(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】公開特許公報(A)
(11)【公開番号】P2023170616
(43)【公開日】2023-12-01
(54)【発明の名称】ラマン散乱スペクトルの補正装置および補正方法
(51)【国際特許分類】
G01N 21/65 20060101AFI20231124BHJP
【FI】
G01N21/65
【審査請求】未請求
【請求項の数】6
【出願形態】OL
(21)【出願番号】P 2022082496
(22)【出願日】2022-05-19
(71)【出願人】
【識別番号】504136568
【氏名又は名称】国立大学法人広島大学
(74)【代理人】
【識別番号】110000338
【氏名又は名称】弁理士法人 HARAKENZO WORLD PATENT & TRADEMARK
(72)【発明者】
【氏名】藤田 英明
(72)【発明者】
【氏名】渡邉 朋信
【テーマコード(参考)】
2G043
【Fターム(参考)】
2G043AA04
2G043BA16
2G043EA03
2G043FA02
2G043HA01
2G043HA02
2G043HA07
2G043JA01
2G043KA01
2G043LA03
2G043MA01
2G043NA01
(57)【要約】
【課題】細胞由来のラマン散乱スペクトルをより正確にするための補正装置を提供する。
【解決手段】本発明の一態様に係る補正装置は、細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得部(ここで、複数の位置には、細胞領域および細胞外領域の両方が含まれる)と;細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定部と;特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された特定の位置における背景スペクトルを減算する減算部と;を備えている
【選択図】
図1
【特許請求の範囲】
【請求項1】
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得部であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得部と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定部と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算部と、
を備えている、ラマン散乱スペクトルの補正装置。
【請求項2】
上記推定部は、線形近似により上記位置依存性を算出する、請求項1に記載の補正装置。
【請求項3】
上記推定部は、曲面近似により上記位置依存性を算出する、請求項1に記載の補正装置。
【請求項4】
請求項1~3のいずれか1項に記載の補正装置としてコンピュータを機能させるための制御プログラムであって、
上記取得部、上記推定部および上記減算部としてコンピュータを機能させるための制御プログラム。
【請求項5】
請求項4に記載の制御プログラムが記録されている、コンピュータ読み取り可能な記録媒体。
【請求項6】
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得工程であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得工程と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定工程と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算工程と、
を含む、ラマン散乱スペクトルの補正方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、ラマン散乱スペクトルの補正装置および補正方法に関する。
【背景技術】
【0002】
細胞などの生体材料を、ラマン分光法によって分析する技術が従来知られている。ラマン分光法によって得られるラマン散乱スペクトルからは、分子間結合振動の状態に関する情報が網羅的に得られ、生体試料のモニタリングに有用である。
【0003】
生体試料から発せられるラマン散乱光は、入射光に対して微弱である。そのため、ラマン分光法により得られる生のラマン散乱スペクトルには、生体試料に由来するラマン散乱スペクトルの他に、背景(ガラス基板、培地など)に由来するラマン散乱スペクトルも含まれる。そのため、生のラマン散乱スペクトルから背景に由来するラマン散乱スペクトルを除去し、ラマン散乱スペクトルを補正する方法が提案されている。例えば、非特許文献1では、水晶基板上に載置したHeLa細胞のラマン散乱スペクトルp(w
j)と、水晶基板のみのラマン散乱スペクトルq(w
j)とを測定している。その上で、非特許文献1は、スケーリング係数kを用いて、背景スペクトルのないラマン散乱スペクトルr(w
j)を、r(w
j)=p(w
j)-k・q(w
j)により算出することを開示している(
図12Aも併せて参照)。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0004】
【非特許文献1】Sugawara, T.; Yang, Q., Nakabayashi, T. & Morita, S.I. A Proposal for Automated Background Removal of Bio-Raman Data. Anal Sci. 33, 1323-1325 (2017) doi: 10.2116/analsci.33.1323
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
しかしながら、上述の従来技術には、複数の課題がある。例えば、上述の従来技術は、基板上の細胞のラマン散乱スペクトルと、基板のみのラマン散乱スペクトルとを、別々に取得している。そのため、焦点位置の制御などの技術的な再現性が完全に確保されていることが、ラマン散乱スペクトルを正しく補正するための前提となっている。しかし、実践的には、技術的なばらつきは不可避である。そのため、減算する背景スペクトルの値が過剰または過少になるという課題がある。
【0006】
また、基板上の細胞のラマン散乱スペクトルと、基板のみのラマン散乱スペクトルとを別々に取得するため、スループットが低下してしまうという課題もある。
【0007】
本発明は、細胞由来のラマン散乱スペクトルをより正確にするための補正装置および補正方法を提供することを目的とする。
【課題を解決するための手段】
【0008】
