【実施例】
【0035】
以下、実施例に基づき、精子保存液及びこれを用いた人工授精方法について詳細に説明する。以下の実験に用いたブタ精液等について記す。
【0036】
(ブタ精液)
ブタの精液は、以下のようにして採精して用いた。採精に使用する雄ブタを、それぞれ個々の豚房で別々に飼育し、朝、夕の2回、計2.5kgの種ブタ用飼料を給餌した。ブタには、日本脳炎・ブタパルボウイルス感染症ワクチンの接種を行った。本検討には、ブタ繁殖・呼吸障害症候群(PRRS)、オーエスキー病に対して抗体陰性のブタを選択した。採精は、1週間間隔をあけて行った。採精前は、餌食い、病気の兆候等を確認し、良好なブタであることを確認し、ブタを興奮させないように採精を行った。疑牝台を雄ブタの豚房に入れ、雄ブタを台にのせ、ペニス及び包皮内を生理食塩水で洗浄し、尿を除去した。採精は手圧法で行い、予め滅菌したカップにガーゼをかぶせ、精液と共に出るゼリー状の物質である膠様物を除去しながら、精液をカップに入れた。このように採精した精液を以下の実験に用いた。
また、ブタ精漿は、上記のようにして採精した後、遠心分離によって精漿を精液から分離して用いた。
(精子の運動性及び直進運動速度の測定)
以下における精子運動性及び直進運動速度は、38℃のプレートの上に、精子を含有するサンプル(精液、精子を精漿で培養したもの、精液を各種精子保存液或いは培地で保存・培養したもの)を5μl載せ、運動性解析装置(Computer Aided Sperm Analysis(CASA)system)を用いて解析した。なお、精子の運動性は、観測される全精子中における動いている精子の割合が100分率で解析され、直進運動速度は、直進する精子の速度の平均が解析される。
【0037】
(実験1:ブタ精漿が精子の運動性に及ぼす影響)
まず、精子の運動性に及ぼす精漿成分の影響を検討した。精漿に曝されていないマウス精巣上体精子を取り出した。HTF培地(株式会社アイエスジャパン)に、6個体のブタ(識別ID:W327,L241,D717,D621,L284,L291)の精漿をそれぞれ加えて調製した10%ブタ精漿添加培地で、マウス精子を培養した。そして、経時的にマウス精子の運動性を測定した。
【0038】
その結果を
図1に示す。ブタ個体の違いにより、精漿添加によりマウス精子の運動性が低下する場合(W327,L241,D717)、高い運動性が維持される場合(D621,L284,L291)の両者が認められた。即ち、ブタ精漿は、個体により精子の運動性を維持することができる良好な精漿と、運動性を抑制或いは向上させる成分を有さない不良な精漿に分けられることがわかった。
【0039】
(実験2:ブタ精漿の分子量画分が精子の運動性に及ぼす影響)
ブタ精漿中に含まれる精子の運動性を抑制する因子或いは運動性を向上させる因子について明かにすべく、以下の実験を行った。
【0040】
限界濾過膜を用いた遠心分離にて、精漿を分子量10万以上、1−10万、5000−1万、5000以下に分子量分画した。いずれの画分についてもHTF培地に10%量となるよう添加し、10%ブタ精漿添加培地を調製した。そして、それぞれの10%ブタ精漿添加培地でマウス精巣上体精子を培養した。そして、1時間培養後の精子運動性を測定した。
【0041】
その結果を
図2に示す。分子量5000−1万、5000以下の分画において、精子の運動性が低下している。したがって、分子量1万以下の分画に1時間培養後の精子の運動性を低下させる因子が含まれていることがわかった。
【0042】
(実験3:ブタ精漿が精子の代謝能(ATP生産)に及ぼす影響)
ブタ精漿の分子量1万以下の低分子画分が、マウス精子の運動性を低下させることが明らかになったことから、精漿に含まれる代謝基質が精子の運動性に影響を及ぼしていると考えられる。そこで、精子の運動性に直接的に関わるATP生産量に及ぼす影響を検討した。
【0043】
マウス精巣上体精子を10%精漿添加THF培地で15分、30分、60分培養して回収した精子を蛍光発光法にてATP含有量の測定を行った。
【0044】
その結果を
図3に示す。15分培養後において、不良精漿(W327,L241,D717)において、15分培養後にATP含有量が増加し、60分後には低下していた。
【0045】
一方、良好精漿(D621,L284,L291)では、15分、30分、60分の培養では、精子のATP含有量に大きな変動は見られなかった。
【0046】
