(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2022-07-21
(45)【発行日】2022-07-29
(54)【発明の名称】結合力に影響するアミノ酸残基の推定法
(51)【国際特許分類】
G16C 20/62 20190101AFI20220722BHJP
G16B 5/00 20190101ALI20220722BHJP
【FI】
G16C20/62
G16B5/00
(21)【出願番号】P 2018064889
(22)【出願日】2018-03-29
【審査請求日】2021-01-27
(73)【特許権者】
【識別番号】000000941
【氏名又は名称】株式会社カネカ
(74)【代理人】
【識別番号】100107766
【氏名又は名称】伊東 忠重
(74)【代理人】
【識別番号】100070150
【氏名又は名称】伊東 忠彦
(74)【代理人】
【識別番号】100107515
【氏名又は名称】廣田 浩一
(74)【代理人】
【識別番号】100107733
【氏名又は名称】流 良広
(74)【代理人】
【識別番号】100115347
【氏名又は名称】松田 奈緒子
(72)【発明者】
【氏名】大島 勘二
(72)【発明者】
【氏名】吉田 慎一
【審査官】鈴木 和樹
(56)【参考文献】
【文献】特開2018-173848(JP,A)
【文献】特開2017-201463(JP,A)
【文献】特開2011-158996(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G16C 10/00 - 99/00
G16B 5/00 - 99/00
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
結合力に影響するアミノ酸残基を推定するための方法であって、
ホロ体の対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを、シミュレーション時間が
50ナノ秒以上200ナノ秒以下の分子動力学法により求める工程、
アポ体の対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを、シミュレーション時間が
50ナノ秒以上200ナノ秒以下の分子動力学法により求める工程、
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間のアミノ酸残基のゆらぎの
変化量を算出する工程、
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間の
各アミノ酸残基の上記ゆらぎの変化量の大きい順にアミノ酸残基を並べた場合に、上位のアミノ酸残基が、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基であると推定する工程を含
み、
上記アミノ酸残基のゆらぎが、対照ペプチドの各アミノ酸残基の全体構造の重心、側鎖の重心、CA原子またはCB原子の位置情報を基準とした各アミノ酸残基の平均位置からの、各アミノ酸残基のずれの時間平均(RMSF)であり、
ホロ体の対照ペプチドの各アミノ酸残基のゆらぎ(RMSF_holo)とアポ体の対照ペプチドの各アミノ酸残基のゆらぎ(RMSF_apo)との間の、各アミノ酸残基のゆらぎの変化量が、下記式(1)により算出されることを特徴とする方法。
【請求項2】
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間の各アミノ酸残基の上記ゆらぎの変化量の大きい順にアミノ酸残基を並べた場合に、上位15%以内のアミノ酸残基が、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基であると推定する請求項1に記載の方法。
【請求項3】
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間の各アミノ酸残基の上記ゆらぎの変化量の大きい順にアミノ酸残基を並べた場合に、上位50%以内であり、かつリガンドから8Å以内に存在するアミノ酸残基が、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基であると推定する請求項1に記載の方法。
