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特許7552894探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置
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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-09-09
(45)【発行日】2024-09-18
(54)【発明の名称】探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置
(51)【国際特許分類】
   H01J 49/00 20060101AFI20240910BHJP
   H01J 49/16 20060101ALI20240910BHJP
   H01J 49/40 20060101ALI20240910BHJP
   H01J 49/42 20060101ALI20240910BHJP
【FI】
H01J49/00 310
H01J49/00 500
H01J49/16 500
H01J49/40 100
H01J49/42 150
【請求項の数】 5
(21)【出願番号】P 2023523768
(86)(22)【出願日】2021-05-25
(86)【国際出願番号】 JP2021019834
(87)【国際公開番号】W WO2022249291
(87)【国際公開日】2022-12-01
【審査請求日】2023-08-29
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】弁理士法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】村田 匡
(72)【発明者】
【氏名】井本 英志
(72)【発明者】
【氏名】小松 和樹
(72)【発明者】
【氏名】千葉 留偉
(72)【発明者】
【氏名】川内谷 芙美
【審査官】鳥居 祐樹
(56)【参考文献】
【文献】国際公開第2019/146078(WO,A1)
【文献】国際公開第2015/107690(WO,A1)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
H01J 49/00
H01J 49/16
H01J 49/40
H01J 49/42
G01N 27/62
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
探針エレクトロスプレーイオン法によるイオン源と、
前記イオン源で生成されたイオンの中で特定のイオンを選択するマスフィルターと、
前記マスフィルターで選択されたイオンを解離させるコリジョンセルと、
前記コリジョンセルで生成されたプロダクトイオンを質量分析する直交加速飛行時間型質量分離器及びイオン検出器を含む質量分析部と、
同一の試料について前記イオン源で該試料の採取動作と採取した試料に対するイオン化動作とを繰り返すように該イオン源を制御するイオン源制御部と、
前記イオン源において前記試料についての試料採取及びイオン化が繰り返し実施されているときに、前記マスフィルターで所定の質量電荷比幅のウインドウに含まれる質量電荷比を有するイオンを通過させ、該イオンを前記コリジョンセルで解離させ、生成されたプロダクトイオンについてのマススペクトルを前記質量分析部により取得するという動作を、前記ウインドウを測定対象である質量電荷比範囲全体に亘ってずらしながら実施するように、前記マスフィルター、前記コリジョンセル、及び前記質量分析部を制御する分析制御部と、
を備え、前記ウインドウの質量電荷比幅を0.5~1.5Daの範囲内に定めた探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置。
【請求項2】
前記ウインドウの質量電荷比幅を1Daとする、請求項1に記載の探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置。
【請求項3】
前記分析制御部は、前記イオン源における1回の試料採取及びイオン化の期間を一つのイオン化サイクルとして、複数のイオン化サイクルに亘り、複数の、同じ質量電荷比範囲であるウインドウについてのMS/MS分析動作を繰り返し実施するように、各部を制御する、請求項1に記載の探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置。
【請求項4】
前記分析制御部は、前記複数のイオン化サイクルに含まれる各イオン化サイクル中の所定のタイミングにおいて実施するウインドウの質量電荷比範囲を変更するように、各部を制御する、請求項3に記載の探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置。
【請求項5】
