(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0011】
鋼中では安定でも、水溶液またはエタノール、メタノールなどの有機溶媒中で容易に加水分解しやすい析出物、介在物は、電解液中に溶解してしまい電解抽出が困難な場合がある。そのような析出物、介在物の一例としてMgSが上げられる。MgSはγ粒ピニング能力が高い、微細分散粒子であり、靱性の向上等に有用とされている。しかしながら、MgSは電解液でエッチング処理をしただけでも容易に分解してしまうため、MgSのサイズ分布、個数密度に関する正確なデータを得ることができず材料開発上、大きな制約となる。このように、溶解しやすい析出物や介在物の正確なデータを得るための、電解抽出方法が求められている。
【課題を解決するための手段】
【0012】
本願発明者らは、これまでも鋼材分析の測定精度向上に取り組んでおり、従前の研究において、非水溶媒系電解液中での電解腐食等による鋼材中の金属化合物分析の際に、介在物や析出相の微粒子、特に、各種金属化合物、中でもMnSの表層には、電解操作以外の手段で測定した含有量よりも高濃度のCuSが観察されるという原因不明の現象が観察されることがあり、このため、MnS粒子をあたかもCuS(Artifact CuS)として検知することがあることを見出している。
【0013】
本願発明者らは、その擬制(Artifact)の原因について、詳細に検討した結果、電解操作によって、電解液中に溶解度積K
spの小さい金属イオン(Cu
2+)が生成すると、金属硫化物(MnS)の表面で、溶解度積Kspの大きい金属イオン(Mn
2+)が、溶解度積Kspの小さい金属イオン(Cu
2+)に置換(exchange)されることを発見した。また、このような硫化物表面での金属イオンの置換は、常温常圧で、しかも水溶液や非水溶媒中でも容易に進行することを突き止めた。
【0014】
その結果、鉄鋼試料中に、本来MnSとして存在していた介在物や析出相は、表面を観察する限り、CuSとして観察されることになり、また、MnSの表面に、電解液中のCuイオンに起因するCuSが、厚さ数十nm程度(1〜100nm)MnSと交換することで、残渣から質量分析を行っても、微細粒子の場合には、体積の相当部分をCuSが占めることとなるので、正確な定量が不可能となっていた。
【0015】
本願発明者らの従前の研究では、上記の擬制(Artifact)を抑制するための手法として、溶媒系電解液中に、Artifact(擬制)金属硫化物を形成する金属(アタック金属)を選択的に捕捉する薬剤(キレート剤等)を添加することにより、電解液中の自由なアタック金属が減少し、Artifact(擬制)金属硫化物が生成されないことに想到した。
【0016】
しかしながら、MgSのようなMnSより更に加水分解しやすい析出物や介在物の場合は、電解液に溶解してしまうので、従来より電解抽出は無理と考えられていた。当然のことながら、擬制(Artifact)の原因となるアタック金属を補足する薬剤(キレート等)を添加したとしても、溶解しやすい析出物や介在物の溶解を抑制することはできない。
【0017】
この問題について、本願発明者らは、鋭意検討した結果、イオン交換反応を用いて溶解しやすいMgS等の析出物や介在物の表面にAgまたはAgS等の防水性バリアシートを生成できると着想した。つまり、MgS等の析出物や介在物は、溶解度積Kspが大きく溶解しやすいが、電解液中に溶解度積Kspが小さい化合物等(例えばAgSやAg)を含ませることにより、溶解度積Kspの大きい(溶解しやすい)析出物や介在物の表面が、溶解度積Kspの小さい(溶解しにくい)化合物等によって、被覆され溶解されにくくなることを予想した。実際に、本願発明者らは、Agを加えた電解液に鏡面研磨したMgS含有鋼材を付着させて、電解抽出実験を行ったところMgS表層で、MgとAgのイオン交換反応が発生して防水性バリアシートを形成できることを確認した。
【0018】
上記では、(MgS表面のMg原子とAg原子のイオン交換反応が生じ、MgS表面にAgによる防水性バリアシートが形成される事例で説明したが、MgおよびAg以外の組み合わせにおいても同様な現象が発現することが推定できる。即ち、金属化合物表面での金属イオンの置換は、溶解度積K
spに相当の大小差(10ケタ(10
10)程度以上の大小差)があるときに、容易に進行することが推定できる。より詳しくは、溶解度積K
spの異なる2つの化合物のpK
spの差(以下Δと称する場合がある)が約10以上であるとき、pK