上記の課題を解決するために、本発明の一態様に係るラマン散乱スペクトルの補正装置は、
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得部であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得部と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定部と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算部と、
を備えている。
【0009】
本発明の一態様に係る補正装置は、コンピュータによって実現してもよい。それゆえ、上記取得部、上記推定部および上記減算部としてコンピュータを動作させることにより、評価装置をコンピュータにて実現させる制御プログラムは、本発明に包含される。さらに、上記制御プログラムを記録したコンピュータ読み取り可能な記録媒体もまた、本発明に包含される。
【0010】
本発明の他の態様に係るラマン散乱スペクトルの補正方法は、
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得工程であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得工程と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定工程と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算工程と、
を含む。
【発明の効果】
【0011】
本発明の一態様によれば、細胞由来のラマン散乱スペクトルをより正確にするための補正装置および補正方法が提供される。
【図面の簡単な説明】
【0012】
【
図1】本発明の一態様に係る補正装置の要部を表すブロック図である。
【
図2】本発明の一態様に係る補正方法の概要を表すフロー図である。
【
図3】画素ごとにラマン散乱スペクトルの情報が含まれているハイパースペクトル画像の取得方法の一例を表す図である。
【
図4A】
図4A~4Cは、ハイパースペクトル画像におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を表す図である。
図4Aは、ハイパースペクトル画像において、シトクロムC由来の信号強度(755cm
-1)、タンパク質由来の信号強度(1653cm
-1)、および脂質由来の信号強度(1438cm
-1)を異なる色で着色した、顕微鏡像である。
【
図4B】
図4Bは、
図4Aのハイパースペクトル画像のうち、細胞領域に該当する画素(1)と、視野の両端の細胞外領域に該当する画素(2)および画素(3)の、ラマン散乱スペクトルである。
【
図4C】
図4Cは、
図4Aのハイパースペクトル画像において、ガラス由来の波数(495cm
-1)、シトクロムC由来の波数(755cm
-1)およびタンパク質由来の波数(1653cm
-1)の、X軸方向の位置と信号強度との関係を表すグラフである。
【
図5A】
図5A~5Cは、細胞領域と細胞外領域とを区別し、1個の細胞から発せられる平均ラマン散乱スペクトルを取得する方法の一例を表す図である。
図5Aの上段:
図4aのハイパースペクトル画像における生のラマン散乱スペクトルを、移動平均処理して得られるスペクトルである。移動平均処理のカーネルサイズは、5cm
-1または41cm
-1とした。
図5Aの下段:上段に示される2つの移動平均の差分を取って得られる差分スペクトルである。
【
図5B】
図5Bは、1438cm
-1における信号強度を閾値として、全ての画素を細胞領域または細胞外領域に分類した図である。上段:細胞領域を白く表示している。下段:細胞外領域を白く表示している。
【
図5C】
図5Cの上段:細胞領域を個々の細胞に分割した結果である。異なる細胞は異なる番号でラベリングしている。
図5Cの下段:同じ1個の細胞の細胞領域に該当する画素に含まれるラマン散乱スペクトルを平均化して得られるラマン散乱スペクトルである。スペクトルの番号は、
図5Cの上段における細胞領域の番号と対応している。
【
図6A】
図6A~6Cは、背景スペクトルを推定する方法の一例を表す図である。
図6Aは、
図4Aのハイパースペクトル画像において、細胞外領域における信号強度の測定値と、当該測定値から導出される線形回帰曲線を表す図である。ガラス由来の信号強度(495cm
-1)、シトクロムC由来の信号強度(755cm
-1)およびタンパク質由来の信号強度(1653cm
-1)について、フィッティング曲線を作成している。755cm
-1および1653cm
-1の信号強度が高い地点は、細胞内領域に対応している。
【
図6B】
図6Bは、線形回帰曲線から推定される、細胞領域における背景スペクトルである。スペクトルの番号は、
図5Cの上段における細胞領域の番号と対応している。
【
図6C】
図6Cは、細胞領域における生のラマン散乱スペクトルから、細胞領域における背景スペクトルを除去して得られる、補正されたラマン散乱スペクトルである。スペクトルの番号は、
図5Cの上段における細胞領域の番号と対応している。
【
図7A】
図7A~7Cは、細胞領域および細胞外領域を識別する閾値の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を、本発明の一実施形態に係る方法と従来法とで比較した図である。
図7Aは、異なる閾値を設定した場合における、細胞領域および細胞外領域の識別結果を表す図である。
【
図7B】
図7Bは、閾値セット#1~#3のそれぞれを採用した場合において、本発明の一実施形態に係る方法により得られるラマン散乱スペクトルである。
【
図7C】
図7Cは、閾値セット#1~#3のそれぞれを採用した場合において、従来法により得られるラマン散乱スペクトルである。
【
図8】ヒトiPS細胞株から本発明の一実施形態に係る方法により得られる、補正されたラマン散乱スペクトルである。6つのスペクトルは、それぞれ、iPS細胞株の種類が異なる。各細胞株について、7つの異なるガラスボトムディッシュで培養されているiPS細胞から、平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【
図9】ヒトiPS細胞株から従来法によって得られる、補正されたラマン散乱スペクトルである。各細胞株について、7つの異なるガラスボトムディッシュで培養されているiPS細胞から、平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【
図10A】
図10A~10Bは、本発明の一実施形態に係る方法について、操作者の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した図である。
