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(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-01-11
(45)【発行日】2024-01-19
(54)【発明の名称】筋疲労推定方法及び装置
(51)【国際特許分類】
   A61B 5/22 20060101AFI20240112BHJP
【FI】
A61B5/22 200
A61B5/22 100
【請求項の数】 12
(21)【出願番号】P 2019199766
(22)【出願日】2019-11-01
(65)【公開番号】P2021069846
(43)【公開日】2021-05-06
【審査請求日】2022-10-20
【新規性喪失の例外の表示】特許法第30条第2項適用 2018年11月6日~9日開催 IEEE Robotics & Automation Society主催の2018 IEEE-RAS 18▲th▼ International Conference on Humanoid Robots(Humanoids 2018)において2018年11月8日に発表
(73)【特許権者】
【識別番号】504137912
【氏名又は名称】国立大学法人 東京大学
(74)【代理人】
【識別番号】100103137
【弁理士】
【氏名又は名称】稲葉 滋
(74)【代理人】
【識別番号】100145838
【弁理士】
【氏名又は名称】畑添 隆人
(72)【発明者】
【氏名】中村 仁彦
(72)【発明者】
【氏名】池上 洋介
(72)【発明者】
【氏名】黄 岩
【審査官】藤原 伸二
(56)【参考文献】
【文献】国際公開第2017/014183(WO,A1)
【文献】特開2002-224072(JP,A)
【文献】片山憲史, 田中忠蔵, 西川弘恭, 平澤泰介,筋疲労,体力科学,Vol.43,日本,1994年,p.309-317
【文献】眞野行生,筋疲労について,リハビリテーション医学,Vol.31, No.9,日本,1994年,p.622-626
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
A61B 5/22
A63B 69/00
A63B 71/06
G16H 50/00-50/30
G01N 33/50
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
PubMed
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
コンピュータを用いて、所定の化学物質の化学反応に伴ってエネルギーを生成する人間のエネルギー供給プロセスをシミュレートすることで筋疲労の程度を推定する方法であって、
前記化学物質は、乳酸、リン酸、グルコースを含み、
運動時の各筋の仕事率を提供すること、
各筋の仕事率に必要なエネルギー生成に伴うグルコースの減少、乳酸の蓄積、リン酸の増加を算出すること、
グルコースの減少、乳酸の蓄積、リン酸の増加に基づいて時刻tの各筋の最大筋力を推定することであって
各筋iの最大筋力は、λ LA,i ・λ P,i ・λ G,i ・F 0 max, iによって推定され、
ここで、
λ LA,i は、乳酸の蓄積に関連する減衰項、
λ P,i は、リン酸の増加に関連する減衰項、
λ G,i は、グルコースの減少に関連する減衰項、
0 max,i は、筋iの安静時の最大筋力、であり、
各筋の推定された最大筋力と各筋の安静時の最大筋力を比較することで、時刻tにおける各筋の疲労の程度を推定する、
筋疲労推定方法。
【請求項2】
前記エネルギー供給プロセスは、
運動初期で酸素摂取量が不十分な状態である第1フェーズと、
酸素摂取量が十分で好気性呼吸が支配的な第2フェーズと、
を含む、
請求項1に記載の方法。
【請求項3】
前記エネルギー供給プロセスは、さらに、回復段階である第3フェーズを含む、請求項に記載の方法。
【請求項4】
フェーズ判定を含み、前記フェーズ判定は、運動に必要な有酸素エネルギー率と実際の有酸素エネルギー率の比較によって実行される、
請求項2、3いずれか1項に記載の方法。
【請求項5】
前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、嫌気性呼吸、好気性呼吸を含む、請求項1~いずれか1項に記載の方法。
【請求項6】
前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解、ATP及びPCの再生、糖新生を含む、請求項に記載の方法。
【請求項7】
所定の化学物質の化学反応に伴ってエネルギーを生成する人間のエネルギー供給プロセスをシミュレートすることで筋疲労の程度を推定する装置であって、
運動時の各筋の仕事率が入力される入力部と、
各筋の仕事率に必要なエネルギー生成に伴う前記化学物質の量の変化を算出する化学物質量算出手段と、
前記化学物質の量の変化に基づいて時刻tの各筋の最大筋力を推定する最大筋力推定手段と、
各筋の推定された最大筋力と各筋の安静時の最大筋力を比較することで、時刻tにおける各筋の疲労の程度を推定する疲労推定手段と、
を備え
前記化学物質は、乳酸、リン酸、グルコースを含み、前記化学物質量算出手段は、乳酸量算出手段、リン酸量算出手段、グルコール量算出手段を含み、
前記最大筋力推定手段は、各筋iの最大筋力を、λ LA,i ・λ P,i ・λ G,i ・F 0 max,i によって推定するものであり、
ここで、
λ LA,i は、乳酸の蓄積に関連する減衰項、
λ P,i は、リン酸の増加に関連する減衰項、
λ G,i は、グルコースの減少に関連する減衰項、
0 max,i は、筋iの安静時の最大筋力、である、
筋疲労推定装置。
【請求項8】
前記エネルギー供給プロセスは、
運動初期で酸素摂取量が不十分な状態である第1フェーズと、
酸素摂取量が十分で好気性呼吸が支配的な第2フェーズと、
を含む、
請求項に記載の装置。
【請求項9】
前記エネルギー供給プロセスは、さらに、回復段階である第3フェーズを含む、請求項に記載の装置。
【請求項10】
フェーズ判定手段を含み、前記フェーズ判定手段は、運動に必要な有酸素エネルギー率と実際の有酸素エネルギー率の比較によって実行される、
請求項8、9いずれか1項に記載の装置。
【請求項11】
前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、嫌気性呼吸、好気性呼吸を含む、請求項7~10いずれか1項に記載の装置。
【請求項12】
前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解、ATP及びPCの再生、糖新生を含む、請求項11に記載の装置。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、筋疲労推定方法及び装置に関するものである。
【背景技術】
【0002】
筋疲労は複雑な現象である。筋疲労の原因には多くの要因が含まれ、筋疲労のメカニズムは明確には解明されていない。従来、乳酸の蓄積が筋疲労の主要な原因であると考えられていたが、最近の研究では、乳酸は筋疲労の原因ではないであろうという報告もある。いずれにせよ、乳酸と筋疲労との間には密接な関係があるものと考えられる。
【0003】
従来、筋疲労は、被験者の血中の乳酸値を測ることで調べていた。例えば、特許文献1の従来技術の欄には、「筋肉疲労を捉える方法として血液中の乳酸濃度を測定する、というものがある。この方法は、乳酸濃度と筋肉の疲労度とには相応の相関関係が存在することを利用する。」と記載されている。しかしながら、血中の乳酸値を測定するためには侵襲的な採血が必要となる。
【0004】
特許文献1には、経皮的電気刺激手段と、身体内の一定領域の酸素化ヘモグロビンの量と脱酸素化ヘモグロビンの量とを連続して測定する無侵襲酸素量計測手段と、演算部とを含む筋肉疲労度合いを測定する手法が記載されている。
【0005】
特許文献2には、身体部位間のインピーダンスに基づいて、その身体部位間に位置する筋肉の疲労の度合いを推定する手法が記載されている。
【0006】
特許文献3には、運動時の関節角度や床反力等を用いて筋張力を計算し、筋張力を積分することで筋疲労度を評価する手法が記載されている。
【0007】
本発明者等は、運動時の人間のエネルギー供給機構や生理学的プロセスに着目し、対象の運動(典型的には全身運動)の計測データと筋のエネルギー収支・代謝モデルを用いて、シミュレーションによって各筋の疲労と回復の動態を求めることを考えた。運動時の人間のエネルギー供給機構や生理学的プロセスに着目したアプローチは、特許文献1~3に記載された手法とは全く異質のものである。
【先行技術文献】
【特許文献】
【0008】
【文献】特開2004-154481
【文献】特開2004-201877
【文献】特開2007-236663
【非特許文献】
【0009】
【文献】Y. Nakamura, K. Yamane, Y. Fujita, and I. Suzuki: "Somatosensory Computation for Man-Machine Interface from Motion Capture Data and Musculoskeletal Human Model," IEEE Transactions on Robotics, vol.21, no.1, pp.58-66, 2005.
【文献】K. Yamane, Y. Fujita, and Y. Nakamura. Estimation of physically and physiologically valid somatosensory information. In Proceedings of IEEE International Conference on Robotics and Automation, pp. 2635.2641, Barcelona, Spain, April 2005.
【文献】A. Murai, K. Kurosaki, K. Yamane, and Y. Nakamura. Musculoskeletal-see-through mirror: Computational modeling and algorithm for whole-body muscle activity visualization in real time. Progress in Biophysics and Molecular Biology, 103(2):310317, 2010.
