特許第6879120号(P6879120)IP Force 特許公報掲載プロジェクト 2022.1.31 β版

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特許6879120光学異性体の分析方法及びイオン移動度分析装置
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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6879120
(24)【登録日】2021年5月7日
(45)【発行日】2021年6月2日
(54)【発明の名称】光学異性体の分析方法及びイオン移動度分析装置
(51)【国際特許分類】
   G01N 27/622 20210101AFI20210524BHJP
【FI】
   G01N27/62 101
【請求項の数】6
【全頁数】13
(21)【出願番号】特願2017-159863(P2017-159863)
(22)【出願日】2017年8月23日
(65)【公開番号】特開2019-39698(P2019-39698A)
(43)【公開日】2019年3月14日
【審査請求日】2019年11月28日
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】特許業務法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】有田 義宣
(72)【発明者】
【氏名】古橋 治
【審査官】 赤木 貴則
(56)【参考文献】
【文献】 特開2016−011942(JP,A)
【文献】 特表2009−522552(JP,A)
【文献】 米国特許出願公開第2004/0178340(US,A1)
【文献】 特開2005−321233(JP,A)
【文献】 米国特許出願公開第2013/0187037(US,A1)
【文献】 国際公開第2008/069110(WO,A1)
【文献】 菅井俊樹,イオンモビリティと質量分析−気相移動度−,2011年第1回TMS研究会講演会,日本,2011年,P1-17,URL,http://www.tms-soc.jp/journal/2011TMS_Sugai.pdf
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 27/62−27/70
H01J 49/06
G01N 21/19
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
パルス化したイオンをドリフト領域中に導入してドリフトさせることによって該イオンをイオン移動度に応じてその進行方向に分離して検出するイオン移動度分析装置を用い、試料に含まれる目的化合物の光学異性体を分析する方法であって、
a)前記ドリフト領域中に導入される又は該ドリフト領域中をドリフトしている目的化合物由来のイオンに対し、左回り又は右回りの円偏光光を照射する光照射ステップと、
b)左回り又は右回りの円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係を計測する計測ステップと、
c)前記計測ステップにおいて得られた計測結果に基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定する光学異性体解析ステップと、
を有することを特徴とする光学異性体の分析方法。
【請求項2】
請求項1に記載の光学異性体の分析方法であって、
前記光照射ステップでは、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とをそれぞれイオンに照射し、
前記計測ステップでは、前記光照射ステップの下で異なる方向の円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係をそれぞれ計測し、
前記光学異性体解析ステップでは、前記計測ステップで得られた複数の計測結果に基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定することを特徴とする光学異性体の分析方法。
【請求項3】
パルス化したイオンをドリフト領域中に導入してドリフトさせることによって該イオンをイオン移動度に応じてその進行方向に分離して検出するイオン移動度分析装置であって、
a)前記ドリフト領域中に導入される又は該ドリフト領域中をドリフトしている試料中の目的化合物由来のイオンに対し、左回り又は右回りの円偏光光を照射する光照射部と、
