【実施例】
【0035】
以下、実施例を示し、本発明をより具体的に説明する。
【0036】
参考例
1)試験物質
フェニルエチルアルコール(PEA)(2−Phenylethanol;Sigma−Aldrich社)
ヘキシルシンナムアルデヒド(HCA)(2−(phenylmethylidene)octanal)(花王株式会社)
l−アルギニン(Wako社)
d−アルギニン(東京化成工業社)
l−ヒスチジン(Wako社)
【0037】
2)ヒト嗅覚受容体遺伝子のクローニング
GenBankに登録されている配列情報を基に、バリアントを含む427種のヒト嗅覚受容体それぞれをコードする遺伝子をクローニングした。各遺伝子は、human genomic DNA female(G1521:Promega)を鋳型としたPCR法によりクローニングした。PCR法により増幅した各遺伝子をpME18Sベクター上のFlag−Rhoタグ配列の下流に組換えた。
【0038】
3)pME18S−ヒトRTP1Sベクターの作製
ヒトRTP1Sをコードする遺伝子をpME18SベクターのEcoRI、XhoIサイトへ組み込んだ。
【0039】
4)嗅覚受容体発現細胞の作製
ヒト嗅覚受容体427種をそれぞれ発現させたHEK293細胞を作製した。表1に示す組成の反応液を調製し、クリーンベンチ内で15分静置した。マルチウェルプレート(384または96ウェルプレート、BioCoat)の各ウェルに、反応液を添加し、次いでHEK293細胞を播種した。384ウェルプレートには、反応液4.4μL、HEK293細胞(20×10
4細胞/cm
2)40μLを添加した。96ウェルプレートには、反応液10μL、HEK293細胞(3×10
5細胞/cm
2)90μLを添加した。細胞を、37℃、5%CO
2を保持したインキュベータ内で24時間培養した。対照として、嗅覚受容体を発現させない細胞(mock)を用意した。
【0040】
【表1】
【0041】
5)嗅覚受容体のルシフェラーゼアッセイ
HEK293細胞に発現させた嗅覚受容体は、細胞内在性のGαsと共役しアデニル酸シクラーゼを活性化することで、細胞内cAMP量を増加させる。本発明での匂い物質、試験物質、またはアンタゴニストに対する細胞の応答測定には、細胞内cAMP量の増加をホタルルシフェラーゼ遺伝子(fluc2P−CRE−hygro)由来の発光値としてモニターするルシフェラーゼレポータージーンアッセイを用いた。また、CMVプロモータ下流にウミシイタケルシフェラーゼ遺伝子を融合させたもの(hRluc−CMV)を同時に遺伝子導入し、遺伝子導入効率または細胞数の誤差を補正する内部標準として用いた。ルシフェラーゼの活性測定には、Dual−Glo
TMluciferase assay system(Promega)を用い、匂い物質または試験物質の刺激後2.5〜4時間後に製品の操作マニュアルに従って測定を行った。ホタルルシフェラーゼ由来の発光値をウミシイタケルシフェラーゼ由来の発光値で除した値fLuc/hRlucを算出した。下記式に従って、試験物質刺激に対する嗅覚受容体の応答性の指標としてFold increaseを、また嗅覚受容体に対するアンタゴニスト活性レベルの指標として匂い応答(%)を算出した。
Fold increase=X/Y
X:試験物質単独刺激により誘導されたfLuc/hRluc
Y:試験物質刺激なしの場合のfLuc/hRluc
匂い応答(%)=(Z’−Y’)/(X’−Y’)×100
X’:匂い物質単独刺激により誘導されたfLuc/hRluc
Y’:匂い物質刺激なしの場合のfLuc/hRluc
Z’:匂い物質とアンタゴニストとの共刺激により誘導されたfLuc/hRluc
【0042】
実施例1 Broadly Tuned嗅覚受容体OR2W1の応答