spの大きい(溶解度積K
spの小さい)化合物とpK
spの小さい(溶解度積の大きい)化合物との置換が、容易に進行することが推定できる。
上記の条件は、以下の式で表すことができる。
Δ=pK
sp[化合物(K
spの小さいもの)]−pK
sp[化合物(K
spの大きいもの)]
=(−log
10K
sp[化合物(K
spの小さいもの)])−(−log
10K
sp[化合物(K
spの大きいもの)])
≧10
ここで、或る化合物の溶解度積K
spはK
sp[化合物]と表し、pK
sp[化合物]=−log
10K
sp[化合物]と表す。
【0019】
本願発明は、上記知見に基づいてなされたもので、その要旨は以下のとおりである。
(1)金属材料を電解液中でエッチングし、金属材料中の金属化合物粒子を抽出する電解液であって、
前記金属材料中に含まれる抽出対象金属化合物M
xA
yの溶解度積をK
sp[M
xA
y] とし、
金属化合物M’
x’A
y’の溶解度積をK
sp[M’
x’A
y’] とすると、
下記式で定義されるΔが10以上となる金属M’のイオンを含んでなること、を特徴とする電解液。
Δ=pK
sp[M’
x’A
y’]−pK
sp[M
xA
y]
=(−log
10K
sp[M’
x’A
y’])−(−log
10K
sp[M
xA
y])
ここで、MとM’は異なる金属元素であり、AはMまたはM’と化合物を形成する単原子または原子団であり、x、x’、y、y’はM、M’、Aの価数に応じて決まる前記化合物の組成比を表し、前記溶解度積K
spは水溶液中25℃での値である。
【0020】
(2)非水溶媒系電解液であることを特徴とする上記(1)に記載の電解液。
【0021】
(3)前記抽出対象金属化合物M
xA
yがMgSであることを特徴とする上記(1)又は(2)に記載の電解液。
【0022】
(4)前記金属M’が、Hg、Ag、Cu、Pb、Cd、Co、Zn、およびNiの少なくとも一つであることを特徴とする上記(1)〜(3)のいずれかに記載の電解液。
【0023】
(5)金属M’の濃度が0.0002〜0.2質量%であることを特徴とする、(1)〜(4)のいずれかに記載の電解液。
【0024】
(6)前記金属材料が鉄鋼材料であることを特徴とする、上記(1)〜(5)のいずれかに記載の電解液。
【0025】
(7)前記非水溶媒は、メタノール、エタノールの少なくとも一つを含んでなることを特徴とする請求項2〜5のいずれか1項に記載の電解液。
【0026】
(8)金属材料を電解液中でエッチングし、金属材料中の金属化合物粒子を電解抽出する方法において、
(1)〜(7)のいずれかに記載の電解液を用いて、前記抽出対象金属化合物M
xA
yの粒子を少なくとも表面が前記金属M’またはその化合物で被覆された形態で抽出すること、を特徴とする、金属化合物粒子の抽出方法。
【発明の効果】
【0027】
・本願発明によれば、鋼中では安定でも、水溶液またはエタノール、メタノールなどの有機溶媒中で容易に加水分解しやすい析出物、介在物を、電解液中に溶解することを抑制することができ、その結果、それらの析出物、介在物のサイズ分布、個数密度に関する正確なデータを得ることができる電解液、および電解抽出方法を提供することができる。
【発明を実施するための形態】
【0029】
本願発明により、金属材料を電解液中でエッチングし、金属材料中の金属化合物粒子を抽出する電解液であって、
前記金属材料中に含まれる抽出対象金属化合物M
xA
yの溶解度積をK
sp[M
xA
y] とし、
金属化合物M’
x’A
y’の溶解度積をK
sp[M’
x’A
y’] とすると、
下記式で定義されるΔが10以上となる金属M’のイオンを含んでなる電解液、およびこの電解液を用いた金属化合物粒子の抽出方法、が提供される。
Δ=pK
sp[M’
x’A
y’]−pK
sp[M
xA
y]
=(−log
10K
sp[M’
x’A
y’])−(−log
10K
sp[M
xA
y])
ここで、MとM’は異なる金属元素であり、AはMまたはM’と化合物を形成する単原子または原子団であり、x、x’、y、y’はM、M’、Aの価数に応じて決まる前記化合物の組成比を表し、前記溶解度積K
spは水溶液中25℃での値である。
【0030】
本発明は、金属材料中の金属化合物粒子の抽出に関するものである。より具体的には、金属材料を電解質溶液中でエッチングすることで、マトリックス(Fe等)を選択的に溶解し、金属材料に含まれる介在物や析出相等の金属化合物粒子を試料表面に露出させる。これにより、金属化合物粒子を観察可能な状態にできる。