b)左回り又は右回りの円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係を示すスペクトルを取得するスペクトル取得部と、
c)前記スペクトル取得部で得られたスペクトルに基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定する光学異性体解析部と、
を備えることを特徴とするイオン移動度分析装置。
【請求項4】
請求項3に記載のイオン移動度分析装置であって、
前記光照射部は、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とをそれぞれイオンに照射するものであり、
前記スペクトル取得部は、前記光照射部により異なる方向の円偏光光がイオンに照射されたときのスペクトルをそれぞれ取得し、
前記光学異性体解析部は、前記スペクトル取得部で得られた複数のスペクトルに基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定することを特徴とするイオン移動度分析装置。
【請求項5】
請求項3又は4に記載のイオン移動度分析装置であって、
前記ドリフト領域でイオン移動度に応じて分離されたイオンを検出する検出器を備える
ことを特徴とするイオン移動度分析装置。
【請求項6】
請求項3又は4に記載のイオン移動度分析装置であって、
前記ドリフト領域でイオン移動度に応じて分離されたイオンをさらに質量電荷比に応じて分離して検出する質量分析部を備えるイオン移動度−質量分析装置であることを特徴とするイオン移動度分析装置。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、試料に含まれる所定の化合物の光学異性体を分析する方法、及びその分析に用いられるイオン移動度分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
アミノ酸や糖などの生体由来の化合物には、しばしば光学異性体(鏡像異性体とも呼ばれる)が存在することが知られている。光学異性体は一般にD体、L体として区別され、生体内で性質や作用が異なることが知られている。特許文献1などに開示されているように、特定の化合物の光学異性体の増加は特定の疾病のマーカーとして利用できる可能性もある。また、特定の化合物の光学異性体の増加自体が特定の疾病の原因となっている可能性を指摘する報告もなされている。こうしたことから、特に医療、医薬品開発、食品等の分野では、化合物の光学異性体(D体、L体)を簡便に識別したり或いは光学異性体の割合(光学純度)を算出したりする手法が求められている。
【0003】
従来一般に、試料中の光学異性体を分離するには液体クロマトグラフィが利用されている。また、分離された光学異性体を検出或いは識別する際には、光吸収スペクトルによる円二色性(CD=Circular Dichroism)測定や旋光度測定などの光学測定が利用されている。しかしながら、一般に、こうした手法は分析に時間が掛かる。また、こうした手法を利用するには或る程度の試料の量が必要であり、試料が微量である場合には適用が難しい。
【0004】
上記手法とは全く別の分析手法として、イオン移動度分光測定(Ion Mobility Spectrometry=IMS)法を利用した光学異性体の分析方法が従来知られている。試料に含まれる化合物から生成した分子イオンを電場の作用により媒質気体(又は液体)中で移動させるとき、該イオンはその分子のサイズ等に依存する衝突断面積や電場の強さによって決まる移動度に応じた速度で以て移動する。IMS法は、試料分子の分析のためにこの移動度を利用した測定法である(特許文献2など参照)。
【0005】
ただし、光学異性体であるD体、L体はその構造が鏡像関係にあり、質量やサイズは同一であるため衝突断面積に差異がない。そのため、一般的なIMS法では光学異性体を分離することができない。これに対し、非特許文献1、2には、次のような特殊な分析方法が開示されている。即ち、この方法では、IMS法においてイオンをドリフトさせる領域中に流すガスに、検出対象である化合物と類似した構造を有するキラルガスを混入させる。すると、検出対象である化合物分子イオンとキラルガスとの間でキラル対称性に依存した相互作用が生じ、検出対象の化合物分子イオンの実効的な衝突断面積が変化する。この特性を利用することにより、IMS法において光学異性体を分離して検出することができる。
【0006】