前記分析制御部は、前記イオン源においてイオン化動作が実行されている期間にのみ、MS/MS分析を実施する、請求項1に記載の探針エレクトロスプレーイオン化質量分析装置。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、探針エレクトロスプレーイオン化(Probe ElectroSpray Ionization=PESI)法によるイオン源を搭載した質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
PESI法は、先端の径が数百nm程度である導電性の探針の先端に試料を付着させ、該探針に高電圧を印加することでエレクトロスプレー現象を生起させて、該試料中の成分分子をイオン化するイオン化法である。例えば特許文献1、非特許文献1には、PESI法によるイオン源を搭載したトリプル四重極型質量分析装置が開示されている。以下、PESI法によるイオン源をPESIイオン源といい、PESIイオン源を搭載した質量分析装置をPESI質量分析装置という。
【0003】
一般に、PESI質量分析装置では、煩雑で手間の掛かる試料前処理の作業を簡略化することができるため、簡便で迅速な分析が可能である。また、PESI質量分析装置を用いることで、生きている実験動物等における生体組織中の、特定の成分の量の時間的な変化をリアルタイムで観察することも可能である。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0004】
【文献】国際公開第2019/146078号
【文献】米国特許第8809770号明細書
【非特許文献】
【0005】
【文献】「DPiMS-8060 探針エレクトロスプレーイオン化質量分析計」、[online]、[2021年4月28日検索]、株式会社島津製作所、インターネット<URL:https://www.an.shimadzu.co.jp/ms/dpims-8060/features.htm>
【文献】ジレット(L. C. Gillet)、ほか7名、「ターゲッティッド・データ・エクストラクション・オブ・ザ・マスマス・スペクトラ・ジェネレイテッド・バイ・データ・インディペンデント・アクゥイジション:ア・ニュー・コンセプト・フォー・コンシステント・アンド・アキュレート・プロテオーム・アナリシス(Targeted data extraction of the MS/MS spectra generated by data-independent acquisition: a new concept for consistent and accurate proteome analysis)」、モレキュラー・アンド・セルラー・プロテオミクス(Molecular & Cellular Proteomics)、Vol. 11、No.6、2012年
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
その反面、PESI質量分析装置では、液体クロマトグラフ質量分析装置(LC-MS)とは異なりクロマトグラフィによる成分分離がなされないので、多種多様な成分が試料に含まれる可能性がある。そのため、多くの場合、PESI質量分析装置で取得されたマススペクトルには、試料に含まれる多数の成分に由来するイオンピークが混在して現れる。
【0007】
これに対し、特許文献1、非特許文献1等に開示されているPESI質量分析装置では、トリプル四重極型質量分析装置の特長を活かし、特定の成分をターゲットとしたMS/MS分析、具体的には、多重反応モニタリング(MRM)測定やプロダクトイオンスキャン測定を行うことで、特定の成分の定性(同定)や定量を精度良く行うことができる。これは、リストアップされた禁止薬物などを対象とする薬毒物スクリーニングなどに威力を発揮する。
【0008】
一方で、近年、既知の成分の定性や定量を行うだけでなく、試料に含まれる未知の成分を含めた多成分を網羅的に解析したいという強い要望がある。網羅的解析では、測定対象としてリストアップされていない成分や測定者が想定していない成分についても、定性・定量結果を得ることができ、試料についてより有用な情報が取得可能である。従来、こうした網羅的解析は専らLC-MSを用いて行われているものの、測定に時間が掛かる、移動相等の準備が面倒である、といった問題がある。
【0009】
本発明はこうした課題を解決するためになされたものであり、その目的とするところは、簡便に且つ短い測定時間で以て、試料に含まれる様々な成分を網羅的に解析することができるPESI質量分析装置を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0010】
上記課題を解決するために成された本発明に係るPESI質量分析装置の一態様は、
探針エレクトロスプレーイオン法によるイオン源と、
前記イオン源で生成されたイオンの中で特定のイオンを選択するマスフィルターと、
