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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B1)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-10-24
(45)【発行日】2024-11-01
(54)【発明の名称】摺動部材およびピストンリング
(51)【国際特許分類】
   F16J 9/26 20060101AFI20241025BHJP
   F02F 5/00 20060101ALI20241025BHJP
   C23C 14/06 20060101ALI20241025BHJP
   C23C 14/32 20060101ALI20241025BHJP
【FI】
F16J9/26 C
F02F5/00 F
C23C14/06 F
C23C14/32 Z
【請求項の数】 4
(21)【出願番号】P 2024517584
(86)(22)【出願日】2023-10-02
(86)【国際出願番号】 JP2023035968
【審査請求日】2024-03-19
【早期審査対象出願】
(73)【特許権者】
【識別番号】000139023
【氏名又は名称】株式会社リケン
(74)【代理人】
【識別番号】100147485
【弁理士】
【氏名又は名称】杉村 憲司
(74)【代理人】
【識別番号】230118913
【弁護士】
【氏名又は名称】杉村 光嗣
(74)【代理人】
【識別番号】100165696
【弁理士】
【氏名又は名称】川原 敬祐
(74)【代理人】
【識別番号】100169524
【弁理士】
【氏名又は名称】槇田 顕
(72)【発明者】
【氏名】高谷 正明
(72)【発明者】
【氏名】丸山 博史
【審査官】久米 伸一
(56)【参考文献】
【文献】特開2022-154350(JP,A)
【文献】特開2003-336542(JP,A)
【文献】国際公開第99/014746(WO,A1)
【文献】特開2013-136511(JP,A)
【文献】特開2009-031064(JP,A)
【文献】特開2020-200803(JP,A)
【文献】特開2021-116870(JP,A)
【文献】特開2022-087131(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
F16J 9/26
F02F 5/00
C23C 14/06
C23C 14/32
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
基材と、該基材の表面に形成された水素を実質的に含まないDLC皮膜と、を有する摺動部材であって、
可視域のレーザを励起光とするラマン分光法によって得られる前記DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1589.5cm-1以上であり、
ナノインデンテーション法によって得られる前記DLC皮膜のギガパスカル単位で表示された硬さHIT17.0GPa以上、33.4GPa以下である
ことを特徴とする摺動部材。
【請求項2】
ナノインデンテーション法によって得られる前記DLC皮膜のギガパスカル単位で表示された弾性率をEITとしたときの、硬さHITの弾性率EITに対する比HIT/EITが0.095以上である
請求項1に記載の摺動部材。
【請求項3】
前記基材と前記DLC皮膜との間に、Cr、Ti、Co、V、Mo、Si及びWからなる群から選択された一つ以上の元素またはその炭化物、窒化物、炭窒化物からなる中間層をさらに有する
請求項1に記載の摺動部材。
【請求項4】
請求項1から3までのいずれかに記載の摺動部材からなるピストンリング。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、摺動部材およびピストンリングに関する。
【背景技術】
【0002】
ピストンリングは摺動部材の一種であり、内燃機関のピストンに装着されてピストンとシリンダの間の気密性を保つ部品である。ピストンリングは、ピストンの頭部近くに2個または3個装着され、シリンダで発生した燃焼ガスがクランクシャフトの側に漏れ出ないようにシールを行う。また、シリンダの内壁に形成されるエンジンオイルの油膜の厚みを制御する機能を有する。さらに、ピストンが受けた燃焼熱をシリンダに逃がす機能を有する。
【0003】
