(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2023-11-13
(45)【発行日】2023-11-21
(54)【発明の名称】有機化合物の構造解析方法
(51)【国際特許分類】
G01N 27/62 20210101AFI20231114BHJP
G01N 33/68 20060101ALI20231114BHJP
【FI】
G01N27/62 V
G01N27/62 D
G01N33/68
(21)【出願番号】P 2020078167
(22)【出願日】2020-04-27
【審査請求日】2022-08-12
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(73)【特許権者】
【識別番号】504136568
【氏名又は名称】国立大学法人広島大学
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】弁理士法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】田中 耕一
(72)【発明者】
【氏名】山本 卓志
(72)【発明者】
【氏名】山口 愛歩
(72)【発明者】
【氏名】泉 俊輔
【審査官】伊藤 裕美
(56)【参考文献】
【文献】特開2004-163142(JP,A)
【文献】再公表特許第2014/163153(JP,A1)
【文献】特開2009-210355(JP,A)
【文献】特表2008-542784(JP,A)
【文献】再公表特許第2014/163179(JP,A1)
【文献】特開2017-166999(JP,A)
【文献】特表2005-519283(JP,A)
【文献】米国特許出願公開第2019/0369115(US,A1)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 27/60 - G01N 27/70
G01N 33/68 - G01N 33/98
H01J 49/00 - H01J 49/48
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析を用いて有機化合物の構造を解析する方法であって、
解析対象の有機化合物を含む試料と所定のマトリックスとの混合比を、モル比で1:5~1:
50の範囲としてサンプルを調整するサンプル調製工程と、
調製された前記サンプルに、その照射径が15μm以下であるレーザー光を照射することにより、該サンプル中の試料成分由来のイオンを生成し、生成されたイオンを質量分析する分析工程と、
前記分析工程において得られたマススペクトルから、インソース分解によるプロダクトイオンを含むイオンを検出し、該イオンの情報に基いて前記解析対象の有機化合物の構造を推定する解析工程と、
を有する、有機化合物の構造解析方法。
【請求項2】
前記有機化合物はペプチド、タンパク質、又は糖鎖である、請求項1に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項3】
前記有機化合物はペプチドであり、前記プロダクトイオンは、ペプチドの主鎖が切断されることにより生成されるイオンと、ペプチドの側鎖が切断されることにより生成されるイオンと、の両方を含む、請求項2に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項4】
前記マトリックスは、紫外レーザー光を吸収するための部分構造、プロトン又はカチオンを供与するための部分構造、及び、溶媒に溶解可能であるための部分構造、を有する、請求項1~3のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項5】
前記紫外レーザー光を吸収するための部分構造は芳香族環、前記プロトン又はカチオンを供与するための部分構造はカルボキシル基、前記溶媒に溶解可能であるための部分構造は水酸基である、請求項4に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項6】
前記マトリックスは、α-シアノ-4-ヒドロキシケイ皮酸、又は、2,5-ジヒドロキシ安息香酸である、請求項4又は5に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項7】
前記サンプル調製工程では、Dried-Droplet法又はThin-Layer法によりサンプルを調製する、請求項1~6のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項8】
前記サンプル調製工程では、その表面が平滑で且つ清浄であるガラス製のサンプルプレート上にサンプルを調製する、請求項1~7のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法。
【請求項9】
前記サンプル調製工程において調製されたサンプルに対し、レーザー光の照射径を15μm以下と25μm以上とで切り替えてそれぞれ質量分析を行い、前者の質量分析の結果に基いて該サンプル中の解析対象の有機化合物の構造情報を得る一方、後者の質量分析の結果に基いて該有機化合物の分子量情報を得る、請求項1に記載の有機化合物の構造解析方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、質量分析を利用した有機化合物の構造解析方法に関し、特に、ペプチドやタンパク質、糖鎖などの構造を解析するのに好適な方法に関する。
【背景技術】
【0002】
マトリックス支援レーザー脱離イオン化(Matrix Assisted Laser Desorption/Ionization:MALDI)によるイオン源を用いた質量分析装置(以下「MALDI質量分析装置」という)では、解析対象である試料とマトリックス(Matrix)と呼ばれるイオン化補助剤とを混合することで調製したサンプルに、レーザー光を短時間照射することで該サンプル中の試料成分を気化させつつイオン化し、生成されたイオンを質量分離器に導入してその質量電荷比m/zに応じて分離して検出する。
【0003】
MALDI法は一般に、難揮発性化合物をあまり分解することなくイオン化することが可能な、ソフトなイオン化法として知られている。そのため、MALDIイオン源と、質量分解能や質量精度が高い飛行時間型質量分離器とを組み合わせた質量分析装置は、タンパク質、ペプチドなどの生体由来の化合物から生成された分子イオン(例えばプロトン付加分子[M+H]+:ここでMは解析対象である試料分子を表す)を測定し、分子量情報を取得するのにしばしば用いられる。こうした測定の際には、検出感度を重視し、レーザー光の照射径を敢えて大きめ(例えばφ50~200μm)にすることで、1回のレーザー光照射によって発生するイオンの量を多くするようにしている。
【0004】
