(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2024-02-26
(45)【発行日】2024-03-05
(54)【発明の名称】結晶構造推定方法、結晶構造推定装置、及び結晶構造推定プログラム
(51)【国際特許分類】
G01N 33/204 20190101AFI20240227BHJP
【FI】
G01N33/204
(21)【出願番号】P 2020139341
(22)【出願日】2020-08-20
【審査請求日】2023-08-08
【国等の委託研究の成果に係る記載事項】(出願人による申告)平成30年度、国立研究開発法人科学技術振興機構、戦略的創造研究推進事業、産業技術力強化法第17条の適用を受ける特許出願
(73)【特許権者】
【識別番号】504137912
【氏名又は名称】国立大学法人 東京大学
(74)【代理人】
【識別番号】100105924
【氏名又は名称】森下 賢樹
(72)【発明者】
【氏名】長谷川 達生
(72)【発明者】
【氏名】小山 奏汰
(72)【発明者】
【氏名】井上 悟
(72)【発明者】
【氏名】荒井 俊人
(72)【発明者】
【氏名】都築 誠二
(72)【発明者】
【氏名】下位 幸弘
【審査官】海野 佳子
(56)【参考文献】
【文献】特開2010-168354(JP,A)
【文献】特開平04-055759(JP,A)
【文献】米国特許出願公開第2010/0023473(US,A1)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
G01N 33/204
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
分子の結晶構造を推定する方法であって、
所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、
推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、
を備える結晶構造推定方法。
【請求項2】
推定された構造を有する高次のモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置したより高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップを1回以上備える請求項1に記載の結晶構造推定方法。
【請求項3】
前記モデルのうち少なくとも1つは、所定の結晶対称性を有する、又は、所定の対称操作に基づいて記述される層状構造を有し、
層状構造を有するモデルの層内構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、
推定された層内構造を複数積層した積層構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、
を備える請求項1又は2に記載の結晶構造推定方法。
【請求項4】
層内構造は、2つの分子のなす角度及び2つの分子間の距離を含むパラメータにより規定される構造を有する2つの分子を対称操作によって複数配置した構造を有すると仮定される請求項3に記載の結晶構造推定方法。
【請求項5】
層内構造は、前記2つの分子を映進操作によって複数配置したヘリンボーン構造を有すると仮定される請求項4に記載の結晶構造推定方法。
【請求項6】
前記分子は、有機半導体、有機金属、又は有機超伝導体の分子である請求項1から5のいずれかに記載の結晶構造推定方法。
【請求項7】
推定された構造の結晶の存否を推定するステップを更に備える請求項1から6のいずれかに記載の結晶構造推定方法。
【請求項8】
所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するモデル構造推定部と、
推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定する結晶構造推定部と、
を備える結晶構造推定装置。
【請求項9】
コンピュータを、
所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するモデル構造推定部と、
推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定する結晶構造推定部と、
として機能させるための結晶構造推定プログラム。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本開示は結晶構造推定技術に関し、とくに、分子の結晶構造を推定するための結晶構造推定方法、結晶構造推定装置、及び結晶構造推定プログラムに関する。
【背景技術】
【0002】