ピストンリングには、これらの基本的な機能のほかに耐久性が求められる。特に、ピストンリングの外周面は、ピストンの往復運動に伴ってシリンダの内壁とこすれ合うため、耐摩耗性が要求される。ピストンリングとシリンダの内壁との間のすべり摩擦を低減させる目的で、ピストンリングの基材の表面に硬質炭素皮膜を形成する検討がなされている。
【0004】
例えば、特許文献1には、基材の表面にダイヤモンドライクカーボン(以下、「DLC」という場合がある。)からなる硬質炭素層が形成された部材であって、硬質炭素層をラマン分光法で測定したとき、ラマン分光スペクトルのDバンドとGバンドのピークの面積強度比であるID/IGが1~6である部材の発明が記載されている。また、特許文献2には、基材の表面に性質の異なる2種類のDLCからなる硬質炭素層が交互に積層された部材の発明が記載されている。従来技術に係るこれらの硬質炭素層は、いずれも成膜の際に基材にバイアス電圧を印加すると同時に、基材をヒータで加熱しながら成膜されたものである。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0005】
【文献】特開2018-123431号公報
【文献】国際公開第2017/104822号
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
従来技術においては、ピストンリングの耐久性を高める手段として、ピストンリングの基材の表面にできるだけ硬度の高いDLC皮膜を形成するという方法が採られていた。ピストンリングがその表面に硬度の高いDLC皮膜を有することによって、シリンダの内壁とこすれ合うピストンリングの外周面が備えるDLC皮膜の摩耗を効果的に防止することができる。これにより、ピストンリングの製品寿命が長くなるので、ピストンリングの交換頻度を少なくすることができると考えられていた。
【0007】
最近の自動車用エンジンでは、高出力化の要請や排気ガスの規制強化への対応を目的として、シリンダ内でのガソリンの燃焼温度を高くしたり、従来よりも粘度の低いエンジンオイルを使用したり、エンジンオイルの使用量を削減したりする傾向がある。これらの新たな技術動向に伴って、ピストンリングの外周面とシリンダの内壁との間の潤滑は、従来のエンジンオイルからなる油膜がとぎれることなく形成される流体潤滑の環境から、油膜が薄いところで局所的に金属同士の直接的な接触が生じる境界潤滑の環境に変化しつつある。
【0008】
発明者らの調査によれば、境界潤滑の環境において表面に硬度の高いDLC皮膜を有するピストンリングを使用した場合、ピストンリングの外周面が備えるDLC皮膜の摩耗が流体潤滑の環境に比べて進行しやすいことが分かった。このことは、境界潤滑の環境で使用されるピストンリングにおいては、従来のように単にDLC皮膜の硬度を高くするだけでは、ピストンリングに必要な耐摩耗性を確保することが難しいことを示唆している。
【0009】
また、従来技術においては、硬度の高いDLC皮膜を用いてピストンリングの耐久性を高めようとした場合、DLC皮膜の膜厚をある程度厚くしなければならない。この場合、DLC皮膜の形成に時間がかかるため、ピストンリングの製造コストが増大するという課題がある。
【0010】
本発明は上記の課題に鑑みてなされたものであり、境界潤滑の環境で使用された場合であっても優れた耐摩耗性を有するDLC皮膜を備えた摺動部材およびピストンリングを提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明の要旨構成は以下の通りである。
【0012】
[1]基材と、該基材の表面に形成された水素を実質的に含まないDLC皮膜と、を有する摺動部材であって、
可視域のレーザを励起光とするラマン分光法によって得られる前記DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1585cm-1以上であり、
ナノインデンテーション法によって得られる前記DLC皮膜のギガパスカル単位で表示された硬さHITが15GPa以上、35GPa以下である
ことを特徴とする摺動部材。
[2]ナノインデンテーション法によって得られる前記DLC皮膜のギガパスカル単位で表示された弾性率をEITとしたときの、硬さHITの弾性率EITに対する比HIT/EITが0.095以上である
[1]に記載の摺動部材。
[3]前記基材と前記DLC皮膜との間に、Cr、Ti、Co、V、Mo、Si及びW からなる群から選択された一つ以上の元素またはその炭化物、窒化物、炭窒化物からなる中間層を有する
[1]または[2]に記載の摺動部材。
