特許第6422291号(P6422291)IP Force 特許公報掲載プロジェクト 2022.1.31 β版

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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】6422291
(24)【登録日】2018年10月26日
(45)【発行日】2018年11月14日
(54)【発明の名称】絹の物性制御方法
(51)【国際特許分類】
   D01F 4/02 20060101AFI20181105BHJP
   G01N 24/08 20060101ALI20181105BHJP
   G01N 24/12 20060101ALI20181105BHJP
【FI】
   D01F4/02
   G01N24/08 510P
   G01N24/12 510L
   G01N24/08 510S
【請求項の数】2
【全頁数】20
(21)【出願番号】特願2014-204774(P2014-204774)
(22)【出願日】2014年10月3日
(65)【公開番号】特開2016-74992(P2016-74992A)
(43)【公開日】2016年5月12日
【審査請求日】2017年7月11日
(73)【特許権者】
【識別番号】504132881
【氏名又は名称】国立大学法人東京農工大学
(74)【代理人】
【識別番号】100114188
【弁理士】
【氏名又は名称】小野 誠
(74)【代理人】
【識別番号】100119253
【弁理士】
【氏名又は名称】金山 賢教
(74)【代理人】
【識別番号】100124855
【弁理士】
【氏名又は名称】坪倉 道明
(74)【代理人】
【識別番号】100129713
【弁理士】
【氏名又は名称】重森 一輝
(74)【代理人】
【識別番号】100146318
【弁理士】
【氏名又は名称】岩瀬 吉和
(74)【代理人】
【識別番号】100127812
【弁護士】
【氏名又は名称】城山 康文
(72)【発明者】
【氏名】朝倉 哲郎
【審査官】 小石 真弓
(56)【参考文献】
【文献】 国際公開第2008/004356(WO,A1)
【文献】 国際公開第2002/072931(WO,A1)
【文献】 特表2004−532362(JP,A)
【文献】 特表2005−515309(JP,A)
【文献】 米国特許出願公開第2014/378661(US,A1)
【文献】 Macromolecules,2014年 6月14日,Vol.47,p4308-4316
【文献】 繊維と工業,2007年,Vol.63,No.9,p261-265
【文献】 繊維と工業,2004年,Vol.60,No.11,p543-545
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
D01F 4/02
G01N 24/08−24/12
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
再生絹繊維の品質評価方法であって、SilkII型構造をとる絹繊維13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約19.6ppmのピーク面積及びAlaCβの約21.7ppmのピーク面積を測定し、両者の比率を定量することを含む、前記方法。
【請求項2】
前記品質が絹繊維の応力―歪み特性に関連づけられる、請求項に記載の方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、再生絹繊維の製造方法に関する。特に、変化した物性を示す再生絹繊維の製造方法に関する。また、本発明は再生絹繊維の品質評価方法に関する。
【背景技術】
【0002】
SilkII型構造
家蚕(B.mori)絹は、絹フィブロインと絹セリシンから構成されるが、絹フィブロインが主成分であり、絹の繊維化は、絹フィブロインの構造や物性変化に着目して研究されてきた。家蚕の絹フィブロイン分子のアミノ酸組成はアラニンとグリシンが大部分を占めており、それ以外のアミノ酸はセリンやチロシンである。絹フィブロイン分子をキモトリプシン消化した際に沈殿する部分は、絹フィブロインの55%を占め、主に結晶部から成る。その大部分はアラニンとグリシンおよびセリンの繰り返しユニット、すなわち、Ala−Gly−Ala−Gly−Ser−Gly(配列番号1)の繰り返しである。他方、上清に溶解している部分は主に非晶部から成り、チロシンをより多く含む。Ala−Gly−Ala−Gly−Ser−Gly(配列番号1)の繰り返しユニットをAla−Glyの繰り返しユニットに置き換えても、その分光学的特徴はほとんど変わらないことから、従来、X線解析やNMR解析では、家蚕絹の結晶部モデルとして、Ala−Glyの繰り返しユニットが用いられてきた。
【0003】
家蚕は、体内で絹が水に溶解した液状絹(繊維化前の絹)の状態から、室温下で短い時間で絹繊維を生成する。絹繊維は、液状絹とは全く異なり、高強度・高弾性の固体となる。本発明者は、当該液状絹の構造(SilkI型構造)と絹繊維の構造(SilkII型構造)の違いを明らかにしてきた。すなわち、水に溶けた絹フィブロイン分子、すなわち、液状絹には、分子間水素結合だけでなく分子内水素結合も存在することが明らかにされた。そして、それら2種類の水素結合により形成されるβターンタイプII型構造は、グリシンおよびアラニンから成るユニット全体にわたって繰り返されていることも明らかにされた。そして、蚕は、液状絹を吐出しつつ首振り運動を行って、液状絹中のフィブロイン(SilkI型構造)をその分子軸方向に引き伸ばすことにより、分子内水素結合を分子間水素結合へと転移させて絹繊維(SilkII型構造)を生成しているものと結論付けられた(特許文献1)。
【0004】
これまでに、SilkII型構造としては、Marsh、Pauling等によって分子間水素結合を形成した逆平行βシート構造が提案され、生化学の教科書にタンパク質の代表的な構造の例として必ずと言ってよいほど掲載されてきた。Marsh等の構造モデルはX線解析データに基づいたもので、その大きな特徴の1つとして、分子間水素結合が同一アミノ酸残基間、つまりアラニン−アラニン間およびグリシン−グリシン間で形成されると提案されている(図1参照)。しかしながら、その後の多くの研究者は、Marshモデルの元となったX線解析データと、提案構造から予測されたデータとの間の誤差が大きい(R値は30%)ことから、実際の家蚕絹繊維のSilkII構造は、より不均一な構造であると考えるに至っていた。
【0005】
絹繊維の物性改良