有機化合物は、有機半導体、強誘電体、有機絶縁材料、界面活性剤などの添加剤、人工細胞膜、人工光合成用イオン透過膜など、様々な分野で広く利用されている。有機化合物の性質は結晶構造によって大きく左右されうるので、これらの分野で実用するために必要な性質を備えた機能材料を創出するためには、その結晶構造を知ることが重要である。
【0003】
しかし、多様な有機化合物を実際に網羅的に合成し、単結晶X線構造解析などによって結晶構造を知るには、多大な労力、時間、及びコストがかかる。そのため、有機化合物の結晶構造を予測する技術が提案されている。例えば、非特許文献1には、分子力学法を用いた結晶格子エネルギー計算法が記載されている。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0004】
【文献】S. Obata, T. Miura, and Y. Shimoi, "Theoretical prediction of crystal structures of rubrene", Jpn.J.Appl.Phys. 53, 01AD02, 2014
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0005】
実用するために必要な性質を有する可能性のある有機化合物は膨大に存在する。しかし、その多くは、結晶構造が分からないが故に、実用的な機能を有するかどうかの判断がつかないまま埋没しているのが現状である。より高い特性を有する有機化合物を創出するためには、その結晶構造を予測する効率を向上させる技術が必要不可欠である。
【0006】
本開示は、このような課題に鑑みてなされ、その目的は、分子の結晶構造を推定する技術を向上させることである。
【課題を解決するための手段】
【0007】
上記課題を解決するために、本開示のある態様の結晶構造推定方法は、分子の結晶構造を推定する方法であって、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するステップと、を備える。
【0008】
本開示の別の態様は、結晶構造推定装置である。この装置は、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するモデル構造推定部と、推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定する結晶構造推定部と、を備える。
【0009】
本開示の別の態様は、結晶構造推定プログラムである。このプログラムは、コンピュータを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定するモデル構造推定部と、推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を、安定性の指標に基づいて推定する結晶構造推定部と、として機能させる。
【0010】
なお、以上の構成要素の任意の組合せ、本発明の表現を方法、装置、システム、記録媒体、コンピュータプログラムなどの間で変換したものもまた、本開示の態様として有効である。
【発明の効果】
【0011】
本開示によれば、分子の結晶構造を推定する技術を向上させることができる。
【図面の簡単な説明】
【0012】
【
図3】ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層内構造を示す図である。
【
図4】θを固定し、最安定となるR1、R2を探索した結果を示す図である。
【
図5】R1、R2に対する最小値をθについてプロットした結果を示す図である。
【
図6】ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層内構造を示す図である。
【
図7】R3p、R3tの最適解を探索した結果を示す図である。
【
図8】ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層状構造を示す図である。
【
図9】Ra、Rbの最適解を探索した結果を示す図である。
【
図10】推定された結晶構造からシミュレーションした粉末X線パターンと、ペンタセンの実際の結晶構造の多形の粉末X線パターンとを比較した結果を示す図である。
【
図11】アントラセンの結晶構造の層内構造を示す図である。
【
図12】R3tの最適解を探索した結果を示す図である。
【
図13】アントラセンの結晶構造を推定するために仮定された層内構造を示す図である。
【
図14】回転角の最適解を探索した結果を示す図である。
【
図15】推定された結晶構造からシミュレーションした粉末X線パターンと、アントラセンの実際の結晶構造の粉末X線パターンとを比較した結果を示す図である。
【
図16】実施の形態に係る結晶構造推定装置の構成を示す図である。
