(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-07-08
(45)【発行日】2024-07-17
(54)【発明の名称】質量分析用試料の調製方法及び質量分析方法
(51)【国際特許分類】
G01N 27/62 20210101AFI20240709BHJP
【FI】
G01N27/62 F
G01N27/62 V
(21)【出願番号】P 2021005775
(22)【出願日】2021-01-18
【審査請求日】2023-05-18
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】弁理士法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】児嶋 浩一
【審査官】伊藤 裕美
(56)【参考文献】
【文献】特表2020-501137(JP,A)
【文献】特開2015-121500(JP,A)
【文献】特表2016-524465(JP,A)
【文献】特開2007-178184(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 27/60-G01N 27/70
C12Q 1/00-C12Q 1/70
C12M 1/34
G01N 33/48-G01N 33/98
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
目的試料を質量分析したときに主要なピークが観測されるm/z範囲を外れた所定のm/zにピークが観測される所定量の基準物質と、前記目的試料とを含む第1のサンプル、を質量分析する測定ステップと、
前記測定ステップにおける質量分析により得られる前記基準物質由来のピークの強度
の、前記基準物質のみを前記所定量で含む第2のサンプルを質量分析したときに観測される、前記基準物質由来のピークの強度
からの
低下度合に基いて、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量の過不足を判断する、又は、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量を調整する調整ステップと、
を実行する
ものであり、
前記基準物質由来のピークのm/zは、前記目的試料を質量分析したときに主要なピークが観測されるm/z範囲よりも低質量電荷比側にある、質量分析用試料の調製方法。
【請求項2】
前記質量分析はマトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析である、請求項
1に記載の質量分析用試料の調製方法。
【請求項3】
さらに、
請求項1
又は2に記載の質量分析用試料の調製方法における前記調整ステップにより量が調整された目的試料を含むサンプル、又は、該調整ステップにより適量であると判定された量の目的試料を含むサンプルに対して質量分析を行うことで得られたマススペクトルに基いて、
前記目的試料又はそれに含まれる物質を同定する
物質同定ステッ
プ
を実行する質量分析方法。
【請求項4】
前記目的試料が微生物を含み、
前記物質同定ステップにおいて、前記マススペクトルに基いて前記目的試料に含まれる未同定の微生物を同定する、請求項
3に記載の質量分
析方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、質量分析用の試料を調製する方法、及び該方法で調製された試料を用いた質量分析方法に関する。
【背景技術】
【0002】
近年、細菌や真菌類などの様々な微生物を同定する微生物同定の分野において、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(Matrix Assisted Laser Desorption/Ionization:MALDI)質量分析法(以下「MALDI質量分析法」という)が急速に普及している。その大きな理由の一つは、従来一般的であった培養法などに比べて熟練を要する技術を必要とせず、低コストで且つ迅速に同定作業が行えるためである。
【0003】
微生物同定のためのMALDI用サンプルを調製する方法としては、培養した微生物の一部を採取してサンプルプレート上に直接塗布し、それにマトリックス溶液を滴下して乾固させる方法が従来知られている。また、別のサンプル調製法としては、適宜の試薬を用いて微生物からタンパク質を抽出し、その抽出液とマトリックス溶液とをサンプルプレート上に滴下して乾固させる方法も知られている。いずれにしても、MALDI質量分析法を用いて、より信頼性の高い微生物同定を行うには、適切な量の試料(微生物そのもの又は微生物から抽出された分析対象物質)が含まれるようにサンプルを調製することが重要である。
【0004】