一方、ペプチドのアミノ酸配列や糖鎖の構造などを解析するには、ペプチドや糖鎖を意図的に分解し、それにより生成される多様な部分構造物の質量情報を取得する必要がある。そのために広く利用されているのが、低エネルギー衝突誘起解離(Low-energy Collision Induced Dissociation)、高エネルギー衝突誘起解離(High-energy Collision Induced Dissociation)などの解離手法を利用したMS/MS分析(又はnが3以上のMSn分析)である。
【0005】
例えば非特許文献1等に開示されているイメージング質量分析装置は、大気圧雰囲気の下でイオン化を行う大気圧MALDIイオン源と、イオントラップと、飛行時間型質量分離器と、を備える。真空雰囲気の下でイオン化を行う真空MALDIイオン源ではなく大気圧MALDIイオン源を用いるのは、生体組織切片などの生体試料を乾燥させずにそのまま分析するためである。一般に、大気圧MALDI法では真空MALDI法に比べて、イオン化の際のイオンの分解が抑制される傾向がある。そこで、上述したイメージング質量分析装置では、生体試料中の目的化合物の質量情報を取得したい場合には、大気圧MALDIイオン源で生成された目的化合物由来のイオンをイオントラップで解離させることなく飛行時間型質量分離器で質量分離して検出する。一方、上記目的化合物の構造解析を行いたい場合には、大気圧MALDIイオン源で生成された目的化合物由来のイオンをイオントラップにおいて低エネルギーCIDにより解離し、それにより生成されたプロダクトイオンを飛行時間型質量分離器で質量分離して検出する。
【0006】
目的化合物がペプチドである場合、こうしたMS/MS分析によって得られるマススペクトルには、ペプチドの主鎖が切断された、アミノ酸配列情報を表すa系列、b系列、c系列、y系列などのプロダクトイオンが多く観測される。しかしながら、低エネルギーCIDを行うと、N末端やC末端を含まないインターナルフラグメントイオンや、複数個所で結合が切断されたイオン(例えばa[-17]、b[-17/18])などが観測されることも多い。一方で、構造異性体のアミノ酸であるロイシンとイソロイシンとを識別するのに有用なd系列、w系列等の側鎖が切断されたプロダクトイオンは殆ど観測されない。そのため、上記マススペクトルでは、ペプチドについての詳細な構造解析を行うための情報が必ずしも十分でなく、構造解析がうまく行えない場合がある。
【0007】
一方、構造解析が可能なマススペクトルを取得可能な他の手法として、インソース分解(In-source decay:ISD)と呼ばれる手法がある。MALDI法では、例えばレーザー光パワーを高める等、イオン化の際のエネルギーを高めたり、特殊なマトリックスを使用したりすることで、イオン化の際に、測定対象物質由来のイオンの解離が促進されることが知られている。インソース分解はこれを利用したものであり、イオントラップや衝突セルなどのイオン解離のための素子を用いることなく、プロダクトイオンが観測されるマススペクトルを得ることができる。
【0008】
どのような条件の下でどのようなインソース分解が生じるのかについて、従来、様々な研究が行われている。例えば非特許文献2には、マトリックスとして1,5-ジアミノナフタレン(1,5-Diaminonaphthalene、以下、慣用に従い「1,5-DAN」という)を用い、一般的な真空MALDI法において試料とマトリックスとを混合する際のモル比に比べてマトリックスの割合がかなり少ない条件の下で真空MALDI法によるイオン化を行うことで、特殊なプロダクトイオンが生成され易いことが報告されている。しかしながら、該文献では、d系列のイオンが観測可能であることは報告されていない。
【0009】
一方、非特許文献3には、マトリックスとして1,5-DANや3-ヒドロキシ-2-ニトロ安息香酸(3-Hydroxy-2-Nitrobenzoic Acid、以下、慣用に従い「3H2NBA」という)を用いた真空MALDI法において、d系列イオンを含めたプロダクトイオンが得られることが報告されている。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0010】
【文献】「iMScope TRIO イメージング質量顕微鏡」、株式会社島津製作所、[online]、[2020年3月19日検索]、インターネット<URL: https://www.an.shimadzu.co.jp/bio/imscope/index.htm>
【文献】Mariko Yamakoshi、ほか1名、「オキサイダティブ・ ラディカル・ドリブン・クリーヴィジ・オブ・ペプタイド・バックボーン・コウズド・バイ・マトリックス-アシステッド・レーザー・デソープション/イオナイゼイション-イン-ソース・ディケイ・ウィズ・ロー・マトリックス-トゥー-ペプタイド・モラー・レシオズ(Oxidative radical driven cleavage of peptide backbone caused by matrix-assisted laser desorption/ionization-in-source decay with low matrix-to-peptide molar ratios)」、International Journal of Mass Spectrometry、2017年、Vol.422、pp.56-61
【文献】Yuko Fukuyama、ほか2名、「3-ハイドロキシー-2-ナイトロベンゾイック・アシッド・アズ・ア・マルディ・マトリックス・フォー・イン-ソース・ディケイ・アンド・エバルエイション・オブ・ジ・アイソマーズ(3-Hydroxy-2-Nitrobenzoic Acid as a MALDI Matrix for In-Source Decay and Evaluation of the Isomers)」、Journal of American Society for Mass Spectrometry、2018年、Vol.29、No.11、pp.2227-2236
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0011】
しかしながら、上述したような従来のインソース分解によって得られるマススペクトルでは、一般に、マトリックスに由来する多様なクラスターイオン(例えば[n×matrix+H]+ )が多量に観測され、それらがペプチドの構造解析の障害になる場合が多い。また、MALDI法にごく一般的に利用されているマトリックス(例えば α-シアノ-4-ヒドロキシケイ皮酸(α-cyano-4-hydroxycinnamic acid:CHCA)、2,5-ジヒドロキシ安息香酸(2,5-dihydroxybenzoic acid:DHB)ではない特殊なマトリックスを用いるために、分析に手間が掛かる、コストが掛かるといった問題もある。
【0012】
本発明はこうした課題の少なくとも一つを解決するために成されたものであり、ペプチドや糖鎖などの有機化合物の詳細構造を解析するのに有用なプロダクトイオンについての情報を良好に得ることを主たる目的としている。
【課題を解決するための手段】
【0013】