[4][1]から[3]までのいずれかに記載の摺動部材からなるピストリング。
【発明の効果】
【0013】
本発明によれば、従来技術に比べてDLC皮膜を有する摺動部材が相手材と摺動したときのDLC皮膜のすべり摩耗量が抑制される。これにより、摺動部材の耐摩耗性が向上する。また、DLC皮膜の膜厚を従来よりも薄くすることができる。
【図面の簡単な説明】
【0014】
図1】摺動部材の断面形状の例を示す模式図である。
図2】ピストンリングの基材の断面形状の例を示す模式図である。
図3】すべり摩耗試験機の構造を示す模式図である。
図4】ラマン分光法によって得られるDLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数とすべり摩擦量比との関係を示すグラフである。
図5】ナノインデンテーション法によって得られるDLC皮膜の硬さとすべり摩擦量比との関係を示すグラフである。
図6】DLC皮膜の硬さと弾性率の比とすべり摩擦量比との関係を示すグラフである。
図7】ラマン分光法によって得られるDLC皮膜のラマンスペクトルにおけるDバンドとGバンドのピークの面積強度比ID/IGとすべり摩擦量比との関係を示すグラフである。
【発明を実施するための形態】
【0015】
以下、本発明を実施するための形態について詳細に説明する。
【0016】
[摺動部材]
一の実施形態において、本発明は摺動部材の発明である。図1は、本発明に係る摺動部材の断面形状の例を示す模式図である。摺動部材100は、基材10と、基材10の表面に形成された水素を実施的に含まないDLC皮膜12と、を有する。本発明に係る摺動部材100は耐摩耗性に優れるため、例えば、エンジンオイルなどの潤滑油が介在する内燃機関の摺動部に使用されるピストンリング、ピストン、ピストンピン、タペット、バルブリフタ、シム、ロッカーアーム、カム、カムシャフト、タイミングギア、タイミングチェーン等や、燃料供給系に使用されるベーン、インジェクタ、プランジャ、シリンダ等、種々の製品に適用することができる。
【0017】
[基材]
本発明に係る摺動部材は、基材と、基材の表面に形成された水素を実質的に含まないDLC皮膜と、を有する。基材は、摺動部材の本体となる部材である。本発明に係る摺動部材が有する基材を構成する材料および基材の形状は、表面にDLC皮膜を形成することができる材料および形状を有するものであれば、どのような材料および形状であってもよい。
【0018】
[DLC皮膜]
本発明に係る摺動部材は、基材の表面に形成されたDLC皮膜を有する。DLC皮膜とは、ダイヤモンドに近い性質を示す非晶質の炭素であるダイヤモンドライクカーボンからなる皮膜である。本発明に係る摺動部材が有するDLC皮膜は、基材の表面に直接形成されていてもよく、あるいは、基材の表面に形成された1層または2層以上の中間層の表面に形成されていてもよい。
【0019】
本発明に係る摺動部材が有するDLC皮膜は、水素を実質的に含まない。本明細書において「水素を実質的に含まないDLC皮膜」とは、DLC皮膜を構成するダイヤモンドライクカーボンに含まれる水素の量が、原子百分率で2.0%以下であることをいう。DLC皮膜は、水素を含有することによって軟質化が進む。本発明において、摺動部材が有するDLC皮膜を、水素を実質的に含まないDLC皮膜とすることによって、後述する本発明に規定するDLC皮膜に必要な硬度を確保することができる。DLC皮膜に含まれる水素の量は、好ましくは原子百分率で1.0%以下であり、より好ましくは、0.5%以下である。
【0020】
[DLC皮膜に含まれる水素の量の測定方法]
DLC皮膜に含まれる水素の含有量の測定は、摺動部が平坦な面や曲率が十分大きな面に形成されたDLC皮膜に対してはRBS(Rutherford Backscattering Spectrometry)/HFS(Hydrogen Forward Scattering Spectrometry)によって行うことができる。RBS/HFSは公知の皮膜組成の分析方法であるが、平坦でない面の分析には適用することができない。このため、ピストンリングの外周面など平坦でない摺動面に形成されたDLC皮膜に対しては、RBS/HFSおよびSIMS(Secondary Ion Mass Spectrometry)を組み合わせることによって水素の含有量を測定することができる。以下に、その手順を説明する。
【0021】