例えば非特許文献1によれば、過剰な量の菌体がMALDI用のサンプルプレートに搭載されると、マトリックスを添加したときに該菌体からのタンパク質の抽出が効果的に行われない等の問題が生じる、とされている。また、非特許文献2には、腸内細菌科のグラム陰性桿菌を同定する際に、釣菌量が過剰であると良好なマススペクトルが得られず、これを解決するためには、経験を蓄積することで釣菌量を微調整する技工を習得する必要がある、と報告されている。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0005】
【文献】株式会社島津製作所分析計測事業部、「AXIMA 微生物同定システム 操作ガイド 2.4.1 ウェルごとの菌体量」、株式会社島津製作所、平成23年12月
【文献】服部拓哉、ほか7名、「質量分析法(VITEK MS)と生化学的性状による臨床分離株同定の比較検討」、医学検査、一般社団法人日本臨床衛生検査技師会、2014年、Vol.63、No.5、p.573-578
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
このように、MALDI質量分析法により微生物同定を行う際には、分析対象であるサンプルに含まれる微生物(又は微生物由来の物質)の量が少なすぎる場合のみならず、その量が多すぎても正確な同定に支障をきたすおそれがある。しかしながら、サンプルを調製する際に、そのサンプル中の目的試料の量が適量であるか否かを判断することは困難である。また、質量分析を実行することで得られたマススペクトルを確認しながら試料の量が適切かどうかを判断しようとしても、例えばピークが殆ど確認されない等、極端に試料の量が不足しているような場合を除いて、目的試料の量が適切であるか否かを作業者が判断するのは容易ではない。もちろん、こうした問題は微生物同定を目的とした場合に限るものではなく、試料に含まれる様々な成分の同定やその成分の構造解析などを行う場合にも生じる問題である。
【0007】
本発明はこうした課題を解決するためになされたものであり、その主たる目的は、試料の量が微生物同定や成分同定・構造解析などの目的に応じた良好なマススペクトルを得るのに適切な量であるか否かを的確に、且つ簡便に判断することができる質量分析用試料の調製方法及び質量分析方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0008】
上記課題を解決するためになされた本発明に係る質量分析用試料の調製方法の一態様は、
目的試料を質量分析したときに主要なピークが観測されるm/z範囲を外れた所定のm/zにピークが観測される所定量の基準物質と、前記目的試料とを含む第1のサンプル、を質量分析する測定ステップと、
前記測定ステップにおける質量分析により得られる前記基準物質由来のピークの強度と、前記基準物質のみを前記所定量で含む第2のサンプルを質量分析したときに観測される、前記基準物質由来のピークの強度との差異に基いて、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量の過不足を判断する、又は、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量を調整する調整ステップと、
を実行するものである。
【0009】
また本発明に係る質量分析方法の一態様は、上記調整ステップにより量が調整された目的試料を含むサンプル、又は、上記調整ステップにより適量であると判定された量の目的試料を含むサンプルに対して質量分析を行うことで得られたマススペクトルに基いて、目的試料又はそれに含まれる物質を同定するステップを実行するものである。
【0010】
本発明に係る質量分析方法の上記態様における上記質量分析はnが2以上のMSn分析を含み、上記マススペクトルはMSnスペクトルを含むものとする。
【0011】
また本発明に係る質量分析用試料の調製方法の上記態様において、基準物質のみを所定量で含む第2のサンプルに対する質量分析の結果は、第1のサンプルに含まれる目的試料の種類や量と無関係であることは明らかである。したがって、第2のサンプルに対する質量分析は、調整ステップの実行前の適宜の時点で行うことができ、例えば、測定ステップの実行直前や実行直後に実行するといった時間的な制約はない。
【発明の効果】
【0012】
本発明に係る質量分析用試料の調製方法の上記態様では、第1のサンプル中の目的試料の量が多いほど、その目的試料の影響によって基準物質由来のイオン生成量が減少し、その基準物質由来のイオンピークの強度は低下する。そのため、第2のサンプルを質量分析したときの基準物質由来のイオンピークの強度を基準としたピーク強度の低下の度合は、第1のサンプル中の目的試料の量に概ね依存する。したがって、基準物質由来のピークの強度の低下度合から、第1のサンプルに含まれる目的試料の量に過不足があるか否かを判断することができる。また、基準物質由来のピークの強度の低下度合から目的試料の過不足の量を推定し、それに基いて目的試料の量を概ね適量に調整することができる。
