(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】5843173
(24)【登録日】2015年11月27日
(45)【発行日】2016年1月13日
(54)【発明の名称】冷間加工用金型の製造方法
(51)【国際特許分類】
C21D 6/00 20060101AFI20151217BHJP
C21D 8/00 20060101ALI20151217BHJP
C22C 38/00 20060101ALI20151217BHJP
C22C 38/60 20060101ALI20151217BHJP
【FI】
C21D6/00 101K
C21D8/00 D
C21D6/00 L
C22C38/00 302E
C22C38/60
【請求項の数】8
【全頁数】16
(21)【出願番号】特願2013-501016(P2013-501016)
(86)(22)【出願日】2012年2月20日
(86)【国際出願番号】JP2012053929
(87)【国際公開番号】WO2012115025
(87)【国際公開日】20120830
【審査請求日】2014年9月3日
(31)【優先権主張番号】特願2011-34188(P2011-34188)
(32)【優先日】2011年2月21日
(33)【優先権主張国】JP
(73)【特許権者】
【識別番号】000005083
【氏名又は名称】日立金属株式会社
(74)【代理人】
【識別番号】110000855
【氏名又は名称】特許業務法人浅村特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】伊達 正芳
(72)【発明者】
【氏名】菅野 隆一朗
(72)【発明者】
【氏名】森下 佳奈
(72)【発明者】
【氏名】井上 謙一
【審査官】
坂巻 佳世
(56)【参考文献】
【文献】
特開2006−169624(JP,A)
【文献】
特開2009−132990(JP,A)
【文献】
特開2006−193790(JP,A)
【文献】
特開2007−002333(JP,A)
【文献】
特開2000−212700(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C21D 6/00
C21D 8/00
C22C 38/00
C22C 38/60
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
質量%で、
C:0.6〜1.2%、
Si:0.8〜2.5%、
Mn:0.4〜2.0%、
S:0.03〜0.1%、
Cr:5.0〜9.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.5〜2.0%、
Al:0.04〜0.3%未満、
残部Feおよび不可避的不純物からなる冷間工具鋼の鋼塊に熱間加工を行って素材とし、
前記素材に焼入れ焼戻しを行って硬さを58〜62HRCのプリハードン鋼に調質した後に、
前記プリハードン鋼を最終金型形状まで一括して切削加工を行って金型の形状に仕上げることを特徴とする冷間加工用金型の製造方法。
【請求項2】
前記熱間加工を行った素材に、焼鈍を行った後、前記焼入れ焼戻しを行うことを特徴とする請求項1に記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項3】
前記焼入れは、前記熱間加工後の冷却過程で行う直接焼入れであることを特徴とする請求項1に記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項4】
前記冷間工具鋼は、質量%で、Ni:1.0%以下をさらに含有することを特徴とする請求項1ないし3のいずれかに記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項5】
前記冷間工具鋼は、質量%で、Cu:1.0%以下をさらに含有することを特徴とする請求項1ないし4のいずれかに記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項6】
