【文献】
麻布大学雑誌, (2005), Vol. 11・12, p. 114-122
【文献】
青森臨産婦誌, (2006), Vol. 21, No. 1, p. 16-31
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
【発明を実施するための形態】
【0031】
(精子用希釈液)
凍結精子においては、融解後に精子の機能障害が生じることで精子が死滅し、人工授精における受精率が低いこと、そして、精漿が添加された希釈液を用いた場合に、この機能障害が抑制され、高い繁殖成績を示していることを本発明者らは見出した。そして、この機能障害に、カルシウムイオンの存在が精子の運動性とタンパク質のチロシン残基のリン酸化に影響を与えていることを見出し、本実施の形態に係る精子用希釈液を完成させた。
【0032】
本実施の形態に係る精子用希釈液は、後述する基礎希釈液にカルシウムイオンと錯体を形成するキレート剤が含有されている。精子用希釈液がキレート剤を含有していることにより、凍結精子を融解した際に、カルシウムイオンの関与によって生じる精子のタンパク質のリン酸化を抑制し、機能障害が抑制される。
【0033】
より詳細に説明すると、精子の中片部にはミトコンドリアが存在し、ここで精子の運動に用いられるエネルギー(ATP)が生産されている。ミトコンドリア(より詳細にはATPを生産する酵素)に、カルシウムイオンが作用すると、ATPの生産が活性化されるので、精子が激しく運動することになるが、精子が早々に活性化されると、精子が卵管に辿り着く前に死滅してしまう。
【0034】
本実施の形態に係る精子用希釈液では、希釈液中にキレート剤が含有されており、このキレート剤がカルシウムイオンと錯体を形成することで、カルシウムイオンが精子のミトコンドリアに作用することを抑制している。
【0035】
本実施の形態に係る精子用希釈液は、基礎希釈液にカルシウムイオンと錯体を形成するキレート剤を添加することで得られる。
【0036】
ここで、基礎希釈液とは、採精された精液を室温下で一定時間、その精液中の精子の有する機能を低下させずに保持できるように調製された希釈液であり、グルコース、クエン酸ナトリウム、重炭酸ナトリウム、EDTA−2Na、クエン酸、トリス、塩化カリウム等の成分を含んでいる液体である。基礎希釈液として、この分野で通常用いられる液体であれば特に限定されないが、例えば、モデナ液(0.15Mグルコース、26.7mMクエン酸ナトリウム、11.9mM炭酸水素ナトリウム、15.1mMクエン酸、6.3mM EDTA−2Na、46.6mMトリスおよび1,000IU/mlペニシリン)等が挙げられる。
【0037】
キレート剤として、カルシウムイオンと特異的に錯体を形成する物質であれば、特に限定されないが、エチレングリコール四酢酸(EGTA(ethylene glycol Bis(2−aminoethyl)−N,N,N’,N’−tetraacetic acid))を用いることが好ましい。EGTAはカルシウムイオンと特異的に錯体を形成するので、精子のミトコンドリアにカルシウムイオンが作用することを効果的に抑制できる。
【0038】
また、EGTAとともに、エチレンジアミン四酢酸(EDTA(ethylenediaminetetraacetic acid))を用いることが好ましい。EDTAは、カルシウムイオンの他、マグネシウムイオンや亜鉛イオン等、種々の二価イオンと錯体を形成する物質である。
【0039】
EDTA及びEGTA双方を添加すれば、EDTAでキレート化できなかったカルシウムイオンをEGTAでキレート化することができ、基礎希釈液に存在するほとんどのカルシウムイオンをキレート化できることになる。例えば、キレート剤としてEDTAのみを用いる場合、全てのカルシウムイオンをEDTAでキレート化しようとすれば、基礎希釈液に添加するEDTAの濃度を高くしなければならない。基礎希釈液には、カルシウムイオン以外のマグネシウムイオンや亜鉛イオン等、種々の二価イオンが含まれており、EDTAの濃度が高すぎると、これらの二価イオンまで過剰にキレート化されるおそれがあり、精子機能(受精)に影響を及ぼしかねない。このため、EDTA及びEGTA双方を添加することが好ましい。