【請求項4】
上記対照ペプチドのアミノ酸残基数が500以下である請求項1から3のいずれかに記載の方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基を計算機上で推定する方法に関するものである
【背景技術】
【0002】
タンパク質は一般的に溶液中で一定の三次構造を形成するが、タンパク質を構成している個々の原子は完全に静止しておらず絶えず動いている。この動きは、タンパク質の物性や機能に密接に関連するため、その動きをウエットな実験やドライな解析で評価する研究は盛んになされている。ウエットな実験とは実験動物や細胞などを用いた実験であるのに対して、ドライな解析とは、実験動物や細胞などを用いることなく、主にコンピュータを用いるものである。ドライな解析として、タンパク質などの生体分子の個々の原子の動きをコンピュータ上でシミュレーションする手法は「分子動力学」と呼ばれる(非特許文献1)。
【0003】
分子動力学法(Molecular Dynamics:MDと呼ぶ)を用いたタンパク質とリガンドの結合力(ΔG:結合自由エネルギー)の予測に関して、予測精度が現在最も満足できる計算手法としてFreeEnergy Perturbation(FEP)法やThermo-dynamic Integration(TI)法が挙げられる。これらの手法は構造の差異が小さい2つの化合物間のΔGの差(ΔΔG)を求めることにより計算誤差がある程度相殺されることで精度が高い。しかし、FEP/TI法の計算には、数多くの中間状態の分子シミュレーションが必要で、マイクロ秒スケールの長時間シミュレーションを要する。そのため多数の変異体の計算を必要とする網羅的な変異スクリーニング(アミノ酸の数の20のN乗:Nは変異させるアミノ酸残基の個数)にこれらの計算手法を適用するのは非現実的である。もちろん、ペプチドの変異をデザインするごとにそのペプチドを実際に合成してアッセイすることは、時間や労力が過剰にかかるため考えられない。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0004】
【非特許文献】
【0005】
【文献】Karplus M,McCammon JA.,Nat.Struct.Biol.,2002年,9巻,646-652頁
【文献】Bekker.G.J.,J.Chem.Theory.Comput.,2017年,13巻,2389-2399頁
【文献】Kokubo.,J.Chem.Theory.Comput..,2013年,9巻,4660-4671頁
【文献】Patrick J,Nature.,2008年,453巻,1258-1262頁
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
分子動力学法(MD法)は、原子間で力を受けた原子がどのように運動するかをニュートンの運動方程式に基づいて計算し、原子の配置がどのように変わったかを明らかにする。かかるプロセスを繰り返してペプチドの結合力を向上/低下させる変異を網羅的な探索により見出す場合、膨大な時間がかかるという課題があった。そこで本発明は、ペプチドの結合力に影響する変異点を計算機上であらかじめ推定する方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0007】
本発明者らは、上記課題を解決するために、鋭意研究を進めた。その結果、対照ペプチドを変異させた場合の結合力に影響するアミノ酸残基を推定するに当たり、野生型の対照ペプチドとそのペプチドに結合するリガンドが結合した状態(複合体状態:ホロ体)および解離した状態(単量体状態:アポ体)の両状態において定温・定圧条件下で200ナノ秒以下の分子動力学計算を実施し、リガンドポケット周辺に存在しリガンドと直接相互作用するアミノ酸残基(リガンドからの距離が4.0Å以内)に限らず近傍のアミノ酸残基(リガンドからの距離が8.0Å以内)や、対照ペプチドすべてのアミノ酸残基に対して、計算したトラジェクトリからアミノ酸残基ごとの側鎖のゆらぎの変化量を計算した。その結果、両状態間で側鎖のゆらぎの変化量が大きいアミノ酸残基が、リガンドと直接相互作用するしないに関わらず対照ペプチドの結合力の向上/低下に影響するアミノ酸残基に該当することを見出して本発明を完成した。以下、本発明を示す。
【0008】