絹糸が、織物の材料として極めて優れた特性を有していることは言うまでもない。また、絹糸は、強くて適度な弾性と柔軟性を有するだけでなく、高い生体親和性を有するので、例えば手術用の縫合糸としても用いられている。しかしながら、強度や伸張性の点からいえば、依然として絹糸は、クモ牽引糸には及ばない。したがって、絹糸の強度および伸張性を更に増大させるべく、多くの試みがなされてきた。
【0006】
前記のとおり、家蚕は、液状絹を吐出しつつ首振り運動を行って繭を形成する。しかし、Shao等は、家蚕を固定することにより首振り運動を制限しつつ、強制的に絹糸を取り出し、湿潤下で、絹繊維を一定の速度で巻き取ることで、絹糸の応力(Stress)―歪み(Strain)特性を変化させ得ることを報告している(非特許文献1)。
【0007】
また、本発明者は、再生絹繊維に対して、天然の絹繊維とは異なる物性を付与する方法を開示している(特許文献2)。簡単に記すと、裁断した繭を精錬して得た絹フィブロインを、先ず臭化リチウム等の塩溶液に溶解した後、透析を行って無機塩を取り除いて絹フィブロイン水溶液とし、該水溶液から作製した絹フィブロインフィルムや凍結乾燥したスポンジ等をヘキサフルオロイソプロパノール(HFIP)に溶解させる。次いで、当該溶解液を、水、メタノール、エタノール、イソプロピルアルコール、アセトン等の、絹フィブロインが不溶であり、且つ、HFIPを溶解する溶媒を収容した凝固浴に向けて、紡糸口を介して吐出する。当該浴中で凝固した絹フィブロインを紡糸することで、再生絹繊維が得られる。更に、特許文献2は、前記再生絹繊維を、凝固浴中または凝固浴から取出した直後の濡れた状態で、或いは凝固浴から取出して風乾した後の乾燥状態で、2〜4倍程度延伸することが好ましいことを記載している。そのような処理は、再生絹繊維の収縮を防ぐことができ、且つ引張強度が向上した非常に均一な繊維径を持った延伸生成絹糸を与え得ることも記載されている。
【0008】
加えて、特許文献2は、Chemagnetic社製CMX400NMR分光計を用いた固体13C CP/NMR測定において、AlaCβ(アラニンのβ炭素原子)が3つのピーク、すなわち、最も高磁場領域のピーク(16.6ppm)と低磁場領域の2つのピーク(19.6ppmおよび21.9ppm)に分離したことを記載している。そして、特許文献2は、最も高磁場のピークが再生絹フィブロイン分子中のランダム成分の存在を示し、低磁場側の残りの2つのピークがβシート構造に相当することを記載している。また、特許文献2は、再生絹糸を延伸することにより絹フィブロイン分子を繊維軸方向に配向させることができるようになり、その結果、より多くの前記ランダム成分をβシート構造に変化させ得る可能性を示唆している。
【0009】
前記のとおり、これまでに、実際のSilkII構造は、Marsh等が提案したモデルよりは不均一であると考えられていた。しかしながら、いずれの先行技術文献も、実際のSilkII構造が、Marshモデルとは全く違っていたという可能性を、示唆さえしていない。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0010】
【特許文献1】特開2001−247674号公報
【特許文献2】国際公開第WO2008/004356号パンフレット
【非特許文献】
【0011】
【非特許文献1】Nature、Vol.418、p.741(2002)
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0012】
本発明者は、実際のSilkII構造は、Marshモデルと異なっていることを、ここで初めて詳細に明らかにする。前記のとおりSilkII構造が、Marsh等の提案したモデルよりは不均一であることはこれまでにも指摘されてきたが、本発明者が明らかにした相違はそれを遥かに超えたものであり、実際に、SilkII構造は、Marsh等が提案した分子間構造を有してはいないことが明らかになった。
【課題を解決するための手段】
【0013】
驚くべきことに、実際のSilkII構造では、異種残基間(アラニン−グリシン)で分子間水素結合が形成されており、更に、その分子間構造には2つの形態、つまり形態Aおよび形態Bが存在していた。そして、本発明者は、再生絹繊維の物性を、形態Aの含量および/または形態Bの含量を変化させることで、制御し得ることを見出した。
【0014】
したがって、本発明の第1の局面は、
(1) 再生絹繊維の物性を変化させる方法であって、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態A含量または形態B含量またはその両方を変化させることを特徴とする、前記方法である。
【0015】
前記形態Aの含量は、13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約19.6ppmのピーク面積に基づいて測定され得、また、前記形態Bの含量は、13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約21.7ppmのピーク面積に基づいて測定され得る。したがって、本発明の第一の局面の好適な態様は、
(2) 前記形態A含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約19.6ppmのピーク面積に基づいて測定され、前記形態B含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約21.7ppmのピーク面積に基づいて測定される、上記(1)に記載の方法である。
【0016】
なお、後述のとおり、SilkII型構造の13C CP/MAS NMRスペクトルにおいて、AlaCβは、前記の形態Aおよび形態Bとして帰属される2つのピーク以外に、絹フィブロイン分子の非晶部中の「ゆがんだβターン構造」(Distorted β−turn)に帰属されるピーク加えて、結晶部中にも存在していた「ゆがんだβターン構造」に帰属されるピークが重なった、最も高磁場側(約16ppm)のピークを与えた(図2参照)。これは、特許文献2におけるランダム成分に対応する。また、AlaCβの13C CP/MAS NMRスペクトルは、前記の形態Aおよび形態Bとして帰属される2つのピークの間に、絹フィブロイン分子の非晶部中の「ゆがんだβシート構造」(Distorted β−sheet)に帰属されるピークも含んでいた。
【0017】
更に、本発明者は、再生絹繊維を製造する際に、前記の形態Aおよび形態Bの含量のいずれかまたは双方を変えることで、製造された再生絹繊維の応力―歪み特性を変化させ得ることを確認した。したがって、本発明の第一の局面の更に好適な態様は、
(3) 前記物性が絹繊維の応力―歪み特性を有する、上記(1)または(2)に記載の方法である。