前記冷間工具鋼は、質量%で、V:1.0%以下をさらに含有することを特徴とする請求項1ないし5のいずれかに記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項7】
前記冷間工具鋼は、質量%で、Nb:0.5%以下をさらに含有することを特徴とする請求項1ないし6のいずれかに記載の冷間加工用金型の製造方法。
【請求項8】
調質後の硬さが60HRC以上であることを特徴とする請求項1ないし7のいずれかに記載の冷間加工用金型の製造方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、例えば、家電、携帯電話や自動車関連部品を成形する冷間加工用金型の製造方法に関するものである。
【背景技術】
【0002】
室温での板材の曲げ、絞り、抜きなどのプレス成形に用いられる冷間加工用金型では、その耐摩耗性を向上するために、焼入れ焼戻し(以下「調質」という。)により55HRC以上の硬さを達成できる鋼素材が提案されている(特許文献1ないし3)。このような高硬度の鋼素材となると、調質後に金型形状に切削加工することが困難である。そのため、通常は、鋼塊を熱間加工した後の、硬さの低い焼鈍状態で粗加工を行った後に、55HRC以上の使用硬さに調質する。この場合、調質により金型に熱処理変形が生じることから、調質後には、その変形分を修正するための再度の仕上げ切削加工を施して最終金型形状に整えられる。調質による金型の熱処理変形の主な原因は、焼鈍状態ではフェライト組織であった鋼素材がマルテンサイト組織へと変態することで体積が膨張するためである。
【0003】
上記の鋼素材の他に、あらかじめ使用硬さに調質して供給されるプリハードン鋼が多く提案されている。プリハードン鋼では、最終金型形状まで一括して切削加工を行った後には、調質の必要がないため、調質に起因する金型の熱処理変形を除外でき、上記の仕上げ切削加工も省略できる有効な技術である。本技術に関しては、焼入れした鋼素材中に存在する、被削性を低下させる未固溶炭化物の量を最適化することにより、55HRCを超える調質硬さを確保しつつ優れた被削性を有する冷間工具鋼が提案されている(特許文献4)。一方、切削加工時の切削工具と鋼素材との間の摩擦によって生じる工具摩耗を抑制するために、融点が1200℃以下の酸化物((FeO)
2・SiO
2、Fe
2SiO
4または(FeSi)Cr
2O
2とある)を形成する元素を添加し、切削加工時に発生する熱により金型表面に前記酸化物を形成することで自己潤滑性を付与した冷間工具鋼も提案されている(特許文献5)
【先行技術文献】
【特許文献】
【0004】
【特許文献1】特開2008−189982号公報
【特許文献2】特開2009−132990号公報
【特許文献3】特開2006−193790号公報
【特許文献4】特開2001−316769号公報
【特許文献5】特開2005−272899号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
最近、冷間加工用金型の使用条件は厳しさを増しており、冷間工具鋼には58HRC以上、さらには60HRC以上の焼入れ焼戻し硬さを達成できることが求められている。したがって、プリハードン鋼の場合、上記の58HRC以上の硬さは勿論のこと、60HRC以上の硬さも安定して得られることができ、かつ、その高い硬さ状態で優れた被削性を有することが好ましい。特許文献4に開示される冷間工具鋼は、切削加工時の被削性と金型としての耐摩耗性を両立する優れたプリハードン鋼である。しかし、耐摩耗性については、規定される未固溶炭化物の形成量が少ないことに加えて、焼入温度も制限されていることから、60HRC以上の調質硬さともなると、これを得られる成分範囲は非常に限定される。そして、焼入加熱時の結晶粒成長を抑制する目的で特許文献4において添加されることが好ましいとされるNbやVは、上記の焼入温度で未固溶のMC炭化物を形成しやすい元素である。MC炭化物は硬質のため、特許文献4に開示される成分組成においては、調質後の被削性が著しく低下する問題がある。