図10Aは、全く同じ実験データに対して、異なる2人の操作者がそれぞれに独立に、本発明の一実施形態に書かる方法によりラマン散乱スペクトルを得た。4つのガラスボトムディッシュで培養されている細胞のそれぞれから、平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【
図10B】
図10Bは、2人の操作者により算出された各ガラスボトムディッシュの平均ラマン散乱スペクトルと、全8つのラマン散乱スペクトルの平均スペクトルとの差を示すヒートマップである。
【
図11A】
図11A~11Cは、本発明の一実施形態に係る方法について、光学調整の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した図である。
図11Aは、光学調整を異ならせた2つのケースで取得されたハイパースペクトル画像において、シトクロムC由来の信号強度(755cm
-1)、タンパク質由来の信号強度(1653cm
-1)、および脂質由来の信号強度(1438cm
-1)を異なる色で着色した、顕微鏡像である。
【
図11B】
図11Bは、
図11Aの2つのケースにおいて、ガラス由来の信号強度(495cm
-1)、シトクロムC由来の信号強度(755cm
-1)およびタンパク質由来の信号強度(1653cm
-1)の、X軸方向の位置と信号強度との関係を表すグラフである。755cm
-1および1653cm
-1の信号強度が高い地点は、細胞内領域に対応している。
【
図11C】
図11Cは、
図11Aの2つのケースについて、本発明の一実施形態に係る方法により得られた、補正されたラマン散乱スペクトルである。
【
図12A】
図12A~12Bは、ラマン散乱スペクトルを補正する従来の方法を表す概念図である。
図12Aは、細胞が存在する場合および存在しない場合の2通り分、同じ視野を測定することにより、背景スペクトルを決定する方法を表す概念図である。
【
図12B】
図12Bは、細胞領域の近傍の細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルから、背景スペクトルを決定する方法を表す概念図である。
【発明を実施するための形態】
【0013】
以下、本発明の一実施形態を、図面に基づいて説明する。本明細書では、登場するデータを自然言語により説明している。これらのデータは、通常、コンピュータが認識可能な疑似言語、コマンド、パラメータ、マシン語などにより記述される。
【0014】
〔1.補正装置および補正方法〕
図1は、ラマン散乱スペクトルの補正装置50を備えている、補正システム100の要部を表すブロック図である。補正システム100は、補正装置50に加えて、測定部70および出力部80を備えている。補正システム100によれば、ラマン散乱分析を行う際に背景スペクトルの形状を正確に推定できるので、正確かつ再現性の高い細胞由来のラマン散乱スペクトルが得られるようになる。
【0015】
測定部70は、細胞に光線を照射し、ラマン散乱スペクトルを測定するブロックである。測定部70を構成する部材の例としては、顕微鏡、光学系(レーザー発振器、レンズ、ミラー、偏光板など)、検出器(CCDカメラ、分光器など)、およびこれらを制御する制御装置が挙げられる。細胞に光線を照射してラマン散乱スペクトルを測定する方法は公知であり、測定部70の具体的な構成は当業者にとって周知であるため、本明細書では詳細な説明を省略する。測定部70の具体的な構成を開示した文献として、Raman and SERS microscopy for molecular imaging of live cells. Nat Protoc. 8, 677-692 doi: 10.1038/nprot.2013.030 (2013)が挙げられる。
【0016】
出力部80は、減算部3により得られるラマン散乱スペクトルを出力するブロックである。出力部80の具体例としては、ディスプレイなどの表示装置が挙げられる。出力部80は、複数のラマン散乱スペクトルを出力してもよい。このとき、比較を容易にするために、複数のラマン散乱スペクトルを並べたり重ね合せたりしてもよい。
【0017】
補正装置50は、制御部10および記憶部20を備えている。制御部10は、情報処理に応じて各構成要素の制御を行う。制御部10を構成する部材の例としては、CPU(Central Processing Unit)、RAM(Random Access Memory)、ROM(Read Only Memory)が挙げられる。記憶部20は、制御部10における処理に必要なデータを格納している。記憶部20の具体例としては、補助記憶装置(ハードディスクドライブ、ソリッドステートドライブなど)が挙げられる。
【0018】
制御部10は、取得部1、推定部2および減算部3を含んでいる。以下、
図2も参照しながら、それぞれの機能ブロックおよび当該機能ブロックが実行する処理について説明する。
【0019】
[1.1.取得部および取得工程]
取得部1は、取得工程S10を実行する。取得工程S10において、取得部1は、細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する。取得部1が取得した複数のラマン散乱スペクトルは、推定部2へと送られる。
【0020】
取得工程S10において、取得部1が取得する複数のラマン散乱スペクトルは、位置と関連付けられている。ラマン散乱スペクトルに関連付けられている位置は、細胞領域および細胞外領域の両方を含んでいる。すなわち、取得工程S10において、取得部1が取得する複数のラマン散乱スペクトルには、細胞領域内の1つ以上の位置と関連付けられている1つ以上のラマン散乱スペクトルと、細胞外領域内の1つ以上の位置と関連付けられている1つ以上のラマン散乱スペクトルと、が含まれている。
【0021】
典型的には、取得工程S10において、取得部1は、ハイパースペクトル画像を取得する。ハイパースペクトル画像は、一つ一つの画素に、当該画素が対応する位置のラマン散乱スペクトル情報が格納されている。つまり、ハイパースペクトル画像においては、視野が画素よって分割され、画素のそれぞれについて、視野内における位置および当該位置におけるラマン散乱スペクトルに関する情報が集積されている。
【0022】
取得部1が取得するラマン散乱スペクトルは、測定部70が測定したラマン散乱スペクトルそのものであってもよい。この実施形態においては、取得部1(または制御部10に含まれる他の制御ブロック)は、測定部70が測定したラマン散乱スペクトルを、後続する処理に適切な形式に加工してもよい。あるいは、取得部1が取得するラマン散乱スペクトルは、測定部70が測定したラマン散乱スペクトルを加工したものであってもよい。この実施形態において、測定部70が測定したラマン散乱スペクトルを加工する機能ブロックは、測定部70に含まれていてもよいし、他の部材に含まれていてもよい。測定部70が測定したラマン散乱スペクトルに対して加えられる加工の例は、[1.4]節にて後述する。
