(19)【発行国】日本国特許庁(JP)
(12)【公報種別】特許公報(B2)
(11)【特許番号】
(24)【登録日】2025-02-25
(45)【発行日】2025-03-05
(54)【発明の名称】同位体分布データ作成方法
(51)【国際特許分類】
C12Q 1/02 20060101AFI20250226BHJP
G01N 27/62 20210101ALI20250226BHJP
【FI】
C12Q1/02
G01N27/62 V
G01N27/62 D
(21)【出願番号】P 2023536249
(86)(22)【出願日】2021-07-19
(86)【国際出願番号】 JP2021027052
(87)【国際公開番号】W WO2023002548
(87)【国際公開日】2023-01-26
【審査請求日】2024-01-15
(73)【特許権者】
【識別番号】000001993
【氏名又は名称】株式会社島津製作所
(73)【特許権者】
【識別番号】504176911
【氏名又は名称】国立大学法人大阪大学
(74)【代理人】
【識別番号】110001069
【氏名又は名称】弁理士法人京都国際特許事務所
(72)【発明者】
【氏名】岡本 真美
(72)【発明者】
【氏名】山田 洋平
(72)【発明者】
【氏名】岡橋 伸幸
(72)【発明者】
【氏名】松田 史生
【審査官】海野 佳子
(56)【参考文献】
【文献】特開2005-245440(JP,A)
【文献】特開2005-034149(JP,A)
【文献】特表2010-529457(JP,A)
【文献】特開2018-040802(JP,A)
(58)【調査した分野】(Int.Cl.,DB名)
C12Q 1/02
G01N 27/62
JSTPlus/JMEDPlus/JST7580(JDreamIII)
CAplus/MEDLINE/BIOSIS(STN)
(57)【特許請求の範囲】
【請求項1】
安定同位体で標識された基質を含む培地で培養された細胞の代謝物が含まれる試料として、該代謝物の濃度が異なる複数の分析用試料を調製する調製工程と、
前記複数の分析用試料のそれぞれについて同じ分析条件で質量分析を行う分析工程と、
前記複数の分析用試料の各々について、前記質量分析で得られたマススペクトルデータを解析して各分析用試料に含まれる前記代謝物の種類を特定するとともに、同じ種類の代謝物であって前記安定同位体が取り込まれていない代謝物である非標識代謝物、及び/又は前記安定同位体が1又は複数個取り込まれた代謝物であ
る同位体異性体から成る代謝物群に含まれる代謝物の数、及び該代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークの信号強度を決定する決定工程と、
前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物に対応する前記代謝物群に含まれる代謝物の数及び該代謝物群に含まれる代謝物のマスピークの信号強度を、前記複数の分析用試料の間で比較することによって、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択する選択工程と、
各代謝物について選択された分析用試料のマススペクトルデータを解析することにより得られた該代謝物の同位体分布に関するデータを統合して、前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物の同位体分布データを作成するデータ作成工程と
を有する、同位体分布データ作成方法。
【請求項2】
前記選択工程が、
或る代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークの信号強度が所定の範囲内にあり、且つ、該代謝物群に含まれる代謝物の数が最も多い分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択する、請求項1に記載の同位体分布データ作成方法。
【請求項3】
前記選択工程が、さらに、
前記代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークのうち信号強度が最も大きいマスピークである最大マスピークを前記複数の分析用試料の間で比較し、最大マスピークの信号強度が最も大きい分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択する、請求項2に記載の同位体分布データ作成方法。
【請求項4】
前記選択工程が、
共通の分析用試料を選択することになる代謝物群の数が最大となるように、各代謝物群について選択されるスペクトルデータを決定する、