【0006】
また、特許文献5に開示される冷間工具鋼は、低融点酸化物を自己潤滑皮膜として利用しているが、酸化物の融点まで切削温度が上昇しない場合には潤滑効果が得られない。そして逆に、切削温度が上昇し過ぎた場合には酸化物の粘度が著しく低下して、潤滑皮膜としての機能を果たさなくなり得るといった問題がある。
【0007】
本発明の目的は、58HRC以上は勿論、60HRC以上の高い調質硬さも安定して達成できる成分組成を基本とした上で、好ましくは未固溶炭化物の形成量をさらに増加しても、切削温度に依存せずに、調質後の被削性を飛躍的に向上した冷間工具鋼を、58〜62HRCの調質硬さで切削加工する冷間加工用金型の製造方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0008】
本発明者は、冷間工具鋼の被削性を向上する手法を鋭意研究した。その結果、高融点酸化物であるAl
2O
3を積極的に導入して、これと高延性介在物であるMnSからなる複合潤滑保護皮膜を切削加工時の熱により切削工具の表面に形成させる手法を見いだした。そして、58HRC以上は勿論のこと、60HRC以上の調質硬さをも達成して、この複合潤滑保護皮膜を形成することが可能な鋼素材には最適な成分範囲があり、これを特定できたことで、本発明に到達した。
【0009】
すなわち、本発明は、質量%で、
C:0.6〜1.2%、
Si:0.8〜2.5%、
Mn:0.4〜2.0%、
S:0.03〜0.1%、
Cr:5.0〜9.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.5〜2.0%、
Al:0.04〜0.3%未満、
残部Feおよび不可避的不純物からなる冷間工具鋼の鋼塊に熱間加工を行って素材とし、該素材に焼入れ焼戻しを行って硬さを58〜62HRCに調質した後に、切削加工を行って金型の形状に仕上げることを特徴とする冷間加工用金型の製造方法である。一具体例としては、熱間加工を行った素材に、焼鈍を行った後、焼入れ焼戻しを行う冷間加工用金型の製造方法である。そして、別の一具体例としては、焼入れは、前記熱間加工後の冷却過程で行う直接焼入れである冷間加工用金型の製造方法である。好ましくは、調質後の硬さが60HRC以上である。
【0010】
本発明に係る冷間工具鋼は、Niを1.0%以下、あるいはさらにCuを1.0%以下含有してもよい。
【0011】
そして、本発明に係る冷間工具鋼は、1.0%以下のVを、あるいはさらに0.5%以下のNbを、さらに含有してもよい。
【発明の効果】
【0012】
本発明によれば、多数の成分組成に広く対応できる被削性の向上手段を採用したことから、58HRC以上は勿論のこと、60HRC以上の硬さに調質して、さらに未固溶炭化物量が多い合金設計をしても、切削温度に依存せず、調質後の被削性を飛躍的に向上させた冷間工具鋼とすることができる。したがって、冷間工具鋼の調質硬さや、各種機能に応じての未固溶炭化物量を自由に選択することが可能となる。そして、この冷間工具鋼を58〜62HRCの硬さに調質してから切削加工を行えば、熱処理変形や再度の仕上げ加工に係る課題を解決して、金型の製造が可能となるので、特にプリハードン冷間工具鋼を利用した冷間加工用金型の実用化にとって欠くことのできない技術となる。
【図面の簡単な説明】
【0013】
【
図1A】本発明例である試料No.3の切削加工に用いた切削工具のすくい面および逃げ面を示したデジタルマイクロスコープ写真。図面上側がすくい面、図面下側が逃げ面を示している。
【
図1B】本発明例である試料No.5の切削加工に用いた切削工具のすくい面および逃げ面を示したデジタルマイクロスコープ写真。図面上側がすくい面、図面下側が逃げ面を示している。
【
図1C】本発明例である試料No.15の切削加工に用いた切削工具のすくい面および逃げ面を示したデジタルマイクロスコープ写真。図面上側がすくい面、図面下側が逃げ面を示している。
【
図1D】比較例である試料No.22の切削加工に用いた切削工具のすくい面および逃げ面を示したデジタルマイクロスコープ写真。図面上側がすくい面、図面下側が逃げ面を示している。
