(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】5920768
(24)【登録日】2016年4月22日
(45)【発行日】2016年5月18日
(54)【発明の名称】Sirt1関連遺伝子の発現増進剤
(51)【国際特許分類】
A61K 36/899 20060101AFI20160428BHJP
A61P 43/00 20060101ALI20160428BHJP
【FI】
A61K36/899
A61P43/00 111
【請求項の数】4
【全頁数】12
(21)【出願番号】特願2011-282697(P2011-282697)
(22)【出願日】2011年12月26日
(65)【公開番号】特開2013-133279(P2013-133279A)
(43)【公開日】2013年7月8日
【審査請求日】2014年9月19日
(73)【特許権者】
【識別番号】504173471
【氏名又は名称】国立大学法人北海道大学
(73)【特許権者】
【識別番号】592022372
【氏名又は名称】坂元醸造株式会社
(74)【代理人】
【識別番号】110000774
【氏名又は名称】特許業務法人 もえぎ特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】柴山 良彦
(72)【発明者】
【氏名】長野 正信
(72)【発明者】
【氏名】藤井 暁
(72)【発明者】
【氏名】上野 知子
【審査官】
鳥居 福代
(56)【参考文献】
【文献】
特開2011−168540(JP,A)
【文献】
特開2003−342188(JP,A)
【文献】
特開昭62−120320(JP,A)
【文献】
特開2007−217368(JP,A)
【文献】
特開2009−161494(JP,A)
【文献】
特開2009−256309(JP,A)
【文献】
特開2010−024208(JP,A)
【文献】
Metabolism: clinical and experimental,2011年 3月,Vol.60, No.3,p.394-403
【文献】
Diabetes,2008年,Vol.57, No.12,p.3222-3230
【文献】
Biochemical and biophysical research communications,2005年,Vol.337, No.4,p.1092-1096
【文献】
Chemistry and physics of lipids,2011年 9月,Vol.164, No.6,p.500-514
【文献】
The Journal of biological chemistry,2009年,Vol.284, No.33,p.22195-22205
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
A61K 36/00−36/9068
A61K 9/00−9/72
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
CAplus/MEDLINE/EMBASE/BIOSIS(STN)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
黒酢を有効成分として含む、Sirt1関連遺伝子の発現増進剤であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択され、遺伝子の発現増進はmRNAおよび/またはタンパク質の増加として表れる、発現増進剤(ただし、食品としての態様は除く)。
【請求項2】
黒酢から酢酸およびその他の揮発性成分を除去したものを有効成分として含む、Sirt1関連遺伝子の発現増進剤であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択され、遺伝子の発現増進はmRNAおよび/またはタンパク質の増加として表れる、発現増進剤(ただし、食品としての態様は除く)。
【請求項3】
ヒト以外の哺乳類において、黒酢を有効成分として含む組成物を投与する工程を含む、Sirt1関連遺伝子のmRNAおよび/またはタンパク質の発現を増進させる方法であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択される、方法。
【請求項4】
ヒト以外の哺乳類において、黒酢から酢酸およびその他の揮発性成分を除去したものを有効成分として含む組成物を投与する工程を含む、Sirt1関連遺伝子のmRNAおよび/またはタンパク質の発現を増進させる方法であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択される、方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、黒酢または黒酢由来成分を有効成分として含む、Sirt1関連遺伝子の発現増進剤に関する。本発明はまた、前記発現増進剤を用いてSirt1関連遺伝子の発現を増進させる方法に関する。
【背景技術】
【0002】
Silent information regulator 2(Sir2)のホモログであるサーチュイン(Sirtuin)遺伝子ファミリーは、クラスIIIヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)の一種であり、NAD
+依存的にヒストンおよびその他の特定のタンパク質の脱アセチル化を行う酵素である。Sirtuin1(Sirt1)はカロリー制限により発現が増進することが知られており、カロリー制限により引き起こされる寿命の延長において中心的な役割を果たしていると考えられている。Sirt1はさらに、代謝、がんの防止、ゲノムの安定性、内分泌シグナル系、ストレス応答性、認知機能など、加齢や寿命を制御する多様な生物学的機能において役割を果たしており、直接的または間接的に生命個体の寿命を延長させる機能を有すると考えられている(非特許文献1)。これらは、Sirt1が長寿遺伝子としばしば呼ばれる所以である。
