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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2025-01-27
(45)【発行日】2025-02-04
(54)【発明の名称】質量分析装置
(51)【国際特許分類】
   G01N 27/62 20210101AFI20250128BHJP
【FI】
G01N27/62 B
【請求項の数】 7
(21)【出願番号】P 2023546704
(86)(22)【出願日】2021-09-13
(86)【国際出願番号】 JP2021033496
(87)【国際公開番号】W WO2023037536
(87)【国際公開日】2023-03-16
【審査請求日】2023-10-16
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】弁理士法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】山口 真一
【審査官】吉田 将志
(56)【参考文献】
【文献】特開2021-053404(JP,A)
【文献】特表2012-510062(JP,A)
【文献】特開2020-051751(JP,A)
【文献】特開2007-225285(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 27/62
H01J 49/00 - H01J 49/48
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
所定形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を試料上で所定の第1方向に移動させながら繰り返し実行する第1の測定動作と、前記分析範囲と同じ形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を前記試料上で前記第1方向と交差する第2方向に移動させながら繰り返し実行する第2の測定動作とを実行する測定部と、
前記試料上で前記測定部による前記第1の測定動作における一つの分析範囲と前記第2の測定動作における一つの分析範囲とが重なる部分において、該重なる部分の領域における質量分析データを、該重なる部分をそれぞれ含む二つの分析範囲、及び該二つの分析範囲にそれぞれ重なる他の分析範囲においてそれぞれ得られた質量分析データを用いて計算する又は推定する演算部と、
を備える質量分析装置。
【請求項2】
前記分析範囲は略矩形状の範囲であり、前記第1方向は該分析範囲の一方の辺が延伸する方向、前記第2方向は該分析範囲の他方の辺が延伸する方向である、請求項1に記載の質量分析装置。
【請求項3】
矩形状である前記分析範囲の一方の辺の長さは他方の辺の長さのn分の1(nは2以上の整数)であって、前記測定部は、前記第1の測定動作において質量分析される第1方向に並ぶn個の分析範囲の全体を略正方形状の範囲とし、その略正方形状の範囲に前記第2の測定動作において質量分析される第2方向に並ぶn個の分析範囲が重なるように、前記第1の測定動作及び前記第2の測定動作を実施する、請求項2に記載の質量分析装置。
【請求項4】
前記演算部は、分析範囲に対して得られた質量分析データを既知の値、前記第1の測定動作において質量分析される第1方向に並ぶ一つの分析範囲と前記第2の測定動作において質量分析される第2方向に並ぶ一つの分析範囲とが重なる領域に対する質量分析データを未知の値として、式の数よりも未知の数の方が多い連立方程式を立て、該連立方程式から近似解として未知の値を求める、請求項3に記載の質量分析装置。
【請求項5】
前記演算部は線形近似法により前記近似解を求める、請求項4に記載の質量分析装置。
【請求項6】
前記演算部は、前記第1の測定動作と前記第2の測定動作とにおける検出感度の差を補正する処理を行う、請求項1に記載の質量分析装置。
【請求項7】
前記測定部は、タッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン法によるイオン源を有する質量分析装置である、請求項1に記載の質量分析装置。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は質量分析装置に関し、さらに詳しくは、イメージング質量分析に好適な質量分析装置に関する。
【背景技術】
【0002】
イメージング質量分析装置は、生体組織切片などの試料に存在する化合物の空間分布を可視化することが可能な装置である。特許文献1に開示されているイメージング質量分析装置では、イオン源としてマトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI:Matrix Assisted Laser Desorption / Ionization)法によるイオン源が用いられている。