請求項1に記載の同位体分布データ作成方法。
【発明の詳細な説明】
【技術分野】
【0001】
本発明は、培養細胞内の代謝物における同位体分布のデータを作成する方法に関する。
【背景技術】
【0002】
生体内では、食事、薬物、運動、各種のストレス等の環境の影響を受けてゲノムDNAの転写や翻訳の変動に伴いタンパク質の活性が変化する。このような変化は、細胞内における有機酸、アミノ酸等の低分子化合物をはじめとする様々な物質の代謝に反映されると考えられている。したがって、細胞内の代謝の流れ(フラックス)を解析することは、特定の疾患の原因を解明したリ、創薬スクリーニング、物質生産細胞の生産性評価を行ったりする上で有用である。細胞内代謝フラックスを解析するための一連の技術は代謝フラックス解析と呼ばれている。
【0003】
代謝フラックス解析では、多くの場合、炭素の安定同位体である13Cで標識された基質を含む培地で細胞を培養し、その培養液を調製して分析用の試料を作製する。そして、試料に含まれる細胞内代謝物を定性的且つ定量的に測定し、その結果に基づき、細胞内に取り込まれた基質がいずれの代謝経路で消費され、どのような物質に取り込まれたかを推定する。例えば1位の炭素が13Cで置換されたグルコース(以下、[1-13C]グルコースとする)を基質として細胞を培養した場合に、細胞内に取り込まれた[1-13C]グルコースが解糖系で消費されると、1個の13Cを含むピルビン酸(標識ピルビン酸という)と13Cを含まないピルビン酸(非標識ピルビン酸という)が1:1の比で生じる。一方、[1-13C]グルコースがペントースリン酸経路で消費された場合は、非標識ピルビン酸のみが生成される。したがって、試料に含まれる代謝物の種類の一つとしてピルビン酸が特定され、且つ、そのピルビン酸全体に占める標識ピルビン酸の割合と非標識ピルビン酸の割合の試料内での分布(つまり、同位体の分布)が求められれば、解糖系とペントースリン酸経路の分岐比を推定することができる。
【0004】
試料に含まれる全ての代謝物についてその種類が特定され、さらに、各種の代謝物についてその同位体分布が求められた結果は、所定の解析ツールを用いて処理されることにより、代謝経路を図式化した代謝マップを得ることができる。代謝フラックス解析に利用される解析ツールとしてのソフトウェアは、それぞれ個別に、研究者や企業によって開発されている。また、近年では、生物医学分野で利用される各種ソフトウェア間でデータを互換可能にするため、アプリケーション・プログラミング・インターフェース(API)等に準拠した情報プラットフォームが提供されている(非特許文献1)。
【先行技術文献】
【非特許文献】
【0005】
【文献】Garuda Platform、特定非営利活動法人 システム・バイオロジー研究機構、[online]、[令和3年6月21日検索]、インターネット<http://www.garuda-alliance.org/about.html>
【発明の概要】
【発明が解決しようとする課題】
【0006】
細胞内にはさまざまな種類の代謝物が含まれる。そのため、代謝フラックス解析では、質量分析装置を用いて細胞内代謝物を包括的に定性分析、定量分析することが一般的に行われている。ところが、代謝物の種類によって細胞内の含有量は異なる。また、各種の代謝物について同位体分布を求めるためには、同じ種類の代謝物であって取り込まれた安定同位体の数だけ質量数が異なる複数の代謝物の量をそれぞれ測定する必要があるが、これらの代謝物の量は大きく異なることが多い。以下の説明では安定同位体が取り込まれた代謝物(代謝物の構成元素の一部が安定同位体に置き換わっている代謝物)を「同位体異性体」という。
【0007】
質量分析装置のダイナミックレンジにより、検出可能な信号強度範囲が制限されるため、1回の分析で、試料に含まれる全ての代謝物の含有量を測定することは不可能である。そこで従来は、或る試料について質量分析を行うことで得られたマススペクトル上に、信号強度が定量測定の上限値を超えている(飽和している)ピークや、下限値付近のピークが含まれる場合には、試料を希釈したり濃縮したりして分析用試料を作り直した上で再び質量分析を行う等、試行錯誤しながら代謝物の量を求めていた。このため、細胞内の全ての代謝物の種類を特定し、各種の代謝物における同位体異性体の分布を決定するための作業に時間がかかるという問題があった。
【0008】
なお、ここでは、代謝フラックス解析を目的する、質量分析装置を用いた細胞内代謝物の分析における問題点について述べたが、リピドミクス解析、プロテオミクス解析等を目的とする、質量分析装置を用いた低分子代謝物の分析においても同様の問題があった。