【0013】
なお、ここでいう適量とは例えば、マススペクトルに基いて目的試料又は該試料中の成分を同定したり、その成分の構造解析を行ったりする際に、相対的に高い信頼度で以て同定や構造推定が可能であるような量である。
【0014】
本発明によれば、試料の量や試料中の測定対象物質の量が、微生物同定や成分同定、或いは成分の構造解析などの解析の目的に応じた良好なマススペクトルを得るのに適切な量であるか否かを的確に、且つ簡便に判断することができる。それによって、適量の試料を用いて良好なマススペクトルを取得し、精度の高い解析を行うことができる。
【図面の簡単な説明】
【0015】
【
図1】本発明の一実施形態であるMALDI質量分析用試料の調製方法の概略説明図。
【
図2】本実施形態の試料調製方法を適用しない場合における3段階希釈サンプルに対するマススペクトルの実測例を示す図。
【
図3】本実施形態の試料調製方法を適用した場合における3段階希釈サンプル及び基準物質のみを含むサンプルに対するマススペクトルの実測例を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0016】
以下、本発明に係る質量分析用試料の調製方法の一実施形態について、添付図面を参照して説明する。
【0017】
図1は、本実施形態であるMALDI質量分析用試料の調製方法の概略説明図である。
この例では、質量分析法としてMALDI質量分析法を用い、微生物同定をその解析目的としている。
図1に従って、本実施形態における特徴的な試料調製の手順と試料量の判定の原理について説明する。
【0018】
本実施形態の試料調製方法では、試料の量が適量であるか否かを判断するために、その試料中の主要な物質(化合物)由来のイオンが観測されるm/z(厳密には斜体字のm/zであるが、本明細書中では斜体字でない「m/z」と記す。慣用的に「質量電荷比」と言われる場合もある。)範囲の外側にイオンピークが観測される物質を基準物質として用いる。
【0019】
微生物同定が目的であれば、質量分析装置により測定されるm/z範囲は一般的にはm/z 3000~20000程度である。そこで、分子量が1000~3000程度の範囲にある適宜のペプチドを基準物質として選ぶことができる。具体的には例えば、質量較正にも広く利用されているアンギオテンシンII(分子量:1046.18)やN-アセチル-レニン基質(分子量:1759.01)などを基準物質として用いることができる。
【0020】
作業手順としては、まず、一定量の基準物質のみを含むサンプルを調製し(a)、このサンプルを質量分析することで所定のm/z範囲に亘るマススペクトルを取得する(b及びc)。上述したように、このときのサンプルには基準物質のみが含まれているので、マススペクトルには、その基準物質に由来する明瞭で高い強度のイオンピークが観察される。そのピークのm/z値をM1、ピーク強度をP1とする。
【0021】
次に、目的試料に上記基準物質を加えてサンプルを調製し(d)、このサンプルを質量分析することで所定のm/z範囲に亘るマススペクトルを取得する(e及びf)。このときのサンプル中の基準物質の量は、上述した基準物質のみのサンプルの測定時と同じとする。この場合、サンプルには目的試料中の各種の化合物が含まれる。そのため、マススペクトルには、その目的試料中の様々な化合物分子に由来するイオンピークと、基準物質に由来するイオンピークとが共に観察される。後者のイオンピークのm/z値M1は、前者のイオンピークが主として観測されるm/z範囲の外側であり、目的試料中に意図しない化合物が含まれていない限り、目的試料中の化合物由来イオンピークと基準物質由来のイオンピークとが重なることはない。
【0022】
このとき、基準物質に由来するイオンピークのピーク強度は、目的試料がサンプルに加えられた影響によって減少する。その理由は主に次の二つである。
(1)サンプル中に基準物質のみが存在する場合には、イオン化の際のレーザー光によるエネルギーが主として基準物質のイオン化に使われる。これに対し、サンプルに目的試料が加わると、該サンプル中の化合物の総量が増加したことによって、イオン化の際のレーザー光によるエネルギーのうち基準物質のイオン化に使われるエネルギーが減少し、基準物質がイオン化されにくくなる。
(2)サンプルに目的試料が加わると、サンプル中に他の化合物のイオン化を阻害する物質又は他の化合物に比べてイオン化され易い物質が存在していることによるイオンサプレッション効果が作用する。
【0023】
