替え、都合三往復の走査を行った。ワンセットの走査動作の最初と最後の両方で光照射なしの走査を行ったのは、光照射を止めることによって最初の光照射なしの摩擦力に復帰するか否かを確認するためである。ここで、走査速度は一定とし、ワンセットの操作を行っている間には走査の休止は行わなかった。なお、動摩擦力のみ評価対象とするため、走査行程の始端及び終端である前後2μmのデータは評価には用いないこととした。もちろん、本発明によって静止摩擦力も同様に制御することができる。しかし、静止摩擦力は非線形性が大きく、光による静止摩擦力への影響を定量的に評価するのは困難であることから、ここでは動摩擦力だけを測定した。
【0032】
図2には、荷重10nNのときの摩擦力に与える光照射の影響を示す。(a)は未コーティングのSiカンチレバーを使用した場合の摩擦力を示し、また(b)にはC6をコーティングしたSiカンチレバーの摩擦力を示す。未コーティングSiカンチレバーの摩擦力と比べて、C6をコーティングした場合の摩擦力は相対的に小さくなっている。これは、C6分子をコーティングすることによりサファイア基板との相互作用が小さくなり、摩擦力が相対的に下がったと考えられる。
図2(a)の結果より、未コーティングのSiカンチレバーでは、レーザー光照射前、照射中及び照射後の摩擦力の間には違いがみられなかった。一方、C6をコーティングしたカンチレバーを使用した
図2(b)の結果から、レーザー光照射前と照射後の摩擦力は同程度の値を示しているが、レーザー光を照射している間の摩擦力は高くなっている。
【0033】
更に、摩擦力の荷重依存性を調べた。
図3は未コーティングのSiカンチレバーにおける摩擦力の荷重依存性を示す。また、C6をコーティングしたカンチレバーでの結果を
図4に示す。C6コーティングを行うことにより、レーザー光照射前と照射後の摩擦力は荷重を変化させてもほぼ同じ値を示すが、光の照射中は、各荷重下での摩擦力は未照射時と比べ1.1〜1.25倍になることが明らかとなった。光照射前と光照射中の摩擦係数が違う原因は、レーザー光照射によりC6分子が光励起させられ、電子状態が変化することにより、基板を構成するサファイアとの相互作用が変わったことに起因すると考えられる。
【0034】
更に、光照射のオン/オフを行った際の摩擦力変化に要する時間の測定も行った。光による励起は一般にフェムト秒〜ピコ秒という極めて短い時間スケールで起こる現象であり、この励起により直接的に引き起こされる摩擦力変化もこの時間スケールで起こるものと考えられるが、短時間での摩擦力変化の時定数を実際に測定することはかなりの困難を伴う。今回の測定では上で説明した摩擦力測定と同等の構成の測定系を使用したが、測定系中の機械要素及び電気回路の時間遅れや、更には光のオン/オフのためのシャッター操作に手作業が介在していたこと等、測定にかなりの時間遅れや遷移時間が導入されたため、摩擦力変化に要する時間だけを正確に測定することはできなかった。それでも、これらの各種の遅れを全て含んだ形での摩擦力変化の未補償の応答時間(光オン/オフから摩擦力変化が完了するまでの時間)は30ミリ秒以下であるという結果が得られた。ここで測定中に導入された各種の遅れを検討するに、30ミリ秒という測定値の大部分はこれらの遅れによるものと見積もられるので、真の応答時間は30ミリ秒以下という未補償の測定値に比べて非常に短いと判断される。
【産業上の利用可能性】
【0035】
以上、詳細に説明したように、本発明によれば、光照射という遠隔的、非接触的な操作によって摩擦力の高速制御を行なうことが可能となる。これによって、光照射が可能である限り、各種の素子や装置中の任意の領域の摩擦力の大小を制御することができるので、例えばMEMS中の機械的動作を行う部材の運動、停止、また運動の軌道等の制御を容易に行うことができるようになるなど、産業上大いに利用することが可能である。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0036】
【非特許文献1】W. S. Trimmer (ed.): Micromachines and MEMS, Classic and Seminal Papers to 1990 (IEEE, Press, New York, 1997).
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【非特許文献3】B. Bhushan (ed.) : Tribology Issues and Opportunities in MEMS (Kluwer Academic, Dordrecht, Netherlands, 1998).
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【非特許文献8】A simple method to control nanotribology behaviors of monocrystalline silicon, X. D. Wang, J. Guo, C. Chen, L. Chen, and L. M. Qian Citation: Journal of Applied Physics 119, 044304 (2016); doi: 10.1063/1.4940882.
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【非特許文献11】http://molecularvista.com/technology/pifm/