(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】5854332
(24)【登録日】2015年12月18日
(45)【発行日】2016年2月9日
(54)【発明の名称】表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼およびその製造方法、ならびにその表面PVD処理方法
(51)【国際特許分類】
C22C 38/00 20060101AFI20160120BHJP
C22C 38/60 20060101ALI20160120BHJP
C21D 6/00 20060101ALI20160120BHJP
【FI】
C22C38/00 301H
C22C38/00 302E
C22C38/60
C21D6/00 101A
C21D6/00 L
【請求項の数】7
【全頁数】12
(21)【出願番号】特願2012-536337(P2012-536337)
(86)(22)【出願日】2011年9月14日
(86)【国際出願番号】JP2011070945
(87)【国際公開番号】WO2012043228
(87)【国際公開日】20120405
【審査請求日】2014年8月8日
(31)【優先権主張番号】特願2010-215093(P2010-215093)
(32)【優先日】2010年9月27日
(33)【優先権主張国】JP
(73)【特許権者】
【識別番号】000005083
【氏名又は名称】日立金属株式会社
(72)【発明者】
【氏名】伊達 正芳
(72)【発明者】
【氏名】中津 英司
【審査官】
相澤 啓祐
(56)【参考文献】
【文献】
特開2003−321749(JP,A)
【文献】
特開2001−316769(JP,A)
【文献】
特開平09−111400(JP,A)
【文献】
特開昭63−259057(JP,A)
【文献】
特開2005−290517(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C22C 38/00−38/60
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
質量%で、
C:0.7〜1.2%、
Si:1.0〜2.6%、
Mn:0.4〜1.0%、
S:0.02〜0.1%、
Cr:3.0〜6.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.4〜1.0%、
V:0.2〜1.0%、
Nb:0.1〜0.3%、
残部Feおよび不可避的不純物からなり、硬さが60HRC以上、かつ組織中の残留オーステナイト量が8体積%以下であることを特徴とする表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼。
【請求項2】
硬さは、62HRC以上であることを特徴とする請求項1に記載の表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼。
【請求項3】
質量%で、Ni:1.0%以下をさらに含有することを特徴とする請求項1または2に記載の表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼。
【請求項4】
質量%で、
C:0.7〜1.2%、
Si:1.0〜2.6%、
Mn:0.4〜1.0%、
S:0.02〜0.1%、
Cr:3.0〜6.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.4〜1.0%、
V:0.2〜1.0%、
Nb:0.1〜0.3%、
残部Feおよび不可避的不純物からなる冷間工具鋼を、1000℃以上の温度からの焼入れと、520℃以上の温度による焼戻しによって、硬さを60HRC以上かつ、組織中の残留オーステナイト量を8体積%以下に調整することを特徴とする表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の製造方法。
【請求項5】
硬さを62HRC以上に調整することを特徴とする請求項4に記載の表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の製造方法。
【請求項6】