【文献】T. Ohashi, Y. Ikegami, K. Yamamoto, W. Takano and Y. Nakamura, Video Motion Capture from the Part Confidence Maps of Multi-Camera Images by Spatiotemporal Filtering Using the Human Skeletal Model, 2018 IEEE/RSJ International Conference on Intelligent Robots and Systems (IROS), Madrid, 2018, pp. 4226-4231.
【発明の開示】
【発明が解決しようとする課題】
【0010】
本発明は、運動データを用いてシミュレーションによって各筋の疲労の程度を推定することを目的とするものである。
【課題を解決するための手段】
【0011】
本発明が採用した技術手段は、
所定の化学物質の化学反応に伴ってエネルギーを生成する人間のエネルギー供給プロセスをシミュレートすることで筋疲労の程度を推定する方法であって、
運動時の各筋の仕事率を入力すること、
各筋の仕事率に必要なエネルギー生成に伴う前記化学物質の量の変化を算出すること、
前記化学物質の量の変化に基づいて時刻tの各筋の最大筋力を推定すること、
各筋の推定された最大筋力と各筋の安静時の最大筋力を比較することで、時刻tにおける各筋の疲労の程度を推定する、
筋疲労推定方法、である。
【0012】
1つの態様では、前記化学物質は、少なくとも、乳酸を含む。
1つの態様では、前記化学物質は、乳酸、リン酸、グルコースを含む。
なお、グリコーゲンは、筋及び肝臓のグルコースの貯蔵形態である。本明細書では、2つのフォームの両方に「グルコース」という用語を使用し、例えば、「筋グルコース」はグリコーゲンタイプのグルコースのデンドリマーを指す。
1つの態様では、各筋iの最大筋力は、λLA,i・λP,i・λG,i・F0 max,iによって推定され、
ここで、
λLA,iは、乳酸の蓄積に関連する減衰項、
λP,iは、リン酸の増加に関連する減衰項、
λG,iは、グルコースの減少に関連する減衰項、
0 max,iは、筋iの安静時の最大筋力、である。
1つの態様では、λP,i、λG,iを1とすることで、乳酸量のみに基づいて最大筋力を推定することと等価となる。
【0013】
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、
運動初期で酸素摂取量が不十分な状態である第1フェーズと、
酸素摂取量が十分で好気性呼吸が支配的な第2フェーズと、
を含む。
1つの態様では、前記エネルギープロセスは、さらに、回復段階である第3フェーズを含む。
1つの態様では、フェーズ判定を含み、前記フェーズ判定は、運動に必要な有酸素エネルギー率と実際の有酸素エネルギー率の比較によって実行される。
【0014】
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、嫌気性呼吸、好気性呼吸を含む。
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解、ATP及びPCの再生、糖新生を含む。
【0015】
本発明が採用した他の技術手段は、所定の化学物質の化学反応に伴ってエネルギーを生成する人間のエネルギー供給プロセスをシミュレートすることで筋疲労の程度を推定する装置であって、
運動時の各筋の仕事率が入力される入力部と、
各筋の仕事率に必要なエネルギー生成に伴う前記化学物質の量の変化を算出する化学物質量算出手段と、
前記化学物質の量の変化に基づいて各筋の時刻tにおける最大筋力を推定する最大筋力推定手段と、
各筋の推定された最大筋力と各筋の安静時の最大筋力を比較することで、時刻tにおける各筋の疲労の程度を推定する疲労推定手段と、
を備えた筋疲労推定装置、である。
【0016】
1つの態様では、前記化学物質は、少なくとも、乳酸を含み、前記化学物質量算出手段は、乳酸量算出手段を含む。
1つの態様では、前記化学物質は、乳酸、リン酸、グルコースを含み、前記化学物質量算出手段は、乳酸量算出手段、リン酸量算出手段、グルコール量算出手段を含む。
1つの態様では、前記最大筋力推定手段は、各筋iの最大筋力を、λLA,i・λP,i・λG,i・F0 max,iによって推定するものであり、
ここで、
λLA,iは、乳酸の蓄積に関連する減衰項、
λP,iは、リン酸の増加に関連する減衰項、
λG,iは、グルコースの減少に関連する減衰項、
0 max,iは、筋iの安静時の最大筋力、である。
【0017】
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、
運動初期で酸素摂取量が不十分な状態である第1フェーズと、
酸素摂取量が十分で好気性呼吸が支配的な第2フェーズと、
を含む。
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、さらに、回復段階である第3フェーズを含む。
1つの態様では、フェーズ判定手段を含み、前記フェーズ判定手段は、運動に必要な有酸素エネルギー率と実際の有酸素エネルギー率の比較によって実行される。
【0018】
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、嫌気性呼吸、好気性呼吸を含む。
1つの態様では、前記エネルギー供給プロセスは、ATP-PCエネルギー供給、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解、ATP及びPCの再生、糖新生を含む。
【0019】
入力である運動時の各筋の仕事率は、全身あるいは身体の部分の運動データから取得した各筋の仕事率である。
筋疲労は力を生成する能力(最大筋力)の低下と見なすことができ、各筋の疲労の程度は、最大筋力(最大収縮力ないし最大筋張力)の低下を推定することで取得することができる。
1つの態様では、疲労レベルは、安静時の初期の最大収縮力F0 maxに対する最大収縮力Fmaxの低下の割合
で表す。なお、この定義は、疲労の定義の例示であって、本発明における筋疲労の度合いや程度の指標を限定するものではない。
【0020】
本発明は、また、コンピュータを、上記筋疲労推定のステップを実行するコンピュータプログラム、あるいは、当該コンピュータプログラムを記憶したコンピュータ可読媒体として提供される。
【発明の効果】
【0021】
本発明によれば、対象の運動から取得した運動データを入力として、各筋の疲労の程度を推定することができる。
【図面の簡単な説明】
【0022】
図1】本実施形態に係る筋疲労モデルのブロック図である。
図2】本実施形態に係る筋疲労モデルへの入力を取得する運動データ取得部を示す図である。
図3】本実施形態に係る筋疲労モデルにおける筋代謝モデルの詳細を示す図である。
図4】本実施形態に係る筋疲労モデルにおける血液・肝臓システムの詳細を示す図である。
図5】エネルギー供給システムを示す図であり、3つのフェーズと、各フェーズとエネルギー供給プロセスとの関係を示している。
図6】エネルギー供給システムを示す図であり、エネルギー率の曲線を示し、各プロセスにおけるエネルギーの分配を示す。
図7】あん馬の旋回動作における代表筋の仕事率の平均を示す。
図8】運動時及び回復時における血中乳酸濃度及び肺からの酸素摂取量の変化を示す。
図9】各サブシステムからのエネルギー供給の割合を示す。
図10】運動時及び回復時における全身の各筋の疲労レベルを示す図である。図中の筋の色は、実際には、筋疲労レベルが増大するにしたがってブルー、シアン、イエロー、マジェンダ、レッドで示した。時点t=0は運動の開始時であり、最初の3つの図は運動状態に対応している。残りの5つの図は回復状態に対応している。
図11】9つの代表筋の標準化した最大力及び乳酸濃度の時系列変化を示す。これらの筋は人体の左側の筋であり、下方の2つの図はこれらの筋の位置を示す。
図12】3つの時点における標準化した最大力(左側のバー)及び乳酸濃度(右側のバー)を示す。
図13】本実施形態に係る筋疲労推定装置の概略図である。
【発明を実施するための形態】
【0023】
[A]背景技術
本実施形態の背景技術について説明する。以下に述べる背景技術は、本実施形態に係る筋疲労モデルの理解に有用であり、かつ、本実施形態に係る筋疲労モデルの構成の一部を構成し得るものである。
【0024】
[A-1]人体筋骨格モデル及び動作解析システム