【0040】
EDTAとEGTAの双方を添加する場合、後述の実験結果から、精子用希釈液中のEDTAの濃度が3〜9mM/L程度、EGTAの濃度が3〜9mM/L程度であることが好ましく、より好ましくは、EDTAの濃度が6.3mM、EGTAの濃度が6mMである。
【0041】
更に、精子用希釈液には、子宮内で精子や胚等が白血球によって貪食されないよう、免疫抑制因子が含有されていることが好ましい。精子は雌にとって異物であるので、精子が子宮内に侵入すると好中球やマクロファージなどの白血球が遊走され、精子や胚が貪食されて着床率に影響を与えるからである。
【0042】
着床率とは、卵子の数に対する子宮内胎子の割合である。特に、ブタ等の多胎動物では、10〜20の卵子が排卵されるので、生産効率上、一度により多くの卵子を受精させ、多数の胎子を出産させることが要求される。
【0043】
自然交配においては、上述の貪食は生じにくいことから、精液中の精漿には白血球の遊走を抑制する免疫抑制因子が含まれており、この免疫抑制因子が過剰な白血球増加を抑制し、その後の胚への攻撃を防いでいるものと考えられる。
【0044】
したがって、精子用希釈液に、白血球の遊走を抑制し得る免疫抑制因子が含有されていれば、精子や胚が貪食されることを抑制でき、着床率の向上が実現できる。
【0045】
この免疫抑制因子として、ステロイドホルモンやサイトカインが好ましい。
【0046】
ステロイドホルモンとしては、精漿に含まれている成分であるコルチゾール(cortisol)が好ましい。希釈液にコルチゾールを含有させることによって、細胞性免疫機構が機能しないようにし、白血球等の遊走がブロックされる。これにより精子や胚の貪食が抑制され、着床率の向上が実現される。
【0047】
ブタの人工授精に用いる場合、1回の人工授精で用いる精子用希釈液中に添加するコルチゾール量は、100ng〜10,000ng程度であることが好ましい。より好ましくは、500ng〜5,000ngである。これは、自然交配における雄ブタから射出される全精漿中に含まれるコルチゾール量とおよそ同量である。
【0048】
なお、コルチゾールは元来精漿に含まれていること、子宮内に注入後1〜2日間で分解されて体外へ排出されること、また、局所的に注入するので体全体に広がらないことから、生体に悪影響を及ぼすことがなく、奇形の子豚が出産される等の弊害が生じるおそれはない。
【0049】
また、他のステロイドホルモンとして、コルチゾール誘導体であるデキサメタゾン(dexamethasone)、プレドニゾロン(prednisolone)、或いはハイドロコルチゾン(hydrocortisone)等についても、コルチゾールに化学変化し、同様の免疫抑制作用を奏すると考えられるので、これらを用いてもよい。
【0050】
サイトカインとしては、マクロファージ遊走阻止因子(MIF(macrophage migration inhibitory factor))、Serpin E1等が好ましい。マクロファージ遊走因子、及び、Serpin E1は、いずれも精漿中に含まれている物質である。
【0051】
マクロファージ遊走阻止因子、及び、Serpin E1等のサイトカインは、シグナル伝達物質であり、子宮内に好中球やマクロファージなどの白血球が不必要に集積されることを抑え、免疫抑制作用を発揮する。
【0052】
(人工授精方法)
上述した精子用希釈液を用いた人工授精方法について説明する。例示として、以下にブタの人工授精方法について説明する。
【0053】
雄ブタの精液から精漿を除去して凍結しておいた凍結精子を融解し、融解後即座に精子用希釈液に添加して、人工精液を調製する。または、凍結精子の融解時に、凍結精子を精子用希釈液に添加しておいてもよい。