前記マスフィルターで選択されたイオンを解離させるコリジョンセルと、
前記コリジョンセルで生成されたプロダクトイオンを質量分析する直交加速飛行時間型質量分離器及びイオン検出器を含む質量分析部と、
同一の試料について前記イオン源で該試料の採取動作と採取した試料に対するイオン化動作とを繰り返すように該イオン源を制御するイオン源制御部と、
前記イオン源において前記試料についての試料採取及びイオン化が繰り返し実施されているときに、前記マスフィルターで所定の質量電荷比幅のウインドウに含まれる質量電荷比を有するイオンを通過させ、該イオンを前記コリジョンセルで解離させ、生成されたプロダクトイオンについてのマススペクトルを前記質量分析部により取得するという動作を、前記ウインドウを測定対象である質量電荷比範囲全体に亘ってずらしながら実施するように、前記マスフィルター、前記コリジョンセル、及び前記質量分析部を制御する分析制御部と、
を備え、前記ウインドウの質量電荷比幅を0.5~1.5Daの範囲内に定めたものである。
【発明の効果】
【0011】
本発明に係るPESI質量分析装置の上記態様では、DIA(Data Independent Acquisition)法によるMS/MS分析が実施されるが、マスフィルターで選択されるイオン(プリカーサーイオン)のウインドウの質量電荷比(m/z)幅は一般的なDIA法によるMS/MS分析に比べてかなり狭い。そのため、試料に多数の成分が含まれる場合であっても、複数の成分由来のプロダクトイオンが一つのMS/MSスペクトルに混在しにくい。従って、本発明に係るPESI質量分析装置によれば、簡便に且つ短い測定時間で以て、目的成分及び夾雑成分を含め、試料に含まれる複数の成分にそれぞれ対応する純度の高いMS/MSスペクトルを網羅的に取得することができ、それら成分をそれぞれ高い精度で以て同定することができる。
【図面の簡単な説明】
【0012】
図1】本発明に係るPESI質量分析装置の一実施形態の概略構成図。
図2】本実施形態のPESI質量分析装置における測定対象m/z範囲と一つのMS/MS分析対象のプリカーサイオンとの関係の一例を示す概念図。
図3】本実施形態のPESI質量分析装置におけるイオン源での動作のサイクルと質量分析動作のタイミングとの関係の一例を示す概念図。
図4】本実施形態のPESI質量分析装置を利用した測定例における測定条件の一部を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0013】
本発明に係るPESI質量分析装置の一実施形態について、添付図面を参照して説明する。
【0014】
図1は、本実施形態のPESI質量分析装置の概略構成図である。このPESI質量分析装置は、PESIイオン源と四重極-飛行時間(Q-TOF)型質量分析装置とを組み合わせた質量分析装置である。説明の便宜上、図1中に示すように、互いに直交するX、Y、Zの3軸を定義している。
図1を参照して、このPESI質量分析装置の全体構成と分析動作を説明する。
【0015】
このPESI質量分析装置は、その内部にイオン化室100が設けられたイオン化装置10が真空チャンバー1の前方に接続されている。真空チャンバー1内は、第1中間真空室11、第2中間真空室12、第3中間真空室13、第1分析室14、及び第2分析室15、の5室に概ね区画されている。イオン化室100は略大気圧であり、イオン化室100から、第1中間真空室11、第2中間真空室12、第3中間真空室13、第1分析室14、及び第2分析室15と順に、段階的に真空度が高くなる多段差動排気系の構成である。
【0016】
イオン化室100には、凹部102が形成されている試料プレート101が配置され、その凹部102内に少量の液体試料が収容される。試料プレート101の上方には、探針ホルダー104によって保持されている金属製の探針103が、上下方向(Z軸方向)に延伸するように配置されている。図示しないモーターや減速機構等を含む探針駆動部107は、探針ホルダー104をZ軸の正負方向に移動(昇降)させ得る。また、高電圧発生部106は、最大で数kV程度の直流高電圧(極性は測定対象のイオンによる)を探針103に印加し得る。
【0017】
探針103が図1中に点線で示す位置まで下降すると、該探針103の先端は凹部102内に入り、探針103の先端表面に液体試料が付着する。探針103が所定位置まで引き上げられると、高電圧発生部106は探針103に直流高電圧を印加される。すると、探針103の先端付近に強い強度の片寄った電場が形成され、エレクトロスプレー現象によって、探針103の先端に付着している液体試料中の成分がイオン化される。
【0018】
イオン化室100と第1中間真空室11とは細径の脱溶媒管105を通して連通している。イオン化室100で生成された試料成分由来のイオンは、主として、イオン化室100内の圧力(略大気圧)と第1中間真空室11内の圧力との差によって、脱溶媒管105中に引き込まれ、第1中間真空室11に送られる。