【0009】
本発明が解決しようとする課題は、細胞内代謝物における同位体異性体の分布に関するデータを迅速に得ることができる方法を提供することである。
【課題を解決するための手段】
【0010】
上記課題を解決するために成された本発明に係る同位体分布データ作成方法は、
安定同位体で標識された基質を含む培地で培養された細胞の代謝物が含まれる試料として、該代謝物の濃度が異なる複数の分析用試料を調製する調製工程と、
前記複数の分析用試料のそれぞれについて同じ分析条件で質量分析を行う分析工程と、
前記複数の分析用試料の各々について、前記質量分析で得られたマススペクトルデータを解析して各分析用試料に含まれる前記代謝物の種類を特定するとともに、同じ種類の代謝物であって前記安定同位体が取り込まれていない代謝物である非標識代謝物、及び/又は前記安定同位体が1又は複数個取り込まれた代謝物である同位体異性体から成る代謝物群に含まれる代謝物の数、及び該代謝物群に含まれるすべての代謝物に対応するマスピークの信号強度を決定する決定工程と、
前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物に対応する前記代謝物群に含まれる代謝物の数及び該代謝物群に含まれる代謝物のマスピークの信号強度を、前記複数の分析用試料の間で比較することによって、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択する選択工程と、
各代謝物について選択された分析用試料のマススペクトルデータを解析することにより得られた該代謝物の同位体分布に関するデータを統合して、前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物の同位体分布データを作成するデータ作成工程と
を有するものである。
【発明の効果】
【0011】
本発明によれば、試行錯誤を繰り返しながら質量分析を行い、細胞内代謝物の種類や量を決定していた従来手法に比べて、細胞内代謝物の同位体分布に関するデータを迅速に得ることができる。
【図面の簡単な説明】
【0012】
【
図1】本発明に係る同位体分布データ作成方法の一態様のフローチャート。
【
図2A】10倍希釈、100倍希釈、1000倍希釈された各分析用試料について得られた、7種類の代謝物群に含まれる代謝物のマスピークの相対信号強度を示す表。
【
図2B】10倍希釈、100倍希釈、1000倍希釈された各分析用試料について得られた、6種類の代謝物群に含まれる代謝物のマスピークの相対信号強度を示す表。
【
図3】解析ツール用に変換された同位体分布データ。
【
図5】代謝マップに挿入される、乳酸の代謝物群に含まれる代謝物の培養開始から12時間後、及び24時間後における含有量の比を表す棒グラフ。
【発明を実施するための形態】
【0013】
以下、本発明について詳細に説明する。
【0014】
図1は、本発明に係る同位体分布データ作成方法の一態様を示すフローチャートである。本発明に係る同位体分布データ作成方法では、まず、安定同位体で標識された基質を含む培地で培養された細胞内の代謝物を質量分析するための試料として、前記代謝物の濃度が異なる複数の分析用試料を調製する(ステップ1)。ステップ1は、本発明の調製工程に相当する。
【0015】
本発明において、分析対象試料は典型的には生体に由来する試料である。生体由来試料には、生体内から採取された血液、組織、細胞、あるいは生体内から生体外へ排出された糞便、尿、鼻汁、唾液などが含まれる。また、生体由来試料に限らず、植物体、土壌、海・河川・湖沼などから採取した水、下水、工場排水などを分析対象試料としてもよい。細胞としては、例えばカビ、酵母、細菌等の微生物、又は多細胞生物の細胞又は組織が挙げられる。本発明においては、分析対象試料自身である細胞、あるいは分析対象試料に含まれる細胞を培養して細胞内代謝物が含まれる原料試料を得る。この場合、細胞を培養している培地から培養液を採取し、その培養液を遠心分離したり、フィルタを用いて培養液に含まれる不要成分を濾過したりして、細胞のみを回収し、有機溶媒などを用いて細胞内代謝物を抽出することにより原料試料を調製し、その原料試料を異なる倍率で希釈したり、濃縮したりすることにより分析用試料は作成される。原料試料を濃縮する方法としては、固相抽出によって原料試料から溶媒を除去したり、原料試料を調製する際に加える溶媒の量を減らしたりすることが考えられる。原料試料を希釈したり濃縮したりすることにより、分析用試料に含まれる代謝物の濃度を低くしたり高くしたりすることができる。原料試料を調製する際、質量分析のための前処理として、細胞に含まれる代謝物のイオン化を妨げる物質を除去する処理を行うと良い。