【0054】
より詳細には、凍結精子の融解は、精子を5mlストローに充填して凍結したものを用いる場合、37℃で60秒間、0.5mlストローの場合では35℃で20秒間、好ましくは37℃で20秒間、より好ましくは70℃で8秒間、最も好ましくは60℃の温水中で8秒間行うとよい。或いは、凍結精子に直接精子用希釈液を添加してもよい。
【0055】
一回のブタの人工授精に用いる人工精液の量は50ml程度であり、人工精液中の精子の終濃度が、1×10
6細胞/ml〜1×10
9細胞/ml、好ましくは1×10
8細胞/mlのオーダーになるように調製すればよい。
【0056】
そして、発情期を迎えた雌ブタの子宮内に、調製した人工精液を注入することで、人工授精を行うことができる。
【0057】
雌ブタでは、人工授精後、凡そ114日齢で分娩に至る。分娩後、子ブタが20〜40日齢のほ乳期間を経て離乳し、離乳して4日後程で雌ブタに発情が再来する。雌ブタの再発情に合わせて、上記と同様に人工授精を行うとよい。このようなサイクルで人工授精を行うことで、一頭の雌ブタの一生涯に、より多くの子ブタを出産させることができる。
【0058】
なお、精子用希釈液は、冷凍庫で簡易に保管可能である。このため、必要なときに融解して用いることができ、雌ブタ等の発情期のタイミングに合わせて容易に用いることができる。
【0059】
本実施の形態に係る精子用希釈液で希釈される凍結精子は、精液から精漿を除去して凍結した凍結精子を用いることが好ましい。これにより、完全な無菌状態での人工授精を行うことができ、例えば、特定疾病フリー SPFブタの生産にも用いることができる。
【0060】
また、哺乳動物の種別によっては、精液を凍結する際に、精漿が凍結に悪影響を及ぼして凍結を行えないため、人工授精が困難な場合がある。このような場合にも、精漿を除去して精子を凍結し、この凍結精子を本実施の形態に係る精子用希釈液で希釈することにより、人工授精を行うことができる。
【0061】
また、本実施の形態に係る精子用希釈液は、非ヒト哺乳動物のいずれの人工授精に用いてもよい。
【0062】
また、本実施の形態に係る精子用希釈液は、家畜等の非ヒト哺乳動物に対して利用できるが、特に、多胎動物の人工授精に好適に用いることができる。ブタ等の多胎動物においても着床率が高いため、一度に多数の胎子を出産させることができ、生産効率を高めることができる。
【0063】
また、ブタ等においても、優れた血統の雄ブタのみから採精した精子を用い、肉質改善などの育種改良等の繁殖技術の向上にも資する。
【0064】
また、精漿を全く用いないため、多数の種雄ブタ等を飼育する必要がない。
【0065】
(実験例1)
Ca
2+含有培地でブタの精子を培養し、Ca
2+が精子のタンパク質のチロシン残基のリン酸化に及ぼす影響について検討した。
【0066】
Ca
2+含有培地として、mTBM(modified Tris−buffer medium)を用いた。mTBMの組成を表1に示す。
【表1】
【0067】
また、ブタの精子は、以下のようにして採精、凍結したものを用いた。採精に使用する雄ブタを、それぞれ個々の豚房で別々に飼育し、朝、夕の2回、計2.5kgの種ブタ用飼料を給餌した。ブタには、日本脳炎・ブタパルボウイルス感染症ワクチンの接種を行った。本検討には、ブタ繁殖・呼吸障害症候群(PRRS)、オーエスキー病に対して抗体陰性のブタを選択した。採精は、1週間間隔をあけて行った。採精前は、餌食い、病気の兆候等を確認し、良好なブタであることを確認し、ブタを興奮させないように採精を行った。
【0068】
疑牝台を雄ブタの豚房に入れ、雄ブタを台にのせ、ペニス及び包皮内を生理食塩水で洗浄し、尿を除去した。採精は手圧法で行い、予め滅菌したカップにガーゼをかぶせ、精液と共に出るゼリー状の物質である膠様物を除去しながら、精液をカップに入れた。精液は、はじめの50〜100mLの濃厚部(全精液量の約8割の精子が存在する)のみを採取し、採精後遠心分離によって精漿を精液から即座に除去した。