冷間工具鋼は、質量%で、Ni:1.0%以下をさらに含有することを特徴とする請求項4または5に記載の表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の製造方法。
【請求項7】
請求項1〜3のいずれかに記載の表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼への表面PVD処理方法であって、焼入れ焼戻し時の焼戻し温度を、PVD処理時の昇温温度よりも高い温度に設定することにより、前記プリハードン冷間工具鋼の表面PVD処理前の組織中にある残留オーステナイト量と、該処理後の組織中にある残留オーステナイト量との差を、5体積%以内とすることを特徴とする表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の表面PVD処理方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、工具材料、特に家電、携帯電話や自動車関連部品を成形する冷間金型材料に適した表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼とその製造方法、そしてそのプリハードン冷間工具鋼の表面PVD処理方法に関するものである。
【背景技術】
【0002】
室温での板材の曲げ、絞り、抜きなどのプレス成形に用いられる冷間工具においては、その耐摩耗性を向上するために、焼入れ焼戻し(以下「調質」という。)により60HRC以上の硬さを達成できる鋼素材が提案されている(特許文献1、2)。このような高硬度の鋼素材となると、調質後に工具形状に切削加工することが困難であるため、通常は、硬さの低い焼鈍状態で粗加工を行った後に、60HRC以上の使用硬さに調質する。この場合、調質により工具に熱処理変形が生じることから、調質後には、その変形分を修正するための再度の仕上げ切削加工を施して、最終工具形状に整えられる。調質による工具の熱処理変形の主な原因は、焼鈍状態ではフェライト組織であった鋼素材がマルテンサイト組織へと変態することで体積が膨張するためである。
【0003】
上記の鋼素材の他に、あらかじめ使用硬さに調質して供給されるプリハードン鋼が多く提案されている。プリハードン鋼では、最終工具形状まで一括して切削加工を行った後には、調質の必要がないため、調質に起因する工具の熱処理変形を除外でき、上記の仕上げ切削加工も省略できる有効な技術である。本技術に関しては、55HRCを超える調質硬さであっても優れた切削加工性を有する冷間工具鋼が提案されている(特許文献3)。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0004】
【特許文献1】特開2008−189982号公報
【特許文献2】特開2009−132990号公報
【特許文献3】特開2001−316769号公報
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
最近、冷間工具の耐摩耗性をさらに向上するために、工具の作業面に各種硬質皮膜を被覆する表面被覆処理が実施されている。表面被覆処理の一般的な手法としては、硬質炭化物を形成するCVD(化学蒸着)処理や、主に窒化物を形成するPVD(物理蒸着)処理がある。CVD処理では、鋼素材が調質時の焼入れ温度に相当する温度(約1000℃)にまで加熱されることから、あらかじめ調質されたプリハードン鋼を鋼素材として用いた場合でも硬さが大幅に変化し、再度の調質が必要となる。その上、再度の調質を行ったことで、熱処理変形を修正するための再度の切削加工も伴う。
【0006】
一方、PVD処理では、鋼素材が曝される最高温度は一般に約520℃と低く、冷間工具鋼の代表的な焼戻し温度(約500℃)に近いことから、調質後の硬さ(以下「調質硬さ」という。)が変化し難い。よって、表面被覆処理後には再度の調質は要せず、これに起因する熱処理変形も当然生じ得ない。このため、プリハードン鋼にとっては、それを最終工具形状に切削加工した後に、上記の硬質皮膜をPVD処理により形成する技術を併用できれば、その高い工具作製能に加えて耐摩耗性のさらなる向上が達成できる。
【0007】
特許文献3に開示される冷間工具鋼は、工具形状への切削加工性と工具使用時の耐摩耗性を両立する優れたプリハードン鋼である。しかしながら、PVD処理で約520℃に曝されることで、調質硬さは維持されるとしても、調質時のものとは機構の異なる熱処理変形が発生し、工具形状を修正するための切削加工が結局必要となるといった問題があった。また、プリハードン鋼が焼戻し温度以上に加熱されて軟化することを抑制するため、高価な合金元素、特にMoおよびWを多く含有しなければならず、低コスト化が期待できないといった問題があった。