【0019】
第1中間真空室11には多重極型のイオンガイド110が配置されており、該イオンガイド110によってイオンはイオン光軸C1の近傍に収束され、スキマー111の頂部の開口を通って第2中間真空室12に入射する。第2中間真空室12及び次の第3中間真空室13にはそれぞれ多重極型のイオンガイド120、130が配置されており、それらイオンガイド120、130によってイオンは収束されつつ、第2中間真空室12から第3中間真空室13へ、さらには第3中間真空室13から第1分析室14へと送られる。
【0020】
第1分析室14には、イオンを質量電荷比(以下「m/z」と記す場合がある)に応じて分離する四重極マスフィルター140、多重極型のイオンガイド142を内部に備えたコリジョンセル141、及びコリジョンセル141から出射されたイオンを輸送するトランスファー電極143の前段部、が配置されている。第1分析室14に入射したイオンは四重極マスフィルター140に導入され、四重極マスフィルター140を構成する各電極に印加されている電圧に応じた特定のm/z値を有するイオンのみが四重極マスフィルター140を通過する。コリジョンセル141の内部には、アルゴン、窒素などのコリジョンガスが連続的又は間欠的に供給される。所定のエネルギーを有してコリジョンセル141に入射したイオンは、コリジョンガスに接触して衝突誘起解離により解離され、各種のプロダクトイオンが生成される。
【0021】
コリジョンセル141から出射した各種のプロダクトイオンは、トランスファー電極143により収束されつつ第2分析室15に送られる。第2分析室15には、トランスファー電極143の後段部、直交加速部150、案内電極部151、フライトチューブ152、リフレクトロン153、バックプレート154、イオン検出器155などが配置されている。トランスファー電極143によって細く平行性の高いビームとして第2分析室15に導入されたイオンは、直交加速部150においてそのビームの入射方向と略直交する方向(Z軸の負方向)に射出される。射出されたイオンは、案内電極部151を経てフライトチューブ152内の飛行空間に導入される。フライトチューブ152、リフレクトロン153、及びバックプレート154によって、飛行空間内には、図1中にC2で示すような経路でイオンを折り返し飛行させる電場が形成さる。これによって、イオンは折り返されたあと再びフライトチューブ152内を飛行し、イオン検出器155に到達する。
【0022】
直交加速部150から射出されたイオンは、そのイオンのm/zに応じた速度で飛行する。そのため、同時に加速された各種のイオンは、飛行途中でm/zに応じて分離され、時間差を有してイオン検出器155に到達する。イオン検出器155は到達したイオンの量に応じた検出信号を生成する。即ち、イオン検出器155からの出力信号は、飛行時間に応じたイオン強度の変化を示す飛行時間スペクトルである。なお、上述したように、コリジョンセル141においてイオンの解離操作を行えば、プロダクトイオンについての飛行時間スペクトルが得られ、四重極マスフィルター140でイオンの選択を行わず且つコリジョンセル141でイオンの解離操作を行わなければ、通常のイオンについての飛行時間スペクトルが得られる。
【0023】
イオン検出器155の出力信号を受けるデータ処理部30は、機能ブロックとして、データ格納部31、成分同定部32、及び同定用ライブラリー33、を含む。データ格納部31は入力された信号をデジタル化するアナログデジタル変換部を含み、収集された飛行時間スペクトルデータをマススペクトルデータに変換して保存する。成分同定部32は後述するように、液体試料に対する測定によって得られたマススペクトル及びMS/MSスペクトルに基いて、該液体試料に含まれる複数の成分をそれぞれ同定する。同定用ライブラリー33は、成分同定の際に参照されるデータベースであり、多数の化合物についての精密な分子量や標準的なMS/MSスペクトルが予め収録されたものである。
【0024】
制御部20は、高電圧発生部106、探針駆動部107、及び、図示しない電圧発生部などをそれぞれ制御することにより、液体試料に対する測定を遂行するものであり、分析シーケンス記憶部21、イオン源制御部22、DIA分析制御部23などの機能ブロックを含む。この制御部20には、ユーザーインターフェイスとしての入力部40及び表示部50が接続されている。
【0025】
なお、制御部20及びデータ処理部30は、ハードウェアによって構成することも可能であるが、通常、その実体は、パーソナルコンピューター等の汎用コンピューターである。そして、そのコンピューターにインストールされた専用の制御及び処理ソフトウェアを該コンピューターで実行することによって、上述した制御部20及びデータ処理部30における各機能ブロックの機能が達成されるようにすることができる。
【0026】