金属試料中の微粒子の抽出方法としては、例えば、酸溶液中で鉄鋼試料の鉄マトリックスを溶解する酸分解法、ヨウ素メタノール混合溶液あるいは臭素メタノール混合溶液中で鉄鋼試料の鉄マトリックスを溶解するハロゲン溶解法、非水溶媒系定電流電解法、又は、非水溶媒系定電位電解(SPEED:Selective Potentiostatic Etching by Electrolytic Dissolution Method)法等を用いることができる。これらの内、非水溶媒を用いるSPEED法は、溶媒中に微粒子が分散された際に、組成やサイズの変化が起こり難く、不安定な微粒子でも比較的安定的に抽出できるため好適である。本実施形態に関して、
図1を参照しながら、非水溶媒系定電位電解法(SPEED法)による鉄鋼材料中の微粒子の評価方法を例に取り、説明を行うが、本発明における抽出の方法はSPEED法に限定されるものではなく、また、金属材料は鉄鋼材料に限定されるものではない。
【0031】
初めに、金属試料4を、例えば、20mm×40mm×2mmの大きさに加工して、表層のスケール等の酸化皮膜等を化学的研磨又は機械的研磨等により除去し、金属層を出しておく。逆に、酸化皮膜層に含まれる微粒子を解析する場合は、そのままの形態で残しておく。
【0032】
次に、この金属試料を、SPEED法を用いて電解する。具体的には、電解槽10に電解溶液9を満たし、その中に金属試料4を浸漬させて、参照電極7を金属試料4に接触させる。白金電極6と金属試料4を電解装置8に接続する。一般的に上記電解法を用いると、金属試料4のマトリックスとなる金属部分の電解電位に比べて、析出物等の鋼中微粒子の電解電位は、高い電解電位を持つ。そこで、電解装置8を用いて金属試料4のマトリックスを溶解し、かつ析出物等の微粒子を溶解しない電解電位の間に、電圧を設定することにより、マトリックスのみを選択的に溶解することが可能となる。表面マトリックス部分のFeが電解溶出された試料表面には、介在物或いは析出相5が浮き出し、SEM等による観察に適した状態となる。さらに、電解を続けて、介在物や析出相を試料表面から離脱させて、電解残渣11(図示せず)として回収し、電解液から濾過分離して、同定・定量分析に供することもできる。
【0033】
本願発明に係る金属材料用の電解液、即ち、介在物や析出相を観察するために表面のFeマトリックスを電解したり、介在物や析出相を定量分析するために、Feマトリックスを電解し、残渣を回収するための電解に用いる電解液は、好ましくは、
(1)Feイオンに対する錯体形成剤、
(2)電解液に導電性を担保させる為の電解質、
(3)形成されたFe等の錯体を液中に保持するための溶媒、
を含む。
【0034】
Feイオンに対する錯体形成剤としては、アセチルアセトン、無水マレイン酸、マレイン酸、トリエタノールアミン、サリチル酸、サリチル酸メチルの中から1種類以上を選択してもよい。
【0035】
電解質には、テトラメチルアンモニウムクロライド(TMAC)、塩化ナトリウム(NaCl)、塩化リチウム(LiCl)の中から1種類以上を選択することができる。
【0036】
溶媒は、各種錯体形成剤や、これらとFeの錯体を溶解状態で保持できるものである必要があり、非水溶媒であってもよい。水溶液系電解液では相対的に低い電解電圧(例えば-300mV以下)でも各種の析出物が分解するのに対し、非水溶媒系電解液は安定した電解領域が広く、超合金、高合金、ステンレスから炭素鋼までほとんどすべての鉄鋼材料に適用することができる。非水溶媒系電解液を用いた場合、主として、マトリックスの溶解と、溶解したFeイオンとキレート剤との(錯体化)反応が起こるだけであり、介在物或いは析出相5は溶解することなく、母材上で”in situ”な状態での三次元観察と分析を行う事ができる。非水溶媒としては、電解を円滑に進め、しかも、錯体化可能な有機化合物と支持電解質とを溶解する化合物が適しており、例えば、低級アルコール、例えば、メタノール、エタノール、又はイソプロピルアルコールを用いることができる。メタノール、又はエタノール、あるいはこれらの混合物を選択することができる。また、これらのアルコールと同程度かそれ以上の極性(双極子モーメント等)を有す溶媒であれば使用できる。
【0037】
従来の定電位電解法では、電解溶液として、例えば、10質量%アセチルアセトン(以降“AA”と称す)−1質量%テトラメチルアンモニウムクロライド(以降“TMAC”と称す)−メタノール溶液、又は10質量%無水マレイン酸−2質量%TMAC−メタノール溶液が用いられている。これらの電解溶液では、電解溶出されたFeが錯体を生成し、生成したFe錯体が電解液中に溶解する観点で好ましいため、多用されている。