【0008】
本発明の目的は、プリハードン鋼として良好な切削加工性を確保しつつ、表面PVD処理を行ったときの熱処理変形と軟化の問題を改善した表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼およびその製造方法、そして本発明のプリハードン冷間工具鋼への表面PVD処理方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0009】
本発明者は、表面PVD処理を行ったときのプリハードン鋼の熱処理変形の問題について検討した。その結果、PVD処理時の熱処理変形は、前記の調質時のものとは機構が異なり、プリハードン鋼に内在する残留オーステナイトの分解によるものであることを見いだした。そこで、PVD処理前の残留オーステナイト量を低減できる手法について鋭意研究したところ、その達成には狭域でなる最適な成分組成があることを突きとめた。そして、この成分組成を有するプリハードン鋼において、MoやWといった高価な元素の添加量を低減しても60HRC以上の硬さと、そのときの十分な切削加工性を達成するための好ましい調質条件をも明確にしたことで、本発明に到達した。
【0010】
すなわち、本発明は、質量%で、
C:0.7〜1.2%、
Si:1.0〜2.6%、
Mn:0.4〜1.0%、
S:0.02〜0.1%、
Cr:3.0〜6.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.4〜1.0%、
V:0.2〜1.0%、
Nb:0.1〜0.3%、
残部Feおよび不可避的不純物からなり、硬さが60HRC以上、かつ組織中の残留オーステナイト量が8体積%以下であることを特徴とする耐熱処理変形性に優れた表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼である。硬さは62HRC以上が好ましく、あるいはさらに、冷間工具鋼の成分組成はNiを1.0%以下含有してもよい。
【0011】
そして、本発明は、質量%で、
C:0.7〜1.2%、
Si:1.0〜2.6%、
Mn:0.4〜1.0%、
S:0.02〜0.1%、
Cr:3.0〜6.0%、
MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.4〜1.0%、
V:0.2〜1.0%、
Nb:0.1〜0.3%、
残部Feおよび不可避的不純物からなる冷間工具鋼を、1000℃以上の温度からの焼入れと、520℃以上の温度による焼戻しによって、硬さを60HRC以上かつ、組織中の残留オーステナイト量を8体積%以下に調整することを特徴とする耐熱処理変形性に優れた表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の製造方法である。硬さは62HRC以上が好ましく、あるいはさらに、冷間工具鋼の成分組成はNiを1.0%以下含有してもよい。
【0012】
さらに、本発明は、上述した表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼への表面PVD処理方法であって、
焼入れ焼戻し時の焼戻し温度を、PVD処理時の昇温温度よりも高い温度に設定することにより、前記プリハードン冷間工具鋼の表面PVD処理前の組織中にある残留オーステナイト量と、該処理後の組織中にある残留オーステナイト量との差を、5体積%以内とすることを特徴とする表面PVD処理用高硬度プリハードン冷間工具鋼の表面PVD処理方法である。
【発明の効果】
【0013】
本発明によれば、プリハードン鋼としての良好な切削加工性を確保しつつ、表面PVD処理を行ったときには熱処理変形と軟化の問題を飛躍的に改善することができる。よって、プリハードン冷間工具鋼の実用化にとって欠くことのできない技術となる。
【発明を実施するための形態】
【0014】