本願発明者は、MALDI質量分析における分析条件と得られるマススペクトルとの関係を実験的に調べる過程で、所定の条件の下で調製されたサンプルに対し、非特許文献1に記載のイメージング質量分析装置を用いた質量分析を行うと、ペプチドの構造解析に有用である多様なプロダクトイオンが多量に観測されることを見出した。また、実験を鋭意進めることにより、このようなプロダクトイオンを観測可能であることの主たる理由が、イメージング質量分析装置では空間分解能を高めることが重要であるために、サンプルに照射するレーザー光の照射径をかなり小さく絞ることができることにある、との知見が得られた。本願発明者はこうした知見に基き、本発明をするに至った。
【0014】
即ち、上記課題の一つを解決するために成された本発明の一態様は、マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析を用いて有機化合物の構造を解析する方法であって、
解析対象の有機化合物を含む試料と所定のマトリックスとの混合比を、モル比で1:5~1:5000の範囲としてサンプルを調製するサンプル調製工程と、
調製された前記サンプルに、その照射径が15μm以下であるレーザー光を照射することにより、該サンプル中の試料成分由来のイオンを生成し、生成されたイオンを質量分析する分析工程と、
前記分析工程において得られたマススペクトルから、インソース分解によるプロダクトイオンを含むイオンを検出し、該イオンの情報に基いて前記解析対象の有機化合物の構造を推定する解析工程と、
を有する。
【0015】
本発明における「解析対象である有機化合物」としては、例えば、ペプチド、糖鎖、タンパク質、脂質、核酸関連物質などが挙げられる。
【発明の効果】
【0016】
化合物の分子量情報を取得することを主たる目的としたMALDI質量分析では、一般に、解析対象の化合物を含む試料とマトリックスとの混合比は、モル比で例えば1:100000程度又はそれ以上である。これに対し本発明では、試料とマトリックスとを混合する際の試料の割合が格段に多い。また、化合物の分子量情報を取得することを主たる目的としたMALDI質量分析では、上述したように、レーザー光の照射径は例えば50~200μmであることが多い。これに対し本発明では、レーザー照射径は格段に小さく、高空間分解能でのイメージング質量分析を実施するための装置並みである。
【0017】
即ち、本発明は、従来の一般的なMALDI質量分析では使用しないような条件の下でMALDI法によるイオン化を行うことで、例えばペプチドにおいてはその主鎖のみならず、側鎖をも積極的に切断するようなインソース分解を生じさせ、構造解析に有用である多様なプロダクトイオンを生成させるものである。
【0018】
本発明によれば、低エネルギーCID等を利用したMS/MS分析を行うことなく、ペプチドや糖鎖などの有機化合物の詳細構造を解析するのに有用であるプロダクトイオンが良好に観測されるマススペクトルを得ることができる。より具体的には、マススペクトルにおいて概ねm/z 200から最大で数千程度(この上限値は質量分析装置の方式等に依存するが、一般的には二、三千程度)までの質量電荷比範囲にプロダクトイオンが観測され得るマススペクトルを得ることができる。それにより、MS/MS分析が可能な装置を用いずに、より廉価である質量分析装置を用いて有機化合物の構造解析を行うことができる。また、MS/MS分析を実施する手間や時間を省き、効率良く、且つ高い精度で以て有機化合物の詳細構造を把握することができる。さらにまた、同じ装置でレーザー光の照射径を切り替えることで、同じ有機化合物についての分子量測定と構造解析との両方を行うことができるため、それによっても、有機化合物の解析の効率化を図ることができる。
【図面の簡単な説明】
【0019】
【
図1】本発明に係る有機化合物の構造解析方法の作業手順を示すフローチャート。
【
図2】本発明に係る有機化合物の構造解析方法を実施するための質量分析システムの一実施形態を示す概略構成図。
【
図3】
図2に示した質量分析システムにおけるイオン源の詳細な構成図。
【
図4】レーザー照射径が5μmである場合と25μmである場合との実測マススペクトルの比較例を示す図。
【
図5】インソース分解を利用した場合とMS/MS分析を利用した場合との実測マススペクトルの比較例を示す図。
【
図6】試料とマトリックスとの混合比が相違する場合の実測マススペクトルの比較例を示す図。
【
図7】使用するマトリックスの種類が相違する場合の実測マススペクトルの比較例を示す図。
【
図8】使用するサンプルプレートの種類が相違する場合の実測マススペクトルの比較例を示す図。
【
図9】試料がGlu-Fibrinopeptide Bであるときのマススペクトルの実測例を示す図。
【発明を実施するための形態】
【0020】
以下、本発明に係る有機化合物の構造解析方法の一実施形態を、図面を参照して説明する。この構造解析方法は、解析対象の有機化合物を質量分析することで得られるマススペクトルに基いて、その有機化合物の化学構造を推定する方法である。
【0021】
図1は、本発明に係る有機化合物の構造解析方法の作業手順を示すフローチャートである。
図2は、本発明に係る有機化合物の構造解析方法を実施するために用いられる質量分析システムの一例を示す概略構成図である。
図3は、
図2に示した質量分析システムにおけるイオン源の詳細な構成図である。
【0022】
[ペプチドの構造解析方法の概要]
ここでは一例として、解析対象である有機化合物はペプチドであるものとする。ペプチドは生体内から取り出されたもの、人工的に合成されたものの両方を含む。未知のペプチドの構造を推定する場合、主鎖が切断されることで生成された各種のプロダクトイオン(a系列、b系列、c系列、x系列、y系列、z系列など)のみならず、側鎖が切断されることで生成された各種のプロダクトイオン(d系列、v系列、w系列など)の情報を収集する必要がある。
【0023】
図1に示すように、目的のペプチドの構造解析をするに際し、ユーザーはまず、目的のペプチドを含む試料とMALDI用のマトリックスとを用いて、分析対象のサンプルを調製する(ステップS1)。サンプル調製方法はごく一般的なDried-Droplet法やThin-Layer法などを利用し、用意されたサンプルプレートのウェル内にサンプルを形成する。
【0024】
次に、
図2に示すような質量分析システムを用い、所定の分析条件の下で、ペプチドを含むサンプルに対する通常の質量分析、即ち、レーザー照射径を例えば25μm以上に設定したイオン化を行うことで主としてプロトン付加分子[M+H]
+を生成したうえで、イオンの解離操作を伴わない質量分析を実行し(ステップS2)、所定の質量電荷比範囲に亘るマススペクトルを取得する。そのあと、同じサンプルに対し、今度はレーザー照射径を例えば15μm以下に設定したイオン化を行って質量分析を実施し、所定の質量電荷比範囲に亘るマススペクトルを取得する(ステップS3)。
【0025】
ステップS3で実施される質量分析におけるイオン化法は、サンプルに含まれるペプチド由来のプロトン付加分子をインソース分解させるようなMALDI法であり、それによって生成された多様なプロダクトイオンがマススペクトルにおいて観測される。つまり、上記ステップS3によるマススペクトルは実質的にはプロダクトイオンを多く含むマススペクトルである。