【0003】
このイメージング質量分析装置では、試料上の2次元的な測定領域内を格子状に細かく区切った微小領域毎に、所定の質量電荷比(厳密には斜体字の「m/z」であるが、本明細書中では慣用的に「質量電荷比」又は単に「m/z」と記す)範囲に亘るマススペクトルデータが収集される。こうして得られたマススペクトルデータから、例えば特定の化合物に由来するイオンのm/z値における信号強度値を抽出し、試料上での各微小領域の2次元的な位置に応じて配置してヒートマップ様の画像を作成することで、その特定の化合物の分布状況を示すMSイメージング画像を得ることができる。
【0004】
質量分析の分野では、試料に含まれる成分をイオン化するために、様々なイオン化法が開発され実用に供されている。イメージング質量分析装置においても、上述したMALDI法以外の様々なイオン化法を利用した装置が知られている。そうしたイオン化法の一つとして、非特許文献1、2等に記載の、タッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン化(t-SPESI:Tapping mode Scanning Probe ElectroSpray Ionization)法(タッピング型走査プローブエレクトロスプレーイオン法と呼ばれることもある)が知られている。
【0005】
t-SPESI法では、高電圧を印加することで電荷分離させた溶媒を、片持ち支持されたシリカキャピラリープローブ(以下、単にプローブという)の流路に流しながら、該プローブを振動させることで、試料とプロープ先端とを断続的に接触させる。すると、プローブ先端が試料に接触しているとき、両者の間に溶媒による液架橋が形成され、試料中の成分が溶媒に抽出される。そのあとプローブ先端が試料から離間すると、そのプローブ先端に付着している試料成分を含む溶媒が破断しつつ飛散し、エレクトロスプレーが生成される。生成された帯電液滴は、プローブ先端に近接して配置されたイオン導入管の入口に到達するまで、及びそのイオン導入管を通過する間に、乾燥され、試料成分由来の気相イオンが発生する。
【0006】
上述したt-SPESI法を利用したイメージング質量分析装置では、試料又はプローブの一方又は両方を、試料の測定面に平行な方向に2次元的に移動させることによって、その試料上の2次元領域内の各微小位置におけるマススペクトルデータを取得することができる。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0007】
【文献】特開2011-191222号公報
【非特許文献】
【0008】
【文献】大塚、「生体システムの多彩な分子環境を捉える直接液体抽出イオン化法」、日本質量分析学会誌、Vol. 68、No. 5、2020年、pp.59-74
【文献】大塚、「キャピラリプローブとナノ体積液体を活用した走査型プローブエレクトロスプレーイオン化法の開発」、日本質量分析学会誌、Vol. 68、No. 1、2020年、pp.2-7
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0009】
t-SPESI法を利用したイメージング質量分析装置(以下、特に断わらない限り、t-SPESI法を利用したイメージング質量分析装置を単にイメージング質量分析装置という)では、プローブの振動周波数が一定であれば、プローブの走査方向(試料に対する相対的な移動方向)の空間分解能(MSイメージング画像の解像度)は一般に、その走査速度に依存する。一方、その走査方向と直交する方向の空間分解能は一般に、プローブ先端の大きさに依存する。従って、プローブの走査方向における空間分解能はその走査速度を調整することによって変更が可能であり、走査速度を落とすことで空間分解能を高めることができる。
【0010】
これに対し、走査方向に直交する方向における空間分解能は物理的に決まっており、通常は、決まっている分解能以上に高くすることはできない。そのため、MSイメージング画像の解像度を高めたい場合でも、その画像の縦方向又は横方向の一方向にしか解像度を高くすることができず、必ずしもユーザーの期待するような精緻なMSイメージング画像を表示することができないという問題がある。
【0011】
本発明は上記課題を解決するためになされたものであり、その主たる目的は、プローブ先端の大きさの制約よりも高い解像度を有するMSイメージング画像を得ることができる質量分析装置を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0012】
上記課題を解決するために成された本発明に係る質量分析装置の一態様は、
