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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2022-10-19
(45)【発行日】2022-10-27
(54)【発明の名称】焼き入れ方法
(51)【国際特許分類】
   C21D 1/18 20060101AFI20221020BHJP
   C21D 1/58 20060101ALI20221020BHJP
   C21D 1/60 20060101ALI20221020BHJP
   C21D 1/06 20060101ALN20221020BHJP
   C21D 1/64 20060101ALN20221020BHJP
   C21D 9/28 20060101ALN20221020BHJP
【FI】
C21D1/18 U
C21D1/18 J
C21D1/18 V
C21D1/58
C21D1/60 Z
C21D1/06 A
C21D1/64
C21D9/28 A
【請求項の数】 6
(21)【出願番号】P 2021511380
(86)(22)【出願日】2020-03-16
(86)【国際出願番号】 JP2020011471
(87)【国際公開番号】W WO2020203226
(87)【国際公開日】2020-10-08
【審査請求日】2021-07-02
(31)【優先権主張番号】P 2019066074
(32)【優先日】2019-03-29
(33)【優先権主張国・地域又は機関】JP
(73)【特許権者】
【識別番号】000000011
【氏名又は名称】株式会社アイシン
(74)【代理人】
【識別番号】110000660
【氏名又は名称】Knowledge Partners弁理士法人
(72)【発明者】
【氏名】大林 巧治
(72)【発明者】
【氏名】笠井 大介
(72)【発明者】
【氏名】松坂 佳祐
(72)【発明者】
【氏名】内藤 武志
(72)【発明者】
【氏名】龍神 剛
(72)【発明者】
【氏名】松村 俊明
【審査官】宮脇 直也
(56)【参考文献】
【文献】特開2013-087359(JP,A)
【文献】特開2000-309821(JP,A)
【文献】特開平06-033135(JP,A)
【文献】特開2016-069682(JP,A)
【文献】特開2016-108584(JP,A)
【文献】特開2008-101235(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C21D 1/18
C21D 1/58
C21D 1/60
C21D 1/06
C21D 1/64
C21D 9/28
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
焼き入れ対象の被処理物を焼き入れ用の冷却剤である焼入冷却剤で冷却する焼き入れ方法であって、
前記被処理物を移動させる移動装置により、冷却槽に蓄積された前記焼入冷却剤の内部に前記被処理物を移動させ、
少なくとも、前記被処理物が前記焼入冷却剤に接してから前記被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで、前記被処理物と前記焼入冷却剤との相対速度が、前記被処理物の移動速度より遅い状態が維持される、
焼き入れ方法。
【請求項2】
前記焼入冷却剤には、前記被処理物が前記焼入冷却剤に接する前から前記被処理物の移動方向と同一方向かつ前記被処理物の移動速度と同一速度の流れが形成されている、
請求項1に記載の焼き入れ方法。
【請求項3】
前記被処理物の表面がマルテンサイト変態した状態は、
前記被処理物の表面のマルテンサイト分率が28%以上になった状態である、
請求項1または請求項2記載の焼き入れ方法。
【請求項4】
複数のノズルから吐出された補助冷却用の液体状の冷却剤である補助冷却剤を前記被処理物にかけることで補助冷却を行い、前記被処理物の表面がマルテンサイト変態開始温度に達する前に前記被処理物の前記補助冷却を停止させた後に、前記焼入冷却剤によって前記被処理物をマルテンサイト変態開始温度以下に冷却する、
請求項1~請求項3のいずれか一項に記載の焼き入れ方法。
【請求項5】
前記補助冷却剤と、前記焼入冷却剤とは、
水を主成分とする冷却剤または焼き入れ油である、
請求項に記載の焼き入れ方法。
【請求項6】
前記補助冷却剤と、前記焼入冷却剤とは、
双方が水を主成分とする冷却剤であるか、または双方が焼き入れ油である、
請求項4または請求項5のいずれかに記載の焼き入れ方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、焼き入れ方法に関する。
【背景技術】
【0002】
従来、焼き入れ対象の被処理物を冷却剤に浸漬し、マルテンサイト変態温度以下になるまで冷却する焼き入れ方法が知られている。このような焼き入れ技術としては、例えば、特許文献1が挙げられる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0003】
【文献】特開平6-2030号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0004】
被処理物を冷却剤に浸漬する場合、浸漬開始と共に冷却剤に接した部位は、浸漬完了の段階で冷却剤に接した部位より先に冷却されるため、冷却剤内で冷却されている被処理物の表面には部位間で温度差が生じている。表面上の部位によって温度差が生じていると、部位間で熱膨張の程度が異なるために、被処理物に歪みが生じる。温度差が生じた状態で冷却が進行し被処理物の表面にマルテンサイトが形成されると、被処理物の表面が硬くなり歪みが緩和されない。この結果、歪みが生じた状態で焼き入れが完了してしまう。
本発明は、前記課題にかんがみてなされたもので、歪みが抑制できる可能性を高めることを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0005】
上記の目的を達成するため、焼き入れ対象の被処理物を焼き入れ用の冷却剤である焼入冷却剤で冷却する焼き入れ方法であって、被処理物を移動させる移動装置により、冷却槽に蓄積された焼入冷却剤の内部に被処理物を移動させ、少なくとも、被処理物が焼入冷却剤に接してから被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度より遅い状態が維持される構成が採用される。
【0006】
すなわち、焼き入れ対象の被処理物が焼入冷却剤に接した状態においては、被処理物から被処理物の周囲の焼入冷却剤に熱が移動することによって被処理物が冷却される。従って、熱の移動によって暖められた被処理物の周囲の焼入冷却剤が攪拌等によって移動し、被処理物の周囲の焼入冷却剤が低温の焼入冷却剤に入れ替わると、熱交換が促進され、冷却が進む。
【0007】
具体的には、移動装置によって被処理物を焼入冷却剤内に移動させる場合、焼入冷却剤の液面に最初に接した部位と最後に接した部位との間で温度差が生じる。このように温度差が生じている状態で、被処理物の周囲の焼入冷却剤が低温の焼入冷却剤に入れ替わると、熱交換が促進され、最初に接した部位の冷却が進んでしまう。
【0008】
被処理物を移動装置によって移動させる場合、焼入冷却剤が静止した状態であると、被処理物の移動に伴って被処理物の周囲の焼入冷却剤が低温の焼入冷却剤に入れ替わるため、冷却が進んでしまう。そして、被処理物の温度差に起因する歪みが維持された状態で被処理物の表面がマルテンサイト変態すると、被処理物の表面が硬化し、歪みが解消されない状態で固定化してしまう。このため、歪みが焼き入れ完了後にも残留してしまう。
【0009】
しかし、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度より遅い状態であれば、焼入冷却剤が静止した状態と比較して、被処理物の周囲の焼入冷却剤が低温の焼入冷却剤に入れ替わる程度が減殺される。そして、焼入冷却剤に接した被処理物においては焼入冷却剤によって急冷が開始されるものの、被処理物に接した焼入冷却剤は徐々に暖まり、暖まった焼入冷却剤が被処理物の周囲に存在する傾向が生じる。従って、初期に冷却が開始された部位における冷却速度は次第に低下していくが、後に冷却が開始された部位の周囲の焼入冷却剤は暖まっておらず、後に冷却が開始された部位における冷却速度の方が大きい状態になる。この結果、被処理物に生じる歪みは、被処理物の周囲の焼入冷却剤が入れ替わっていく構成と比較して小さくなる。
【0010】
一方、被処理物の表面がマルテンサイト変態すると被処理物が硬くなるため、その後に急冷を促進したとしても、焼き入れ後に歪みは発生しにくい。このため、少なくとも、被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度より遅い状態が維持されることによって冷却を緩和する構成とすれば、焼き入れ後において被処理物に残留する歪みを抑制できる可能性を高めることができる。
【図面の簡単な説明】
【0011】
図1図1Aは焼き入れ方法を実施する装置を模式的に示す図、図1B図1Dは焼き入れ工程を模式的に示す図である。
図2図2A図2Bは焼き入れ工程を模式的に示す図、図2C図2Dは焼き入れ方法を実施する装置の例を示す図である。
図3】熱処理工程を示すフローチャートである。
図4】比較例および実施例を示す図である。
図5】被処理物の硬さを示す図である。