【0026】
一般的にペプチドの分子量は千弱から数千の範囲である。そのため、ステップS3によるマススペクトルには、m/z 200程度から最大で数千程度までの質量電荷比範囲に主たるプロダクトイオンが観測される。そして、そのマススペクトルに含まれる各種のイオンの情報に基いて、目的のペプチドの構造を推定する処理を実行する(ステップS4)。
【0027】
上述した各ステップの流れは一般的なものである。重要なサンプル調製条件及びイオン化条件を、
図1中のステップS1~S3の右方に示している。即ち、サンプル調製条件は、サンプル調製方法、使用するマトリックスの種類、使用するサンプルプレートの種類(材質)、試料とマトリックスとの混合比、などの少なくとも一つを含む。また、質量分析時のイオン化条件は、レーザー照射径、レーザーパワー、などの少なくとも一つを含む。これらについてはあとで詳しく述べる。
【0028】
なお、後述の実例から分かるように、ステップS3によるマススペクトルにもプロトン付加分子由来のピークは観測されることが多いため、このピークから分子量を求めることが可能である。その場合には、ステップS2の処理を省略できる場合もある。但し、プロトン付加分子の質量電荷比が大きい(ステップS3によるマススペクトルの質量電荷比範囲を超える)場合やその感度が低い場合には、ステップS2によるマススペクトルから分子量を求めるとよい。
【0029】
[使用される質量分析システム]
ここで、
図2に示した質量分析システムについて説明する。このシステムは、測定部1、データ処理部4、分析制御部5、主制御部6、入力部7、及び表示部8、を含み、非特許文献1に記載のイメージング質量分析装置と実質的には同じである。測定部1は、大気圧MALDI-イオントラップ飛行時間型質量分析装置である。
【0030】
通常、データ処理部4、分析制御部5、及び主制御部6は、パーソナルコンピューター又はより高性能なワークステーション等をハードウェア資源とし、該コンピューターにインストールされた専用の制御・処理ソフトウェアを該コンピューター上で動作させることでそれぞれの機能を達成する構成である。
【0031】
測定部1は、その内部が略大気圧雰囲気であるイオン化室2と、図示しない真空ポンプにより真空排気される真空チャンバー3と、を有する。イオン化室2の内部には、試料ステージ21及びレーザー照射部24が配置され、試料ステージ21の上に、解析対象である試料を含むサンプル23が形成されているサンプルプレート22が載置される。イオン化室2と真空チャンバー3とは、細径のイオン輸送管31により連通している。真空チャンバー3の内部には、イオンガイド32、イオントラップ33、飛行時間型質量分離器34、及びイオン検出器35が配置されている。
【0032】
なお、
図1では、真空チャンバー3の内部は区切られていないが、飛行時間型質量分離器34を高い真空度の下に置くために、イオン化室2側から順に真空度が高くなる多段差動排気系の構成としてもよい。
【0033】
図3に示すように、レーザー照射部24は、紫外パルスレーザー光源241と、可変光学フィルター242と、ビームエキスパンダーを構成する第1レンズ243及び第2レンズ244と、対物レンズ245と、を含む。対物レンズ245は、図示しない移動機構により、
図3中のZ軸方向(光軸方向)に所定範囲で移動自在である。また、この対物レンズ245は焦点距離が20~100mm程度の短焦点レンズである。
【0034】
上記質量分析システムにおける質量分析動作を概略的に説明する。
図2に示すように、試料ステージ21上には、上記ステップS1において調製されたサンプル23を担持するサンプルプレート22が載置される。ユーザーにより入力部7から分析開始の指示がなされると、分析制御部5の制御の下で、紫外パルスレーザー光源241はパルス状のレーザー光を射出する。レーザー光の半値幅は通常、10nsec以下である。また、射出されるレーザー光の径は例えば1mm以下である。このレーザー光のパワーは可変光学フィルター242を通過する際に調整される。
【0035】
可変光学フィルター242を通過したレーザー光は、ビームエキスパンダーの第1レンズ243でその径が例えば10mm程度まで一旦拡大される。そして、同じくビームエキスパンダーの第2レンズ244でレーザー光は平行光化され、対物レンズ245で絞られてサンプルプレート22上のサンプル23表面のごく小径の範囲に照射される。サンプル23上でのレーザー照射径の大きさは対物レンズ245のZ方向の位置によって異なるが、最小のレーザー照射径は例えば15μm以下、好ましくは5μm程度又はそれ以下である。このようにサンプル23上でのレーザー照射径を小さく絞ることができるのは、短焦点の対物レンズ245をサンプル23に近い位置に配置することができるからであり、それは大気圧MALDI法を採用していることが主たる要因である。
【0036】
一般的な真空MALDIイオン源を用いた飛行時間型質量分析装置(以下、「MALDI-TOFMS」と称す)では、レーザー光の照射によって生成されたイオンを直ぐにサンプル付近から引き出して加速し、飛行時間型質量分離器に導入する。そのため、サンプルに近接してイオン引出電極や加速電極を配置しなければならず、レーザー照射のための対物レンズをサンプルに近接して配置することが困難である。それ故に、例えば焦点距離が200~300mmという長焦点の対物レンズを用いるのが一般的であり、サンプル上でのレーザー照射径を微小径に絞ることが困難である。また、そもそも、一般的なMALDI-TOFMSでは、レーザー光をサンプルに照射したときに生成されるイオンの量を増やして検出感度を向上させるために、レーザー照射径を敢えて大きめに設定することが多い。こうしたことから、一般的に、レーザー照射径は50~200μm程度である。
【0037】
これに対し、非特許文献1に記載のようなイメージング質量分析装置では、生体試料切片などを解析の対象とするためにイオン化法として大気圧MALDI法が採用されており、生成されたイオンを細径のキャピラリ管で吸引して後段へと輸送するため、
図3に示したように、サンプルに近接して対物レンズを配置することができる。また、イメージング質量分析装置は、試料上の2次元領域内における所定の質量電荷比を有するイオンの強度分布を求めるものであり、その強度分布の空間分解能を高くするには、試料に照射されるレーザー光の照射径を小さく絞ることが必要である。そのため、
図3に示したように、レーザー光を5μm程度の微小径まで絞ることが可能な構成が採用されており、こうした構成の測定部1を利用することで、一般的なMALDI-TOFMSでは実現できないような、微小径のレーザー光の照射を実現することができる。
【0038】
サンプル23に上述したような微小径のレーザー光が照射されるとき、次のようなメカニズムのインソース分解が生じると推察される。
【0039】