しかしながら、上記方法では、検出対象の化合物に対応するキラルガスを用意する必要がある。そのため、特定の化合物のみを検出対象とする場合であればよいが、様々な化合物を検出対象としようとすると、それら化合物にそれぞれ対応する多種類のキラルガスを用意しなければならず、測定コストが高くなる。また、化合物によっては必ずしも適切なキラルガスを用意できるとは限らず、そうした場合には上記分析手法を利用することができない。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0007】
【特許文献1】特開2005−321233号公報
【特許文献2】米国特許第7081618号明細書
【非特許文献】
【0008】
【非特許文献1】菅井俊樹、「イオンモビリティと質量分析 −気相移動度−」、[online]、TMS研究会、[平成29年7月12日検索]、インターネット<URL: http://www.tms-soc.jp/journal/2011TMS_Sugai.pdf>
【非特許文献2】プラブハ(Prabha Dwivedi)ほか2名、「ガス・フェイズ・キラル・セパレイションズ・バイ・イオン・モビリティ・スペクトロメトリー(Gas Phase Chiral Separations By Ion Mobility Spectrometry)」、Analytical Chemistry、2006年、12月、15; 78(24)、 pp.8200-8206
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
本発明は上記課題を解決するために成されたものであり、その目的とするところは、様々な物質についての光学異性体の識別や定量を簡便に行うことができる光学異性体の分析方法、及び、その分析に用いられるイオン移動度分析装置を提供することにある。
【課題を解決するための手段】
【0010】
上記課題を解決するために成された本発明に係る光学異性体の分析方法は、パルス化したイオンをドリフト領域中に導入してドリフトさせることによって該イオンをイオン移動度に応じてその進行方向に分離して検出するイオン移動度分析装置を用い、試料に含まれる目的化合物の光学異性体を分析する方法であって、
a)前記ドリフト領域中に導入される又は該ドリフト領域中をドリフトしている目的化合物由来のイオンに対し、左回り又は右回りの円偏光光を照射する光照射ステップと、
b)左回り又は右回りの円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係を計測する計測ステップと、
c)前記計測ステップにおいて得られた計測結果に基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定する光学異性体解析ステップと、
を有することを特徴としている。
【0011】
また本発明に係るイオン移動度分析装置は、本発明に係る光学異性体の分析方法を実施するために用いられる装置であり、パルス化したイオンをドリフト領域中に導入してドリフトさせることによって該イオンをイオン移動度に応じてその進行方向に分離して検出するイオン移動度分析装置であって、
a)前記ドリフト領域中に導入される又は該ドリフト領域中をドリフトしている試料中の目的化合物由来のイオンに対し、左回り又は右回りの円偏光光を照射する光照射部と、
b)左回り又は右回りの円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係を示すスペクトルを取得するスペクトル取得部と、
c)前記スペクトル取得部で得られたスペクトルに基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定する光学異性体解析部と、
を備えることを特徴としている。
【0012】
同一化合物の光学異性体であるD体とL体とでは、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とに対する光の吸収効率(光吸収断面積)が相違することが知られている。上記円二色性測定はこの特性を利用した手法である。一方、化合物由来のイオンに光を照射し該イオンがその光を吸収すると、電子励起が生じるために該イオンの衝突断面積が変化する。衝突断面積が変化するとイオン移動度が変化するから、イオンのドリフト時間とイオン強度(イオンの個数)との関係を示すドリフト時間スペクトル上でピークの位置(ドリフト時間)が移動することになる。
【0013】