【0023】
取得工程S10においては、推定工程S20において背景スペクトルを推定できる程度の密度でラマン散乱スペクトルを取得することが好ましい。例えば、ハイパースペクトル画像における画素の密度は、0.1~10画素/μmでありうる。
取得工程S10においては、ハイパースペクトル画像を加工して、サンプリングレートを下げた画像を取得してもよい。例えば、未加工のハイパースペクトル画像を所定の画素数を有する複数の範囲に分割し、各範囲に対して1つのラマン散乱スペクトルを代表させてもよい。所定の画素数を有する複数の範囲の大きさは、例えば、10×10画素以下でありうる。
【0024】
一実施形態において、取得部1が取得する複数のラマン散乱スペクトルのそれぞれは、視野内の位置と一対一対応している。
【0025】
[1.2.推定部および推定工程]
推定部2は、推定工程S20を実行する。推定工程S20において、推定部2は、細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて、視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出する。さらに、推定工程S20において、推定部2は、位置依存性に基づいて、細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する。推定した細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルは、減算部3へと送られる。
【0026】
取得工程S10で得られたラマン散乱スペクトルには、細胞領域のラマン散乱スペクトルと、細胞外領域のラマン散乱スペクトルとが含まれる。このうち、細胞外領域のラマン散乱スペクトルには、背景スペクトルのみが含まれている。一方、細胞領域のラマン散乱スペクトルには、背景スペクトルおよび細胞由来のスペクトルの合成スペクトルが含まれている。
【0027】
本発明者らが見出したところによると、背景スペクトルには位置依存性があり、位置の関数として表すことができる。そのため、背景スペクトルのみを含んでいる細胞外領域のラマン散乱スペクトルのデータに基づけば、視野内の任意の位置における背景スペクトルを推定できる。
【0028】
背景スペクトルの具体的な推定方法の一例を示すと、下記の通りである。これらの処理は、いずれも、推定部2が実行する。
1. 細胞外領域に含まれる位置を説明変数、特定の波数における背景スペクトルの信号強度を目的変数としてプロットする。一実施形態において、位置は、1種類の変数のみで表される(例えば、X軸方向における位置)。他の実施形態において、位置は、2種類の変数により表される(例えば、互いに直交するX軸方向およびY軸方向における位置)。
2. 工程1で作成したプロットに基づいて、フィッティングを施す。フィッティングの方法は、統計科学の分野において周知であるため、詳細な説明は省略する。例えば、位置が1種類の変数のみで表せるならば、線形回帰法によりフィッティング曲線が作成できる。例えば、位置が2種類の変数で表せるならば、曲面回帰法によりフィッティング曲面が作成できる。このようにして、特定の波数における背景スペクトルの信号強度を推定するための関数が得られる。
3. 工程1および工程2の操作を、ラマン散乱スペクトルを測定した全ての波数に対して実行する。この操作により、全ての波数について、背景スペクトルの信号強度を推定するための関数群が得られる。このようにして、ラマン散乱スペクトルの位置依存性が算出される。
4. 工程3で求めた関数群に、視野内の特定の位置を代入すれば、当該特定の位置における背景スペクトルが推定できる。特定の位置が細胞領域に含まれる場合は、細胞領域に含まれる位置の背景スペクトルを推定できる。
【0029】
一実施形態において、推定部2は、線形近似によりラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出する(例えば、工程2において、線形回帰法によりフィッティング曲線を作成する)。この実施形態には、情報処理が軽く、迅速に実行できるという利点がある。他の実施形態において、推定部は、曲面近似により位置依存性を算出する(例えば、工程2において、曲面回帰法によりフィッティング曲面を作成する)。この実施形態には、背景スペクトルをより正確に推定できるという利点がある。
【0030】
[1.3.減算部および減算工程]
減算部3は、減算工程S30を実行する。減算工程S30において、減算部3は、細胞領域内の特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された当該特定の位置における背景スペクトルを減算する。減算して得られたスペクトルを、出力部80に出力してもよい。
【0031】
[1.2]節で説明した通り、細胞領域のラマン散乱スペクトルには、背景スペクトルおよび細胞由来のスペクトルの合成スペクトルが含まれている。このうち、背景スペクトルは推定工程S20により推定されている。したがって、細胞領域のラマン散乱スペクトルから推定された背景スペクトルを減算することにより、細胞由来のスペクトルを取得できる。
【0032】
[1.4.その他のブロックおよび工程]
補正装置50は、上記に説明した以外の機能ブロックを備えていてもよい。補正方法は、上記に説明した以外の工程を含んでもよい。このような機能ブロックまたは工程の例としては、下記が挙げられる。
【0033】
[1.4.1.細胞領域と細胞外領域との識別]
補正装置50は、細胞領域と細胞外領域とを識別する識別部を備えていてもよい。補正方法は、細胞領域と細胞外領域とを識別する識別工程を含んでもよい。識別部は、通常、取得部1よりも上流に位置する。識別工程は、通常、取得工程S10よりも上流に位置する。
【0034】
細胞領域と細胞外領域との識別は、本技術分野において公知の手段により実施できる。例えば、細胞に特有の成分(脂質など)に由来する信号の強度に基づいて、細胞領域と細胞外領域とを識別してもよい。細胞領域と細胞外領域とを識別する根拠となるラマン散乱スペクトルは、生のラマン散乱スペクトルであってもよいし、加工されたラマン散乱スペクトルであってもよい。加工されたラマン散乱スペクトルの例としては、ラマン散乱スペクトルの移動平均スペクトル、複数の移動平均スペクトルの差分スペクトルが挙げられる。
【0035】
[1.4.2.細胞領域の分割]