すなわち、不良精漿では一過的にATP合成が盛んに行われ、精子の運動性が向上するものの、それが持続せず、1時間後には運動性が低下してしまうことが示された。この結果から、長時間に渡って精子の運動性を維持するためには、精子の代謝量を一定に維持させる必要があることがわかった。
【0047】
(実験4:ブタ精漿のメタボローム解析(代謝基質の網羅的解析))
精漿を短期間で精子の運動性が低下する不良精漿、中庸な中庸精漿、長期間維持する良好精漿に区分し、それぞれの精漿中に含まれる基質成分を、キャピラリー電気泳動質量分析(CE−MAS)によりメタボローム解析を行った。なお、不良精漿、中庸精漿、良好精漿の区分は、実験1にて、2時間培養後の精子の運動性が30%以下に低下した精漿を不良精漿(D717)、精子の運動性が30〜60%であった精漿を中庸精漿(W327,L241)、精子の運動性が60%以上であった精漿を良好精漿(D621,L284,L291)と区分して行った。また、測定は、Agilent CE-TOFMS system(Agilent Technologies 社) Capillary : Fused silica capillary i.d. 50 μm × 80 cmを用い、以下の条件1又は2で行った。
<条件1>
Run buffer : Cation Buffer Solution (p/n : H3301-1001)
Rinse buffer : Cation Buffer Solution (p/n : H3301-1001)
Sample injection : Pressure injection 50 mbar, 10 sec
CE voltage : Positive, 27 kV
MS ionization : ESI Positive
MS capillary voltage : 4,000 V
MS scan range : m/z 50-1,000
Sheath liquid : HMT Sheath Liquid (p/n : H3301-1020)
<条件2>
Run buffer : Anion Buffer Solution (p/n : H3302-1021)
Rinse buffer : Anion Buffer Solution (p/n : H3302-1022)
Sample injection : Pressure injection 50 mbar, 25 sec
CE voltage : Positive, 30 kV
MS ionization : ESI Negative
MS capillary voltage : 3,500 V
MS scan range : m/z 50-1,000
Sheath liquid : HMT Sheath Liquid (p/n : H3301-1020)
【0048】
その結果を
図4に示す。本結果から、良好精漿と不良精漿に含まれる代謝物質が大きく異なっていることがわかる。精漿に含まれる代謝物質の相違から、良好精漿では精子のTCAサイクルが活性化されることが示唆された。そして、本解析からは、良好精漿にはアセチルCoAに変換され得る乳酸、グリシンが高値を示しており、一方、ピルビン酸等の嫌気的解糖系に関わる因子が低値を示していた。なお、良好精漿では、乳酸が5.304mM、グリシンが0.97mMであり、不良精漿では、乳酸が2.601mM、グリシンが0.524mMであった。なお、乳酸については、別途、乳酸測定キット(日東紡績株式会社製)を用いて測定した。
【0049】
(実験5:ブタ精漿中の乳酸含有量と精子運動性との関係の検証)
ブタ精液中のグルコース及び乳酸のそれぞれの濃度を測定するとともに、その精液を1時間培養した後の精子運動性を測定した。
【0050】
乳酸濃度と精子運動性との関係を
図5に示す。乳酸の含有量はサンプル間で大きく異なり、精子の運動性と正の相関関係が認められた(r=0.5286,p=0.0008)。
図5に示した理論値からは、乳酸濃度が凡そ4.5mM以上で精子の運動性が70%程度を越えており、凡そ5mM以上で精子の運動性が80%を越えている。このことから、精子保存液中の乳酸濃度は4.5mM以上であることが好ましく、5mM以上であることがより好ましいと考えられる。また、
図5では、乳酸濃度が高いほど精子運動性は高い傾向にあるが、後述の実験6で乳酸濃度が15mMの場合に精子運動性が低下していること、及び、
図5から乳酸濃度が10mMを超える精漿の個体が見受けられなかったことから、乳酸濃度は10mM以下であることが好ましいと考えられる。なお、グルコースの含有量はいずれの精漿中でも検出限界以下で低濃度であり有意な差はなかった。