構造的分類の異なる様々な匂い物質に対する嗅覚受容体の応答選択性を調べた。本実施例では、化学構造の共通性に基づく11群(アルコール類、アルデヒド類、エステル類、ケトン類、酸類、テルペン類、バニリン類、ベンゼン類、ムスク類、環状アルカン類、ラクトン類、各群はそれぞれ3種類の匂い物質を含む)からの33種類の化合物を匂い物質として用いた。
【0043】
各匂い物質のDMEM溶液(Nacalai)を、匂い物質の溶解度と細胞毒性を考慮して、可能な限り高い濃度で調製した(30μMから3000μM)。参考例2)〜4)に従って作製した嗅覚受容体発現細胞の培養物から培地を取り除き、各ウェルに該匂い物質溶液を30μLずつ添加して、参考例5)と同様の手順でルシフェラーゼアッセイを行った。細胞をCO
2インキュベータ内で2.5〜4時間培養し、ルシフェラーゼ遺伝子を細胞内で十分に発現させた後、その発現量を発光量を指標に測定した。
【0044】
結果を
図1に示す。
図1は、ヒト嗅覚受容体OR2W1を発現させた細胞が応答を示した匂い物質の群を示し、嗅覚受容体が群内の3種類の物質の全てに応答を示した群を「活性あり」(黒丸)、群内のいずれか1つ以上の物質に応答を示さなかった群を「活性なし」(−)で示す。OR2W1は、調べた匂い物質群のうちの約80%(11群の匂い物質グループのうち9群)に応答した。この結果から、OR2W1が、様々な匂い物質の群を認識できるBroadly Tuned嗅覚受容体であることが確認された。
【0045】
実施例2 Broadly Tuned嗅覚受容体選択的リガンド
試験物質として、l−アルギニンおよびl−ヒスチジンを使用した。これらの試験物質をリンガー液(140mM NaCl、5mM KCl、1mM MgCl
2、2mM CaCl
2、10mM HEPES、5mM Glucose、pH7.4(NaOH))に溶解させて試験物質溶液を調製した。この試験物質溶液を用いて、参考例2)〜5)の手順に従って、OR2W1発現細胞でルシフェラーゼアッセイを行った。結果を
図2Aに示す。OR2W1は、l−アルギニンに対して濃度依存的な応答を示した(
図2A中央上)。一方、l−ヒスチジンに対しては、OR2W1発現細胞は応答を示さなかった(
図2A中央下)。
【0046】
さらに、427種類の嗅覚受容体について、参考例2)〜5)の手順に従って、l−アルギニンおよびl−ヒスチジン(10mM)に対する応答を調べた。その結果、OR2W1以外にl−アルギニンに応答する嗅覚受容体は認められなかった(
図2A右上)。なお、調べたいずれの嗅覚受容体もl−ヒスチジンには応答しなかった(
図2A右下)。したがって、l−アルギニンがOR2W1を選択的に活性化する物質であることが示された。
【0047】
同様の手順で、d−アルギニンに対するOR2W1応答を調べた。すなわち、OR2W1発現細胞にd−アルギニンを投与し、4時間後にルシフェラーゼの発現を評価した。その結果、
図2Bに示すとおり、d−アルギニンもOR2W1を活性化した。
【0048】
実施例3 l−アルギニンの点鼻による嗅覚への影響
1)匂いの検出閾値(感度)への効果
OR2W1選択的リガンドであるアルギニンの嗅覚に対する作用を、官能試験によって評価した。生理食塩水(大塚製薬)、l−アルギニン10mM生理食塩水溶液、およびl−ヒスチジン10mM生理食塩水溶液の3サンプルを、点鼻スプレー(KT110−102、アズワン株式会社)に調製した。匂い物質としては、三叉神経系を活性化しないものとして官能試験に広く用いられバラの匂いを呈するフェニルエチルアルコール(PEA)を選択した。0.001から100μMまでの11段階の濃度のPEA水溶液を試験液として用意し、3mLずつ20mL容のガラスバイアル(マルエム)に入れた。
【0049】