[1] 結合力に影響するアミノ酸残基を推定するための方法であって、
ホロ体の対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを、シミュレーション時間が200ナノ秒以下の分子動力学法により求める工程、
アポ体の対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを、シミュレーション時間が200ナノ秒以下の分子動力学法により求める工程、
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間のアミノ酸残基のゆらぎの差を算出する工程、
ホロ体の対照ペプチドとアポ体の対照ペプチドとの間の上記アミノ酸残基のゆらぎの差を比較することにより、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基を推定する工程を含むことを特徴とする方法。
【0009】
[2] 上記シミュレーション時間を50ナノ秒以上とする上記[1]に記載の方法。
【0010】
[3] 上記対照ペプチドのアミノ酸残基数が500以下である上記[1]または[2]に記載の方法。
【0011】
[4] 上記アミノ酸残基のゆらぎが、上記対照ペプチドのアミノ酸残基の全体構造の重心、側鎖の重心、CA原子またはCB原子の位置情報のゆらぎである上記[1]~[3]のいずれかに記載の方法。
【発明の効果】
【0012】
ペプチドの結合力に影響する変異をスクリーニングするに当たり、変異をデザインする毎にペプチドを実際に合成してアッセイしていては労力、時間、コストなどがかかり過ぎるので、現実的ではない。また計算機で結合力を評価するとしても、網羅的に結合力に影響する変異を探索していては、計算時間のコストが膨大となり現実的でない。そこで、変異前後でペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基をあらかじめ計算機で推定し、変異体を絞り込むことで時間的コストを削減することが考えられる。
【0013】
本発明方法は、200ナノ秒以下のシミュレーション時間の分子動力学計算をホロ体、アポ体の二状態で実施することで、アミノ酸残基ごとのゆらぎを評価する。評価結果が実験で確認された結合力に影響するアミノ酸残基を含むことから、膨大な数の変異ペプチドデザインの中から、結合力に影響する変異体をスクリーニングする場合に非常に有用であるといえる。
【図面の簡単な説明】
【0014】
【
図1】リガンドから8Å以内に存在する各アミノ酸ごとのΔRMSFを示した図である。実験で確認された結合力に影響するアミノ酸残基を*で示した。
【発明を実施するための形態】
【0015】
本発明方法は、ペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基を推定するための方法である。以下に本発明で考案した推定方法を示す。
【0016】
野生型の対照ペプチドのホロ体、アポ体のアミノ酸残基ごとのゆらぎの変化量を基準にペプチドの結合力に影響するアミノ酸残基を推定する。ゆらぎを計算するにあたり、分子動力学計算が安定に推移する状態のトラジェクトリにおいて、初期構造からの位置のずれを全体の原子数で平均した量(Root Mean Squared of Distance;RMSDと呼ぶ)の変化が一定の領域を使って各アミノ酸残基の平均位置を計算する。その平均位置からのずれの時間平均がゆらぎ(Root Mean Squared of Fluctuation;RMSFと呼ぶ)である。ゆらぎを計算する対象としては、対照ペプチドのアミノ酸残基の全体構造の重心、側鎖の重心、CA原子またはCB原子の位置情報であることが好ましく、対照ペプチドのアミノ酸残基の側鎖の重心の位置情報であることがもっとも好ましい。ゆらぎの変化量はホロ体、アポ体の2状態間のゆらぎ(以下でアポ体のゆらぎをRMSF_apo、ホロ体のゆらぎをRMSF_holoと呼ぶ)を使って記述される式であることが好ましく、以下に定義した式(1)を利用することがもっとも好ましい。
|RMSF_apo ― RMSF_holo|/RMSF_holo (1)
以下、本発明方法の具体的な工程を工程毎に説明する。
【0017】
工程1:ホロ体の対照ペプチドのゆらぎの計算工程