本実施形態に係る疲労モデルは、全身人体筋骨格モデルと組み合わせることで、運動時及び回復時の全身の筋の疲労挙動について分析する。人間の全身の筋骨格モデルは、989の筋要素、50の腱、117の靭帯、および34の軟骨から構成される。各筋要素、腱、および靭帯は、2つの端部と任意の数の経由点を持ち、張力を生成する単一のワイヤで表される。軟骨は線形バネとしてモデル化されている。幅の広い幾つかの筋は、複数本のワイヤを用いてモデル化されている。全身人体筋骨格モデルについては、例えば、非特許文献1~非特許文献3に記載されており、必要に応じて適宜参照することができる。筋骨格モデルは、解剖学の教科書等に基づいて構築することができ、上述の筋骨格モデルは、例示に過ぎないものであり、本発明に適用される得る筋骨格モデルを限定するものではない。この筋骨格モデルとモーションキャプチャにより取得された運動データを用いて逆動力学計算を実行し、逆動力学計算の結果(各筋の筋張力、筋長を含む)を用いて、本実施形態に係る筋疲労モデルの入力である各筋要素の仕事率が計算される。逆動力学計算は、線形計画法や二次計画法に基づく最適化計算を含む(非特許文献2、非特許文献3参照)。
【0025】
対象の動作は、モーションキャプチャによって取得された当該対象の姿勢の時系列データによって規定される。対象の姿勢は、対象の身体上の複数の特徴点(典型的には関節)によって特定され、各フレームにおいて、複数の特徴点の3次元座標値を取得することで、複数の特徴点の3次元座標値の時系列データから対象の動作を規定する。本実施形態に用いられるモーションキャプチャの種類は限定されず、特徴点を特定する光学式マーカを用いた光学式モーションキャプチャ、加速度センサやジャイロスコープ、地磁気センサなどのいわゆる慣性センサを対象の身体に装着して、対象のモーションデータを取得する方式、光学式マーカやセンサを装着しない、いわゆるマーカレスモーションキャプチャ等を例示することができる。対象の自然な動作を妨げないという観点からは、マーカレスモーションキャプチャが有利である。マーカレスモーションキャプチャとしては、カメラと深度センサを備えたシステム(Kinectに代表される)を用いたモーションキャプチャ、あるいは、深層学習を用い、1視点あるいは複数視点からのRGB画像を解析してモーションデータを取得するモーションキャプチャ(非特許文献4参照)に記載された手法を例示することができる。
【0026】
モーションキャプチャを用いた動作解析の処理工程を例示する。モーションキャプチャを用いて対象の動作データ(関節角及び関節位置の時系列データ)を取得する。動作データに基づいて、逆動力学計算により関節トルクを取得し、前記関節トルクを用いて、筋を模倣したワイヤを備えた筋骨格モデルにおけるワイヤ張力を最適化計算(2次計画法や線形計画法)により取得し、前記ワイヤ張力を用いて各筋の筋活動度を算出し、筋活動度の程度に応じた色が割り当てられた筋骨格画像を生成し、視覚化された筋活動度を伴う筋骨格画像を所定のフレームレートで出力して動画としてディスプレイに表示する。以下、詳細に説明する。
【0027】
モーションキャプチャによって取得した骨格の全自由度の時系列のフレーム間変位を連続関数で補間することによって、各フレーム時刻における骨格の全自由度の変位、その時間微分である速度、またその時間微分である加速度を計算する。それらから算出された各リンクの位置・角度・速度・角速度・加速度・角加速度を逆動力学エンジンに送り、質量を仮定した骨格の運動に伴う、力学情報の計算を行うことで、運動に整合した関節トルクを算出する。骨格の各セグメントは剛体とし、その質量、重心位置、慣性テンソルは、体格情報を用い人の各部位の統計的な計測情報から推定したものを用いることができる。あるいは対象の運動情報からの同定によりこれらのパラメータを推定することもできる。推定に用いる対象の体格情報は事前に取得される。
【0028】
筋をモデル化した全身に分布させたワイヤ張力をバイアス・重み付き2次計画法を用いて計算する。分類された運動に応じて拮抗筋が使われる際の力分布の計測値を求めておき、それを参考にしたバイアス、重みを使うことで、実際の筋の張力をよりよく近似する解を得ることができる。筋張力の取得において、筋電計や床反力計を用いてもよい。モーションキャプチャによって取得した動作データ及び筋骨格モデルを用いて筋張力を推定する手法は、例えば、非特許文献2、非特許文献3に記載されており、必要に応じて適宜参照することができる。
【0029】
取得された筋張力を当該筋の想定した最大筋張力で割った値を筋活動度とし、筋活動度に合わせて筋の色を変えた全身筋骨格系の画像を生成し、これをフレームレート(典型的には30FPS)で出力して映像としてディスプレイに表示する。また、骨格のポーズの画像を生成し、フレームレートで出力して映像としてディスプレイに表示する。さらに、各変数(例えば、関節角度、速度、筋張力、床反力、重心位置など)の値の変化をグラフ化して出力する。これらの出力を解析結果として映像やグラフで提示し、運動時の筋や身体の活動、あるいは体の各部位の動作の記録とする。このように、対象の運動の撮影から、運動時の対象の3次元ポーズの取得、運動に必要な筋活動の推定と可視化までを、自動的に効率的に行うことができる。本実施形態に係る筋疲労の程度を推定する装置は、このような動作分析システムの構成の一部を利用して実現することができる。
【0030】
[A-2]人体エネルギー供給システム
ATP(アデノシン三リン酸)は、人体の活動のための即時のエネルギー源である。ATPの加水分解により、ADP(アデノシン二リン酸)とリン酸が生成され、同時にエネルギーが放出される。筋の収縮、神経細胞の活動、および生物の他のすべての活動は、ATPによって生成されたエネルギーを利用する。ATPとADPは、素早く相互に変換され得る。ADPからATPへの変換プロセスはエネルギーを必要とする。
【0031】
人間のエネルギー供給システムには、ATP-PCエネルギー供給システム(PCはクレアチンリン酸の略)、嫌気性呼吸、好気性呼吸の3つの主要なサブシステムが含まれる。人間が激しい運動を行うとき、エネルギーはまずATP-PCエネルギー供給システムによって供給される。ただし、人体のATPの総量は非常に少なく(約100ミリモル)、1~3秒の激しい運動にエネルギーを供給できるに過ぎない。利用可能なATPが使い果たされると、PCの加水分解がエネルギーを生成し始める。人体内のPCの量も非常に少ない。ATP-PCエネルギー供給システムによって生成されたエネルギーは、人間の激しい運動に6~8秒間供給できる。
【0032】
ATP-PCシステムは、主に高強度の運動の最初の数秒間にエネルギーを供給する。長期運動のエネルギーは、嫌気性呼吸と好気性呼吸によって生成される。嫌気性呼吸とは、酸素を消費せずに炭水化物やその他の有機物を不完全に分解し、乳酸とわずかなエネルギーを生成するプロセスを指す。人間の高強度運動の場合、酸素摂取量は運動開始時にエネルギー要件を満たすことができないため、嫌気性呼吸が最初の数分間の主要なエネルギー供給モードである。好気性呼吸とは、二酸化炭素と水を生成し、大量のエネルギーを放出する酸素を消費する有機物(グルコースなど)の完全な分解のプロセスを指す。好気性呼吸は、長期持久力運動の主要なエネルギー源である。
【0033】
前述の3つのサブシステムの活性化は、特定の運動タスクに依存する。短期の高強度運動、たとえば100メートル走では、ATP-PCエネルギー供給システムが支配的である。長期間の低強度運動では、好気性呼吸が支配的である。上記の2つのタイプの間の運動、例えば400メートル走では、嫌気性呼吸が支配的である。
【0034】
炭水化物と脂肪は、人間の有酸素運動のすべての強度で骨格筋のエネルギーの大部分を提供する。脂肪は、人体で最大のエネルギー貯蔵を提供する。脂肪からのエネルギーは、約5日間の連続マラソンランニングに十分である。対照的に、炭水化物の貯蔵量は比較的限られており、約100分間の集中的な運動にエネルギーを提供できる。先行研究では、炭水化物の枯渇が疲労を引き起こし、脂肪が好ましい燃料であることを示した。ただし、脂肪の利用は律速であるため、高強度の持続的な運動には脂肪と炭水化物の両方が必要である。動作中の筋によって酸化される炭水化物と脂肪の割合は、相対的な運動強度によって決まる。基本的に、炭水化物の利用率は、運動強度が上がると増加する。脂肪の利用と比較して、炭水化物の消費は疲労と密接に関連しており、ほとんどの炭水化物はグルコースの形で人体に保存される。本実施形態では、主にグルコースの代謝とその筋疲労への影響に注目する。
【0035】
[A-3]エネルギー供給のための化学反応
上記エネルギー供給の3つのサブシステムは、6つの主プロセスを含む。ATP-PCエネルギー供給、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解、ATP及びPCの再生、糖新生(gluconeogenesis)である。グルコースの不完全分解は、嫌気性呼吸において活性化される。グルコースの完全酸化及び乳酸の酸化は、好気性呼吸において活性化される。糖新生を除くプロセスの化学反応については本セクションで説明する。糖新生については、後述する。
【0036】
ATP-PCエネルギー供給のプロセスは、以下の式で表される。