まず、平坦な面を有する基準試料として、鏡面研磨した平坦な試験片(焼入処理を施したSKH51ディスク、φ25×厚さ5mm、硬さHRC60~63)に、基準値の測定対象となるDLC皮膜を形成する。基準試料への成膜は、反応性スパッタリング法を用いて、雰囲気ガスとしてC、Ar、Hを導入して行う。そして、導入するH流量および/またはC流量を変えることによって、DLC皮膜に含まれる水素量を調整する。このようにして水素と炭素によって構成され、水素含有量が異なるDLC皮膜を形成し、これらをRBS/HFSで水素含有量と炭素含有量を評価する。
【0022】
次に、上記の試料をSIMSで分析し、水素と炭素の二次イオン強度を測定する。ここで、SIMS分析は、平坦でない面、例えばピストンリングの外周面に形成されたDLC皮膜でも測定できる。したがって、DLC皮膜が施された基準試料の同一の皮膜について、RBS/HFSによって得られた水素含有量と炭素含有量(単位:原子%)と、SIMSによって得られた水素と炭素の二次イオン強度の比率との関係を示す実験式(計量線)を求める。このようにすることで、実際のピストンリングの外周面について測定したSIMSの水素と炭素の二次イオン強度から、水素含有量と炭素含有量を算出することができる。なお、SIMSによる二次イオン強度の値は、少なくともDLC皮膜の表面から20nm以上の深さ、且つ50nm四方の範囲において観測されたそれぞれの元素の二次イオン強度の平均値を採用する。
【0023】
[DLC皮膜の成膜方法]
本発明において、摺動部材が有する基材の表面に水素を実質的に含まないDLC皮膜を形成するには、例えば、カーボンターゲットを用いた真空アーク放電によるイオンプレーティング法等のPVD法を用いてDLC皮膜を形成すればよい。PVD法は、水素をほとんど含まない高硬度で耐摩耗性に優れたDLC皮膜を形成することができる。なお、炭素微小粒子を除去するフィルターを備えるフィルター型陰極真空アーク方式(FCVA法)を用いることが好ましい。ただし、水素を実質的に含まないDLC皮膜を形成する方法は、これらの方法に限られない。
【0024】
DLC皮膜は、基材の表面の少なくとも一部に形成されていればよく、基材の表面の全体にわたって形成されていてもよい。基材の表面の一部にDLC皮膜は形成する場合は、摺動部材の表面のうち特に耐摩耗性が要求される部分にDLC皮膜を形成することが好ましい。この場合において、形成されたDLC皮膜の表面が摺動部材における摺動面を構成する。
【0025】
[Gバンドの中心波数]
本発明に係る摺動部材が有するDLC皮膜は、可視域のレーザを励起光とするラマン分光法によって得られるDLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1585cm-1以上である。DLC皮膜のラマンスペクトルは、表面にDLC皮膜が形成された摺動部材についてラマン分光法による測定を行うことによって得ることができる。ラマンスペクトルを測定する際の励起光には、可視域のレーザ光を使用する。摺動部材の各部位ごとにラマンスペクトルを測定したい場合には、顕微ラマン分光装置を用いることができる。
【0026】
DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドは、DLC皮膜に含まれる炭素原子の結合のうちsp結合成分に関連しており、グラファイトの結晶構造の変化に応じて変化すると考えられる。本発明におけるGバンドの中心波数は、以下の手順によって決定した。まず、得られたラマンスペクトルに対して、900~1900cm-1の範囲でバックグラウンドを差し引いたのち、1350cm-1付近のピークをDバンド、1550cm-1付近のピークをGバンドと仮定し、2つのガウス関数にてフィッティングを行った。次に、分離されたGバンドのスペクトルのピークの位置の波数を求め、その波数をGバンドの中心波数とした。
【0027】
本発明において、DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1585cm-1以上である。摺動部材が有するDLC皮膜がこの条件を満たすとき、比較の基準である従来技術に係るDLC皮膜を有する摺動部材に比べて、摺動部材と相手材との間ですべり摩擦を起こさせたときの摩耗量が減少する。
【0028】
相手材との間ですべり摩擦を起こさせたときの摺動部材が有するDLC皮膜の摩耗量が、DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1585cm-1以上であるときに減少する理由についてはっきりしたことは分からないが、おそらく以下のようなことが考えられる。上述のとおり、Gバンドの中心波数はDLC皮膜に含まれるグラファイトの結晶構造の変化に応じて変化すると考えられる。摺動による負荷および熱によってDLC皮膜の表面にトライボフィルム(tribofilm)と呼ばれる保護被膜が形成されやすくなったり、摩擦面間に介在する異物によって表面が削り取られるアブレシブ摩耗(abrasive wear)と呼ばれる摩耗現象が抑制されたりするのではないかと推測される。