所定形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を試料上で所定の第1方向に移動させながら繰り返し実行する第1の測定動作と、前記分析範囲と同じ形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を前記試料上で前記第1方向と交差する第2方向に移動させながら繰り返し実行する第2の測定動作とを実行する測定部と、
前記試料上で前記測定部による前記第1の測定動作における一つの分析範囲と前記第2の測定動作における一つの分析範囲とが重なる部分において、該重なる部分の領域における質量分析データを、該重なる部分をそれぞれ含む二つの分析範囲、及び該二つの分析範囲にそれぞれ重なる他の分析範囲においてそれぞれ得られた質量分析データを用いて計算する又は推定する演算部と、
を備える。
【0013】
上記質量分析データは、所定のm/z範囲に亘るマススペクトルデータであってもよいし、特定の1又は複数のm/z値における信号強度(イオン強度)データであってもよい。また、通常の質量分析によるデータ以外に、MS/MS分析やnが3以上であるMSn分析データも含む。
【発明の効果】
【0014】
本発明に係る上記態様の質量分析装置では、イオン源における種々の制約によって決まる分析範囲の大きさよりも小さい範囲(上記の重なる部分)に対する質量分析データが、複数の分析範囲に対する測定によって得られた質量分析データから算出される。これにより、本発明に係る上記態様の質量分析装置によれば、例えばt-SPESIイオン源におけるプローブ先端のサイズに依存して決まる解像度よりも高い解像度のMSイメージング画像を取得することができる。
【図面の簡単な説明】
【0015】
図1】本発明の一実施形態であるイメージング質量分析装置の概略構成図。
図2A】本実施形態のイメージング質量分析装置における試料上の測定領域についての測定手順の一例の説明図であり、1回目の一連の測定による分析範囲を示す図。
図2B】本実施形態のイメージング質量分析装置における試料上の測定領域についての測定手順の一例の説明図であり、2回目の一連の測定による分析範囲を示す図。
図3】本実施形態のイメージング質量分析装置における2回の測定が重なる部分についてのデータ処理の一例の概略説明図。
図4】本実施形態のイメージング質量分析装置における2回の測定が重なる部分についてのデータ処理の他の例の概略説明図。
【発明を実施するための形態】
【0016】
本発明に係る質量分析装置の一実施形態であるイメージング質量分析装置について、添付図面を参照して説明する。このイメージング質量分析装置は、t-SPESIイオン源を用いたイメージング質量分析装置である。
【0017】
図1は、本実施形態のイメージング質量分析装置の概略構成図である。説明の便宜上、図1中に示すように、互いに直交するx、y、zの3軸を空間内に定義している。ここでは、測定対象である試料Sの表面はx-y平面に平行である。
【0018】
このイメージング質量分析装置は、チャンバーの内部に、それぞれ略区画された、イオン化室1、第1中間真空室2、第2中間真空室3、及び分析室4、を有する。イオン化室1の内部は略大気圧雰囲気であり、分析室4の内部は図示しない真空ポンプによる排気によって高真空雰囲気に維持される。また、第1中間真空室2及び第2中間真空室3もそれぞれ図示しない真空ポンプにより真空排気され、イオン化室1から、第1中間真空室2、第2中間真空室3、及び分析室4と順に、段階的に真空度が高くなる多段差動排気系となっている。
【0019】
イオン化室1には試料ステージ14が配置されており、この試料ステージ14は、ステージ駆動部17によって、x軸、y軸の2軸方向に移動可能であるとともに、z軸(鉛直軸)の周りに90°回転自在である。生体組織切片などの試料Sは、試料ステージ14上にセットされる。
【0020】
試料ステージ14の上方には、プローブ保持部13によって基部が片持ち支持されているプローブ11が配置されている。プローブ11は例えば非特許文献1、2等に記載されたシリカキャピラリープローブであり、可撓性を有する。プローブ11の内部には、その基部から先端まで続く流路が形成されており、この流路には、図示しないシリンジポンプにより溶媒が供給される。また、その溶媒には、高電圧発生部16で生成された高電圧がプローブ保持部13の部分において印加される。また、プローブ11には、ピエゾアクチュエーター等の励振部12が取り付けられている。プローブ駆動部15から励振部12に駆動信号が供給されると、プローブ11は図1中に両向きの矢印で示すように略上下方向に、所定の周波数で振り子状に振動する。
【0021】