これら理由によるピーク強度の減少の程度は目的試料の量に関係し、その量が多いほどピーク強度の減少も大きくなる。即ち、基準物質由来のピークの強度の低下度合は目的試料の量に依存する(g)。そこで、基準物質のみを含むサンプルについて得られたマススペクトル(c)と目的試料と基準物質とを共に含むサンプルについて得られたマススペクトル(f)とで、基準物質に由来するイオンピークのピーク強度の減少度合ΔP=P1-P2を求め、この値を予め求めておいた許容範囲と比較することで、目的試料の量が質量分析のために適量であるか、過剰であるか、或いは不足しているか、の情報を得ることができる(h)。
【0024】
サンプル中の目的試料の量が過剰である又は不足している場合、マススペクトルにおいて目的試料中の化合物由来のイオンピークが十分な強度で観測できない可能性があり、例えば微生物同定の場合にはその同定の信頼性を確保するのが難しくなる。それに対し、上述したように、目的試料の量が過剰である又は不足していることが判明すれば、その量を適宜調整することによって、より明瞭なマススペクトルを得ることができ、信頼性の高い同定結果を得ることができる。
【0025】
また、基準物質由来のイオンピークのピーク強度の減少度合と目的試料の過剰量又は不足量との関係を予め実験的に求めておき、その関係を利用して、実測のマススペクトルから求めたピーク強度の減少度合ΔPに基いて目的試料の量を調整するための凡その増減量を算出することもできる。それにより、試料の量が過不足であると判定されたときに、その量の調整を試行錯誤的に行う必要がなくなり、試料の量を迅速に適量に調整することができる。
【0026】
なお、サンプルに目的試料を加えたことによる基準物質由来のイオンピークの強度減少の度合は、目的試料の種類又は目的試料に含まれる化合物の種類等に依存するものの、例えば、タンパク質、脂質など、化合物の大きな範疇が同じであれば、個々の化合物の種類には大きく依存しない。そのため、例えば微生物同定を解析の目的とする場合では、その微生物の種類によらず、基準物質由来のイオンピークのピーク強度への目的試料の影響の程度に大差はない。したがって、既知の種類の微生物から調製した目的試料を用いて、基準物質由来のイオンピークのピーク強度の減少度合と目的試料の過剰量又は不足量との関係を求めておけば、その関係は別の種類、つまりは未知の微生物から調製した試料の量の過不足を判定する際にも利用可能である。
【0027】
また、微生物同定以外の目的や分野、例えば血液等の生体試料に含まれる化合物の同定が解析目的である場合には、その生体試料の標準サンプルを用いて同様に、基準物質由来のイオンピークのピーク強度の減少度合と目的試料の過剰量又は不足量との関係を求めておけば、その関係を利用して試料の量の判断や調整を行うことができる。
【0028】
また、上述したような基準物質由来のピークの強度の減少度合ΔPではなく、目的試料と基準物質とを共に含むサンプルについて得られたマススペクトルにおける基準物質由来のイオンピークのピーク強度P2そのものに基いて、試料の量を判断することもできる。即ち、或る規定量の基準試料と適量である目的試料とを共に含むサンプルを質量分析したときの基準物質由来のイオンピークの強度値を、基準値として予め調べておく。そして、上記規定量の基準物質と未知量の目的試料とを混合したサンプルを質量分析したときの基準物質由来のイオンピークの強度値を求め、この実測の強度値が、上記基準値を含む所定の許容範囲に入っていれば、目的試料は適量であると判断することができる。
【0029】
[実験例]
次に、上記実施形態の試料調製方法を用いた実験例を説明する。この実験において、元の試料は微生物の一種であるパントエア菌(Pantoea agglomerans)であり、サンプルに含まれる目的試料は微生物から抽出されたタンパク質等の化合物である。
まず、上述した本実施形態の試料調製方法を採用しない場合、つまりは基準物質を利用した試料量の判定を行わない場合の比較例について述べる。
【0030】
このときのMALDI用サンプルの調製から質量分析及び微生物同定のためのデータベース検索までの作業手順を、<ステップS1>~<ステップS9>に示す。
<ステップS1>寒天培地を用いて増殖させたパントエア菌を回収し、それを濁度が「1」になるように50%のアセトニトリル水溶液1mLに懸濁した。
<ステップS2>ステップS1で調製した懸濁液に10%のトリフルオロ酢酸水溶液を0.1mL加えて酸性化し、パントエア菌からタンパク質などを抽出した。
<ステップS3>ステップS2で得られた抽出液を加速度:10,000G、時間:5分間の条件で遠心処理し、そのあとの上清を回収した。その上清を遠心エバポレーターを用いて乾固させた。
【0031】
<ステップS4>ステップS3で得られた乾固物に、200μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を溶媒として加えて溶解させた。