【0029】
Gバンドの中心波数の値は1585cm-1以上であればよく、上限については特に規定しない。ただし、グラファイトの結晶構造の変化に伴うGバンドのシフト量には限界があると考えられる。このため、Gバンドの中心波数の値は実質的に1610cm-1以下に限定される。
【0030】
[DLC皮膜の硬さ]
本発明に係る摺動部材は、ナノインデンテーション法によって得られるDLC皮膜のギガパスカル単位で表示された硬さHITが15GPa以上、35GPa以下である。本明細書において「ナノインデンテーション法」とは、国際規格ISO14577に規定されているナノインデンテーション硬さ試験法に基づく測定方法をいう。この方法では、試料表面に先端形状が正三角錐(バーコビッチ型)のダイヤモンド製の微小な圧子を押込み、その時の荷重-変位曲線を測定することで微小領域の硬さおよび弾性率を測定することができる。なお、DLC皮膜の下地である基材の影響を避けるため、ダイヤモンド圧子の最大押し込み深さを膜厚の1/10以下となるように押し込み荷重を設定する。また、試験の前処理として、試験箇所に対して鏡面研磨を施すことにより試験値のばらつきを押さえる。
【0031】
ナノインデンテーション法によって測定されたDLC皮膜の硬さHITは、DLC皮膜の成膜の条件によって大きく変化することが知られている。例えば、グラファイトの硬さは約4GPaであり、ダイヤモンドの硬さは90~100GPaである。本発明に係る摺動部材が有するDLC皮膜の硬さHITは、これらの値の間に位置する。
【0032】
DLC皮膜の硬さHITが15GPaよりも小さいと、摺動部材とすべり摩擦を起こさせたときのDLC皮膜の摩耗量が大きくなる。DLC皮膜の硬さHITが35GPaよりも大きいと、摩耗粉の発生によってアブレシブ摩耗が起こりやすくなるため、やはりDLC皮膜の摩耗量が大きくなる。したがって、DLC皮膜の硬さHITは小さすぎても大きすぎてもDLC皮膜の摩耗量が増える。DLC皮膜の硬さHITが本発明に規定する15GPa以上、35GPa以下の範囲にあるときは、DLC皮膜の摩耗量が比較の基準である従来技術に係るDLC皮膜に比べてDLC皮膜に比べて半分以下に減少する。
【0033】
[DLC皮膜の厚み]
好ましい実施の形態において、本発明に係る摺動部材が有するDLC皮膜の厚みは特に限定されないが、1.0μm以上30μm以下であることが好ましい。1.0μm以上であれば、DLC皮膜の耐久性が不足することがなく、30μm以下であれば、母材との密着性が不足となって剥離が生じることがないからである。より好ましいDLC皮膜の厚みは5.0μm以上、20.0μm以下である。DLC皮膜の厚みは、カロテストまたは樹脂包埋した皮膜断面の観察により測定することができる。
【0034】
[DLC皮膜の硬さの弾性率に対する比]
好ましい実施の形態において、ナノインデンテーションによって得られるDLC皮膜のギガパスカル単位で表示された弾性率をEITとしたときの、硬さHITの弾性率EITに対する比HIT/EITが0.095以上である。DLC皮膜の弾性率EITは、DLC皮膜に荷重がかかった場合の弾性変形の起こりにくさを表す指標である。DLC皮膜の弾性率EITが小さいほど、DLC皮膜を有する摺動部材が相手材に押し当てられた際にDLC皮膜が柔軟に変形する。したがって、硬さHITが同一の場合で比較すると、比HIT/EITが大きいほどDLC皮膜が柔軟に変形するので、DLC皮膜のアブレシブ摩耗の進行が抑制されると考えられる。
【0035】
好ましい実施の形態において、DLC皮膜の硬さの弾性率に対する比HIT/EITは0.095以上であればよく、上限については特に規定しない。一般に、物質の弾性率と硬さとの間には一定の相関関係がある。このため、実質的に水素を含まないDLC皮膜について同一の単位で表された硬さと弾性率の比HIT/EITは、実質的に0.120以下に限定される。
【0036】
[中間層]
好ましい実施の形態において、本発明に係る摺動部材は、基材とDLC皮膜との間に、Cr、Ti、Co、V、Mo、Si及びWからなる群から選択された一つ以上の元素またはその炭化物、窒化物、炭窒化物からなる中間層をさらに有する。中間層は、基材の表面の少なくとも一部に設けられる。基材の表面に中間層が存在することによってDLC皮膜との間の応力が緩和され、DLC皮膜の密着性が向上する。