【
図1E】比較例である試料No.30の切削加工に用いた切削工具のすくい面および逃げ面を示したデジタルマイクロスコープ写真。図面上側がすくい面、図面下側が逃げ面を示している。
【
図2A】
図1A(試料No.3)の切削工具の表面に形成された付着物をEPMA(電子線マイクロアナライザー)分析したときのそれぞれAl(左上)、O(右上)、Mn(左下)、S(右下)のマップ図である。
【
図2B】
図1B(試料No.5)の切削工具の表面に形成された付着物をEPMA(電子線マイクロアナライザー)分析したときのそれぞれAl、O、Mn、Sのマップ図である。
【
図2C】
図1C(試料No.15)の切削工具の表面に形成された付着物をEPMA(電子線マイクロアナライザー)分析したときのそれぞれAl、O、Mn、Sのマップ図である。
【
図2D】
図1D(試料No.22)の切削工具の表面に形成された付着物をEPMA(電子線マイクロアナライザー)分析したときのそれぞれAl、O、Mn、Sのマップ図である。
【
図2E】
図1E(試料No.30)の切削工具の表面に形成された付着物をEPMA(電子線マイクロアナライザー)分析したときのそれぞれAl、O、Mn、Sのマップ図である。
【
図3A】
図2A(試料No.3)の付着物を、TiNコーティングとともに示した断面TEM(透過型電子顕微鏡)写真である。
【
図3B】
図2D(試料No.22)の付着物を、TiNコーティングとともに示した断面TEM(透過型電子顕微鏡)写真である。
【
図3C】
図2E(試料No.30)の付着物を、TiNコーティングとともに示した断面TEM(透過型電子顕微鏡)写真である。
【発明を実施するための形態】
【0014】
本発明の特徴は、調質硬さを向上した上で、さらに結晶粒径の制御などのために未固溶炭化物を多く形成した場合でも、調質後の被削性が切削温度に依存せず良好な冷間工具鋼を実現し、この調質後の冷間工具鋼を切削加工するところにある。具体的には、58HRC以上、好ましくは60HRC以上の調質硬さをも得られることに加えて、切削工具の摩耗を抑制するために、高融点酸化物であるAl
2O
3と高延性介在物であるMnSの複合潤滑保護皮膜が切削工具の表面に形成されるように、鋼素材を成分設計した冷間工具鋼を、切削加工の前に調質することである。
【0015】
まず、本発明者は、冷間工具鋼の成分組成に広く対応し得る被削性の向上手段を検討した。その結果、自己潤滑性の有効性に注目した。そして、特許文献5のような低融点酸化物を利用した自己潤滑性の作用効果について検討したところ、これには切削温度に依存した課題があることをつきとめた。つまり、自己潤滑性を有する低融点酸化物は、一般的に鋼素材中に大量に含まれるFeやCrを含む複合酸化物であるため、切削温度の変動によって複合酸化物の成分や形成量が大きく変動し、安定した潤滑効果を得られない。
【0016】
そこで、本発明では、低融点酸化物を利用しないで冷間工具鋼の被削性を向上する手法を鋭意研究したところ、逆に高融点酸化物であるAl
2O
3を積極的に導入して、これと高延性介在物であるMnSからなる複合潤滑保護皮膜を切削加工時の熱により切削工具の表面に形成させる手法を見いだした。この複合潤滑保護皮膜は、広範囲の切削温度に対応して効果が変動せず、しかもNbやVといった硬質のMC炭化物を形成する元素を添加した場合でも良好な被削性を確保できる。そして、58HRC以上は勿論のこと、60HRC以上の調質硬さをも達成して、この複合潤滑保護皮膜を形成することが可能な鋼素材には最適な成分範囲があり、これを特定できたことで、本発明に到達した。以下、本発明の製造方法に係る冷間工具鋼の成分組成について説明する。
【0017】
・C:0.6〜1.2質量%(以下、単に%と表記)
Cは、鋼中で炭化物を形成し、冷間工具鋼に硬さを付与する重要な元素である。Cが少なすぎると形成される炭化物量が不足し、58HRC以上、好ましくは60HRC以上の硬さを付与することが困難である。一方、過多の含有は、焼入れしたときの未固溶炭化物量の増加により靱性が低下しやすい。よって、Cの含有量は0.6〜1.2%とした。好ましくは0.7%以上および/または1.1%以下である。1.0%以下がさらに好ましい。