本工程では、結合対象となるリガンドと結合状態(複合体状態)にある対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを、シミュレーション時間が200ナノ秒以下の分子動力学法により求める。
【0018】
本発明において「ペプチド」とは、ポリペプチド構造を有するあらゆる分子を含むものであって、いわゆるタンパク質のみならず、断片化されたものや、ペプチド結合によって他のペプチドが連結されたものも包含されるものとする。例えば、ペプチドにはペプチドドメインも含まれる。「ペプチドドメイン」とは、タンパク質の高次構造上の単位であり、数十から数百のアミノ酸残基配列から構成され、なんらかの物理化学的または生物化学的な機能を発現するに十分なペプチドの単位をいう。本発明においては、ペプチドとタンパク質は基本的に同義であるが、一般的には立体構造を取る程度のアミノ酸数からなるペプチドはタンパク質と呼ぶ。
【0019】
本発明が適応されるペプチドの大きさに特に制限はないが、計算ソフトの仕様、計算機のスペック、および、予定する計算所要時間によって、実用上の上限は決まる。ペプチドのアミノ酸残基数の上限としては、好ましくは500残基であり、より好ましくは300残基であり、さらにより好ましくは100残基である。アミノ酸残基数の下限は、立体構造を取る限りにおいて特に制限はないが、好ましくは10残基であり、より好ましくは30残基であり、さらにより好ましくは50残基である。
【0020】
本工程でホロ体のゆらぎを計算する「対照ペプチド」は、後記のアポ体ペプチドのゆらぎを評価する基準となるものであれば特に制限されない。例えば、天然型のペプチドを挙げることができる。ただし、この天然型ペプチドは、厳密な意味で天然由来のものである必要は無く、立体構造を形成したり或いは機能を発揮する最小単位のものであれば、糖鎖やその他のペプチド部分を欠失させたものであってもよい。また、対照ペプチドは、ある程度の結合力を示す変異ペプチドであってもよい。
【0021】
本工程では、結合対象となるリガンドと結合状態(ホロ体:複合体状態)にある対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを分子動力学法(MD法)により計算する。ペプチドを構成する原子は、例えば溶液中で静止しているわけではなく、少しずつ位置を変えている。このような原子の動きを計算機の中で再現するために使用されるのが分子動力学法である。
【0022】
分子動力学法では、先ず、X線結晶構造などの三次元構造情報を基に、原子の最初の配置を決める。計算に用いるペプチドの結合状態におけるホロ体の立体構造は、X線結晶構造、NMR、電子顕微鏡イメージング等の公知の実験手法によって得られ、そのような情報が無くても、一次配列の類似性に基づく立体構造ホモロジーモデリングやドッキングシミュレーションによって構築することも可能である。立体構造モデリングは、例えば、専用ソフトであるModeller(https://Salilab.org/modeller/)や、Homology Modeling for Hyperchem(http://www.molfunction.com/jp/software1.htm)など、ドッキングシミュレーションはAutoDock(http://autodock.scripps.edu/),rDock(http://rdock.sourceforge.net/)を利用して実施することができる。近年報告されているマルチカノニカル分子動力学法やレプリカ交換法などの拡張アンサンブル法を用いたドッキングシミュレーションによって高精度にホロ体の構造を構築することも可能である(非特許文献2,3)。
【0023】
以上の通り原子の最初の配置を決めた後に,安定な分子シミュレーションを実施するために、十分大きなセルサイズを設定し、周りに溶媒分子を配置させ、セル内の環境が生理的な溶液状態で中性になるようにNa+イオン、Cl-イオンを挿入し、周期的境界条件のもと、1個の原子に他の原子から及ぶ力を計算する。かかる力としては、結合の伸縮エネルギー、結合角の変角エネルギー、ねじれ(トーション)エネルギー、ファンデルワールス相互作用エネルギー、静電相互作用エネルギー、水素結合エネルギーなどを挙げることができる。分子を構成する全ての原子に働く力の総和が「ポテンシャルエネルギー」である。
【0024】