ここで、Pはリン酸、Crはクレアチンである。EATPは1モルのATPによって生成されるエネルギー量であり、EPCは1モルのPCによって生成されるエネルギー量である。EATPは直接用いられる。EPCはATPの合成に用いられ、そして、得られたATPが加水分解されて、筋収縮及び人体代謝のためのエネルギーが生成される。また、本明細書において、Gはグルコース、LAは乳酸を表す。
【0037】
グルコースの完全酸化プロセスは3つのステージを含む。第1ステージでは、グルコース1分子が、ピルビン酸2分子と水素イオン4分子に分解される。このステージでは、少量のエネルギーが生成される。第2ステージは、クエン酸回路であり、ピルビン酸2分子および水6分子が、全ての20個の水素イオンを失う。 ピルビン酸は酸化されて、二酸化炭素を生成する。このステージでは、少量のエネルギーが生成される。第3ステージでは、上記2つのステージからの水素イオンが酸素と結合して、水を生成し、大きな量のエネルギーを生成する。これらの全体のプロセスは以下ように表される。
O2は酸素、CO2は二酸化炭素、H2Oは水を表す。NGO ATPは定係数、NGO ATPEATPは、1モルのグルコースの完全酸化からATP合成に用いられるエネルギーである。得られたATPからのエネルギーは、筋収縮及び人体代謝に用いられ得る。
【0038】
乳酸の酸化プロセスは3つのステージを含む。第1ステージは、乳酸の脱水素化であり、ピルビン酸を生成する。第2ステージでは、ピルビン酸はアセチルCoAに変換される。この2つのステージでは、小さな量のエネルギーが生成される。第3ステージでは、アセチルCoAがTCAサイクルに関与し、完全に酸化される。 第3ステージでは大きな量のエネルギーが生成される。全体のプロセスは、以下のように表される。
NLO ATPは定係数である。NLO ATPEATPは、1モルの乳酸からATP合成に用いられるエネルギーである。得られたATPからのエネルギーは、筋収縮及び人体代謝に用いられ得る。
【0039】
嫌気性呼吸プロセスは2つのステージを含む。第1ステージは、好気性呼吸の第1ステージと同じである。グルコースの1分子がピルビン酸の2分子に分解され、4つの水素イオンを失う。第2ステージでは、ピルビン酸が乳酸に変わる。第1ステージでは、ATPを合成するために小さいエネルギーが生成される。第2ステージでは、生成されたエネルギーはとても少なく、よってATPは得られない。全体のプロセスは、以下のように表される。
このプロセスでは、1モルのグルコースの嫌気性呼吸によって生成されるエネルギーは、2モルのATPを合成することに用いられる。
【0040】
リカバリープロセスにおけるATP及びPCの再生プロセスは、ATP-PCエネルギー供給の逆であり、以下のように表される。
【0041】
[B]筋疲労モデル
本実施形態に係る筋疲労モデルにおいて、疲労レベルは、安静時の初期の最大収縮力F0 maxに対する最大収縮力Fmaxの低下の割合
で表す。疲労レベル1は、完全な疲労を意味し、疲労レベル0は、全く疲労していないことを意味する。なお、上記定義は、疲労の定義の例示であって、本発明における筋疲労の度合いや程度の指標を限定するものではない。
【0042】
1つの筋の生理学的状態は、ATP、PC(クレチンリン酸)、リン酸、乳酸、グルコースの量によって特徴付けられる。筋iの状態si(t)は、
と表すことができる。上付きの´は、転置を表す。iは筋のインデックス、tは時間である。
図1に本実施形態に係る筋疲労モデルの概要を示す。筋疲労モデルは、筋エネルギーモデルと、筋代謝モデルと、酸素分配モデルと、血液及び肝臓システムと、最大筋力モデルと、からなり、筋代謝モデルは、エネルギー供給モデルを含んでいる。本実施形態に係る筋疲労モデルを用いた筋疲労の推定は、1つあるいは複数のコンピュータによって実現することができる。コンピュータは、入力部、処理部、記憶部(RAM、ROM)、出力部を備えている。1つの態様では、出力部はディスプレイを含んでもよい。
【0043】
図2に筋骨格モデル及び動作取得システムの概要を示す。動作取得システムはモーションキャプチャを含み、モーションキャプチャは、1つの態様では、対象の動作の動画データを取得するカメラと、動画データに基づいて対象の動作を表す時系列データを取得する1つあるいは複数のコンピュータから構成される。動作取得システムは、取得した時系列データと筋骨格モデルを用いて、各筋の筋張力及び筋速度(筋長の微分)を取得する。動作取得システムは、1つあるいは複数のコンピュータから構成されており、運動データを用いて各筋の筋張力及び筋速度(筋長の微分)を算出する。運動時の各筋の筋張力及び筋速度は、筋エネルギーモデルに入力され、各筋の仕事率が算出され、さらに、各筋の仕事率は筋代謝モデルのエネルギー供給モデルに入力される(図1図3参照)。図1では、肺からの最大酸素摂取量が酸素分配モデルに入力されているが、最大酸素摂取量は文献からの値、例えば2.6mmol/sを用いることができる。
【0044】
図13に、本実施形態に係る筋疲労推定装置のブロック図を示す。筋疲労推定装置は、所定の化学物質の化学反応に伴ってエネルギーを生成する人間のエネルギー供給プロセスをシミュレートすることで筋疲労の程度を推定する装置である。筋疲労推定装置は、記憶部と処理部とを備えている。記憶部及び処理部はコンピュータによって実現することができる。記憶部には、計測データ、計測データから計算によって取得した計算データ、その他の筋疲労計算に必要なデータ(必要な変数やパラメータ等)が記憶される。より具体的には、記憶部には、運動データから取得した各筋の筋力(筋張力ないし筋収縮力)及び筋長(微分によって速度が得られる)の時系列データが記憶される。さらに、記憶部には、その他の変数及びパラメータが記憶される。これらの変数及びパラメータには、文献から得られる値や計測値を用いることができる。本実施形態に係る筋疲労モデルの主な変数を表1に示す。本実施形態に係る筋疲労モデルの主なパラメータを表2、表3に示す。表1~表3に記載された変数やパラメータは限定列挙ではなく、筋疲労の推定において、表1~表3に記載されていない変数やパラメータを用いてもよい。処理部は、所定の入力データ及び記憶部に記憶されたデータを用いて所定の計算を実行して、筋疲労の程度を出力する。より具体的には、処理部は、筋力及び筋長(微分して得られる速度)から各筋の仕事率を算出する筋の仕事率算出手段を備え、算出された仕事率が記憶部に記憶される。人間のエネルギー供給機構(所定の化学物質の所定の化学式によってエネルギーが生成される)は既知である。処理部は、エネルギー供給フェーズ決定手段を備えている。エネルギー供給フェーズによってエネルギー生成に用いられる化学物質や化学式が異なる。なお、例えば、特定の運動において、予めエネルギー供給フェーズが予想できるような場合には、エネルギー供給フェーズ決定手段は任意要素である。処理部は、各筋の仕事率に必要なエネルギー生成に伴う化学物質の量の変化を算出する化学物質量算出手段を備えている。化学物質量算出手段によって、時刻tにおける各筋の生理学的状態及び各筋の安静時の最大筋力に対する減衰因子が推定される。最大筋力推定手段が、時刻tにおける減衰因子と安静時の最大筋力を用いて各筋の時刻tにおける最大筋力を推定する。そして、疲労推定手段は、各筋の推定された最大筋力と各筋の安静時の最大筋力を比較することで、時刻tにおける各筋の疲労レベルを推定して出力する。
【表1】
【0045】
[B-1]筋エネルギーモデル
筋エネルギーモデルは、動作分析システム及び筋骨格モデルから取得した筋収縮力及び筋長(微分により筋速度が得られる)を与えることによって、各筋のエネルギー消費を推定することに用いられる。筋収縮のエネルギー消費は、等尺性コストと、筋が仕事をするエネルギーと、を含む。第一背側骨間筋についての先行研究によれば、筋がポジティブワーク(筋が短くなる)を行った時は、力生成のコストは、ほぼ、等尺性コストと行われた仕事の和に等しく、筋が伸張性収縮で仕事を行った時には、等尺性コストに対して相対的にエネルギー消費の減少がある。しかしながら、この減少の大きさは、ネガティブワーク自体の大きさとは同じではない。
【0046】
これらの知見に基づいて、筋収縮のためのエネルギー率を以下のように推定する。
Eiは、筋iの筋収縮のエネルギー、Iiは、筋iの等尺性収縮のエネルギー、 fiは、筋iの収縮力、liは、筋iの筋長である。筋iが伸長している時はfiは正である。
re,i、ae,i 、be,i は定係数である。ここで、Er,i を、安静時の筋iの基礎代謝エネルギー消費とする。よって、筋iの全体のエネルギー消費は、
となる。
【0047】
[B-2]エネルギー供給モデル