図6】被処理物の温度変化と、マルテンサイト分率とを示す図である。
図7】マルテンサイト分率と歪み量との関係を示す図である。
図8図8Aは焼き入れ方法を実施する装置を模式的に示す図、図8B図8Dは焼き入れ工程を模式的に示す図である。
図9図9Aは熱処理工程を示すフローチャート、図9Bは焼き入れ方法を実施する装置の例を示す図、図9Cは予備冷却の効果を示す図である。
図10】予備冷却を行った場合の被処理物の温度変化と、マルテンサイト分率とを示す図である。
【発明を実施するための形態】
【0012】
ここでは、下記の順序に従って本発明の実施の形態について説明する。
(1)焼き入れ方法を実施する装置の構成:
(2)熱処理工程:
(3)実施例:
(4)他の実施形態:
【0013】
(1)焼き入れ方法を実施する装置の構成:
図1Aは、本発明の一実施形態である焼き入れ方法を実施する装置を模式的に示す図である。図1Aにおいては装置の主要部を示しており、各部を駆動させるための機構や各部の形状等としては、種々の構成を採用し得る。図1Aに示す装置においては、中空の直方体の一面を開口させることによって形成された冷却槽10が備えられている。本実施形態において冷却槽10には、予め焼入冷却剤Wが蓄積されている。焼入冷却剤Wは、被処理物と熱交換可能な物質であれば良いが、本実施形態において焼入冷却剤Wは水である。むろん、焼入冷却剤は、水に各種の材料が溶けている水溶液であっても良い。
【0014】
本実施形態において、焼き入れ方法を実施する装置には、被処理物Sを昇降させる移動装置20が備えられている。移動装置20は、支持台21および支持部22を備えており、被処理物Sは支持台21に載せられる。支持台21は冷却槽10の高さ方向に延びる支持部22に支持されている。支持部22には、図示しないモーター等の駆動源が接続され、図示しない昇降機構によって支持台21を上下に移動させることができる。むろん、モーター等の駆動源は種々のエネルギーで駆動されてよく、電動、油圧駆動、気圧駆動、などの種々のエネルギーを利用可能である。また、動力伝達機構もモーター等に限定されず、リニアモーター等であっても良い(以下同様)。また、被処理物Sを昇降させる構成は種々の構成を採用可能である。
【0015】
本実施形態において駆動源は、被処理物Sが載せられた支持台21の昇降速度を変化させることができ、駆動源に対する制御信号を変化させることにより、支持台21の上昇速度および支持台21の下降速度を指定することができる。支持部22は、冷却槽10の底面から開口部側に向けて鉛直方向に沿って延びている。従って、支持部22の下方は冷却槽10内の焼入冷却剤Wに浸かっており、支持台21が上下移動されることにより、支持台21上の被処理物Sを焼入冷却剤Wに浸漬したり、また、焼入冷却剤W内の被処理物Sを外部に取り出したりすることができる。
【0016】
なお、支持台21に対して載置される被処理物Sの数や置き方(向き)等は種々の態様であって良い。例えば、支持台21にパレットが取り付けられ、当該パレット内に複数の被処理物Sが配置されてもよい。本明細書においては、被処理物Sが1個である場合を例にして説明を行う。むろん、支持台21や支持部22等が各種の特徴を有していて良く、例えば、支持台21を容易に下降させることができるようにするために支持台21がメッシュや格子状に形成されていても良い。
【0017】
冷却槽10内においては、焼入冷却剤Wを流動させる流動装置30が設けられている。流動装置30は、軸31とプロペラ32とを備えている。すなわち、冷却槽10においては、その側面付近において、側面に沿って延びる軸31が設けられている。軸31は、鉛直方向に沿って平行な方向の線を中心に回転可能である。軸31にはプロペラ32が連結されており、プロペラ32は図示しないモーター等の駆動源によって回転する。
【0018】
本実施形態において駆動源は、プロペラ32を回転させることによって鉛直方向に向けた流れを誘起することができ、本実施形態においては、鉛直方向上方に向けた流れが誘起される。プロペラ32によって鉛直方向上方に向けた流れが誘起されると、液面付近で水平方向に流れが分散する。
【0019】
冷却槽10内には、鉛直方向に平行な面を有する板状の部材が設けられ、板状の部材の最上部が液面より深い位置に存在し、板状の部材の最下部は冷却槽10の底より浅い位置に存在する。また、板状の部材の広い面が対向するように配置されている。このため、焼入冷却剤Wに誘起された流れは、板状の部材の表裏で互いに逆方向に循環する。従って、プロペラ32によって誘起された流れが液面付近で水平方向に流れが分散すると、さらに、冷却槽10の中央付近で鉛直方向下方に流れる。そして、冷却槽10の中央付近の鉛直方向下方への流れが底面付近に達すると、再び側面側に流れ、プロペラ32側に循環する。この結果、図1Aにおいて破線の矢印で示すような流れが形成される。すなわち、冷却槽10においては、中央付近で鉛直方向下方に流れ、冷却槽10の側面付近で鉛直方向上方に流れる循環流が形成される。なお、ここでは、当該循環流を形成できればよく、板状の部材以外の部材、例えば、環状の部材が配置されてもよい。
【0020】
軸31を回転させる駆動源は、軸31の回転速度を変化させることができ、駆動源に対する制御信号を変化させることにより、冷却槽10内の循環流の流速を指定することができる。本実施形態においては、被処理物Sが浸漬された場合に、被処理物Sの側面に接する部位における下方の流れFdの流速を制御できるように構成されている。すなわち、駆動源に対する制御指示によって流速が指定されると、被処理物Sの側面に接する部位における焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速が指定された流速になるように構成されている。
【0021】
本実施形態において、被処理物Sは、浸炭処理された後の部品である。浸炭処理は、図1Aに図示していない浸炭処理装置によって実行されればよく、各種の態様の炉によって被処理物Sを加熱し、被処理物Sの周囲に存在する炭素を被処理物Sに浸炭させることができればよい。むろん、炉の構成も限定されず、炉内で浸炭しながら被処理物Sが搬送される構成等であっても良いし、炉内の固定位置に存在する被処理物Sで浸炭が行われた後に取り出されてもよい。浸炭の態様も限定されず、ガス浸炭、液体浸炭、固体浸炭、真空浸炭(真空ガス浸炭)、プラズマ浸炭などの各種の態様で浸炭が行われてよい。いずれにしても、浸炭が行われた後の被処理物Sが支持台21にセットされて焼き入れが行われればよい。
【0022】
(2)熱処理工程:
次に、被処理物Sに対する熱処理工程(浸炭処理および焼き入れ処理)を説明する。図3は本実施形態にかかる熱処理工程を示すフローチャートである。熱処理工程においては、熱処理対象の被処理物Sが浸炭処理装置にセットされる(ステップS100)。次に、浸炭処理が行われる(ステップS105)。浸炭処理の条件は、被処理物Sの利用目的等に基づいて決定される。例えば、被処理物Sがセットされた浸炭処理装置内に予め決められた炭素含有物(ガス等)が導入され、被処理物Sが既定の昇温速度で目的温度まで加熱される。そして、被処理物Sが目標温度に達したら、既定の期間だけ目的温度に維持される。
【0023】
次に、浸炭処理が行われた被処理物Sが移動装置20にセットされる(ステップS110)。すなわち、浸炭処理が行われた被処理物Sが、支持台21に載置される。次に、流速Vqがシンクロ速度にセットされる(ステップS115)。すなわち、軸31を回転させる駆動源に制御信号が出力され、プロペラ32の回転が開始される。この際、被処理物Sの側面に接する部位における焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速がシンクロ速度になるように設定される。ここで、シンクロ速度は、予め決められた速度であり、詳細は後述する。
【0024】
次に、被処理物の下降速度Veがシンクロ速度にセットされる(ステップS120)。すなわち、支持台21を移動させる駆動源に制御信号が出力され、この結果、支持台21の下降速度Veがシンクロ速度となり、焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速と同値になる。シンクロ速度は、支持台21を下降させる下降速度Veと、被処理物Sの側面に接する部位における焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速とを同期させる際の速度値として予め設定される。
【0025】
すなわち、本実施形態においては、移動装置20において支持台21の下降速度を制御可能であり、プロペラ32の回転によって被処理物Sの側面に接する部位における焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速を制御可能であることを利用して、両速度を一致させる。この結果、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接し、浸漬が開始されると、焼入冷却剤Wの液面よりも内側における被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度は0になる。
【0026】
具体的には、被処理物Sは、移動装置20の支持台21に載置されているため、被処理物Sの可動方向は支持台21の可動方向に一致している。このため、被処理物Sの移動方向は鉛直下方に向けた方向である。一方、被処理物Sの側面に接する部位において焼入冷却剤Wが流れる方向も、高さ方向のほぼ全域において鉛直方向に平行であり、かつ鉛直下方に向けた方向である。従って、被処理物Sの移動方向と、被処理物Sに接する焼入冷却剤Wの流れの方向が一致する。