サンプル23に微小径のレーザー光が照射されると、サンプル23中から様々な微粒子が飛び出したり気化したりして、サンプル23の表面ごく近傍に、それら微粒子や気体分子が混在するプルーム(plume)26を形成する。レーザー照射径が小さいためにこのプルーム26の径は小さく、その代わりに濃度は濃い(つまりは密度が高い)。また、レーザー光が照射されている時間は10nsec以下であるため、プルーム26における粒子密度の時間的な変化は非常に急峻である。即ち、サンプル23の表面近傍におけるプルーム26中の粒子濃度の変化や温度変化は時間的、空間的ともに非常に激しい。そのため、プルーム26中では様々な激しい化学反応が生じ易く、インソース分解によって、ペプチドを構成するアミノ酸の主鎖のほか側鎖まで切断された多様なイオンが発生し易くなる。これにより、大きな照射径のレーザー光が照射された場合に比べても、目的のペプチドに由来する多種多様なプロダクトイオンが生成されると考えられる。
【0040】
なお、ここでは、イオン化の雰囲気が真空ではなく大気圧であることで、レーザー光の照射によりアブレーションされた粒子の拡散が或る程度抑制されることも、プルーム26の径が小さい状態となる補助的な要因として考えられる。
【0041】
イオン輸送管31の左端は略大気圧雰囲気、右端は真空雰囲気であるため、その両端の間には大きな圧力差があり、そのためにイオン輸送管31を通してイオン化室2から真空チャンバー3内へと流れるガス流が形成されている。上記のようにサンプル23から発生した各種のイオンは、このガス流に乗ってイオン輸送管31に吸い込まれ、真空チャンバー3内へと送られる。このイオンはイオンガイド32を経てイオントラップ33内の空間に導入され、一旦イオントラップ33の内部に集積される。そのあと、集積されたイオンは所定のタイミングで一斉にイオントラップ33から放出され、飛行時間型質量分離器34に導入される。飛行時間型質量分離器34においてイオンは質量電荷比に応じて分離され、イオン検出器35に到達する。イオン検出器35は入射したイオンの量に応じた強度の信号を出力する。
【0042】
データ処理部4はイオン検出器35による検出信号を受けてデジタルデータに変換し、イオン射出時点を起点とした飛行時間を質量電荷比に換算して、イオンの質量電荷比と強度との関係を示すマススペクトルを作成する。このマススペクトルは主制御部6を通して表示部8の画面上に表示される。また、データ処理部4では、作成されたマススペクトルから目的のペプチドに由来すると推測されるプロダクトイオンの情報を抽出し、その抽出されたプロダクトイオンの質量電荷比及び強度から、目的のペプチドのアミノ酸配列を含む構造を推定する。
【0043】
上述したように、イオン化時にインソース分解により、目的のペプチドに由来する多種多様なプロダクトイオンが生成されるため、マススペクトルにはそれらプロダクトイオンが数多く観測される。特に、ペプチドの主鎖が切断されたb系列やy系列のイオンのほか、側鎖が切断されたd系列やw系列などのイオンも観測される。それによって、ペプチドのアミノ酸配列を高い精度で推定可能であるほか、単に質量では区別できないロイシンとイソロイシンの区別も可能となる。また、特に、後述するような条件の下でサンプル調製を行うことで、通常、m/z 200~最大数千程度の質量電荷比範囲に現れ易い、マトリックスが付加し合って発生するクラスターイオンの生成量を抑えることができる。こうしたマトリックスに由来するクラスターイオンが数多く、また高い強度でマススペクトルに現れると、ペプチドの構造解析の精度を低下させる大きな要因となる。これに対し、そうしたバックグラウンドイオンを抑えることで、ペプチドの構造解析の精度を向上させることができる。
【0044】
また、上記質量分析システムによれば、同じマトリックス試料混合物に対し、レーザー光の照射径を25μm以上から15μm以下に切り替えて質量分析を実行するだけで、目的のペプチドの分子量情報と構造情報との両方を得ることができるという利点がある。
【0045】
[サンプル調製及びイオン化の条件]
次に、本実施形態の構造解析方法を実施する際における、サンプル調製時及びイオン化時の適切な条件について、実測結果を交えて詳しく説明する。
図4~
図9はいずれも、実際の装置を用いて得られた実測のマススペクトルを示す図である。また、
図10は、サンプルの結晶写真の一例を示す図である。質量分析システムとしては、非特許文献1に記載の島津製作所製「iMScope TRIO」を使用した。
【0046】
<サンプル調製方法>
上述したようにサンプルの調製方法は、一般的な真空MALDI法で用いられているDried-Droplet法やThin-Layer法などの標準的な方法を利用することができる。即ち、このサンプル調製方法は、少なくとも試料及びマトリックスを含む溶液をサンプルプレートに滴下する、又は、少なくとも試料を含む溶液と少なくともマトリックスを含む溶液とを交互にサンプルプレートに滴下することにより、サンプルを調整する方法である。このとき、滴下する溶液の容量としては、好ましくは、0.5μL以上である。こうした方法により調製されたサンプルの表面には、
図10に示すように、10μm程度以下の大きさの不揃いの結晶が多く観測される。
【0047】
<レーザー照射径>
図4(A)はイオン化条件の一つであるレーザー照射径を5μmとした場合、
図4(B)はレーザー照射径を25μmとした場合の実測マススペクトルである。また、
図4中には、目的のペプチドを構成するアミノ酸にそれぞれ対応する各種系列のプロダクトイオンの質量電荷比の中で、
図4(A)に示したマススペクトルにおいて検出されているイオンを下線又は四角枠囲みで明示した(下線及び四角枠囲みのいずれもがないイオンは非検出イオン又は実質的にピークが確認できなかったイオン)テーブルを記載している。なお、レーザー照射径は、同じ装置において、
図3中に示す対物レンズ245のZ軸方向の位置を変えることで調整した。但し、5μm、25μmというレーザー照射径はそれ自体を計測した厳密な値ではなく、上記装置において選択可能である仕様値(つまりは設計上の値)である。
【0048】
そのほかの主な分析条件は次の通りである。
・試料(ペプチド): アンジオテンシン(Angiotensin)II
・マトリックス: CHCA
・マトリックスと試料との混合比: 約50:1(モル比)
・サンプルプレート: 顕微鏡用カバーガラス
【0049】
図4(A)及びその下のテーブルに示すように、レーザー照射径が5μmであるときには、アンジオテンシンII由来のa、b、c、y系列イオンと、d、v、w系列イオンとが共に多く観測されている。一方、マトリックス由来のクラスターイオンはm/z 400以下の範囲にいくつか観測されるものの、その数は少なくその信号強度も大きくなく、アンジオテンシンII由来のプロダクトイオンが多く観測されるm/z 400以上の質量電荷比範囲では殆ど観測されていない。こうしたことから、このマススペクトルから得られるプロダクトイオンの情報はペプチドの構造解析に非常に有用であることが容易に理解できる。
【0050】
これに対し、レーザー照射径を25μmに拡大すると、