通常、イオンによる光の吸収効率αは100%でない(0%<α<100%)。そのため、光の照射を受けたイオンのうちの一部のイオンの衝突断面積が変化し、その他のイオンの衝突断面積は変化しない。その結果、ドリフト時間スペクトル上では一つの化合物に対応するピークが二つに分離することになる。その分離した二つのピークの強度の比はイオンの光吸収効率に依存する。上述したように光学異性体の光吸収効率は左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とで相違する。したがって、試料中の目的化合物がD体のみ又はL体のみであるとすると、左回り又は右回りのいずれの円偏光光をイオンに照射した場合でも、D体であるかL体であるかによってドリフト時間スペクトル上の二つのピークの強度比が相違する。これにより、D体とL体との識別が可能である。
【0014】
また、目的化合物のD体とL体とが混在している場合、左回り又は右回りのいずれかの円偏光光をイオンに照射した下でのドリフト時間スペクトル上で観測される目的化合物由来の二つのピークの強度比は、D体とL体との存在比に応じて変わる。D体とL体のそれぞれの光吸収率は、衝突断面積が変化したイオンのピークつまりは光照射によってドリフト時間がシフトしたピークの強度に対する寄与度合いを示しているから、それら光吸収率が既知であれば、ドリフト時間スペクトル上の二つのピークの強度比とその光吸収率とに基づく計算によってD体とL体との存在比を推算することもできる。
【0015】
即ち、本発明に係るイオン移動度分析装置を用いた本発明に係る光学異性体の分析方法において、計測ステップでは、ドリフト領域中に導入される又は該ドリフト領域中をドリフトしている目的化合物由来のイオンに対し左回り又は右回りの円偏光光を照射されている状態でのドリフト時間スペクトルを取得する。ドリフト時間をイオン移動度に換算したイオン移動度スペクトルでもよい。そして、光学異性体解析ステップでは、ドリフト時間スペクトル上で観測される同一化合物に由来する二つのピークの強度の比と、予め求めておいた各円偏光光に対するD体、L体の光吸収率とから、目的化合物の光学異性体を識別する、又は目的化合物の光学異性体の存在比を計算する。
【0016】
上述したように本発明に係る光学異性体の分析方法及びイオン移動度分析装置では、左回り又は右回りのいずれか一方の円偏光光をイオンに照射したときに得られたドリフト時間スペクトルから光学異性体を識別したりその存在比を求めたりすることができるが、より好ましくは、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光をそれぞれイオンに照射したときに得られた複数のドリフト時間スペクトル(又はイオン移動度スペクトル)を用いるとよい。
【0017】
即ち、本発明に係る光学異性体の分析方法において、好ましくは、
前記光照射ステップでは、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とをそれぞれイオンに照射し、
前記計測ステップでは、前記光照射ステップの下で異なる方向の円偏光光がイオンに照射されたときの該イオンのドリフト時間とイオン強度との関係をそれぞれ計測し、
前記光学異性体解析ステップでは、前記計測ステップで得られた複数の計測結果に基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定するとよい。
【0018】
また、本発明に係るイオン移動度分析装置において、好ましくは、
前記光照射部は、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とをそれぞれイオンに照射可能であり、
前記スペクトル取得部は、前記光照射部により異なる方向の円偏光光がイオンに照射されたときのスペクトルをそれぞれ取得し、
前記光学異性体解析部は、前記スペクトル取得部で得られた複数のスペクトルに基づいて、目的化合物の光学異性体を識別する又は光学異性体の存在割合を推定する構成とするとよい。
【0019】
こうしたイオン移動度分析装置を用いた光学異性体の分析方法によれば、例えば目的化合物由来のイオンがドリフト領域中をドリフトする際に光学異性体(D体、L体)の存在割合が均一でない場合や、光照射部による円偏光光がイオンに満遍なく当たらない場合、或いは、いずれか一方の方向の円偏光光に対するD体とL体との光吸収率の差が小さい場合などにおいても、より精度よく光学異性体の存在割合を求めることができる。
【0020】
なお、本発明に係るイオン移動度分析装置の一態様は、前記ドリフト領域でイオン移動度に応じて分離されたイオンを検出する検出器を備える構成とすることができる。この構成では、検出器で得られる検出信号に基づいてドリフト時間スペクトルやイオン移動度スペクトルを作成することができる。