【0027】
さらに、本実施形態においては、支持台21の下降速度Veと、被処理物Sの側面に接する部位における焼入冷却剤Wの下方の流れFdの流速Vqと、が共にシンクロ速度であり、一致している。従って、冷却剤の液面よりも内側における被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度は0である。本実施形態では、この状態をシンクロ状態と呼ぶ。下降速度Veは任意の速度であってよいが、被処理物Sの冷却剤に対する浸漬が開始され、浸漬が完了するまでの期間が短いほど、被処理物Sが冷却剤に接する時間差に起因する温度差が小さくなり、歪みが発生しづらい。従って、下降速度Veはできるだけ速いことが好ましく、例えば、100mm/s~1500mm/s等の速度とすることができる。
【0028】
以上のようなシンクロ状態においては、被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度が0であり、被処理物Sの移動速度が下降速度Veである。この状態において下降速度Veは0よりも大きいため、この状態は、被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度が、被処理物の移動速度(下降速度Ve)より遅い状態であると言える。なお、流速の方向を厳密に制御または測定することは困難であるため、流れの方向および速度には誤差があっても良いし、流れの方向および速度は測定結果ではなく制御目標量であっても良い。
【0029】
ステップS115,S120においてシンクロ状態が実現されると、被処理物Sの浸漬が行われる。すなわち、本実施形態においては、被処理物Sの浸漬が開始される前(被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接する前)から、被処理物Sの移動方向と同一方向かつ被処理物Sの移動速度と同一速度の流れが焼入冷却剤Wに形成されている。このため、本実施形態においては、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接する段階で既にシンクロ状態になっている。
【0030】
図1Bは、被処理物Sが浸漬される前の状態を模式的に示す図である。なお、図1Bにおいては、移動装置20や軸31等の構造体を省略して示してある(図1C図2B等においても同様)。シンクロ状態が実現されると、図1Bに示すように流速Vqと下降速度Veとがシンクロした状態において、被処理物Sが徐々に焼入冷却剤Wの液面に接近する。
【0031】
シンクロ状態において被処理物Sが下降し、図1Cに示すように焼入冷却剤Wの液面に達すると、焼入冷却剤Wに接した部分の被処理物Sの熱が焼入冷却剤Wに移動することで被処理物Sが冷却される。図1Cに示すように、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に達した状態が浸漬開始の状態である。浸漬開始以後、移動装置20による移動が継続され、やがて被処理物Sの鉛直上方の面が図1Dに示すように焼入冷却剤Wの液面に達すると被処理物Sの全体が焼入冷却剤Wに浸かった状態になる。被処理物Sの全体が焼入冷却剤Wに浸かった状態が浸漬完了の状態である。
【0032】
本実施形態においては、浸漬開始され、浸漬完了した後(例えば図2Aに示す状態)においてもシンクロ状態が継続される。シンクロ状態においては、図1B図1D等に示すように、被処理物Sが鉛直方向下方に向けて降下する一方で、焼入冷却剤Wの液面Swは鉛直方向に移動しない(液面内に入った被処理物Sの体積分の液面上昇は除く)。従って、図1C等において、被処理物Sと焼入冷却剤Wの液面Swとの相対速度は0ではない。一方、浸漬開始後において、液面Swの内側において焼入冷却剤Wは鉛直方向下方に向けて流れている。従って、図1Cに示す状態以後において、シンクロ状態であれば、焼入冷却剤Wの液面Swよりも内側における被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度は0である。
【0033】
このように、焼入冷却剤Wの内部における被処理物Sの移動と、被処理物Sに接する焼入冷却剤Wの移動とが同期していると、被処理物Sに接して被処理物Sからの熱が伝達された焼入冷却剤Wは、被処理物Sと共に移動して被処理物Sの周囲にとどまった状態となる。このため、焼入冷却剤Wに接した被処理物Sにおいては焼入冷却剤Wによって急冷が開始されるものの、シンクロ状態が維持されていると被処理物Sに接した焼入冷却剤Wが徐々に暖まり、冷却は促進されない。
【0034】
すなわち、被処理物Sの周囲の焼入冷却剤Wが攪拌等によって他の場所に移動する場合、被処理物Sの周囲で高温になった焼入冷却剤Wが低温の焼入冷却剤Wに置換される。しかし、シンクロ状態においては被処理物Sに接して高温になった焼入冷却剤Wが低温の冷却剤に置換されにくく、冷却は促進されない。シンクロ状態が維持されていると、先に焼入冷却剤Wの液面に到達して先に冷却が開始された部位の冷却速度は徐々に遅くなる。一方、後に焼入冷却剤Wの液面に到達して冷却が開始された部位の冷却速度は、先に冷却が開始された部位の冷却速度より速い。このためシンクロ状態が維持されると、被処理物Sの表面に生じた温度差は徐々に小さくなり、被処理物Sにおける歪みの発生を抑制することができる。
【0035】
そして、被処理物Sの表面における温度差が抑制され、被処理物Sにおける歪みの発生が抑制された状態で被処理物Sの表面がマルテンサイト変態すると、被処理物Sの表面が硬くなり、以後、被処理物Sが変形しにくくなる。従って、シンクロ状態が維持されていることにより、歪みの発生が抑制された状態で焼き入れを完了することが可能になる。そこで、本実施形態においては、浸漬開始後に既定期間が経過した場合に、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態したとみなす。
【0036】
このため、ステップS115,S120によって被処理物Sの浸漬が開始されると、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから既定期間が経過したか否かが判定される(ステップS125)。既定期間は、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態するまでの期間であり、予め決められている。当該既定期間は、種々の手法で決められてよく、本実施形態においては、被処理物Sの表面のマルテンサイト分率が既定の比率になるまでの期間として決められている。すなわち、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成されている比率が閾値以上である場合に被処理物Sの表面がマルテンサイト変態したとみなされる。
【0037】
マルテンサイト分率は、被処理物Sにおいて許容される歪みの程度によって決められて良く、例えば、被処理物の表面のマルテンサイト分率が28%になるまでの期間を既定期間とする構成を採用可能である。この構成によれば、被処理物Sに生じる歪みをほぼ限界まで小さくすることができる(詳細は後述)。なお、ここで、マルテンサイト分率P(t)は、
P(T)=1-exp(-b(Ms-T))
T:温度
Ms:マルテンサイト変態開始温度
b:材質、炭素濃度により特定される定数(例えばSCM420では、母材においてはb=0.143、0.8(mass%)の表面炭素濃度に浸炭した場合においてはb=0.01となる)
で表現される。
【0038】
いずれにしても、ステップS125においては、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態したか否かが、既定期間に基づいて特定される。なお、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから既定期間が経過したか否かを判定する際に、期間の開始は種々の手法で特定されてもよい。例えば、図示しないセンサー等によって被処理物Sが焼入冷却剤Wに接したことが検出されても良いし、支持台21が初期位置から支持台21を下降速度Veで下降させる場合において初期位置から被処理物Sが焼入冷却剤Wに接する位置まで移動する時間が計測されても良い。
【0039】
ステップS125において、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから既定期間が経過したと判定された場合、流速Vqが急冷速度にセットされ(ステップS130)、被処理物の下降速度Veが0にセットされる(ステップS135)。すなわち、本実施形態においては、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから既定期間だけシンクロ状態が維持され、既定期間以後においては移動装置20における支持台21の下降は停止されてシンクロ状態が停止される(図2Bに示す状態)。この結果、被処理物Sの周囲における焼入冷却剤Wの循環が促進され、被処理物Sから焼入冷却剤Wへの熱の流出が促進される。このため、より高速に冷却が行われる。
【0040】