図4(B)に示すように、観測されるイオン種が大幅に変化する。このとき、アンジオテンシンIIの構造に関連するイオンは殆ど観測されず、マトリックス由来の多様なクラスターイオンが盛んに観測される。したがって、このマススペクトルに基いてペプチドの構造解析を行うのは実質的に不可能である。一方で、アンジオテンシンIIのプロトン付加分子[M+H]
+は明瞭に観測され、しかもその近辺に他のピークが存在しないので、プロトン付加分子ピークの同定が容易である。そのため、このマススペクトルを利用することで、ペプチドの分子量を容易に求めることができる。
【0051】
即ち、レーザー照射径を25μmまで拡大してしまうと、構造解析に有用であるプロダクトイオンの情報は得られなくなるものの、ペプチドのプロトン付加分子ピークの検出が容易になることが分かる。したがって、例えば
図3に示すような構成のイオン源において対物レンズの位置を変更することで、レーザー照射径を5μmと25μmとで切り替えることにより、目的のペプチドの構造情報と分子量情報との両方を得ることができることが分かる。
【0052】
レーザー照射径を5μmから25μmまで拡大していくと、ペプチド由来のプロダクトイオンは徐々に減少し、他方、マトリックス由来のクラスターイオンが徐々に増加していくものと推測される。その様相は他の条件、試料の種類などによっても異なるが、概ね、15μm以下のレーザー照射径であれば、ペプチドの構造解析に十分な強度のプロダクトイオンが観測されるものと推測できる。
【0053】
一方、レーザー照射径を5μmよりも小さくすれば、サンプル23表面の付近に形成されるプルーム26はより小さく、粒子密度は一層濃くなるため、インソース分解によるプロダクトイオンの生成は一層盛んになるものと推測される。但し、レーザー照射径の最小値は装置を構成する部材の精度や組立精度の制約を受けるため、技術的及びコスト的な限界がある。実用的には、レーザー照射径の最小値は1μm又は2μm程度であると考えられる。
【0054】
図5は、上記
図4(A)の分析条件の下で、インソース分解を利用した場合(A)とMS/MS分析を利用した場合(B)との実測マススペクトルの比較例である。
図5(A)に示したマススペクトルは
図4(A)に示したマススペクトルと同じである。
【0055】
アミノ酸の側鎖の構造はアミノ酸の種類によって大幅に異なり、特にd系列イオンが得られ易いアミノ酸は例えばロイシン、イソロイシンなどに限られている。
図5(A)に示したマススペクトルでは、イソロイシンの側鎖を特徴付けるm/z 591.32であるd
a5イオン、及びm/z 605.34であるd
b5イオンが明瞭に観測されている。イソロイシンとロイシンとは質量は同じであるが、ロイシンの場合、d
a5イオンのm/zは577.31であり、d
b5イオンは存在しない。したがって、
図5(A)に示すマススペクトルから、左端から5番目に位置するアミノ酸はロイシンではなくイソロイシンであることが判明する。
【0056】
また、アスパラギン酸(略号:D)やプロリン(略号:P)を含むアンジオテンシンIIの場合、低エネルギーCIDを利用したMS/MS分析では、Dの右方且つPの左方での結合の切断が生じ易く、またNH
3やH
2Oの脱離も多い。そのため、
図5(B)に示すように、N末端やC末端を保持したa系列、b系列、c系列、y系列等以外の複雑に分解したインターナルフラグメントイオンが比較的多く観測され、それらの妨害により、アミノ酸配列等の構造解析が容易ではない。これに対し、
図5(A)に示すマススペクトルでは、そうしたインターナルフラグメントイオンが殆ど観測されないため、その点でも構造解析が容易である。さらにまた、インソース分解では、イオントラップでのイオン捕捉及びイオン解離を行わない分だけMS/MS分析に比べて測定時間が短くて済むので、解析の効率も良好であるという利点もある。また、そもそもMS/MS分析の機能を有する装置を用いる必要がないので、廉価で且つ入手し易い(或いは手元にある)装置を用いた解析が可能であるという利点もある。
【0057】
<試料とマトリックスとの混合比>
図6は、試料とマトリックスとの混合比が相違する場合の実測マススペクトルの比較例である。
図6(A)はマトリックスと試料との混合比が約50:1(モル比)である場合のマススペクトル、
図6(B)はマトリックスと試料との混合比が約5:1(モル比)である場合のマススペクトル、
図6(C)はマトリックスと試料との混合比が約500:1(モル比)である場合のマススペクトルである。そのほかの条件は次の通りである。
・試料: アンジオテンシンII
・マトリックス: CHCA
・レーザー照射径: 5μm
・サンプルプレート: 顕微鏡用カバーガラス
【0058】
一般的なMALDI法では、試料とマトリックスとの混合比はモル比で1:500よりも大、通常は1:10000以上である。しかしながら、マトリックスの割合が多いとマトリックス由来のクラスターイオンが生成され易い。ペプチドなどの比較的分子量の小さな有機化合物のプロダクトイオンを観測する場合、主たるプロダクトイオンはm/z 200~最大数千程度の質量電荷比範囲に現れるが、マトリックス由来のクラスターイオンも同じ質量電荷比範囲に重なるため、このクラスターイオンが多いとペプチド由来のプロダクトイオンとの判別が困難になる。そこで、試料とマトリックスとの混合比を一般的なMALDI法よりも小さくすることで、マトリックス由来のクラスターイオンの発生を抑制する。
【0059】
図6(A)に示すマススペクトルと
図6(B)に示すマススペクトルとを比較すると、生成されるイオン種自体に大きな変化はないことが分かる。また、いずれのマススペクトルにも、マトリックス由来のクラスターイオンの影響は殆どみられない。但し、
図6(B)では
図6(A)に比べると、ペプチド由来のイオンの量自体は減少している。これは、イオン化を促進させるマトリックスの量が
図6(A)の場合よりも大幅に少なくなり、試料由来のイオンの発生が減少したことによるものと推測される。
【0060】
一方、
図6(A)に示すマススペクトルと
図6(C)に示すマススペクトルとを比較すると、ペプチド由来のイオンの検出量はほぼ同じであるものの、
図6(C)ではマトリックス由来のクラスターイオンの強度が増加していることが分かる。このように、試料の量に対してマトリックスの量が増加すると、マトリックスやそれに含まれる不純物に由来するイオンの強度が相対的に大きくなり、ペプチドの構造解析が困難になる場合がある。この結果から、構造解析が容易であるマススペクトルを取得するには、マトリックスと試料との混合比(モル比)を5:1~5000:1の範囲にするとよく、好ましくは1000:1以下、さらに好ましくは500:1以下とするとよく、さらに50:1程度がより好ましいということができる。但し、これらの条件もマトリックスの種類などの他の条件に依存して変化し得る。
【0061】
<マトリックスの種類>
図7は、使用するマトリックスの種類が相違する場合の実測マススペクトルの比較例を示す図である。但し、ここでは、1,5-DANなどの特殊なマトリックスではなく、入手が容易でコストも安価である、ごく一般に使用されているマトリックスについて実測した。
図7(A)はCHCAを用いた場合のマススペクトル、