【0051】
(実験6:乳酸、グリシンを含有する精子保存液が精子運動性に及ぼす影響)
そこで、良好な精漿に多量に含まれていた代謝基質である乳酸、グリシンをモデナ液に添加して精子保存液を調製し、この精子保存液がブタ精子の運動性に及ぼす影響を検証した。
【0052】
モデナ液に乳酸を添加し、乳酸含有量が5mM、15mMの精子保存液をそれぞれ調製した。また、モデナ液にグリシン含有量が0.5mM、1.0mMの精子保存液をそれぞれ調製した。
【0053】
それぞれの精子保存液でブタ精液を1×10
8sperm/mlに希釈して、15℃で保存した。また、参照実験として、モデナ液をそのまま用い、モデナ液にブタ精液を加えて同様に培養した。
【0054】
保存開始から三日後に、37℃に加温後の精子運動性の測定を行った。その結果を
図6に示す。
【0055】
保存3日後では、乳酸5mM添加区、グリシン0.5mM添加区及びグリシン1.0mM添加区では、乳酸、グリシンのいずれも添加されていない無添加区(Control)に比べて、精子運動性は有意に高い値を示した。精子保存液がグリシン、乳酸を含有していることによって、ブタ精子は長期間運動性を維持することが証明された。
【0056】
(実験7:精子保存液中の溶存酸素量に及ぼす影響)
更に、保存後の精子保存液中の溶存酸素量を測定することで、乳酸、グリシンを含有する精子保存液において、精子の嫌気的解糖系が抑制され酸素呼吸が促進されることを検証した。
【0057】
モデナ液に乳酸及びグリシンを加え、乳酸5mM、グリシン1mMの精子保存液をそれぞれ調製した。
【0058】
それぞれの精子保存液にブタ精液を加えて1×10
8sperm/mlに希釈し、37℃で培養した。また、参照実験として、モデナ液をそのまま用い、モデナ液にブタ精液を加えて同様に培養した。また、良好なブタ精液をそのまま培養した。
【0059】
そして、30分培養後、それぞれの精子保存液中の酸素分圧を測定し、精子保存液中に溶存している酸素濃度を算出した。
【0060】
その結果を
図7に示す。モデナ液に比べて、乳酸5mM添加区及びグリシン1mM添加区では、良好な精液と同様、精子保存液中の酸素濃度が有意に減少していた。即ち、乳酸5mM添加区及びグリシン1mM添加区では、精子による酸素消費量(呼吸量)が有意に増加していることがわかった。
【0061】
精子保存液に乳酸、グリシンが添加されていることにより、酸素呼吸が活発化することが示された。即ち、酸素呼吸によるATP生産が促され、精子が持続的に運動可能になっていることが関連付けられた。
【0062】
(実施例1:ラクトースを含有する精子保存液が精子運動性に及ぼす影響)
一般的な精子保存液であるモデナ液では、栄養源として、グルコースが150mM程度添加されている。グルコースは嫌気的解糖系の基質であるため、嫌気的解糖系により一過的なATP合成が起こり、長期間に渡った運動性の維持に支障をきたしていると考えられる。
【0063】
そこで、モデナ液に含まれるグルコースを除去し、グルコース除去に伴う浸透圧低下を嫌気的解糖系の非基質となる糖に置換して調整し、嫌気的解糖を抑制して、精子の運動性が長時間維持されるか否か検証した。
【0064】
モデナ液から、グルコースを除去した後、これに、ラクトース及びグルコースを添加し、
ラクトースとグルコースとのモル比が10:0(10:0区)、9:1(9:1区)、8:2(8:2区)、7:3(7:3区)、5:5(5:5区)である精子保存液を調製した。
【0065】
また、参照実験として、モデナ液に乳酸及びグリシンを加えた精子保存液(0:10区)を調製した。
【0066】
それぞれの精子保存液の組成は表1に示す通りである。なお、精子保存液のpHはいずれも7.0〜7.1、浸透圧はいずれも328〜337mOsmkgである。
【0067】
【表1】
【0068】
ブタ精液をそれぞれの精子保存液で1×10
8sperm/mlに希釈し、15℃で10日間保存し、10日後の運動性を測定した。その結果を
図8に示す。
【0069】
図8を見ると、ラクトースを含有していない0:10区の精子保存液に比べて、ラクトースを含有する処理区の精子保存液では、いずれも精子運動性は有意に高い値を示している。また、8:2区、7:3区及び5:5区でより高い精子運動性を示している。
【0070】
さらに、精子の活力を示す直進運動速度を解析した。その結果を
図9に示す。
【0071】