【0003】
Pgc-1αは、Sirt1と相互作用し、糖代謝および脂質代謝を制御している(非特許文献2,3)。また、昆虫においてPgc-1αのホモログの発現強化が個体の寿命延長を引き起こすという報告もある(非特許文献4)。
【0004】
Igfbp1はインスリン様成長因子結合タンパク質であり、インスリン様成長因子Igfの消失を調節する。Igfはがんや糖尿病、加齢への関与が示唆されており、血清中のIgfbp1が高値であると空腹時血糖値、空腹時インスリン、肥満症が低くなることが報告されている(非特許文献5)。Sirt1はIgfbp1を介してIgfシグナリングを制御することが示唆されている(非特許文献6、7)。
【0005】
Lpin1は中性脂肪の代謝に関係し、脂質代謝異常症、インスリン抵抗性と関連も示唆されている(非特許文献8、9)。Lpin1は前述のPgc-1αと複合体を形成して機能することによりSirt1とリンクしており、またLpin1遺伝子自体もLXRというタンパク質を介してSirt1により制御される(非特許文献9)。
【0006】
Ucp2はミトコンドリアにおいてエネルギー代謝の制御に関わる遺伝子であり、その発現が個体の寿命と相関することが報告されている(非特許文献10)。Ucp2はまた、脱アセチル化酵素であるSirt1のターゲットでもある(非特許文献11)。
【0007】
上で言及した遺伝子群は、各々、Sirt1と密接に関連する機能を有しており、また実際に、それぞれ何らかのレベルでSirt1と影響を与え合いながら協働的に機能していることがわかる。従って本明細書では、Sirt1遺伝子を含めてこれらの遺伝子をSirt1関連遺伝子と総称する。
【0008】
Sirt1およびその他のSirt1関連遺伝子の発現を制御することは、代謝系疾患やがんを含むいわゆる成人病を予防または治療する上で有用であると考えられ、ひいては長寿を達成することにもつながると考えられる(非特許文献12)。
【0009】
Sirt1の機能を制御する方法としては、mRNAやタンパク質の量を調節するよりもむしろ、酵素活性そのものを調節するアプローチが多くとられてきた(例えば、特許文献1〜3および非特許文献13)。一方で、特許文献4は、各種植物材料の抽出物を培養細胞に加えるとSirt1のmRNA発現が最高で1.5倍まで上昇することを開示している(特許文献4)。Pgc-1αについては、β2受容体を刺激する薬剤であるクレンブテロールがPgc-1αのmRNA発現を増進することが開示されているが(特許文献5)、クレンブテロールは中毒などの有害作用を有することが知られており、その適用性には制限があると考えられる。その他、ケンフェロール3-0-グルコシドという化合物の投与によりLpin1のmRNA発現が用量依存的に上昇することが開示されており(特許文献6)、また、Ucp2のmRNA 発現を上昇させ得る化合物として、昆布抽出物に含まれるフコキサンチン(特許文献7)、Sirt1の酵素活性化剤としても知られる化合物であるレスベラトール(特許文献8)、およびアミノグアニジンカルボン酸(特許文献9)が開示されている。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0010】
【特許文献1】特開2009−126799号公報
【特許文献2】特開2007−326872号公報
【特許文献3】特表2009−500357号公報
【特許文献4】特開2009−161494号公報
【特許文献5】特開2007−217368号公報
【特許文献6】特開2009−256309号公報
【特許文献7】特開2010−270021号公報
【特許文献8】特開2010−024208号公報
【特許文献9】特表2002−508770号公報
【非特許文献】
【0011】
【非特許文献1】Recent progress in the biology and physiology of sirtuins. Finkel T et al., Nature. 2009; 460: 587-91.
【非特許文献2】Nutrient control of glucose homeostasis through a complex of PGC-1alpha and SIRT1. Rodgers JT et al., Nature. 2005; 434:113-8.
【非特許文献3】PGC-1 coactivators: inducible regulators of energy metabolism in health and disease. Finck BN and Kelly DP, J Clin Invest. 2006; 116:615-22.
【非特許文献4】Modulation of longevity and tissue homeostasis by the Drosophila PGC-1 homolog. Rera et al., Cell Metab. 2011; 14: 623-34.
【非特許文献5】Serum insulin-like growth factor-1 binding proteins 1 and 2 and mortality in older adults: the Health, Aging, and Body Composition Study. Hu D et al., J Am Geriatr Soc. 2009; 57: 1213-8.
【非特許文献6】The Sirt1 deacetylase modulates the insulin-like growth factor signaling pathway in mammals. Lemieux et al., Mech Ageing Dev. 2005; 126: 1097-105.