【
図17】実施の形態に係る結晶構造推定方法の手順を示すフローチャートである。
【発明を実施するための形態】
【0013】
本開示の実施の形態として、分子の結晶構造を推定する技術について説明する。分子の実際の結晶構造を精確に予測するために、分子が取りうる全ての構造を候補として網羅的にエネルギーを計算し、最も安定な構造を探索するには、膨大な量の計算が必要となる。そこで、本発明者らは発想を転換し、分子が実際にどのような結晶構造をとるのかではなく、実用上有用な特性を発現するのに適した結晶構造をとると仮定した場合にどのような結晶構造になるのかを推測する技術に想到した。
【0014】
例えば、有機半導体、有機金属、有機超伝導体などとして実用が期待される有機分子は、層状の結晶構造を有し、かつ、層内の構造がπスタック構造やヘリンボーン構造などの密なπ電子の重なりを持つ構造となっていることが知られている。したがって、有機半導体、有機金属、有機超伝導体などとして有用な機能材料を創出する場合は、対象分子の結晶構造が層状構造であり、層内の構造がπスタック構造又はヘリンボーン構造であると仮定し、その仮定のもとで対象分子の結晶構造を推定する。これにより、エネルギーを計算すべき候補の数を大幅に低減させることができるので、対象分子の結晶構造の推定に要する労力、時間、及びコストを飛躍的に軽減させることができる。
【0015】
対象分子が、所望の特性を発現するのに好適な結晶構造をとったとしても、推測された結晶構造から予測される特性が良好ではないことや、そもそも所望の特性を発現するのに好適な結晶構造をとり得ないことが事前に分かれば、その対象分子を機能材料の候補から外すことができる。そして、推測された結晶構造から予測される特性が良好であることが期待される対象分子のみを機能材料の候補として実際に合成し、その特性を評価すればよい。これにより、有用な機能材料を創出する効率を飛躍的に向上させることができる。
【0016】
本実施の形態の結晶構造推定方法では、仮定される構造を規定するためのパラメータを設定し、パラメータの値を変化させつつ構造のエネルギーやセル体積などを計算して、安定又は最密な構造を与えるパラメータの値を決定する。単一分子の構造は実験から報告された構造やエネルギー計算から得られた構造を使ってもよい。結晶構造を規定するパラメータとしては、層内の隣接分子の水平及び垂直方向の変位や傾き、結晶セルの傾き、隣接層の変位などを使ってもよい。複数のパラメータの値を最適化する方法として、既知の任意の方法を用いてもよい。例えば、最急降下法、Nelder-Mead法、Newton-Raphson法、Pattern Search法などによって複数のパラメータの値を最適化してもよい。分子の結晶構造として多形が存在する場合があるので、大域的最適解だけでなく、局所的最適解も候補に含めてもよい。分子の結晶構造が所定の結晶対称性を有すると仮定される場合は、仮定される結晶構造を規定するためのパラメータの自由度を低くすることができる。これにより、結晶構造の推定に要する労力、時間、及びコストを更に軽減させることができる。
【0017】
本実施の形態の結晶構造推定方法では、複数の分子によって構成される局所構造から、分子の結晶の全体構造までを、複数の段階に分けて推定する。まず、所定の条件を仮定して複数の分子を配置した局所的なモデルの構造を、分子間の相互作用に基づいて推定する。つづいて、推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有するように、又は所定の対称操作によって複数配置した高次のモデルの構造を、分子間又はモデル間の相互作用に基づいて推定する。最終的に、推定された構造を有する高次のモデルを所定の条件を仮定して複数配置した結晶全体の構造を、安定性の指標に基づいて推定する。安定性の指標としては相互作用エネルギーや結晶の密度の計算を使ってもよい。これにより、結晶全体の構造を規定するための複数のパラメータの値を段階的に最適化することができるので、結晶構造の推定の効率及び精度を向上させることができる。なお、高次のモデルの構造を推定するための中間段階は、省略されてもよいし、複数回繰り返されてもよい。
【0018】
分子の結晶構造が所定の結晶対称性を有すると仮定される場合、対称操作の基本単位の構造の推定と、推定された構造の基本単位を対称操作によって配列した構造の推定とを、段階的に実行してもよい。例えば、並進対称性を有する結晶構造が仮定される場合、まず、並進操作の基本単位の構造を規定するためのパラメータの値を推定し、つづいて、並進操作の間隔及び方向を推定することにより、全体の結晶構造を段階的に推定することができる。また、層状構造を有する結晶構造が仮定される場合、まず、層内の構造を規定するためのパラメータの値を推定し、つづいて、層内構造が積層される間隔、方向、層間のずれの大きさなどを推定することにより、全体の結晶構造を段階的に推定することができる。これにより、結晶構造の推定の効率及び精度を向上させることができる。