【0038】
しかしながら、従来の電解液では、MgSのようなMnSより更に加水分解しやすい析出物や介在物は、電解液に溶解してしまい、電解抽出は無理と考えられていた。実際のところ、MgSを含む鋼材を従来の電解液を用いて電解抽出したとしても、抽出物や介在物中にMgSは確認できなかった。
【0039】
一般的に、金属化合物の電解液への溶解しやすさは、溶解度積K
spの大きさで整理することができる。つまり、溶解度積K
spが大きい(言い換えると、pK
sp(=−log
10K
sp)が小さい)ほど、溶解しやすい。本発明による電解液は、そのような溶解しやすい(溶解度積K
spの大きい)金属化合物の溶解を抑制するために、電解液中に溶解しにくい(溶解度積K
spが小さい)金属化合物の金属イオンを含んでなる。溶解しやすい(溶解度積K
spの大きい)金属化合物は、電解液中の溶解しにくい(溶解度積K
spが小さい)金属化合物の金属イオンと、イオン交換反応を生じて、溶解しやすい(溶解度積K
spの大きい)金属化合物の表面が、溶解しにくい(溶解度積K
spが小さい)金属化合物で被覆される。つまり、溶解されやすい金属化合物の表面に、溶解されにくい金属化合物による防水性バリアシートが形成される。これにより、溶解しやすい金属化合物の電解液中への溶解が抑制され、その溶解しやすい金属化合物の抽出が可能となる。
【0040】
抽出対象となる、溶解しやすい(溶解度積K
spの大きい)金属化合物M
xA
yと、溶解しにくい(溶解度積K
spが小さい)金属化合物M’
x’A
y’の、溶解度積の差が10ケタ(10
10)程度以上の大小差があるときに、より詳しくは、下記式で定義される△が10以上であることにより、溶解しやすい金属化合物の電解液中への溶解が抑制され、その溶解しやすい金属化合物の抽出が可能となる。
【0041】
Δ=pK
sp[M’
x’A
y’]−pK
sp[M
xA
y]
=(−log
10K
sp[M’
x’A
y’])−(−log
10K
sp[M
xA
y])
ここで、MとM’は異なる金属元素であり、AはMまたはM’と化合物を形成する単原子または原子団であり、x、x’、y、y’はM、M’、Aの価数に応じて決まる前記化合物の組成比を表し、前記溶解度積K
spは水溶液中25℃での値である。
なお、金属化合物M
xA
yが、溶解しやすい(溶解度積K
spの大きい)金属化合物であり、金属化合物M’
x’A
y’が、溶解しにくい(溶解度積K
spが小さい)金属化合物である。
【0042】
溶解度積の差△が10以上であれば、MとM’間でイオン交換反応は進行すると考えられる。溶解度積の差△は大きいほど、イオン交換反応速度が速くなると考えられ、すなわち、イオン交換反応によるバリアシートの形成が速くなると考えられるので、好ましい。特に、抽出対象となる、金属化合物M
xA
yの溶解度積K
spが非常に大きい場合、電解液中への溶解する速度が非常に速いが、バリアシートの形成を速くすることで、溶解しやすい金属化合物M
xA
yの溶解を抑制可能となる(言い換えると、抽出対象物が溶解する前に、バリアシートが形成され、抽出対象物の溶解を抑制できる)。
【0043】
この点で、△は、11以上大きいことが好ましく、12以上大きいことがさらに好ましくは、13以上大きいことがさらに好ましく、14以上大きいことがさらに好ましく、15以上大きいことがより好ましく、16以上大きいことがさらに好ましく、17以上大きいことがさらに好ましく、18以上大きいことがさらに好ましく、19以上大きいことがさらに好ましく、20以上大きいことがさらに好ましく、21以上大きいことが好ましく、22以上大きいことがさらに好ましく、23以上大きいことがさらに好ましく、24以上大きいことがさらに好ましく、25以上大きいことがより好ましく、26以上大きいことがさらに好ましく、27以上大きいことがさらに好ましく、28以上大きいことがさらに好ましく、29以上大きいことがさらに好ましく、30以上大きいことがさらに好ましく、31以上大きいことが好ましく、32以上大きいことがさらに好ましくは、33以上大きいことがさらに好ましく、34以上大きいことがさらに好ましく、35以上大きいことがより好ましく、36以上大きいことがさらに好ましく、37以上大きいことがさらに好ましく、38以上大きいことがさらに好ましく、39以上大きいことがさらに好ましく、40以上大きいことがさらに好ましい。
【0044】