【非特許文献7】FoxO-dependent and -independent mechanisms mediate SirT1 effects on IGFBP-1 gene expression. Gan et al., Biochem Biophys Res Commun. 2005; 337: 1092-6.
【非特許文献8】Lipin expression is attenuated in adipose tissue of insulin-resistant human subjects and increases with peroxisome proliferator-activated receptor gamma activation. Yao-Borengasser A et al., Diabetes. 2006; 55: 2811-8.
【非特許文献9】PPAR control: it's SIRTainly as easy as PGC. Sudgen et al., J Endocrinol. 2010; 204: 93-104.
【非特許文献10】Uncoupling protein-2 regulates lifespan in mice. Andrews and Horvath, Am J Physiol Endocrinol Metab. 2009; 296: E621-7.
【非特許文献11】Metabolic benefits from Sirt1 and Sirt1 activators. Chaudhary and Pfluger, Curr Opin Clin Nutr Metab Care. 2009; 12: 431-7.
【非特許文献12】Sirtuins in aging and age-related disease. Longo VD and Kennedy BK. Cell. 2006; 126: 257-68.
【非特許文献13】The Sirtuin family: therapeutic targets to treat diseases of aging. Milne JC and Denu JM. Curr Opin Chem Biol. 2008; 12: 11-7.
【非特許文献14】The use of body surface area as a criterion of drug dosage in cancer chemotherapy. PINKEL D. Cancer Res. 1958; 18: 853-6.
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0012】
本発明の目的は、安全かつ経済的に、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択されるSirt1関連遺伝子の発現を増進させる方法を提供すること、および、その方法を達成するための手段となるもの、すなわちSirt1関連遺伝子の発現増進剤を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0013】
本発明者らは、米、麹、水から製造される黒酢、または当該黒酢に由来する成分を有効成分とする組成物の投与により、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1およびUcp2遺伝子の発現が、mRNA発現および/またはタンパク質発現のレベルにおいて増進することを見出し、本発明を完成させるに至った。
【0014】
すなわち、本発明は以下に示す事項を含む。
(1)黒酢を有効成分として含む、Sirt1関連遺伝子の発現増進剤であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択され、遺伝子の発現増進はmRNAおよび/またはタンパク質の増加として表れる、発現増進剤。
(2)黒酢の凍結乾燥物を有効成分として含む、Sirt1関連遺伝子の発現増進剤であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択され、遺伝子の発現増進はmRNAおよび/またはタンパク質の増加として表れる、発現増進剤。
(3)哺乳類において、黒酢を有効成分として含む組成物を投与する工程を含む、Sirt1関連遺伝子のmRNAおよび/またはタンパク質の発現を増進させる方法であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択される、方法。
(4)哺乳類において、黒酢の凍結乾燥物を有効成分として含む組成物を投与する工程を含む、Sirt1関連遺伝子のmRNAおよび/またはタンパク質の発現を増進させる方法であって、Sirt1関連遺伝子が、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択される、方法。