補正装置50は、細胞領域を個々の単一の細胞に分割する分割部を備えていてもよい。補正方法は、細胞領域を個々の単一の細胞に分割する分割工程を含んでもよい。識別部は、通常、識別部よりも下流に位置する。識別工程は、通常、識別工程よりも下流に位置する。
【0036】
細胞領域の個々の単一の細胞への分割は、本技術分野において公知の手段により実施できる。例えば、分水嶺アルゴリズムなどのアルゴリズムにより細胞領域を分割してもよい。あるいは、操作者が目視確認することにより細胞領域を分割してもよい。
【0037】
[1.4.3.追加の補正]
補正装置50は、取得部1により取得されたラマン散乱スペクトルに追加の補正を施す追加補正部を備えていてもよい。補正方法は、取得工程S10により取得されたラマン散乱スペクトルに追加の補正を施す追加補正工程を含んでもよい。追加補正部は、通常、取得部1よりも下流に位置する。識別工程は、通常、取得工程S10よりも下流に位置する。
【0038】
追加の補正の具体例としては、細胞の自家発光に由来するスペクトルの除去が挙げられる。細胞の自家発光に由来するスペクトルの除去は、本技術分野において公知の手段により実施できる。例えば、1次微分、2次微分、多項式フィッティング、ウェーブレット変換、ローリングボールアルゴリズムが挙げられる。
【0039】
[1.4.4.1つの細胞と1つのラマン散乱スペクトルとの対応付け]
補正装置50は、1つの細胞に対して1つのラマン散乱スペクトルを対応させる対応部を備えていてもよい。補正方法は、1つの細胞に対して1つのラマン散乱スペクトルを対応させる対応工程を含んでもよい。対応部は、通常、分割部よりも下流に位置する。対応工程は、通常、分割工程よりも下流に位置する。
【0040】
測定方法によっては、1つの細胞から2つ以上のラマン散乱スペクトルが得られる場合がある。例えば、1つの画素が1つのラマン散乱スペクトルを記録するハイパースペクトル画像においては、1つの細胞が複数の画素にまたがって撮像されるため、1つの細胞から2つ以上のラマン散乱スペクトルが得られる。このような場合、1つの細胞に対して1つのラマン散乱スペクトルを対応させることが好ましい。1つの細胞と1つのラマン乱スペクトルとの対応付けは、本技術分野において公知の手段により実施できる。例えば、同じ細胞に由来する複数のラマン散乱スペクトルを平均化することにより、1つの細胞と1つのラマン散乱スペクトルとを対応付けられる。
【0041】
[1.4.5.信号強度の標準化]
補正装置50は、ラマン散乱スペクトルの信号強度を標準化する標準化部を備えていてもよい。補正方法は、ラマン散乱スペクトルの信号強度を標準化する標準化工程を含んでもよい。標準化部は、通常、推定部2よりも上流に位置する。標準化工程は、通常、推定工程S20よりも上流に位置する。
【0042】
標準化部および標準化工程では、測定部70が測定したラマン散乱スペクトルの信号強度を標準化して、複数のラマン散乱スペクトルを比較および計算できるようにする。信号強度の標準化は、本技術分野において公知の手段により実施できる。一実施形態においては、各波数における信号強度を、全スペクトル領域の信号強度の総和で除算することにより、ラマン散乱スペクトルを標準化する。一実施形態においては、各波数における信号強度を、特定の波数の信号強度で除算することにより、ラマン散乱スペクトルを標準化する。一実施形態においては、各波数における信号強度を、全スペクトル領域の信号強度の平均強度または合計強度で除算することにより、ラマン散乱スペクトルを標準化する。
【0043】
〔2.ソフトウェアによる実施形態〕
補正装置50の機能は、コンピュータプログラムにより実装してもよい。このコンピュータプログラムは、コンピュータを補正装置50として機能させるための制御プログラムである。制御プログラムは、補正装置50の各制御ブロック(とりわけ、制御部10に含まれる各部)として、コンピュータを機能させられる。
【0044】
本実施形態において、補正装置50は、コンピュータを備えている。このコンピュータは、上述の制御プログラムを実行するハードウェアとして、1つ以上の制御装置(プロセッサなど)と、1つ以上の記憶装置(メモリなど)とを備えている。制御装置および記憶装置により制御プログラムを実行することにより、上述の実施形態において説明した機能を実現できる。
【0045】
制御プログラムは、非一時的かつコンピュータ読み取り可能な、1つ以上の記録媒体に記録されていてもよい。記録媒体は、補正装置50に備わっていてもよいし、備わっていなくてもよい。補正装置50に記録媒体が備わっていない場合、有線または無線の任意の伝送媒体を介して、制御プログラムを補正装置50に供給してもよい。
【0046】
補正装置50の各制御ブロックの機能の一部または全部を、論理回路により実装してもよい。例えば、補正装置50の各制御ブロックとして機能する論理回路が形成された集積回路は、本発明の範疇に含まれる。他の例として、量子コンピュータにより補正装置50の各制御ブロックの機能の一部または全部を実装してもよい。
【0047】
上述の実施形態で説明した処理を、AI(Artificial Intelligence:人工知能)に実行させてもよい。この実施形態において、AIは、補正装置50において動作してもよいし、他の装置(エッジコンピュータ、クラウドサーバなど)で動作してもよい。
【0048】
〔3.補正装置および補正方法の利点〕
本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法には、複数の利点が存在しうる。以下、このような利点の例を説明する。
【0049】
[3.1.スループットの向上]
図12Aに示す従来技術では、基板上の細胞のラマン散乱スペクトルと、基板のみのラマン散乱スペクトルとを別々に取得する必要があった。つまり、背景スペクトルを除去するためには、同じ視野を2回測定しなければならなかった。本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法は、同じ視野を1回測定するだけで、背景スペクトルを推定し除去できる。
【0050】
[3.2.サンプル間誤差の低減]
通常、ラマン散乱分析では、複数のサンプル(複数の培養皿など)を用意し、各サンプルにおいてラマン散乱スペクトルを取得する。そのため、顕微鏡のステージにサンプルを載置する作業を複数回行うことになる。このとき、僅かながらでも、顕微鏡の焦点が変化したり、カバーガラスの平行性が変化したりする場合がある。これらの事象が、サンプル間の誤差の原因となりうる。本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法によれば、サンプル間の誤差をかなりの程度低減できる(実施例3を参照)。
【0051】