イオン化室1内では、主として次のようにして試料S中の成分がイオン化される。プローブ11が励振する際に該プローブ11の先端が試料Sに断続的に接触するように、試料ステージ14の高さは適宜調整される。その状態で、プローブ11先端が試料Sの表面に接触すると、プローブ11先端から流出した溶媒(電荷分離している溶媒)の液架橋がプローブ11先端と試料Sとの間に形成される。試料Sに含まれる成分(化合物)はその溶媒に抽出され、プローブ11が試料Sから離間すると、試料成分を含む溶媒が上方に飛散して微小な帯電液滴が形成される。この帯電液滴は周囲のガス分子に接触して微細化され、また該液滴中の溶媒は気化する。その過程で、帯電液滴から試料成分由来の気相イオンが生成される。
【0022】
イオン化室1と第1中間真空室2とは、所定温度に加熱される細径の脱溶媒管21を通して連通している。イオン化室1で生成された試料成分由来のイオン及び該成分分子を含む微細な帯電液滴は、イオン化室1内の圧力(略大気圧)と第1中間真空室2内の圧力との差によって形成されるガス流と、脱溶媒管21のイオン導入口に印加されている電圧により形成される電場の作用とにより、脱溶媒管21中に引き込まれて第1中間真空室2に送られる。脱溶媒管21中を通過する間にも帯電液滴からの溶媒の気化は促進され、試料成分由来のイオンの生成が促される。
【0023】
第1中間真空室2には多重極型のイオンガイド22が配置されており、該イオンガイド22により形成される電場によって、第1中間真空室2内に導入されたイオンはイオン光軸Cの近傍に収束され、スキマー23の頂部の孔を通って第2中間真空室3に入射する。第2中間真空室3にも多重極型のイオンガイド31が配置されており、該イオンガイド31により形成される電場によって、イオンは収束されつつ第2中間真空室3から分析室4へと送られる。
【0024】
分析室4には、イオンをm/zに応じて分離する質量分離器41、及びイオン検出器42が配置されている。質量分離器41の方式は特に限定されないが、例えば四重極マスフィルター、飛行時間型質量分離器、イオントラップなどを用いることができる。質量分離器41が四重極マスフィルターである場合、例えば四重極マスフィルターは、通過するイオンのm/zが所定のm/z範囲に亘って順次変化するように駆動される。四重極マスフィルターを通過したイオンはイオン検出器42に到達し、イオン検出器42は到達したイオンの数に応じたイオン強度信号を出力する。なお、質量分離器41は、衝突誘起解離などによりイオンを解離させるコリジョンセルやイオントラップを利用してプロダクトイオンを生成し、該プロダクトイオンを質量分析する構成であってもよい。
【0025】
イオン検出器42の出力信号を受けるデータ処理部5は、機能ブロックとして、データ格納部51、演算処理部52、MSイメージング画像作成部53などを含む。
制御部6は、高電圧発生部16、プローブ駆動部15、ステージ駆動部17、及び電圧生成部7などをそれぞれ制御することにより、イメージング質量分析を実行するものである。この制御部6には、ユーザーインターフェイスとしての入力部8及び表示部9が接続されている。
【0026】
なお、制御部6及びデータ処理部5は、ハードウェアによって構成することも可能であるが、通常、その実体は、パーソナルコンピューター等の汎用コンピューターである。そして、そのコンピューターにインストールされた専用の制御及び処理ソフトウェアを該コンピューターで実行することによって、上述した制御部6及びデータ処理部5における各機能ブロックの機能が達成されるようにすることができる。
【0027】
本実施形態のイメージング質量分析装置における特徴的な分析動作の一例を、図2図4を参照して説明する。図2図4はいずれも、試料Sの上面(x-y面に平行な面)を上から見た状態の図である。
【0028】
まず、本実施形態のイメージング質量分析装置においてMSイメージングデータを収集するための測定時の動作を、図2A及び図2Bにより説明する。
【0029】
本実施形態のイメージング質量分析装置では、例えばユーザーにより予め指定された試料上の所定の測定領域内における、多数の微小領域についてのマススペクトルデータをそれぞれ取得する必要がある。いま一例として、試料S上の測定領域100は図2A及び図2Bに示すように上面視で矩形状であるものとする。一般的な走査型(いわゆる投影型ではない)のイメージング質量分析装置では、測定領域100内の多数の微小領域についてそれぞれ質量分析を順番に行うことによって、全ての微小領域に対するマススペクトルデータを取得する。それに対し、このイメージング質量分析装置では、次のように一つの測定領域100に対する測定(質量分析の繰り返し)を2回実行する。
図2Aは、1回目の測定の際における各質量分析の分析範囲101Aを示す図であり、図2Bは2回目の測定の際における各質量分析の分析範囲101Bを示す図である。
【0030】