【0069】
その後、前処理液を用いて精子を希釈し、2.5時間かけて15℃にし、遠心による上清除去後、浸透圧400mOsm/kgの溶液中に約1.5時間維持しながら、4〜5℃まで冷却した。なお、用いた溶液は、NSF(Niwa and Sasaki freezing extender;80%(v/v), 0.31mol Lactose monohydrate, 20%(v/v) egg yolk, 1000U/ml penicillin G potassium, 1mg/ml streptomycin sulfate;浸透圧300mOsm/kg)を超純水にて、浸透圧400mOsm/kgに調製した溶液である。次に耐凍剤と0.15%のOEP(Orvus Es Paste界面活性剤)を添加した。また、二次希釈液を等量添加した。この場合の精子濃度を1×10
9細胞/mlにした。耐凍剤の添加後、30分程度、4〜5℃に保ち、その後、凍結した。凍結には、液体窒素を用いた。ストローに精漿を除去した精子を充填後、液体窒素表面から4cm程度離したところで、液体窒素蒸気中で10分間凍結し、その後、液体窒素中で保存しておいた。
【0070】
上述のようにして得られたブタの凍結精子を、60℃で8秒間融解し、Ca
2+含有培地(mTBM)に精子を添加して、精子の培養を行った。培養は3時間行った。
【0071】
また、参考例1として、精漿含有培地を用い、上記と同様に精子を添加して培養した。精漿含有培地は、上述のCa
2+含有培地(mTBM)に、終濃度が10%(v/v)となるように精漿を添加して調製した。なお、精漿は、上述のように、採精した精液から遠心分離によって精子を除去した後、更に、遠心分離により、その上清から固形物を除去することによって調製して用いた。
【0072】
また、参考例2として、Ca
2+不含培地を用い、上記と同様に精子を添加して培養した。Ca
2+不含培地は、上述のCa
2+含有培地(mTBM)からCa成分(CaCl
2・2H
2O)を除去して調製した。
【0073】
培養後、それぞれ精子を培養した培地を20μlずつ取り出して−80℃に保存し、タンパク質のチロシン残基のリン酸化検出に用いた。チロシン残基のリン酸化検出は、ウェスタンブロット法により検出した。
【0074】
ウェスタンブロット法によるチロシン残基のリン酸化検出は以下の通りである。−80℃で保存した精子にSDSサンプル緩衝液17μlを添加し、ピペッティングした。10,000rpmで2分間遠心し、超音波処理を2分間行い、その後、100℃で5分間加熱し、100Vで2時間程度泳動した。メンブランに転写し、5%BSA添加TBSでのブロッキング後、0.5%BSA及び0.1%Tween20を添加したTBS(20mM Tris−HCl、pH7.5、0.15M NaCl)に1:2,000希釈した抗リン酸化チロシン抗体(一次抗体、マウスIgG)を添加し、メンブランに12時間4℃で反応させた。0.1%Tween20を添加したTBSで2時間洗浄後、0.5%BSA及び0.1%Tween20を添加したTBSに1:2,000に希釈した抗マウスIgG抗体(二次抗体)を1時間反応させた。0.1%Tween20を添加したTBSで1時間洗浄した。発色基質を添加し、5分間反応させ、フィルムに感光させた。
【0075】
培養したそれぞれの精子における、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出結果を
図1に示す。
【0076】
Ca
2+含有培地で培養した精子では、
図1中の矢印で示すバンド付近に、強いタンパク質リン酸化バンドが検出された。Ca
2+含有培地では、リン酸化により、精子は正常な細胞膜を維持できなくなると考えられる。
【0077】
一方、参考例1における精漿含有培地で培養した精子では、同様の精子タンパク質チロシン残基のリン酸化バンドは検出されず、精漿が添加されたことにより、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化が生じなかったものと考えられる。また、参考例2におけるCa