【0021】
また、本発明に係るイオン移動度分析装置の別の態様として、前記ドリフト領域でイオン移動度に応じて分離されたイオンをさらに質量電荷比に応じて分離して検出する質量分析部を備えるイオン移動度−質量分析装置である構成としてもよい。この構成では、質量分析部でイオンを質量電荷比に分離せずに検出した結果に基づいて、又は質量分析部でイオンを質量電荷比に分離して検出した結果に基づいて、ドリフト時間スペクトルやイオン移動度スペクトルを作成すればよい。
【0022】
イオン移動度−質量分析装置を用いることにより、試料中に目的化合物のイオン移動度とほぼ同じイオン移動度を有する別の化合物が存在している場合でも、質量分析部においてその別の化合物由来のイオンと目的化合物由来のイオンとを分離することができる。それによって、そうした共存する化合物の影響を排除して、より精度の高いドリフト時間スペクトルやイオン移動度スペクトルを得ることができる。
【発明の効果】
【0023】
本発明に係る光学異性体の分析方法及びイオン移動度分析装置によれば、試料に含まれる目的化合物の光学異性体(D体、L体)を簡便に識別することができる。また、目的化合物がD体とL体とが混在している状態であっても、D体、L体の存在割合を簡便に求めることができる。
【図面の簡単な説明】
【0024】
図1】本発明に係るイオン移動度分析装置の一実施例の概略構成図。
図2】本実施例のイオン移動度分析装置において光学異性体の存在割合を推定する際の測定及び処理の手順を示すフローチャート。
図3】本発明に係るイオン移動度分析装置を用いた光学異性体の分析方法の原理を説明するための概略構成図。
図4】本発明に係るイオン移動度分析装置を用いた光学異性体の分析方法の原理説明図。
図5】イオンに右回り円偏光光及び左回り円偏光光をそれぞれ照射したときに得られるドリフト時間スペクトルの概念図。
【発明を実施するための形態】
【0025】
まず、本発明に係るイオン移動度分析装置を用いた光学異性体の分析方法の原理について、図3図5を参照して説明する。図3は本発明に係るイオン移動度分析装置の原理構成図、図4は光学異性体の分析方法の原理説明図である。
図3に示すイオン移動度分析装置は、その内部にドリフト領域3が形成されるドリフトチューブ2の入口側にゲート電極4、出口側に検出器5を備える。これは一般的なイオン移動度分析装置と同じである。また、特徴的な構成要素として、ドリフト領域3に向けて所定の光、具体的には左回り又は右回りの円偏光光を照射する光照射部6を備える。
【0026】
ここで、目的化合物は光学異性体(D体、L体)が混在しているものとする。この目的化合物由来のイオン20はゲート電極4の手前に集積され、ゲート電極4が短時間だけ開放されると一斉にドリフト領域3に導入される。そして、ドリフト領域3中をドリフトして検出器5に到達する。目的化合物由来のイオンは光学異性体に依らず衝突断面積が同じであるためイオン移動度も同じである。したがって、光照射部6から光が照射されていないときには、目的化合物由来のイオンの全てが光学異性体に依らずほぼ同時に検出器5に到達する。つまり、光学異性体の識別は不可能である。
【0027】
これに対し、ドリフト中の又はドリフト直前のイオンに円偏光光が照射され、該イオンが光を吸収すると電子励起が生じ、その衝突断面積が変化する。つまりは、イオンが光を吸収するとイオン移動度が変化する。ただし、イオンの光吸収率は100%ではなく、光学異性体には円偏光二色性があるため、D体及びL体はそれぞれ左回り円偏光と右回り円偏光とに対して異なる光吸収率を示す。こうしたことから、測定時に光照射部6から左回り又は右回りの円偏光をイオンに照射すると、円偏光光を吸収することで衝突断面積が変化した(この場合には縮小した)イオン20aは円偏光光を吸収しないイオン20に比べてイオン移動度が大きくなり先行して検出器5に到達する。
【0028】
イオンに円偏光光を照射したときに、検出器5により得られる検出信号に基づいて作成されるドリフト時間スペクトルがどのように変化するのかをシミュレーションした結果を図6に示す。このシミュレーションでは、イオン移動度分析装置のパラメータや測定条件を次のように仮定した。
・ドリフト長:200mm
・ドリフト電圧(ドリフト領域3の両端の電圧差):12kV
・周囲温度:27℃
・気圧:1気圧
・ゲート電極の開放時間:0.1msec
・分解能:R=130
また、イオンの特性を次のように仮定した。
・偏光光を照射しない場合におけるイオンの衝突断面積(CCS)=2nm2(イオン移動度:K=1.97cm2/Vs)