(5)Sirt1関連遺伝子のmRNAおよび/またはタンパク質の発現が、肝臓において増進される、(3)または(4)に記載の方法。
(6)哺乳類が、ヒトである、(3)〜(5)のいずれかに記載の方法。
(7)哺乳類が、ヒト以外である、(3)〜(5)のいずれかに記載の方法。
【0015】
本発明において、「黒酢」とは、JAS法により規定される米酢の一種であり、米に麹と水を加えて発酵・熟成させることにより製造される米黒酢を意味する。米黒酢は、酢1リットルにつき180グラム以上の米を使用して製造されること、および、少なくとも半年間という長い熟成期間を経ることにより褐色または黒褐色を帯びるようになっていること、により他の穀物酢から区別される。特に、玄米を3%削った3分搗き米に種麹をまいたものである「混ぜ麹」、3分搗き米を蒸した「蒸し米」、および水、をこの順序で陶器の壺に入れ、最後に麹で水面を均一に覆って、壺にふたをし、半年以上置いて発酵させ、さらに半年以上置いて熟成させることにより製造される米黒酢が好ましい。本発明において好ましく使用できる黒酢は、例えば坂元醸造株式会社から入手できる。黒酢は約4%の酢酸を含み、その他、タンパク質、オリゴペプチド、アミノ酸、有機酸等を含んでいると考えられるが、詳しい組成は理解されていない。
【0016】
本発明において、「黒酢凍結乾燥物」とは、少なくとも1回の凍結乾燥などの処理により黒酢から酢酸およびその他の揮発性成分を除去したものをいう。凍結乾燥処理の手段は、当業者に知られるいずれかのものを適宜選択すればよい。例えば、東京理科器械の凍結乾燥機FD−81により凍結乾燥処理を行うことができる。酢酸をより完全に除去するためには、黒酢の凍結乾燥処理により得られた粉末を水に溶解し、その溶液を再び凍結乾燥処理するという操作を繰り返すことが好ましい。当該操作は例えば1回、2回、3回、または4回繰り返すことができる。一般的な凍結乾燥処理ではなく他の種類の処理によって得られたものであっても、揮発性成分が除去されたものという点で実質的に同一であれば、本発明の凍結乾燥物に含まれるとする。
【0017】
黒酢凍結乾燥物は、凍結乾燥処理の直後は粉末の状態であるが、その粉末を水に溶解することにより、酢酸およびその他の揮発性成分を含まないが黒酢のそれ以外の成分を含む水溶液が得られる。この黒酢凍結乾燥物の水溶液を、黒酢凍結乾燥物水溶液と呼ぶ。溶解に用いる水の体積が凍結乾燥前の黒酢の体積よりも小さい場合は、得られた水溶液を特に「黒酢濃縮液」と呼ぶ。例えば、1000 mlの黒酢を上記のとおり凍結乾燥処理し、最終的に100 mlの水に溶解して得られた溶液は、黒酢凍結乾燥物を含有する黒酢濃縮液であり、この場合は特に黒酢10倍濃縮液ということもできる。
【0018】
「黒酢由来成分」とは、黒酢に含有されており黒酢から分離され得るあらゆる成分を意味する。本明細書では特に、黒酢凍結乾燥物に含有されている成分や、黒酢濃縮液の画分の凍結乾燥物を黒酢由来成分と呼ぶことがある。なお、「成分」という語は単一の化合物を必ずしも意味するものではなく、多数の化合物からなる混合物を成分と呼ぶこともある。
【0019】
本発明のSirt1関連遺伝子発現増進剤は、黒酢、黒酢凍結乾燥物または黒酢由来成分を単独で含んでいてもよいが、黒酢、黒酢凍結乾燥物または黒酢由来成分の効果を完全に損なわない限り他の成分を追加で含んでいてもよいことは当業者には当然に理解される。医薬製剤または食品加工の分野で知られる賦形剤、希釈剤、溶剤、増粘剤、乳化剤、pH調整剤、緩衝剤、安定化剤、保存剤、調味料、香料等が、追加の成分の例として挙げられる。当業者は、製剤や投与の様式に応じて適切な追加成分を選択することができる。本発明の発現増進剤の製造において、黒酢凍結乾燥物(または黒酢由来成分)は、粉末の状態で使用されてもよいし、溶液、例えば水溶液、特に黒酢濃縮液の状態で使用されてもよい。本発明の発現増進剤中に占める黒酢、黒酢凍結乾燥物または黒酢由来成分の割合は、質量にして、1%以上、3%以上、5%以上、10%以上、30%以上、50%以上、70%以上、または90%以上であることが好ましく、100%であってもよい。
【0020】