エネルギー供給モデルは、ATP-PCエネルギー供給、好気性呼吸、及び嫌気性呼吸のプロセスをシミュレーションし、酸素摂取量及び関連する化学物質の量の変化を計算する。図5図6は、エネルギー供給モデルの概要を示す図である。図5は、3つのフェーズの状態及びこれらのフェーズとエネルギー供給プロセスの関係を示している。3つのフェーズは、(1)ハイブリッドフェーズ、(2)有酸素ドミナントフェーズ、そして、(3)リカバリーフェーズ、を含む。図6は、各フェーズにおけるエネルギー分配を表している。
【0048】
ハイブリッドフェーズは、酸素摂取量が不十分な時に、運動の開始時によく起こる。好気性呼吸及び嫌気性呼吸の両方は、このフェーズにおいて重要な役割を有する。
【0049】
好気性呼吸ドミナントフェーズにおいて、酸素摂取量は十分であり、好気性呼吸が主なエネルギー供給様式である。 このモデルにおいて、RG,iを、筋iの好気性呼吸ドミナントフェーズにおける有酸素エネルギーに対する無酸素エネルギーの率とする。よって、酸素摂取量が十分な時に、酸素呼吸は、筋iにエネルギー
を提供する。
【0050】
リカバリーフェーズにおいて、運動強度は低下し、酸素摂取量は、運動のための酸素消費よりも高くなる。好気性呼吸が主であり、過剰の酸素は、蓄積された乳酸の酸化や他のプロセスに用いられる。
【0051】
筋iのフェーズ判定は、運動のために必要な有酸素エネルギー率
と実際の有酸素エネルギー率
の比較に基づいて行われる。
【0052】
の取得方法を説明するにあたり、EGO,iをグルコースの完全酸化によって生成されたエネルギー、ELO,iを乳酸の酸化によって生成されたエネルギーとする。Ro,i GOは、EO,iに対するEGO,iの比率を表すものとすると、以下の式が得られる。
グルコースの完全酸化及び乳酸の酸化のための全体の酸素摂取量は、
なので、式(3)、(4)に基づいて以下の関係が得られる。
ηATP Mは、収縮カップリング効率(the contraction-coupling efficiency)であり、これは、ATPによって生成される全エネルギーに対するATPによって生成され、筋の仕事に用いられる機械的エネルギーの割合である。 よって、1モルのATPは、筋に対してηATP M・EATPのエネルギーを提供する。したがって、有酸素エネルギー率
と酸素摂取量
との関係は式(12)、(13)に基づいて、以下のように得られる。
【0053】
以下に、各プロセスによって生成されるエネルギー率、あるいは、各プロセスのために提供されるエネルギー率について記述し、また、各フェーズにおける酸素摂取量の変化について説明する。
【0054】
(1)ハイブリッドフェーズは、
の時に活性化する。εiは定数である。このフェーズにおいて、好気性呼吸によって提供されるエネルギーは、筋のエネルギー消費に十分ではない。足りない部分は、先ず、ATPによって提供される。ATPが使い尽くされると、PCが分解されてエネルギーを供給する。PCが使い尽くされると、グルコースの乳酸への分解が始まり、エネルギーを生成する。このフェーズにおいては
が上昇する。
【0055】
各エネルギー供給プロセスによって生成されるエネルギー率ないし提供されるエネルギー率は以下のように表される。
EAP,iは、筋iのATP-PC供給によって生成されるエネルギーである。EG,iは、筋iのグルコースの不完全分解によって生成されるエネルギーである。EAPR,iは、筋iのATP及びPCの補充のためのエネルギーである。 ELG,iは、筋iによる糖新生に提供されるエネルギーである。ATPi min、PCi minは、筋iのATP、PCの最小量である。
【0056】
ATPないしPCが利用可能な時には、

の差は、
によって提供され、そうでない場合には、
によって提供されることを示唆している。
【0057】
人間の運動中の酸素摂取量の変化は、二重指数関数によって近似できることが知られている(T. J. Barstow, P. A. Mole, Journal of Applied Physiology 71, 2099 (1991);T. Yano, et al., Biology of Sport 29, 171 (2012))。本モデルにおいても、二重指数関数を採用して、
の変化を特徴付ける、ハイブリッドフェーズでは、
は時間と共に増加し、数学的に以下のように表される。
tは時間、τ1,i、τ2,iは、それぞれ、2つの指数曲線の時定数である。TD1,i、TD2,iは時間遅延である。
は、酸素摂取量のベースライン、tbは、
が更新された時の時定数、である。初期の
は、安静時の酸素摂取量
と同じである。
【0058】
Ei bを用いて、最後の更新時の

の値を表す。
がεiを超えた時に、
は、現在の
の値に更新され、Ei bは現在の
に更新され、tbは、現在の時刻に更新される。A1,i、A2,iは、それぞれ、2つの指数プロセスの大きさ(amplitudes)である。A1,i、A2,iの値は、以下の式によって得られる。
ここで、
は望ましい酸素摂取量である。式(14)において、

を置き換えることによって、
を得る。
は筋iの最大酸素摂取量である。
は、筋iの酸素摂取量の閾値である。
【0059】
本実施形態において、
であり、Ci LAは、定係数である。式(23)は、式(21)の右側の第2指数項は、

を超えた時にのみ現れることを示している。
【0060】
(2)好気性呼吸ドミナントフェーズは、
の時に活性化する。このフェーズにおいて
は一定のままであり、各エネルギー供給プロセスによって生成される、あるいは、各プロセスに提供されるエネルギー率は、以下のように表される。
【0061】
(3)リカバリーフェーズは、
の時に活性化する。

よりも大きく、過剰酸素が好気性呼吸によって消費されてエネルギーを生成し、ATP及びPCの補充及び糖新生に用いられる。リカバリーフェーズの開始時において、ATP補充、糖新生、乳酸の酸化は、同時に起きる。ATPが補充されると、PC補充が開始する。このフェーズにおいて、各エネルギー供給プロセスによって生成される、あるいは、各プロセスに提供されるエネルギー率は、以下のように表される。
ここで、
Rex,i LOは、リカバリーフェーズにおける全体の過剰酸素に対する乳酸の酸化に用いられる酸素の割合である。Rex,i LGは、リカバリーフェーズにおける全体の過剰酸素に対する糖新生に提供されるエネルギーに用いられる酸素の割合である。ATPi min、PCi minは、それぞれ、ATP、PCの最小量である。ELO,i exは、過剰酸素摂取量に伴い乳酸酸化によって生成されたエネルギーである。ELG,i ex、EARP,i exは、それぞれ、過剰酸素摂取量に伴い糖新生に提供されたエネルギー、ATP補充及び PC補充に提供されたエネルギーである。
【0062】
式(31)から、リカバリーフェーズにおいて乳酸の酸化によって生成されるエネルギーは2つの部分を含むことがわかる。第1部分
は、運動消費のパートを満たすのに用いられる。第2部分 ELO,i exは、過剰酸素によって生成される。本モデルにおいて、ELO,i exは3つのやり方で使用される:糖新生、ATP及びPCの補充、熱や他の代謝、である。ここで、RLO,i LG、RLO,i APRを、それぞれ、ELO,i exに対する糖新生のためのエネルギー、ATP及びPC補充のためのエネルギーの割合を表すものとする。
【0063】
リカバリーフェーズでは、
は時間と共に低下し、数学的に以下のように表される。
τ3,i、τ4,iは、低下の時定数である。TD3,i、TD4,iは低下の時間遅延である。A3,i、A4,iは、それぞれ、2つの指数プロセスの大きさ(amplitudes)を表す。A3,i、A4,iの値は、以下の式によって得られる。
【0064】
人の筋の力(strength)は無限ではない。すなわち、エネルギー生成率には上限があり、この上限は筋の強さ、有酸素代謝キャパシティ、疲労からの回復能力のような個人の運動能力を反映している。
【0065】
最大エネルギー率は乳酸の影響を受ける。蓄積された乳酸はpHを減少させる。細胞呼吸に関与する幾つかの酵素は、低下したpH下では十分に働かない。したがって、蓄積された乳酸は、ATPの合成を難しくする。本実施形態では、各プロセスからのエネルギー最大生成率は、筋乳酸の区分線形減少関数(a piecewise linear decrease function)としてモデル化し、ATP補充及びPC補充のためのエネルギー最大消費率は定数とする。一方、本実施形態では、糖新生のための筋における最大エネルギー消費率は、血中乳酸の区分線形増加関数とする。最大値を達成するためのエネルギー率は、筋の力(strength)は、所望の動作タスクを満たすことができないことを示唆する。この場合、実際の筋の仕事率は、予想される仕事率よりも小さい。最大エネルギー率の数学的表現は、後述する。
【0066】
[B-3]エネルギー供給プロセス
上記化学反応に基づいて、筋iの各エネルギー供給プロセスに必要とされるエネルギーあるいは提供されるエネルギーが与えられることによって、生理学的状態の変化si(t)を取得する。
【0067】