【0016】
続いて、複数の分析用試料はそれぞれ質量分析装置に導入され、同じ条件で、分析用試料に含まれる代謝物の質量分析が行われる(ステップ2)。ステップ2は、本発明の分析工程に相当する。質量分析装置は特に限定されないが、分解能が高く、精密質量の測定が可能なタイプの装置が用いられることが好ましい。このような質量分析装置として例えば四重極型質量分析装置、飛行時間型質量分析装置等が挙げられる。また、液体クロマトグラフ質量分析装置、ガスクロマトグラフ質量分析装置を用いることもできる。また、質量分析装置のイオン化の方法としては、ESI(エレクトロスプレーイオン化)法、APCI(大気圧化学イオン化)法、MALDI(マトリックス支援レーザー脱離イオン化)法を用いることができる。
【0017】
安定同位体は典型的には13Cであるが、これ以外にも2H、15N、18Oなどが挙げられる。また、安定同位体で標識された基質とは、生体が取り込むことが可能な化合物であり、炭素、水素、窒素、酸素などを含む化合物である。一例を示すと、安定同位体13Cで標識されたグルコースであり、具体的には、1位の炭素が13Cで置換されたグルコース、又は全ての炭素が13Cで置換されたグルコースが挙げられる。
【0018】
安定同位体で標識された基質を含む培地で細胞を培養すると、細胞内に基質が取り込まれ、代謝経路で消費される。その結果、安定同位体が取り込まれた代謝物(同位体異性体)、或いは安定同位体が取り込まれていない代謝物(非標識代謝物)が生成されるため、分析用試料について質量分析を行うことにより得られたマススペクトル上には、非標識代謝物及び/又は同位体異性体のマスピークが現れる。通常、非標識代謝物のマスピークの質量電荷比m/zは既知である。また、非標識代謝物と同位体異性体は、その代謝物に取り込まれた同位体の数だけ質量数が異なる。したがって、非標識代謝物のマスピークが特定されれば、その非標識代謝物と同じ代謝物を構成する同位体異性体のマスピークを特定することができる。
【0019】
そこで本発明に係る方法では、全ての分析用試料について質量分析が行われ、マススペクトルデータが得られると、そのマススペクトルデータを解析して各分析用試料に含まれる前記代謝物の種類を特定するとともに、非標識代謝物、及び/又は同位体異性体から成る代謝物群に含まれる代謝物の数、及び該代謝物群に含まれるすべての代謝物に対応するマスピークの信号強度を決定する(ステップ3)。ステップ3は、本発明の決定工程に相当する。
【0020】
続いて、決定された、全ての種類の代謝物に対応する前記代謝物群に含まれる代謝物の数及び該代謝物群に含まれる全ての代謝物のマスピークの信号強度を、複数の分析用試料の間で比較し、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択する(ステップ4)。ステップ4は本発明の選択工程に相当する。
【0021】
分析用試料を選択する基準は、例えば以下のようなものとすることができる。
<基準1>
或る代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークの信号強度が所定の範囲内にあり、且つ、該代謝物群に含まれる代謝物の数が最も多い分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択する。
【0022】
前記所定の範囲とは、質量分析装置に設定された検出可能範囲、或いは、検出可能範囲の中でも特に信頼性の高い範囲をいう。
【0023】
例えば、分析用試料として、原料試料を10倍希釈、100倍希釈、1000倍希釈した試料がある場合に、各試料のマススペクトルデータを解析することにより種類が特定された代謝物がm個あるときは、それらm個の代謝物に対応するm個の代謝物群の全てについて、上記基準1を満たす試料が10倍希釈試料、100倍希釈試料、1000倍希釈試料のいずれであるかを調べる。基準1では、細胞内の含有量が少ない代謝物の場合は希釈倍率が小さい試料が、含有量が多く、且つ、比較的均等に安定同位体が分布している試料の場合は希釈倍率が大きい試料が、それぞれ同位体分布を求めるための分析用試料として選択される傾向にある。
【0024】
<基準2>