・光吸収によるイオンの衝突断面積の変化:=2nm2→1.98nm2
・イオンの光吸収率 右回り偏光光:80%、左回り偏光光:50%
【0029】
偏光光を照射しない場合には、図5中にAで示す位置にピークが現れる。これに対し、イオンに右偏光光を照射すると、一部のイオンの移動度が変化するために、ピークが図5においてAに示す位置とBに示す位置との二つに分離する。そして、その二つのピークの強度比は光吸収率に対応したほぼ4:1の比になる。一方、イオンに左偏光光を照射すると、同様にピークは二つに分離するが、光吸収率が異なるために、その二つのピークの強度比はほぼ1:1の比になる。
【0030】
上述したように右回り偏光光及び左回り偏光光に対する光吸収率はD体とL体とで異なる。その光吸収率は化合物の種類や光の波長にも依存するが、ここでは説明を簡単にするために、一例として次のように想定する。
D体 右回り偏光光に対する光吸収率:80%、左回り偏光光に対する光吸収率:50%
L体 左回り偏光光に対する光吸収率:80%、右回り偏光光に対する光吸収率:50%
つまり、D体とL体とでは、左回り偏光光に対する光吸収率と右回り偏光光に対する光吸収率とが全く逆の特性であるものとする。もちろん、左回り偏光光に対する光吸収率と右回り偏光光に対する光吸収率とに差異があればよく、D体とL体とが全く逆の特性でなくてもよい。
【0031】
いま、光照射部6からイオンに照射される光が回り円偏光であり、測定対象である目的化合物由来のイオンの全てがD体(D体が100%)であったとすると、イオンの光吸収率は80%であるから、ドリフト時間スペクトルにおけるピーク形状は図4中に実線で示すようになる筈である。このとき、二つのピークの強度比はほぼ4:1である。一方、光照射部6からイオンに照射される光が回り円偏光であり、測定対象である目的化合物由来のイオンの全てがL体(L体が100%)であったとすると、イオンの光吸収率は50%であるから、ドリフト時間スペクトルにおけるピーク形状は図4中に一点鎖線で示すようになる筈である。このとき、二つのピークの強度比はほぼ1:1である。したがって、左回り円偏光光と右回り円偏光光とに対する光吸収率に差異があり、且つその光吸収率が既知であれば、ドリフト時間スペクトルの形状、より具体的には二つのピークの強度比に基づいて、目的化合物がD体であるかL体であるかを識別することができる。
【0032】
次に、光照射部6からイオンに照射される光が回り円偏光であり、測定対象である目的化合物由来のイオンとしてD体とL体とが未知の割合で混合している状態を考える。この場合、D体、L体ともに光を吸収するから、図3において相対的に先行して進むイオン20aは、光吸収率が80%であるD体と光吸収率が50%であるL体とが混在しているとみることができる。逆に、相対的に遅れて進むイオン20は、20%の割合で光を吸収しなかったD体と50%の割合で光を吸収しなかったL体とが混在しているとみることができる。そのため、ドリフト時間スペクトルにおける時刻t1におけるピークの強度は、図4中に実線で示すピークと一点鎖線で示すピークとの間になる筈である。
【0033】
このとき、その時刻t1におけるピーク強度に対するD体の寄与度合いは該D体の割合にそのD体の光吸収率(80%)を乗じたものとなり、L体の寄与度合いは該L体の割合にそのL体の光吸収率(50%)を乗じたものとなる。一方、時刻t0におけるピーク強度に対するD体の寄与度合いは該D体の割合にそのD体で光が吸収されない比率(20%)を乗じたものとなり、L体の寄与度合いは該L体の割合にそのL体で光が吸収されない比率(50%)を乗じたものとなる。したがって、光吸収率が既知であれば、二つのピークの強度比からD体、L体の存在割合を計算によって求めることが可能である。
【0034】
つまり、D体、L体それぞれの光吸収率が既知であれば、純粋なD体又はL体を識別可能であるのみならず、ドリフト時間スペクトル上で分離された二つのピークの強度比に基づいてD体とL体との存在割合も求めることができる。また、上記説明では、回り円偏光光をイオンに照射したときに得られたドリフト時間スペクトルを用いていたが、回り円偏光光をイオンに照射したときに得られたドリフト時間スペクトルを用いても同様に、D体とL体とを識別したりその存在割合を求めたりすることができる。
【0035】
上述したように、光吸収率は化合物の種類や光の波長等に依存する。したがって、光照射部6から照射される左回り又は右回りの円偏光光の条件の下でのD体及びL体の光吸収率を、測定対象である目的化合物毎に予め測定しておくとよい。