本実施形態のPESI質量分析装置における特徴的な分析動作を、具体例を挙げて、図2及び図3を参照して説明する。
図2は、このPESI質量分析装置における測定対象m/z範囲とMS/MS分析の対象であるプリカーサーイオンとの関係の一例を示す概念図である。図3は、このPESI質量分析装置におけるイオン源での動作のサイクルと質量分析動作とのタイミングとの関係の一例を示す概念図である。
【0027】
以下に説明する分析は、液体試料に含まれる多数の成分をできるだけ漏れなく同定することを目的とした網羅的分析である。LC-MSを用いた網羅的分析手法の一つとして、特許文献2、非特許文献2等に記載のDIA法がよく知られている。本実施形態のPESI質量分析装置では、それら文献に記載されているDIA法における代表的手法であるSWATH(Sequential Window Acquisition of all THeoretical fragment ion spectra mass spectrometry)(登録商標)法をベースとした方法を用いる。
【0028】
簡単に説明すると、SWATH法では、測定対象であるm/z範囲内に所定のm/z幅を持つウインドウを設定し、そのウインドウをm/z軸方向に移動させながら、各ウインドウに含まれるm/z値を有するイオンを一括してプリカーサーイオンとしてプロダクトイオンスキャン測定を行う。その結果、互いに異なるウインドウ毎にそれぞれMS/MSスペクトル(プロダクトイオンスペクトル)が得られる。この方法では、測定対象のm/z範囲全体をカバーし得るように、つまりm/zの隙間ができないようにウインドウを移動させるので、試料に多数の成分が含まれる場合であっても、その全ての成分についてプロダクトイオン情報を取得することができる。
【0029】
一般的なSWATH法では、ウインドウの標準的なm/z幅は25Da程度である。改良されたSWATH法ではウインドウのm/z幅を可変するものもあるが、その場合でもウインドウのm/z幅は5~50Da程度の範囲内である。DIA法は通常、LC-MSにおいて用いられるが、LC-MSでは、液体クロマトグラフでかなりの程度成分分離が行われるので、質量分析装置に導入される液体試料に同時に含まれる成分の数はそれほど多くない。そのため、ウインドウのm/z幅が25Daであっても、複数の異なる成分由来のイオンがそのウインドウ内に入る可能性はそれほど高くない。これに対し、PESI質量分析装置では、クロマトグラフィによる成分分離が実施されないので、質量分析装置に導入される試料に含まれる成分の数がLC-MSとは比較にならないほど多く、ウインドウのm/z幅が25Daであると多数の異なる成分由来のイオンがそのウインドウ内に入り得る。そうなると、MS/MSスペクトルが複雑になり、それを成分毎のMS/MSスペクトルに分離するためのデータ解析の負荷が上がる。また、それに伴って、個々の成分に分離したMS/MSスペクトルの精度も低くなる可能性がある。
【0030】
これに対し、本実施形態のPESI質量分析装置では、ウインドウのm/z幅を、SWATH法の標準的なm/z幅に比べてかなり狭い1Daに設定している。なお、後述の理由により、このウインドウのm/z幅は1Daに限らないが、0.5~1.5Da程度の範囲内に定めるとよい。
【0031】
このようにプリカーサーイオンの選択のためのウインドウのm/z幅を狭めると、同じ測定対象のm/z範囲に対して実行すべきMS/MS分析の回数がそれだけ多くなり、一つの試料に対する測定時間が長くなる。PESI質量分析装置では、貯留された状態の液体試料を測定するため、LC-MSとは異なり、質量分析装置において測定する対象である試料に含まれる成分の種類は時間経過に伴って変化しない。しかしながら、通常、試料プレート101上に用意される液体試料の量は少量であり、且つそうした液体試料は揮発し易いため、一つの液体試料を測定するための所要時間には制約がある。もちろん、測定時間が短いほうが、分析のスループットが高いという利点もある。そこで、ここでは一例として、一つの試料に対する測定の所要時間の最大を4秒と定め、余裕をみて測定時間を約3秒と設定した。
【0032】
具体的な測定例として、血漿中のブロナンセリン(Blonanserin)を目的成分とし、該目的成分を含む血漿中の成分を網羅的に分析するものとする。ブロナンセリンの組成式はC2330FN3 であり、分子量は367.5028である。一例として、測定対象のm/z範囲はm/z 140~770とした。上述したように、m/z幅が1Daであるウインドウでm/z 140~770の測定対象のm/z範囲をカバーすると、イベント(Event)数は770-140=630となる。1イベントでは、同じMS/MS分析を所定回数繰り返し、その複数のMS/MS分析で得られたデータを積算するが、イベント時間が20msecを下回るとデータの積算回数が不十分となってMS/MSスペクトルの品質が低下する。そこで、ここではイベント時間を20msecに定めた。また、PESIイオン源におけるイオン化サイクルが約0.4secであるので、MS/MS分析のループタイムを420msecに定めた。そして、21イベントを1グループとし、測定対象のm/z範囲全体をカバーする630イベントを30グループに分割した。測定時間3分(180秒)を30グループに割り振ると、1グループ当たりの測定時間は6秒である。そこで、420msecのループを14回繰り返すことで、1グループ当たりの測定時間を5.88秒とした。グループ数は30であるから、MS/MS分析の実行時間は単純計算で176.4秒である。但し、MS/MS分析以外に、通常の質量分析も実行するので、一つの試料に対する測定時間は約3分である。