基準1に基づき選択した結果、同位体分布を求めるための分析用試料が複数選択された場合は、さらに、前記代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークのうち信号強度が最も大きいマスピークである最大マスピークを前記複数の分析用試料の間で比較し、最大マスピークの信号強度が最も大きい分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択する。
【0025】
基準2により、マスピークの信号強度が大きく、信頼性の高いマススペクトルデータに基づき、その代謝物における同位体分布を求めることができる。
【0026】
<基準3>
共通の分析用試料を選択することになる代謝物群の数が最大となるように、各代謝物群について選択されるスペクトルデータを決定する。
基準3は、1つの試料から得られたマススペクトルデータを使ってできるだけ多くの代謝物の同位体分布に関するデータを作成することができるため、希釈倍率や濃縮倍率の違いが分析結果に及ぼす影響を抑えることができる。
【0027】
各代謝物について選択された分析用試料のマススペクトルデータを解析することにより得られた該代謝物の同位体分布に関するデータを統合して、全ての種類の代謝物の同位体分布データを作成する(ステップ5)。ステップ5は本発明のデータ作成工程に相当する。
【0028】
本発明の方法により作成されるデータは、例えばオープンプラットフォーム「Garuda」で処理することができ、処理した結果は、例えば代謝経路を図式化した代謝マップに挿入される。代謝マップに含まれる代謝経路としては、微生物の基本的な代謝経路であるグルコース代謝系を挙げることができる。グルコース代謝系には、解糖系、ペントースリン酸経路、クエン酸回路等が含まれる。
【0029】
[具体例]
次に、具体的な例を挙げて本発明に係る同位体分布データ作成方法を説明する。
基質として[1-13C]グルコースを含む培地で微生物(大腸菌)を培養し、経時的に培養液を採取して、フィルタろ過により菌体ペレットを得た。そして、該菌体ペレットに含まれる菌体構成たんぱく質を有機溶媒を用いて抽出することで原料試料を調製し、この原料試料を10倍、100倍、1000倍に希釈して分析用試料を作成した。以下、それぞれ10倍希釈試料、100倍希釈試料、1000倍希釈試料と呼ぶ。
【0030】
続いて、これら10倍~1000倍希釈試料をLC-MS(液体クロマトグラフ質量分析装置)で分析し、各試料についてマススペクトルデータを得た。これらのマススペクトルデータを解析した結果、代謝物の種類としてアラニン、アスパラギン酸、グルタミン酸、プロリン、グリシン、セリン、ピルビン酸、乳酸、クエン酸、αケトグルタル酸、コハク酸、フマル酸、リンゴ酸が特定され、これら13種類の代謝物の非標識代謝物と同位体異性体(代謝物群)のマスピークが特定された。
【0031】
13種類の代謝物のうち、ピルビン酸と乳酸は解糖系の代表的な代謝物であり、クエン酸、αケトグルタル酸、フマル酸、コハク酸、リンゴ酸はクエン酸回路の代表的な代謝物である。これらの他、解糖系の代謝物には、グルコース6-リン酸、ホスホエノールピルビン酸等がある。また、上述したペントースリン酸経路の代表的な代謝物として、エリスロース4-リン酸、リブロース5-リン酸等が知られている。アラニン、アスパラギン酸、グルタミン酸、プロリン、グリシン、セリンは、アミノ酸の代表的な代謝物である。
【0032】
図2A及び
図2Bは、各試料のマススペクトルデータを解析することにより得られた、上記13種類の代謝物群に含まれる各代謝物のマスピークの信号強度の相対値を示している。
図2A及び
図2Bにおいて、「M+n」の「n」は代謝物に取り込まれた
13Cの数を表す。つまり、「M+0」は代謝物に
13Cが取り込まれていないことを、「M+1」は代謝物に1個の
13Cが取り込まれていることを表す。「M+0」が付されている代謝物は本発明の非標識代謝物に相当し、「M+1」~「M+6」が付されている代謝物は同位体異性体に相当する。
【0033】
また、
図2A及び
図2Bにおいて、信号強度の相対値が「0」の代謝物は、試料に含まれていないか、あるいは含まれていても微量であり、その信号強度が下限値を下回っていた代謝物であることを示している。したがって、
図2A及び
図2Bより、例えば「アラニン」の代謝物群には1個の非標識代謝物と3個の同位体異性体が含まれており、「プロリン」の代謝物群には1個の非標識代謝物と5個の同位体異性体が含まれていたことが分かる。
【0034】
なお、
図2A及び
図2Bでは、各代謝物群に含まれる代謝物の信号強度の合計が「1」となるように、各代謝物の信号強度を相対値で表している。したがって、
図2A及び
図2Bに示されている相対値から、各代謝物群の同位体分布がわかる。例えば、アラニンの代謝物群の10倍希釈サンプルの各代謝物の信号強度から、「M+0」:27%、「M+1」:8.6%、「M+2」:15%、「M+3」:
49%、「M+4」:0%であることがわかる。
【0035】
本実施の形態では、上述した基準1~3に従い10倍希釈サンプル、100倍希釈サンプル、1000倍希釈サンプルの間で解析結果を比較し、同位体分布を求めるためのサンプルを選択する。
【0036】
例えば、グルタミン酸の代謝物群の場合、10倍希釈サンプル、100倍希釈サンプルでは、6種類の代謝物(1種類の非標識代謝物と5種類の同位体異性体)のマスピークが検出されたのに対して、1000倍希釈サンプルから検出されたマスピークは0個であったことから、1000倍希釈サンプルは選択対象から除かれる。また、
図2Aに示されている数値を比較しただけでは10倍希釈サンプルと100倍希釈サンプルの間に違いは見られないが、100倍希釈サンプルでは、マスピークの信号強度が全体的に低く安定していなかったのに対して、10倍希釈サンプルでは、マスピークの信号強度の再現性があった。以上より、グルタミン酸の代謝物群では、同位体分布を求めるためのサンプルとして10倍希釈サンプルが採用された。
【0037】
また、例えば乳酸の代謝物群の場合も、
図2Bに示されている数値を比較しただけではわからないが、10倍希釈サンプル、100倍希釈サンプルでは、「M+0」のマスピークの信号強度が検出可能範囲を超えていた(飽和していた)ため、同位体分布を求めるためのサンプルとして1000倍希釈サンプルが採用された。
【0038】
図3は、13種類の代謝物のうちの一部の代謝物(乳酸、アラニン、グリシン、コハク酸)の培養開始から12時間後及び24時間後における同位体分布データを抜粋して示している。
図3の同位体分布データは、13種類の代謝物群に含まれる非標識代謝物及び同位体異性体のマスピークの信号強度について、上述した基準1又は基準1と基準2、或いは基準3を満たす分析用試料として10倍~1000倍希釈試料のいずれかを選択し、それぞれのマススペクトルデータを解析することにより得られた該代謝物の同位体分布に関するデータを統合することにより作成されたものである。
【0039】
図3に示される同位体分布データを所定の解析ツールで解析した結果は、例えば
図4に示すような代謝マップに挿入される。代謝マップに挿入される解析結果としては、例えば
図5に示すような棒グラフが挙げられる。
図5に示す各棒グラフの左側は培養12時間後における乳酸のマスピークの信号強度(相対値)を、右側は培養24時間後における乳酸のマスピークの信号強度(相対値)を示している。これらの棒グラフから、取り込まれた
13Cの数が0~2個の乳酸は、培養12時間のときよりも培養24時間のときの方が含有量が減少したのに対して、取り込まれた
13Cの数が3個及び4個の乳酸は、培養12時間のときよりも培養24時間のときの方が含有量が増加したことが分かる。したがって、このような棒グラフを代謝マップに挿入することにより、代謝フラックスを視覚的に理解することができる。
【0040】
[態様]
上述した例示的な実施形態は、以下の態様の具体例であることが当業者により理解される。
【0041】
(第1項)
本発明の一態様に係る同位体分布データ作成方法は、
安定同位体で標識された基質を含む培地で培養された細胞の代謝物が含まれる試料として、該代謝物の濃度が異なる複数の分析用試料を調製する調製工程と、
前記複数の分析用試料のそれぞれについて同じ分析条件で質量分析を行う分析工程と、
前記複数の分析用試料の各々について、前記質量分析で得られたマススペクトルデータを解析して各分析用試料に含まれる前記代謝物の種類を特定するとともに、同じ種類の代謝物であって前記安定同位体が取り込まれていない代謝物である非標識代謝物、及び/又は前記安定同位体が1又は複数個取り込まれた代謝物である同位体異性体から成る代謝物群に含まれる代謝物の数、及び該代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークの信号強度を決定する決定工程と、
前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物に対応する前記代謝物群に含まれる代謝物の数及び該代謝物群に含まれる代謝物のマスピークの信号強度を、前記複数の分析用試料の間で比較することによって、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択する選択工程と、
各代謝物について選択された分析用試料のマススペクトルデータを解析することにより得られた該代謝物の同位体分布に関するデータを統合して、前記決定工程で決定された全ての種類の代謝物の同位体分布データを作成するデータ作成工程と