上述したように、t-SPESIイオン源を用いた質量分析装置では、プローブ11を所定の周波数(通常はプローブ11自体の共振周波数に近い周波数)で振動させつつ、上面視でプローブ11の延伸方向(図1ではx軸方向)と同じ方向に直線状に試料S(又はプローブ11自体)を移動させることで、その移動方向に沿って所定の分析範囲の質量分析が繰り返し実施される。試料Sの移動速度つまりは走査速度を速くすると、プローブ11の先端が試料Sに接している時間中のその走査方向の移動距離が長くなるので、分析範囲101Aは走査方向に広くなる。逆に、試料Sの移動速度を遅くすると、プローブ11の先端が試料Sに接している時間中のその走査方向の移動距離が短くなるので、分析範囲101Aは走査方向に狭くなる。一方、試料S上で走査方向に直交する方向の分析範囲101Aの大きさは、プローブ11先端のサイズによって決まる。
【0031】
即ち、所定のm/z範囲に亘るマススペクトルデータが得られる試料S上の最小単位である分析範囲101Aの大きさに関し、走査方向に直交する方向(y軸方向)の大きさは構造的に決まっており、走査方向(x軸方向)の大きさはその走査速度に応じて可変である。そこで、図2A図2Bに示した例では、分析範囲101A、101Bの走査方向の大きさがそれに直交する方向の1/3程度になるように走査速度を調整する。ここでは、プローブ11先端の大きさに依存して決まる分析範囲101A、101Bの1辺の長さをL、励振周波数及び走査速度に依存して決まる他方の辺の長さをL/3とする。
【0032】
1回目の測定として、制御部6は、試料Sをx軸方向に移動させながらプローブ11を振動させて質量分析を繰り返すように各部を制御する。これにより、図2Aに示すように、測定領域100のX方向(このときにはx軸方向に一致している)の1行に並ぶn個の分析範囲101Aについてそれぞれ質量分析が実行される。プローブ11の先端が測定領域100の境界(図2Aでは右端)にまで達したら、試料Sをy軸方向にLに相当する距離だけ移動させるとともに、プローブ11先端が測定領域100の左端に来るように試料Sを移動させる。そして、測定領域100の左端から再び試料Sをx軸方向に移動させながら、プローブ11を振動させて質量分析を繰り返す。この動作を、分析範囲101Aが測定領域100全体をカバーするまで繰り返す。即ち、プローブ11の先端が試料Sに対してX方向にラスタースキャンするように試料Sは移動される。
【0033】
上記1回目の測定が終了すると、制御部6は、試料Sをz軸の周りに90°回転させるようにステージ駆動部17により試料ステージ14を回転させる。この状態において1回目の測定時と同様に、プローブ11を振動させつつ試料Sをx軸方向に移動させると、その走査方向は図2Bに示すように測定領域100のY方向となる。1回目の測定時と同様に、x軸方向に試料Sを移動させながら質量分析を繰り返し、プローブ11の先端が測定領域100の境界(図2Bでは下端)にまで達したら、試料Sをy軸方向にLに相当する距離だけ移動させる。そして、測定領域100の上端から再び試料Sをx軸方向に移動させながら、プローブ11を振動させて質量分析を繰り返す。この動作を、分析範囲101Bが測定領域100全体をカバーするまで繰り返す。これが2回目の測定である。
【0034】
上記1回目の測定と2回目の測定とによって、測定領域100の全体は概ね2回測定される。なお、図2A及び図2Bでは、試料S上の測定領域100全体において矩形状の分析範囲101A(又は101B)が敷き詰められた状態となっているが、実際には、プローブ11先端が試料Sから離間してエレクトロスプレーによるイオン化が行われている間にも試料Sは移動するため、分析範囲101A(又は101B)は走査方向(x軸方向)に完全に敷き詰められるわけではなく、一つの分析範囲101A(又は101B)と走査方向に隣接する分析範囲101A(又は101B)との間には実質的に分析が実施されていない隙間が形成され得る。
【0035】
一つの分析範囲101A又は101Bの大きさは概ねL×(L/3)である。従って、例えば図2Aに示す測定領域100中の左上部には、図3に示すように、1回目の測定の際の3個の分析範囲101Aと2回目の測定の際の3個の分析範囲101Bとが重なり合った、大きさがL×Lである略正方形状の範囲が存在する。ここでは、このような測定領域100内のX方向に並ぶ3個の分析範囲101AとY方向に並ぶ3個の分析範囲101Bが含まれる範囲を解析範囲102という。
【0036】
図3に示すように、一つの解析範囲102は、見かけ上、縦横の一辺の長さがL/3である9個の正方形状の微小領域103に区分されている。仮に、この微小領域103毎にマススペクトルデータが求まれば、1回目の測定又は2回目の測定による分析範囲101A(又は101B)毎に得られたマススペクトルデータに比べて空間分解能(解像度)は3倍である。しかしながら、実際の測定で得られるのは、各分析範囲101A及び101Bに対するマススペクトルデータである。そこで、本実施形態のイメージング質量分析装置では、一つの解析範囲102において得られている、該解析範囲102に包含される、X方向に並ぶ3個の分析範囲101A、及びY方向に並ぶ3個の分析範囲101Bの合計6個の分析範囲に対するマススペクトルデータから、該解析範囲102に包含される9個の微小領域103に対するマススペクトルデータを計算によって求める。