なお、ステップS130においてセットされる流速Vqである急冷速度は、シンクロ状態が停止された後に焼入冷却剤Wで熱交換を促進する際の流速として予め決められていれば良い。この限りにおいて、シンクロ速度と同一であっても良いし、異なっていてもよい。急冷速度がシンクロ速度と同一である場合、ステップS130は省略可能である。ステップS135においては、シンクロ状態を停止させるために下降速度Veを0としているが、むろん、他の値であっても良い。例えば、支持台21を僅かずつ上昇させ、焼き入れが終了すると共に被処理物Sが焼入冷却剤Wから出て行くように構成すれば、焼き入れ終了後に被処理物Sを上昇させるために必要な期間を短くすることができる。
【0041】
いずれにしても、ステップS130,S135によってシンクロ状態が停止されると、焼き入れが終了するまで待機される(ステップS140)。焼き入れの終了は、種々の条件で決められてよく、例えば、所定の時間の経過を条件とする構成等を採用可能である。
【0042】
ステップS140において、焼き入れが終了したと判定されると、被処理物を上昇させる(ステップS150)。すなわち、移動装置20が制御され、支持台21が上昇される。これにより、被処理物Sが焼入冷却剤Wに漬けられた状態は終了し、熱処理工程が終了する。むろん、この冷却工程は一例であり、この後、焼き戻しや焼きなまし、高周波加熱等の熱処理が行われてもよい。
【0043】
なお、本実施形態においては、浸漬開始前から浸漬完了を経て焼き入れが完了するまでの期間にわたって、支持台21の下降速度Veを一定としたが、むろん、下降速度Ve等が可変であっても良い。例えば、浸漬開始から浸漬完了までの期間においては、浸漬開始から浸漬完了までの期間を早期に終わらせるための下降速度とし、浸漬開始後または浸漬完了後に、連続的または段階的に下降速度を変化させる構成等であっても良い。すなわち、浸漬開始から浸漬完了までの制御と、浸漬完了後の制御と、を別個に制御する構成が採用されてもよい。すなわち、被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度が、被処理物Sの移動速度より遅い状態(0<Vq<2Ve)が維持される限りにおいて、種々の速度で制御されて良い。
【0044】
(3)実施例:
次に、上述の熱処理工程によって焼き入れが行われた場合の被処理物Sの特性を述べる。図4は、SCM20を利用して形成した円柱状のシャフト(直径36mm、軸長148mm)の軸方向を鉛直方向に対して垂直に向けた状態で支持台21に載置し、焼き入れを行った場合の例を示す図である。すなわち、図4においては、同じ材料に対して異なる焼き入れ工程で焼き入れを行った場合の条件と、各条件で製造されるシャフトの特性とを示している。
【0045】
比較例における冷却剤は焼き入れ油であり、比較例はシンクロ状態を実現することなくホット油による焼き入れが行われた場合の例である。実施例1~実施例4のそれぞれにおける焼入冷却剤Wは、焼き入れ油(ホット油)、焼き入れ油(コールド油)、水である。なお、冷却剤の熱伝達率は、ホット油:3800W/(m2・K)、コールド油:7500W/(m2・K)、水:11000W/(m2・K)である。
【0046】
図4においては、比較例および実施例1~実施例4のそれぞれについて、焼き入れ温度(℃)、被処理物Sの下降速度Ve(mm/s)、焼入冷却剤Wの流速Vq(mm/s)、焼入冷却剤Wの温度(℃)、シンクロ時間(s)を示している。ここで、焼き入れ温度は、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接触する前の温度である。下降速度Veおよび流速Vqは鉛直方向下向きが正方向である。焼入冷却剤Wの温度における常温は25℃である。
【0047】
シンクロ時間は被処理物Sが焼入冷却剤に接してから下降速度Veが0とされるまでの時間である。すなわち、実施例1~実施例4のそれぞれにおいては、シンクロ状態においてVe=Vqとなっているが、シンクロ時間が経過するとVe=0となる。従って、実施例1~実施例4のそれぞれにおいては、シンクロ時間は被処理物Sが焼入冷却剤に接してから被処理物Sの表面がマルテンサイト変態するまでの既定期間が、それぞれ、280秒、260秒、10秒、3秒である。
【0048】
比較例は、被処理物Sの下降速度Veを200mm/sとし、120℃の焼き入れ油に300秒保持した後、被処理物Sを焼き入れ油から取り出した場合の例である。なお、比較例においては、冷却速度を高めるためにVq=-200mm/sとし、焼き入れ油を攪拌している。実施例1、焼き入れ油の温度を120℃とし、被処理物Sの下降速度Veを200mm/s、焼き入れ油の流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を280秒継続させ、その後、下降速度Veを0、流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を終了させた場合の例である。実施例2は、焼き入れ油の温度を80℃とし、被処理物Sの下降速度Veを200mm/s、焼き入れ油の流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を260秒継続させ、その後、下降速度Veを0、流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を終了させた場合の例である。
【0049】
実施例3は、水の温度を常温とし、被処理物Sの下降速度Veを200mm/s、水の流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を10秒継続させ、その後、下降速度Veを0、流速Vqを200mm/sとしてシンクロ状態を終了させた場合の例である。
【0050】
各実施例においては、シンクロ状態を終了させた状態で被処理物Sの表面と内部の温度差がなくなるまで焼入冷却剤W内に保持された後に被処理物Sが取り出される。しかし、実施例においては、シンクロ状態を終了させた段階で、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成されているため、シンクロ状態を終了させた状態で焼入冷却剤W内に保持すべき期間は被処理物Sの歪み量に大きな影響は与えない。
【0051】
図4においては、以上のような比較例および実施例によって得られた被処理物Sの特性として、歪み量(曲がり量)(μm)、表面硬度(Hv)、有効硬化深さ(mm)、内部硬度(Hv)が示されている。歪み量は、被処理物Sの円柱軸が鉛直方向にどの程度曲がっているかを示し、鉛直方向における被処理物Sの円柱軸の最上部と最下部との距離を示している。表面硬度は、被処理物Sの表面のビッカース硬さの平均値である。有効硬化深さは、ビッカース硬さが既定値(本例では513Hv)となる深さの平均値である。内部硬度は、被処理物Sの中心のビッカース硬さである。
【0052】
以上の例において、比較例と実施例とを比較すると、焼入冷却剤Wがどのような種類であっても、歪み量は3μm以下であり非常に小さい。一方、比較例のようにシンクロ状態が実現されていない場合、7μmの歪みが発生しており、どの実施例よりも大きい歪みが生じている。従って、被処理物が焼入冷却剤に接してから被処理物の表面がマルテンサイト変態するまでシンクロ状態が維持されることにより、被処理物Sに生じる歪み量が抑制される。
【0053】
さらに、焼入冷却剤Wが油である場合(例えば、比較例、実施例1および実施例2)と、水以上の熱伝達率の冷却剤である場合(例えば、実施例3および実施例4)とを比較すると、同じ材料で焼き入れをした場合に、焼入冷却剤Wが油である場合より、水以上の熱伝達率の冷却剤である場合の方が、有効硬化深さを深くすることができる。具体的には、焼入冷却剤Wが水である場合、焼入冷却剤Wは油よりも熱伝達率が大きいため、より効率的に冷却を行うことができる。
【0054】
焼き入れ前の浸炭処理によってシャフトにオーステナイトが形成された後、急冷が行われるとマルテンサイトが形成されるが、この冷却の冷却速度が速いほど効率的にマルテンサイトを形成することができる。従って、焼入冷却剤Wが焼き入れ油である場合と比較して、焼入冷却剤Wが水である場合には、効率的にマルテンサイト変態を行わせることが可能である。この結果、焼入冷却剤Wが水である場合、焼入冷却剤Wが焼き入れ油である場合と比較して、同等の表面硬度を有する被処理物Sを得るために必要なシンクロ時間が非常に短くなる。
【0055】
さらに、焼入冷却剤Wとして水が利用されると、焼き入れ油が利用される場合と比較して、同じ材料の被処理物Sにおける有効硬化深さを深くすることができる。図5は、比較例と実施例3における硬さを示す図であり、横軸は中心からの距離、縦軸はビッカース硬さを示している。なお、中心は被処理物Sの円柱軸であり、当該円柱軸から最下部に向けた距離が負の値、円柱軸から最上部に向けた距離が正の値で示されている。
【0056】
この図に示すように、被処理物Sの表面から内部の全域に渡って、比較例は実施例3よりもビッカース硬さが小さい。この結果、比較例は実施例3よりも有効硬化深さが浅いといえる。このように、同じ材料の被処理物Sを焼き入れする際に、焼入冷却剤Wとして水を使うと、焼き入れ油を使うよりも硬く、有効硬化深さが深い被処理物Sを得ることができる。
【0057】