次に、その力を受けた原子がどのように運動するかをニュートンの運動方程式に基づいて計算する。これにより、最初の配置から短い刻み時間の後に、原子の配置がどう変わったかが分かる。変化後の配置を新たな出発点として、同様の計算を再び行う。非常に短い時間の刻みでこれを繰り返すと、原子が徐々に動く様子が再現できる。このように、(i)原子の配置の決定、(ii)原子に働く力の計算、(iii)原子の動きの計算、という(i)~(iii)を計算機で繰り返し、時間の経過に伴って変化する物理量や立体構造を任意に抽出し、それらを統計処理したり画像表示するなどして、生体分子や化合物の構造、物性を解析する方法が分子動力学法(MD法)である。安定な分子シミュレーションを実施するためには、溶媒分子の構造緩和と計算系のセルサイズの決定が必要である。そのため、まずセルサイズを固定したまま、タンパク質の主鎖原子に位置拘束をかけた粒子数、体積、温度一定のMD計算(NVT計算と呼ぶ)を行って溶媒分子の構造緩和を行った後、粒子数、圧力、温度一定のMD計算(NPT計算と呼ぶ)を行って計算系全体の平衡化を行うことで計算系のセルサイズを決定するのが好ましい。平衡化の計算で得られた最終構造のセルサイズを用いてNPT計算を実施し、安定な分子シミュレーションを継続する。ダイナミクスを解析する方法の1つとして、平衡化後のシミュレーション中の一定時間においてその平均構造からのずれ(ゆらぎ)を求める方法がある。
【0025】
本発明における分子動力学法の「シミュレーション時間」とは、上記計算の継続によって原子の動きを追った計算系の平衡化後のシミュレーション時間を指す。上記の短い刻みの時間を、本発明では「ステップ時間」と定義する。ステップ時間は、通常は0.1~10フェムト(10-15)秒であり、好ましくは0.5~2フェムト秒である。本発明では、特段の断りが無い限り、ステップ時間は2フェムト秒(2fs)とする。上記の計算系の平衡化後のシミュレーションの繰り返しの回数を、本発明では「ループ回数」と定義する。本発明におけるループ回数は、ステップ時間を2フェムト秒としたときに、その下限は、25,000,000が好ましい。本明細書における「シミュレーション時間」とは、「ステップ時間」と「ループ回数」の積で表される時間を指す。すなわち、本発明におけるシミュレーション時間は、50ナノ秒(50ns)以上、200ナノ秒以下が好ましい。本工程でのシミュレーション時間が少なくとも50ナノ秒以上であれば、シミュレーションの系がより確実に平衡に達し得るので期待する効果(結合力の向上/低下)と関連するゆらぎの変化量を最終的に導き出すことができる。一方、当該シミュレーション時間が200ナノ秒以下であれば、十分に高精度なゆらぎの変化量を最終的に導き出せる範囲で、結合力に影響するアミノ酸残基の効率的な推定が可能になる。当該シミュレーション時間としては、50ナノ秒以上がより好ましく、200ナノ秒以下がより好ましい。
【0026】
ペプチドなどの分子中に存在する各原子が、どのような力を受けているのかを関数として数式化したものが分子力場である。分子力場に基づく分子力学計算や分子動力学計算では、原子間に働く力を、原子間の結合を表すパラメータ(結合距離や結合角など)を変数とし、原子の種類や結合様式によって決まるポテンシャル関数で数値として表す。分子の「ポテンシャルエネルギー」は、分子中に働くこれらの全てのポテンシャル関数の総和で表現される。ペプチドのポテンシャルエネルギーは、結合の伸縮エネルギー、結合角の変角エネルギー、ねじれ(トーション)エネルギー、ファンデルワールス相互作用エネルギー、静電相互作用エネルギー、および水素結合エネルギーなどの総和で表されるが、これらに限定されない。また、どのエネルギー項を計算に取り入れるかの選択も、特に限定はされない。また、計算の効率を考慮して、原子間の距離が一定以上であれば計算しない、一般的にカットオフ法と呼ばれる手法を導入してもよい。
【0027】
アミノ酸残基ごとのゆらぎは、ある一定のシミュレーション時間内における平均構造からのずれの時間平均として計算することが好ましいが、これには限定されない。例えば、平均構造からのずれの最大値や最小値を評価に用いても構わない。平均を求める際のサンプリングの時間は、特に限定されないが、初期構造からの位置のずれの平均(RMSD)が平衡に達して安定になる、シミュレーション後半の40ナノ秒程度が好ましい。例えば、シミュレーション時間が100ナノ秒の場合には、60ナノ秒以上、100ナノ秒以下を平均構造を求めるサンプリング時間とすることができる。
