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平成19(行ケ)10308審決取消請求事件

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裁判所 請求棄却 知的財産高等裁判所
裁判年月日 平成20年6月12日
事件種別 民事
当事者 被告Y
原告日立ツール株式会社
対象物 被覆硬質部材
法令 特許権
特許法36条4項2回
特許法29条1項3号2回
特許法36条6項1号1回
特許法36条5項1号1回
特許法36条4項1号1回
特許法36条1回
キーワード 実施56回
審決47回
無効13回
分割5回
特許権2回
訂正審判1回
主文 1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事件の概要 本件は,原告が 「被覆硬質部材」という名称の発明について特許権を有してい, るところ,同特許を無効とする旨の審決を受けたことから,その請求人である被告 に対し,審決の取消しを求めた事案である。

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判決文

平成20年6月12日判決言渡

平成19年(行ケ)第10308号 審決取消請求事件

口頭弁論終結日 平成20年4月24日

判 決

原 告 日立ツール株式会社

同訴訟代理人弁理士 星 野 昇

被 告 Y

同訴訟代理人弁理士 小 栗 昌 平

同 本 多 弘 徳

主 文

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1 請求

特許庁が無効2006−80268号事件について平成19年7月20日にした審決を取り消す。

第2 事案の概要

本件は,原告が,「被覆硬質部材」という名称の発明について特許権を有しているところ,同特許を無効とする旨の審決を受けたことから,その請求人である被告に対し,審決の取消しを求めた事案である。本件特許に係る発明は,切削工具や耐摩工具の耐摩耗性,耐欠損性向上のために,基体表面に物理蒸着法(PVD)により炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆させる場合に,耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質部材の提供を目的とするものとされているが,本件訴訟においては,明細書の記載の適法性,すなわち,明細書に発明が特許法36条の規定に適合するように開示されているかをめぐり,明細書のいわゆるサポート要件及び実施可能要件の適合性の有無が主な争点となっている。1 特許庁における手続の経緯原告は,平成7年1月31日,名称を「被覆硬質部材」とする発明につき特許出願をし(甲18の1),平成11年12月24日に設定登録を受けた(特許第30号,請求項の数2。甲18の2。以下「本件特許」という。。)平成12年9月1日付け及び同月4日付けでそれぞれ特許異議の申立てがされたが,平成14年10月17日付けで明細書の訂正請求がされ(乙19。以下,訂正後の明細書を「本件明細書」という。),同月18日付けで,同訂正を認めて特許を維持するとの異議の決定(乙20)がされた。しかるところ,平成18年12月26日に被告から特許無効の審判請求がされ,同請求は,無効2006−80268号事件として特許庁に係属した。特許庁は,平成19年7月20日,本件特許を無効とする旨の審決をし,その謄本は,同年8月1日,原告に送達された。2 特許請求の範囲本件明細書による特許請求の範囲の請求項1及び2に係る発明の内容は,次のとおりである(甲18の2,乙19。以下,それぞれ「本件発明1」「本件発明2」,といい,これらを併せて「本件発明」ということがある。。)【請求項1】基体表面にPVD法によってTiとTi以外の周期律表4a,5a,a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材において,前記PVD法はアークイオンプレーティングで,皮膜のX線回折パターンにおける(200)面のピーク強度をI(200),

(111)面のピーク強度をI(111)としたときに,次式Ia=I(200)/I(111)で表されるIa値が2.3以上であることを特徴とする被覆硬質部材。【請求項2】前記皮膜の層とAlN,周期律表4a,5a,6a族の炭化物,窒化物,炭窒化物,のうち1つから選ばれる層を2層以上の多層としたことを特徴とする請求項1記載の被覆硬質部材。3 審決の理由審決の理由は,別紙審決のとおりであり,本件発明についての特許を無効とすることに係る部分の要旨は,以下の(1)ないし(3)のとおりである。

(1) 本件発明1は,TiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材の皮膜につき,そのIa値が2.3以上であると規定するものであるところ,本件明細書の発明の詳細な説明では,当該Ia値が2.3以上を採択することにより,発明の課題を解決し,発明の目的を達成することができることが当業者において理解できる程度に記載されていない。また,本件発明2は,本件発明1の構成をすべて引用するものであり,本件発明には,上記と同じ理由によって,本件明細書の発明の詳細な説明の項に記載されたものであるとはいえない。したがって,本件出願は,特許法36条5項1号(平成6年法律第116号による改正前の特許法36条5項1号の趣旨をいうものと解される。以下「旧36条5項1号」という。)に規定する要件を満たしていない。

(2) 本件発明1は,TiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材につき,そのIa値が2.3以上であると規定するものであるところ,本件明細書の発明の詳細な説明では,該3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物からなる皮膜を採択した場合につき,発明の課題を解決し,発明の目的を達成することができることが当業者において理解できる程度に記載されていない。また,本件発明2は,本件発明1の構成をすべて引用するものであり,本件発明には,上記と同じ理由によって,本件明細書の発明の詳細な説明の項に記載されたものであるとはいえない。したがって,本件出願は,旧36条5項1号に規定する要件を満たしていない。