【0036】
次に、上記原理を利用して光学異性体の分析を行うイオン移動度分析装置の一実施例について図1図2を参照して説明する。図1は本実施例のイオン移動度分析装置の要部の構成図、図2は本実施例のイオン移動度分析装置において光学異性体の存在割合を推定する際の測定及び処理の手順を示すフローチャートである。
【0037】
本実施例のイオン移動度分析装置は、試料中の化合物をイオン化するイオン源1と、その内側に同形状である円環状電極21がイオン光軸(中心軸)Cに沿って多数配列されてなり、その内側にドリフト領域3を形成するドリフトチューブ2と、該ドリフトチューブ2の入口側に配置されたゲート電極4と、ドリフトチューブ2の出口側に配置された検出器5と、ドリフト領域3中に左回り円偏光光を照射する第1光照射部6L及び右回り円偏光光を照射する第2光照射部6Rと、ゲート電極4に所定のタイミングでパルス電圧を印加するゲート電圧発生部8と、多数の円環状電極21にそれぞれ所定の電圧を印加するドリフト電圧発生部7と、を備える。さらにイオン移動度分析装置は、検出器5で得られたデータを処理するデータ処理部10と、処理結果を出力する表示部11と、各部の動作を制御する制御部9と、を備える。
【0038】
データ処理部10は、機能ブロックとして、データ格納部101、スペクトル作成部102、光吸収率算出部103と、光吸収率記憶部104と、光学異性体解析部105と、を含む。例えばこのデータ処理部10の実体はパーソナルコンピュータであり、該コンピュータにイントールされた専用の処理ソフトウェアを該コンピュータ上で動作させることで上記各ブロックの機能を実現するものとすることができる。
【0039】
上述したように、光学異性体の識別やその存在割合の算出を行うには左回り又は右回りのいずれか一方の円偏光光をイオンに照射すればよいが、この実施例の装置では、光学異性体の存在割合の算出の精度を高めるために、左回りの円偏光光と右回りの円偏光光とをそれぞれイオンに照射するようにしている。
【0040】
まず、本実施例のイオン移動度分析装置におけるイオン移動度測定時の動作を述べる。
ドリフト電圧発生部7から各円環状電極21にそれぞれ所定の直流電圧が印加されることで、ドリフト領域3には図1において右方向にイオンを加速する加速電場が形成される。また、ドリフト領域3にはイオンの進行に逆行する方向に一定流速でバッファガスの流れが形成され、該ガスによってドリフト領域3内のガス圧は略大気圧に維持される。イオン源1は外部から導入された試料中の化合物を所定のイオン化法によりイオン化する。このイオン化法は特に限定されないが、試料が液体試料である場合、例えばエレクトロスプレーイオン化法などを用いることができる。
【0041】
ゲート電圧発生部8は、イオンを堰き止めるような電圧、例えばイオンが正イオンである場合には正極性の大きな電圧をゲート電極4に印加することで、イオンをゲート電極4の手前に蓄積する。そして、所定のタイミングで短時間だけ、イオンを通過させる電圧をゲート電極4に印加する。それによって、蓄積されていたイオンがパルス的にゲート電極4を通過しドリフト領域3に導入される。イオンはバッファガスの流れに逆らいながら加速電場の作用でドリフト領域3中をドリフトする。この際に、イオンはその移動度に応じて空間的に分離されて検出器5に到達する。こうしたイオンの挙動は図3に示した原理構成によるものと基本的に同じである。
【0042】
次に、本実施例のイオン移動度分析装置において光学異性体の存在割合を調べる際の動作を説明する。
上述したように、事前の準備として、目的化合物のD体、L体それぞれの、左回り円偏光光、右回り円偏光光についての光吸収率を求めておく必要がある。そこで、目的化合物の純粋なD体及びL体のサンプルを用意し、それらをそれぞれ本装置で測定して、それによって得られるドリフト時間スペクトルから光吸収率を算出する。即ち、例えば純粋なD体を含む試料を測定対象試料とし、第1光照射部6Lから左回り円偏光光をイオンに照射してイオン移動度測定を実施する。データ処理部10においてスペクトル作成部102は得られたデータに基づいてドリフト時間スペクトルを作成する。光吸収率が100%又は0%でない限り、ドリフト時間スペクトルには図4中に実線で示すような二つのピークが観測される。この場合、ドリフト時間がシフトしたピークは全てD体の光吸収によるものである。そこで、光吸収率算出部103は二つのピークの強度比から光吸収率を算出する。
【0043】