【0019】
層内構造が映進対称性を有するヘリンボーン構造であると仮定される場合、映進操作の基本単位は隣接する2つの分子で構成されうる。この場合、層内構造を規定するためのパラメータは、隣接する2つの分子のなす角度と、隣接する2つの分子の間の距離を含んでもよい。層内構造がπスタック構造であると仮定される場合も同様に、層内構造を規定するためのパラメータは、隣接する2つの分子のなす角度と、隣接する2つの分子の間の距離を含んでもよい。層内構造を規定するためのパラメータは、層の積層方向に対する分子の傾きやずれの大きさなどを更に含んでもよい。
【0020】
分子の結晶構造が一次元の鎖構造やラダー構造などを含むと仮定される場合、一次元構造の推定と、推定された一次元構造を配列した構造の推定とを、段階的に実行してもよい。この場合、一次元構造を規定するためのパラメータは、隣接する2つの分子のなす角度、隣接する2つの分子の間の距離、一次元方向に対する分子の傾きなどを含んでもよい。これにより、シャトルコック型のフラーレンの誘導体や、一次元有機伝導体の類縁体などの結晶構造を効率的に推定することができる。
【0021】
分子の結晶構造が、分子構造が類似する別の分子の結晶構造に類似すると仮定されてもよい。例えば、結晶構造が既知である分子に置換基を導入したり、原子を置換したりした分子の結晶構造を推定する場合、既知の結晶構造における局所構造に類似する局所構造や、既知の結晶構造と同じ結晶対称性などが仮定されてもよい。これにより、分子構造が類似する複数の分子の結晶構造を網羅的に推定し、良好な特性を有する分子を効率的に探索することができる。
【0022】
実用する際の結晶の形態に応じて、分子の結晶構造が推定されてもよい。例えば、層状の結晶構造を有する分子をバルク単結晶として実用する場合は、層内構造を積層した構造における層間の相互作用を加味して結晶構造を推定する必要がある。分子を薄膜として実用する場合は、薄膜の膜厚や成膜方法などに応じて分子の結晶構造を仮定した上で、分子の結晶構造を推定してもよい。
【0023】
それぞれの構造の安定性の指標は、既知の任意の手法によって計算されてもよい。例えば、非経験的分子軌道法(ab initio法)、半経験的分子軌道法、経験的分子軌道法、密度汎関数(DFT)法、分散力補正DFT法、力場法などのエネルギー計算によって計算されてもよい。非経験的分子軌道法は、精度が高いが、多大な計算量と時間を要する。密度汎関数法は、計算量が少なく高速に計算できるが、精度は非経験的分子軌道法よりも低い。分散力補正DFT法は、密度汎関数法においてファンデルワールス力などの相互作用を加味するものであり、計算量は密度汎関数法とほぼ同じだが、密度汎関数法よりも精度が高い。力場法は計算量は極めて小さく短時間で計算できるが、精度は分散力補正DFT法よりも低い。安定性の指標は結晶の密度から計算されてもよい。結晶構造を推定する分子の分子構造、対称性、必要な推定精度などに応じて、使用する計算法が選択されてもよい。本実施の形態の結晶構造推定方法によれば、結晶構造の推定に要する労力、時間、及びコストが飛躍的に軽減されるので、より計算量の多い計算法を選択することができる。これにより、結晶構造の推定精度を向上させることができる。
【0024】
結晶構造を推定する上記の各ステップにおいて、分子構造が少なくとも1つの置換基を有する場合には、その置換基の構造を規定するためのパラメータ(結合距離、結合角、2面角など)や、主骨格と置換基の構造との関係性を規定するパラメータ(主骨格と置換基の結合距離、結合角、2面角など)を独立変数として考慮し、構造推定に使用してもよい。例えば、置換基を有する分子の置換基を取り除いた構造に対し、上記の方法によって層内構造を推定したのちに置換基を付与し、置換基の構造を規定するためのパラメータ又は主骨格と置換基との関係性を規定するパラメータを変数として、層内構造を再度推定してもよい。
【0025】
本実施の形態の技術により、結晶構造が既知である分子の別の結晶構造(多形)を推定することもできる。この場合、既知の結晶構造とは別の結晶構造が推定されるようにするために、既知の結晶構造とは異なる結晶対称性を有するように、又は、既知の結晶構造とは異なる対称操作によってモデルの構造を仮定し、仮定した構造のモデルから構築される結晶構造を推定してもよい。例えば、層状構造を有しない結晶構造が既知である分子が、層状構造を有する結晶構造をとると仮定した場合の結晶構造を推定してもよい。
【0026】
