(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B1)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2023-07-27
(45)【発行日】2023-08-04
(54)【発明の名称】スペクトル解析方法、解析装置および解析プログラム
(51)【国際特許分類】
G01N 21/19 20060101AFI20230728BHJP
G01N 21/27 20060101ALI20230728BHJP
G01N 21/64 20060101ALI20230728BHJP
【FI】
G01N21/19
G01N21/27 Z
G01N21/64 A
(21)【出願番号】P 2023018668
(22)【出願日】2023-02-09
【審査請求日】2023-04-05
【早期審査対象出願】
(73)【特許権者】
【識別番号】000232689
【氏名又は名称】日本分光株式会社
(74)【代理人】
【識別番号】100092901
【氏名又は名称】岩橋 祐司
(74)【代理人】
【識別番号】100188260
【氏名又は名称】加藤 愼二
(72)【発明者】
【氏名】大山 泰史
(72)【発明者】
【氏名】眞砂 央
(72)【発明者】
【氏名】鈴木 仁子
【審査官】嶋田 行志
(56)【参考文献】
【文献】米国特許出願公開第2005/0043902(US,A1)
【文献】国際公開第2015/097217(WO,A1)
【文献】米国特許第06415223(US,B1)
【文献】米国特許出願公開第2021/0131951(US,A1)
【文献】特表2019-522802(JP,A)
【文献】特表2019-537006(JP,A)
【文献】Modelling changes in chocolate during production and strage by ATR-FT-IR spectroscopy and MCR-ALS hybrid soft and hard modeling,Chemometrics and Inteligent Laboratory Systems,2022年12月19日,Vol. 233,104735,doi: 10.1016/j.chemolab.2022.104735
【文献】Study of the Intercalation Equilibrium between the Polynucleotide Poly(adenylic)-Poly(uridylic) Acid and the Ethidium Bromide Dye by Means of Multivariate Curve Resolution and the Multivariate Extension of the Continuous Variation and Mole Ratio Methods,Analytical Chemistry,米国,American Chemical Society,1999年10月01日,Vol. 71,pp. 4328-4337,doi: 10.1021/ac990131m
【文献】Combination of UV-vis spectroscopy and chemometrics to understand protein-nanomaterial conjugate: A case study on human serum albumin and gold nanoparticles,Talanta,Elsevier B. V.,2013年11月13日,Vol. 119,pp. 320-330,doi: 10.1016/j.talanta.2013.11.026
【文献】Characterization and determination of stability constants of copper(II)-L-histidine complexation system by using multivariate curve resolution method of visible spectra and two hard modeling methods in aqueous solutions,Analytica Chimica Acta,Elsevier B. V.,2004年04月13日,Vol. 512,pp. 257-269,doi: 10.1016/j.aca.2004.02.056
【文献】Probing the binding mechaqnism of capecitabine to human serum albumin using spectrometric methods, molecular modeling, anf chemometrics approach,Bioorganic Chemistry,Elsevier Inc.,2019年06月08日,Vol. 90,103037,doi: 10.1016/j,bioorg.2019.103037
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 21/00-G01N 21/83
G16C 10/00-G16C 99/00
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
JSTChina(JDreamIII)
ACS PUBLCATIONS
Oxford Journals
Science Direct
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
試料を
光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)法を用いて該複数の前記測定スペクトルをスペクトル解析する方法であって、
3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定し、