イオンに照射する円偏光の方向を変え、測定対象試料を純粋なL体を含むものに変えることで、目的化合物のD体、L体それぞれの、左回り円偏光光、右回り円偏光光についての光吸収率を全て求め、それを光吸収率記憶部104に格納しておく。なお、ユーザが実験的に光吸収率求めるのではなく、本装置のメーカが様々な化合物について予め実験的に光吸収率を求めておき、データ処理用ソフトウェアの一部としてユーザに提供してもよい。その場合には、ユーザによる上述したような光吸収率を求めるための測定は不要である。
【0044】
試料中の目的化合物のD体、L体の存在割合を調べたい場合、制御部9の制御の下で、その試料をイオン源1に導入し、第1光照射部6Lから左回り円偏光光をイオンに照射しながら、該試料中の目的化合物由来のイオンの移動度を測定する(ステップS1)。このときに検出器5で得られたデータはデータ格納部101に一旦格納される。スペクトル作成部102は、収集されたデータに基づいて左円偏光光照射時ドリフト時間スペクトルSLを作成する(ステップS2)。次に、制御部9の制御の下で、同じ試料をイオン源1に導入し、第2光照射部6Rから右回り円偏光光をイオンに照射しながら、該試料中の目的化合物由来のイオンの移動度を測定する(ステップS3)。スペクトル作成部102は、収集されたデータに基づいて右円偏光光照射時ドリフト時間スペクトルSRを作成する(ステップS4)。
【0045】
光学異性体解析部105は、二つのドリフト時間スペクトルSL、SRにおいてそれぞれ、光吸収したイオン由来のピークと光吸収していないイオン由来のピークとを検出し、その二つのピークの強度比を求める(ステップS5)。そして、そのピークの強度比と光吸収率記憶部104に格納されている光吸収率の情報とを利用した計算を行い、D体とL体との存在割合を算出する(ステップS6)。上述したように一つのドリフト時間スペクトルからその存在割合が求まるから、二つのドリフト時間スペクトルからそれぞれ求まった存在割合を平均することで、より精度の高い結果を得ることができる。こうして得られた結果を表示部11に出力すればよい。
【0046】
もちろん、試料中に含まれる目的化合物がD体又はL体のみであって、そのいずれかを知りたい場合には、二つのピークの強度比と光吸収率とから即座に判定することができる。また、二つのドリフト時間スペクトルからそれぞれ求めた光学異性体の存在割合に大きな差異がある場合には、例えばイオン移動度がほぼ同じである別の化合物由来のイオンが存在している等、測定上何らかの問題がある可能性がある。そこで例えば、二つのドリフト時間スペクトルからそれぞれ求めた光学異性体の存在割合の差異が所定閾値以上である場合には、例えば測定に疑義がある旨の警告表示などを行うようにしてもよい。
【0047】
なお、上記実施例のイオン移動度分析装置では、ドリフト中のイオンに円偏光光を照射していたが、光吸収によって励起された電子は直ぐには元の状態(基底状態)には戻らない。そのため、実質的にドリフトし始める直前のイオンに円偏光光を照射しても光吸収による衝突断面積の変化が生じ、光吸収していないイオンとの移動度の差異が発生する。したがって、ドリフトする前のイオンに円偏光光を照射してもよい。
【0048】
また上記実施例は本発明の一例に過ぎないから、上記実施例や上記各種変形例に限らず、本発明の趣旨の範囲で適宜、変更や修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【0049】
例えば、上記実施例のイオン移動度分析装置は、ドリフト領域3でイオン移動度に応じて分離したイオンをそのまま検出していたが、ドリフト領域3でイオンを分離したあとに四重極マスフィルタ等の質量分離器に導入し、イオンをさらに質量電荷比に応じて分離して検出する、つまりはイオン移動度−質量分析装置の構成としてもよい。こうした構成では、例えば、目的化合物由来のイオンと異なる種類の化合物(夾雑物)由来のイオンとがほぼ同じ移動度であってドリフト領域3において分離できなくても、そのあとの質量分離部で分離できる場合がある。そうして質量分離部でイオンを分離したあとに検出したイオン強度情報に基づいてドリフト時間スペクトルを作成することで、夾雑物の影響を除いて目的化合物の光学異性体の存在割合を算出することができる。
【符号の説明】
【0050】
1…イオン源
2…ドリフトチューブ
21…円環状電極
3…ドリフト領域
4…ゲート電極
5…検出器
6、6L、6R…光照射部
7…ドリフト電圧発生部
8…ゲート電圧発生部
9…制御部
10…データ処理部
101…データ格納部
102…スペクトル作成部
103…光吸収率算出部
104…光吸収率記憶部
105…光学異性体解析部
11…表示部
図1
図2
図3
図4
図5