推定された結晶構造の存否を、計算されたエネルギーの値や、推定されたパラメータの値などから推定してもよい。例えば、計算された結晶構造のエネルギーの値が所定値よりも大きい場合、その結晶構造は実際には存在しないと推定してもよい。また、推定されたパラメータの値が、分子構造が類似する別の分子の既知の結晶構造からかけ離れている場合、その結晶構造は実際には存在しないと推定してもよい。これにより、有用な機能材料を創出する効率を更に向上させることができる。
【0027】
推定された結晶構造を有する分子の特性を、推定されたパラメータの値に基づいて推定してもよい。例えば、推定された結晶構造から分子の結晶の電子状態を計算することにより、有機半導体、有機金属、又は有機超伝導体としての特性を推定してもよい。これにより、有用な機能材料を創出する効率を更に向上させることができる。
【0028】
[実施例1]
本実施の形態の結晶構造推定方法の具体例として、ペンタセンの結晶構造を推定する手順について説明する。ペンタセンは、分子式がC
22H
14の芳香族炭化水素であり、有機半導体として利用可能な特性を有する。ペンタセンは、下記に示すように、5つのベンゼン環が直線状に縮合した分子である。
【化1】
【0029】
図1は、ペンタセンの分子構造を示す。
図1(a)は、ペンタセン分子の空間充填モデルの上面図であり、
図1(b)は、ペンタセン分子の空間充填モデルの正面図であり、
図1(c)は、ペンタセン分子の空間充填モデルの側面図である。ペンタセン分子は、対称性の高い平面構造を有する。
【0030】
図2は、ペンタセンの結晶構造を示す。
図2(a)は、ペンタセンの単結晶のX線構造解析結果を空間充填モデルで示す。ペンタセンの単結晶は、ペンタセン分子がab面内に配列した層がc軸方向に積層した層状構造を有する。
図2(b)は、層内の構造を示す空間充填モデルの上面図である。ペンタセンの単結晶は、層状構造を有し、かつ、各層の層内構造は映進対称性を有するヘリンボーン構造を有する。
【0031】
つづいて、本実施の形態の結晶構造推定方法によりペンタセンの結晶構造を推定し、
図2に示した実際の結晶構造を高精度に推定できることを示す。
【0032】
ペンタセンの結晶が、層状構造を有し、各層の層内構造は映進対称性を有するヘリンボーン構造を有すると仮定する。第1ステップにおいて、層内構造を推定する。第2ステップにおいて、層内における長軸の傾きを推定する。第3ステップにおいて、推定された層内構造を積層した結晶構造を推定する。
【0033】
図3は、ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層内構造を示す。第1ステップにおいてペンタセンの結晶の層内構造を推定するために、(1)ペンタセン分子の長軸が層に対して垂直に配向する、(2)ペンタセン分子が長軸方向に揃って配列する、(3)映進対称性を有するヘリンボーン構造となるようにペンタセン分子が層内に配列する、と仮定する。すると、層内構造は、
図3(a)に示すように、隣接する2分子の分子平面間のなす角度θと、隣接する2分子の中心間のベクトルR(R1、R2)の3つのパラメータのみで規定できる。θ、R1、R2が決まると、映進面が決まるので、この2分子を映進操作によって配列すると、
図3(b)のように層内構造が決まる。
図3(b)に示す層内構造において、1つのペンタセン分子の最近接分子は、
図3(c)に示すように、6つある。θ、R1、R2をパラメータとして、中央の分子と最近接の6分子のそれぞれとの間の2分子間の相互作用エネルギーの総和を計算することにより、θ、R1、R2を最適化して層内構造を推定する。本実施例では、分散力補正DFT法によって2分子間の相互作用エネルギーを計算した。
【0034】
図4は、θを固定し、最安定となるR1、R2を探索した結果を示す。
図4(a)は、θを50°に固定して、
図3(c)に示した分子間の相互作用の総和を算出した結果を示す。R1=4.5Å、R2=1.2Åにおいて、分子間の相互作用の総和が最小となる。
図4(b)の上段は、θを50°に、R2を1.2Åに固定し、R1を変化させたときの分子間の相互作用の総和を示し、
図4(b)の下段は、θを50°に、R1を4.5Åに固定し、R2を変化させたときの分子間の相互作用の総和を示す。すなわち、
図4(b)の上段は、
図4(a)中の横線における分子間相互作用の総和の値を示し、
図4(b)の下段は、
図4(a)中の縦線における分子間相互作用の総和の値を示す。このように、各θについて、R1、R2を最適化した。
【0035】
図5は、R1、R2に対する最小値をθについてプロットした結果を示す。θが50°のときに分子間相互作用の総和の値が最小となる。したがって、最も安定な層内構造を与えるパラメータの値は、θ=50°、R1=4.5Å、R2=1.2Åであった。
【0036】
ペンタセンの実際の結晶構造として、単結晶相、バルク相、薄膜相の多形が知られている。それぞれの結晶相におけるθ、R1、R2の値を表1に示す。