<ステップS5>ステップS4で得られた溶解液をそのまま1倍希釈溶液とした。また、この溶解液20μLに80μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を加えたものを5倍希釈溶液、同じ溶解液20μLに480μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を加えたものを25倍希釈溶液とした。これらがそれぞれ目的試料である。
<ステップS6>MALDI用のサンプルプレート上の複数のウェルに、それぞれ、0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を溶媒とするα-シアノ-4-ヒドロキシケイ皮酸(CHCA)の10mg/mL溶液(マトリックス溶液)を1μL滴下し、それを乾固させた。
【0032】
<ステップS7>ステップS6でマトリックスを付着させたサンプルプレート上の複数のウェルにそれぞれ、ステップS5で調製した各目的試料を1μLずつ滴下し乾固させた。これにより、MALDI用のサンプルの調製が終了した。
<ステップS8>ステップS1~S7の手順に沿って調製されたMALDI用サンプルが形成されたサンプルプレートを、MALDI-飛行時間型質量分析装置(島津製作所製のMALDI-8020)に装着し、測定対象のm/z範囲をm/z 1500~20000として正イオンリニアモードで測定を行った。
<ステップS9>ステップS8の測定により得られたマススペクトルについて、m/z 2000~20000のm/z範囲でピーク検出を行ってピークリストを作成し、このピークリストに基いて、島津製作所製のAXIMA微生物同定システムに搭載されているデータベース検索ソフトウェアによる同定を実行した。
【0033】
図2は、上記ステップS8の測定により得られたマススペクトルの一例であり、(A)、(B)及び(C)は、1倍希釈溶液、5倍希釈溶液、及び25倍希釈溶液を含むサンプルをそれぞれ測定した結果である。また、次の表1は、それぞれのデータベース検索結果である。
【表1】
【0034】
上述したように、この実験例では、パントエア菌と既に種類が判明している微生物を試料とし、その菌体量も濁度「1」の懸濁液を1mLとなるように調整したものであるということが既知である。表1に示すように、データベース検索による同定では、検索結果第1位として、試料に用いた微生物と同じ属種が示されている。その検索の信頼性は5倍希釈溶液で最も高かったが、これは、使用した菌体量から想定される結果である。しかしながら、当然のことながら、実際の微生物同定では属種は不明である。また、菌体量を濁度として測定するには光学測定を行う必要があり、その測定に必要な液量はMALDI質量分析に必要である量の1000倍ほどとかなり大量である。そのため、濁度を測定したうえで、その結果から質量分析に適量の試料を含むサンプルを調製するのは実用的でない。
【0035】
また、
図2(B)に示す5倍希釈溶液に対するマススペクトルと(C)に示す25倍希釈溶液に対するマススペクトルとを比較すると、25倍希釈溶液のほうがピーク数は少なく、試料の量が不足していると推測し得る。しかしながら、これは濁度測定の結果から5倍希釈溶液のほうが適切であると予想できたためであって、微生物の属種が不明であって観測されるべきマススペクトルパターンを予想できず、且つ濁度も測定できない場合には、マススペクトルから試料の量が不足していると判断することは極めて困難である。
【0036】
さらにまた、
図2(B)に示す5倍希釈溶液に対するマススペクトルと(A)に示す1倍希釈溶液に対するマススペクトルとを比較すると、目視では顕著な差異はみられないものの、表1に示す同定の信頼性スコアは5倍希釈溶液のほうが高く、1倍希釈溶液は試料の量が過剰であることの影響が現れていると推測される。しかしながら、この推測も5倍希釈溶液のほうが適切であると予想できていたため可能なのであって、微生物の属種が不明で且つ菌量の測定や調整がなされていないときには困難である。
【0037】
次に、本実施形態の試料調製方法を採用した場合、つまりは基準物質を利用した試料量の判定を実施した場合の実験例を説明する。基準物質としては、N-アセチル-レニン基質(分子量:1759.01)を用いた。
このときのMALDI用サンプルの調製から質量分析及び微生物同定のためのデータベース検索までの作業手順を、<ステップS11>~<ステップS19>に示す。ステップS11~S16までは上述したステップS1~S6と全く同じである。
【0038】
<ステップS11>寒天培地を用いて増殖させたパントエア菌を回収し、それを濁度が「1」になるように50%のアセトニトリル水溶液1mLに懸濁した。