前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定し、
複数の前記測定スペクトルに対して前記MCRを開始し、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得する、ことを特徴とするスペクトル解析方法。
【請求項2】
前記測定スペクトルは、正負のスペクトル強度値を含むデータであることを特徴とする請求項1記載のスペクトル解析方法。
【請求項3】
前記測定スペクトルは、円二色性スペクトル、振動円二色性スペクトル、円偏光蛍光スペクトル、蛍光検出円二色性スペクトル、旋光分散スペクトルのいずれかであることを特徴とする請求項2記載のスペクトル解析方法。
【請求項4】
複数の前記測定スペクトルは、測定条件を順次変更することによって、前記試料に含まれる反応物と生成物の間の反応の前記平衡状態を変化させながら測定されたデータであり、前記測定条件は、前記試料の温度、濃度、pH、圧力、印加電場、印加磁場、照射光のいずれか、またはこれらの組み合わせであり、前記反応物と前記生成物についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得することを特徴とする請求項1記載のスペクトル解析方法。
【請求項5】
前記反応物と前記生成物の間の反応は、前記反応物と中間生成物の間の反応と、前記中間生成物と前記生成物の間の反応とを含み、前記反応物と前記中間生成物と前記生成物についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得することを特徴とする請求項4記載のスペクトル解析方法。
【請求項6】
前記反応物または前記生成物を構成する2種以上の化学種についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することを特徴とする請求項4記載のスペクトル解析方法。
【請求項7】
前記中間生成物を構成する2種以上の化学種についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することを特徴とする請求項5記載のスペクトル解析方法。
【請求項8】
前記スペクトル解析方法において、前記反応物および前記生成物は、構造が異なるタンパク質、ペプチド、核酸、糖鎖、脂質、低分子のいずれか、またはこれらの組み合わせによる物質であり、前記タンパク質、前記ペプチド、前記核酸、前記糖鎖、前記脂質、前記低分子のいずれか、またはこれらの組み合わせによる前記物質についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することを特徴とする請求項4記載のスペクトル解析方法。
【請求項9】
試料を
光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)実行処理部と、
前記MCR実行処理部において交互最小二乗最適化(MCR-ALS)のために用いる前記濃度値の拘束条件を設定する拘束条件設定処理部と、
を備えるスペクトル解析装置であって、
前記拘束条件設定処理部は、3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定し、前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定するように構成され、
前記MCR実行処理部は、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得するように構成される、ことを特徴とするスペクトル解析装置。
【請求項10】
試料を
光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)法を用いて該複数の前記測定スペクトルをスペクトル解析するプログラムであって、
コンピュータに、
3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定するステップと、
前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定するステップと、
複数の前記測定スペクトルに対して前記MCRを開始するステップと、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得するするステップと、
を実行させることを特徴とするスペクトル解析プログラム。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明はスペクトルデータを熱力学的に解析する手法に関する。
【背景技術】
【0002】
従来、赤外線吸収スペクトル(IRスペクトル)やラマン散乱光スペクトルの解析装置として、交互最小二乗最適化多変量カーブ分解(MCR-ALS)法を利用した解析装置が広く利用されている。MCR-ALS法は、混合物のスペクトルデータから純粋なスペクトル(純スペクトル)と対応する濃度値とを分解する手法であり、一般に、純スペクトル又は濃度値のいずれかの初期値を推定し、非負条件のような拘束条件を用いて、純スペクトル及び濃度値を交互に計算し、計算を繰り返して最適化された純スペクトル及び濃度値を取得するという手順からなる。例えば、特許文献1には、MCR-ALS法を利用して、試料に存在する種々の化合物の分布画像を取得する技術が記載されている。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0003】
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0004】