【表1】
【0037】
推定されたθ、R1、R2の値は、実際の結晶の値に近似しており、とくに単結晶相の値に近似していた。本実施の形態の結晶構造推定方法により、実際の結晶に近い層内構造が推定できることが示された。
【0038】
図6は、ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層内構造を示す。第2ステップにおいて層内における長軸の傾き(長軸方向のずれ)を推定するために、
図6(a)に示すように、中央の分子と同じ方向に配向した隣接する分子との長軸方向のずれをR3p、中央の分子と略T字になるように配向した隣接する分子との長軸方向のずれをR3tとし、R3pとR3tを最適化した。
【0039】
図7は、R3p、R3tの最適解を探索した結果を示す。R3p=0、R3t=0が大域的最適解であり、最安定構造であるが、ベンゼン環1個分のずれに対応する局所的最適解が存在することが示された。
【0040】
図8は、ペンタセンの結晶構造を推定するために仮定された層状構造を示す。第3ステップにおいて積層構造を推定するために、
図8(a)に示すように、ステップ2で推定された準安定の層内構造を仮定し、
図8(a)における左右方向の層間のずれをRa、
図8(a)における面外方向の層間のずれをRbとし、RaとRbを最適化した。RaとRbを、
図3(c)と同じ方向から見ると、
図8(b)のようになる。
【0041】
図9は、Ra、Rbの最適解を探索した結果を示す。
図9(a)は、ステップ2で推定された準安定な層内構造を積層した構造のセル体積の計算結果を示す。Raが0Åで、Rbがベンゼン環1個分程度のときに、最密構造となることが示された。準安定な層内構造は、分子の長軸方向にベンゼン環1個分ずつのずれを有しているので、そのずれが層間でちょうどかみ合うように積層されると最密構造となる。
図9(b)は、Rbに対するセル体積の最小値をRaについてプロットした結果を示す。層内構造を反映して、積層構造にも準安定な多形が存在している。
【0042】
ステップ2で推定された最安定な層内構造を積層した結晶構造(A)と、ステップ2で推定された準安定な層内構造を積層した結晶構造のうちステップ3で最安定となった結晶構造(B)と、ステップ2で推定された準安定な層内構造を積層した結晶構造のうちステップ3で準安定となった結晶構造(C)のエネルギーを計算した。結晶構造(A)のエネルギーは、-83.86[kcal/mol]であり、結晶構造(B)のエネルギーは、-84.38[kcal/mol]であり、結晶構造(C)のエネルギーは、-82.82[kcal/mol]であった。層内構造は結晶構造(A)が最安定であるが、層間の相互作用を加味すると、結晶構造(B)の方が全体として最安定となることが分かった。
【0043】
推定された結晶構造から粉末X線パターンをシミュレーションし、ペンタセンの実際の結晶構造の多形の粉末X線パターンと比較した結果を
図10に示す。結晶構造(A)が薄膜相に、結晶構造(B)が単結晶相に、結晶構造(C)がバルク相に、それぞれ対応することが分かった。本実施の形態の結晶構造推定方法により、ペンタセンの結晶構造の3つの多形を再現することができるとともに、単結晶相に対応する結晶構造(B)が最安定であることも正しく推定することができた。
【0044】
[実施例2]
本実施の形態の結晶構造推定方法の別の具体例として、アントラセンの結晶構造を推定した。アントラセンは分子式がC
14H
10の芳香族炭化水素であり、3つのベンゼン環が直線状に縮合した分子である。
【化2】
【0045】
なお、実施例1におけるペンタセンと同様に、アントラセンの単結晶構造は、ヘリンボーン構造を持つab面内に形成された分子層が、c軸方向に積層することで層状構造となる。また、層内のヘリンボーン構造を構成する分子同士の長軸は平行にはならず、
図11に示すようにねじれた方位をもって存在することが知られている。
【0046】
実施例1と同様に、アントラセンの結晶が層状構造を有し、各層の層内構造は映進対称性を有するヘリンボーン構造を有すると仮定する。第1ステップにおいて層内構造を推定し、第2ステップにおいて層内における長軸の傾きを推定する。第3ステップでは、推定された層内構造を積層し、結晶構造を推定する。
【0047】
第1ステップとして、
図3に示したヘリンボーン構造における一連の仮定を用いて、実施例1と同様の方法でθ、R1、R2の最適化を行ったところ、最も安定な層内構造を与えるパラメーターの値はθ=53°、R1=4.6Å、R2=1.0Åであった。
【0048】
第2ステップとして、上記の最適構造に対して層内の分子長軸の傾きを推定した。本実施例における最適化では、