【0033】
図2において縦軸は、一つの試料に対して実施される、それぞれ一単位の質量分析に対応するイベントの番号である。Event 0は通常の質量分析、Event 1~Event 630はそれぞれプリカーサーイオンのウインドウのm/z幅が1DaであるMS/MS分析である。イベントの番号順に、つまりは図2において上から下方向に順に分析が実行される。また、図2において横軸は質量電荷比m/zであり、通常の分析においては測定対象であるm/z範囲、MS/MS分析においてはプリカーサーイオンとして選択されるm/z値を示している。
【0034】
図3は、イベント番号がEvent 1~Event 21である21個のイベントを含むグループにおける、PESIサイクルとMS/MS分析のタイミングとの関係を示している。図3中、イベント番号は記号#で示している。
【0035】
図3中、上向き矢印で示す位置は、高電圧発生部106から探針103に高電圧の印加が開始されるタイミングであり、260msecの間、継続して高電圧が印加される。そのあと、160msecの期間に、探針103が降下及び上昇することで試料が採取される。PESIサイクル中、260msecの電圧印加期間中はイオンが生成される(但し、その生成量は一定であるとは限らない)。そのあと、探針103への電圧の印加が停止されても、その時点よりも前に生成されたイオンが探針103の周囲には残存しているため、すぐに後段へのイオンの送り出しが停止するわけではないものの、後段へと送り出されるイオンの量は減少し、或る程度経つとほぼゼロになる。即ち、PESIサイクル中には、多量のイオンが後段へと送られる期間と、少量のイオンしか後段へと送られない又は殆どイオンが後段へと送られない期間とが存在する。後者の期間に実施されるMS/MS分析では、実質的に有意なデータが得られない。そこで、図3中に示すように、探針電圧印加開始時に実行するイベント(つまりはプリカーサーイオンのm/z値)が入れ替わるように、ループ毎にイベントの順番を入れ替える。これにより、21個のイベントのいずれについても、合計のイオンの量が概ね平均的になるようにしている。
【0036】
もちろん、各ループにおけるイベントの順番は図3に例示したものに限らず、適宜に変更できる。1グループに含まれる21個のイベントについて、14回のループにおける電圧印加期間に実施される各イベントの回数が概ね揃うようにしさえすればよい。図3に示したグループ以外の他のグループに含まれるイベントについても同様である。
【0037】
上述したような分析条件は予め、図4に示したような分析シーケンスとして作成され、分析シーケンス記憶部21に保存される。図4において、「+/-」は測定対象のイオンの極性、「タイプ」は通常分析とMS/MS分析との選択、「開始」は分析開始時間、「終了」は分析終了時間、「プリカーサーイオンm/z」はプリカーサーイオンのm/z範囲の中心値、「Tof開始m/z」はプロダクトイオンスキャンの開始m/z、「Tof終了m/z」はプロダクトイオンスキャンの終了m/z、「CE」はコリジョンエネルギー値、「CE Spread」はコリジョンエネルギーの広がり、「イベント時間」はそのMS/MS分析(又は通常分析)の実行時間、「射出回数」はそのイベントにおける繰り返し分析回数、「Q1分解能」はプリカーサーイオンのm/z幅、を示す。こうした分析シーケンスは、ユーザー自身が作成してもよいが、分析目的や分析対象試料などに応じた標準的な分析シーケンスとして本装置のメーカーがユーザーに提供するようにしてもよい。
【0038】
また、ユーザーが、測定対象のm/z範囲、イベント時間などの所定の分析条件を入力部40から入力すると、その分析条件を満たすような分析シーケンスを作成する機能を制御部20に持たせるようにしてもよい。
【0039】
分析が開始されると、イオン源制御部22は、予め決められたPESIサイクルを繰り返すように探針駆動部107及び高電圧発生部106をそれぞれ制御する。それにより、図3に示すように、探針103の降下及び上昇による試料採取動作と探針103に高電圧を印加することによりイオン化動作とが交互に繰り返される。DIA分析制御部23は分析シーケンス記憶部21に格納されている分析シーケンスに従って、上記PESIサイクルに同期してMS/MS分析を繰り返すように、図示しない電圧発生部を制御する。それにより、分析シーケンスに従ったDIA法によるMS/MS分析が実施される。