【0018】
また、本発明は、前記形態Aおよび形態Bの含量に着目した、変化した物性を示す再生絹繊維の製造方法を意図する。したがって、本発明の第二の局面およびその好適な態様は、以下の、
(4) 変化した物性を示す再生絹繊維の製造方法であって、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態A含量または形態B含量またはその両方を変化させる工程を含む、前記製造方法;
(5) 前記形態A含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約19.6ppmのピーク面積に基づいて測定され、前記形態B含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約21.7ppmのピーク面積に基づいて測定される、上記(4)に記載の製造方法;および
(6) 前記物性が絹繊維の応力―歪み特性を有する、上記(4)または(5)に記載の製造方法である。
【0019】
更に、本発明は、前記形態Aおよび形態Bの含量を新たな指標とした、再生絹繊維の品質評価方法を意図する。上記のとおり、形態Aおよび形態Bの含量と物性には関連性があることが明らかになった。したがって、本発明の第三の局面およびその好適な態様は、以下の、
(7) 再生絹繊維の品質評価方法であって、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態A含量または形態B含量またはその両方を定量することを含む、前記方法;
(8) 前記形態A含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約19.6ppmのピーク面積に基づいて測定され、前記形態B含量が13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの約21.7ppmのピーク面積に基づいて測定される、上記(7)に記載の方法;および
(9) 前記品質が絹繊維の応力―歪み特性に関連づけられる、上記(7)または(8)に記載の方法である。
【発明の効果】
【0020】
本発明によれば、従来の再生絹繊維の物性改変方法とは全く異なった観点から、当該繊維の物性を変化させることが可能となる。
【図面の簡単な説明】
【0021】
図1図1は、Marsh、Pauling等によって提案された、SilkII型絹繊維の逆平行βシート構造である。パネルa〜cは、それぞれ、3つのβシート層を3方向から見た図である。図中の大きな球はメチル基を表す。パネルbに、絹分子鎖間の分子間水素結合が示されている。パネルaの下方に、鎖の方向が矢印で示されている。
図2図2は、精製した絹フィブロインの13C CP/MAS NMRにおけるAlaCβのスペクトルおよびガウス分布を考慮して分離されたピークを示す。図中、最も外側の太い実線は観測されたスペクトルを示し、中実線はキモトリプシン処理沈殿部の結晶部に帰属されるスペクトルを示す。太い破線は非晶部に帰属されるスペクトルを示す。細い破線は分離された5つのピークである。
図3図3は、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態Aを示す。パネルa〜cは、それぞれ、3つのβシート層を3方向から見た図である。図中の大きな球はメチル基を表す。パネルbに、鎖間の水素結合が示されている。パネルaの下方に、鎖の方向が矢印で示されている。
図4図4は、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態Bを示す。パネルd〜fは、それぞれ、3つのβシート層を3方向から見た図である。図中の大きな球はメチル基を表す。パネルeに、鎖間の水素結合が示されている。パネルdの下方に、鎖の方向が矢印で示されている。
図5図5は、絹繊維のSilkII型構造をとる(AG)15H−DQMAS(Double Quantum Magic Angle Spinning)スペクトルとH−H距離相関を示す。約4Å以内の近距離の場合にH−H距離相関が観測され、(i)−(ix)は、そのような近距離のH−H間をまとめてある。さらに、アラニンとグリシンのHαのクロスピーク部分を拡大している。
図6図6は、絹繊維のSilkII型構造をとる(AG)[U−13C]A[U−13C]G(AG)13C−13C DARR(Dipolar Assisted Rotational Resonance) スペクトルである。ここで、Uとは、Uniform ラベルの事で、各残基の炭素が、すべて13Cラベルされていることを意味する。また、AlaCβとAlaおよびGlyC=Oのクロスピーク部分を拡大している。これによって、AlaCβの低磁場領域の2つのピーク(19.6ppmおよび21.9ppm)とAlaおよびGlyC=Oの相関をつけることができ、AlaおよびGlyC=Oの詳細な帰属を行うことができた。
図7図7は、絹繊維のSilkII型構造をとる(AG)[3−13C]AG(AG)のDouble Cross Polarization H−13C相関スペクトルである。これによって、AlaCβの低磁場領域の2つのピーク(19.6ppmおよび21.9ppm)とAla HβとHαの相関をつけることができ、Ala HβとHαの詳細な帰属を行うことができる。
図8図8は、絹繊維のSilkII型構造をとる(AG)A[U−13C]G(AG)のDouble Cross Polarization H−13C相関スペクトルである。これによって、GlyC=Oの2つのピーク、A,BとAla Hβ、Gly Hα1,Hα、ならびにNHとの相関をつけることができ、Ala HβとGly Hα1,Hα、ならびにNHの詳細な帰属を行うことができる。
図9図9は、絹繊維のSilkII型構造をとる([2−H]AG)15H−DQMAS(Double Quantum Magic Angle Spinning)スペクトルである。分子鎖間のGlyHα間の相関(四角で囲った所)が観測されていないことが分かる。
図10図10は、Marshモデルによる(AG)nの逆平行βシート構造を示す。
図11図11は、Marshモデルと異なる(AG)nの逆平行βシート構造を示す。上段および下段は、それぞれ、βシート面に対し交互に反対の方向に(Ala−Gly)nのAlaのβ炭素が向く形でパッキングした2種類のモデルである。
図12図12は、Cell parameterを保持したまま構造最適化した、SilkII型中の2種類の逆平行βシート構造を示す。本発明の形態AはModel A(下段)に相当し、形態BはModel B(上段)に相当する。