2+不含培地で培養した精子では、若干のタンパク質リン酸化バンドが検出された。これは、Ca成分(CaCl
2・2H
2O)を除去したものの、mTBMには純水が用いられており、この純水中に存在する微量なCa
2+の影響と考えられる。
【0078】
上記の結果から、カルシウムイオンの存在が精子の機能障害に関与することがわかり、凍結精子の希釈液においては、Ca
2+が精子に作用することを抑制することが、人工授精後の受胎率向上のため必須であることがわかった。
【0079】
(実験例2)
培地にキレート剤を添加してブタの精子を培養することにより、精子の運動性低下、精子先体損傷率、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化が抑制されるか否かを検証した。
【0080】
まず、EDTA添加による影響について検証した。
【0081】
EDTAの濃度がそれぞれ0mM、3mM、6.3mM、12mMの培地を調製した。EDTA0mM培地、EDTA3mM培地は、モデナ液からEDTA−2Naを除去し、EDTA濃度をそれぞれ0mM、3mMに調製した。また、EDTA6.3mM培地は、モデナ液をそのまま用いた。また、EDTA12mM培地は、モデナ液にEDTA−2Naを添加してEDTA濃度を12mMに調製した。
【0082】
それぞれの培地に、実験例1と同様に凍結精子を融解して添加し、精子を培養した。培養時間は、1時間、3時間、6時間とした。
【0083】
培養後、運動性解析装置(computer−assisted perm motility analysis(CASA)system)を用いて、精子運動率を算出した。38℃に温まったプレートの上に培養後の培地5μlを載せて、コンピュータで動いている精子の割合を解析した。
【0084】
図2に、培養したそれぞれの精子運動率を示す。
【0085】
いずれの培養時間においても、EDTA6.3mM培地で培養した精子が、最も精子運動率が高い結果となった。
【0086】
続いて、EGTA添加による影響について検証した。本検証は、上記の精子運動率が最も高かったEDTA6.3mM培地(モデナ液)に、更にEGTAを添加した培地で精子を培養し、培養後の精子運動率の測定、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出、精子先体損傷率の測定を行った。
【0087】
まず、EGTA0mM培地、EGTA3mM培地、EGTA6mM培地、EGTA9mM培地を調製した。EGTA0mM培地はモデナ液をそのまま用いた。また、EGTA3mM培地、EGTA6mM培地、EGTA9mM培地は、モデナ液に、それぞれEGTAを添加して、培地中のEGTA濃度をそれぞれ3mM、6mM、9mMに調製して用いた。なお、EGTAを添加すると培地中pHが酸性に傾くため、NaOHを添加してpH7.0〜7.1に調製した。
【0088】
それぞれの培地に、実験例1と同様に、凍結精子を融解して添加し、精子を培養した。培養時間は、1時間、3時間、6時間とした。
【0089】
培養したそれぞれの精子について、精子運動率の測定、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出、精子先体損傷率の測定を行った。
【0090】
精子運動率の測定、及び、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出については、上記と同様に行った。また、精子先体損傷率の測定は、以下のように行った。スライドガラスに培地を5μl塗抹して風乾し、99%メタノールにて10分間固定した。メタノールの乾燥後、リキッドペンでマーキングした。FITC−peanut lectinを塗抹精子に添加(1サンプルにつき凡そ30μl)し、37℃湿潤条件で30分間インキュベートした。その後PBSで洗浄(5分間×3回)し、DAPI(VECTOR、VECTASHIELD with DAPI,H−1200)にて封入し、マネキュア封入した後に、観察した。