一般的に、遺伝子の「発現」という用語は、その遺伝子の翻訳産物すなわちタンパク質の産生のことを指すが、より広義には、その遺伝子の転写産物すなわちmRNAの産生のことを指すこともある。本明細書では、「発現」と言えば特にことわりがない限りタンパク質のレベルにおける発現とmRNAのレベルにおける発現の両方を指すものとする。タンパク質のレベルにおける発現量増加はその遺伝子の機能を遂行する最終産物の増加を反映し、mRNAのレベルにおける発現量増加はその遺伝子の活性化に伴う直接的な結果を反映する。一般的にmRNA発現の増加はタンパク質発現の増加につながると推定することが通常であるが、マイクロRNAによるタンパク質翻訳への影響などにより、mRNA発現とタンパク質発現の増加は必ずしも相関しないことがある。例えば転写後制御のためにmRNAがすぐには翻訳されない場合、または産生されるタンパク質が迅速な分解や翻訳後修飾等の理由で検出を逃れる場合など、mRNA発現の上昇が検出されてもタンパク質発現の上昇は検出されないことはあり得る。いずれにせよ、mRNA発現の上昇がその遺伝子の機能の亢進の基礎となり得ることに変わりはない。逆に、例えば薬剤の投与が翻訳メカニズムやタンパク質安定化に対して作用する場合などにおいて、mRNA発現は上昇しないがタンパク質発現だけが上昇するということも起こり得る。
【0021】
特定のタンパク質の発現を検出または定量するための種々の方法は、当業者にはよく知られており、例えばウェスタンブロッティング、ELISA、免疫染色などが挙げられる。当業者は、個々のタンパク質の特性に合わせて、適切な検出方法または定量方法を選択または設計できる。特定のmRNAの発現を検出または定量するための種々の方法も、当業者にはよく知られており、例えばノザンブロッティング、RT-PCR、マイクロアレイなどが挙げられる。各遺伝子に特異的なプローブおよびプライマーを併用するTaqMan系によるRT-PCRは、感度、定量性、特異性において優れており、好ましい。
【0022】
本発明の発現増進剤を投与する対象となる個体は、哺乳類ならばどのような種でもよく、特にマウスまたはヒトが好ましい。特に、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択されるSirt1関連遺伝子の発現の減少もしくは不足により引き起こされる疾患もしくは障害を有する個体、または、前記疾患もしくは障害を予防することが特に必要とされる個体が、本発明の発現増進剤を投与する対象として好ましい。これらの個体の例としては、代謝障害の患者、脂質代謝異常症の患者、糖尿病の患者、がんの患者、メタボリックシンドロームの患者、およびこれらの疾患もしくは障害にかかるリスクが高まっており予防措置を必要とする個体、ならびに肥満の個体、年齢的に中年以上の個体が挙げられる。本発明の発現増進剤の投与によりSirt1関連遺伝子の発現が増進する組織は特に限定されず、例えば肝臓、脂肪組織、膵臓、腎臓、心血管系組織、造血系組織、血液細胞、免疫系細胞、神経系組織、消化器系組織、呼吸器系組織、生殖系組織、皮膚組織、骨組織、筋肉等が挙げられる。また、本発明の発現増進剤を培養組織や培養細胞に対してインビトロで投与する態様も想定される。
【0023】
本発明の発現増進剤を投与する方法については特段の制限はないが、経口投与が特に好ましい。実質的に全身に黒酢の成分を送達する投与方法としては経口投与の他に血管内投与も考えられ、また、局所的投与により身体の特定の部分においてのみSirt1関連遺伝子の発現を増進させることも考えられる。
【0024】
本発明の発現増進剤を投与する量については、特段の制限はない。好ましい投与量の一例は、1日につき体表面1平方mあたり18mlの黒酢に相当する量(例えばマウスの場合ならば1日につき7.5mlの黒酢に相当する量、ヒトの場合ならば1日につきおよそ30mlの黒酢に相当する量)であり、適宜これより多くしてもよいし、少なくしてもよい。例えば、1日につき体表面1平方mあたり1〜1000mlの黒酢に相当する量、または1日につき体表面1平方mあたり10〜100mlの黒酢に相当する量を投与できる。本発明の発現増進剤は、数日間、たとえば10日間、毎日続けて投与することが好ましいが、投与の頻度や間隔は適宜変更できる。
【実施例】
【0025】
本発明を実施するための具体的な態様の例を以下に記述する。これらは例示であって、本発明はこれらの実施例に限定されるものではない。
【0026】
黒酢
坂元醸造株式会社から市販されている「坂元のくろず」(商品名)を実施例における黒酢として使用した。
【0027】
黒酢凍結乾燥物および黒酢濃縮液の調製
上記の黒酢1000 mlを、東京理科器械の凍結乾燥機FD−81により凍結乾燥処理し粉末化した。これに蒸留水を加え、再び凍結乾燥処理を行った。この作業を4回繰り返し、黒酢中の酢酸を完全に除去した。得られた粉末を蒸留水100 mlに溶解し、黒酢濃縮液を得た。
【0028】
黒酢濃縮液画分の調製
上記の方法で得られた黒酢濃縮液10 mlをBio Gel P-4(分画レンジ800-4000ダルトン)(バイオ・ラッド ラボラトリーズ社)カラムに適用し、溶出液の吸光度を280 nmの波長において観測したところ5つのピークが見られ、各ピークを含む溶出液を画分として回収した。これらの画分は、溶出が早いものから順に画分I、II、III、IV、Vと番号付けをした。分離条件は以下の通りである。