式(2)に基づいて、ATP-PC供給中の筋iの生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表される。
ηPC ATPは、PCの分解時の化学カップリング効率(the chemical-coupling efficiency)である。したがって、1モルのPCは、筋収縮のために エネルギーEPC・ηPC ATP・ηATP Mを提供する。
【0068】
式(3)に基づいて、グルコースの完全酸化時の筋iの生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表される。
【0069】
式(4)に基づいて、乳酸の酸化中の筋iの生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表される。
【0070】
式(5)に基づいて、嫌気性呼吸時の筋iの生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表される。
【0071】
式(7)に基づいて、ATP補充及びPC補充時の筋iの生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表される。
【0072】
最終の筋iの生理学的状態の変化si(t) は、上記プロセスの全ての結果を合計することで得られることに留意されたい。
【0073】
Ro,i GO、RG,iは、エネルギー供給の重要な変数である。RO,i GOは、以下の式によって決定される。
ここで、RO,i GO,minは、RO,i GOの下限である。LAR,i max、LAR,i minは、LAiの閾値である。LAiがLAR,i max、LAR,i minの間にある時には、LAiの上昇にしたがって、RO,i GOは線形的に減少し、このことは、より高い乳酸が、乳酸酸化によるエネルギーへのより高い寄与をもたらすことを示唆する。
【0074】
RG,iは、以下の式によって決定される。
ここで、RG,i maxは、RG,iの下限である。酸素摂取量が、
より少ない場合には、RG,iは0であり、このことは、好気性呼吸ドミナントフェーズにおける筋iの全てのエネルギーは好気性呼吸によって提供されることを意味している。酸素摂取量が、

の間にある場合には、RG,iは酸素摂取量の増加と共に線形的に上昇し、このことは、好気性呼吸ドミナントフェーズにおける高い運動強度は、全体の筋エネルギーに対する無酸素エネルギーのより大きい割合(率)をもたらすことを意味する。ここで、RG,iの最小値は、1よりも遥かに小さいことに留意されたい。好気性呼吸ドミナントフェーズでは、好気性呼吸が主なエネルギー供給様式であるからである。
【0075】
[B-4]全身酸素摂取量分配
1つの筋の酸素摂取量は、他の筋の動きによって影響され得る。もし、多くの筋が高い運動強度を有する場合、したがって高い所望の酸素摂取量を有する場合、肺からの酸素摂取量には上限があるため、全ての筋が満たされるわけではない。よって、各筋の最大酸素摂取量は、全身運動に応じて変わり得る。本実施形態では、以下の式を用いて、各筋の最大酸素摂取量を更新する。
ここで、
は、
の上限であり、
は肺からの酸素摂取量であり、全ての筋の酸素摂取量の総和に等しい。
は肺からの最大酸素摂取量であり、
は肺からの安静時の酸素摂取量であり、ao,i、bo,iは重み係数である。
【0076】
式(55)は、肺からの最大酸素摂取量の筋への分配を記述するものである。各筋の重みは、3つの部分
と、
と、LAiと、を含んでいる。第1の部分は運動強度を反映している。より高い仕事率の筋はより高い最大酸素摂取量を有する傾向にある。第2の部分は、基礎代謝を表している。第3の部分は、乳酸の影響を示している。リカバリーフェーズにおける蓄積された乳酸の酸化には酸素が必要となるため、重みにLAiを加えた。したがって、より多くの乳酸を備えた筋はより高い最大酸素摂取量を獲得する傾向にある。式(55)は、ある一つの筋の最大酸素摂取量は、他の筋の仕事率の上昇に伴い減少し得ることを示唆する。
【0077】
[B-5]乳酸とグルコースの輸送
全身運動の生理学的相互作用を理解するために、各筋、血液、肝臓間での乳酸及びグルコースの輸送をモデル化する。筋グルコースがある一定の程度減少すると、血中グルコースが筋へ輸送される。血中グルコースの量が通常値よりも少ない場合には、肝臓グリコーゲンがグルコースに変換され、そのグルコースが血液に輸送される。血中グルコースが過剰な場合には、過剰部分が肝臓に輸送され貯蔵される。筋に蓄積された乳酸は、血液に輸送されて、全身サイクルに関与し、そのうちの部分がさらに肝臓に輸送されて、グルコースに変換され得る。
【0078】
本実施形態では、血液と肝臓間でのグルコースの輸送率
を、以下の式で計算する。
Gbは血液中のグルコースの量である。Gb 0は安静時のGbの通常値である。GbがGb 0よりも大きい時には、
は、正となり、グルコースが血液から肝臓に輸送される。GbがGb 0より小さい時には、
は、負であり、グルコースが肝臓から血液に輸送される。CGblは定係数である。
【0079】
血液と筋の間のグルコースの輸送率
は、以下の式で記述される。
Giは、筋iのグルコースの量、Gi 0は、安静時のGiの通常値である。GiがGi 0よりも低い時には、
が正であり、グルコースは血液から筋iに輸送される。CGb,iは定係数である。
【0080】
血液と筋の間の乳酸の輸送率
は、以下の式で記述される。
LAiは筋iの乳酸の量である。CLAb,iは定係数である。hiは血液乳酸と筋乳酸の関係を表す係数である。LAbがhi・LAiと同じ場合には、血液と筋iの間の乳酸のバランスが取れている。LAbがhi・LAiより大きい場合には、
は正であり、血液中の乳酸が筋iに輸送されることを意味する。式(58)は、より低い乳酸を備えた筋は、血液からより多くの乳酸を獲得する傾向があることを示している。
【0081】
血液と肝臓の間の乳酸の輸送率
は、以下の式で記述される。
LAb 0は、安静時のLAbの通常値である。LAbがLAb 0よりも大きい時には、
は正である。LAbがLAb 0よりも小さい時には、
は0を維持する。CLAblは定係数である。
【0082】
肝臓において、糖新生のプロセス中に、乳酸は消費されてグルコースを再生する。これは以下のように表される。
このプロセスは、エネルギー(ATP)と酸素を必要とする。糖新生時の筋及び肝臓の生理学的状態の変化は、数学的に以下のように表すことができる。
【0083】
[B-6]最大筋力モデル
最大筋力モデルは、生理学的状態に基づいて、最大筋力及び疲労レベルの推定を記述する。筋疲労は複雑な現象である。疲労の原因には多くの要因が含まれ、疲労のメカニズムはいまだ明確にはわかっていない。先行研究では、疲労は高強度の運動がより高い乳酸及び水素イオンの蓄積をもたらすことに起因し、乳酸が代謝廃棄物であり、疲労の重要な原因であると考えられていた。しかしながら、最近の研究では、乳酸は疲労の原因ではないであろうという報告もなされている解糖系が乳酸すなわち乳酸を生成するのか、また、乳酸アニオンないしプロトンの蓄積が筋収縮の機構に干渉して疲労を起こすのか、については議論がある。乳酸の蓄積と筋疲労との関係に関連するメカニズムは依然としてわかってはいないが、乳酸の蓄積は、筋を動かすことにおける代謝恒常性に対する障害の証拠として見ることができる。
【0084】
またグリコーゲンの減少及びリン酸の増加が、筋疲労と密接に関連することがわかっている。低い筋グリコーゲンは、筋小胞体からのCa2+のリリース、再取り込み、Na+/K+ポンプ機能の障害に関連することが報告されており、筋グリコーゲンの低下は、長時間運動における疲労に寄与する重要な要因であることが報告されている。増加したリン酸は、筋小胞体からリリースされるCa2+の低下を引き起こし、低下した活性化及び疲労に寄与し得る。
【0085】
筋疲労の原因は完全にはわかっていないが、先行研究から、グルコースの減少、乳酸の蓄積、リン酸の増加が筋疲労に密接に関連する3つの主な要因であると考えられる。本実施形態では、これらの3つの要因を筋疲労の指標と考え、これらの3つの要因を用いて最大筋力の低下を推定する。
【0086】
本実施形態に係る最大筋力モデルでは、時刻tにおける筋iの最大筋力を、以下の式によって取得する。
ここで、F0 max,iは、安静時のFmax,iの値であり、λLA,i、λP,i、λG,iは、それぞれ、乳酸の蓄積、リン酸の増加、グルコースの低下に関連する3つの 減衰項である。先行研究において、筋力と水素イオンについて概ね線形関係があり、また、筋力と無機リンとの間に概ね線形関係があることが示されている。そこで、3つの力減衰項を対応する生理学的変数の線形関数としてセットする。3つの定数パラメータTDLA,i、TDP,i、TDG,iが、これら3つの項の時間遅延を表すものとして用いられる。時間tが時間遅延パラメータよりも短い場合には、対応する減衰項は1を維持する。時間tが時間遅延パラメータよりも長い場合には、3つの減衰項は、以下の線形関数によって計算される。