【0018】
・Si:0.8〜2.5%
Siは、鋼中に固溶して、冷間工具鋼に硬さを付与する重要な元素である。また、FeやCrよりも酸化傾向が強いことに加えて、Al
2O
3とコランダム系の酸化物を形成しやすい元素であるため、本発明では酸化物を低融点化するFe系酸化物やCr系酸化物の形成を抑制し、Al
2O
3保護皮膜の形成を促進する重要な作用がある。しかし、多すぎると焼入れ性や靱性が著しく低下する。よって、Siは0.8〜2.5%とした。好ましくは1.0%以上および/または2.0%以下である。1.2%以上がさらに好ましい。
【0019】
・Mn:0.4〜2.0%
Mnは、本発明の重要な元素であり、切削工具表面に形成されたAl
2O
3保護皮膜上で良好な潤滑皮膜として作用する。そして、オーステナイト形成元素であり、鋼中に固溶して焼入れ性を向上する。しかし、添加量が多すぎると調質後に残留オーステナイトが多く残り、金型として使用時の経年変寸の原因となる。また、FeやCrと低融点酸化物を形成しやすいため、Al
2O
3保護皮膜の機能を阻害する要因となる。よって、本発明では0.4〜2.0%とした。好ましくは0.6%以上および/または1.5%以下である。
【0020】
・S:0.03〜0.1%
Sは、本発明の重要な元素であり、切削工具表面に形成されたAl
2O
3保護皮膜上で良好な潤滑皮膜として作用する。つまり、鋼素材中に含まれる十分量のSは、MnSを形成する。そして、MnSは延性に富むことに加え、Al
2O
3との馴染みが良いため、Al
2O
3保護皮膜上に堆積して、これらが良好な複合潤滑保護皮膜としての役割を果たす。このような潤滑作用が十分に発揮されるためには0.03%以上の添加が必要であるが、Sは鋼の靱性を劣化させるため、上限は0.1%とする。好ましくは0.04%以上および/または0.08%以下である。
【0021】
・Cr:5.0〜9.0%
Crは、調質後の組織中にM
7C
3炭化物を形成することで、冷間工具鋼に硬さを付与する。また、焼入加熱時に一部は未固溶炭化物として存在して、結晶粒の成長を抑制する効果がある。そして、Crを5.0%以上とすることで、形成される炭化物量が多くなり、58HRC以上、好ましくは60HRC以上の硬さを十分に達成することができる。さらに、冷間加工用金型としたときの表面には、各種の被覆処理を行う場合、TD処理によるVC皮膜やCVD処理によるTiC皮膜の形成能が向上する。また、Crは耐食性を確保する上で有効な元素である。
【0022】
一方、冷間工具鋼の主要成分であるCrは、低融点酸化物を形成しやすい。つまり、Crは過多に含有されると、Al
2O
3保護皮膜の機能を阻害する要因となる。この結果、本発明の特徴とするAl
2O
3とMnSからなる複合潤滑保護皮膜の機能を阻害する要因となる。したがって、Crは、後述する十分量のAlを含有した上で、調整することが重要である。そして、これに見合ったS量の調整を行ったことで、上記の複合潤滑保護皮膜の機能が発揮される。このため、Crは5.0〜9.0%とすることが重要である。好ましくは6.0%以上、さらに好ましくは7.0%以上である。
【0023】
・MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.5〜2.0%
MoおよびWは、調質時の焼戻しにおいて、微細炭化物の析出強化(二次硬化)により硬さを向上させる元素である。しかし同時には、焼戻しで起こる残留オーステナイトの分解を遅滞させるため、過多に含有すると、調質後の組織に残留オーステナイトが残りやすい。また、MoやWは高価な元素であるため、実用化する上では添加量を極力低減すべきである。よって、これら元素の添加量は(Mo+1/2W)の関係式で0.5〜2.0%とする。
【0024】
・Al:0.04〜0.3%未満
Alは、本発明の重要な元素である。つまり、鋼素材中に含まれる十分量のAlは、切削加工時に発生する熱によって高融点酸化物であるAl
2O