表1に、水溶液中 25℃での硫化物の溶解度積K
spと、硫化物間のpK
sp(=−log
10K
sp)の差Δを示す。表中で、二重線の枠(または濃いグレーの枠)はpK
spの差Δが22以上である硫化物の組み合わせであり、それらの組み合わせではイオン交換反応およびそれによるバリアシート形成が容易にまたは秒単位で進行すると予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が◎と表現される。太線の枠(または薄いグレーの枠)はpK
spの差Δが10以上22未満である硫化物の組み合わせであり、数分から数時間単位でかかったりすることがあるが、イオン交換反応およびそれによるバリアシート形成は進行すると予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が○〜△と表現される。細い線の枠(または白い枠)はpK
spの差Δが10未満である硫化物の組み合わせであり、それらの組み合わせではイオン交換反応およびそれによるバリアシート形成は進行しにくいと予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が△〜×と表現される。
なお、硫化物の溶解度積に関して、同じ元素の硫化物であっても結晶形態等によって、異なる溶解度積を示すものがある。表1では、pK
spの差Δが小さくなる結晶形態等を有する硫化物を列記している。これは、pK
spの差Δが大きくなる形態であっても、対象となる硫化物とのpK
spの差Δが10以上となり、交換反応が進行すると考えられるからである。
【0045】
また、表1の中では、最も溶解度積K
spの大きい硫化物はMnSであるが、実際にはMgSのようにMnSよりも溶解しやすい化合物も存在している。ただし、MgS等の溶解度は非常に大きく、正確な測定値が存在しない。しかしながら、経験的に、MgSのようにMnSよりも溶解しやすい化合物の存在は知られており、その溶解度積K
spは、MnSの溶解度積K
spよりも大きいと考えられる。したがって、MgSのようにMnSよりも溶解しやすい化合物が抽出対象化合物M
xA
yである場合の△は、抽出対象化合物がMnSであるとした場合の△よりも大きいとみなすことができる。
【0046】
抽出対象物M
xA
yを、MnSよりも大きい溶解度積K
spを有する金属化合物としてもよく、つまり、溶解度積K
spが3×10
−14より大きい金属化合物としてもよい。したがって、抽出対象物M
xA
yが、MgSであってもよい。
そのような大きい溶解度積K
spを有する金属化合物(例えばMgS)は、通常の電解液に容易に溶解するが、本発明により溶解が抑制され、これまで正確に得られなかったデータを得るという効果を顕著に享受することができる。
【0048】
上記の溶解度積K
spは水溶液中の値であるが、同じ極性溶媒のメタノール等の非水溶媒中でも同じ傾向があることが推定される。このことから、本発明の電解液は、非水溶媒系であってもよい。
【0049】
本発明者らは、試験を行い、表2で示すとおり、非水溶媒(低級アルコール)を用いた場合でもK
spより求められるpK
sp(−log
10K
sp)の差Δが10以上で、反応が認められることが確認している。具体的には、以下の確認試験を行った。
・抽出対象物を含む試料として、MgSを含有する鋼材2種(MgSの粒径が1μm以上のもの、及び粒径100〜150nmのもの)を用意し、それらの表面に鏡面研磨仕上げを行った。
・イオン交換を行う金属M’+イオンとして、Ag、Cu、Pb、Co、Zn、Niの金属イオン濃度が、それぞれ1000μg/mlの6種類の原子吸光分析用標準溶液(M’+溶液)を用意した。M’溶液0.1mlを非水溶媒であるメタノール0.3mlと混合した。
・鋼材表面に混合液を塗布して、鋼材表面の変化を確認した。
AgおよびCuを含む混合液を塗布したものは、塗布から5分以内に鋼材の表面が黒色に変化した。Pbを含む混合液を塗布したものは、塗布から10分程度で鋼材の表面が黒色に変化した。Co、Zn、Niを含む混合液を塗布したものは、塗布から20分程度で鋼材の表面が黒色に変化した。
・さらに、変色のあった鋼材についてSEMおよびEDS観察を行ったところ、いずれもMgS粒子の表面でMgと金属M’とのイオン交換(すなわち、バリアコード形成)が生じていることが確認された。
このことから、本発明の範囲では、溶解度積K
spは水溶液中の指標であるが、非水溶液に適用することが可能であり、そこでの溶解度積K