図13図13は、SilkII型構造をとる(AG)15を試料とした際の、逆平行βシート構造の固体H、13C、15N NMR化学シフトの実測値と図12の構造最適化したSilkII型中の2種類の逆平行βシート構造に基づいて計算した値との比較である。
図14図14は、実施例2の13C CP/MAS NMRにおけるAlaCβのスペクトルおよびガウス分布を考慮して分離されたピークを示す。
図15図15は、実施例3の13C CP/MAS NMRにおけるAlaCβのスペクトルおよびガウス分布を考慮して分離されたピークを示す。
図16図16は、実施例4の13C CP/MAS NMRにおけるAlaCβのスペクトルおよびガウス分布を考慮して分離されたピークを示す。
図17図17は、精製した天然の絹フィブロインの応力−歪み曲線を示す。縦軸が応力(Stress)、横軸が歪み(Strain)を示す。
図18図18は、実施例2の応力−歪み曲線を示す。縦軸が応力(Stress)、横軸が歪み(Strain)を示す。
図19図19は、実施例3の応力−歪み曲線を示す。縦軸が応力(Stress)、横軸が歪み(Strain)を示す。
図20図20は、実施例4の応力−歪み曲線を示す。縦軸が応力(Stress)、横軸が歪み(Strain)を示す。
【発明を実施するための形態】
【0022】
βシート構造形態Aおよび形態B
今日まで、SilkII型構造は、Marsh、Pauling等によって提案された逆平行βシート構造をとると信じられてきた。しかしながら、上記のとおり、実際のSilkII構造は、Marshモデルよりも不均一であるとも言われてきた。
【0023】
現実に、家蚕絹フィブロインの結晶部だけでなく結晶部モデル化合物の(Ala−Gly)nのSilkII型構造の13C CP/MAS NMRスペクトルにおいて、AlaCβピークは、いずれも3本に分裂していた。そして、そのうちの高磁場側の約16ppmのピークは、ゆがんだβターン(ランダムコイル)に帰属された(特許文献2参照)。
【0024】
一方、AlaCβの3本のピークのうちの低磁場側の2本のピーク(約19.6ppmと約21.7ppm)は、いずれも逆平行βシート構造に帰属され得るが、その詳細は未だ明らかにされていなかった。つまり、構造既知のタンパク質において、Ala13Cβ化学シフトの実験値をAla残基の内部回転角に対してプロットした化学シフトのRamachandran Mapを検討すると、内部回転角が逆平行βシート構造の領域であれば、内部回転角が変化しても2ppmもの大きなシフト差を生ずることはないことがわかる。
【0025】
従って、このAlaCβの低磁場側の2本のピークの大きなシフト差は、分子間構造の違いを反映していると考えられた。もちろん、そもそもMarshのモデルは単一な分子間構造であるので、Marshのモデルに従うとAla13Cβ化学シフトの結晶部が単一ピークしか与えないこととなり、この点で大きな矛盾がある。更に、後に詳細に述べるように、Marshのモデルは、分子間水素結合が同一残基間(アラニン−アラニンまたはグリシン−グリシン)で形成することも問題である。このように、SilkII型構造モデルは、Marshモデルとは異なる新たなモデルを提出する必要があったのである。
【0026】
なお、特許文献2には、再生絹繊維を延伸すると、13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβの最も高磁場側のピーク(つまり、ゆがんだβターン構造ないしランダム成分)の強度が減少し、低磁場側の2つのピーク(19.6ppmおよび21.9ppm)の強度が増大することを記載している。しかしながら、特許文献2は、それらの2つの低磁場側のピークが、Marshモデルとは異なる2種類のβシート構造である形態Aおよび形態Bの存在を示すことをなんら記載していない。況や、特許文献2が、形態Aまたは形態Bのいずれかの含量を、或いは両者の比率を変化させることで、再生絹繊維の物性を更に変化し得ることを示唆していないことは、特筆されるべきである。
【0027】
このような背景のもとで、本発明者は、本発明において正しいSilkII型構造を明らかにした。そして、詳細は後記の実施例で述べるが、本発明者は、超高速固体NMRマイクロプローブと920MHzの超高磁場NMR装置を組み合わせて得た、13C CP/MAS NMRスペクトルの解析により、SilkII型構造をとる絹繊維中の形態A(図3)および形態B(図4)を解明した。
【0028】
形態Aおよび形態Bの含量
前記のとおり、本発明者による、絹繊維のSilkII型構造における形態Aおよび形態Bの解明は、主に、固体13C CP/MAS NMRスペクトルにおけるAlaCβのピークの解析に基づくものであった。つまり、本発明者は、家蚕絹繊維のアラニン残基のメチル基を示す固体13C CP/MASNMRスペクトルを、ガウス分布を仮定して分離した。そして、本発明者は、そのようにして分離された約19.6ppmのピークおよび約21.7ppmのピークを更に詳細に検討して、形態Aおよび形態Bの存在を確立した。したがって、SilkII型構造中形態Aおよび形態Bの含量は、それぞれ、当該約19.6ppmおよび約21.7ppmのピーク面積に基づいて測定ないし定量することが可能である。なお、19.6ppmおよび21.7ppm等の化学シフトの測定値は、測定条件や使用する機器の特性のために、±0.3ppm程度の測定誤差が生じ得ることを当業者は理解し得るであろう。
【0029】
前記のガウス分布を仮定した各ピークの分離は、化学シフト並びにピークの半値幅及び高さを最適化することで行うことができる。家蚕絹繊維の固体13C CP/MASNMRスペクトルにおけるピークの分離例を図2に示した。同図中、中実線部は55%を占める結晶部であり、破線部は45%を占める非晶部である。細い実線部は、ガウス分布を考慮して分離した各ピーク(合計5つ)を示している。
【0030】
図2から、家蚕絹繊維は極めて不均一であり、その結晶部分は主に3成分から構成されることがわかる。また、非晶部は主に2成分から構成されることがわかる。スペクトルにおける最も高磁場側は、ゆがんだβターン構造(ランダムコイル部分)であり、その割合は結晶部、非晶部を合わせて全体で40%である。これは、基本的に繊維化前の構造が残った部分であり、十分に逆平行β構造に変わらなかった領域である。結晶部であっても18%のゆがんだβターン部分を含むのは興味深い。一方、結晶部の残りの部分の分子鎖の局所構造は逆平行βシート構造であるが、後記実施例で詳述するとおり、MarshおよびPaulingらが提案した構造とは異なる2種類の分子間構造である形態A(25%)と形態B(13%)から構成されている。なお、非晶部のβターン構造以外のもう1つの成分は、形態Aと形態Bの間に出現する幅の広いピークとして分離され、ゆがんだβシート構造に帰属された(22%)。