以上のように、水は、油よりも効率的に冷却することが可能であるため、同じ有効硬化深さの被処理物Sを得るために必要な浸炭処理の時間を短くすることができる。水を利用して、焼き入れ油と同等の有効硬化深さを得るのであれば、焼き入れ対象の被処理物Sの表面における炭素濃度が低くても充分である。従って、焼入冷却剤Wが焼き入れ油である場合と比較して、浸炭処理に要する時間は少なくて良い。特に、浸炭時間は、浸炭深さの2乗に比例するため、焼入冷却剤Wが油である場合に得られる被処理物Sと同等の有効硬化深さで良いのであれば、浸炭処理に要する時間を非常に短くすることができる。この結果、浸炭処理を行うための時間および金銭のコストを抑制することができる。
【0058】
なお、浸炭処理の時間が短くなり、被処理物Sの表面における炭素濃度が低い部品を被処理物Sとすることができるのであれば、当該部品を用意するためのコストも抑制可能である。すなわち、浸炭された部品が被処理物Sとして予め用意され、オーステナイト化温度まで加熱された後に冷却される場合、炭素濃度を予め高くしなければならない焼き入れ油での焼き入れと比較して、焼き入れ前の被処理物Sが柔らかい材質となるため、被処理物Sを得るための加工が容易である。従って、被処理物Sを製造する際の加工コストが抑制される。
【0059】
シンクロ状態の継続期間である既定期間は、焼き入れ終了後に被処理物Sに残留する歪みの量が低減されるように選択されればよい。すなわち、少なくとも被処理物Sの表面がマルテンサイト変態するまでシンクロ状態を継続させれば、焼き入れ終了後に被処理物Sに残留する歪みを抑制できる可能性を高められる。しかし、許容される歪みの量に応じてシンクロ状態を継続させる既定期間を制御しても良い。
【0060】
図6は、上述の実施例3における被処理物Sの温度変化と、マルテンサイト分率とを示す図である。なお、横軸は時間を対数で示しており、左の縦軸は温度、右の縦軸はマルテンサイト分率を示している。図6においては、このグラフにおいて、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してからの経過時間毎の、被処理物Sの温度およびマルテンサイト分率の推移が示されている。
【0061】
なお、図6においては、被処理物Sの最下部における表面の温度およびマルテンサイト分率を実線で示している。また、被処理物Sの最上部における表面の温度およびマルテンサイト分率を一点鎖線で示し、被処理物Sの内部(中心)における温度およびマルテンサイト分率を二点鎖線で示している。
【0062】
被処理物Sの浸漬が開始されると、図6に示すように、被処理物Sの最下部の表面と最上部の表面とに温度差が生じた状態となる。この状態で、被処理物Sが焼入冷却剤Wに浸漬していくと、被処理物Sの最下部の表面と最上部の表面とで温度差が生じた状態で徐々に冷えていく。しかし、実施例3においては、シンクロ状態が形成されているため、最下部と最上部とで生じている温度差は、徐々に解消していき、図6に示す例においては、被処理物Sの表面の温度が、当該表面におけるマルテンサイト変態開始温度(図6においては浸炭層Ms点と表記)に達するまでの間に温度差が解消されている。従って、被処理物Sの最下部と最上部とにおける熱膨張等の状態に差は少なく、歪みが生じにくい状態になっている。本実施形態においては、このように、被処理物Sの鉛直方向の上下に温度差が生じていない状態で、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態開始温度以下になる。
【0063】
被処理物Sの表面がマルテンサイト変態開始温度以下になると、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成されていく。すなわち、図6に示されたように、シンクロ状態での時間が5~6秒程度経過すると、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成されていく。また、被処理物Sの表面におけるマルテンサイト分率は、時間と共に上昇していく。このように、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成されると、被処理物Sの表面が硬くなり、歪みを抑制する働きがあるため、マルテンサイト分率が過度に多くなるまでシンクロ状態を継続する必要はなく、被処理物Sに要求される歪み量の範囲に抑えられるように、シンクロ状態の継続時間が決められて良い。
【0064】
図7は、横軸をシンクロ状態の継続時間、縦軸を歪み量および表面のマルテンサイト分率として示した図である。なお、図7は、実施例3と同じ被処理物Sについて、図4に示す条件と同じ条件でシンクロ状態の継続時間を変化させた場合に、被処理物Sに生じる歪み量が変化する様子を示している。なお、図7に示す被処理物Sの歪み量は、焼き入れを終えて被処理物Sが完成した状態での歪み量であり、図7に示すグラフでは実線および左の縦軸で示されている。また、図7に示す被処理物Sにおける表面のマルテンサイト分率は、シンクロ状態が終了した段階での値であり、図7に示すグラフでは破線および右側の縦軸で示されている。
【0065】
図7に示すように、シンクロ状態を継続する既定期間(シンクロ時間)が長くなるほど被処理物Sの表面に形成されるマルテンサイトの比率であるマルテンサイト分率が上昇する。焼き入れ終了後に被処理物Sに残留する歪みの量は、シンクロ状態を継続する既定期間が長くなると共に減少する。しかし、歪み量が限界値(図7に示す例では1μm)まで小さくなると、それ以後、歪み量は小さくならない。図7に示す例においては、シンクロ状態の継続期間が10秒を超えると歪み量の変化が鈍化し、以後、シンクロ状態の継続期間を長くしても有意な変化はない。このように、歪み量の変化がほぼ一定になる段階でのマルテンサイト分率を解析したところ、マルテンサイト分率が28%であることが判明した。従って、被処理物の表面のマルテンサイト分率が28%以上になった状態を、被処理物の表面がマルテンサイト変態した状態とみなし、この状態でシンクロ状態を停止させる構成とすれば、被処理物Sの歪みを概ね最小にすることができる。
【0066】
一方、被処理物Sにおける歪み量の許容範囲がより大きい場合には、シンクロ状態の継続時間をより短くすることができる。例えば、シンクロ状態の継続時間が0秒である状態(図7に示す従来焼き入れ)の歪み量に対して歪み量を1/15(図7に示す6.3μm)とするために必要なシンクロ状態の継続時間は図7に示すT1である。この継続時間でのマルテンサイト分率は6.8%である。従って、シンクロ状態を行わない場合に被処理物Sに生じる歪みを1/15以下にしたい場合には、マルテンサイト分率が6.8%になるまでシンクロ状態を継続すれば良い。
【0067】
また、シンクロ状態の継続時間が0秒である状態の歪み量に対して歪み量を1/20(図7に示す4.7μm)とするために必要なシンクロ状態の継続時間はT2である。この継続時間でのマルテンサイト分率は14.5%である。従って、シンクロ状態を行わない場合に被処理物Sに生じる歪みを1/20以下にしたい場合には、マルテンサイト分率が14.5%になるまでシンクロ状態を継続すれば良い。
【0068】
さらに、シンクロ状態の継続時間が1秒である状態の歪み量に対して歪み量を1/30(図7に示す3.1μm)とするために必要なシンクロ状態の継続時間はT3である。この継続時間でのマルテンサイト分率は21.5%である。従って、シンクロ状態を行わない場合に被処理物Sに生じる歪みを1/30以下にしたい場合には、マルテンサイト分率が21.5%になるまでシンクロ状態を継続すれば良い。
【0069】
(4)他の実施形態:
以上の実施形態は本発明を実施するための一例であり、他にも種々の実施形態を採用可能である。例えば、被処理物はシャフトに限定されず、ギアや建築用の部品など、種々の物品が被処理物とされて良い。また、焼き入れの際の被処理物の姿勢としては、種々の姿勢が採用されてよい。例えば、多くのシャフトにおいては軸長が直径よりも長いため、上述のようにシャフトの軸が鉛直方向に垂直に向けられた姿勢においては、被処理物の高さが最も低くなる置き方で支持台21に載置されて焼き入れが行われている。しかし、被処理物の高さが最も高くなる置き方、例えば、軸長が直径よりも長いシャフトであれば、軸方向を鉛直方向に平行に向けた状態で支持台21に載置されて焼き入れが行われてもよい。
【0070】
焼き入れは、金属を所定の温度に加熱した後に急冷させる熱処理であれば良く、被処理物としては、種々の材料が想定されて良い。例えば、上述の実施形態のように、浸炭処理された鋼が急冷される焼き入れに限定されず、炭素を含有する鋼が予め用意され、当該鋼が加熱された後に急冷される焼き入れであっても良い。また、被処理物は、浸炭浸窒を施した材料、浸窒を施した材料であっても良い。
【0071】
さらに、被処理物は焼き入れ対象であれば良く、材質は限定されない。例えば、各種の鉄鋼材、一般圧延鋼材、炭素鋼材、合金鋼、浸炭用鋼、工具鋼、ばね鋼、軸受鋼、熱間圧延鋼板、冷間圧延鋼板、炭素鋼鋳鋼品が被処理物となり得る。さらに、JIS、SAE、DINなどの材料規格に定義される鉄鋼材料、例えば、JIS S35C、JIS S45C、JIS SCM440、JIS SCM420、JIS SCM415、JIS SCR440、JIS SCR420、MSB20、DEG、AG20等が被処理物となり得る。また、これら材料に浸炭処理、浸炭浸窒処理、浸窒処理を施したものも被処理物となり得る。
【0072】