図6に示すR3pを固定し、R3tのみの最適化を行った。R3tの最適解を探索し、R3tを傾き角(第1ステップにより得られた構造、すなわち分子長軸を揃えて配向している構造座標を0°とし、そこからの傾き角度を傾き角とした)に換算して得た結果を
図12に示す。
【0049】
分子長軸を揃えた構造に対応する(1)が大域的最適解であり最安定構造であるが、実施例1と同様、ベンゼン環1個分のずれに対応する局所的最適解(2)が存在することが示された。なお、(3)が実際に明らかにされているアントラセンの結晶構造における傾き角の値である。この結果は、本発明の手法が実際の結晶構造をより高精度に探索することが可能であることを示している。
【0050】
第3ステップでは、実施例1に記載の方法と同様の方法とともに、下記に示す方法で層内配置における分子のねじれを考慮した構造についても積層によって得られる結晶構造を推定した。
【0051】
本実施例における分子のねじれを考慮した方法ではまず、第1ステップにより得られた構造に対して分子長軸に垂直になるようにab面を取り(
図13(a))、さらに第2ステップにより得られた
図13(b)の分子重心からab面に垂直な方向に回転軸を取り(
図13(b)中、二重丸で示した軸)、その回転角をパラメータとして扱った。ヘリンボーン構造が図に示す映進面を有するため、回転の向きは映進面を境に反対の方位に決定され、層内における分子のねじれを考慮することができる。
【0052】
実施例1に記載の方法と同様の方法では、ペンタセンにおける薄膜層(分子の長軸が揃った構造)と、単結晶層(分子の長軸方向にベンゼン環1個分のずれを有する構造)に類似した構造が安定構造として得られ、その結晶構造のエネルギーは、それぞれ、-52.00[kcal/mol]、及び、-51.61[kcal/mol]であった。
【0053】
また、分子のねじれを考慮した方法として、回転角に対して決まる層内構造に対して積層した構造のセル体積が最小(最密構造)となる構造を探索し、その構造のエネルギーを計算して得た結果を
図14に示す。回転角が12°の時に相互作用エネルギーが最小となり、その結晶構造のエネルギーは、-51.79[kcal/mol]であった。
【0054】
分子のねじれを考慮した方法によって推定された結晶構造と、アントラセンの実際の結晶構造を比較した結果を粉末X線回折パターンのシミュレーション結果から比較すると、
図15に示すようにきわめて良い一致を示した。以上の結果から、本実施の形態の結晶構造推定方法により、アントラセンの結晶構造を高精度に推定することができたとともに、他の安定な結晶構造多形の存在を示唆する結果を得ることができた。
【0055】
図16は、実施の形態に係る結晶構造推定装置100の構成を示す。結晶構造推定装置100は、通信装置101、表示装置102、入力装置103、記憶装置120、及び制御装置110を備える。結晶構造推定装置100は、サーバ装置であってもよいし、パーソナルコンピュータなどの装置であってもよいし、携帯電話端末、スマートフォン、タブレット端末などの携帯端末であってもよい。
【0056】
通信装置101は、他の装置との間の通信を制御する。通信装置101は、有線又は無線の任意の通信方式により、他の装置との間で通信を行ってもよい。
【0057】
表示装置102は、制御装置110により生成される画面を表示する。表示装置102は、液晶表示装置、有機EL表示装置などであってもよい。入力装置103は、結晶構造推定装置100の使用者による指示入力を制御装置110に伝達する。入力装置103は、マウス、キーボード、タッチパッドなどであってもよい。表示装置102及び入力装置103は、タッチパネルとして実装されてもよい。
【0058】
記憶装置120は、制御装置110により使用されるプログラム、データなどを記憶する。記憶装置120は、半導体メモリ、ハードディスクなどであってもよい。記憶装置120には、相互作用計算アルゴリズム121が格納される。
【0059】
相互作用計算アルゴリズム121は、分子間の相互作用に基づいてモデルや結晶の構造のエネルギーを計算するためのアルゴリズムである。
【0060】
制御装置110は、対象分子設定部111、モデル構造設定部112、パラメータ設定部113、安定性指標計算部114、モデル構造推定部115、結晶構造推定部116、存否推定部117、及び特性評価部118を備える。これらの構成は、ハードウエア的には、任意のコンピュータのCPU、メモリ、その他のLSIなどにより実現され、ソフトウエア的にはメモリにロードされたプログラムなどによって実現されるが、ここではそれらの連携によって実現される機能ブロックを描いている。したがって、これらの機能ブロックがハードウエアのみ、またはハードウエアとソフトウエアの組合せなど、いろいろな形で実現できることは、当業者には理解されるところである。