【0031】
再生絹繊維
本発明により物性が変化させられた再生絹繊維は、典型的には、家蚕の繭を原料として製造することができる。
【0032】
好適には、繭を小片に裁断した後に、絹フィブロイン以外の、セリシン等の蛋白質や脂肪分を除去する。この処理の非限定的な例は、約80℃〜約100℃に加熱した、約0.2%(重量/容量)〜約0.5%(重量/容量)の石鹸と場合により約0.2%(重量/容量)〜約0.5%(重量/容量)の炭酸ナトリウムを含有する水溶液に前記の繭の小片を入れて、撹拌しながら約5〜約60分間煮沸する工程を含む。その後、約80℃〜約100℃に加熱した水中で絹糸を洗浄することが好ましい。所望ならばこの操作を3回行い、更に水で約5〜約60分煮沸した後に洗浄してもよい。
【0033】
なお、本発明の再生絹繊維の原料として、特許文献1に記載された方法に従って設計され、大腸菌等を利用した遺伝子工学的手法や化学的手法により製造された絹様材料を使用してもよい。すなわち、そのような絹様材料は、第1のアミノ酸であるグリシンと第2のアミノ酸との交互共重合体の中から分子全体にわたりβターンタイプII型構造が繰り返された共重合体を選択し、前記分子全体にわたりβターンタイプII型構造が繰り返された共重合体を部分的に化学修飾したものの中から水溶性である共重合体を選択し、前記部分的に化学修飾された水溶性の共重合体の中から水の存在下で延伸した場合に前記βターンタイプII型構造に含まれる分子内水素結合が分子間水素結合へと転移して絹様材料を形成する共重合体を選択することにより設計され得る。
【0034】
上記の処理により繭から精製した絹フィブロインおよび特許文献1に記載の方法で遺伝子工学的または化学的手法により製造された絹様材料は、通常、乾燥させられ、臭化リチウム(LiBr)水溶液により溶解させられる。当該水溶液中の好ましい臭化リチウムの濃度は約5〜約12Mであり、より好ましくは約9Mである。当該LiBr水溶液に溶解させ得る絹フィブロインの濃度は約5%(重量/容量)〜約40%(重量/容量)の範囲であるが、これに限定されない。絹フィブロインを約10%(重量/容量)の濃度で溶解させることが好ましい。所望ならば、絹フィブロインの溶解を促進するために、LiBr水溶液を振とうしながら約40℃程度に加熱してもよい。更に、固形分を除くために、溶解絹フィブロインを含むLiBr水溶液をガラスフィルター等により濾過してもよい。
【0035】
上記の絹フィブロインを溶解したLiBr水溶液を、セルロースなどの透析膜を用いて蒸留水に対して1日〜数日間(例えば4日間)透析する。この操作により、LiBr等の塩が除かれた絹フィブロイン水溶液が得られる。
【0036】
上記の絹フィブロイン水溶液から凍結乾燥等により水を除去した後に、絹フィブロインを溶媒に再度溶解する。好適な溶媒の例は、ヘキサフルオロイソプロパノール(HFIP)やヘキサフルオロアセトン(HFA)を含む。
【0037】
本発明の再生絹繊維を、絹フィブロインをHFIPまたはHFA中に溶解した溶液から紡糸することが好ましい。後記の実施例に示されるとおり、絹フィブロインを溶解するための溶媒としてHFIPを用いた場合とHFAを用いた場合とでは、SilkII型構造中の形態Aおよび形態Bの比が異なることが明らかになった。そして、それらの再生絹繊維は、互いに異なる応力―歪み特性を示した。したがって、絹フィブロインを溶解させる溶媒を変更することは、本発明の形態Aおよび形態Bの含量を調節するための好適な実施態様である。
【0038】
より詳細に、上記の絹フィブロイン溶液から紡糸を行う際には、湿式紡糸法、乾燥ジエット紡糸法、乾式紡糸法およびエレクトロスピニング法のいずれをも利用することができる。特に、長い繊維を製造する場合には、湿式紡糸法を利用することが好ましい。すなわち、前記絹フィブロイン溶液を、紡糸口を介して凝固浴に向けて吐出させることにより、本発明の再生絹を紡糸することができる。また、不織布を製造する場合には、エレクトロスピニング法を利用することが好ましい。
【0039】
湿式紡糸法の凝固浴に用いる浴液は、それに対して絹フィブロインが不溶であり、他方、前記の絹フィブロイン溶液の溶媒が可溶である限り、いずれの液体であってもよい。例えば、HFIPを絹フィブロイン溶液の溶媒として選んだ場合には、水、メタノール、エタノール、イソプロピルアルコール、アセトン等を浴液として使用することができる。これらの中では、絹フィブロインの凝固能が高いことに加え、環境的に安全で廉価なメタノールを使用することが好ましい。
【0040】
本発明の再生絹繊維は、前記溶媒(HFIP等)を充分に除去するために、凝固浴中に数時間静置した後に乾燥することで得ることができる。しかしながら、乾燥の際に再生絹繊維を延伸することも好ましい態様である。後記の実施例に示されるとおり、異なった延伸比(Draw Ratio)を適用することで、SilkII型構造中の形態Aおよび形態Bの比を変化させ得ることが見いだされた。そして、それらの再生絹繊維は、互いに異なる応力―歪み特性を示した。したがって、再生絹繊維の延伸比を変更することも、本発明の形態Aおよび形態Bの含量を調節するための好適な実施態様である。典型的には、本発明の再生絹繊維を、約1〜約4倍程度、好ましくは約1.5〜約3倍程度に延伸することができる。なお、凝固浴から出され未だ濡れている間に冷延伸したり、凝固浴中で延伸したりすることもできる。
【0041】
かくして、本発明の形態Aおよび形態Bの含量を変化させ、それにより変化した物性を示す再生絹繊維を製造することができる。
【0042】
本発明の再生絹繊維の用途
本発明の再生絹繊維は、織物などの材料は勿論のこと、手術用縫合糸としても使用することができる。或いは、本発明の再生絹繊維は、人工血管や再生医療用機材としても有用であり得る。すなわち、本発明の再生絹繊維は、細く、強く、そして多様な弾性と柔軟性を示し得る。
【0043】
以上の説明を与えられた当業者は、本発明を十分に実施できる。以下、説明のみの目的で実施例を与える。
【実施例】
【0044】
実施例1: 形態Aおよび形態B
試料作製
家蚕絹フィブロインの結晶部試料(Cpフラクション)は、精練絹糸を9MのLiBr水溶液に溶解後、透析を経て再生絹フィブロイン水溶液とし、それをα−キモトリプシン処理した後、沈殿部(全体の55%)を集めることによって得た。家蚕絹結晶部モデル化合物(Ala−Gly)15は、固相法によって合成した。AlaおよびGly残基の選択的13Cラベル化及びHラベル化は、適宜、該当のラベルアミノ酸を合成時に導入することによって得られた。
【0045】
固体NMR測定