移動装置は、被処理物を移動させることによって被処理物を冷却槽に蓄積された焼入冷却剤の内部に漬けることができればよい。移動装置は種々の構成で実現されてよく、例えば、焼入冷却剤の液面より上方に被処理物を配置した状態から液面より下方に被処理物を移動させることが可能な種々の装置であって良い。被処理物の移動方向は鉛直方向に平行であっても良いし、異なっていてもよい。移動速度は可変であっても良い。ただし、この場合であっても、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度より遅い状態は維持される。
【0073】
被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度より遅く、冷却が緩和される状態は、少なくとも、被処理物が焼入冷却剤に接してから被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで維持されれば良い。すなわち、被処理物が焼入冷却剤に接するとその部分から冷却が始まるので表面の温度の差が発生し始める。このため、この段階では、冷却が緩和され、歪みを抑制できる状態になっていることが好ましい。
【0074】
また、冷却が緩和され、歪みを抑制できる状態は、被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで維持されれば良い。すなわち、表面がマルテンサイト変態すると被処理物の表面が硬化するため、その後に急冷しても被処理物に歪みは生じにくい。このため、被処理物の表面がマルテンサイト変態した後においては、さらに急冷しても良く、例えば、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が、被処理物の移動速度以上になっても良い。
【0075】
むろん、被処理物の表面がマルテンサイト変態した後においては、移動装置による被処理物の移動を停止させてもよい。この場合、焼入冷却剤を流動させる流動装置の動作を継続するなどして被処理物の周囲の焼入冷却剤が入れ替わることを促進する構成を採用可能である。
【0076】
被処理物と焼入冷却剤との相対速度は、被処理物の移動速度より遅ければよい。従って、上述の実施形態のように、被処理物と焼入冷却剤との相対速度が0になるように流動装置の動作が制御される構成以外にも、種々の構成が採用可能である。すなわち、移動装置によって被処理物が移動している過程において、当該被処理物と同方向の成分を有する速度ベクトルで焼入冷却剤が移動していればよい。
【0077】
表面がマルテンサイト変態している状態は、当該マルテンサイトによって被処理物に歪みが生じにくくなっている状態であれば良い。このような状態は、種々の手法で定義されて良く、例えば、浸炭開始後の経過時間によって定義されても良いし、被処理物の温度によって定義されても良いし、表面におけるマルテンサイト分率によって定義されても良い。すなわち、マルテンサイト変態によって被処理物が硬くなり、歪みの影響を受けにくい状態は、被処理物の組成等によって変動し得るが、被処理物毎に予め経過時間や温度、マルテンサイト分率を特定しておけば、その状態に至るまで冷却が緩和される状態を維持することで、表面がマルテンサイト変態しているとみなすことができる。
【0078】
浸漬は、被処理物を冷却剤に浸す処理であれば良い。すなわち、被処理物の周囲に冷却剤が存在しない状態から、被処理物が冷却剤に浸された状態に変化することによって被処理物の熱が冷却剤に移動するように焼き入れが行われればよい。浸漬は、上述のように、冷却槽に蓄積された冷却剤に対して被処理物が漬けられる処理に限定されない。例えば、内部に被処理物が配置された空の冷却槽に対して、冷却剤を流入させることによって被処理物の浸漬が行われる構成であっても良い。
【0079】
すなわち、蓄積された焼入冷却剤を流動させる流動装置を備えた冷却槽の内部に被処理物が配置された状態で、冷却槽に対する焼入冷却剤の蓄積を開始し、少なくとも、被処理物が焼入冷却剤に接してから被処理物の表面がマルテンサイト変態するまで流動装置による焼入冷却剤の流動が行われず、被処理物の表面がマルテンサイト変態した後に流動装置による焼入冷却剤の流動が行われる構成であっても良い。
【0080】
図8Aは、このような構成を実現する装置の例を示す図である。図8Aに示す装置においては、中空の直方体の一面を開口させることによって形成された冷却槽100が備えられている。本実施形態において冷却槽100に予め焼入冷却剤Wは蓄積されておらず、初期において冷却槽100は空である。空の状態の冷却槽100の内側には図示しない支持部によって被処理物Sが支持される。なお、本実施形態において冷却槽100は空であるが、被処理物Sに接しない状態であるならば、初期に冷却槽100に焼入冷却剤Wが蓄積されていても良い。
【0081】
本実施形態においても、冷却槽100に焼入冷却剤Wが流入した後の焼入冷却剤Wの流速を制御する流動装置30(軸31およびプロペラ32)が設けられている。このための構成は図1Aに示す構成と同様であり、冷却槽100には、その側面付近において、側面に沿って延びる軸31が設けられている。軸31にはプロペラ32が連結されており、プロペラ32は図示しないモーター等の駆動源によって回転する。むろん、図1Aに示す構成と同様に、冷却槽100内に板状の部材が設けられても良い。
【0082】
冷却槽100に焼入冷却剤Wが流入した後において駆動源は、プロペラ32を回転させることによって鉛直方向に向けた流れを誘起することができ、本実施形態においては、鉛直方向上方に向けた流れが誘起される。そして、軸31およびプロペラ32は、冷却槽100の中央を通り鉛直方向に延びる線Lに対して対称の位置に存在するため、プロペラ32によって鉛直方向上方に向けた流れが誘起されると、液面付近で水平方向に流れが分散し、冷却槽100の中央付近で鉛直方向下方に流れる。この結果、図1Aと同様な循環流が形成される。軸31を回転させる駆動源は、軸31の回転速度を変化させることができ、駆動源に対する制御信号を変化させることにより、冷却槽100内の循環流の流速を指定することができる。
【0083】
本実施形態においては、冷却槽100に対して焼入冷却剤Wを流入させる流入路200が設けられている。流入路200は、図示しない焼入冷却剤Wのタンクに接続されており、流入路200内を通る焼入冷却剤Wの量を調整するポンプおよび弁を備えている。また、流入路200の一端は冷却槽100の開口部に向けられており、弁が開けられると、当該一端から焼入冷却剤Wが冷却槽100の内部に流入する。
【0084】
従って、流入路200から焼入冷却剤Wを冷却槽100に流入させ、被処理物Sの最上部を超える高さの水位まで焼入冷却剤Wを流入させると、被処理物Sの浸漬を行うことができる。なお、本実施形態において流入路200が備える弁は焼入冷却剤Wの流量を調整可能である。従って、流入路200によって焼入冷却剤Wの流量を調整することにより、冷却槽100の内部に支持された被処理物Sが浸漬開始してから浸漬完了するまでの間における液面の上昇速度を調整することができる。
【0085】
この構成においては、図3に示す熱処理工程の一部を変更することによって焼き入れを行うことができる。具体的には、図9Aに示す熱処理工程を実行することによって焼き入れを行うことができる。なお、図9Aにおいて、図3と同様の工程は図3と同一の符号で示してある。図9Aに示す熱処理工程においても、ステップS100~S105で浸炭処理が行われる。この後、被処理物は冷却槽100の内側にセットされ(ステップS200)、流入路200による焼入冷却剤Wの流入が開始される(ステップS205)。この際、液面の上昇速度が既定の値になるように焼入冷却剤Wの流量が予め特定され、当該流量で焼入冷却剤Wの流入が行われる。
【0086】
焼入冷却剤Wの流入が開始されると、冷却槽100内において徐々に焼入冷却剤Wが蓄積されていき、やがて図8Bに示すように焼入冷却剤Wが被処理物Sの最下部に達する。この状態が被処理物Sにおける浸漬開始である。焼入冷却剤Wの流入が継続すると、やがて、焼入冷却剤Wが被処理物Sの最上部に達する。この状態が浸漬完了である。本実施形態においては、この後においても焼入冷却剤Wの流入を継続し、焼入冷却剤Wの水位が既定の高さになると焼入冷却剤Wの流入が停止される。図8Cは、焼入冷却剤Wの流入が停止された状態を示す図である。
【0087】
なお、本実施形態においては、焼入冷却剤Wの流入の際に図3に示すステップS115は行われず、浸漬開始後においてプロペラ32は回転していない。従って、焼入冷却剤Wにおいて鉛直方向への流れは誘起されない。一方、被処理物Sは、冷却槽100の内側で支持されており、少なくともこの段階で鉛直方向には移動しない。従って、本実施形態においても、図8Cに示すように、焼入冷却剤Wの液面Swよりも内側(下方)における被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度は0である。この状態は、被処理物Sと焼入冷却剤Wとの相対速度が、被処理物Sの移動速度より遅い状態であると言える。このため、冷却槽100内に焼入冷却剤Wが導入されると、シンクロ状態で焼入冷却剤Wが蓄積していき、浸漬完了後においてもシンクロ状態になっている。
【0088】
当該シンクロ状態においてステップS125が実行され、既定期間経過したと判定されると、ステップS130が実行され、図8Dに示すように、冷却槽100内の焼入冷却剤Wが攪拌される。この後、ステップS140で焼き入れが終了したと判定されると、被処理物Sを取り出す工程(ステップS210)が行われる。当該工程は、被処理物Sを冷却槽100の外部に運搬する工程であっても良いし、冷却槽100から(例えば図示しない排出口を利用して)焼入冷却剤Wを排出する構成等であっても良い。