発明者らは、上記のMCR-ALS法をベースに、スペクトルの熱力学的解析に適したスペクトル解析装置の開発を進めてきた。特に、3種以上の化学種が共存する試料について、その平衡状態の変化を測定したスペクトルを熱力学的に解析するには、MCR-ALS法における純スペクトル又は濃度値に対する拘束条件として、従来の非負条件のみではなく、これとの併用が可能な又はこれに代わるような新たな拘束条件を見出すことが重要であると考えた。
【課題を解決するための手段】
【0005】
すなわち、本発明に係るスペクトル解析方法は、
試料を光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)法を用いて該複数の前記測定スペクトルをスペクトル解析する方法であって、
3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定し、
前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定し、
複数の前記測定スペクトルに対して前記MCRを開始し、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得する、ことを特徴とする。
【0006】
前記スペクトル解析方法において、前記測定スペクトルは、正負のスペクトル強度値を含むデータであることが好ましく、特に、円二色性スペクトル、振動円二色性スペクトル、円偏光蛍光スペクトル、蛍光検出円二色性スペクトルおよび旋光分散スペクトルのいずれかであることが好ましい。
【0007】
前記スペクトル解析方法において、複数の前記測定スペクトルは、測定条件を順次変更することによって、前記試料に含まれる反応物と生成物の間の反応の前記平衡状態を変化させながら測定されたデータであり、前記測定条件は、前記試料の温度、濃度、pH、圧力、印加電場、印加磁場、照射光のいずれか、またはこれらの組み合わせであり、前記反応物と前記生成物についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得することが好ましい。
【0008】
前記スペクトル解析方法において、前記反応物と前記生成物の間の反応は、前記反応物と中間生成物の間の反応と、前記中間生成物と前記生成物の間の反応とを含み、前記反応物と前記中間生成物と前記生成物についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得することが好ましい。
【0009】
前記スペクトル解析方法において、前記反応物または前記生成物を構成する2種以上の化学種についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することが好ましい。
【0010】
前記スペクトル解析方法において、前記中間生成物を構成する2種以上の化学種についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することが好ましい。
【0011】
前記スペクトル解析方法において、前記反応物および前記生成物は、構造が異なるタンパク質、ペプチド、核酸、糖鎖、脂質、低分子のいずれか、またはこれらの組み合わせによる物質であり、前記タンパク質、前記ペプチド、前記核酸、前記糖鎖、前記脂質、前記低分子のいずれか、またはこれらの組み合わせによる物質についての前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を含めて取得することが好ましい。
【0012】
また、本発明に係るスペクトル解析装置は、
試料を光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)実行処理部と、
前記MCR実行処理部において交互最小二乗最適化(MCR-ALS)のために用いる前記濃度値の拘束条件を設定する拘束条件設定処理部と、を備え、
前記拘束条件設定処理部は、3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定し、前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定するように構成され、
前記MCR実行処理部は、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得するように構成される、ことを特徴とする。
【0013】
また、本発明に係るスペクトル解析プログラムは、
試料を光学的に測定して得られた測定スペクトルが、所定の成分数の純スペクトルに該純スペクトルごとの濃度値を掛けたものの一次結合で表されることを前提に、複数の前記測定スペクトルから前記成分数の前記純スペクトルを分離し、該純スペクトルごとの前記濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)法を用いて該複数の前記測定スペクトルをスペクトル解析するプログラムであって、
コンピュータに、
3種以上の化学種が共存する前記試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定するステップと、
前記平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定するステップと、
複数の前記測定スペクトルに対して前記MCRを開始するステップと、
(A)算出した前記濃度値に対して、前記化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、該化学平衡の式を構成する熱力学的パラメータの最適値を取得し、
(B)前記熱力学的パラメータの前記最適値を用いた前記化学平衡の式から新たな濃度値を取得し、該新たな濃度値を使って前記純スペクトルを分離して前記濃度値を算出する、
という(A)と(B)の処理を繰り返して、前記平衡モデルに応じた前記熱力学的パラメータ、前記純スペクトルおよび該純スペクトルごとの前記濃度値を取得するするステップと、を実行させることを特徴とする。
【発明の効果】
【0014】