超高速固体NMR用プローブ(70KHzで超高速回転。JEOL RESONANCE(株)製)と分子科学研所(日本国愛知県岡崎市明大寺町字西郷中38番地)設置のJEOL製 JNM−ECA 920MHz超高磁場固体NMR装置を組み合わせて、家蚕絹結晶部およびモデル化合物の(Ala−Gly)15のSilkII型について、HDQ(Double Quantum)/MAS(Magic Angle Spinning)NMRスペクトルを得た。それによって、すべての固体H化学シフトを得るとともに、H化学シフトの帰属は、適宜、選択的に13Cラベル化した(Ala−Gly)15を用いて、double cross polarization H−13C相関法によって行った。13Cピークの帰属は、従来の帰属結果に加えて、選択的に13Cラベル化した(Ala−Gly)15を用い、13C DARR(Dipolar Assisted Rotational Resonance)法にて行った。13C CP/MAS NMRおよびDARR測定は、JEOL製 ECX 400NMR装置を用い、MAS 8kHz下で行った。
【0046】
NMR化学シフト計算
結晶構造を対象としたNMR化学シフト計算法である、GIPAW(Gauge−including projector augmented wave)法(市販のプログラムを使用:Accelys Inc.、San Diego、CA、USA)を用いて、家蚕絹フィブロインのSilkII型結晶部(Ala−Gly)nについて、H,13C,15N固体化学シフト計算を行った。最終的に、すべての固体NMRデータを満たす家蚕絹フィブロイン結晶部のSilkII不均一構造を決定した。
【0047】
1−a) (Ala−Gly)15SilkIIのH NMRスペクトルの帰属
H化学シフトの帰属は、(Ala−Gly)15および選択的に13Cラベル化した(Ala−Gly)15を用い、H−DQMAS NMRならびにdouble cross polarization H−13C相関法によって行った(図5,7,8,9)。また、そのための13Cスペクトルの帰属は、従来の帰属結果に加えて、選択的に13Cラベル化した(Ala−Gly)15を用いて、13C DARR法にて行った(図6)。試料は(AG)[1,2,3−13C]A[1,2−13C]G(AG)を用いた。Hスペクトルは低磁場側からHN、Hα、Hβの3領域となる。Hαは13C軸との相関から、AlaHα(5ppm付近)とGlyHα(4ppm付近で2本に分かれる)に、容易に帰属できる。HNは13Cと直接結合していないため強度は弱いが、Ala−HNはGly−CO(169ppmm)と2結合を通しての相関、Gly−HNはAla−CO(172ppm)と2結合を通しての相関となり、AlaHNおよびGlyHNを帰属できる。その結果、AlaとGly残基の間で、HN化学シフトは、おおよそ、一致することが分かる。Ala−Hβは3本に分裂した13Cβピークと対応して、非晶部あるいはターン部分に由来するピークと2種の結晶ピークとの相関から、Hスペクトルを帰属できる。すなわち、1.2ppm(H)−16.1ppm(13C)、1.0ppm(H)−19.2ppm(13C)および1.3ppm(H)−22.3ppm(13C)と対応づけられる。一方、Glyの2本のカルボニル(C=O)ピーク(形態Aと形態Bに対応)との相関から、Gly Hα1が、AとBに分離されると同時にGly Hα2は、分離されないことがわかる。それによって、Gly Hαの帰属を行うことができる。
【0048】
1−b) H NMRスペクトルに基づく従来のSilkIIモデルとの比較
次に、詳細なSilkII型の構造に関する知見を得るべく、H−DQMASスペクトルによりH−H相関を調べた(図5)。まずHNの化学シフトはAlaとGly残基の間で違いは見られなかった。HNの化学シフトは、分子間水素結合したカルボニル基との間の原子間距離を反映することから、βシート内でAlaとGly残基の間で分子間水素結合距離に差がないことが分かる。さらに興味深いのは、2個の非等価なGlyのHα水素のうち、In planeのGly−Hα(4.6ppm)とAla−Hα(5.0ppm)との間に相関ピークが観察されたことである。後に述べるように、H化学シフト計算から、2個の非等価なGlyのHα水素のうち、低磁場側がIn plane、高磁場側がOut planeと帰属された。図1のパネルaに示したようにMarshモデルでは分子間水素結合は同一残基間(Ala−AlaまたはGly−Gly)で形成しているため、両プロトンはβシート内では4.5および5.9Åと、DQMAS観測可能範囲(〜4.0Å)よりも十分に遠い。本提案モデルで、この実測結果を説明できる。さらに、分子間に目を向ける。Marshモデルでは、Out planeのGly−Hα(3.9ppm)とAla−Hαは、より近く、2.2Åであり、In planeのGly−HαとAla−Hαの相関が見られるならば、この相関も当然観察されるはずである。実際にはOut planeのGly−HαとAla−Hαとの相関は見られず、In planeのGly−Hαとの相関のみが観察されていることから、同一残基間(Ala−AlaまたはGly−Gly)で分子間水素結合をとるMarsh型の構造ではなく、異種残基((Ala−Gly)間で分子間水素結合を形成した構造をとっていると結論された。この測定結果は、再度、すべてのAla−Hαを重水素化した([2−d]Ala−Gly)15H−DQMASスペクトルから、より明確に確認できる(図9)。すなわち、もし同残基間で分子間水素結合を形成していれば、In planeGly−Hαの分子間自己相関が対角ピークとして現れるはずであるが、図9において、それは観察されなかったことから明らかである。
【0049】
1−c) SilkII構造モデルの構築
家蚕絹フィブロイン、その結晶部ならびに結晶部モデル化合物の(Ala−Gly)nのSilkII型構造の13C CP/MAS NMRスペクトルにおいて、AlaCβピークは、いずれも3本に分裂する。高磁場側の約16ppmのピークは、ゆがんだβターンまたはランダムコイルに帰属されてきた。一方、低磁場側の2本のピーク(19.6ppmと21.7ppm)は、いずれも逆平行βシート構造に帰属されるが、その詳細は未だ帰属されていなかった。Ala13Cβ化学シフトの実験値をAla残基の内部回転角に対してプロットしたRamachandran Mapを検討すると、逆平行βシート構造の領域であれば、内部回転角が変化しても2ppmの大きなシフト差を生ずることはない。したがって、この大きなシフト差は、分子間構造の違いを反映していると考えられた。もちろん、Marshのモデルは単一な分子間構造であるので、Marshのモデルに従うとAla13Cβ化学シフトの結晶部が単一ピークしか与えないこととなり、矛盾する。すでに述べたように、Marshのモデルは、分子間水素結合が同一残基間(Ala−AlaまたはGly−Gly)で形成することの問題点もある。このように、SilkIIの構造モデルは、Marshモデルとは異なる新たなモデルを提出する必要があった。