図7(B)はDHBを用いた場合のマススペクトル、図
7(C)はシナピン酸(Sinapinic Acid:SA)を用いた場合のマススペクトルである。そのほかの分析条件は次の通りである。
・試料: アンジオテンシンII
・マトリックスと試料との混合比: 約50:1(モル比)
・レーザー照射径: 5μm
・サンプルプレート: 顕微鏡用カバーガラス
なお、
図7(A)に示したマススペクトルは、
図4(A)及び
図5(A)に示したマススペクトルと同じである。
【0062】
図7(A)に示したマススペクトルと
図7(B)に示したマススペクトルとを比較すると、マトリックスとしてDHBを使用した場合でもCHCAを使用した場合と同じ程度に、d系列イオンを含めた多様なプロダクトイオンを検出できていることが分かる。一方で、DHBを使用した場合にはCHCAを用いた場合に比べて、マトリックス由来のクラスターイオンが多く観測される。ここでは、そのクラスターイオンの質量電荷比は殆どm/z 800以下であり、またどの質量電荷比にクラスターイオンが出現するのかが概ね既知であるため、それらクラスターイオンは比較的妨害になりにくく、ペプチドの構造解析は可能である。
【0063】
図7(C)に示したマススペクトルでは、ペプチドの分子イオンが殆ど観測されず、またマトリックス由来のクラスターイオンやそのフラグメントイオンが極めて多い。SAはもともとタンパク質などの分子量が大きな化合物のイオン化に適したマトリックスであり、ペプチドのような分子量が比較的小さな化合物のイオン化には不向きである。
この実験の結果から、ごく一般的なマトリックスの中ではCHCAが最も良好な結果が得られるものの、DHBも利用可能であると結論付けることができる。これらはいずれも、MALDI法にごく一般的に利用されるマトリックスであり、入手が容易であるとともにコストを抑え易い。もちろん、これら以外の特殊なマトリックスを用いても十分なイオン情報が得られる可能性がある。
【0064】
化学的若しくは物理的な性質、又は構造的な特徴から考えると、使用可能なマトリックスとしては、紫外レーザー光を吸収するための主として芳香族環構造、特にはベンゼン環を有すること、イオン化対象の化合物にプロトンやカチオンを供与可能であるための例えばカルボキシル基を有すること、溶媒に溶解可能である(つまりは極性を有する)ための例えば水酸基を有すること、といった条件が揃うことが望ましい。
【0065】
<サンプルプレートの種類>
図8は、使用するサンプルプレートの種類が相違する場合の実測マススペクトルの比較例を示す図である。
図8(A)はサンプルプレートとしてカバーガラスを用いた場合のマススペクトル、
図8(B)はサンプルプレートとしてスライドガラスを用いた場合のマススペクトル、
図8(C)はサンプルプレートとしてITO(Indium Tin Oxide)ガラスを用いた場合のマススペクトル、
図8(D)はサンプルプレートとしてステンレスプレートを用いた場合のマススペクトルである。そのほかの分析条件は次の通りである。
・試料: アンジオテンシンII
・マトリックス: CHCA
・マトリックスと試料との混合比: 約50:1(モル比)
・レーザー照射径: 5μm
【0066】
サンプルプレートはサンプルに含まれる成分のイオン化自体にはあまり影響を与えないが、サンプルプレートに付着している不純物(汚れや塵芥など)や該プレートに含まれる成分は化学ノイズの原因となる。カバーガラスは、顕微鏡等での良好な観察を実現するために高い清浄性が求められ、且つ表面の平坦性が高い部材である。そのために、
図8(A)から明らかであるように、特に質量電荷比がm/z 500以下の範囲でバックグラウンドノイズがかなり抑えられている。これに対し、一般にスライドガラスはカバーガラスに比べれば清浄性が劣るため、
図8(B)に示すようにバックグラウンドノイズが若干大きくなっている。但し、このノイズは実質的に問題ないレベルである。
【0067】
なお、ガラスはSi、Ca、Oといった小さな元素から構成されており、それらの化合物(酸化物)の融点や沸点は比較的高い。そのため、こうしたガラスを構成する成分がイオン化したとしても、通常、それらイオンがアミノ酸配列の解析に重要な質量電荷比範囲(m/z>200)に現れることは稀であり、殆ど問題とならない。
【0068】
一方、ITOガラスはイメージング質量分析において生体組織観察用に頻用されるが、カバーガラスやスライドガラスに比べると格段に高価である。また、
図8(C)に示すように、出所が不明であるイオン(例えばm/z 417.85)が比較的高い強度でm/z>200の質量電荷比範囲に現れる。このため、ペプチドの構造解析が困難になるおそれがある。
ステンレスプレートはガラスに比べて表面が粗く、表面に汚れが付着し易い。
図8(D)に示すマススペクトルでは、不純物に起因するバックグラウンドノイズは比較的抑えられているものの、汚れが付着しないように管理することが困難である。
【0069】
この実験の結果から、サンプルプレートとしてはカバーガラス又はスライドガラスが無難であり、好ましくは、カバーガラスを用いるとよいということができる。
【0070】
なお、上述したもの以外に、イオン化条件には、レーザーパワーなどがあるが、これらはMALDI質量分析装置において標準的に使用されている値に設定するか、或いは、一般的に行われているように適宜に調整すればよい。
【0071】
[他のペプチドへの適用例]
図4~
図8に示したマススペクトルはいずれもアンジオテンシンIIを解析対象としていたが、本実施形態の構造解析方法を他のペプチドに適用した例として、フィブリノペプチドB(Glu-Fibrinopeptide B)を実測したマススペクトルを
図9に示す。また、
図9中には、
図4等と同様に、目的のペプチドを構成するアミノ酸にそれぞれ対応する各種系列のプロダクトイオンの質量電荷比の中で、
図9に示したマススペクトルにおいて検出されているイオンを下線又は四角枠囲みで明示したテーブルを記載している。
分析条件は次の通りである。
・マトリックス: CHCA
・マトリックスと試料との混合比: 約50:1(モル比)
・レーザー照射径: 5μm
・サンプルプレート: 顕微鏡用カバーガラス
【0072】
フィブリノペプチドBは、正電荷を持ち易いアルギニン(略号:R)がC末端に存在するペプチドである。そのため、a、b、c系列ではなく、y系列イオンが顕著に観測されている。一方で、側鎖が切断されて発生するd系列、v系列イオンも多く観測されている。また、マトリックス由来のクラスターイオンなどは殆どみられない。こうしたことから、このマススペクトルのイオン情報に基いて、構造解析を良好に行うことが可能である。
即ち、本実施形態の構造解析方法は、アンジオテンシンIIのみならず、それ以外のペプチドにも十分に利用可能であることが分かる。
【0073】
また、上記説明では、ペプチドを解析対象としたが、より長いペプチド結合を有するタンパク質も解析対象に含めることができる。さらには、他の種類の有機化合物、例えば糖鎖、脂質、核酸関連物質などにも、本発明を適用することが可能である。
【0074】