【0091】
精子運動率の測定結果を
図3に、3時間培養後の精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出結果を
図4に、精子先体損傷率の測定結果を
図5にそれぞれ示す。
【0092】
精子希釈液にEGTAが含有されていると、EGTAが含有されていない場合に比べて、精子運動率が高く、また、精子先体損傷率が低くなっている。そして、EGTA6mM培地にて培養した精子が、精子運動率が最も高く、また、チロシン残基のリン酸化が最も抑制されている。そして、精子先体損傷率も低いことがわかる。この結果から、精子用希釈液にはEDTAに加え、EGTAが含有されていると効果が大きくなること、更に、EGTAが6mM程度含有されているとより効果が大きいことがわかる。
【0093】
また、精子の細胞内に取り込まれたカルシウムイオンの観察を行った。
【0094】
EDTA含有培地、及びEDTA・EGTA含有培地に、ブタの凍結精子を融解してそれぞれ添加した。EDTA含有培地として、モデナ液を用いた。EDTA・EGTA含有培地は、モデナ液にEGTAを添加し、EGTA濃度を6mMに調製して用いた。
【0095】
それぞれの培地に5μMのFLUO3/AMと0.02% Pluronic F127を添加し、37℃で、30分間暗室で培養し、精子の細胞内にFLUO3を取り込ませた。
【0096】
その後、遠心分離にて上澄みを除去し、新しいそれぞれの培地を精子に添加した。そして、それぞれの培地5μlをスライドに取り出し、蛍光顕微鏡にて観察した。その結果を
図6に示す。
【0097】
FLUO3は、カルシウムイオンと結合して蛍光を発する物質である。精子の細胞内に、培地中に存在するカルシウムイオンが取り込まれると、細胞内でFLUO3とカルシウムイオンが結合し、緑色に蛍光発色する。
図6を見ると、各培養時間において、EDTA含有培地で培養した精子では、EDTA・EGTA含有培地で培養した精子に比べ、強く発光している。特に、培養時間の増加につれて、EDTA含有培地で培養した精子では、非常に強く発光をしているが、EDTA・EGTA含有培地で培養した精子では、わずかに中片部が発光しているに留まる。EGTAにより、培地中のカルシウムイオンが精子に取り込まれることを抑制できていることがわかる。
【0098】
続いて、EDTA含有培地、EDTA・EGTA含有培地、及び、精漿含有培地にてブタの精子を培養し、培養したそれぞれの精子について、チロシン残基のリン酸化検出、及び、精子運動率の測定を行った。
【0099】
EDTA含有培地として、モデナ液(EDTA6.3mM)をそのまま用いた。EDTA・EGTA含有培地は、モデナ液にEGTAを加え、EGTA濃度が6mMになるように調製した。精漿含有培地は、モデナ液に終濃度が10%(v/v)となるように精漿を添加して調製した。凍結精子を融解してそれぞれの培地に添加し、1時間精子を培養した。
【0100】
培養したそれぞれの精子について、精子タンパク質チロシン残基のリン酸化検出を行った。その結果を
図7に示す。
【0101】
EDTA含有培地、及び、精漿含有培地で培養した精子では、矢印で示す位置に弱いタンパク質リン酸化バンドが検出されているが、EDTA・EGTA含有培地では、同様の位置にタンパク質リン酸化バンドが全く検出されず、タンパク質のリン酸化が完全に抑制されていることがわかる。
【0102】
更に、培養後のそれぞれの精子について、精子運動率を測定した。その結果を
図8に示す。
【0103】
図8における精子運動率の結果から、精漿含有培地で培養した精子よりも、EDTA・EGTA含有培地で培養した精子の方に、高い運動性が認められた。
【0104】