実験は、投与者と被験者の双方にブラインドをかけて行われた。投与者は、被験者の鼻腔内のできる限り深部にスプレーの噴出口をセットし、一度スプレーをした。これにより噴出される液量はおよそ100〜200μLである。スプレー前およびスプレー後1分後に、被験者に水溶液のみが入ったバイアル2本と、試験液のバイアル1本の計3本を提示し、どのバイアルに匂いが入っているかを質問した。試験液のバイアルを正答できた場合は一段階低い濃度、誤答した場合は一段階高い濃度の試験液を用いて再試験した。誤答を挟んで3度連続で正答した濃度を検知閾値とした。スプレー後に再度行う閾値試験は、スプレー前の閾値濃度の10倍濃度より始めた。生理食塩水、アルギニン、ヒスチジンいずれかを点鼻し閾値試験を行った後、2時間半以上の間隔を空けてから他のサンプルを点鼻し、閾値試験を行った。サンプル点鼻前後で、被験者のPEAに対する検知閾値を測定した。サンプル点鼻前の閾値濃度/サンプル点鼻後の閾値濃度を計算することにより、閾値変化率を求めた。
【0050】
その結果、l−アルギニンの点鼻後の被験者で、PEA検知閾値が統計学的に有意に低下した(
図3)。このような効果は、OR2W1を活性化しない生理食塩水およびl−ヒスチジンを点鼻した場合には認められなかった。これらの結果から、l−アルギニンがPEAの匂いに対する人の検知閾値(感度)を上昇させることが明らかになり、またl−アルギニンにより唯一活性化されるOR2W1がその効果をもたらしていることが示唆された。
【0051】
2)匂いの検出強度への効果
匂い物質およびl−アルギニンに同時曝露した場合と、匂い物質単独曝露の場合とを比べて、匂い物質の匂いが増強されるかを調べた。匂い物質は、PEAまたはヘキシルシンナミックアルデヒド(HCA)を用いた。匂い物質を終濃度0.1mM濃度となるように、l−アルギニン生理食塩水溶液および対照であるl−ヒスチジン生理食塩水溶液(いずれも10mM)にそれぞれ添加した。得られた溶液を、超音波式ネブライザ(NE―U07;オムロン 霧化粒子径1〜8μm(全体積粒子径分布の80%))を用いて噴霧量最大で約170μL(約20秒間)で噴霧し、被験者に吸引させ、匂い強度を評価した。
匂いの強度は、Green et al(Chemical senses,1996,21:323−34)の方法に従って、下記に示すLabeled Magnitude Scale(LMS)により評価した。すなわち、スケール全長を100%として、各ラベルを次の位置に設定した:Barely detectable,1.4%;Weak,6.1%;Moderate,17.2%;Strong,35.4%;Very strong,53.3%;Strongest imaginable,100%。
【0052】
【化1】
【0053】
結果、l−アルギニンとの併用により、PEAおよびHCAの両匂い物質の匂い強度が統計学的に有意に増強された(
図4)。一方、l−ヒスチジンとの併用では、いずれの匂い物質でも匂い強度の増強効果は認められなかった。これらの結果から、l−アルギニンが匂いに対する人の検出強度を上昇させることが明らかになり、またl−アルギニンにより唯一活性化されるOR2W1がその効果をもたらしていることが示唆された。
【0054】
3)匂いの質への効果
もし、Broadly Tuned嗅覚受容体が匂いの質ではなく強度のみを制御するのであれば、OR2W1単独での活性化は匂いの質(特定の匂い)を呈さないはずである。そこでl−アルギニンを用いて約400の嗅覚受容体のうちOR2W1だけを活性化したときに、人に匂いの感覚が生じるのかを調べた。l−アルギニンは揮発性をもたないため、生理食塩水に溶かしたl−アルギニンを、点鼻スプレーを使用して、5名の被験者の鼻腔内に投与した。その結果、l−アルギニンの点鼻は匂いの感覚を生じさせなかった。なお、別の物質を同様の手法で点鼻した場合には5名中3名で匂いの感覚が生じたことから、本手法で点鼻した物質が嗅上皮に到達することは確認された。これらの結果は、OR2W1の活性化が、匂いの質(特定の匂い)の発生に関与しないことを示唆している。さらにこの実験結果は、Broadly Tuned嗅覚受容体が、匂いの質(特定の匂い)を生み出すのではないという仮説(非特許文献2参照)を支持している。
【0055】