【0040】
データ処理部30においてデータ格納部31には、イベント毎の、つまりは異なるプリカーサーイオン毎のMS/MSスペクトルデータが順次格納される。上記例では、630個のイベントにそれぞれ対応するMS/MSスペクトルデータがデータ格納部31に格納される。また、通常の質量分析によるマススペクトルデータもデータ格納部31に格納される。
【0041】
成分同定部32は、収集されたマススペクトル及びMS/MSスペクトルに基いて試料に含まれる成分を同定する。具体的には、成分同定部32は、まずマススペクトルにおいてピークを検出し、各ピークに対応するm/z値を求める。飛行時間型質量分析装置では、高い精度・分解能でm/z値が求まるので、m/z値から成分の組成式を推定することができる。また、成分同定部32は、マススペクトルにおいて検出されたピークのm/z値から推定した組成式の情報とそのピークに対応するMS/MSスペクトルとを、同定用ライブラリー33に収録されている情報と照合して、そのピークに対応する成分を同定する。
【0042】
但し、マススペクトルにおいて、一つのプリカーサーイオンのウインドウ内に複数のピークが存在する場合には、そのウインドウに対応するMS/MSスペクトルには互いに異なる複数の成分由来のプロダクトイオンが混在している可能性がある。その場合には、MS/MSスペクトルを異なるプリカーサーイオンにそれぞれ対応するMS/MSスペクトルに分離する既知のデータ処理を行った上で、分離後のMS/MSスペクトルを用いて成分同定を実施する。
こうして成分同定が終了したならば、表示部50に同定結果を表示する。
【0043】
上述した分析シーケンスに従ってDIA法によるMS/MS分析を実施し、その分析結果に基いて血漿中の成分を同定する実験を行った結果、目的成分であるブロナンセリンがスコア95という高い確度でヒットした。このことから、本実施形態のPESI質量分析装置によれば、迅速且つ簡便に薬物等の化合物の同定が可能であることが確認できた。
【0044】
上記実施形態のPESI質量分析装置では、図3に示したように、試料採取期間中にもMS/MS分析を実施していたが、探針103に高電圧を印加している期間、つまりはイオン化が確実に行われている期間中にのみMS/MS分析を実施し、試料採取期間中にはMS/MS分析の実行を休止するようにしてもよい。
【0045】
また、上記実施形態のPESI質量分析装置では、PESIサイクルとMS/MS分析のループタイムとを同期させていたが、必ずしも同期させることは必須ではない。但し、上述したように、試料採取期間中にもMS/MS分析を実施する場合、或るプリカーサーイオンをターゲットとするMS/MS分析が偶然、試料採取期間中に繰り返し実施されてしまうと、十分な品質のMS/MSスペクトルが得られず、成分の見逃しが発生してしまう可能性がある。これを避けるには、PESIサイクルとMS/MS分析のループタイムとを同期させ、特定のプリカーサーイオンをターゲットとするMS/MS分析が試料採取期間中に繰り返し実施されないようにした方がよい。
【0046】
また、上記実施形態は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは明らかである。
【0047】
[種々の態様]
上述した例示的な実施形態が以下の態様の具体例であることは、当業者には明らかである。
【0048】
(第1項)本発明に係るPESI質量分析装置の一態様は、
探針エレクトロスプレーイオン法によるイオン源と、
前記イオン源で生成されたイオンの中で特定のイオンを選択するマスフィルターと、
前記マスフィルターで選択されたイオンを解離させるコリジョンセルと、
前記コリジョンセルで生成されたプロダクトイオンを質量分析する直交加速飛行時間型質量分離器及びイオン検出器を含む質量分析部と、
同一の試料について前記イオン源で該試料の採取動作と採取した試料に対するイオン化動作とを繰り返すように該イオン源を制御するイオン源制御部と、
前記イオン源において前記試料についての試料採取及びイオン化が繰り返し実施されているときに、前記マスフィルターで所定の質量電荷比幅のウインドウに含まれる質量電荷比を有するイオンを通過させ、該イオンを前記コリジョンセルで解離させ、生成されたプロダクトイオンについてのマススペクトルを前記質量分析部により取得するという動作を、前記ウインドウを測定対象である質量電荷比範囲全体に亘ってずらしながら実施するように、前記マスフィルター、前記コリジョンセル、及び前記質量分析部を制御する分析制御部と、
を備え、前記ウインドウの質量電荷比幅を0.5~1.5Daの範囲内に定めたものである。
【0049】
(第2項)第1項に記載のPESI質量分析装置では、前記ウインドウの質量電荷比幅を1Daとすることができる。