spは水溶液中と同様の傾向を示すことが推定される。
・また、pK
spの差Δが大きいほど、イオン交換反応が速いことも確認された。一方で、pK
spの差Δが小さくとも、相対的に反応速度は遅くなるものの、着実にイオン交換反応が進行することも確認された。
【0051】
抽出対象金属化合物の表面での反応について、説明する。ここでは、抽出対象金属化合物がMgSであり、イオン交換される金属イオンがAgイオンである場合の例を用いる。まず、Agの硫化物は、MnSとのpK
spの差Δが36.6であるため、MgSとのpK
spの差Δはさらに大きく、容易にMgS粒子表面のMgとイオン交換反応を生じる。
Agイオンは、MgS粒子の表面のMgとイオン交換され、Mgイオンを電解液中に追い出すと共に、自身は、MgS粒子表面にAg
2Sとして残留する。表面に形成されたAg
2Sは、溶解度が低く、表面層で被覆されたMgS粒子の溶解を抑制する、バリアシートとして働く。
概略的な反応メカニズムは次のとおりである。
MgS+Agイオン → Ag
2S+MgS(Agでカバーされる) 水に分解しない。
【0052】
さらに、電解抽出時間が長くなると、Ag
2Sのバリアシートで被覆されているMgS粒子の表面で、さらにイオン交換反応が進行することがある。すなわち、MgS粒子の表面から内部へ向かって、Ag
2Sで浸潤されていくことがある。MgS粒子の中心部分まで完全にAgとイオン交換されることもある。
【0053】
またAg
2Sは、Hイオンと反応すると、容易に還元され、金属Agとして存在することもでき、金属Agは水に不溶である。概して、Hイオンは、電解液中にも含まれているので、MgS粒子表面の少なくとも一部が、金属Agによるバリアシートで被覆されてもよい。
【0054】
このようにして、これまで電解液中に溶解してしまっていたMgS粒子を、Ag
2SやAgによるバリアシートで被覆することができ、析出物や介在物中で安定的に存在させることが可能となり、MgS粒子のサイズ分布や、個数密度等の推定に役立てることができる。
MgS粒子の中心部分まで完全にAgで浸潤したとしても、浸潤して形成されたAg
2S粒子またはさらに還元されたAg粒子の観察を通じて、鋼中に存在していたMgS粒子のサイズ分布や、個数密度等の推定に役立てることができる。
【0055】
イオン交換反応を生じる、バリアシートを形成するための金属M’としては、抽出対象金属化合物M
xA
yに対してpK
sp差Δが大きいほど、バリアシートを形成しやすいと考えられ、好ましい。この点から、大きいpK
spを有する金属化合物M’
x’A
y’の金属M’が、Hg、Ag、Cu、Pb、Cd、Co、Zn、およびNiの少なくとも一つであってもよく、これらは金属M’イオンになり、小さいpK
spを有する金属化合物M
xA
yのバリアシートになり得る。
【0056】
金属M’を、電解液に添加する方法として、金属M’の化合物、例えばM’
x’A
y’の形態で添加してもよく、金属M’イオンを含む溶液の形態で添加されてもよく、または、金属M’の形態で添加してから電解液中に溶解させてもよい。
【0057】
金属M’が、鋼材試料中に含まれていることがあるので、鋼材試料中に含まれない金属を電解液に添加することが好ましい。鋼材試料中に含まれるものと、電解液に添加したものとの違いが明確であり、その後の分析が明確となるからである。この点で、HgやAgは、一般的に鋼中での含有率が低いので、電解液に添加する金属M’として好適である。また、HgやAgの化合物は、溶解度積が小さく、すなわちバリアシートを形成する能力が高いと考えられる点でも、好適である。そのため、金属M’は、Hg、Agの少なくとも一つであってもよい。
【0058】
本発明による電解液は、金属M’の濃度が0.0002〜0.2質量%であってもよい。金属M’が0.0002質量%(2ppm)以上であれば、十分に、抽出対象である(溶解しやすい)化合物M
xA
yの表面にバリアシートを形成できる。電解液中での金属M’濃度を更に高めることは可能であり、抽出対象物の量に応じて適宜調整してもよい。ただし、金属M’濃度を高めても、イオン交換速度は向上せず、コストの高騰を招くだけであるので、濃度の上限は0.2質量%(2000ppm)としてもよい。
【0059】
金属化合物M
xA
y、M’
x’A
y’におけるAは、MまたはM’と化合物を形成する単原子または原子団であり、C、N、H、S、O、PならびにFの原子からなる群より独立して選ばれる1つ以上の原子を含んでもよい。
【0060】
電解液は、電解槽中で攪拌されてもよい。これにより、抽出対象である化合物M