サンプル:黒酢10倍濃縮液 10 ml
溶離液:超純水
流速:3 ml/min
ゲルベッド:φ5×60 cm
分取:30 ml/本
分取量:
I:30 ml×25本(1〜25本目)=750 ml
II:30 ml×12本(26〜37本目)=360 ml
III:30 ml×14本(38〜51本目)=420 ml
IV:30 ml×14本(52〜65本目)=420 ml
V:30 ml×55本(66〜120本目)=1650 ml
上記画分を回収し、凍結乾燥にて粉末化し、得られた凍結乾燥物の量が以下のとおり。
I:0.335g、II:1.3804g、III:0.0297g、IV:0.0249g、V:0.0441g
画分III〜Vは、280 nmの吸光度について画分IおよびIIと匹敵する大きさのピークを示していたにもかかわらず、わずかな乾燥重量しか含んでいなかった。このことは、これらのピークは必ずしも分子量に基づいて分離されたものではない可能性を示唆している。従って、当該分画実験は、黒酢凍結乾燥物の大部分(乾燥重量にして約95%)が画分IおよびIIにおいて回収されたということを示す以外、黒酢成分の分子量について有用な情報を提供するものではない。
投与実験には、主要画分である画分IおよびIIを用いた。
【0029】
動物
オスのC57BL/6Jマウス(体重18 ± 2 g(平均± SD))は、株式会社ホクドーから入手し、標準飼育環境(室温21 ± 2℃の換気された飼育室、12時間明暗サイクル)で維持した。実験期間中、マウスはマウス用飼料を与えられ、水も自由に飲めるようにした。黒酢、黒酢由来成分あるいは水を10日間連続して1日1回、用手的に経口投与した。投与終了の翌日、マウスから肝臓を摘出した。RNAの分析用にはRNA を安定化および保護するため保存試薬であるRNAlater(Life technologies社、Carlsbad, CA, USA)に摘出臓器を浸透させて−30℃で保存した。タンパク質の分析用には、摘出した臓器をそのまま、分析する時まで−30℃で保存した。全ての動物実験は北海道大学における実験動物の使用と飼育のための基準に基づいて行った。
【0030】
抗体
ウェスタンブロッティングに使用した一次抗体およびその入手先は以下の通り:ウサギ抗PGC-1αポリクローナル抗体(Cayman Chemical, 101707, MI, USA)、マウス抗SIRT1 モノクローナル抗体(Abnova, 7c2, Taipei, Taiwan)、ウサギ抗IGFBP1ポリクローナル抗体 (ProteinTech Group, Inc., No. 13981-1-AP, Chicago, USA)、ウサギ抗LPIN1ポリクローナル抗体(Abnova, PAB12400, Taipei, Taiwan)、マウス抗UCP2ポリクローナル抗体(Abnova, B01P, Taipei, Taiwan)、マウス抗βアクチンモノクローナル抗体(Sigma-Aldrich, A2228, clone AC-74, St. Louis, USA)。
使用した二次抗体は、ホースラディッシュぺルオキシダーゼ(HRP)コンジュゲートを有する抗ウサギIgG抗体および抗マウスIgG抗体(ナカライテスク、京都)である。
【0031】
試薬および機器
組織サンプルからのRNAの抽出はTRIzol (Life technologies社、Carlsbad, CA, USA)を用いて行った。RNAの逆転写はAMV Reverse Transcriptase XL(タカラバイオ株式会社、大津)を用いて行った。TaqMan Gene Expression AssayはLife technologies社から購入した(Carlsbad, CA, USA)。なお、ここで使用した遺伝子特異的なTaqManプローブおよびプライマーは、当該Assayの一部として同社により提供されているものであり、使用した試薬のID番号は以下の通りである。beta-actin: Mm00607939_s1, Sirt1: Mm01168521_m1, Pgc1 alpha: Mm00447181_m1, Lpin1: Mm01276800_m1, Igfbp1: Mm00833447_m1, Ucp2: Mm00627599_m1。THUNDERBIRD(登録商標)Probe qPCR Mixは東洋紡株式会社(大阪)から購入した。これらの試薬、およびMx3000Pシステム(Agilent technologies, Santa Clara, USA)を使用して、標準的な方法で定量的リアルタイムPCRを行い、各mRNAを定量化した。