【0028】
本発明においては、ペプチドがリガンドに結合したときのアミノ酸残基ごとのゆらぎの変化量を指標として結合力に影響するアミノ酸残基を推定する。ゆらぎの変化量はその値が大きい程、結合の前後で大きくダイナミクスが変化したことを意味する。したがって、ゆらぎの変化量が大きい、すなわち値が大きい方が大きく結合力に影響した可能性が高いことが示唆される。
【0029】
ペプチドの分子動力学法による計算用プログラムとしては、AMBER(http://ambermd.org/)、CHARMM(http://www.charmm.org/charmm/)、NAMD(http://www.ks.uiuc.edu/Research/namd/)、GROMACS(http://www.gromacs.org/)、および、MyPresto(http://presto.protein.osaka-u.ac.jp/myPresto4/)などが挙げられる。計算に関しては、通常の一定温度下での粒子数・圧力一定(NPTアンサンブル)計算が好ましいが、特にこれには限定されない。
【0030】
計算は、280K以上、320K以下程度の設定温度下で行うのが一般的であるが、対象とするペプチドや見たい現象によっては、320K超の高温で計算しても問題は無い。通常のWet実験では実施が困難な温度でのシミュレーションが可能なことが計算機での計算の利点であり、計算時の設定温度は特に限定されない。
【0031】
計算においては、溶媒効果を考慮することが好ましく、溶媒分子をペプチドなどと同じ様に1個1個の分子として取り扱う系で計算するのが好ましい。
【0032】
工程2:アポ体の対照ペプチドのゆらぎの計算工程
本工程では、結合状態にある対照ペプチドの代わりに解離状態(アポ体)にある対照ペプチドを用いる以外は上記工程1と同様に対照ペプチドのアミノ酸残基のゆらぎを算出する。
【0033】
工程3:ゆらぎの変化量の算出工程
本工程では、上記工程1で求めたホロ体のアミノ酸残基ごとのゆらぎ(RMSF_holo)と上記工程2で求めたアポ体のアミノ酸残基ごとのゆらぎ(RMSF_apo)の変化量(以下、「ΔRMSF」と表記する場合がある)を算出する。ΔRMSFはRMSF_apoの値からRMSF_holoの差の絶対値をRMSF_holoで割ることにより算出する。
【0034】
工程4:ゆらぎの変化量の評価工程
本工程では、対照ペプチドのホロ体のゆらぎとアポ体のゆらぎとの間の上記変化量を比較することにより、結合の際にダイナミクスが変化したアミノ酸残基を推定する。上記工程3で算出した「ホロ体とアポ体の状態間のゆらぎの差」を算出することで、結合力に影響する変異を推定することが可能になる。
【0035】
本発明において「変異スクリーニング」とは、変異による分子の結合力の変化を網羅的に評価し、分子の結合力を変化させる変異を選出することを意味する。結合時に大きくダイナミクスが変化するアミノ酸残基は結合力に影響する可能性が高く、それらのアミノ酸残基をあらかじめ推定しておくことで、網羅的な変異体探索よりも効率的に変異スクリーニングを実施することが可能になる
【実施例】
【0036】
以下、実施例に基づいて本発明をより詳細に説明するが、本発明はこれらの実施例に限定されるものではない。以下では、変位を導入しない野生型ペプチドは、「Wild」の形で表記し、変異としてアミノ酸残基置換した変異ペプチドについては、「導入した変異」の形で表記する。例えば、野生型ペプチドの第3位におけるチロシンをフェニルアラニンに置換した変異を導入した変異ペプチドは、「Tyr3Phe」と表記する。
【0037】
上記したゆらぎ評価法を構造既知でかつ結合力(Ki)の変異体実験結果が報告されているノイラミニダーゼに適用し、ホロ体の構造としてリガンド(Oseltamivir)が結合した構造(PDBID:2HU4)、アポ体の構造としてホロ体の構造からリガンドを解離させた構造を用い、両状態の分子動力学計算をシミュレーション時間100ナノ秒で実施した。リガンドの部分電荷はGaussianを用いて計算し、RESP chargeを用いた。実験で結合力に影響する変異として確認されている変異と阻害定数の実験値(Relative Ki)、を表1にまとめた(非特許文献4)。