本発明の特徴は、その供給時の調質硬さを60HRC以上にすることができ、かかる硬度を維持しつつもなお、表面PVD処理を行ったときの熱処理変形は抑制できるプリハードン冷間工具鋼を、しかも低コストで実現したところにある。具体的には、調質時における60HRC以上の焼戻し硬さが、先の表面PVD処理中の到達温度に相当する焼戻し温度で発現する成分組成に設計することであり、表面PVD処理時の残留オーステナイトの分解を抑制して、熱処理変形を抑える技術思想に基づくものである。以下、本発明のプリハードン冷間工具鋼の構成要件と、これを達成するための好ましい製造方法、そして本発明のプリハードン冷間工具鋼に対する表面PVD処理方法について説明する。
【0015】
(1)組織中の残留オーステナイト量が8体積%以下である。
PVD処理時の熱処理変形は、調質後のプリハードン鋼に内在する残留オーステナイトの分解が原因である。そこで、PVD処理前の残留オーステナイト量を8体積%以下としたのは、この値であれば上記の熱処理変形が小さく、修正のための切削加工は実用上省略できるからである。好ましくは6体積%以下であり、さらに好ましくは5体積%以下である。この残留オーステナイトの規制量は、本発明の特徴とする後述の成分組成や調質条件によって低コストで達成できる。残留オーステナイト量の測定法としては、例えばX線回折を利用する方法がある。そして、X線源にはCoを用いて、結晶構造のfccにおける(200)面、(220)面、(311)面と、bccにおける(200)面、(211)面の回折強度の比から求めることができる。
【0016】
(2)調質硬さが60HRC以上である。
調質硬さを60HRC以上としたのは、PVD処理による硬質皮膜の密着性を向上し、使用中の耐摩耗性を確保するためである。好ましくは62HRC以上とする。この調質硬さは、本発明の特徴とする後述の成分組成や調質条件によって低コストで達成される。そして、表面PVD処理を経てもなお、高い軟化抵抗をもって維持されることから、硬質皮膜の密着性に優れる。
【0017】
(3)質量%で、以下の成分組成でなる。
・C:0.7〜1.2%
Cは、鋼中で炭化物を形成し、プリハードン鋼に硬さを付与する重要な元素である。0.7%より少ない場合は、形成される炭化物量が不足し、60HRC以上の硬さを付与することが困難である。一方、過多の含有は、炭化物量の増加により被削性を低下させ、プリハードン状態で工具形状に切削加工しようとした場合に切削工具の摩耗が進行しやすい。よって、Cの含有量は0.7〜1.2%とした。好ましくは0.8%以上および/または1.1%以下である。
【0018】
・Si:1.0〜2.6%
Siは、フェライト形成元素であり、添加することでプリハードン鋼中の残留オーステナイト量を低減できる効果がある。また、プリハードン鋼のマトリックス中に固溶するため、固溶強化により硬さを向上する。1.0%以上であればその効果が高いが、多すぎると焼入れ性や靱性が著しく低下する。よって、Siは1.0〜2.6%とした。好ましくは1.2%以上および/または2.0%以下である。
【0019】
・Mn:0.4〜1.0%
Mnは、焼入れ性の向上のために含有する。しかし、オーステナイト形成元素であるため、添加量が多すぎると調質後の残留オーステナイト量が増加する。よって、本発明では0.4〜1.0%とした。好ましくは0.5%以上および/または0.9%以下である。
【0020】
・S:0.02〜0.1%
Sは、脆化元素の代表であり、溶接性や高硬度を求められる工具鋼の分野では規制のされる元素である。しかし一方では、MnSを形成して被削性を向上する元素である。本発明の場合、冷間工具鋼のスタンダード鋼種であるJIS−SKD11を基準にして、それよりも炭化物量を減らしたことで靱性を向上させているので、その差分だけの添加が可能である。よって、Sは0.02〜0.1%とする。好ましくは0.03%以上および/または0.08%以下である。
【0021】
・Cr:3.0〜6.0%
Crは、調質組織中にM
7C
3炭化物を形成することでプリハードン鋼に硬さを付与する。Crが3.0%未満では形成される炭化物量が少なく、60HRC以上の硬さを付与することが困難である。一方、過多に添加すると、形成される炭化物量が増加し、焼入れ時にマトリックス中に固溶しきれず粗大な炭化物として残存してしまうため被削性が低下する。このため、プリハードン鋼として成立させるためには、Crは3.0〜6.0%の狭域とすることが重要である。
【0022】
・MoおよびWは単独または複合で(Mo+1/2W):0.4〜1.0%