λLA,i min、λP,i min、λG,i minは、3つの減衰項の下限である。LAλ,i max、Pλ,i max、Gλ,i maxは、それぞれ、減衰項が最大値1に達した時の乳酸、リン酸、グルコースの閾値である。LAλ,i min、Pλ,i min、Gλ,i minは、それぞれ、減衰項が最小値に達した時の乳酸、リン酸、グルコースの閾値である。また、以下の点に留意されたい。
【0087】
[B-7]パラメータ
本モデルのパラメータは、個人の運動能力、代謝パフォーマンス、筋疲労挙動を表すことができる。酸素摂取量のパラメータは、有酸素代謝能力を示す。 高い酸素摂取量、小さい時間遅延、小さい時定数は、解糖系及び乳酸の蓄積量を低減させる。Rex,i LO、Rex,i LGは、リカバリーフェーズにおける乳酸の酸化に重要であり、回復能力を反映する。グルコースの初期量Gi 0及び、筋乳酸 LAi maxの上限は無酸素運動能力を表し、筋の強さや短時間での大きな力の生成に重要である。最大筋力モデルのパラメータは、生理学的代謝物に対する筋の感度を特徴付け、筋の疲労抵抗を反映する。
【0088】
本モデルのパラメータは、筋とは独立した筋非依存定数パラメータ(表2)と、筋依存パラメータ(表3)と、を含んでいる。定数パラメータは、化学式におけるATPの係数、1モルのATP及び1モルのPCによって生成されるエネルギー量、収縮カップリング効率、化学カップリング効率等を含む。古典的な生化学の教科書では、1グルコース分子から38分子のATPの量が生成されることが引用される。しかしながら、呼吸鎖及びATP合成酵素に関するより新しい情報によって、より具体的に評価することが可能となってきており、1グルコース分子から29.85ないし29.38分子のネットATPが生成され得ることが報告されている。したがって、本実施形態に係るモデルでは、NGO ATPを30として設定する。古典的な生化学の教科書では、乳酸1分子の酸化によって、14ないし15のATP分子が生成される。本モデルでは、NLO ATPを14に設定した。その他の筋非依存パラメータの値については、文献に基づいて設定した。
【表2】
【表3】
【0089】
ここでは、筋依存パラメータを以下の3つのカテゴリ、(1)筋量に依存するパラメータ、 (2)筋繊維タイプに依存するパラメータ、(3)筋量及び筋繊維タイプに依存するパラメータ、に分類した。
(1) 筋量に依存するパラメータ
これらのパラメータの値は、筋量に比例するか、あるいは、反比例する。 筋iの質量、全ての筋の全体質量を、それぞれ、mi、mbで表す。これらのパラメータは、表3にタイプMとして示す。
(2) 筋繊維タイプに依存するパラメータ
これらのパラメータの値は、筋線維タイプの係数によってスケーリングされる。人間の骨格筋は基本的に2つの筋線維タイプからなる。タイプIは遅筋線維(ST:slow twitch)であり、タイプIIは速筋線維(FT:fast twitch)である。タイプII線維は、例えば、ミオシン鎖中のアイソフォームの重量に応じて、さらにタイプIIA線維とタイプIIB線維に分類できる。一般に、タイプIの線維は耐久性に優れており、タイプIIの線維は短くて強い収縮に優れている。筋線維の分類については多くの先行研究があり、本実施形態では、文献で報告されている線維組成に従って、すべての筋を3つのタイプ(速筋、中間筋、遅筋)に分類した。速筋、中間筋、遅筋における遅筋線維の割合は、それぞれ、40%以下、40%から50%の間、50%以上、である。このモデルでは、代表的な遅筋には、僧帽筋、広背筋、三角筋、大腰筋、内転筋、大腿二頭筋、ヒラメ筋および長腓骨筋が含まれる。代表的な速筋には、前鋸筋、上腕筋、上腕三頭筋および外側広筋が含まれる。
【0090】
筋線維タイプFT1(i)およびFT2(i)の2つの係数を使用して、各筋のパラメータ値をスケーリングする。筋iが速筋に属する場合、FT1(i)=1.2、およびFT2(i)= 0.7であり、 筋iが中間筋に属する場合、FT1(i)= FT2(i)==1であり、筋iが低速筋に属している場合、FT1(i)=0.8、およびFT2(i)=4、である。これらの筋線維タイプに依存するパラメータ値は、FT1、FT2の関数である。この種のパラメータはタイプFとして表3に示す。
【0091】
(3)筋量と筋線維タイプの両方に依存するパラメータ。
パラメータの値は、筋量、FT1(i)、FT2(i)の関数である。この種のパラメータは、表3でタイプMFとして示されている。
【0092】
すべての筋依存パラメータの表現を表3に示す。本実施形態では、文献に基づいてこれらのパラメータを設定するが、個々の被験者の運動能力分析およびトレーニングガイダンスに役立つように、パラメータ同定を実行してもよい。
【0093】
[B-8]最大エネルギー消費率
本実施形態に係るモデルでは、
を用いて、ATPの加水分解、PCの加水分解、グルコースの完全酸化、乳酸の酸化、グルコースの不完全分解からの最大エネルギー生成率をそれぞれ表す。

ATP補充、PC補充、糖新生の最大エネルギー消費率

で表す。
【0094】
筋iのグルコースの完全酸化において、最大エネルギー率
は、
で取得される。
ここで、
は、筋iにおける単位時間毎のグルコースの完全酸化によるATP合成の量である。
は、筋乳酸の関数であり、
UGO,i min、UGO,i maxは、それぞれ
の最小、最大である。LA1 GO,i、LA2 GO,iは、LAiの閾値であり、その値で、
は、UGO,i min、UGO,i maxに達する。d1 GO,i、d2 GO,iは、LA1GO,i、LA2 GO,iに対応する無次元係数である。
は、LAiの増加に伴い減少するので、d2 GO,iはd1 GO,iより小さい。他のエネルギー供給プロセスの関数UATP,i、UPC,i、ULO,i、UG,iは形式においてUGO,iと同じである。
【0095】
糖新生
のための筋iにおける最大エネルギー消費率は、
で取得され、ここで、
は、単位時間で糖新生によって筋iにおいて消費されるATPの量である。
は、血中乳酸LAbの増加関数である。
ULGの式はUGOの式に類似している。LA2 LG,iはLA1 LG,iよりも大きい。
【0096】
[C]実験
あん馬の旋回運動(a double-leg circle motion:以下「DLC」と呼ぶ)における筋疲労レベルについて分析することで、筋疲労及び回復モデルを実証した。 DLCは、体操競技のあん馬における最も基本的な技術である。DLCは、多くの筋が関与する典型的な全身運動であることから、本実施形態に係る筋疲労モデルをDLCに適用することで全身運動における筋疲労を分析した。運動データの取得及び筋張力の推定は、モーションキャプチャを用いた動作データ取得及び動作データを用いた計算によって取得することができる。あん馬の動作データ取得は、例えば、”M. Nawa, et al., ISBS-Conference Proceedings Archive (2016)”にも記載されている。
【0097】
実験では、対象がDLCを9回行った。対象は、高校の体操競技におけるあん馬競技者のトップ選手の一人である。年齢16歳、身長159.2cm、体重48.5kgである。最初にあん馬に飛び乗る動作及び最後にあん馬から飛び降りる動作のデータは削除した。残った部分は、9回のDLCのルーティンであり、9秒間続いた。このルーティンを6回繰り返して54のDLCをシミューレッションした。全ての筋の仕事率は、600秒毎に0に設定し、動作後の10分間の休息を表している。動作中及び回復時の筋疲労レベルを分析した。
【0098】
[C-1]筋疲労モデルの実証
筋疲労及び回復モデルを実証するために、筋力、代謝変数、各サブシステムのエネルギー供給における割合を推定し、これらの結果を文献と比較した。DLCにおける各筋の筋張力を推定した。DLC中の7つの代表する筋の平均の筋張力は、上腕三頭筋(Triceps Brachii)が最も大きく、右腕の上腕三頭筋の平均は333Nであった。大胸筋(Pectoralis Major)、広背筋(Latissimus Dorsi)、三角筋(Deltoideus)は平均して、60Nから100Nであった。7つの代表筋において、外腹斜筋(Obliquus Externus Abdominis)の力が最も小さい。これらの結果は、文献(Y. Su, T. Ren, Journal of Wuhan Institute of Physical Education 48, 71 (2014))の報告と類似するものである。
【0099】