以上の本発明に係るスペクトル解析方法、解析装置および解析プログラムでは、MCR-ALS法における濃度値の拘束条件に利用するために、3種以上の化学種が共存する試料の平衡状態に応じた平衡モデルと、これら平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式とが設定される。
MCR開始後の処理(A)では、濃度値の算出値に化学平衡の式がフィットするような熱力学的パラメータが探索される(これをパラメータフィッティングとも呼ぶ)。そして、処理(B)では、探索された熱力学的パラメータを用いた化学平衡の式から、新たな濃度値を取得する。このように平衡モデルと化学平衡の式に基づく処理で濃度値を拘束することにより、3種以上の化学種が共存する試料であっても、その平衡状態の変化の過程を測定したスペクトルデータを熱力学的に解析することが可能になり、熱力学的パラメータの取得が可能になった。本発明は、円二色性スペクトルや振動円二色性スペクトル、円偏光蛍光スペクトル、蛍光検出円二色性スペクトル、旋光分散スペクトルなどの正負のスペクトル強度値を含むデータに限らず、例えば、ラマン散乱スペクトル、赤外スペクトル、紫外可視近赤外スペクトル、蛍光スペクトルなど様々なスペクトルデータの熱力学的解析に適用できる。
【0015】
なお、MCR-ALS法は、原理的には数値的に最適解を探索するものであるため、局所的最適解(いわゆるローカルミニマム)に陥って、物理・化学的に意味のない情報を選んでしまうことがある。そのため、従来、物理・化学的に意味がある情報を抽出できるように以下に列挙するような工夫が取り入れられてきた。
・適切な成分数の推定(主成分分析に基づく固有値を利用)
・適切な初期値の推定
(主成分分析に基づく固有ベクトルや特異値分解に基づく右特異ベクトルを利用)
・適切な拘束条件の設定(濃度・スペクトルの非負拘束)
しかし、スペクトルの非負拘束については、スペクトル強度値が正の値(又は負の値)だけになるようなスペクトルデータには適用できるが、例えば、円二色性スペクトルのようにスペクトル強度値が正と負の両方の値になるようなスペクトルデータには適用することができない。これに対し、本発明では、前記測定スペクトルが、正負のスペクトル強度値を含むデータである場合、例えば、円二色性スペクトルや振動円二色性スペクトル、円偏光蛍光スペクトル、蛍光検出円二色性スペクトル、旋光分散スペクトルである場合に、平衡モデルと化学平衡の式に基づく処理で濃度値を拘束することを採用し、純スペクトルに対する非負拘束を用いない、という選択ができるようになり、正負のスペクトル強度値を含むスペクトルデータについてもMCR-ALSを用いた熱力学的解析が可能になった。
【0016】
MCR-ALSを用いてスペクトルを熱力学的に解析する手法において、純スペクトルを非負拘束するという条件に代わる、又は、これと併用することができる新たな拘束条件として、平衡モデルと化学平衡の式に基づく処理で濃度値を拘束する手法を確立することができた。
【図面の簡単な説明】
【0017】
【
図1】本発明の一実施形態に係るスペクトル解析装置の構成例を示すブロック図。
【
図2】前記解析装置によるMCR-ALS処理の一例を示す処理フロー図である。
【
図3】前記解析装置による2成分の濃度行列を拘束する処理を説明するための図。
【
図4】前記解析装置による3成分の濃度行列を拘束する処理を説明するための図。
【
図5】複数の測定スペクトルの一例として温度変化CDスペクトルの試験データ。
【
図6】
図5の試験データを前記解析装置でMCR-ALS処理した結果(濃度値のグラフ)を反復回数ごとに示すグラフである。
【
図7】
図5の試験データを前記解析装置でスペクトル解析した結果(複数の化学種のスペクトルのグラフ、化学種ごとの濃度値のグラフ、熱力学的パラメータの算出値)を示す図である。
【
図8】
図5の試験データを前記解析装置でスペクトル解析した結果を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0018】
以下、図面に基づき本発明の好適な実施形態を説明する。
図1は、本発明の一実施形態に係るスペクトル解析装置の構成例を示すブロック図である。スペクトル解析装置10は、多変量カーブ分解(MCR)のプログラムを実行して、スペクトル測定装置30で測定された複数の測定スペクトルを熱力学的に解析する装置であり、コンピュータ及びその周辺機器で構成され、
図1のように演算装置1、データ入力部2、操作部3、表示部4、記憶部5などを備えている。
【0019】
演算装置1は、例えばCPUを含む構成であり、プログラムを実行することにより、MCR実行処理部12、成分数推定処理部14、濃度初期値推定処理部16、拘束条件設定処理部20、解析結果表示処理部26などの各種機能部として機能する。
【0020】
データ入力部2は、分析の際に、各種のスペクトル測定装置30に接続されて測定スペクトルのデータを受け取る。
【0021】
スペクトル測定装置30は、試料セルなどの容器に入った試料を試料室に設置し、所定の光を照射し、試料の透過光・反射光・発光・散乱光などを検出することによって、試料をスペクトル測定する装置であり、ここでは、一例として円二色性(CD)スペクトル測定装置である場合を説明するが、スペクトル測定装置30としては、その他に、振動円二色性(VCD)スペクトル測定装置、円偏光ルミネッセンス(CPL)スペクトル測定装置、蛍光検出円二色性(FDCD)スペクトル測定装置、旋光分散(ORD)スペクトル測定装置、ラマン散乱スペクトル測定装置、赤外(IR)スペクトル測定装置、紫外可視近赤外スペクトル測定装置、蛍光スペクトル測定装置などを用いることができる。つまり、本実施形態のスペクトル解析装置10は、CD分析に限らず、VCD分析、CPL分析、FDCD分析、ORD分析、ラマン散乱光分析、IR分析、紫外可視光分析、蛍光分析など様々な分析法で測定されたスペクトルデータセットを解析対象にすることができる。