[3.3.閾値の違いに起因する誤差の低減]
細胞領域と細胞外領域との識別に使用する閾値は、複数の選び方ができる。どのような閾値を選ぶかによって、細胞領域と細胞外領域との境界は変化する。それゆえ、
図12Bに示すような、細胞領域の近傍の細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルから細胞領域における背景スペクトルを決定する方法では、閾値が変化すると決定される背景スペクトルも変化してしまう。本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法によれば、閾値の違いに起因する誤差をかなりの程度低減できる(実施例2を参照)。
【0052】
[3.4.操作者の違いに起因する誤差の低減]
ラマン散乱分析を行う操作者が変わると、上述したサンプル間誤差または閾値の違いに起因する誤差が生じうる。例えば、細胞領域と細胞外領域との識別に使用する閾値は、操作者により決定される場合があり、具体的な閾値は操作者によって異なる。本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法によれば、操作者の違いに起因する誤差をかなりの程度低減できる(実施例4を参照)。
【0053】
[3.5.光学調整による誤差の低減]
一般的に、ラマン散乱分析を含む分光分析では、光学調整が測定結果に影響を及ぼすことが知られている。例えば、光学系に変化が生じる(入射光の入射角が変化するなど)と、得られる生のラマン散乱スペクトルの信号強度分布にも変化が生じる。それゆえ、
図12Bに示すような、細胞領域の近傍の細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルから細胞領域における背景スペクトルを決定する方法では、光学調整が変化すると決定される背景スペクトルも変化してしまう。本発明の一実施形態に係る補正装置および補正方法によれば、光学調整の違いに起因する誤差をかなりの程度低減できる(実施例5を参照)。
【0054】
〔4.まとめ〕
<1>
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得部(1)であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得部(1)と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定部(2)と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算部(3)と、
を備えている、ラマン散乱スペクトルの補正装置(50)。
<2>
上記推定部は、線形近似により上記位置依存性を算出する、<1>に記載の補正装置(50)。
<3>
上記推定部は、曲面近似により上記位置依存性を算出する、<1>または<2>に記載の補正装置(50)。
<4>
<1>~<3>のいずれかに記載の補正装置(50)としてコンピュータを機能させるための制御プログラムであって、
上記取得部(1)、上記推定部(2)および上記減算部(3)としてコンピュータを機能させるための制御プログラム。
<5>
<4>に記載の制御プログラムが記録されている、コンピュータ読み取り可能な記録媒体。
<6>
細胞領域および細胞外領域を含む視野から、当該視野内の複数の位置にそれぞれ対応している複数のラマン散乱スペクトルを取得する取得工程(S10)であって、上記複数の位置には、上記細胞領域および上記細胞外領域の両方が含まれる取得工程(S10)と、
上記細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルに基づいて上記視野におけるラマン散乱スペクトルの位置依存性を算出し、当該位置依存性に基づいて上記細胞領域内の特定の位置における背景スペクトルを推定する推定工程(S20)と、
上記特定の位置において測定されたラマン散乱スペクトルから、推定された上記特定の位置における背景スペクトルを減算する減算工程(S30)と、
を含む、ラマン散乱スペクトルの補正方法。
【0055】
本発明は上述した各実施形態に限定されるものではなく、請求項に示した範囲で種々に変更できる。異なる実施形態に開示されている技術的手段を適宜組合せて得られる実施形態は、本発明の技術的範囲に含まれる。
【実施例0056】
〔実施例1〕
各画素にラマン散乱スペクトルの情報が含まれているハイパースペクトル画像を取得した。このハイパースペクトル画像に基づいて、本発明の一実施形態に係る方法により、ラマン散乱スペクトルを補正した。
【0057】
[ハイパースペクトル画像の取得]
底面がカバーガラスであるガラスボトムディッシュにて細胞を培養した。このガラスボトムディッシュの一部を、ラマン散乱スペクトルを取得する視野とした。
【0058】
ラマン散乱スペクトルを測定する装置として、線光共焦点顕微鏡を基盤としたラマン散乱スペクトル測定装置を用いた。測定装置の具体的な構成は、Raman and SERS microscopy for molecular imaging of live cells. Nat Protoc. 8, 677-692 doi: 10.1038/nprot.2013.030 (2013)を参照。同文献に従い、各画素がラマン散乱スペクトル情報を有するハイパースペクトル画像を取得した。具体的な手順は、下記の通りである(
図3も参照)。
1. シリンドリカルレンズを用いて線状に成型したレーザーにより、ガラス基板上の細胞を照射した。
2. 工程1により生じた、細胞から発せられるラマン散乱光を、対物レンズにより収集した。
3. 収集したラマン散乱光を、ポリクロメーターに通過させた。次に、400×1340画素の2次元検出器により捕捉した。
【0059】
このとき、各画素に記録するスペクトル範囲は、160~2200cm-1とした。レーザーは、ラインと直交する軸上に沿って走査させた。これによって、各画素がラマン散乱スペクトルの情報を有するハイパースペクトル画像を取得した。
【0060】
なお、光照射などの放射線被曝によって、細胞内のコラーゲンおよびグリコーゲンの生成が刺激され、ラマン散乱スペクトルの形状が変化してしまう可能性がある。この事態を回避するために、露光時間は10秒間とし、1ステップあたり2μmの区間を10ステップだけ走査した。したがって、取得されるハイパースペクトル画像は400×10画素であり、各画素が160~2200cm-1の範囲のスペクトル情報を有している。1枚のハイパースペクトル画像を取得するのに要した時間は、100秒間であった。
【0061】
[ラマン散乱スペクトルの位置依存性の確認]