このように、EDTA・EGTA含有培地で培養した精子では、タンパク質のチロシン残基のリン酸化が生じていないことから、融解後の精子の細胞膜が正常であり、更に、精子運動率の向上も認められた。したがって、基礎希釈液にEDTA・EGTA等のカルシウムイオンと錯体を形成するキレート剤を含有させることにより、精漿不添加の精子用希釈液を調製できることがわかる。
【0105】
以上の実験結果より、凍結精子融解後のタンパク質チロシン残基のリン酸化が原因で起こる精子の活性化や先体の損傷にはカルシウムイオンが関与しており、希釈液にカルシウムイオンをキレートするEDTA、EGTAを添加することで、精子細胞内のカルシウムイオン増加と、それに伴う活性化や先体の損傷を抑制することができ、結果的に精子の運動性が持続することが裏付けられた。
【0106】
(実施例1)
EDTA及びEGTAを含有する精子用希釈液にブタの凍結精子を添加して調製した人工精液を用い、ブタの人工授精を行った。
【0107】
まず、EGTAをモデナ液に添加し、精子用希釈液を調製した。EDTAの濃度は6.3mM、EGTAの濃度は6mMである。そして、実験例2と同様に、NaOHを添加して、pH7.0〜7.1に調節した。
【0108】
凍結精子を60℃で8秒間融解し、即座に精子用希釈液に添加し、人工精液(以下、人工精液A1と記す)を調製した。精子の濃度は1×10
8sperm/mlである。
【0109】
人工授精する雌ブタは、血清性性腺刺激ホルモン(PMSG)1,000IU/頭を注射し、そして、PMSG注射72時間後にヒト胎盤性性腺刺激ホルモン(hCG)750IU/頭を投与し、過排卵を誘起した。hCGを投与して40時間後に、上述のように調製した人工精液A1を50ml(総精子数50億)ほど雌ブタの子宮に注入し、人工授精を行った。
【0110】
人工授精後、21日目に超音波妊娠鑑定にて胎子をモニターで確認した。21日目に行うのは、ブタは21日周期で発情がくるため、受精後21日目に妊娠鑑定をする際、受精していない、若しくは受精卵が退行した等があれば、陰部は発情の兆候を示すためである。
【0111】
また、同時に21日目にノンリターン法にて再発情(リターン)がきているかどうかも確認し、妊娠を決定した。
【0112】
また、参考例として、モデナ液に精漿を添加して調製した精漿含有希釈液(精漿10%(v/v))に、上記同様、凍結精子を融解して調製した人工精液(以下、人工精液B1)を用い、上記と同様に人工授精を行った。
【0113】
そして、それぞれの受胎率と着床率を測定した。受胎率を表2に、着床率を表3にそれぞれ示す。なお、受胎率は、人工授精を行った頭数と受胎した頭数をカウントすることにより算出した。また、着床率は、6頭の雌ブタの総黄体数及び総子宮内胎子数をカウントすることにより算出した。
【表2】
【表3】
【0114】
EDTA・EGTAが添加された人工精液A1では、受胎率が90%と精漿10%添加された人工精液B1と同等の高い値であった。
【0115】
しかしながら、着床率は51%であり、精漿を10%添加した人工精液B1の78%に比べて低く、多くの胎子は貪食されていた。また、3頭の雌ブタの卵管還流を行った結果、人工精液A1を用いた人工授精では、総黄体数が51、子宮内胚数が42であり、卵管内受精率は82%であったため、胎子が貪食されていなければ、人工精液B1と同様の着床率であったと考えられる。人工精液A1を用いて人工授精を行った場合では、受精後に子宮内免疫機能の破綻によって、胎子が貪食されたと考えられる。
【0116】
(実験例3)
実施例1の結果から、精子が本来の受精機能を果たし、着床率を更に向上させるためには、精漿の存在が必要と考えられ、精漿中には、精子の貪食が抑制され得る免疫抑制因子が含まれていると考えられる。そこで、精漿中の免疫抑制因子の同定を試みた。
【0117】
17頭の雄ブタから精漿を回収し、EIA法を用いて、精漿中のステロイドホルモンの測定を行った。また、メンブラン抗体アレイ(Proteome Profiler