【0089】
以上の構成によれば、下降速度を調整可能な機構によって被処理物Sを昇降させる装置を設けることなく焼き入れを行うことができる。本例においても、既定期間は、被処理物Sが焼入冷却剤Wに接してから、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態するまでの期間であり、予め決められていればよい。例えば、被処理物Sの表面のマルテンサイト分率が既定の比率になるまでの期間が既定期間として予め決められる構成等が採用可能である。
【0090】
本実施形態においては、焼入冷却剤Wが流入し液面が被処理物Sと交差している状態を浸漬過程とみなすことができ、被処理物Sの上方まで液面が達すると、シンクロ状態で焼入が行われているとみなすことができる。従って、本例における焼入も、上述の実施例1~実施例4と同じ原理の焼入である。例えば、液面の上昇速度が200mm/sとなるように焼入冷却剤Wの流量が調整されると、移動装置20による被処理物Sの下降速度が200mm/sである実施例1~実施例3と同等の速度で浸漬が行われ、シンクロ状態で冷却される。このため、被処理物Sが液面に接してからの既定期間が、実施例1~実施例3と同等の期間とされれば、これらの実施例と定性的に同一の焼入を実施することができる。
【0091】
従って、被処理物Sにおける歪みの発生を抑制することができる。さらに、少なくとも被処理物Sの表面がマルテンサイト変態するまでシンクロ状態を維持する熱処理工程を容易に実現することができる。さらに、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態した後においては、流動装置によって焼入冷却剤を流動させるため、歪みの発生を抑制しながらも、早期に焼き入れを完了させることができる。
【0092】
さらに、熱処理工程には、各種の工程が付加されても良い。例えば、浸漬または焼入の前に被処理物Sの上下における温度差を予め抑制することを目的として補助冷却が行われても良い。補助冷却は、各種の手法で行われてよい。例えば、複数のノズルから吐出された補助冷却用の冷却剤である補助冷却剤を被処理物Sにかけることで補助冷却を行う構成を採用可能である。この場合、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態開始温度に達する前に被処理物の補助冷却を停止させた後に、焼入冷却剤によって被処理物をマルテンサイト変態開始温度以下に冷却する。
【0093】
このような構成は、例えば、図2Cに示す装置によって実現可能である。図2Cに示す装置は、図1Aに示す装置にシャワー25が加えられることによって実現可能である。すなわち、図2Cにおいて図1Aと同一の符号で記された構成は、図1Aと同様の構成である。シャワー25は、複数のノズルを備えており、図示しない配管が接続される。配管は補助冷却用の冷却剤である補助冷却剤を蓄積した図示しないタンクおよびポンプに接続されており、配管に接続された圧力調整弁の開閉することにより、各ノズルから補助冷却剤を吐出させ、また、吐出を停止させることが可能である。図2Cにおいては、被処理物Sの周囲の破線によってノズルから吐出された補助冷却剤を示している。なお、補助冷却剤は、被処理物と熱交換可能な物質であれば良いが、補助冷却剤と焼入冷却剤Wは同一であり、例えば、双方共に水であるか、双方共に焼き入れ油である構成が採用されてもよい。
【0094】
本実施形態においては、各ノズルから吐出された補助冷却剤が被処理物Sの複数の面にかけられる。図2Cに示す例においては、被処理物Sの上面と側面に補助冷却剤がかけられることが模式的に示されているが、むろん、被処理物Sの下面に補助冷却剤がかけられても良い。この場合、支持台21がノズルを備え、当該ノズルから吐出された補助冷却剤が被処理物Sに対してかけられる構成等を採用可能である。
【0095】
なお、シャワー25のノズルから吐出された補助冷却剤がかけられる部位は、図2Cに示す部位に限定されない。ただし、シャワー25によって補助冷却しない状態で被処理物Sを焼入冷却剤Wに対して浸漬すると、被処理物Sの表面において、被処理物Sの移動方向(すなわち、図2Cに示す上下(鉛直)方向)に沿った温度差が生じる。そこで、シャワー25のノズルから吐出された補助冷却剤は、少なくとも、鉛直方向における被処理物の最上部から最下部に渡る範囲に達するようにかけられると好ましい。
【0096】
図2Cに示す例であれば、被処理物Sの最上部から最下部に渡る側面の全域にシャワー25から吐出された補助冷却剤がかけられると好ましい。この構成によれば、被処理物Sの最上部から最下部に渡る側面の全域を同時に補助冷却することができる。従って、被処理物Sが移動装置20によって移動されることによって焼入冷却剤Wの液面に接触した段階で、接触した部位である最下部と、最下部から最も遠い被処理物Sの最上部とで生じる温度差が緩和される。このため、浸漬によって被処理物Sの表面で生じる温度差に起因する歪みの発生を抑制することができる。
【0097】
このような装置によれば、図3に示す熱処理工程にシャワーの開始工程を加えた工程で焼き入れを行うことができる。例えば、図3に示す熱処理工程において、ステップS110とステップS115との間に、シャワーの開始工程を加えればよい。すなわち、ステップS110とステップS115との間においてシャワー25のノズルから補助冷却剤の吐出を開始する。
【0098】
この結果、図2Cに示すように、シャワー25のノズルから補助冷却剤が吐出され、被処理物Sの最上部から最下部に渡る側面の全域を同時に補助冷却される。従って、被処理物Sの表面において最上部と最下部との温度差はほぼ生じておらず、焼入冷却剤Wへの浸漬が開始される前に、最上部と最下部との温度差がほぼ生じていない状態を維持しながら被処理物Sの温度を下げることができる。
【0099】
なお、本実施形態において、シャワー25から吐出される補助冷却剤は、被処理物Sにかかった後に落下して冷却槽10に蓄積される。本実施形態において、補助冷却剤は、冷却槽10に蓄積された焼入冷却剤Wと同一である。従って、シャワー25から吐出される補助冷却剤が焼入冷却剤Wと混ざらないようにするための構成は不要である。以上の構成によれば、浸漬開始のタイミングにおいて、被処理物Sはシャワー25から吐出された補助冷却剤で補助冷却されている。従って、補助冷却していない状態で浸漬が開始される構成と比較して、被処理物Sの側面の最上部と最下部とにおける温度差は低減されている。このため、補助冷却が行われない場合と比較して、浸漬開始時に被処理物Sの表面で生じる温度差を低減することができる。
【0100】
むろん、以上のような補助冷却を行う構成は、移動装置20による被処理物Sの下降によって浸漬を行う図2Cに示す構成に限定されず、冷却剤を冷却槽に蓄積することで浸漬を行う構成に適用されても良い。図2Dにおいては、空の冷却槽101の内側に、図2Cに示すシャワー25と同様のシャワー250が設けられた構成を示している。この構成におけるシャワー250で補助冷却剤を吐出することで補助冷却を行い、冷却槽101に補助冷却剤が蓄積していくことで浸漬が行われる構成であっても良い。この場合、浸漬が完了すると、シャワー250が停止されてシンクロ状態になる。被処理物Sの表面がマルテンサイト変態したらシンクロ状態が停止される。シンクロ状態が停止されるための構成は、種々の構成であって良く、例えば、図2Cと同様の流動装置30が設けられても良いし、シャワー250から補助冷却剤が吐出されることで被処理物Sの周囲の冷却剤が実質的に攪拌される構成であっても良い。
【0101】
以上のような被処理物Sの表面における温度差を抑制する補助冷却を行うと、補助冷却を行わない場合と比較して、さらに被処理物Sに生じる歪みを抑制することができる。図9Cは、図4に示す実施例1~実施例4と同様のシャフトの軸方向を鉛直方向に対して垂直に向けた状態で図2Cに示す装置で冷却剤に浸漬し、流動装置30を動作させずに焼き入れが完了するまで保持したサンプルの歪み量を示している。サンプルAは、シャワー25による補助冷却を行わずに浸漬した場合の例であり、サンプルBは、シャワー25による補助冷却を行った後に浸漬した場合の例である。
【0102】
図9Cに示されたサンプルA,サンプルBにおいても冷却剤は水であり、熱伝達率は、11000W/(m2・K)である。図9Cにおいては、サンプルAおよびサンプルBについて、焼き入れ温度(℃)、被処理物Sの下降速度Ve(mm/s)、焼入冷却剤Wの温度(℃)、シャワー時間(秒)を示している。ここで、焼き入れ温度は、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接触する前の温度である。焼入冷却剤Wの温度における常温は25℃である。シャワー時間は、シャワー25による補助冷却が開始されてから、被処理物Sの最下部が冷却剤Wの液面Swに接するまでの時間である。
【0103】
サンプルA、サンプルBともに、浸漬が完了した段階(被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面下に達した段階)で被処理物Sに生じている歪みを浸漬後歪みとし、焼き入れが完了した段階で被処理物Sに生じている歪みを焼入後歪み量とした。図9Cに示す歪み量(μm)は、焼き入れ完了後に被処理物Sであるシャフトに生じている歪みを示している。ここでも、歪み量は被処理物Sの円柱軸が鉛直方向にどの程度曲がっているかを示し、鉛直方向における被処理物Sの円柱軸の最上部と最下部との距離を示している。従って、図9Cに示す歪み量は、被処理物Sに生じる歪みの最大値を示している。