を有するものである。
【0042】
第1項の同位体分布データ作成方法では、代謝物の濃度が異なる複数の分析用試料を予め調製しておき、これら複数の分析用試料を同じ条件で質量分析することによりマススペクトルデータを得る。そして、前記複数の分析用試料の各々について得られたマススペクトルデータを解析して、各分析用試料に含まれる代謝物の種類を特定するとともに、各種の代謝物に対応する代謝物群に含まれる非標識代謝物と同位体異性体の数、および該代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークの信号強度を決定する。或る代謝物群に含まれる非標識代謝物は、マススペクトル上に観察される既知の質量数のマスピークから特定することができる。一方、同位体異性体は、非標識代謝物のマスピークに対して、安定同位体の数に応じた分だけ質量数が異なる複数のマスピークから特定することができる。なお、代謝物群には、非標識代謝物と同位体異性体の両方が含まれる場合、安定同位体の数が異なる複数の同位体異性体のみが含まれる場合があり得る。
【0043】
各種の代謝物に対応する代謝物群に含まれる代謝物の数、および該代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークの信号強度が決定されると、続いて、それら決定された代謝物の数および信号強度を、前記複数の分析用試料の間で比較して、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択し、決定工程で決定された全ての種類の代謝物の同位体分布に関する一つの同位体分布データを作成する。各代謝物の同位体分布に関するデータを作成するための分析用試料を選択する条件としては、該代謝物の代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークの信号強度が所定の範囲内にあること、代謝物群に含まれる代謝物の数が多いこと、前記代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークの信号強度の再現性が良いこと、あるいは安定していること、等が挙げられる。また、共通の分析用試料を選択することになる代謝物群の数が最大となるように、各代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料を選択するようにしても良い。
【0044】
このような第1項の同位体分布データ作成方法によれば、試行錯誤を繰り返しながら質量分析を行い、細胞内代謝物の種類や量を決定していた従来手法に比べて、細胞内代謝物の同位体分布に関するデータを迅速に得ることができる。
【0045】
(第2項)
第1項の同位体分布データ作成方法において、
前記選択工程が、或る代謝物群に含まれる全ての代謝物に対応するマスピークの信号強度が所定の範囲内にあり、且つ、該代謝物群に含まれる代謝物の数が最も多い分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択するものとすることができる。
【0046】
第2項の同位体分布データ作成方法では、細胞内の含有量に応じた適切な分析用試料のマススペクトルデータを使って、その代謝物における安定同位体に関するデータを得ることができる。
【0047】
(第3項)
第2項の同位体分布データ作成方法においては、前記選択工程が、さらに、
前記代謝物群に含まれる代謝物に対応するマスピークのうち信号強度が最も大きいマスピークである最大マスピークを前記複数の分析用試料の間で比較し、最大マスピークの信号強度が最も大きい分析用試料を、その代謝物群の代謝物の同位体分布を求めるための分析用試料として選択するものとすることができる。
【0048】
第3項の同位体分布データ作成方法では、マスピークの信号強度が大きく、信頼性の高いマススペクトルデータに基づき、その代謝物における同位体分布を求めることができる。
【0049】
(第4項)
第1項の同位体分布データ作成方法においては、
前記選択工程が、共通の分析用試料を選択することになる代謝物群の数が最大となるように、各代謝物群について選択されるスペクトルデータを決定するものとすることができる。
【0050】
第4項の同位体分布データ作成方法では、1つの分析用試料から得られたマススペクトルデータを使ってできるだけ多くの代謝物の同位体分布に関するデータを作成することができるため、希釈倍率や濃縮倍率の違いが分析結果に及ぼす影響を抑えることができる。