xA
yの表面が金属M’イオンに接触しやすくなり、バリアシートが形成されやすくなる。攪拌の手段は、特に限定されないが、気泡発生器によるバブリング、マグネチックスターラーによる渦流等を用いてもよい。または、金属M’イオンを含む溶液の液滴を抽出対象を含む鋼材の近傍に滴下してもよい。金属M’イオンに接触しやすいように、バブリングであれば100cc/分、好ましくは200cc/分、スターラーであれば100rpm、好ましくは200rpmを、下限としてもよい。バブリング量やスターラー回転数が高すぎると、電解対象物表面の剥離や、抽出対象である化合物M
xA
yの溶解が促進される等の問題を生じる。そのため、バブリングであれば600cc/分、好ましくは500cc/分、スターラーであれば600rpm、好ましくは500rpmを上限としてもよい。
なお、一般的な電解操作において電解液の攪拌を行う場合、攪拌によって生じる電解液の流れが電解対象物に接触しないように、攪拌操作が行われる。これは、攪拌によって生じた電解液の流れが電解対象物に影響を与えないようにするという考えに基づく。本発明では、バリアシートを形成する金属M’イオンが、抽出対象である化合物M
xA
yの表面に接触しやすいという観点から、攪拌等によって生じる電解液の流れが電解対象物に接触するように、攪拌または供給してもよい。
また、バブリングのための気体としては窒素ガスやヘリウム、アルゴン等の不活性ガスが挙げられる。酸素や水素等の活性ガスは、電解液中の溶存酸素濃度に影響を与えるおそれがあり、電解対象物に影響を与えるおそれがあるため、好ましくない。
【0061】
本発明における金属材料が鉄鋼材料であってもよい。鉄鋼材料とは、鉄を主成分とする材料を指し、微量の炭素を含んでもよい。
【0062】
エッチング後の電解液をフィルターに通し、捕集した残渣として金属化合物粒子を抽出する際に、前記フィルターが4フッ化エチレン樹脂製フィルターであってもよい。介在物や析出相5や残渣11(図示せず)の同定・定量分析するために、電解液から介在物或いは析出相5や残渣11を濾し採るフィルターについては、従来使用されているニュークリポアフィルター(GE社製)では、溶解損傷して残渣を濾し採ることが難しい。
【0063】
本発明により、上記の方法により抽出した金属化合物粒子を分析することも提供されてもよい。金属化合物物粒子について、XRFにより概略組成分析を行い、またはICPにより精緻な組成分析を行ってもよい。また、表面分析手法として、SEMによる観察、EDSによる元素解析等を用いてもよい。エッチングの途中で、金属化合物が抽出される試料の表面を分析することにより、時系列で金属化合物の抽出される状況を観測することもできる。
【0064】
本発明により、鋼中では安定でも、水溶液またはエタノール、メタノールなどの有機溶媒中で容易に加水分解しやすい析出物、介在物を、電解液中に溶解することを抑制することができ、その結果、それらの析出物、介在物のサイズ分布、個数密度に関する正確なデータを得ることができる電解液、および電解抽出方法を提供することができる。
【0065】
上記の説明では、金属化合物として、主に金属硫化物を用いていたが、金属化合物は硫化物に限られるものではない。いずれの化合物種であっても、溶解度積の差に応じて、バリアシートの形成は生じ得ると考えられる。表3は、水溶液中 25℃でのセレン化物間のpK
sp(=−log
10K
sp)の差Δを示したものである。表3中で、二重線の枠(または濃いグレーの枠)はpK
spの差Δが22以上であるセレン化物の組み合わせであり、それらの組み合わせではイオン交換反応およびそれによるバリアシート形成が容易にまたは秒単位で進行すると予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が◎と表現される。太線の枠(または薄いグレーの枠)はpK
spの差Δが10以上22未満であるセレン化物の組み合わせであり、数分から数時間単位でかかったりすることがあるが、イオン交換反応およびそれによるバリアシート形成は進行すると予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が○〜△と表現される。細い線の枠(または白い枠)はpK
spの差Δが10未満であるセレン化物の組み合わせであり、それらの組み合わせでは交換反応およびそれによるバリアシート形成は進行しにくいと予想される。簡易的に記号で表せば、交換反応の期待度(予測)が△〜×と表現される。
【0067】