【0037】
中間層は、基材の表面の少なくとも一部を被覆するものであってもよく、全部を被覆するものであってもよい。摺動部材が有する基材としてピストンリングを選択した場合、例えば、ピストンリングの外周面を被覆することができる。これによって、外周面におけるDLC皮膜の密着性が向上するので好ましい。基材の表面の全部を被覆する場合、基材の表面の全部に被覆された中間層を残しておいてもよく、中間層を成形した後に不要な部分の中間層を研磨加工等によって取り除くことで基材を露出させてもよい。
【0038】
中間層の厚さは、0.1μm以上0.6μm以下であることが好ましく、0.2μm以上0.5μm以下であることがより好ましい。0.1μm以上であれば、DLC皮膜の密着性を高めることができ、0.6μm以下であれば、摺動時に中間層が塑性流動を起こしにくく、DLC皮膜が剥離しにくくなるからである。中間層は、例えば、公知のPVD(physical vapor deposition)法を好適に用いることによって基材上に形成することができる。
【0039】
[ピストンリング]
他の実施形態において、本発明はピストンリングの発明である。本発明に係るピストンリングは、本発明に係る摺動部材からなるピストンリングである。本発明に係るピストンリングが有する基材は、リング形状を有する鋼(はがね)からなる。基材に用いられる鋼は、ピストンリングとして必要な強度、弾性率、熱伝導度などの特性を有するものであれば特に限定されない。鋼としては、炭素鋼、バネ鋼、マルテンサイト系ステンレス鋼などを用いることが好ましい。本発明に係るピストンリングはリング形状を有し、リング形状の一部にギャップが設けられる。ピストンリングは、ギャップを閉じて縮径された状態で、ピストンの外周面に設けられた溝に装着される。シリンダ内では、ピストンリングの外周面が張力によってシリンダの内壁に押し当てられながら摺動する。
【0040】
図2は、本発明に係るピストンリングの基材の断面形状の例を示す模式図である。図2において、後述するDLC皮膜は省略されている。図2に示すように、ピストンリング200は、断面が長方形に近似する基材20を含む。ただし、ピストンリングを構成する基材20の断面の形状には多くのバリエーションがあり、必ずしも長方形でなくてもよい。
【0041】
外周面22は、ピストンリング200を図示しないピストンの溝に装着したときに、ピストンの外周面よりも外側に位置し、シリンダの内壁と接触しながら摺動する面である。外周面22の形状は、図2に示すようなフラットな形状であってもよく、中央部が外側に膨らんだバレル形状であってもよく、位置によって径が連続的に変化するテーパー形状であってもよい。上述のとおり、外周面22には、シリンダの内壁面との摺動によって摩耗しにくい耐摩耗性が要求される。本発明に係るピストンリングにおいては、外周面22に図示しないDLC皮膜が形成される。
【0042】
側面24a、24bは、ピストンリング200が図示しないピストンの溝と接する面である。図2には、上側の側面24aと下側の側面24bが示されている。外周面22の反対側に内周面28が存在する。外周面22と側面24a、24bの境界に外周エッジ26a、26bが存在する。一般に、外周エッジ26a、26bには、基材20の欠けを防止するための図示しない面取り(chamfer)が施されている。
【0043】
[すべり疲労試験]
本発明に係る摺動部材と相手材との間にすべり摩擦を起こさせたときの摺動部材が有するDLC皮膜の摩耗量を評価する方法について説明する。図3は、この評価を行うすべり疲労試験の実施方法の概略を示す模式図である。すべり疲労試験に用いられるすべり疲労試験機300は、回転するドラム30を有する。すべり疲労試験機300は、図示しない駆動機構によって試験片32の表面をドラム30の外周面に押し当てながら繰り返し荷重を加える。試験の前後における試験片32の寸法の変化を測定することによって、試験片32の表面に形成されたDLC皮膜の摩耗量を求める。これを、同一の条件で行った標準試料の摩耗量で除して、すべり摩耗量比を求める。
【0044】