【0022】
試料は、共存する複数の化学種を含み、その一部の化学種が反応物であり、他の一部の化学種が生成物である。反応物と生成物の間の可逆反応は平衡状態にある。
【0023】
スペクトル測定装置30は、所定の測定条件を変更するための機器を備えている。所定の測定条件とは、例えば、温度、圧力、試料濃度、pH、印加電場、印加磁場、照射光、応力負荷などである。スペクトル測定装置30は、試料濃度やそれぞれの負荷を連続的に変更するための機器を用いて、順次変更される測定条件の下で、試料のスペクトル測定が実行される。なお、試料濃度の条件変更には、例えば、試料がタンパク質や核酸などである場合に、リガンドや反応試薬の添加量の変更や、変性剤濃度や添加剤濃度の変更なども含まれる。
【0024】
このようにして測定条件を変更すると、試料に含まれている反応物と生成物の間の可逆反応の平衡状態が変化(移動)するので、スペクトル測定装置30は平衡状態の変化に伴って変化する複数の測定スペクトルを取得することができる。
【0025】
ここでは、一例としてタンパク質の熱変性を解析するケースを取り上げる。CDスペクトル測定装置は、タンパク質の温度条件を変更しながら複数の測定CDスペクトルを取得し、それらのデータをデータ入力部2に入力する。
【0026】
スペクトル測定装置30は、試料の温度条件を1番目からN番目まで順番に変更して、その都度、試料をスペクトル測定する。スペクトル測定装置30は、N本の測定スペクトルの数列データを式(1)に示すような測定スペクトル行列「X」のデータ形式で出力する。
【0027】
【0028】
ここで、1本の測定スペクトルの数列データは「x」で示される。測定スペクトルxは、m次元の行ベクトルであり、すなわち、m個の波長点のスペクトル強度値で構成される。そして、1番目からN番目までの温度条件で測定した測定スペクトル数列を「x1,x2,...xN」(いずれもm次元の行ベクトル)で表して、これらを行列成分として有しているのが測定スペクトル行列Xである。行列Xの行方向(横方向)は、スペクトルの波長方向に対応し、列方向(縦方向)は、温度条件の変化に対応する。このように、測定スペクトル行列Xにおいて、行方向に並んだm個の波長点はそれぞれのスペクトル強度値を有し、列方向に並んだN通りの温度条件に応じてそのスペクトル強度値が変化していることから、測定スペクトル行列Xは「m個の変量」からなるスペクトルのデータセットであると言える。
【0029】
このようにして得られた測定スペクトル行列Xは、データ入力部2を介して演算装置1に入力される。データ入力部2は、スペクトル測定装置30に対して有線又は無線により接続可能になっている。或いは、スペクトル測定装置30で得られた測定データが記憶媒体を介してデータ入力部2に入力可能になっていてもよい。スペクトル解析装置とスペクトル測定装置とを一体的に構成してもよい。
【0030】
記憶部5は、1以上のメモリにより構成され、例えばROM又はRAMなどで構成されている。操作部3は、例えばキーボード又はマウス、タッチパネルなどを含み、ユーザーが操作部3を操作することにより入力作業などを行えるようになっている。表示部4は、例えば液晶表示装置などで構成され、解析結果などが表示部4に表示される。
【0031】
MCR実行処理部12は、データ入力部2から入力される測定スペクトル行列Xに対して多変量カーブ分解を実行する。
【0032】
多変量カーブ分解を開始するには、分解する成分数nを事前に設定しなければならない。本実施形態では、成分数推定処理部14が、試料に含まれる化学種の数を主成分分析(PCA)法を使って推定し、これを成分数nとして用いる。PCA法を使って成分数nを推定してそのまま適用する他に、ユーザーが直接、成分数nの数値を指定してもよい。ユーザーが事前に幾つの成分を含有しているかを知っている場合は、ユーザーの判断で任意の成分数を設定してもよい。
【0033】
また、多変量カーブ分解を開始するには、推定された成分数nの純スペクトルs(式(1)のsは行ベクトル)の初期値か、そのn個の純スペクトルごとの濃度値cの初期値かのいずれかを事前に設定しなければならない。本実施形態では、濃度初期値推定処理部16が、濃度初期値を展開因子分析(EFA)法を使って推定する。ここで、式(1)に示すように暫定濃度行列「C」は、温度条件に応じた成分ごとの濃度値c(cはスカラー)を成分とする行列である。1つの温度条件における1つの成分の濃度値を「c」で表すと、1番目の温度条件(N=1)における成分ごとの濃度値は「c11,c12,...c1n」で表され、N番目の温度条件における成分ごとの濃度値は「cN1,cN2,...cNn」で表される。濃度行列Cの横方向は成分数に対応し、縦方向は温度条件の変化に対応している。
【0034】
多変量カーブ分解は、それぞれの測定スペクトルx1が、所定の成分数nの純スペクトルs1~snに該純スペクトルごとの濃度値c11~c1nを掛けたものの一次結合(x1=c11s1+c12s2+・・・+c1nsn)で表されることを前提にして、測定スペクトル行列Xから純スペクトル行列Sを分解し、濃度行列Cを算出することを行う。つまり、MCR実行処理部12は、測定スペクトル行列Xに基づいて、X-CSで表される残差行列の要素の二乗和が最小になるような濃度行列Cと純スペクトル行列Sを、交互最小二乗最適化(ALS)の手法で算出する。
【0035】
この交互最小二乗最適化(ALS)の手法で多変量カーブ分解を実行するには、純スペクトルsもしくは濃度値c、又は、これらの両方を拘束する条件を事前に設定しなければならない。本実施形態では、このために、平衡モデル設定処理部22及び化学平衡の式設定処理部24を含む拘束条件設定処理部20が設けられており、濃度値cの拘束条件が事前に設定されるようになっている。
【0036】