実施例4 PEA、HCAのOR2W1への作用
PEAおよびHCAに対するOR2W1発現細胞の応答を調べた。結果、OR2W1はPEAに応答し、HCAには応答しなかった(
図5)。このことから、
図4で示されたl−アルギニンによる匂い増強作用は、PEAなどOR2W1が応答する匂い物質に限られるのではなく、HCAなどOR2W1が応答しない匂いにも適用できることが示された。
【0056】
実施例5 OR2W1活性化が匂い強度に与える影響
1)
図1に示すように、OR2W1は11群の匂い物質グループのうちの80%に応答した。一方、香りが弱い微香性香料に絞ってOR2W1の応答性を調べた結果、明確な応答を示したものは68種類のうち10%に満たなかった。これらの結果から、香料のOR2W1活性化能の強さと匂い強度との関係性が示唆された。
【0057】
2)OR2W1に対する活性化作用の異なる香料による、他の香料の匂いの増強作用を調べた。試験物質として、1)においてOR2W1に対する活性化作用が確認されなかった微香性香料(化合物A)および最も高い活性化作用が確認された微香性香料(化合物B)を用いて、PEAまたはヒドロキシシトロネラール(HC)の匂いの増強効果を調べた。
二つの綿球を用意し、一方には試験物質(化合物AまたはB)、もう一方には匂い物質(PEAまたはHC)を染み込ませ、それぞれをガラスバイアルに入れ、サンプルとした。5人の被験者が、匂い物質単独、匂い物質+化合物A、匂い物質+化合物B、匂い物質単独、の順にサンプルを提示されて、それぞれについて匂い物質の匂い強度を評価した。また、化合物AおよびB単独での匂い強度を評価した。匂いの強度の評価は、実施例3と同様の手順で行った。結果を
図6に示す。
【0058】
3)さらに、10種類のOR2W1アンタゴニスト化合物について、スカトール臭の抑制作用およびスカトール受容体活性抑制作用を調べた。スカトール受容体としては、OR2W1、OR5K1、OR5P3およびOR8H1(特許第5593271号公報)が知られているが、これらのうちOR2W1によってスカトール臭強度が制御されている可能性を検証した。参考例2)〜5)と同様の手順で、該アンタゴニスト化合物存在下での匂い応答(%)を測定した。
アンタゴニスト化合物のスカトール臭の抑制作用は以下の手順で調べた。ガラス瓶(柏洋硝子No.11、容量110mL)に綿球を入れ、この綿球に、悪臭としてプロピレングリコールで10
5倍に希釈したスカトール、およびアンタゴニスト化合物を各々20μL滴下した。ガラス瓶を一晩室温で静置し、匂い分子をガラス瓶中に十分揮発させた後、官能試験によりスカトール臭の匂いを評価した。官能試験ではスカトール臭単独での匂いの強さを5とし、アンタゴニスト化合物を混合した場合の悪臭の強さを0から10(0.5刻み)の20段階で評価した。小さい値ほどスカトール臭が弱いことを表す。官能試験は4〜8名で行い、結果の平均値を求めた。
結果を
図7に示す。
図7の各図の横軸は、アンタゴニスト化合物を表し、左図の縦軸は、各アンタゴニスト化合物存在下でのスカトールに対するOR2W1活性(匂い応答(%))を表す。匂い応答(%)が高いほどアンタゴニスト化合物のアンタゴニスト活性が低いことを意味する。右図の縦軸は、アンタゴニスト化合物のスカトール臭抑制作用の強さを示す(4〜8名による官能評価の平均値)。受容体アッセイにおいてOR2W1のスカトール認識を抑制した化合物はすべて、官能試験においてスカトール臭を抑制した。これは、OR2W1の活性が匂いの強さの認識に強く貢献していることを示唆する。
【0059】
上記1)〜3)の結果からは、実施例3〜4の結果を踏まえると、Broadly Tuned嗅覚受容体OR2W1が、様々な匂い物質についての、匂いの質ではなく、匂いの強さの情報を伝達している嗅覚受容体であることが示唆される。アルギニンは、このOR2W1を活性化させることによって、それ自身の匂いを発生させることなく、様々な匂いの増強をもたらすことができる。