以下に、すべり疲労試験を実施するときの試験条件を例示する。試験片32が摺動する相手材であるドラム30は、直径が80mmの円柱形状の部材である。ドラム30を構成する材料は耐摩耗性の高い鋼を用いることが好ましく、例えば、日本産業規格JIS G 4805「高炭素クロム軸受鋼鋼材」に規定する鋼種番号SUJ2材の軸受鋼を用いることができる。固定された試験片32に対して回転するドラム30の円周面の速度は、10.0m/sとする。ドラム30の回転は、静止状態から30秒間で速度10.0m/sまで加速し、速度10.0m/sのまま20秒間保持した後、30秒間で速度ゼロまで減速する。次に、回転方向を逆にして加速、保持および減速を行い、これを1サイクルとして、10サイクル繰り返して行う。
【0045】
図示しない駆動機構によって試験片32に繰り返し荷重を加えてドラム30の外周面に垂直に押し当てる。荷重の大きさは、最大荷重を50N、最小荷重を20Nとし、振動数50Hzの正弦波状に荷重を最大荷重と最小荷重との間で時間変化させる。ドラム30の表面温度は、図示しないヒータによって80℃に保持する。給油パイプ34の先端から無添加モータオイルを毎分0.1cmの速度でドラム30の表面に供給する。このオイルの供給速度は流体潤滑には不足する量であるため、境界潤滑の環境となっている。
【実施例
【0046】
以下、本発明を実施例に従って説明するが、本発明はこれらに限定されるものではない。
【0047】
ピストンリングの基材として、断面の形状が長方形に近似するリング形状を有し、シリコンクロム鋼からなる基材を用意した。基材のサイズは、呼称径が78mm、厚さが2.5mm、幅が1.2mmであった。外周面の形状は、中央がやや膨らんだバレルフェースであった。基材の外周エッジには幅0.15mmのC面取りが施されていた。陰極アーク式イオンプレーティング装置(日本アイ・ティ・エフ株式会社製、M720)を用いて、基材の外周面をクロムからなる厚さが0.5μmの中間層で被覆した。
【0048】
次に、基材を脱脂洗浄した後、側面同士が接する状態で陰極アーク式イオンプレーティング装置にセットし、イオンボンバードメント処理によって表面を清浄化した後、真空アーク放電によるイオンプレーティング法を用いて、基材の外周面をDLC皮膜で被覆した。DLC皮膜の成膜後、側面に回り込んだDLC皮膜をホーニング装置およびラッピング装置を用いて除去し、表1に示す実施例1~5および比較例1~9のピストンリングを複数個得た。DLC皮膜の成膜条件を表1に示す。
【0049】
【表1】
【0050】
表1に示す設定バイアスとは、成膜時に装置上で設定する基材のバイアス電圧である。設定バイアスの値にかかわらず、装置が有するバイアス電圧の保持回路は、バイアス電圧が設定バイアスの値に保持されるように機能する。表1に示す測定バイアスとは、成膜時に実際にモニタリングされた基材のバイアス電圧である。設定バイアスをゼロに設定した場合であっても、炭素イオンが有する電荷によって基材が帯電し、ゼロでないバイアス電圧が測定される。これを自己バイアス電圧という場合がある。自己バイアス電圧が生じることにより、炭素イオンが加速されてエネルギーが上昇し、ヒータ加熱しない場合であっても基材の温度は上昇しやすくなる。
【0051】
実施例1~4が示すように、自己バイアス電圧の絶対値の方が設定バイアスの絶対値よりも大きい場合、測定されるバイアス電圧は自己バイアス電圧によって支配され、設定バイアスの影響を受けない。また、設定バイアスが同じ場合、測定バイアスはアーク電流の大きさによって変化する。
【0052】
実施例5の「浮遊電位化」とは、装置のバイアス電圧の保持回路を遮断して、バイアス電圧の制御を行わないことをいう。この場合も、炭素イオンが有する電荷によって基材が帯電する。
【0053】
表1に示す成膜速度について、「速い」は基準とする比較例1の条件よりも成膜速度が速いこと、「同等」は成膜速度が同等であること、「遅い」は成膜速度が遅いことを示す。
【0054】
このようにして得られたピストンリングの試料について、以下の評価を行った。まず、ラマン分光測定器(レニショー製、inViaReflex)を用いてピストンリングの外周面が有するDLC皮膜のラマンスペクトルを測定した。Arイオン励起レーザ波長は532.0nm、レーザ出力は50mW、対物レンズは100倍、減光器を通した条件で測定した。得られたラマンスペクトルのデータから、Gバンドの中心波数およびDバンドとGバンドのピークの面積強度比であるID/IGを求めた。
【0055】
次に、ナノインデンター(エリオニクス製、型番ENT-1100a)を用いた国際規格ISO14577に準拠するナノインデンテーション法によってDLC皮膜の硬さHITおよび弾性率EITを測定した。得られた測定値から硬さと弾性率の比HIT/EITを計算した。
【0056】