【0050】
そこで、SilkIIの正しい構造を解明するために、(Ala−Gly)nについて、分子鎖のAlaおよびGly残基の内部回転角を典型的な逆平行βシート構造の角度(φ,ψ=140°,140°)とし、分子間構造の異なる二つの結晶構造を作製することとした。単位格子に関する報告値として、Marshらの値(繊維軸b:6.97Å、c:9.20Å、a:9.40Å、対称性:P2(x,y,z −x,y+1/2,−z)並びにTakahashiらの値(繊維軸c:6.98Å、b:9.49Å、a:9.38Å、対称性:P2(x,y,z −x,y+1/2,−z)が報告されているが、大差はない。ここでは、より新しい後者の単位格子を採用した。
【0051】
そこで、Marshモデルと異なり、βシート面に対し交互に反対の方向に(Ala−Gly)nのAlaのβ炭素が向く形でパッキングした2種類のモデルを検討し、初期構造とした。これらの構造は図10の左パネルの右下の分子鎖を分子鎖軸周りに180°回転することにより得られる。そのモデル作製手順は、以下のようである。
1. 図10に示したMarsh modelに明示されている2分子の座標のうち、左パネル下段右側の分子のみ、分子軸を中心に180°回転させる。上段の2分子は対称操作により自動生成され、図11の上段のモデル1が作成される(Marsh modelの分子鎖軸は図11の左パネルと同じb軸)。尚、180°回転した分子鎖は水素結合位置を合わせるため、分子鎖方向に1残基分ずらす。
2. 1で作成した2分子の座標をx軸(a軸)の周りに90°回転させることにより分子鎖軸はz軸(c軸)に向いた構造が生成される。残りの2分子は対称操作により自動生成され、図11下段のモデル2が作成される。尚、軸回転により作成座標は、対称操作により生成される座標とぶつかりあわないようにするため、分子鎖方向(c軸)に1/2残基分ずらす。
3. 対称性については、分子鎖軸を結晶セルのa軸,b軸,c軸に合わせた3通りのモデルが考えられるが、P2の場合x,z(a.c)は同等であり、分子鎖軸をb軸,c軸にあわせた2つのモデルについて検討すればよい。
【0052】
上記2つのモデルについて、Accelrys社製の商品名「Discover」(pcff force field)によりCell parameterを保持したまま構造最適化(energy minimize)した結果、図12の構造を得た。尚、Model A(図12下段)の方がModel B(図12上段)より2.04kcal/mol安定であった。このエネルギー計算の結果から、AlaCβピークの低磁場側の2本のピーク(19.6ppmと21.7ppm)のうち、よりピーク強度の強い19.6ppmのピークをModel Aに、よりピーク強度の弱い21.7ppmのピークをModel Bに帰属することが妥当であると推測された。そして、この帰属は、次に述べる化学シフト計算の結果によって確立された。
【0053】
1−d) H,13C,15N固体NMR化学シフト計算
さらに、(Ala−Gly)nのModel AとModel Bの分子間構造について、GIPAW(Gauge−including projector augmented wave)法(市販のプログラムを使用:Accelys Inc.、San Diego、CA、USA)を用いてエネルギーを最適化した後、化学シフト計算を行った。既に報告されている(Ala−Gly)1513Cならびに15N固体NMR化学シフトの実測結果に、本研究で行ったH固体NMR化学シフトの実測結果を加えて、計算結果との比較を棒スペクトルを用いて行った(図13)。
【0054】
まず、H固体NMR化学シフトの実測と計算の比較結果を図13で検討した。その結果、(Ala−Gly)nの13C CP/MAS NMRスペクトルにおいて、Ala13Cβの主ピークである19.6ppmのピークに相当するAlaHCβピーク(図5)を、よりエネルギー的に安定なModel Aに帰属し、よりピーク強度の弱いAla13Cβの21.7ppmのピークに相当するAlaHCβピーク(図5)をModel Bに帰属することが妥当と考えられるが、実際、計算結果ではこれが再現されていた。すなわち、後者は約0.3ppm、より低磁場シフトするという計算結果を得、実測を良く説明できることがわかった。Model Aのピーク強度に比べて、ModelBのピーク強度を、実測結果を反映して約半分にして棒スペクトルで表示した。特に、このH化学シフト計算の実測との良い一致を背景に、2個の非等価なGlyのHα水素を明確に帰属することができた。すなわち、低磁場側をIn plane、高磁場側をOut planeと帰属することができた(図13)。
【0055】
一方、Model Bについては、AlaHCβピークおよびGlyHαピークで、明瞭に計算結果と実測結果が一致することが示された。さらに、実測の2個の非等価なGlyのHα水素について、Model AとModelBのシフト差の傾向も良く再現されていた。NHアミド水素についても、Model Aと比較して、わずかにModelBが高磁場に出現するが、この傾向も、計算結果で良く再現されている。
【0056】
実測結果と計算結果の一致は、さらに13Cおよび15N固体NMR化学シフトにおいて、強調される。図13で、次に13C固体NMR化学シフトの実測と計算の比較結果を検討した。(Ala−Gly)nの13C CP/MAS NMRスペクトルの実測結果を、Model AとModel Bの計算結果で、良く再現できることがわかった。すなわち、化学シフトの計算結果は、Ala13Cβの主ピークである19.6ppmのピークをよりエネルギー的に安定なModel Aに帰属させ、ピーク強度が約半分のAla13Cβの21.7ppmのピークをModel Bに帰属できることを示していた。Ala13Cβ以外の領域においては、GlyおよびAla13C=Oについて Model AとModel Bのシフト差が計算結果で、良く再現された。それ以外の全ての13Cピークについても、Model AとModel Bの計算結果で、実測を良く再現できることがわかった。
【0057】
最後に、15N固体NMR化学シフトの実測と計算の比較結果を図13で検討した。Model AとModel Bの計算結果から、後者はAlaピークでは低磁場側に、Glyピークでは高磁場側に出現することが予想される。実測結果は、それに対応している。
【0058】