<ステップS12>ステップS11で調製した懸濁液に10%のトリフルオロ酢酸水溶液を0.1mL加えて酸性化し、パントエア菌からタンパク質などを抽出した。
<ステップS13>ステップS12で得られた抽出液を加速度:10,000G、時間:5分間の条件で遠心処理し、そのあとの上清を回収した。その上清を遠心エバポレーターを用いて乾固させた。
【0039】
<ステップS14>ステップS13で得られた乾固物に、200μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を溶媒として加えて溶解させた。
<ステップS15>ステップS14で得られた溶解液をそのまま1倍希釈溶液とした。また、この溶解液20μLに80μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を加えたものを5倍希釈溶液、同じ溶解液20μLに480μLの0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を加えたものを25倍希釈溶液とした。これらがそれぞれ目的試料である。
<ステップS16>0.1%トリフルオロ酢酸及び50%アセトニトリル水溶液を溶媒として、CHCAの濃度が10mg/mL溶液となるマトリックス溶液を調製した。
【0040】
<ステップS17>ステップS16で調製したマトリックス溶液に、終濃度が0.05pmol/Lになるように基準物質であるN-アセチル-レニン基質(シグマアルドリッチ社製のR8129)を添加した。
<ステップS18>MALDI用のサンプルプレート上の複数のウェルにそれぞれ、ステップS17で調製した基準物質入りのマトリックス溶液を1μLずつ滴下し、乾固させた。
<ステップS19>ステップS18でマトリックスを付着させたサンプルプレート上の複数のウェルにそれぞれ、ステップS5で調製した各目的試料を1μLずつ滴下し乾固させた。これにより、MALDI用サンプルの調製が終了した。
【0041】
<ステップS20>ステップS11~S19の手順に沿って調製されたMALDI用サンプルが形成されたサンプルプレートを、MALDI-飛行時間型質量分析装置(島津製作所製のMALDI-8020)に装着し、測定対象のm/z範囲をm/z 1500~20000として正イオンリニアモードで測定を行った。
<ステップS21>ステップS20の測定により得られたマススペクトルについて、m/z 2000~20000のm/z範囲でピーク検出を行ってピークリストを作成し、このピークリストに基いて、島津製作所製のAXIMA微生物同定システムに搭載されているデータベース検索ソフトウェアによる同定を実行した。
【0042】
図3は、上記ステップS20の測定により得られたマススペクトルの一例であり、(A)~(D)は、1倍希釈溶液を含むサンプル、5倍希釈溶液を含むサンプル、25倍希釈溶液を含むサンプル、及び基準物質のみを含むサンプル、をそれぞれ測定した結果である。また、表2はそれぞれのデータベース検索結果である。
【表2】
【0043】
表2に示すように、データベース検索では、いずれの希釈倍率溶液でも第1位として、試料とした微生物と同じ属種が挙げられた。この同定の信頼性スコアは、1倍希釈溶液、5倍希釈溶液ともに80%以上で有意であったが、5倍希釈溶液のほうがより信頼性が高かった。また、それら各希釈溶液に対するマススペクトルを比較すると、m/z 2000以上ではほぼ同等に見える。しかしながら、基準物質に由来するピーク(m/z 1798)を比較すると、5倍希釈溶液ではm/z 2000以上の微生物由来の化合物分子に由来するピークとほぼ同程度のピーク強度であるが、1倍希釈溶液では相対的に弱く、ピーク高さも5倍希釈溶液に対して9分1以下に減少している。また、微生物から調製した試料を含まず、基準物質のみを測定している場合(
図3(D))のピーク高さからは約70分の1以下と大きく減少している。
【0044】
このように、基準物質由来のイオンピークのピーク強度を基準物質のみを含むサンプルの測定結果と比較することで、1倍希釈溶液では微生物の試料の量が過剰であると判断することができる。
【0045】
また、25倍希釈溶液のマススペクトル(
図3(C))では、目的試料に由来する主要なピークで強度が最大である(m/z 6260、強度3.1mV)のピークと比較しても、基準物質由来のピークの強度は約13倍である。また、基準物質であるN-アセチル-レニン基質のみを測定している場合(
図3(D))の基準物質由来のピークの強度からは約3分の1以下とその減少の程度は小さい。このように、基準物質であるN-アセチル-レニン基質のピークを基準物質のみを測定したときと比較することで、目的試料の量、つまりは元々の微生物の量が不足していると判断することもできる。
上述したような試料の量が過剰である又は不足しているとの判断は、菌量測定がなされていない場合やマススペクトルパターンが不明の場合でも可能である。