まず、平衡モデル設定処理部22は、試料に含まれる反応物と生成物との間の可逆反応の平衡状態を表す平衡モデルを設定する。例えば、反応物が天然状態(N)のタンパク質で、生成物が変性状態(D)のタンパク質であって、両者間の可逆反応が「N⇔D」の平衡モデルに従うときは、ユーザーが操作部3を操作してこの平衡モデルの情報を与えることで、平衡モデル設定処理部22が該当する平衡モデルを設定することができる。或いは、試料に含まれる反応物と生成物の物質名や状態データに基づいて、平衡モデル設定処理部22が設定すべき平衡モデルを多数の平衡モデルの選択肢から自動的に選択するように構成してもよい。また、平衡モデルに含まれる化学種の数が推定した成分数nと一致するように、平衡モデルを設定するようにする。
【0037】
また、化学平衡の式設定処理部24は、平衡モデル設定処理部22によって設定された平衡モデルに応じた少なくとも1つの平衡定数Kの式を設定する。平衡定数Kの式としては、スペクトル測定装置30が変更した測定条件に応じた公知の平衡定数Kの式が知られている。例えば上記の「N⇔D」の平衡モデルでは平衡定数Kは1つ存在し、温度変化に伴って測定したスペクトルデータを解析する場合であるならば、公知の平衡定数Kの式を設定することができる。平衡定数Kの式は、様々な熱力学的パラメータで構成されている。なお、本書において化学平衡の式には、平衡定数Kの式が含まれる。
【0038】
化学平衡の式設定処理部24は、設定する平衡定数Kの数を、平衡モデルに応じて自動的に設定することができる。一方、平衡定数Kの式を具体的に設定する場合は、ユーザーが操作部3を操作して具体的な平衡定数Kの式の情報を与えることで、化学平衡の式設定処理部24が具体的な平衡定数Kの式を設定できるようにしてもよい。或いは、変更された測定条件の種類の情報に基づいて、設定すべき平衡定数Kの式を多数の平衡定数Kの式の選択肢から自動的に選択するようにしてもよい。
【0039】
このように設定された平衡モデルと平衡定数Kの式に基づいて濃度値を拘束する方法については後述する(
図2~
図4)。
【0040】
初期値の推定と拘束条件の設定後、多変量カーブ分解が実行される。多変量カーブ分解によって算出された濃度行列C及び純スペクトル行列Sは、互いに対応付けられた状態で記憶部5に記憶される。
【0041】
図2は、演算装置1によるMCR-ALS処理の一例を示す処理フロー図である。解析開始時、まず、測定スペクトル行列Xに対して主成分分析(PCA)を実行して成分数nが推定される(ステップS12)。次に 、測定スペクトル行列Xに対して展開因子分析(EFA)を実行して濃度初期値が推定される(ステップS14)。そして、成分数nと濃度初期値に基づく濃度行列Cを用いて測定スペクトル行列Xに対する多変量カーブ分解が実行される(ステップS16~S22)。
【0042】
ステップS16で、測定スペクトル行列Xと初期値からなる濃度行列Cとに基づいて、純スペクトル行列Sを算出する。純スペクトル行列Sは、式(1)のようにn個の成分に対応するn本の純スペクトルsの数列を成分とする行列である。1本の純スペクトルの数列を「s」で表すと、純スペクトルsは、m次元の行ベクトルであり、すなわち、m個の波長点のスペクトル強度値で構成される。そして、n個の成分の純スペクトルの数列を「s1,s2,...sn」(いずれもm次元の行ベクトル)で表して、これらを行列成分として有しているのが純スペクトル行列Sである。行列Sの列方向(縦方向)は成分数に対応し、行方向(横方向)はスペクトルの波長方向に対応している。
ステップS16において、純スペクトル行列Sの算出は次の式(2)による。
S=(CTC)-1CTX ・・・(2)
ここで、「T」は転置行列を示し、「-1」は逆行列を示す。
測定スペクトル行列XがCDスペクトルデータである場合、純スペクトル行列もCDスペクトルデータのように正負の両方のスペクトル強度値を要素として含んでいる。そのため、純スペクトル行列の要素に対して、非負の拘束を適用することはできない。従って、ステップS16で算出される純スペクトル行列Sに対する拘束条件は設けられていない。
【0043】
次にステップS18で、測定スペクトル行列XとステップS16で算出した純スペクトル行列Sとに基づいて濃度行列Cを算出する。濃度行列Cの算出は次の式(3)による。
C=XST(SST)-1 ・・・(3)
算出した濃度行列Cに負の要素があるときは、負の要素を0に置き換えるという非負拘束を適用して、濃度行列Cを取得する。
【0044】
本実施形態では、ステップS16とステップS18の処理を数回(例えば2回)反復して、その回数の反復で得た濃度行列Cと純スペクトル行列Sを次のステップS20で用いる。
【0045】
ステップS20では濃度行列Cを熱力学的な平衡モデルによる拘束を与える。
まず表1の平衡モデルおよび平衡定数Kの式が設定されている場合について説明する。
【0046】
【表1】
ここで、平衡定数Kの式中、
T :試料温度(変化させた測定条件)
ΔH:エンタルピーの変化
R :気体定数
T
m:変性中点温度。
【0047】
表1の平衡モデルは、反応物(天然N)と生成物(変性D)からなる2成分平衡モデルであり、平衡定数Kは1つである。また、濃度行列Cの成分数はn=2になっている。
図3に基づいて、2成分の濃度行列Cを拘束する処理を説明する。まず、濃度行列Cの成分ごとの濃度値を、横軸を温度条件とし、縦軸を濃度値としてプロットしたグラフを
図3(A)に示す。次に、平衡定数Kの式に基づいて平衡モデルの成分ごとに定まる濃度カーブを
図3(A)のグラフに重ねて示す(
図3(B))。そして、平衡定数Kの式を構成する熱力学的パラメータ(ΔHとT
m)の数値を様々に変化させて、濃度行列Cの成分ごとの濃度値に濃度カーブをフィッティング処理する(
図3(C))。熱力学的パラメータ(ΔHとT
m)の最適値を求める際に、レーベンバーグ・マルカート(LM)法のような最小二乗法を適用してもよい。最後に、フィッティング処理後の各濃度カーブから読み取った濃度値に基づく、新たな濃度行列Cを取得する。このようにすることで、2成分平衡モデルにおける濃度行列Cの拘束が可能になり、次のステップでは新たな濃度行列Cを用いた純スペクトル行列を計算することができる。