また、上記実施形態は本発明の一例にすぎず、本発明の趣旨の範囲で適宜変形、修正、追加等を行っても本願特許請求の範囲に包含されることは当然である。
【0075】
具体的には、例えば、本発明において質量分析を実行するための装置は
図2及び
図3に示したような構成の装置に限るものではなく、必要なイオン化条件などを実現可能である装置であればよい。具体的には、例えばMALDIイオン源を搭載した四重極-飛行時間型質量分析装置などを利用することができる。
但し、構造解析にはプロダクトイオンの質量電荷比をかなり高い精度で求めることが必要であるから、飛行時間型質量分離器又はそれと同程度以上の質量精度及び質量分解能が得られるような質量分離器(例えばフーリエ変換イオンサイクロトロン共鳴型質量分離器)を使用した質量分析装置が好ましい。また、質量分離の方式等によって、得られるマススペクトルの質量電荷比範囲が異なるため、分子量が大きな化合物を解析対象とする場合には、得られるマススペクトルの上限の質量電荷比ができるだけ高いような質量分析装置を選択することが望ましい。
【0076】
[種々の態様]
上述した例示的な実施形態は、以下の態様の具体例であることが当業者により理解される。
【0077】
(第1項)本発明の一態様は、マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析を用いて有機化合物の構造を解析する方法であって、
解析対象の有機化合物を含む試料と所定のマトリックスとの混合比を、モル比で1:5~1:5000の範囲としてサンプルを調製するサンプル調製工程と、
調製された前記サンプルに、その照射径が15μm以下であるレーザー光を照射することにより、該サンプル中の試料成分由来のイオンを生成し、生成されたイオンを質量分析する分析工程と、
前記分析工程において得られたマススペクトルから、インソース分解によるプロダクトイオンを含むイオンを検出し、該イオンの情報に基いて前記解析対象の有機化合物の構造を推定する解析工程と、
を有する。
【0078】
第1項に記載の有機化合物の構造解析方法によれば、低エネルギーCID等を利用したMS/MS分析を行うことなく、ペプチドや糖鎖などの有機化合物の詳細構造を解析するのに有用であるプロダクトイオンが良好に観測されるマススペクトルを得ることができる。具体的には、解析対象の有機化合物がペプチドである場合には、ペプチドの主鎖が切断されて得られるイオンのみならず、側鎖が切断されて得られるイオンも観測可能となる。それにより、MS/MS分析を実施する手間や時間を省き、効率良く、且つ高い精度で以てペプチド等の有機化合物の詳細構造を把握することができる。
【0079】
第1項に記載の有機化合物の構造解析方法では、m/z 200~最大数千程度の質量電荷比範囲、特にその中でも比較的低い質量電荷比範囲における、マトリックス由来のクラスターイオンの出現を抑制することができる。そのため、こうした質量電荷比範囲において観測される、目的の有機化合物由来のプロダクトイオンの検出が容易になり、該有機化合物の構造解析の正確性を向上させることができる。
【0080】
(第2項)第1項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記有機化合物はペプチド、タンパク質、又は糖鎖とすることができる。
【0081】
(第3項)また第2項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記有機化合物はペプチドであり、前記プロダクトイオンは、ペプチドの主鎖が切断されることにより生成されるイオンと、ペプチドの側鎖が切断されることにより生成されるイオンと、の両方を含むものとすることができる。
【0082】
第3項に記載の有機化合物の構造解析方法によれば、同一の質量を有するアミノ酸であるロイシンとイソロイシンとを区別したうえで、ペプチドのアミノ酸配列を含めた構造を的確に決定することができる。
【0083】
(第4項)第1項~第3項のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記マトリックスは、紫外レーザー光を吸収するための部分構造、プロトン又はカチオンを供与するための部分構造、及び、溶媒に溶解可能であるための部分構造、を有するものとすることができる。
【0084】
(第5項)第4項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記紫外レーザー光を吸収するための部分構造は芳香族環、前記プロトン又はカチオンを供与するための部分構造はカルボキシル基、前記溶媒に溶解可能であるための部分構造は水酸基とすることができる。
なお、特に上記芳香族環はベンゼン環とすることができる。
【0085】
(第6項)また第4項又は第5項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記マトリックスは、α-シアノ-4-ヒドロキシケイ皮酸(CHCA)、又は、2,5-ジヒドロキシ安息香酸(DHB)であるものとすることができる。
【0086】
第4項~第6項に記載の有機化合物の構造解析方法によれば、ペプチド等の有機化合物由来のプロダクトイオンを十分に生成するとともに、マススペクトルにおいてそれらプロダクトイオンに重なるマトリックス由来のクラスターイオンの生成を抑え、構造解析に好適なマススペクトルを得ることができる。また、CHCAやDHBは一般的なMALDI法に広く利用されているマトリックスであり、入手が容易であるとともにコストも安価であり、ユーザーにとって使い勝手がよい。
【0087】
(第7項)第1項~第6項のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記サンプル調製工程では、Dried-Droplet法又はThin-Layer法によりサンプルを調製するものとすることができる。
【0088】
第7項に記載の有機化合物の構造解析方法によれば、ペプチドなどの有機化合物のインソース分解を促進し、構造解析が行い易いマススペクトルを得ることができる。
【0089】
(第8項)第1項~第7項のいずれか1項に記載の有機化合物の構造解析方法において、前記サンプル調製工程では、その表面が平滑で且つ清浄であるガラス製のサンプルプレート上にサンプルを調製するものとすることができる。
【0090】
第8項に記載の有機化合物の構造解析方法によれば、目的の有機化合物由来のプロダクトイオンが良好に観測でき、他方、不純物由来のイオンなどが少ない、良好なマススペクトルを得ることができる。
【符号の説明】
【0091】
1…測定部
2…イオン化室
21…試料ステージ
22…サンプルプレート
23…サンプル
24…レーザー照射部
241…紫外パルスレーザー源
242…可変光学フィルター
243…ビームエキスパンダーの第1レンズ
244…ビームエキスパンダーの第2レンズ
245…対物レンズ
3…真空チャンバー
31…イオン輸送管
32…イオンガイド
33…イオントラップ
34…飛行時間型質量分離器
35…イオン検出器
4…データ処理部
5…分析制御部
6…主制御部
7…入力部
8…表示部