ニトロセルロースメンブレン、ECLウェスタンブロッティング検出システム、およびHyperfilm ECLは、GE Healthcare UK Ltd.(Buckinghamshire, UK)から購入した。Protease inhibitor cocktailタブレット(Complete(登録商標)、EDTA フリー)は、Roche Diagnostics GmbH(Basel, Switzerland)から購入した。肝臓組織は、250 mMのスクロースおよび適量のProtease inhibitor cocktailを含むバッファー(pH 7.4)中でホモジェナイズすることにより、タンパク質を抽出した。これらの試薬や材料、並びに上記の抗体を使用して、標準的な方法でウェスタンブロッティング実験を行い、各タンパク質を定量化した。ウェスタンブロッティングで分離した総ホモジネートのタンパク質の総量と抗体の希釈率は以下の通り。抗βアクチン:4 μg、100,000倍、抗PGC-1:4 μg、500倍、抗SIRT1:4 μg、500倍、抗IGFBP1:8 μg、500倍、抗LPIN1:8 μg、1,000倍、抗UCP2:8 μg、1,000倍、二次抗体:1,000倍。ECL Western blotting reagentによる化学発光とHyper film ECLへの感光により標的タンパク質を検出した。感光させたフィルムはスキャナーでTIFFデータとして画像化し、Image J(http://rsbweb.nih.gov/ij/)を用いて発現量の定量を行った。
【0032】
実施例1:黒酢または黒酢濃縮液の投与の、Sirt1関連遺伝子mRNA発現への影響
【0033】
上記のように調製された黒酢および黒酢濃縮液を、下に示す用量にて、1日1回、10日間、用手的にマウスに経口投与した。比較のために、水または4%酢酸を投与する実験も並行して行った。酢酸と黒酢は、1当量の炭酸水素ナトリウムを加えて中和してから使用した。
【0034】
各群における1日あたりの投与量は以下の通り。
水投与群:体重1 kgあたり水を7.5 ml
酢酸投与群:体重1 kgあたり4%酢酸水溶液を7.5 ml
黒酢投与群:体重1 kgあたり黒酢(無希釈・無濃縮の原液)を7.5 ml
黒酢濃縮液投与群:体重1 kgあたり、黒酢10倍濃縮液を水で10倍に希釈したもの(すなわち、黒酢凍結乾燥物を元の黒酢と同体積の水に溶解した、黒酢凍結乾燥物水溶液)を7.5 ml
【0035】
マウスにおける7.5 ml/kgという投与量は、体表面積あたり18 ml/m
2に相当し、これを体重70 kg、体表面積1.85 m
2のヒトの場合に換算すると33.3 mlになり、ヒトにおける黒酢1日摂取量の目安である30mlに相当する。(非特許文献14)
【0036】
黒酢、黒酢由来成分あるいは水を10日間連続投与した翌日に摘出した肝臓からRNAを抽出し、TaqMan Gene Expression Assayを用いてmRNA発現量の定量を行った。結果は表1の通り。ノーマライゼーションのための内在性コントロールとしてβアクチン遺伝子を用い、データは、水投与群におけるmRNA量を1として、相対値として表した(表1)。
【0037】
【表1】
水投与群を1とした時の相対的mRNA発現量(平均値±標準誤差)を示す。*: p<0.05, **: p<0.01, ***: p<0.001(水投与群との比較)。n=6, Student's t-test法にて検定した。肝臓摘出時の体重はそれぞれ、水投与群:19.9 ± 0.4、酢酸投与群:20.1 ± 0.2、黒酢投与群:19.9 ± 0.7、黒酢濃縮液投与群:19.8 ± 0.2(平均値 ± 標準誤差、g)であり、黒酢投与による体重、摂食量の変化は認められなかった。
【0038】
黒酢を投与した場合、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2の全てのSirt1関連遺伝子について、mRNA発現の上昇が見られた。黒酢濃縮液を投与した場合は、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、およびUcp2のmRNA発現上昇が見られたが、Igfbp1については水投与の場合と比較して変化がなかった。Igfbp1については、酢酸を投与した場合にも、黒酢投与の場合ほどではないがmRNA発現の上昇が見られている。酢酸単独でIgfbp1のmRNA発現を上昇させる一定の効果があるが、黒酢の他の成分は酢酸のその効果をさらに増強させる効果を有していると解釈できる。黒酢濃縮液では効果がみられないのは、ここでいう「他の成分」が酢酸と同様に揮発性であるか、または、酢酸との共存でなければ効果を発揮できないものであると考えられる。
【0039】
実施例2:黒酢または黒酢濃縮液の投与の、Sirt1関連遺伝子タンパク質発現への影響
【0040】
実施例1で得られたのと同様の肝臓サンプルを用いて、タンパク質発現量の変化についてウエスタンブロッティング法により解析した。ノーマライゼーションのための内在性コントロールとしてβアクチンを用い、データは、水投与群におけるタンパク量を1として、相対値として表した(表2)。