TM Array,Human Cytokine Array Panel A,ARY005)を用いて、精漿中のサイトカインの検出を行った。
【0118】
精漿中のステロイドホルモンの測定結果を表4に、精漿中のサイトカインの検出結果を
図9にそれぞれ示す。
【表4】
【0119】
表4に示すように、精漿中から0.92ng/mlのコルチゾールが検出された。また、
図9中の丸印で示すように、MIF、Serpin E1が検出された。なお、
図9に示すメンブランでは、3箇所(左上、左下、右上)が必ず光る箇所であり、それ以外の部位に合計36種類の特異的な抗サイトカイン抗体が並んで2箇所プロットされている。そして、プロットされた抗サイトカイン抗体に特異的に反応するサイトカインが存在すると、プロットされた箇所が光る仕組みである。
【0120】
上記の結果から、精漿には、コルチゾール、MIF、Serpin E1の免疫抑制因子が含まれていることを同定した。希釈液中にこれらの因子が含有されていれば着床率の向上を実現し得ると考えられる。
【0121】
(実施例2)
コルチゾール、EDTA、及びEGTAを含有する精子用希釈液にブタの凍結精子を添加して調製した人工精液を用いて、ブタの人工授精を行った。
【0122】
まず、コルチゾール、及び、EGTAをモデナ液に添加し、精子用希釈液を調製した。コルチゾールの濃度は100ng/mL、EDTAの濃度は6.3mM、EGTAの濃度は6mMである。そして、実施例1と同様にNaOHを添加してpH7.0〜7.1に調整した。
【0123】
凍結精子を60℃で8秒間融解し、即座に精子用希釈液に添加して、人工精液(以下、人工精液A2と記す)を調製した。精子の濃度は1×10
8sperm/mLである。
【0124】
このようにして調製した精子用希釈液を用いて、人工授精を行った。その手法については、雌ブタにPMSGを投与しなかった以外、実施例1と同様である。
【0125】
また、実施例1と同様に、凍結精子をEDTA、EGTAを添加した精子用希釈液で希釈して調製した人工精液A1を用いて、同様に人工授精を行った。
【0126】
受胎率及び着床率を表5に示す。受胎率は、人工授精を行った雌ブタの頭数、及び受胎した雌ブタの頭数をカウントすることによって算出した。また、着床率は、4頭の雌ブタの総子宮内胎子数及び総黄体数をカウントし、頭数で平均することによって算出した。
【表5】
【0127】
コルチゾールを含有する精子用希釈液を用いて人工授精した受胎率は92%と、コルチゾール無添加に比べて向上し、更に、着床率は83%と、コルチゾール無添加の場合の51%に比べて、大幅に向上している。
【0128】
また、人工授精後の子宮内白血球数を計測したところ、
図10の子宮内白血球数の相対値に示すように、人工精液A2では、人工精液A1に比べて、子宮内白血球数が大幅に減少しており、また、実施例1における精漿を用いた人工精液B1に比べても少ない。したがって、コルチゾールの免疫抑制作用により、受精後の胚の貪食が抑えられ、着床率が向上したことがわかる。
【0129】
また、上記の副腎皮質ホルモン(コルチゾール等のステロイドホルモン)は通常家畜の治療として1頭あたり5〜50mg注射するが、本実施例における人工授精では子宮内にわずか5μg注入しただけであり、治療として用いる場合の1,000〜10,000分の1程度なので、母豚の肉あるいは子宮内胎子には影響はないと考えられる。実際、精子用希釈液を使用して人工授精した母豚は現在妊娠2ヶ月齢が4頭、1ヶ月齢が6頭と母豚の健康状態の異常や、流産などは全くなかった。また、出産後においても、奇形子の存在は確認できなかったことから、コルチゾールの添加による弊害はなかった。
【0130】
以上の実験結果より、精漿無添加の精子用希釈液の調製を実現した。
【0131】
本出願は、2009年6月17日に出願された日本国特許出願2009−144703号に基づく。本明細書中に日本国特許出願2009−144703号の明細書、特許請求の範囲、図面全体を参照として取り込むものとする。