3を切削工具表面に形成する。Al
2O
3の融点は約2050℃であり、これは切削温度よりも遥かに高いため、Al
2O
3は切削工具の保護皮膜として機能する。そして、0.04%以上を含有することで、十分な厚さの保護皮膜が形成され、工具寿命が改善する。しかし、Alを多量に添加した場合は、鋼素材中にAl
2O
3が介在物として多く形成されるため、鋼素材の被削性がかえって低下する。このため、Al添加量の上限は0.3%未満とする。好ましくは0.05%以上および/または0.15%以下である。
【0025】
・好ましくは、Ni:1.0%以下
Niは、鋼の靱性や溶接性を改善する元素である。また、調質時の焼戻しではNi
3Alとして析出し、鋼の硬さを高める効果があるので、本発明に係る冷間工具鋼が含有するAl量に応じて添加することは有効である。ただし、Niは高価な金属であり、実用化する上では添加量を極力低減すべきである。そのため、本発明におけるNiは、添加する場合でも1.0%以下が好ましい。
【0026】
・好ましくは、Cu:1.0%以下
Cuは、調質時の焼戻しにおいてε-Cuとして析出し、鋼の硬さを高める効果がある。ただし、Cuは鋼素材の熱間脆性を引き起こす元素である。よって、本発明におけるCuは、添加する場合でも1.0%以下が好ましい。なお、Cuによる熱間脆性は、ほぼ同量のNiを添加することで抑制できるため、本発明に係る冷間工具鋼がNiを含む場合は、該量に応じて規制値を緩和することができる。
【0027】
・好ましくは、V:1.0%以下
Vは、種々の炭化物を形成して、鋼の硬さを高める効果がある。また、形成された未固溶のMC炭化物は、結晶粒の成長を抑制する効果がある。そして特に、後述のNbと複合添加することで、焼入加熱時に未固溶のMC炭化物が微細かつ均一となり、結晶粒成長を効果的に抑制する働きがある。一方、MC炭化物は硬質であり、被削性を低下させる原因となる。そこで本発明では、上述した複合潤滑保護皮膜を切削加工時の工具表面に形成させたことで、鋼素材中に多くのMC炭化物を形成しても良好な被削性を確保できる点に重要な特徴を有する。ただし、過多のV添加は、粗大なMC炭化物を過剰に形成して、冷間工具鋼の靱性も低下させる。そのため、Vは添加する場合でも1.0%以下とすることが好ましい。より好ましくは0.7%以下である。
【0028】
・好ましくは、Nb:0.5%以下
Nbは、MC炭化物を形成して、結晶粒の粗大化を抑える働きがある。ただし、過多に添加すると、粗大なMC炭化物が過剰に形成されて、鋼の靱性が低下する。そのため、添加する場合でも0.5%以下とすることが好ましい。より好ましくは0.3%以下である。
【0029】
そして、本発明は、上記の成分組成でなる冷間工具鋼を58〜62HRCの硬さに調質してから、切削加工を行うところに特徴を有する。本発明に係る冷間工具鋼は、焼入れ焼戻しによって58HRC以上の調質硬さを安定して得ることができる。60HRC以上の硬さも達成が可能である。そして、この高い硬さの状態で、優れた被削性を有するので、わざわざ焼鈍状態で切削加工をしてから、焼入れ焼戻しを行う必要がない。あるいは、焼鈍状態自体を経る必要がないので、焼入れには、鋼塊を熱間加工した後の冷却過程を利用した直接焼入れを適用できる。そして、この直接焼入れを適用した場合であっても、焼鈍後の焼入れを適用した場合と同様の被削性改善効果を得ることができる。したがって、本発明に係る冷間工具鋼は、プリハードン鋼として用いることで、調質に起因する熱処理変形が除外され、仕上げ切削加工と、さらには素材の製造に係る焼鈍工程等をも省略することができる。なお、本発明では、冷間工具鋼の硬さ以外の機械的特性も十分に維持することと、切削加工を安定して行うために、調質硬さの上限を62HRCとしている。
【0030】
また、本発明の冷間加工用金型の製造方法からなる金型は、優れた寸法精度と耐摩耗性を有するが、表面PVD処理を行うことで、高い寸法精度を維持しつつ耐摩耗性をさらに向上することも可能である。
【実施例】
【0031】