MoおよびWは、本発明の耐熱処理変形性と高硬度の両立においては重要な元素である。つまり、これらの元素は、調質時の焼戻しにおいて、微細炭化物の析出強化(二次硬化)により硬さを向上させる元素である。しかし同時に、焼戻しで起こる残留オーステナイトの分解を遅滞させるため、調質後の組織には多量の未分解オーステナイトが残留するという、本発明にとっては相反する作用効果を有する元素である。この課題に対しては、MoやWの添加量を低減しても60HRC以上の高硬度を達成できる調質条件(後述)を併せて検討したことで、上記した特性の両立が可能なプリハードン冷間工具鋼の成分組成を見いだした。
【0023】
そして、上記の結果として、本発明のプリハードン冷間工具鋼のMo当量(Mo+1/2W)は0.4〜1.0%とした。Mo当量を0.4%以上とすることで、60HRC以上の調質硬さを達成できる。そして、Mo当量を1.0%以下とすることで、調質後の残留オーステナイト量を低減できる。また、高価な元素であるMoおよびWの添加量を抑えることができるので、優れた耐熱処理変形性と高硬度を、低コストで両立させることができる。好ましくは0.6%以上、さらに好ましくは0.8%以上である。
【0024】
・V:0.2〜1.0%
Vは、軟化抵抗を増大させる元素である。しかし、過多の添加はMC炭化物を増加させ、被削性を低下させる原因となる。よって、Vは0.2〜1.0%とする。好ましくは0.4%以上および/または0.7%以下である。
【0025】
・Nb:0.1〜0.3%
Nbは、MC炭化物を形成する。そして、調質時の焼入れにおいて、MC炭化物は焼入れ温度で固溶せず、オーステナイト結晶粒の粗大化を抑えることで、残留オーステナイトの形成を低減する。その結果、PVD処理後の耐熱処理変形性を改善する。しかし、Nbを過多に添加すると、粗大なMC炭化物が多数形成されて、靭性および被削性の低下をもたらす。よって、本発明ではNbを0.1〜0.3%とする。好ましくは0.2%以下である。
【0026】
・Ni:1.0%以下
Niは、靭性や溶接性を改善する元素であり、必要に応じて1.0%以下を添加してもよい。
【0027】
(4)以上のプリハードン冷間工具鋼を達成するには、1000℃以上の温度からの焼入れと、520℃以上の温度による焼戻しによる調質が好ましい。
本発明のプリハードン冷間工具鋼を製造するにおいては、その時の調質条件は1000℃以上の温度からの焼入れと、520℃以上の温度による焼戻しを行うことが好ましい。つまり、本発明の特別な成分組成鋼にとって、焼入れ温度を1000℃以上とするのは、未固溶炭化物の固溶を促進し被削性が向上するためである。さらに好ましくは、焼入れ温度は1080℃以上であり、焼入れ温度を高めることで、被削性の向上に加え、少ないMo当量でありながら冷間工具として必要な硬さをさらに高められるからである。また、焼戻し温度を520℃以上とするのは、この時点で未分解の残留オーステナイト量自体を低減するのと、表面PVD処理中にプリハードン鋼が曝される温度よりも高い温度で焼戻ししておくことで、表面PVD処理中の残留オーステナイトの分解が抑制され、熱処理変形を抑えることができるからである。
なお、プリハードン鋼においては通常供給者側で調質が行われるため、需要者側で調質を行う場合に比べて鋼種に最も適した設定条件で調質を行うことが容易である。
【0028】
(5)以上のプリハードン冷間工具鋼に表面PVD処理を行う際には、該PVD処理前の組織中にある8体積%以下の残留オーステナイト量と、該PVD処理後の組織中にある残留オーステナイト量との差を、5体積%以内とすることが好ましい。
本発明の表面PVD処理用高硬度プリハードン鋼においては、その調質時の焼戻し温度がPVD処理時の昇温温度よりも低かった場合、例えば一般的な高温焼戻し温度である500℃で焼戻しされた場合は、PVD処理時に少なからず残留オーステナイトの分解(熱処理変形)が生じるかも知れない。そこで、このような時であっても、PVD処理の前後では組織中の残留オーステナイト量の差が5体積%以内に納まるように該処理を行えば、PVD処理後には修正のための切削加工を省略できる。
具体的には、調質時の焼戻し温度を、PVD処理時の昇温温度よりも高い温度に設定することにより、PVD処理の前後での組織中の残留オーステナイト量の差を5体積%以内に納まるようにすることができる。
【実施例1】
【0029】
高周波誘導溶解炉を使用して材料を溶解し、表1に示す化学成分を有したインゴットを作製した。次に、これらのインゴットに対して、鍛造比が10程度になるように熱間圧延を行い、冷却後、860℃で焼鈍を行った。