【0037】
いま、まず図3に示す例を考える前に、より簡単である、図4に示すように、一つの解析範囲102が2×2の4個の微小領域103に区切られ得る場合を考える。この場合、4個の微小領域P11、P12、P21、P22に対するマススペクトルデータが未知の値であり、既知の値は、X方向に並ぶ2個の分析範囲101A(X1、X2)、及びY方向に並ぶ2個の分析範囲101B(Y1、Y2)におけるマススペクトルデータである。1個の分析範囲101A、101Bに対するマススペクトルデータにおける或るm/z値の信号強度は、その分析範囲101A、101Bに含まれる複数の微小領域103に対するマススペクトルデータにおけるそのm/z値の信号強度の和となる筈である。従って、次の四つの式を含む連立方程式が成り立つ。
<P11>+<P12>=<X1>
<P21>+<P22>=<X2>
<P11>+<P21>=<Y1>
<P12>+<P22>=<Y2>
但し、ここで<*>は、分析範囲101A、101B又は微小領域103において得られた各m/z値の信号強度であり、加算記号+はm/z値毎の加算を示す。
【0038】
即ち、図4の例では、未知数と式の数とが同じであるから、この場合、演算処理部52は、上記連立方程式を解くことで、四つの未知数<P11>、<P12>、<P21>、<P22>についての正確な値を求め得る。空間分解能の向上は元の空間分解能の2倍であり、一つの測定領域100を2回測定したことによって2倍の空間分解能の向上の効果が得られる。空間分解能の向上の効果は必ずしも高くないが、プローブ11先端のサイズを小さくすることなく、空間分解能を向上させることができるという点で十分なメリットがある。
【0039】
次に、図3に示したように、一つの解析範囲102が3×3の9個の微小領域103に区切られている場合を考える。この場合、9個の微小領域P11、P12、P13、P21、P22、P23、P31、P32、P33に対するマススペクトルデータが未知の値であり、既知の値は、X方向に並ぶ3個の分析範囲101A(X1、X2、X3)及びY方向に並ぶ3個の分析範囲101B(Y1、Y2、Y3)に対するマススペクトルデータである。従って、次の六つの方程式が成り立つ。
<P11>+<P12>+<P13>=<X1>
<P21>+<P22>+<P23>=<X2>
<P31>+<P32>+<P33>=<X3>
<P11>+<P21>+<P31>=<Y1>
<P12>+<P22>+<P32>=<Y2>
<P13>+<P23>+<P33>=<Y3>
【0040】
この場合、式の数よりも未知数が多いため、上述したように連立方程式を解いて正しい解を求めることはできない。そこで、演算処理部52は、例えば部分最小二乗法(Partial Least Squares)などの周知の重回帰分析の手法を用いることで、近似的な解を求める。回帰としては、単純な線形回帰モデルを用いることができる。ここで使用される部分最小二乗法などの解法は、一般的な数値解析ソフトウェアに搭載されており、よく知られているので詳しい説明を省く。この場合、空間分解能の向上は元の空間分解能の3倍である。
【0041】
上述したように、測定領域100に含まれる各微小領域103におけるマススペクトルデータは、m/z値毎の信号強度値について上述したような連立方程式を解く演算又は重回帰分析による近似値の演算を行うことで求めることができる。そうして算出されたデータは、測定領域100内における各微小領域103の位置を示す情報(座標情報)に対応付けてデータ格納部に保存される。
【0042】
ユーザーが入力部8において観察したいm/z値を指定したうえで画像表示の指示を行うと、これを受けてMSイメージング画像作成部53は、指定された微小領域毎の指定されたm/z値における信号強度値をデータ格納部51から読み出す。そして、その信号強度値を2次元的に配置し、例えば所定のカラースケールに従って信号強度値を色に変換することでMSイメージング画像を作成する。そして、この画像を表示部9の画面上に表示する。測定時の空間分解能よりも高い空間分解能を持つMSイメージング画像を表示することができる。
【0043】
もちろん、さらに空間分解能を上げるように上記実施形態のイメージング質量分析装置を変形することができる。具体的には、略正方形状である一つの解析範囲102が4×4の16個の微小領域103に区切られるように、1回目及び2回目の測定を実行する。その場合には、未知の値の数が16、既知の値の数が8であり、八つの方程式が成り立つ。このように、未知の値の数が既知の値の数と乖離するほど、重回帰分析による近似の精度が低下する(つまり誤差が大きくなる)から、MSイメージング画像の空間分解能は向上するものの各微小領域の信号強度の精度は低下し、目的成分の分布の正確性は下がる。従って、原理的には一つの解析範囲102をさらに細かく区切ることが可能であるものの、実用的には、一つの解析範囲102を3×3の9個、又は4×4の16個の微小領域103に区切る程度とすることが好ましい。