高周波誘導溶解炉を使用して材料を溶解し、表1に示す化学成分を有した鋼塊を作製した。次に、これらに対して、鍛造比が10程度になるように熱間鍛造を行い、冷却後、860℃で焼鈍を行った。そして、これらの焼鈍材に1030℃からの空冷による焼入れ処理を行った後、500〜540℃で2回の焼戻し処理により60HRCの狙い硬さに調質し、被削性を評価するための試験片を作製した。
【0032】
【表1】
【0033】
被削性試験は、高硬度材の切削に対応した刃先交換式工具として日立ツール株式会社製インサートPICOminiを用いた平面切削により実施した。インサートは、超硬合金を母材とし、表面にTiNコーティングを施したものである。切削条件は、切削速度70m/min、回転数1857/min、送り速度743mm/min、一刃当たりの送り量0.4mm/刃、切込み深さ0.15mm、切込み幅6mm、刃数1とした。
【0034】
被削性の評価は、次の2点をもとに行った。まず、切削工具表面におけるAl
2O
3とMnSからなる複合潤滑保護皮膜の形成量を評価した。この形成量は、切削開始直後の切削距離0.8mの段階で、インサートをすくい面側からEPMAを用いて分析し、このときのAlおよびSの平均カウント数とした。そして、切削距離を8mまで延長して、このときの工具摩耗量を、光学顕微鏡を用いて実測した。これらの評価結果を表2に示す。
【0035】
【表2】
【0036】
本発明に係る冷間工具鋼の切削加工は、切削工具表面に複合潤滑保護皮膜が形成され、工具摩耗が抑制されている。そして、未固溶炭化物を形成するNbやVが添加された場合でも、良好な被削性が維持されている。これに対して、本発明を満たさない冷間工具鋼の切削加工は、本発明に比べて工具摩耗量が多い。
【0037】
図1A〜Eは、それぞれ試料No.3、5、15、22、30で用いた切削工具の逃げ面およびすくい面を示したデジタルマイクロスコープ写真であり、
図2A〜Eは、
図1A〜Eの表面に形成された付着物のEPMAによる分析結果である(各元素の高濃度部は白色で示されている)。表2でAlおよびSの平均カウント数が高かった試料No.3、5、15は、
図2A〜CのEPMA分析においてもAlとSが工具の広範囲に渡って多く付着していることが確認された。これに比べて、冷間工具鋼のAl量が低い試料No.22は、試料No.3、5、15よりもAlおよびSの平均カウント数が低く、AlやSの付着範囲も狭かった。なお、もとより鋼中のAlおよびS含有量が少ない試料No.30は、これら元素の平均カウント数も低く、EPMA分析でAlおよびSがほとんど検出されなかった(検出されたのは、試験片から移ったと思われるFeおよびCrが殆どであった)。
【0038】
そして、切削工具の摩耗状態を示した
図1A〜Cでは、上記の結果に対応して、試料No.3、5、15の工具すくい面には付着物が顕著に付着しており、工具摩耗が逃げ面、すくい面の両方で抑制されていることがわかる。また、工具摩耗は均一にかつ安定して進んでいる。これに対して、試料No.22の工具摩耗量は、試料No.3の倍近くであり、工具にはチッピングも発生していた。そして、試料No.30の工具表面も、試料No.22に同様、損傷が激しかった。
【0039】
さらに
図3A〜Cは、それぞれ試料No.3、22、30における工具表面に確認された付着物を、その下にあるTiNコーティングとともに示した断面TEM像である。図中の符合1は試料調製のための保護膜、2は切削時の付着物、3はTiN塑性変形領域、4はTiN未変形領域を示す。上記の結果に即しては、やはりAlおよびSの平均カウント数が高かった試料No.3の付着物は厚く、同カウント数が低くなるに従い、試料No.22では付着物が薄く移行した。試料No.30では、付着物は殆ど観察されなかった。そして、試料No.3と同様、試料No.22の工具表面にもAl
2O
3とMnSが付着していたが、その厚さは薄く、チッピングが発生したことは上記の通りである。試料No.3の付着物が高い潤滑保護機能を発揮していることは、切削加工時の摩擦応力によって通常は塑性変形する工具表面のTiNコーティングが、付着物が厚い試料No.3では抑えられている(塑性変形領域が最も狭い)ことからわかる。