図4Aは、得られたハイパースペクトル画像に着色した、顕微鏡像である。各画素に含まれるラマン散乱スペクトルにおいて、シトクロムC由来の信号強度(755cm
-1)、タンパク質由来の信号強度(1653cm
-1)、および脂質由来の信号強度(1438cm
-1)を異なる色で着色した。これにより、視野における細胞の大まかな位置が確認できる。
【0062】
図4Bは、ハイパースペクトル画像内の3つの画素におけるラマン散乱スペクトルである。3つの画素は、それぞれ、
図4Aの画素(1)、画素(2)および画素(3)に対応している。このうち、画素(2)および画素(3)は、細胞が存在していない細胞外領域に該当する。画素(2)および画素(3)におけるラマン散乱スペクトルは、基板および培地由来の背景スペクトルであるため、理論上は同じ形状になるはずである。ところが、
図4Bに示すように、画素(2)および画素(3)におけるラマン散乱スペクトルの形状は大きく異なっている。このことから、背景スペクトルの形状は、ハイパースペクトル画像の横軸(X軸)方向の位置に依存していることが分かる。
【0063】
また、細胞領域である画素(1)のラマン散乱スペクトルは、細胞由来のスペクトルと背景スペクトルとを合算したスペクトルである。
図4Bを参照すると、細胞由来のスペクトルの信号強度は、背景スペクトルの信号強度よりも遥かに小さいことが分かる。それゆえ、背景スペクトルの形状を正確に推定することが、ラマン散乱分析において重要であることが分かる。
【0064】
図4Cは、3つの波数について、X軸方向の位置と信号強度との関係を表すグラフである。ガラス由来であり細胞由来の信号が少ないと予想される495cm
-1、シトクロムC由来の信号が含まれることが既知である755cm
-1、およびタンパク質由来の信号が含まれることが既知である1653cm
-1の信号強度を描いている。
図4Cからは、いずれの波数の信号強度も、視野の中央で高くなり、視野の両端で低くなる傾向が読み取れる。これは、ラマン散乱光をシリンドリカルレンズにより集光しているためだと考えられる。また、755cm
-1および1653cm
-1の信号強度には細胞領域においてピークが見られるのに対し、495cm
-1の信号強度にはこのようなピークは確認されなかった。すなわち、755cm
-1および1653cm
-1の信号強度が高い地点は細胞内領域に対応していると言える。
【0065】
[細胞領域と細胞外領域との識別]
下記の手順により、ハイパースペクトル画像の各画素を細胞領域と細胞外領域とに識別した。その後さらに、細胞領域を個々の細胞に分割した。
1. 各画素のラマン散乱スペクトルを、2種類のカーネルサイズ(5cm
-1または41cm
-1)で移動平均処理した。
図5Aの上段に、移動平均処理したスペクトルを示す。
2. 移動平均処理したスペクトルの差分を取り、差分スペクトルを得た。
図5Aの下段に、差分スペクトルを示す。
3. 差分スペクトルの1438cm
-1付近のピークの信号強度に基づいて、各画素を細胞領域または細胞外領域に識別した。1438cm
-1付近のピークは脂質に帰属するので、信号強度が高い画素は細胞領域であると判定できる。
図5Bに、識別結果を示す。
4. 分水嶺アルゴリズムにより、細胞領域を6個の細胞に分割した。
図5Cの上段に、分割結果を示す。
【0066】
6個の細胞の細胞領域のそれぞれに含まれる画素のラマン散乱スペクトルを平均して得られる、平均ラマン散乱スペクトルを
図5Cの下段に示す。この平均ラマン散乱スペクトルは、細胞由来のスペクトルと背景スペクトルとを合成したスペクトルである。
図5Cの下段によると、6個の細胞領域のそれぞれでは、信号強度が大きく異なっている箇所がある。これは、背景スペクトルの信号強度がX軸およびY軸方向の位置に依存しているからだと考えられる。
【0067】
[背景スペクトルの推定およびラマン散乱スペクトルの補正]
図6Aは、495cm
-1、755cm
-1および1653cm
-1の信号についての、X軸方向の位置と信号強度との関係を表すグラフである。
図4Cとは異なり、細胞外領域における測定値のみをプロットしている。同図には、プロットから得られる線形回帰曲線(6次までの多項式近似)も示している。この線形回帰曲線を使用すれば、細胞領域(プロットがない領域)においても、各波数の信号強度を推定できる。
【0068】
図6Aに示すような、X軸方向の位置と背景スペクトルの信号強度との関係を表す線形回帰曲線は、全ての波数について作成できる。それゆえ、細胞領域に含まれる全ての画素に対して、線形回帰曲線から推定される背景スペクトルを決定できる。背景スペクトルを決定すれば、生のラマン散乱スペクトルから背景スペクトルを減算することにより、細胞由来のラマン散乱スペクトルが得られる。
図6Bは、線形回帰曲線から推定される、6個の細胞領域のそれぞれにおける背景スペクトルである。
図6Cは、6個の細胞領域のそれぞれにおける生のラマン散乱スペクトルから背景スペクトルを減算して得られる、細胞由来のラマン散乱スペクトルである。
【0069】
〔実施例2〕
本発明の一実施形態に係る方法について、細胞領域および細胞外領域を識別する閾値の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した。具体的には、以下の3種類の閾値セットを使用して、細胞領域および細胞外領域を識別した。
・閾値セット1:1438cm-1の信号強度により、細胞領域と細胞外領域とを識別する。信号強度と閾値1とを比較して、信号強度が閾値1以上である地点を細胞領域とする。閾値1は、細胞領域であることが確実な信号強度である。
・閾値セット2:1438cm-1の信号強度により、細胞領域と細胞外領域とを識別する。信号強度と閾値1および閾値2とを比較して、信号強度が閾値1以上である地点を細胞領域、信号強度が閾値2以下である地点を細胞外領域とする。信号強度が閾値2超かつ閾値1未満である地点は、細胞内領域でも細胞外領域でもない地点として、ラマン散乱スペクトルの補正には用いなかった。閾値1は、細胞領域であることが確実な信号強度である。閾値2は、細胞外領域であることが確実な信号強度である。
・閾値セット3:1438cm-1の信号強度により、細胞領域と細胞外領域とを識別する。信号強度と閾値2とを比較して、信号強度が閾値2以下である地点を細胞外領域とする。閾値2は、細胞外領域であることが確実な信号強度である。
【0070】
同一のハイパースペクトル画像に対して、閾値セット1~3のそれぞれによって細胞領域および細胞外領域を識別した(
図7Aを参照)。その後、実施例1と同様の手法により、細胞1個ごとに補正後のラマン散乱スペクトルを得た。代表的な1個の細胞のラマン散乱スペクトルを、
図7Bに示す。同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、閾値の選択が変わっても得られるラマン散乱スペクトルの形状にはほとんど差異が見られなかった。