【0050】
第1項又は第2項に記載のPESI質量分析装置では、一般的なDIA法によるMS/MS分析に比べて、マスフィルターで選択されるイオン(プリカーサーイオン)のm/z幅がかなり狭い。そのため、試料に多数の成分が含まれる場合であっても、複数の成分由来のイオンがプリカーサーイオンとして選択されにくく、一つのMS/MSスペクトルに複数の成分由来のプロダクトイオンが混在しにくい。従って、第1項又は第2項に記載のPESI質量分析装置によれば、目的成分、夾雑成分を含め、試料に含まれる多成分にそれぞれ対応する純度の高いMS/MSスペクトルを網羅的に取得することができ、それら成分をそれぞれ高い精度で以て同定することができる。
【0051】
(第3項)第1項に記載のPESI質量分析装置において、前記分析制御部は、前記イオン源における1回の試料採取及びイオン化の期間を一つのイオン化サイクルとして、複数のイオン化サイクルに亘り、複数の、同じ質量電荷比範囲であるウインドウについてのMS/MS分析動作を繰り返し実施するように、各部を制御するものとすることができる。
【0052】
第3項に記載のPESI質量分析装置では、同じプリカーサーイオンについてMS/MS分析を行うことで得られたMS/MSスペクトル(プロダクトイオンスペクトル)が複数得られるから、それを積算することで或る一つのウインドウに対応する良好な品質のMS/MSスペクトルを得ることができる。
【0053】
(第4項)第1項に記載のPESI質量分析装置において、前記分析制御部は、前記複数のイオン化サイクルに含まれる各イオン化サイクル中の所定のタイミングにおいて実施するウインドウの質量電荷比範囲を変更するように、各部を制御するものとすることができる。
【0054】
イオン源では試料採取動作とイオン化動作とを交互に繰り返すが、当然、試料採取の期間中にはイオンが発生しない。そのため、1イオン化サイクル中で試料採取期間とイオン化動作期間とを区別せずにMS/MS分析を実施すると、試料採取期間に当たったMS/MS分析では良好なMS/MSスペクトルは得られない。
【0055】
これに対し、第4項に記載のPESI質量分析装置では、同じプリカーサーイオンについてのMS/MS分析が複数回実行されるが、例えば、或るイオン化サイクルにおいて探針へ高電圧の印加が開始されたあと直ぐにMS/MS分析が実施されるプリカーサーイオンと、次のイオン化サイクルにおいて探針へ高電圧の印加が開始されたあと直ぐにMS/MS分析が実施されるプリカーサーイオンとは同一ではなく異なるものとなる。そのため、特定のプリカーサーイオンについて常に高感度のMS/MS分析が行え、別の特定のプリカーサーイオンについて常に低感度のMS/MS分析しか行えないという状況になりにくく、全てのプリカーサーイオンについて平均的に良好なMS/MSスペクトルを取得することができる。
【0056】
(第5項)第1項に記載のPESI質量分析装置において、前記分析制御部は、前記イオン源においてイオン化動作が実行されている期間にのみ、MS/MS分析を実施するものとすることができる。
【0057】
ここで「イオン化動作が実行されている期間」とは、典型的には、探針にイオン化用の高電圧が印加されている期間である。但し、探針への高電圧の印加が停止された時点から或る程度の時間の間は、高電圧が印加されている間に発生したイオンがイオン化室内に存在しており、そのイオンを後段へと輸送することが可能である。従って、探針に高電圧が印加されている期間のみならず、高電圧の印加が停止された時点以降でも実質的にイオンの送り出しが可能である期間は、「イオン化動作が実行されている期間」に含めることができる。
【0058】
第5項に記載のPESI質量分析装置では、試料中の成分由来のイオンがイオン源から後段のマスフィルターに送られない期間には、MS/MS分析が実施されず、MS/MSスペクトルも取得されない。そのため、特定のウインドウに対応するMS/MSスペクトルの検出感度が低くなることを回避することができる。
【符号の説明】
【0059】
1…真空チャンバー
10…イオン化装置
100…イオン化室
101…試料プレート
102…凹部
103…探針
104…探針ホルダー
105…脱溶媒管
106…高電圧発生部
107…探針駆動部
11…第1中間真空室
110、120、130…イオンガイド
111…スキマー
12…第2中間真空室
13…第3中間真空室
14…第1分析室
140…四重極マスフィルター
141…コリジョンセル
142…イオンガイド
143…トランスファー電極
15…第2分析室
150…直交加速部
151…案内電極部
152…フライトチューブ
153…リフレクトロン
154…バックプレート
155…イオン検出器
20…制御部
21…分析シーケンス記憶部
22…イオン源制御部
23…DIA分析制御部
30…データ処理部
31…データ格納部
32…成分同定部
33…同定用ライブラリー
40…入力部
50…表示部
図1
図2
図3
図4