【0061】
対象分子設定部111は、結晶構造を推定する対象となる分子を設定する。対象分子設定部111は、対象分子の分子構造を通信装置101又は入力装置103から取得して対象分子を設定する。
【0062】
モデル構造設定部112は、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を設定する。モデル構造設定部112は、所定の条件を通信装置101又は入力装置103から取得してモデルの構造を設定する。
【0063】
パラメータ設定部113は、モデル構造設定部112により設定されたモデルの構造を規定するためのパラメータを設定する。パラメータ設定部113は、パラメータの種類を通信装置101又は入力装置103から取得する。
【0064】
安定性指標計算部114は、モデル構造設定部112により設定されたモデルの構造の安定性の指標を計算する。安定性指標計算部114は、例えば、相互作用計算アルゴリズム121を用いて、モデルに含まれる分子間の相互作用のエネルギーを計算し、分子間の相互作用のエネルギーの総和を算出することにより、モデルの構造の安定性指標を計算する。安定性指標計算部114は、モデルの密度やセル体積など、別の安定性指標を計算してもよい。
【0065】
モデル構造推定部115は、パラメータ設定部113により設定されたパラメータの値を変更しつつ、モデル構造設定部112により設定されたモデルの構造の安定性の指標を安定性指標計算部114に計算させる。モデル構造推定部115は、計算された安定性指標に基づいてパラメータの値を最適化することにより、モデルの構造を推定する。
【0066】
結晶構造推定部116は、モデル構造推定部115により推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した結晶の構造を、安定性の指標に基づいて推定する。
【0067】
存否推定部117は、推定された構造の結晶の存否を、計算された構造の安定性指標の値や、推定された結晶構造のパラメータなどに基づいて推定する。
【0068】
特性評価部118は、推定された結晶構造を有する対象分子の特性を評価する。特性評価部118は、対象分子の結晶の電子状態などをバンド計算などにより評価する。
【0069】
図17は、実施の形態に係る結晶構造推定方法の手順を示すフローチャートである。結晶構造推定装置100の対象分子設定部111は、結晶構造を推定する対象となる分子を設定する(S10)。モデル構造設定部112は、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数の分子を配置したモデルの構造を設定する(S12)。パラメータ設定部113は、モデル構造設定部112により設定されたモデルの構造を規定するためのパラメータを設定する(S14)。安定性指標計算部114は、モデル構造設定部112により設定されたモデルの構造の安定性指標を計算する(S16)。モデル構造推定部115は、計算された安定性指標に基づいてパラメータの値を最適化することにより、モデルの構造を推定する(S18)。
【0070】
モデル構造設定部112は、推定された構造を有するモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した高次のモデルの構造を設定する(S20)。パラメータ設定部113は、モデル構造設定部112により設定された高次のモデルの構造を規定するためのパラメータを設定する(S22)。安定性指標計算部114は、モデル構造設定部112により設定された高次のモデルの構造の安定性指標を計算する(S24)。結晶構造推定部116は、モデル構造推定部115により推定された構造を有する高次のモデルを、所定の結晶対称性を有すること、又は、所定の対称操作に基づいて記述されることを仮定して複数配置した結晶の構造を、安定性指標に基づいて推定する(S26)。
【0071】
以上、本開示を、実施例をもとに説明した。この実施例は例示であり、それらの各構成要素や各処理プロセスの組合せにいろいろな変形例が可能なこと、またそうした変形例も本開示の範囲にあることは当業者に理解されるところである。
【0072】
実施の形態では、主に有機分子の結晶構造を推定する場合について説明したが、無機分子や高分子などの結晶構造も、本実施の形態の技術によって同様に推定することができる。また、金属、合金、金属化合物などの結晶構造も、本実施の形態の技術によって同様に推定することができる。
【符号の説明】
【0073】
100 結晶構造推定装置、111 対象分子設定部、112 モデル構造設定部、113 パラメータ設定部、114 安定性指標計算部、115 モデル構造推定部、116 結晶構造推定部、117 存否推定部、118 特性評価部、121 相互作用計算アルゴリズム。