【0044】
また、上記説明では、1回目の測定において得られたマススペクトルデータと同じ測定領域100に対して2回目の測定において得られたマススペクトルデータとを実質的に平等に扱ったが、試料Sの種類等にも依存するが、多くの場合、1回目の測定時に試料S表面に存在する成分の多くは抽出されてしまうため、2回目の測定時に試料S表面に残存している成分の量は1回目の測定時に比べてかなり減少する。そのため、2回目の測定時には1回目の測定時に比べて全体的に信号強度が低下することが避けられない。そこで、上述したように連立方程式を立ててそれを解くことで又は重回帰分析を利用することで解を導出する際に、2回目の測定時の信号強度の低下を補正する処理を行うとよい。
【0045】
具体的には、例えば連立方程式を立てる際に、2回目の測定において収集された信号強度値には1以上の適宜の値である補正係数を乗じる処理を行うようにすることができる。この補正係数は例えば実験的に決めておくことができる。
これにより、同じ測定領域100内の同じ部位を2回測定する際に2回目の測定時における感度が下がった場合であっても、その影響を軽減して各微小領域におけるマススペクトルデータの算出精度を高めることができる。
【0046】
また、上記実施形態のイメージング質量分析装置は、t-SPESIイオン源を用いていたが、イオン源はこれに限るものではなく、上述したように、矩形状又はそれ以外の所定形状の分析範囲が試料上で一方向に並ぶように繰り返し質量分析が可能である方式のイオン源を用いることができる。例えば脱離エレクトロスプレーイオン化(DESI:Desorption Electrospray Ionization)法などを用いることができる。
【0047】
また、原理的には、同じ測定領域に対する第1の測定の走査方向と第2の測定の走査方向とは互いに直交していなくてもよいし、また、一つの分析範囲の平面形状は矩形状でなくてもよい。但し、そうした場合には微小領域毎のマススペクトルデータの演算が複雑になるため、実用的には、上記例のように、一つの分析範囲の平面形状を矩形状とし、第1の測定の走査方向と第2の測定の走査方向とを互いに直交させるようにするのがよい。
【0048】
また、上記実施形態や変形例は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは明らかである。
【0049】
[種々の態様]
上述した例示的な実施形態が以下の態様の具体例であることは、当業者には明らかである。
【0050】
(第1項)本発明に係る質量分析装置の一態様は、
所定形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を試料上で所定の第1方向に移動させながら繰り返し実行する第1の測定動作と、前記分析範囲と同じ形状の分析範囲についての質量分析を、該分析範囲を前記試料上で前記第1方向と交差する第2方向に移動させながら繰り返し実行する第2の測定動作と、を実行する測定部と、
前記試料上で前記測定部による前記第1の測定動作における一つの分析範囲と前記第2の測定動作における一つの分析範囲とが重なる部分において、該重なる部分の領域における質量分析データを、該重なる部分をそれぞれ含む二つの分析範囲、及び該二つの分析範囲にそれぞれ重なる他の分析範囲においてそれぞれ得られた質量分析データを用いて計算する又は推定する演算部と、
を備える。
【0051】
第1項に記載の質量分析装置において、所定形状とは特にその形状は限定されないものの、典型的には略矩形状であるものとすることができる。また、第1方向と第2方向が交差する際の角度も特に限定されないものの、典型的には90°つまり第1方向と第2方向とは直交するものとすることができる。所定形状が略矩形状であって、第1方向と第2方向とが直交する場合、第1方向は略矩形状の分析範囲の一方の辺に沿った方向で、第2方向は該分析範囲の他方の辺に沿った方向とすることができる。
【0052】
第1項に記載の質量分析装置において、第1の測定動作における質量分析の対象である一つの分析範囲と第2の測定動作における質量分析の対象である一つの分析範囲とは少なくとも或る部分において重なる。その重なる部分の面積はその部分を含む二つの分析範囲のいずれよりも小さい。演算部は、この重なる部分の領域におけるマススペクトルデータを、該重なる部分をそれぞれ含む二つの分析範囲、及び該二つの分析範囲にそれぞれ重なる他の分析範囲においてそれぞれ得られたマススペクトルデータを用いて求める。これにより、第1項に記載の質量分析装置によれば、例えばt-SPESIイオン源におけるプローブ先端のサイズに依存して決まる解像度よりも高い解像度のMSイメージング画像を取得することができる。