【0041】
【表2】
水投与群を1とした時の相対的タンパク質発現量(平均値±標準誤差)を示す。投与の用法・用量は表1と同じ。*: p<0.05, **: p<0.01(水投与群との比較)。n=6, Student's t-test法にて検定した。
【0042】
黒酢を投与した場合、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2の全てのSirt1関連遺伝子について、タンパク質発現の上昇が見られた。Pgc-1αについては、酢酸単独投与でもタンパク質の発現上昇が見られたが、その場合でも黒酢投与による発現上昇の方が大きかった。また、黒酢濃縮液を投与した場合にも、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2の全てのSirt1関連遺伝子について、タンパク質発現の上昇が見られた。全体としてタンパク質の発現上昇はmRNAの発現上昇よりも振幅が緩やかであったが、これは生物学的な理由によるかもしれないし、あるいは検出手法の違いによるのかもしれない。
【0043】
実施例3:黒酢由来成分投与の効果と絶食の効果との比較
【0044】
カロリー制限が寿命を延長することは哺乳類を含めた多様な生物において確立されている知見である。Sirt1はカロリー制限によって発現が増進されることが知られており、カロリー制限の延命効果において中心的な役割を果たしている可能性が指摘されている。そこで、黒酢由来成分を投与した場合と、カロリー制限(絶食)した場合とで、Sirt1およびPgc-1αの発現の変化を比較した。ここでは、黒酢由来成分として、上述の黒酢濃縮液画分IおよびIIに含有されていた成分を投与実験において使用した。
【0045】
水投与群においては1日に体重1 kgあたり 7.5 mlの水を投与した。画分IとIIは、凍結乾燥して質量を計測した後、100 mg/mlの濃度になるよう水で溶解・希釈して、1日に体重1 kgあたり150 mgの用量で投与した。実施例1と同様に、10日間の投与の後にマウスから肝臓を摘出してmRNAの発現レベルを測定した。なお、上の「黒酢濃縮液画分の調製」の欄で示したように、黒酢濃縮液10 mlから画分I:0.335g、画分II:1.3804gが得られていたので、黒酢原液7.5 ml中にはそれぞれ画分I:25 mg、画分II:104 mgが含まれていることになる(凍結乾燥物の質量として)。絶食群は、Sirt1, Pgc-1α遺伝子発現亢進のポジティブコントロールとして解析した。24時間絶食させた後、肝臓を摘出してmRNA発現レベルの測定を行った(非特許文献2)。結果を表3に示す。
【0046】
【表3】
水投与群を1とした時の相対的発現量(平均値±標準誤差)を示す。肝臓摘出時の体重はそれぞれ、水投与群:19.9 ± 0.2、画分Ι群:20.0 ± 0.3、画分ΙΙ群:19.4 ± 0.1、絶食群:17.1 ± 0.1(平均値 ± 標準誤差、g)であり、黒酢濃縮液画分の投与による体重、摂食量の変化は認められなかった。*: p<0.05, ***: p<0.001, 水群との比較, Student's t-test法にて検定した。
【0047】
画分Iを投与した場合、画分IIを投与した場合、および絶食させた場合のいずれにおいても、Sirt1遺伝子およびPgc-1α遺伝子のmRNA発現レベルの上昇が見られた(表3)。特に、Sirt1遺伝子については、画分IまたはIIの投与によって、絶食による効果を上回るmRNA発現上昇が見られた。すなわち、Sirt1遺伝子の発現増進という点に関しては、黒酢凍結乾燥物に含まれる黒酢由来成分の投与はカロリー制限処置に匹敵する、あるいはそれ以上の効果を有することが示された。
【0048】
以上のデータにより、黒酢、黒酢凍結乾燥物、または黒酢由来成分の投与は、Sirt1関連遺伝子、すなわちSirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2のmRNA発現および/またはタンパク質発現を増進する効果を有することが実証された。
【産業上の利用可能性】
【0049】
黒酢は毒性や副作用を有しない。従って本発明は、安全かつ経済的に、Sirt1、Pgc-1α、Lpin1、Igfbp1、およびUcp2からなる群から選択されるSirt1関連遺伝子の発現を増進させる方法を提供し、また、その方法を達成するための手段となるもの、すなわちSirt1関連遺伝子の発現増進剤を提供する。これらの遺伝子の発現を管理することはいわゆる成人病やメタボリックシンドロームの予防や治療、ひいては長寿の達成に有効である可能性があり、従って本発明は医学または獣医学の関連産業分野において活用され得る。