【0048】
次に表2の平衡モデルおよび平衡定数Kの式が設定されている場合について説明する。
【0049】
【表2】
ここで、平衡定数K
1,K
2の式中、
T 試料温度(変化させた測定条件)
ΔH
i エンタルピー変化
R 気体定数
T
m,i 変性中点温度。
【0050】
表2の平衡モデルは、反応物(天然N)と中間体(I)と生成物(変性D)からなる3成分平衡モデルであり、多段階の可逆反応を示し、平衡定数は2つ(K
1,K
2)ある。また、濃度行列Cの成分数はn=3になっている。
図4に基づいて、3成分の濃度行列Cを拘束する処理を説明する。まず、濃度行列Cの成分ごとの濃度値を
図3と同様にグラフにしたものを
図4(A)に示す。次に、平衡定数K
1,K
2の式に基づいて平衡モデルの成分ごとに定まる濃度カーブを
図4(A)のグラフに重ねて示す(
図4(B))。そして、平衡定数K
1,K
2の式をそれぞれ構成する熱力学的パラメータ(ΔH
1,T
m,1,ΔH
2,T
m,2)の数値を様々に変化させて、濃度行列Cの成分ごとの濃度値に濃度カーブをフィッティング処理する(
図4(C))。
図3と同様に、LM法などで熱力学的パラメータ(ΔH
1,T
m,1,ΔH
2,T
m,2)の最適値を求めてもよい。最後に、フィッティング処理後の各濃度カーブから読み取った濃度値に基づく、新たな濃度行列Cを取得する。このようにすることで、3成分平衡モデルにおいても、濃度行列Cを拘束することができて、次のステップでは新たな濃度行列Cを用いた純スペクトル行列の計算が可能になる。
【0051】
説明を省略するが、同様の手法により、4成分以上の平衡モデルにおいても濃度行列の拘束処理が可能になる。
【0052】
ステップS16~S20の処理は、ステップS22での収束条件を満足するまで繰り返す。収束条件の一例として、分離した純スペクトルと1回前に分離した純スペクトルとの二乗平均平方根誤差(RMSE Spec.)が所定の閾値以下になった場合に「収束した」と判断してもよい。または、算出した濃度値とフィッティング処理後の濃度カーブとの二乗平均平方根誤差(RMSE Conc.)が所定の閾値以下になった場合に「収束した」と判断してもよい。或いは、算出した濃度値と分離した純スペクトルとを合成した複合スペクトルと、測定スペクトルとの二乗平均平方根誤差(RMSE Spec.)が所定の閾値以下になった場合に「収束した」と判断してもよい。
【0053】
「収束した」の判断後のステップS24で、濃度行列C、純スペクトル行列Sおよび各熱力学的パラメータを出力し、又は記憶部5に保存して、スペクトル解析が終了する。このようにして、収束した純スペクトル行列Sを化学種ごとのスペクトルデータとして取得でき、収束した濃度行列Cを測定条件ごとの化学種の濃度値として取得できる。
【0054】
なお、解析結果表示処理部26は、収束した純スペクトルを化学種のスペクトルデータとして表示部4にグラフ表示し、また、フィッティング処理後の濃度カーブを測定条件に伴って変化する化学種ごとの濃度値としてグラフ表示することができる。これらのグラフ表示と一緒に、設定した平衡モデルに応じた熱力学的パラメータの算出値を表示することもできる。
【0055】
上述のようなスペクトル解析装置としてコンピュータを機能させるためのプログラム(スペクトル解析装置用プログラム)を提供することも可能である。この場合、前記プログラムは、記憶媒体に記憶された状態で提供されるような構成であってもよいし、プログラム自体が提供されるような構成であってもよい。
【0056】
平衡モデル設定処理部22および化学平衡の式設定処理部24において、表1や表2の例示に加えて、表3に列挙するような平衡モデルや化学平衡の式が利用可能に書き込まれていてもよい。そして、ユーザーの指定によるか、スペクトル解析装置自身の判別によるかの方法で、これら複数の平衡モデルや化学平衡の式から利用するものを選択するようにしてもよい。スペクトル解析装置自身による判別の際、スペクトル解析装置は、測定スペクトル、試料の情報、測定条件の情報等に基づいて、最適な平衡モデルや化学平衡の式を判別するようにしてもよい。
【0057】
【0058】
次に、温度以外の測定条件を変更するケースについて、表4の平衡モデルおよび平衡定数Kの式が設定されている例を説明する。
【0059】
【表4】
ここで、平衡定数K
1,K
2の式中、
C 変性剤濃度(変化させた測定条件)
μ 協同性パラメータ
R 気体定数
T 試料温度(一定)
C
1/2,i 変性中点の変性剤濃度
【0060】
表4は、変性剤濃度を変化させながら試料のスペクトルデータを取得し、変性剤による試料の化学変性を解析対象にするケースを示す。平衡モデルは、反応物(天然N)と中間体(I)と生成物(変性D)からなる3成分平衡モデルであり、平衡定数は2つ(K1,K2)ある。化学平衡の式中の3つの熱力学的パラメータ(μ,C1/2,1,C1/2,2)を使って、濃度カーブのフィッティングを実行する。
【0061】
次に、表5の平衡モデルおよび平衡定数Kの式が設定されている例を説明する。
【0062】
【表5】
ここで、平衡定数Kの式中、
p 試料圧力(変化させた測定条件)
R 気体定数
T 試料温度(一定)
ΔG
0 常温・常圧におけるギブスエネルギー変化
ΔV
0 常温・常圧における部分モル体積変化
【0063】
表5は、試料圧力を変化させながら試料のスペクトルデータを取得し、試料圧力による試料体積の変化を解析対象にするケースを示す。平衡モデルは、反応物(天然N)と生成物(変性D)からなる2成分平衡モデルであり、平衡定数Kの式中の2つの熱力学的パラメータ(ΔG0,ΔV0)を使って、濃度カーブのフィッティングを実行する。
【0064】
次に、表6の平衡モデルおよび平衡定数Kの式が設定されている例を説明する。
【0065】
【0066】
【数2】