以上のように、H、13Cそして15N固体NMR化学シフトの計算結果は十分に実測結果を再現していると結論付けることができた。このことは、本モデル構造を出発点とした量子化学計算が極めて精度良く実測のNMR化学シフトの結果を再現できることを意味する。このように家蚕絹のSilkII構造の逆平行βシート構造のモデルとして上記のModel A とModel Bの共存モデルが確立されたので、前者を形態Aと、また後者を形態Bと名付けた。
【0059】
参考例1: 家蚕絹繊維中の形態Aおよび形態Bの含量
精製した家蚕絹フィブロインの13C CP/MASNMRスペクトルにおけるAlaCβのピークを、ガウス分布を仮定して分離した。計算は、化学シフト並びにピークの半値幅及び高さを最適化することで行った。分離されたピークを図2に示した。同図中、中実線は約55〜56%(ピーク面積の百分率。以下、同じ。)を占めるキモトリプシン処理沈殿部の結晶部であり、破線は約44〜45%を占める非晶部である。細い破線は、ガウス分布を考慮して分離した各ピーク(合計5つ)を示している。図2から、家蚕絹フィブロインは極めて不均一であり、その結晶部は、主に3成分から構成されることがわかる。また、非晶部は、主に2成分から構成されることがわかる。スペクトルにおける最も高磁場側は、ゆがんだ(distorted)βターン構造(ランダムコイル部分)であり、その割合は結晶部(18%)と非晶部(22%)を合わせて、全体で40%であった。結晶部の残りの部分の分子鎖構造は逆平行βシート構造であり、形態A(25%)と形態B(13%)から構成されていた。なお、非晶部のゆがんだβターン構造以外の成分は、形態Aと形態Bの間のピークとして分離され、ゆがんだ(distorted)βシート構造に帰属された(22%)。
【0060】
実施例2〜4: 形態Aおよび形態B含量と物性の関係
形態Aおよび形態Bの含量が、再生絹繊維の物性にどのような影響を及ぼすかを検討した。
再生絹繊維の製造
家蚕(B.mori)の繭を小片に切断し、0.25%(重量/容量)の炭酸ナトリウムおよび0.25%(重量/容量)のマルセル石鹸を含む溶液に入れて、85℃で15分間処理した。この処理により絹セリシン等の絹フィブロイン以外の成分を除去した。得られた絹フィブロインを十分に純水で洗浄した後に、当該絹フィブロインを9Mの臭化リチウム水溶液に40℃で1時間かけて溶解して、10%(重量/容量)の絹フィブロイン溶液を得た。当該絹フィブロイン溶液を、セルロース膜を用いて、脱イオン水に対し4℃で4日間透析した。透析後の絹フィブロイン水溶液中の絹フィブロイン濃度を2.0%(重量/容量)に調整して凍結乾燥した。
【0061】
実施例2: 前記凍結乾燥した絹フィブロインを、和光純薬工業株式会社(大阪、日本)から購入した分析グレードのヘキサフルオロイソプロパノール(HFIP)中に2日間かけて溶解し、15%(重量/容量)の絹フィブロイン溶液を調製した。溶液を脱ガスした後に、その絹フィブロイン溶液を、内径0.45mmのステンレス製紡糸口金から、シリンジポンプを用いて室温でメタノールを収容した凝固浴に向けて押出した。凝固浴中で再生された絹繊維を20m/分の速度で巻き取った後に、得られた再生絹繊維を当該凝固浴中に3時間浸し続けることで、HFIP分子をメタノール中に拡散させて再生絹繊維から除去した。次いで、再生絹繊維を蒸留水に浸し、延伸機(株式会社井元製作所製。京都、日本)を用いて、40℃で、元の再生絹繊維の長さの3.0倍まで延伸した。延伸した再生絹繊維は、ボビンに巻き取って、室温で1晩乾燥させた。
【0062】
実施例3: 前記凍結乾燥した絹フィブロインを、和光純薬工業株式会社(大阪、日本)から購入した分析グレードのヘキサフルオロアセトン(HFA)中に2日間かけて溶解した。それ以降の処理は、実施例2と同じであった。
【0063】
実施例4: 前記凍結乾燥した絹フィブロインを、和光純薬工業株式会社(大阪、日本)から購入した分析グレードのヘキサフルオロイソプロパノール(HFIP)中に2日間かけて溶解し、15%(重量/容量)の絹フィブロイン溶液を調製した。溶液を脱ガスした後に、その絹フィブロイン溶液を、内径0.45mmのステンレス製紡糸口金から、シリンジポンプを用いて室温でメタノールを収容した凝固浴に向けて押出した。凝固浴中で再生された絹繊維を20m/分の速度で巻き取った後に、得られた再生絹繊維を当該凝固浴中に3時間浸し続けることで、HFIP分子をメタノール中に拡散させて再生絹繊維から除去した。次いで、再生絹繊維を蒸留水に浸し、延伸機(株式会社井元製作所製。京都、日本)を用いて、40℃で、元の再生絹繊維の長さの約1〜1.5倍前後の割合で軽く延伸した。延伸した再生絹繊維は、ボビンに巻き取って、室温で1晩乾燥させた。
【0064】
再生絹繊維中のβシート構造形態Aおよび形態Bの含量
参考例1と同様にして、実施例2〜4の再生絹繊維の13C CP/MASNMRスペクトルにおけるAlaCβのピークを測定し、ガウス分布を仮定して5つのピークに分離した(図14図16)。表1に示した結果は、絹フィブロインを溶解する溶媒の種類および/または再生絹繊維の延伸率を変更することで、再生絹繊維中のβシート構造形態Aおよび形態Bの含量およびその比率を変え得ることを示している。
【0065】
【表1】
【0066】
再生絹繊維の物性測定
株式会社島津製作所(京都、日本)製のEZ−Graph張力試験機(5Nロードセルを使用)を用い、室温で、上記実施例2〜4の応力(Stress)−歪み(Strain)応答を測定した。測定は、25mmの長さの各試料を用いて、試験速度10mm/秒の条件下で行った。比較のために、同じ条件で測定した天然の絹繊維の応力−歪み曲線も示した(図17)。図18〜20に、実施例2〜4の応力−歪み曲線を示した。これらの結果は、10回の測定の平均値として表されている。
【0067】
参考例1、実施例2(図18)および実施例3(図19)を比較すると、βシート構造形態Bの含量が多いほど、応力−歪み曲線が滑らかになり、それらの曲線の肩部(Stressが200MPa前後で、Strainが数〜10%前後)が小さくなった。また、実施例4(図20)は、βシート構造形態Bの含量が少なくなると歪み特性は改善するが、応力は減少する傾向を示している。
【産業上の利用可能性】
【0068】
本発明により、変化した物性を示す絹繊維の製造が可能となる。したがって、本発明は繊維産業および医療機材産業において有用であり得る。
図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
図10
図11
図12
図13
図14
図15
図16
図17
図18
図19
図20
【配列表】
[この文献には参照ファイルがあります.J-PlatPatにて入手可能です(IP Forceでは現在のところ参照ファイルは掲載していません)]