【0046】
上記実施形態の試料調製方法では、MALDI質量分析法による質量分析を用いていたが、本発明に係る試料調製方法は、MALDI法のみならず、他のイオン化法を利用した質量分析にも適用可能である。例えば、レーザー脱離イオン化(LDI)法、表面支援レーザー脱離イオン化(SALDI)法、二次イオン分析法で用いられるイオン化法、リアルタイム直接分析(DART)法、エレクトロスプレーイオン化(ESI)法、大気圧化学イオン化(APCI)法、探針エレクトロスプレーイオン化(PESI)法などの様々なイオン化法を用いた質量分析のための試料調製に用いることができる。
【0047】
また、上記実施形態では、基準物質としてN-アセチル-レニン基質を用いたが、目的試料に含まれる各種の化合物由来のピークと重ならず、且つ、或る程度の高い感度で明瞭なピークが観測されるような物質であれば、これに限らないことは当然である。
【0048】
また、解析目的は微生物同定に限るものではなく、試料が微生物に限らないこともすでに述べた通りである。
【0049】
さらにまた、上記実施形態や上記記載の変形例も本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加等を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【0050】
[種々の態様]
上述した例示的な実施形態は、以下の態様の具体例であることが当業者により理解される。
【0051】
(第1項)本発明に係る分析用試料の調製方法の一態様は、
目的試料を質量分析したときに主要なピークが観測されるm/z範囲を外れた所定のm/zにピークが観測される所定量の基準物質と、前記目的試料とを含む第1のサンプル、を質量分析する測定ステップと、
前記測定ステップにおける質量分析により得られる前記基準物質由来のピークの強度と、前記基準物質のみを前記所定量で含む第2のサンプルを質量分析したときに観測される、前記基準物質由来のピークの強度との差異に基いて、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量の過不足を判断する、又は、前記第1のサンプルに含まれる目的試料の量を調整する調整ステップと、
を実行するものである。
【0052】
第1項に記載の質量分析用試料の調製方法によれば、試料の量や試料中の測定対象物質の量が、微生物同定や成分同定、或いは成分の構造解析などの解析の目的に応じた良好なマススペクトルを得るのに適切な量であるか否かを的確に、且つ簡便に判断することができる。それによって、適量の試料を用いて良好なマススペクトルを取得し、精度の高い解析を行うことができる。
【0053】
(第2項)第1項に記載の質量分析用試料の調製方法において、前記基準物質由来のピークのm/zは、目的試料を質量分析したときに主要なピークが観測されるm/z範囲よりも低質量側にあるものとすることができる。
【0054】
第2項に記載の分析用試料の調製方法によれば、相対的に低い分子量の物質を基準物質とすることができるので、基準物質の選択の幅が広がる。また、仮に質量分析の際にイオン解離を生じても、それにより生成されたプロダクトイオンのm/zが目的試料中の化合物由来のイオンのm/z範囲に重ならないので、目的試料のマススペクトルパターンに影響を与えず、同定や構造解析の正確性を確保することができる。
【0055】
(第3項)第1項又は第2項に記載の質量分析用試料の調製方法において、前記質量分析はマトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析であるものとすることができる。
【0056】
MALDI法では他のイオン化法に比べて、共存物質の影響による基準物質由来のイオンピークの強度低下が顕著に起こり易い。したがって、第1項に記載の分析用試料の調製方法は、MALDIを利用した質量分析に特に有効である。
【0057】
(第4項)第1項~第3項のいずれか1項に記載の質量分析用試料の調製方法において、微生物同定を解析目的として、質量分析により微生物に由来する化合物分子を含む試料のマススペクトルを取得するものとすることができる。
【0058】
(第5項)また本発明に係る質量分析方法の一態様は、第1項~第4項のいずれか1項に記載の質量分析用試料の調製方法における前記調整ステップにより量が調整された目的試料を含むサンプル、又は、前記調整ステップにより適量であると判定された量の目的試料を含むサンプルに対して質量分析を行うことで得られたマススペクトルに基いて、目的試料又はそれに含まれる物質を同定するステップを実行するものである。
【0059】
第5項に記載の質量分析方法によれば、マススペクトルパターンが明瞭に観測されるマススペクトルに基いて、正確性の高い同定を行うことができる。