次に、図3に示すすべり疲労試験機を用い、上述した試験条件においてピストンリングが有するDLC皮膜のすべり摩耗量を測定した。測定には、ピストンリングの試料から切断した外周面を含む長さが約20mmの試験片を使用した。すべり摩耗試験では、1時間の試験を10サイクル繰り返したときの摩耗量を測定し、その摩耗量についてベンチマークとなる比較例1の摩耗量との比を求めてすべり摩耗量比とした。これらの評価結果を表2に示す。また、表2に示すGバンドの中心波数、硬さHIT、比HIT/EITおよび比ID/IGとすべり摩耗量比との関係を図4から7までにそれぞれ示す。
【0057】
【表2】
【0058】
表2および図4によれば、Gバンドの中心波数が1585cm-1以上であったピストンリングのうち実施例1から5までのものは、比較の基準である従来技術に係るDLC皮膜を有する比較例1に対してすべり摩耗量が有意に少なかった。Gバンドの中心波数が1585cm-1を超えない比較例2から7までのピストンリングのすべり摩耗量は、比較例1と比べて大きいか、又は若干少なくても大きな改善は見られなかった。また、比較例8、9では後述するDLC皮膜の硬度が不足しており、比較例1に対してすべり摩耗量が増加した。
【0059】
表2および図5によれば、DLC皮膜の硬さHITが15GPa以上、35GPa以下であったピストンリングのうち実施例1から5までのものは、比較例1に対してすべり摩耗量が有意に少なかった。比較例3、4および6は、上述のとおりGバンドの中心波数が1585cm-1よりも小さかったため、比較例1に対してすべり摩耗量が有意に少なくなることはなかった。以上の結果から、本発明に係る摺動部材は従来技術に比べて耐摩耗性に優れ、成膜条件を適切に調整することによって成膜速度も速くできることがわかる。
【0060】
次に、図6によれば、硬さと弾性率の比HIT/EITとすべり摩耗量比との間には、硬度が極端に高い比較例5を除きよい相関がみられ、HIT/EITが0.095以上の範囲で比較例1に対して少ないすべり摩耗量を示した。このことは、同一の硬さを有するDLC皮膜で比較した場合に、弾性率EITが小さいほどDLC皮膜が繰り返し荷重に対する柔軟性を備え、それによってすべり摩耗量が低下することを示唆している。
【0061】
一方、表2および図7によれば、特許文献1に記載されたDバンドとGバンドのピークの面積強度比であるID/IGとすべり摩耗量比との間には明らかな相関性が認められなかった。
【0062】
なお、上述のとおり、良好な耐摩耗性を示した実施例1から5までのDLC皮膜は、いずれも設定バイアスを0Vまたは浮遊電位とし、自己バイアス電圧が0Vから-35V程度の条件で基材をヒータ加熱することなく成膜を行ったものである。これに対し、従来の成膜条件と同様に設定バイアスをゼロでない値に設定した比較例4のDLC皮膜では、Gバンドの中心波数が1585cm-1以上とならず、すべり摩耗量比も改善されなかった。これは、ゼロでない設定バイアスで成膜されたDLC皮膜では硬いspクラスターが増加する傾向があるためと考えられる。
【0063】
また、ヒータ加熱に関しては、ヒータ加熱を行わず、アーク電量による加熱のみで基板の温度を調整するのが望ましい。これは、ヒータ加熱を行うと、成膜中に基材以外の場所に成膜された皮膜からのマクロパーティークルなどの異物の付着が増える傾向にあり、摩耗量の増加につながるためと考えられる。このように、本発明に係る摺動部材では、Gバンドの中心波数や硬さHITなどの特性が所定の範囲になるように表1に示すDLC成膜の成膜条件を調整することによって、優れたすべり摩擦特性を得ることができる。
【符号の説明】
【0064】
100 摺動部材
10 基材
12 DLC皮膜
200 ピストンリング
20 基材
22 外周面
24a、24b 側面
26a、26b 外周エッジ
28 内周面
300 すべり疲労試験機
30 ドラム
32 試験片
34 給油パイプ
【要約】
境界潤滑の環境で使用された場合であっても優れた耐摩耗性を有するDLC皮膜を備えた摺動部材およびピストンリングが提供される。本発明に係る摺動部材は、基材と、該基材の表面に形成された水素を実質的に含まないDLC皮膜と、を有する摺動部材であって、可視域のレーザを励起光とするラマン分光法によって得られる前記DLC皮膜のラマンスペクトルにおけるGバンドの中心波数が1585cm-1以上であり、ナノインデンテーション法によって得られる前記DLC皮膜のギガパスカル単位で表示された硬さHITが15GPa以上、35GPa以下である。
図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7