図9を見ると、8:2区が最も高い直進運動速度を示している。直進運動速度が高い精子ほど受精能が高いことから、8:2区の精子保存液が最も長期間精子の受精能を高く維持させ得ることがわかった。
【0072】
(実施例2:その他の嫌気的解糖系の非基質となる糖を含有する精子保存液が精子運動性に及ぼす影響)
ラクトースの他、嫌気的解糖系の非基質となる糖(ガラクトース、スクロース)についても上記と同様に行った。
【0073】
モデナ液から、グルコースを除去した後、これに、乳酸及びグリシン並びに種々の嫌気的解糖系の非基質となる糖及びグルコースを添加し、乳酸が5mM、グリシンが1mM、嫌気的解糖系の非基質となる糖が120mM、グルコースが30mMである精子保存液を調製した。嫌気的解糖系の非基質となる糖として、ガラクトース、ラクトース、スクロースを用い、それぞれを添加して得られた精子保存液をガラクトース区、ラクトース区、スクロース区と記す。
【0074】
また、参照実験として、モデナ液に乳酸5mM及びグリシン1mMを加えた精子保存液(グルコース区)を調製した。
【0075】
そして、各精子保存液でブタ精液を1×10
8sperm/mlに希釈し、10日間15℃で保存して、10日後の精子の運動性及び直進運動速度を測定した。精子運動性の測定結果を
図10に、直進運動速度の測定結果を
図11にそれぞれ示す。なお、
図10及び
図11におけるDay0は、用いたブタ精液を精子保存液で希釈する前の精子運動性及び直進運動速度である。
【0076】
図10を見ると、グルコース区に比べて、嫌気的解糖系の非基質となる糖を含有するガラクトース区、ラクトース区及びスクロース区では、精子の運動性は有意に高い値を示した。
【0077】
また、
図11を見ると、精子の直進運動速度についても、グルコース区に比べて、嫌気的解糖系の非基質となる糖を含有するガラクトース区、ラクトース区及びスクロース区では高い値を示した。グルコースから嫌気的解糖系の非基質となる糖に置換することで、ブタ精子を長期間高い活力で保存可能であることが明らかとなった。なお、精子の直進運動速度では、ラクトース区が最も高い値を示しており、嫌気的解糖系の非基質となる糖のなかでラクトースであることが最も好ましいことがわかった。
【0078】
(実施例3:精子のミトコンドリア代謝能)
続いて、ミトコンドリアの代謝機能(酸素呼吸能)が亢進されているかを確認した。
【0079】
実施例1の8:2区(ラクトース:グルコースのモル比が8:2、乳酸5mM、グリシン1mM)の精子保存液でブタ精液を精子保存液で1×10
8sperm/mlに希釈した。そして、これにローダミンを添加し染色した。ローダミンはミトコンドリアの膜電位により蛍光を発する。そして、これを7日間培養した。また、参照実験として、モデナ液をそのまま用い、同様に行った。
【0080】
その結果を
図12に示す。モデナ液に比べて、8:2区の精子保存液で保存した精子では、ローダミン蛍光が強い精子の割合が増加し、ミトコンドリアの活性が高まっていることがわかる。したがって、ミトコンドリアの代謝機能が亢進され、精子の長期間保存後でも十分な運動性及び受精能が担保されることが明かになった。
【0081】
(実施例4:人工精液によるブタの人工授精)
実施例1の8:2区(ラクトース:グルコースのモル比が8:2、乳酸5mM、グリシン1mM)の精子保存液でブタ精液を1×10
8sperm/mlに希釈し、液状精液を調製した。液状精液は保存5日以内にブタの人工授精に用いた。
【0082】
人工授精は、自然発情の雌ブタを用いて行った。上述のように調製した人工精液50ml(総精子数50億)を19頭の雌ブタの子宮にそれぞれ注入し、人工授精を行った。
【0083】
人工授精後、21日目に超音波妊娠鑑定にて胎子をモニターで確認した。21日目に行うのは、ブタは21日周期で発情がくるため、受精後21日目に妊娠鑑定をする際、受精していない、若しくは受精卵が退行した等があれば、陰部は発情の兆候を示すためである。また、同時に21日目にノンリターン法にて再発情(リターン)がきているかどうかも確認し、妊娠を決定した。
【0084】
その結果、ラクトースを含有する精子保存液で調製した人工精液では、19頭中17匹が受胎し、受胎率は89%であった。モデナ液で調製された人工精液で行われた人工授精の統計では受胎率が76%であるところ、著しく高い値を示した。
【0085】
このように、嫌気的解糖系の非基質となる糖、乳酸、グリシンを含有する精子保存液では、ブタ精子を長期保存した後でも、ブタ精子の受精能が維持され、受胎率の向上に資することを確認した。