【0030】
【表1】
【0031】
そして、上記の焼鈍材に1030℃からの空冷による焼入れ処理を行った後、一般的な焼戻し温度である500℃で2回の焼戻し処理を行って、調質済みのプリハードン冷間工具鋼を作製した。また、先の表面PVD処理後の状態を評価するものとして、その際の加熱温度を想定した520℃で2回の焼戻し処理を行ったプリハードン冷間工具鋼も準備した。それぞれの焼戻しによる硬さおよび残留オーステナイト量を表2に示す。残留オーステナイト量の測定は、上記の測定条件により行った。なお、500℃で焼戻した冷間工具鋼については、被削性の指標として、熱力学計算プログラムであるサーモカルク(サーモカルクソフトウェア社製)を用いて求めた未固溶のM
7C
3炭化物量も併記しておく。
【0032】
【表2】
【0033】
本発明例のプリハードン冷間工具鋼は、MoやWといった高価な合金元素の添加量を低減していながら、60HRC以上の調質硬さを達成し、かつ残留オーステナイト量も8体積%以下に低減できている。そして、500℃の焼戻しで調質したものについては、先の表面PVD処理で再加熱され、残留オーステナイトの分解が進んでも、それを想定した520℃の焼戻し結果の通り、残留オーステナイトの変化量は5体積%以下に抑えられ、硬さも維持できる。よって、本発明のプリハードン冷間工具鋼は、一般的な調質条件で供給しても、表面PVD処理による熱処理変形や軟化の問題を解決できる。さらに、Cr量の管理により、調質後(つまり供給時)の未固溶のM
7C
3炭化物は3体積%未満となっており、被削性も改善される。
【0034】
そして、もとより520℃の焼戻しで調質することで、残留オーステナイト量は5体積%以下にまで低減されている。これに表面PVD処理を行ったときには、その際の到達温度に近い焼戻しで調質したことから、熱処理変形はさらに低減される。
【0035】
一方、比較例においては、No.23、25〜27は、500℃および520℃の両方の焼戻しで60HRCの調質硬さを得ることができなかった(No.25〜27の残留オーステナイト量の測定は省略した)。No.24は、JIS−SKD11に相当し、500℃の焼戻しで60HRCを超える調質硬さを達成した。しかし、表面PVD処理時の加熱温度を想定した520℃の焼戻しの結果では、硬さが低下した。
【0036】
No.21、22は、500℃および520℃の両方の焼戻しで60HRCを超える調質硬さを達成した。しかし、500℃の焼戻しで調質したものについては、残留オーステナイト量が高く、表面PVD処理(つまり、520℃の焼戻し)後の残留オーステナイトの変化量が大きい。そして、No.21、22を、520℃の焼戻しで調質して供給すれば、表面PVD処理後は、60HRC以上の高い硬度を維持して、熱処理変形は低減されるかも知れない。しかし、Cr量の高いNo.21、22の場合、520℃の焼戻しであっても、その調質後の組織には、500℃の焼戻しに同様、未固溶のM
7C
3炭化物が依然として多く存在しており、被削性が十分ではない。No.21、22は、PVD処理用プリハードン冷間工具鋼としては適し難い。
【実施例2】
【0037】
表1に示した本発明例の焼鈍材を用いて、それに1100℃からの空冷による焼入れ処理を行った。そして、表面PVD処理時の到達温度を想定しては、520℃と、それよりも高い540℃以上の温度で高温焼戻しを行った。そのときの硬さおよび残留オーステナイト量を表3に示す。残留オーステナイト量の測定は、上記の測定条件により行った。また、上記のサーモカルクを用いて求めた未固溶のM
7C
3炭化物量も併記しておく。
【0038】
【表3】
【0039】
好ましい調質条件を適用した本発明のプリハードン冷間工具鋼は、60HRC以上の硬さを達成した。特に、Mo量およびV量の高いNo.3、7、11、12、Si量の高いNo.8、Cr量を低減しSi量を高めたNo.9は、540℃の高温焼戻しでも62HRC以上の硬さを達成した。また、調質後の残留オーステナイト量も5体積%以下に低減できている。さらに、未固溶のM
7C
3炭化物量が0.1体積%未満であり、被削性も改善される。そして、このプリハードン冷間工具鋼に表面PVD処理を行ったときには、その際の到達温度よりも高い温度で焼戻ししたことから、残留オーステナイトは殆ど分解せず、よって熱処理変形はほぼ0にまで低減される。