【0104】
サンプルAとサンプルBとを比較すると、浸漬後歪み量はサンプルAが22μmに対してサンプルBが1μmである。焼入後歪み量はサンプルAが94μmに対してサンプルBが0.7μmである。従って、補助冷却が行われると、補助冷却が行われない場合と比較して、歪み量を抑制する効果がある。従って、上述の実施形態において浸漬が行われる前にシャワー25によって補助冷却を行えば、被処理物Sに発生する歪み量を抑制することが可能である。
【0105】
さらに、浸漬または焼入の前に被処理物Sの表面と内部とにおける温度差を予め抑制することを目的とした予備冷却が行われてもよい。予備冷却は、種々の装置で行われてよく、焼入冷却剤によって被処理物が冷却される前に、気体状の予備冷却剤によって被処理物が予備冷却される構成であっても良い。気体状の予備冷却剤が被処理物Sに噴射される構成は、種々の構成であって良く、例えば、図2Cに示す構成と同様な構成においてシャワー25が予備冷却剤を気体状に噴出させる気体噴出装置に置換される構成等が挙げられる。本実施形態において気体状の予備冷却剤は被処理物Sと熱交換しても液化しないため、焼入冷却剤Wが水や油であってもこれらと混ざらない。
【0106】
このような気体状の予備冷却剤による予備冷却は、液体の予備冷却剤による冷却と比較して冷却速度が遥かに遅い。従って、被処理物Sの表面と内部とで大きい温度差を生じさせることなく予備冷却することが可能である。このため、被処理物Sの表面と内部とで生じる温度差に起因して生じる被処理物Sの伸びを抑制することができる。
【0107】
図10は、図6と同様の図であり、上述の実施例3と同一の材料および温度の被処理物SについてN2ガスで予備冷却した場合の温度変化と、マルテンサイト分率とを示す図である。ここでも、横軸は時間を対数で示しており、左の縦軸は温度、右の縦軸はマルテンサイト分率を示している。
【0108】
図10においては、被処理物Sの最下部における表面の温度およびマルテンサイト分率を実線で示している。また、被処理物Sの最上部における表面の温度およびマルテンサイト分率を一点鎖線で示し、被処理物Sの内部(中心)における温度およびマルテンサイト分率を二点鎖線で示している。
【0109】
図10においては、850℃の被処理物SをN2ガスで10秒程度予備冷却される例を示しているが、この予備冷却において、被処理物Sの表面に温度差は生じない。一方、被処理物Sの表面と内部とで温度差は生じるが、50℃程度であり極めて小さい。
【0110】
本例においては、この状態でシンクロ状態となり、浸漬が開始され、被処理物Sの表面がマルテンサイト変態開始温度以下になると表面にマルテンサイトが形成されて焼き入れされる。図10に示す例においては、被処理物Sが焼入冷却剤Wの液面に接し、浸炭が開始された時点(横軸の10秒の時点)からさらに約10秒経過した時点(横軸の20秒の時点)でマルテンサイト分率が28%になるため、この時点でシンクロ状態を停止させれば、限界まで歪みを抑制することができる。
【0111】
さらに、本実施形態においては、予備冷却が行われるため、予備冷却が行われない場合と比較して、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成され始める段階における被処理物Sの内部温度は低くなっている。例えば、図6に示す実施例においては、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成され始める段階(図6に示す時刻T0)における被処理物Sの内部温度は750℃以上である。
【0112】
一方、本例ではN2ガスで予備冷却されるため、被処理物Sの内部もある程度冷えてから浸漬が開始される。このため、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成され始める段階(図10に示す時刻T0)における被処理物Sの内部温度は740℃程度である。このように、図6に示す例と図10に示す本例とを比較すると、本例の方が、被処理物Sの表面にマルテンサイトが形成され始める段階における被処理物Sの内部温度が低い。このため、本例においては被処理物Sの内部の熱膨張の程度が、図6に示す例よりも小さい。この結果、焼き入れ後に被処理物Sに生じている伸びが抑制される。
【0113】
焼入冷却剤は、被処理物の熱を焼入冷却剤側に伝達させることによって被処理物を冷却し、焼き入れすることができればよく、種々の冷却剤を選択可能である。補助冷却剤は、被処理物の熱を冷却剤側に伝達させることによって被処理物を冷却し、被処理物の表面がマルテンサイト変態開始温度に達する前まで冷却することができればよく、種々の冷却剤を選択可能である。
【0114】
焼入冷却剤と補助冷却剤剤は、焼き入れおよび補助冷却のそれぞれの目的を達するように冷却可能な物質であればよく、水に限定されない。
【0115】
なお、補助冷却剤と、焼入冷却剤とは、同種の物質であることが好ましい。このような構成としては、例えば、双方が水を主成分とする冷却剤であるか、または双方が焼き入れ油である構成が挙げられる。この構成によれば、補助冷却と焼き入れとの間に被処理物の洗浄工程を設ける必要がなくなり、補助冷却と焼き入れとを連続して実行することが可能になる。また、補助冷却剤と焼入冷却剤とを分離するための構成を設ける必要がなくなり、簡易な装置によって焼き入れを実現することが可能である。
【0116】
なお、焼入冷却剤が水を主成分とする冷却剤である場合、焼き入れ油と比較して熱伝達率が高く、冷却速度が大きい。従って、焼き入れ油で焼き入れを行う場合、水を主成分とする冷却剤の冷却材で焼き入れした場合と比較して、被処理物に生じる歪みが少なくなることが知られている。
【0117】
しかし、熱伝達率が小さい油は、熱伝達率が大きい水(を主成分とする冷却剤)と比較して冷却速度が遅くなるため、焼き入れの程度は低下してしまう。すなわち、冷却速度が遅い場合、速い場合よりも硬度が低く、硬化した部分の表面からの深さ(有効硬化深さ等)が浅くなってしまう。そこで、水や水を主成分とする冷却剤を焼入冷却剤とすれば、被処理物を高速に冷却できるため、油で冷却した場合よりも表面の硬度が高くなり、硬化した部分の表面からの深さも深くなる。従って、水や水を主成分とする冷却剤を焼入冷却剤としながら、シンクロ状態で焼き入れを行うことにより、歪みの抑制と表面硬度の確保とを両立させることができる。
【0118】
なお、シンクロ状態を実現するための装置として上述した装置は、例示であり、他にも種々の構成の装置が採用されてよい。例えば、冷却槽10内の板状の部材は省略されてもよいし、他の形状であっても良い。さらに、冷却槽に対して冷却剤を流入させる構成において、図9Bに示すように焼入冷却剤Wが予めタンク103に蓄積され、タンク103の排出口からの流路が冷却槽102に向けられ排出口の弁を開けることによって冷却剤が冷却槽102に流入する構成等であっても良い。むろん、図9B図8Aに示す構成において冷却槽に冷却剤を流入させる流入路は種々の部分に設けられていても良い。例えば、冷却槽の下面に開口する流入路からポンプによって冷却槽内に冷却剤が流入される構成等が採用されてもよい。
【0119】
被処理物が焼入冷却剤に接してからの既定期間は、浸漬開始後、シンクロ状態が維持される期間であれば良い。既定期間は、当該既定期間経過後にシンクロ状態が解除されることによって急冷が促進されても、被処理物に歪みが残留したり、被処理物が割れたりしないように設定されていれば良い。すなわち、焼入冷却剤によって急冷を行う構成であっても、既定期間はシンクロ状態を維持することにより過度の急冷が抑制可能であり、既定期間が経過した場合にはシンクロ状態が解除されることにより、より高速に急冷が行われるように設定されていればよい。
【0120】
既定期間は、シンクロ状態が維持される期間であるが、シンクロ状態の維持が必要な期間の経過を境にして被処理物の状態が急激に変化する訳ではないため、既定期間にはある程度の幅があって良い。ただし、過度に早い段階でシンクロ状態を停止し、急冷が開始されると、被処理物に生じた歪みが残留したり、被処理物が割れたりすることがあり得る。この意味で、既定期間は、シンクロ状態が維持されるべき最低限の期間として規定されていれば良い。従って、既定期間終了後にシンクロ状態が継続された場合に不具合がないのであれば、既定期間経過後においてもシンクロ状態が継続されても良い。
【0121】
焼入冷却剤の液面よりも内側における被処理物と焼入冷却剤との相対速度は0に限定されず、焼入冷却剤による急冷を緩和することによって被処理物に過度の温度差が形成されることを防止できる限りにおいて、種々の相対速度とされて良い。なお、被処理物と焼入冷却剤との相対速度は、特定の方向にのみ着目して定義されても良い。例えば、上述の実施形態においては、被処理物の移動方向や液面の移動方向である鉛直方向に平行な方向の相対速度のみが考慮されても良い。
【符号の説明】
【0122】
10…冷却槽、20…移動装置、21…支持台、22…支持部、25…シャワー、30…流動装置、31…軸、32…プロペラ、100…冷却槽、101…冷却槽、102…冷却槽、103…タンク、200…流入路、250…シャワー
図1
図2
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図10