図7は、これらの7つの筋の運動時の平均の仕事率である。この仕事率の動態は対応する筋張力とは少し異なる。上腕三頭筋は平均して最も大きな力を有しているが、広背筋は平均して最も高い仕事率を示している。 大胸筋及び僧帽筋も、これらの小さな力にかかわらず、比較的高い仕事率を示している。これは、広背筋、大胸筋、僧帽筋(Trapezius)は、DLCにおいてダイナミックな収縮と伸長を交互に実行するため、平均して大きな筋速度を有するためであると考えられる。一方、DLCにおける上腕三頭筋は、主として小さな筋速度を備えた等尺収縮である。したがって、上腕三頭筋の仕事率は、幾つかの他の選択された筋の仕事率に比べて低いものとなっている。
【0100】
図8は、動作中及びリカバリー中の血中乳酸濃度と肺の酸素摂取量の変化を示す。血中乳酸濃度は、初期値1.47mmol/Lから上昇し、運動終了から200秒後に最大値8.20mmol/Lに達し、比較的ゆっくりとした速度で減少する。シミュレーションの最後において、血中乳酸は初期値よりも依然として高い。肺からの酸素摂取量は、運動中において、0.22mmol/s (0.289L/min)から2.83mmol/s (3.72L/min)に上昇し、リカバリーフェーズにおいて減少した。最大値は、運動終了時に得られた。血中乳酸濃度、酸素摂取量の初期値は文献に基づいて与えた。本モデルによる血中乳酸濃度及び肺からの酸素摂取量の基本的な傾向は、文献(B. Mkaouer, et al., Journal of human kinetics 61, 179 (2018))と一致する。
【0101】
図9に各サブシステムからのエネルギー供給の割合を示す。平均仕事率が5W/kgより低い筋は無視した。最初の3秒間は、全身運動の主なエネルギーは、ATPによって即時に供給される。そして、蓄積されたATPは使い尽くされる。次の5秒間は、PCが80%近くのエネルギーを供給する。運動の最初からの10秒間後は、PCによって提供されるエネルギーの割合は20%以下である。全体の運動期間において、嫌気性呼吸がエネルギーの多くを提供し、酸素摂取量が増えると酸素エネルギーの割合は増加する。この結果は、文献(D. J. Caine, K. Russell, L. Lim, Handbook of sports medicine and science, gymnastics (John Wiley & Sons, 2013))の報告とも一致する。
【0102】
[C-2]運動時及び回復時における筋疲労レベル
実験結果は、肘筋(Anconeus)、鎖骨下筋(Subclavius)、恥骨筋(Pectineus)、大内転筋(Adductor Magnus)、上腕三頭筋(Triceps Brachii)および長橈側手根伸筋(Extensor Carpi Radialis)がDLC中で最も疲労する筋であり、腕と大腿の筋が最も疲労し得ることを示した。これらの筋の最大力は、各筋のFmax,0の45%未満に低下した。一般に、運動終了後約10秒で谷値に到達した。リカバリーフェーズでは、ほとんどの筋の最大力は数分でFmax,0の90%以上に回復し得るが、完全に回復するには比較的長い時間を要する。
【0103】
図10は、運動時及び回復時における典型的な時点での全身筋の疲労レベルを可視化して示す。図中の筋の色は、実際には、筋疲労レベルが増大するにしたがってブルー、シアン、イエロー、マジェンダ、レッドで示した。時点t=0は運動の開始時であり、最初の3つの図は運動状態に対応している。残りの5つの図は回復状態に対応している。なお、筋疲労のリアルタイム評価及びリアルタイム表示による視覚化を行ってもよい。図11は、9つの代表的な筋の正規化された最大力Fmax/Fmax,0と乳酸濃度を示す。運動期と回復期の両方で、Fmax/Fmax,0と乳酸濃度の間に強い相関がみられる。回復後期では、多くの筋でのFmax/Fmax,0の回復率の低下は、過剰な酸素摂取及び筋から血液への乳酸の輸送速度の両方の減少によって引き起こされる、筋の乳酸の速度の低下によって部分的に説明できる。図11のほぼすべての筋で、運動終了後約200秒で乳酸降下速度に大きな変化がみられる。この時点で、乳酸は特定の筋と血液の間のバランスを達成し、したがって乳酸の輸送速度は低下し、小さなレベルにとどまる。
【0104】
少数の筋のみにおいて、DLC後に減衰項λG,iが1未満であり、このことは、グルコースの減少が筋疲労の主な原因ではないことを意味する。多くの筋のλP,iは、運動の終了前にPCが使い果たされると最小値に達した。λLA,iは、筋間で大きく異なる。したがって、蓄積された乳酸は、筋疲労の重要な指標である。
【0105】
図12は、3つの時点での100の代表的な筋の正規化された最大Fmax/Fmax,0(左側のバー)と蓄積された乳酸(右側のバー)を示す。3つの時点は、運動開始(t=0)、運動終了後20秒(t=74s)、運動終了後120秒(t=174秒)、である。筋乳酸の量は、筋疲労レベルと密接に関連していることがわかる。
【0106】
回復の初期段階では、全体的な乳酸濃度が低下する。しかし、乳酸がわずかに増加した筋も幾つかあり、これは、筋と血液の間の乳酸輸送によって引き起こされる。疲労レベルの高い筋(例えば、図11に示されている筋)は通常、運動の終わりに大量の乳酸を含んでいる。これらの筋の乳酸の一部は、式(58)に従って血液に運ばれ、血中乳酸濃度が増加する。血液中の乳酸は、乳酸濃度が低い筋にも輸送される。したがって、図12に示すように、運動後の筋(活動が低い)の乳酸量は運動後に増加し得る。この相互作用現象は、血液循環システムが、筋の間で乳酸のより均一な分配を可能とする、筋間の乳酸バッファとして振る舞い得ることを示している。また、各筋の疲労は孤立しておらず、1つの筋の高い仕事率が他の筋の疲労を引き起こす可能性を示唆している。
【0107】
シミュレーション結果は、 筋線維の組成も乳酸の蓄積と疲労レベルと密接に関連していることを示した。運動および回復期間中の最大乳酸濃度と最小Fmax/Fmax,0をのデータについて、すべての遅筋、すべての中間筋、すべての速筋でそれぞれ平均化した。平均仕事率が1W/kg未満の筋は無視した。遅筋、中間筋、速筋の平均最大乳酸濃度はそれぞれ13.7mmol/kg、18.0mmol/kg、32.7mmol/kgで、平均の最小Fmax/Fmax,0は、それぞれ0.70、0.59、0.51であった。一般に、速筋は最も高い乳酸濃度を有し、最も疲労している。ただし、例外もある。長橈側手根伸筋や大内転筋などの特定の遅筋および中間筋も、30mmol/kgを超える高いピーク乳酸濃度、及び、0.5未満のFmax/Fmax,0を示した。このことは、筋線維組成の他に、仕事率も筋疲労の重要な要因であることを示唆している。
【0108】
[D]付記
静的及び動的な筋収縮を伴う全身筋を含む複雑な運動に適用可能な筋疲労モデルを提案した。本モデルは、エネルギー代謝及び生理学的機構に基づいて成立している。筋の動的及び生理学的状態が予測される。本モデルは、血液循環システムを通して全身筋の相互作用を実行することで、複数の筋の間の代謝物の輸送を現実化する。1つの筋の活動が、他の筋の代謝能力や疲労プロセスに与える影響が考慮され、実際の人間の動作とより整合する。また、酸素摂取量及び関連する化学物質の量の変化が予測される。
【0109】
提案の筋疲労モデルは、人間の筋骨格モデルと組み合わせることで、人間の運動の分析に適用される。実験では、本モデルをあん馬のDLCに適用して検証した。実験で用いた動作データは、短時間の運動の繰り返しであり、このことは、実際のルーティンに比べてより高い筋仕事率となっている可能性がある点に留意されたい。
【0110】
本実施形態では、エネルギー供給システムにおける脂肪を考慮していない。筋の全てのエネルギー消費は、ATP、PC、グルコース/グリコーゲンによって提供されるものとした。よって、本実施形態にかかる筋疲労モデルは、主として、高強度の運動、例えば、400メートル走や体操競技(エネルギーの大部分がグルコースから得られる)に適用され得る。低強度の運動ないし長期運動、例えば、2時間以上の歩行やランニングについては、本実施形態に係るモデルにおける乳酸蓄積は過大評価され得る点に留意されたい。脂肪によるエネルギー供給、人体温度の変化、中枢神経システムと関連する中枢性疲労等を考慮することで、本モデルの適用を拡張してもよい。
【0111】
本実施形態にかかる筋疲労モデルは多くのパラメータを含んでいる。各筋は、力学、酸素摂取量、代謝のパラメータを有している。本実施形態では、筋量や筋線維タイプに基づいて一般的なパラメータ割り当て手法を用いてパラメータ値を設定した。個人に依存する筋特徴を反映させるためには、個人から計測したデータを用いて個別にパラメータを設定してもよい。より多くのデータの収集、例えば、運動時及び回復時における、肺からの酸素摂取量及び血中乳酸濃度、はパラメータ同定に有用であり、筋疲予測及び個人の運動能力の評価の正確性を向上させる。

図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
図10
図11
図12
図13