【0038】
【0039】
(1)計算系の構築
本実施例の野生型ペプチドはウイルス由来のタンパク質でリガンド(Oseltamivir)が結合した全体の3次元構造がProtein Data Bank(http://www.rcsb.org/pdb/home/home.do,PDBコード:2HU4)に登録されていたので、これをMD計算の初期構造として利用した。また結合力が変化する変異体の実験情報が過去に報告されていたのでこれらを利用した(非特許文献4)。N、C末端をキャップし、ホロ体、アポ体両状態の分子動力学計算により得られたトラジェクトリからゆらぎ解析を実施した。リガンドが結合していないアポ体の構造はホロ体の構造からリガンドを人為的に解離させることでモデリングした。
【0040】
MD計算の工程に進む前に、タンパク質表面から8Å離れた領域までを1つのボックスとして、タンパク質周りに水分子を配置し、計算系の中性化を行った後、タンパク質を構成する重原子に位置拘束をかけて、分子力学(MM)計算によって計算系全体のエネルギー極小化を行った。エネルギー極小化計算は、最急降下法を用い、最初のステップでの原子移動距離RMSD=0.1[Å]、最大計算ステップ数50000、収束判定条件RMSF=100.0[kJ/mol/nm]として行った。次に周期境界条件の下、溶媒の平衡化(重原子位置拘束ありNVT計算、重原子位置拘束ありNPT計算を行ったのち、シミュレーション時間100 [ns] (Δt = 2.0 fs、計50,000,000 step)のNPT計算(カノニカルアンサンブルを実現するパリネロ-ラーマンの温度制御)を実施した。MD計算のエンジンとしては、GROMACSのパッケージ(GROMACS 2016.1版)を用いた。エネルギーや座標等のトラジェクトリ出力は全てデフォルトの設定とし、各アミノ酸残基ごとに60~100nsのスナップショットの平均位置からのずれをホロ体、アポ体のゆらぎ(RMSF_holo、RMSF_apo)とした。ペプチド1種あたり複数回初速度を変えて同じ条件でMD計算を実施し、平均のゆらぎとその標準誤差を算出した。
【0041】
このMD計算には、CPUがXeon E5―2699 v4(クロック周波数2.2GHz、計44コア)、メモリが128GB、GPUカード4枚(GeforceGTX1080)のスペックの計算機を使っており、この際に今回の388残基からなるペプチド1種のシミュレーション時間100ナノ秒のMD計算に掛かった計算所要時間は5コア並列計算と1枚のGPUカードを利用した場合約20時間であった。したがって、通常のラボで用いられるワークステーションで、FEP/TI法により網羅的に数多くの変異体のMD計算を結合力を評価する際は1マイクロ秒オーダー(約200時間)x変異体の数だけ計算することになり、現実的とは言えない。したがって、あらかじめ結合力に影響するアミノ酸残基を絞り込んでおくことは実用面で非常に意味があると云える。
【0042】
(2)ゆらぎの変化量の算出
野生型(対照ペプチド)にリガンド(Oseltamivir)が結合したホロ体、リガンドが解離したアポ体から算出される2状態間のアミノ酸残基ごとのゆらぎの変化量(ΔRMSF)は、単純にアポ体のゆらぎ(RMSF_apo)からホロ体のゆらぎ(RMSF_holo)をそのまま減じて絶対値をとった値をアポ体のゆらぎ(RMSF_holo)で割って算出した。リガンドから8Å以内に存在するアミノ酸残基に関するΔRMSFを表2と
図1に示し、実験値のあるアミノ酸残基に関して表3に示した。
【0043】
【0044】
実験で結合力が変化する変異として報告されているアミノ酸残基はHis274、Asn294,Tyr252でそれらの変化量はそれぞれ0.234、0.766、0.215であった。リガンドから8Å以内に存在するアミノ酸残基の中でΔRMSFの大きいものから順に並べると、全体で62残基中His274は20位、Asn294は1位、Tyr252は24位と半分よりも上位に位置する。したがってΔRMSFの値が大きいアミノ酸残基は結合力に影響を与える可能性が高いことが分かる。
【0045】
【0046】
表3において一番右端にアミノ酸残基全体の中でΔRMSFの値の大きさを基準にしたときの順位を示した。リガンド周辺8Åのアミノ酸残基のときと同様、変異によって結合力が変化するアミノ酸残基は上位15%以内にきていることが分かる。