【0053】
(第2項)第1項に記載の質量分析装置において、前記分析範囲は略矩形状の範囲であり、前記第1方向は該分析範囲の一方の辺が延伸する方向、前記第2方向は該分析範囲の他方の辺が延伸する方向であるものとすることができる。
【0054】
(第3項)第2項に記載の質量分析装置では、矩形状である前記分析範囲の一方の辺の長さは他方の辺の長さのn分の1(nは2以上の整数)であって、前記測定部は、前記第1の測定動作において質量分析される第1方向に並ぶn個の分析範囲の全体を略正方形状の範囲とし、その略正方形状の範囲に前記第2の測定動作において質量分析される第2方向に並ぶn個の分析範囲が重なるように、前記第1の測定動作及び前記第2の測定動作を実施するものとすることができる。
【0055】
第2項及び第3項に記載の質量分析装置によれば、第1の測定動作において質量分析される第1方向に並ぶn個の分析範囲全体を一つの解析範囲として、解析範囲毎に、各分析範囲に対して取得された質量分析データを既知の値、第1方向に並ぶn個の分析範囲のうちの一つと第2方向に並ぶn個の分析範囲のうちの一つとが重なる部分における質量分析データを未知の値とした、複数の式から成る連立方程式を容易に立てることができる。それによって、演算部における質量分析データを用いた演算が簡単になり、目的とする微小領域毎の質量分析データを迅速に求めることができる。
【0056】
(第4項)第3項に記載の質量分析装置において、前記演算部は、分析範囲に対して得られた質量分析データを既知の値、前記第1の測定動作において質量分析される第1方向に並ぶ一つの分析範囲と前記第2の測定動作において質量分析される第2方向に並ぶ一つの分析範囲とが重なる領域に対する質量分析データを未知の値として、式の数よりも未知の数の方が多い連立方程式を立て、該連立方程式から近似解として未知の値を求めるものとすることができる。
【0057】
(第5項)第4項に記載の質量分析装置において、前記演算部は、線形近似法により前記近似解を求めるものとすることができる。
【0058】
第3項に記載の質量分析装置では、nの値が大きいほど空間分解能が向上する。但し、nの値には計算上の制約がある。例えばn=2では、連立方程式の式の数が4、未知の値の数は4であるので、連立方程式を解いて真値(推定値ではない)を得ることができる。一方、nが3以上の場合には、連立方程式の式の数よりも未知の値の数の方が多くなるため、そのまま連立方程式を解くことができない。それに対し、第4項又は第5項に記載の質量分析装置では、連立方程式から近似解を求めることで未知の値を算出するので、真値ではないものの、真値に比較的近い値を得ることができ、それによって概ね正確な化合物の2次元分布画像を作成することができる。
【0059】
(第6項)第1項~第5項のいずれか1項に記載の質量分析装置において、前記演算部は、前記第1の測定動作と前記第2の測定動作とにおける検出感度の差を補正する処理を行うものとすることができる。
【0060】
イオン化の手法に関係なく、試料上の同じ部位を複数回質量分析すると、目的とする試料成分の量が減り、検出感度が低下する。これに対し、第6項に記載の質量分析装置によれば、同じ部位に対して2回目の質量分析によって得られたデータが補正されるため、検出感度の低下の影響を軽減し、複数の分析範囲が重なっている部分の質量分析データをより精度良く算出することができる。
【0061】
(第7項)第1項~第6項のいずれか1項に記載の質量分析装置において、前記測定部は、タッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン(t-SPESI)法によるイオン源を有する質量分析装置であるものとすることができる。
【0062】
t-SPESI法によるイオン源では、プローブと試料との間の相対的な移動速度(走査速度)を調整することで、その移動方向における分析範囲の大きさを調整することができる。また、分析範囲の形状を略矩形状にすることも可能である。こうしたことから、t-SPESI法によるイオン源を有する質量分析装置は、本発明に好適な質量分析装置の一つである。
【符号の説明】
【0063】
1…イオン化室
11…プローブ
12…励振部
13…プローブ保持部
14…試料ステージ
15…プローブ駆動部
16…高電圧発生部
17…ステージ駆動部
2、3…中間真空室
21…脱溶媒管
22、31…イオンガイド
23…スキマー
4…分析室
41…質量分離器
42…イオン検出器
5…データ処理部
51…データ格納部
52…演算処理部
53…MSイメージング画像作成部
6…制御部
7…電圧生成部
8…入力部
9…表示部
C…イオン光軸
図1
図2A
図2B
図3
図4