本発明によれば、セレン化物についても、適用が可能である。
【0068】
さらに本願発明により、上記の電解液を用いて、抽出対象金属化合物M
xA
yの粒子を少なくとも表面が前記金属M’またはその化合物で被覆された形態で抽出することを特徴とする金属化合物粒子の抽出方法も提供される。
【0069】
本願発明に係る電解液は、上記した以外の成分として、必要に応じて、SDSなどの粒子分散剤を含んでもよい。
【実施例1】
【0070】
以下、実施例を通じて、本願発明について説明する。ただし、本願発明は、以下の実施例に限定して解釈されるべきではない。
【0071】
本願発明に係る電解液及び電解方法によって、鉄鋼試料における介在物或いは析出相の観察を行った。
鉄鋼試料として、C:0.07wt%,Si:0.05wt%、Mn:1.45wt%,S:0.005wt%、Cu:0.3wt%、Al:0.08wt%、Mg:0.007wt%含んだ厚板用鋼材を20mm×40mm×2mmの大きさに加工して、鏡面研磨仕上げした。得られた鋼材を
図1に示す装置で定電流電解による電解エッチングを約20クーロン施した。
電解液として、次の2種類を用いて同じ鉄鋼試料の介在物或いは析出相の観察を行った。
(1)比較例の電解液:従来から知られている硫化物系介在物を残渣として回収できる4質量%サリチル酸メチル+1質量%サリチル酸+1質量%塩化テトラメチルアンモニウム(TMAC)を含む電解液(4%MS)
(2)本願発明に係る電解液:上記の4%MS電解液500mlに、原子吸光用 1000ppmAg標準溶液(5%HNO3)を1ml添加し、2ppmAg相当の濃度としたもの。
なお、溶媒は(1)(2)のいずれでもメタノールとした。
電解エッチング終了後、さらに、各電解液に約40分浸漬し放置した後、清浄メタノールで電解液を落としたあと、鉄鋼試料を風乾させSEM観察に供した。
【0072】
SEM−EDS分析結果
比較例(1)および本発明例(2)の電解液によるエッチングで得られた鉄鋼試料表面の微粒子のEDX分析を行った。
比較例(1)では、MnSのピークは認められたが、Mgのピークは認められなかった。これは、電解液の中でMgSが容易に溶解したためである。
本発明例(2)では、比較例(1)と異なり、Mgのピーク、および微粒子の表層にコーティングされたAgのピークが出現していた。これは、水、メタノール等に溶解しやすいMgS表層にAgイオンがアタックしてイオン交換反応を起こすことにより(Mn,Mg)S粒子の表層に、水への不溶性が高い、Ag
2S、またはAgコーティングが生成したために、電解液に40分放置しても溶解しなかったためと理解できる。
【0073】
図2に、(2)の電解液によるエッチングで得られた鉄鋼試料表面の微粒子のSEM−EDS画像を示す。
図2において、左上画像が観察した微粒子のSEM観察像であり、右上画像がSEM観察像に、EDSにより計測したAg濃度のチャートを重ねて示したものであり、左下画像がMg濃度のチャートを重ねて示したものであり、右下画像がS濃度のチャートを重ねて示したものである。
図2の各元素濃度のチャートから、MgS粒子の表面部がAg
2SまたはAgで置換されていることが確認される。チャートにおける各元素の高さ(濃度)は相対的なものであるが、以下のことが読み取れる。具体的には、約100nm径の球形の微粒子が確認でき、この微粒子が存在する範囲において、Ag、MgおよびSのグラフの値が山型に上昇しており、当該微粒子が、中心に(MgS)核を持ち、その周囲がAg
2SまたはAgでコーティングされていた。この知見に基づいて作成された、当該微粒子の概略的な断面図は、
図3のようになる。本発明により電解抽出された、表面にAg
2SまたはAgでバリアーコートされたMgS粒子の粒径は、電解前の鉄鋼試料の鏡面研磨された表面をSEM−EDSで観察して確認されたMgSの粒子径と概ね一致していた。
【0074】
上述した結果から、従来の電解液を用いて、鉄鋼試料を電解し、SEM等による観察とEDSによるミクロ分析を行うと、本来、鉄鋼材料中で観察されるMgSが、電解液に溶解したことが確認された。
これに対して、本願発明に係る電解液を用いれば、上述した不具合が発生することなく、MgSは、Agによってコーティングされたために、溶解が抑制され、電解液中に安定してMgSの粒子を存在させることができた。これにより、これまで溶解してしまって分析が行えなかったMgS等の溶解しやすい金属化合物について、SEM等による観察やEDSによるミクロ分析もできるので、鉄鋼試料の分析精度の向上に大いに寄与することができる。