ここで、平衡定数Kの式(4)は、化学平衡定数Kと熱力学的パラメータとの関係を表す基本式であり、式中、
ΔG ギブスエネルギー変化
R 気体定数
T 試料温度
ΔH エンタルピー変化
ΔS エントロピー変化
【0067】
表6は、タンパク質へのリガンド添加量を変化させながら試料のスペクトルデータを取得し、タンパク質とリガンドの親和性を解析対象にするケースを示す。タンパク質(天然N)とリガンド(L)が1:1で結合して複合体(NL)を形成する可逆反応が平衡である。平衡モデルは、総タンパク質(N+NL)の濃度(Nt)、総リガンド(L+NL)の濃度を(Lt)、複合体(NL)の濃度(x)を使って、上記の平衡モデルにおける平衡定数Kと各濃度の関係を表すと式(4)になる。平衡モデルは、反応物(天然N)とリガンド(L)と複合体(NL)からなる3成分平衡モデルであり、平衡定数Kに関する式中の2つの熱力学的パラメータ(ΔH,ΔS)を使って、濃度カーブのフィッティングを実行する。例えば、タンパク質へのリガンド添加量を変化させる都度、試料温度Tを測定する。そして、濃度行列Cの拘束処理において、例えば上記の表5の式に基づく濃度カーブをフィッティングして、熱力学的パラメータ(ΔH,ΔS)の最適値を得る。
【0068】
以上の実施形態では、試料が主にタンパク質である場合を説明しているが、本発明に係るスペクトル解析方法、解析装置および解析プログラムは、条件に応じて異なる構造に変化するような物質(例えば、タンパク質、ペプチド、核酸、糖鎖、脂質、低分子のいずれかの物質、またはこれらの組み合わせによる物質)を含有する試料に適用されて、このような異なる構造の物質間の平衡状態を熱力学的に解析するのに大いに役立つ。
【0069】
本実施形態のスペクトル解析装置によれば、
(1)複数の化学種のスペクトルが合わさったスペクトルデータから、それぞれの化学種のスペクトルを精度良く分離することができて、化学種ごとの濃度値も算出することができることから、2成分系の平衡状態はもちろん、3成分系やそれ以上の成分系の平衡状態の熱力学的解析に非常に役立つ。
(2)従来のように、試料から化学種ごとに成分を分離するような前処理が不要になり、試料をそのままの状態で測定したスペクトルデータを使った解析が可能になる。従って、複数成分系の平衡状態の熱力学的解析をスムーズに実施することができる。また、解析対象の試料が少量である場合にも解析が可能になる。
(3)MCR-ALSの実行において必要になる拘束条件として、濃度分布に熱力学的平衡モデルによる拘束を与えることで、フィッティングするパラメータの数を比較的少なくすることができる。また、物理・化学的に意味のある適切な熱力学的パラメータを取得することができる。純スペクトルを非負拘束する必要がなくなるので、CDスペクトルのような正負の信号を含むようなスペクトルデータにMCR-ALSを適用することができる。
(4)例えば、高次構造が薬効に大きな影響を及ぼす抗体医薬品や核酸医薬品などの生物医薬品は、異なる高次構造を持つ化学種が平衡状態で存在することが知られている。そのため、本実施形態のスペクトル解析装置は、抗体および核酸分子の高次構造に基づく化学種の情報を抽出できるため、医薬品候補物質の選定や強制分解試験における変性メカニズムの解析にも好適である。
【0070】
(実施例)
抗体の一種である「IgG」の抗体溶液(1.1mg/ml)を試料として試料温度を変更しながらCDスペクトル測定を行って、温度変化CDスペクトルの試験データを取得した(
図5)。これを本実施形態のスペクトル解析装置によってスペクトル解析して、その性能を確認した。なお、濃度行列の拘束条件に用いた平衡モデルおよび平衡定数Kの式は、表2と同じ、3成分平衡モデルである。
図6に、
図5の試験データをMCR-ALS処理した結果(濃度値のグラフ)を反復回数ごとに示す。7回目には、純スペクトルの二乗平均平方根誤差(RMSE Spec.)と濃度値の二乗平均平方根誤差(RMSE Conc.)との両方とも所定の閾値以下になって「収束した」と判断されている。このように反復回数が増えるにつれて各成分の濃度分布が改善されていき、所定の平衡モデルに従った濃度分布を示すようになった。また、熱力学的パラメータの算出値は、文献データ(L Sanchez et al. 1997)によるIgGの抗体溶液(0.5mg/ml)のエンタルピー変化ΔH=368kJ/molに近い値が得られた。
図7に、スペクトル解析結果(複数の化学種のスペクトルのグラフ、化学種ごとの濃度値のグラフ、および、熱化学的パラメータの算出値の一覧)を示す。また、
図8は、算出した濃度値と分離した純スペクトルとを合成した複合スペクトルを温度条件ごとに算出し、これをそれぞれの測定スペクトルとを重ねて示したグラフである。どの温度条件においても2つのスペクトルの一致度が非常に高くなった。
【符号の説明】
【0071】
1 演算装置
2 データ入力部
3 操作部
4 表示部
5 記憶部
10 スペクトル解析装置
12 MCR実行処理部
14 成分数推定処理部
16 濃度初期値推定処理部
20 拘束条件設定処理部
22 平衡モデル設定処理部
24 化学平衡の式設定処理部
26 解析結果表示処理部
30 スペクトル測定装置
【要約】
【課題】平衡状態の変化の過程を測定したスペクトルデータを熱力学的に解析可能なスペクトル解析方法を提供すること。
【解決手段】複数の測定条件で測定した複数の測定スペクトルを多変量解析するスペクトル解析方法は、複数の測定スペクトルから純スペクトルを分離し、純スペクトルごとの濃度値を算出する多変量カーブ分解(MCR)法を用いる。3種以上の化学種が共存する試料の平衡状態に応じた平衡モデルを設定し、平衡モデルに応じた少なくとも1つの化学平衡の式を設定する。MCR開始後に算出される濃度値に対して化学平衡の式に基づく濃度カーブをフィッティングし、熱力学的パラメータの最適値を取得し、その最適値を用いた化学平衡の式から新たな濃度値を取得することで、濃度値を拘束する。
【選択図】
図1