【0071】
〔比較例1〕
同一のハイパースペクトル画像に対して、閾値セット1~3のそれぞれによって細胞領域および細胞外領域を識別した(
図7Aを参照)。その後、従来法(
図12Bに記載の方法)により、細胞1個ごとに補正後のラマン散乱スペクトルを得た。細胞1個ごとの補正後のラマン散乱スペクトルを平均した平均ラマン散乱スペクトルを
図7Cに示す。同図から分かるように、従来法を使用した場合では、閾値の選択が変わると、得られるラマン散乱スペクトルの形状に差異が見られた。
【0072】
なお、比較例1では、従来法として、
図12Bに記載の方法を採用した。すなわち、細胞領域の近傍の細胞外領域におけるラマン散乱スペクトルから、細胞領域における背景スペクトルを決定した。この方法では、閾値が変わると、背景スペクトルを決定する根拠となる細胞外領域の位置も変わってしまう。そのため、補正後のラマン散乱スペクトルの形状が、閾値の選択に依存する。
【0073】
〔実施例3〕
本発明の一実施形態に係る方法について、観察するサンプルの違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した。具体的には、7つのガラスボトムディッシュにおいて、同じ細胞株のヒトiPS細胞(253G1細胞株)を同じ条件で培養した。1つのガラスボトムディッシュあたり40~60個の細胞のラマン散乱スペクトルを収集し、実施例1と同様の手法により補正した。補正後のラマン散乱スペクトルを平均して、ガラスボトムディッシュあたりの平均ラマン散乱スペクトルを得た。7つのガラスボトムディッシュから平均ラマン散乱スペクトルを測定する測定日は、異なる2日に分けた(4つのガラスボトムディッシュを第1測定日に、3つのガラスボトムディッシュを第2測定日に測定した)。
【0074】
7つの平均ラマン散乱スペクトルを、
図8の左列上段に示す。同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、観察するサンプルが変わっても得られるラマン散乱スペクトルの形状にはほとんど差異が見られなかった。また、同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、観察日が変わっても得られるラマン散乱スペクトルの形状にはほとんど差異が見られなかった。
【0075】
また、253G1細胞とは異なる5種類のヒトiPS細胞についても、同様に、7つのガラスボトムディッシュごとに平均ラマン散乱スペクトルを得た。結果を
図8に示す。同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、多様なヒトiPS細胞において、観察するサンプルが変わっても得られるラマン散乱スペクトルの形状にはほとんど差異が見られなかった。
【0076】
〔比較例2〕
7つのガラスボトムディッシュにおいて、同じ細胞株のヒトiPS細胞(253G1細胞株)を同じ条件で培養した。1つのガラスボトムディッシュあたり40~60個の細胞のラマン散乱スペクトルを収集し、従来法(
図12Bに記載の方法)により補正した。補正後のラマン散乱スペクトルを平均して、ガラスボトムディッシュあたりの平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【0077】
7つの平均ラマン散乱スペクトルを、
図9に示す。同図から分かるように、従来法では、観察するサンプルが変わると得られるラマン散乱スペクトルの形状に差異が見られた。
【0078】
〔実施例4〕
発明の一実施形態に係る方法について、操作者の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した。具体的には、4つのガラスボトムディッシュにおいて、同じ細胞株のヒトiPS細胞を同じ条件で培養した。2人の操作者が、1つのガラスボトムディッシュあたり40~60個の細胞のラマン散乱スペクトルを収集し、実施例1と同様の手法により補正した。このとき、2人の操作者の間では、細胞領域と細胞外領域とを識別する閾値を意図的に異ならせた。補正後のラマン散乱スペクトルを平均して、ガラスボトムディッシュあたりの平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【0079】
8つの平均ラマン散乱スペクトルを、
図10Aに示す。同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、サンプル間においても、操作者間においても、いずれもスペクトルの形状にほとんど差異が見られなかった。
【0080】
サンプル間または操作者間による差異を強調するために、全てのラマン散乱スペクトルに基づいて求めた全体平均スペクトルと、8つの平均ラマン散乱スペクトルのそれぞれとの差を、ヒートマップとして表現した(
図10B)。このヒートマップによっても、操作者間おけるスペクトル形状の差異は、ほとんどないことが確認された。
【0081】
〔実施例5〕
発明の一実施形態に係る方法について、光学調整の違いが補正されたラマン散乱スペクトルに対して与える影響を検討した。
図11Aは、光学調整を異ならせた2つのケースにおいて、取得されたハイパースペクトル画像に着色した擬似カラー画像である。
図11Bは、光学調整を異ならせた2つのケースにおける、495cm
-1、755cm
-1および1653cm
-1の信号の、X軸方向の位置と信号強度との関係を表すグラフである。
【0082】
一般的なラマン分光測定では、視野中央の信号強度が最も大きくなり、中央から離れるにつれて信号強度が小さくなるように光学系を設計する(
図11A、11Bのケース1)。ここで、シリンドリカルレンズに入射されるレーザーの入射角度を意図的に変化させると、視野内において左右対称であった信号強度分布が大きく変化した(
図11A、11Bのケース2)。さらに、色収差の影響により、視野内で信号強度が最大となる位置は、波数によって異なっていた(
図11Bのケース2)。
【0083】
このように光学調整が異なる条件下において、ケース1では3つのガラスボトムディッシュから、ケース2では4つのガラスボトムディッシュから、1つのガラスボトムディッシュあたり40~60個の細胞のラマン散乱スペクトルを収集し、実施例1と同様の手法により補正した。補正後のラマン散乱スペクトルを平均して、ガラスボトムディッシュあたりの平均ラマン散乱スペクトルを得た。
【0084】
7つの平均ラマン散乱スペクトルを、
図11Cに示す。同図から分かるように、本発明の一実施形態に係る方法によれば、光学調整が異なっていても、スペクトルの形状にほとんど差異が見られなかった。