(3) 本件発明1は,TiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材の皮膜につき,そのIa値が2.3以上であると規定するものであるところ,本件明細書では,その被覆硬質部材の製造条件として,皮膜組成の成分割合等のIa値にとって重要であるパラメータにつきその開示を欠くものであり,その製造条件のみでは皮膜のIa値を決定ないしは特定することができず,所定のIa値を保有する被覆硬質部材の皮膜を製造することができないものであって,本件明細書の詳細な説明には,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の構成及び効果が記載されていない。また,本件発明2は,本件発明1の構成をすべて引用するものであり,本件発明には,上記と同じ理由によって,本件明細書の発明の詳細な説明には,当業者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の構成及び効果が記載されているということはできない。したがって,本件出願は,特許法36条4項(上記改正前の36条4項の趣旨をいうものと解される。以下「旧36条4項」という。)に規定する要件を満たしていない。

第3 原告主張の審決取消事由

原告主張の審決の取消事由は,以下の1及び2のとおりである。

1 取消事由1(旧36条5項1号違反の判断の誤り)

(1) 審決は,実施例以外の箇所では,当該Ia値の条件を満たすことで当該課

題を解決し,発明の目的を達成することを当業者において理解できる程度に記載されていないとする(17頁10∼15行)。しかしながら,通常,本件発明のような場合,実施例の数としては数例が一般的であり,それらにより発明の目的,課題解決の方向が示されておれば,実施例以外の箇所ではIa値の条件を満たされていることで十分当業者が理解できると考えられ,それが理解できる程度に記載されていないという認定の方が,技術内容の把握ができていない状態で判断したのではないかとの疑義を抱かざるを得ない。

(2) また,審決は,Ia値が,5,10,20等についても,発明の課題を解

決し,目的を達成することができる程度に記載されていないともする(18頁1∼行)。しかしながら,発明が解明されている範囲をどのように把握するかは,明細書に開示された技術事項を根拠にしなければならないが,おそらく審決では特許請求の範囲においてIa値が2.3以上であるとの記載にことよせて,前記のようなIa値の記載のない部分について当業者に認識できるように記載されていないと判断していると考えられる。さらに,前記Ia値のように,上限を限定しない場合には範囲が漠然としており ,技術的に的確性を欠くといわれることもあるが,実施例に裏付けられた結果から,より特性の向上する範囲が予測できる場合には,上限の限定をすることなく記載しても何ら不明瞭ではなく,そのような表現も使用されている。したがって,この表現が直ちに明細書の記載不備に当たるものとはいえない。

(3) さらにまた,明細書には,スクラッチ試験機による臨界荷重値の評価結果

より皮膜の密着性が向上していることが記載されており,さらに平成14年10月日付けの訂正後の本件明細書には, 0006】ないし【0014】において,【本件発明が実施できる条件が記載されており,当業者であればこの記載事項に基づいて追試可能なことは明らかであって,異議決定をした審判官も本件発明が明細書に記載されていることを認定して訂正を認め,特許を維持したものである。

(4) 以上の点から,本件明細書の記載が旧36条5項1号に規定する要件を満

たしていないとする審決の認定は誤りである。

(5) 原告は,請求項2の発明(本件発明2)を削除し,また,同様に請求項1

の発明(本件発明1)における「・・・3元系の」も削除する内容の平成19年8月30日付けの訂正審判の請求を行っており,特許庁に同審判事件が係属している。

2 取消事由2(旧36条4項違反の判断の誤り)

(1) 審決は,本件明細書には当業者が容易にその実施をすることができる程度

に記載されていない点で,特許法36条4項に規定する要件を満たしていないと認定する(23頁10行以降)。審決は,「本件明細書に当該Ia値が2.3以上のものを得るうえで特有の製造方法が記載されていない点で 」とするが,本件発明は「製造方法」の発明ではなく,「物の発明」に係るものであり,特有の製造方法がどうして必要なのか理解できない。

(2) いみじくも,審決は,Ⅵ−3(23頁29行以降)において,本件発明と

公知例との対比を行い,相違点として,公知例にはIa値が示されていないことを挙げている。本件発明の「物」は,公知の方法で製造可能であり,審決で引用した上記公知例においても本件発明の「物」ができている場合もある。すなわち,本件発明は,既にあった物の中から,特定の技術的目的・効果を奏するもののみを選び出しているのである。

(3) 本件発明は,発明を特定する技術的条件として特許請求の範囲に「Ia値

が2.3以上」を規定しており,この条件を満たしている「物」でさえあればよいところ,審決が無効とした理由のいずれもそれに該当するものではないものであって,公知の製造法でもできる「物」の発明である本件特許の無効理由として「特有の製造方法の記載がない」としてされた審決は,「物」の発明である本件発明の技術内容の把握を誤つており,それに基づいてされた認定判断は違法というほかない。本件発明に係る被覆硬質部材の製造については,本件明細書の記載から明らかなように,製造手段は公知のPVD法によって行われるものであるところ,審決においても,公知例との相違点は被覆硬質部材皮膜のIa値が2.3以上であることとしており,本件発明品は,従来公知の製法で製造可能であり,公知方法でできた被覆硬質部材における皮膜につき,特許請求の範囲に規定したような皮膜のIa値が.3以上のものが本件発明品になるのであって,審決が要求するような特有の製造方法で行うものではない。

第4 被告の反論

原告主張の取消事由はいずれも理由がない。

1 取消事由1(旧36条5項1号違反の判断の誤り)について

(1) 本件発明1について検討すると,本件明細書の発明の詳細な説明には,4

点の本発明例7,8,9,10の膜質の記載がある(甲18の2の3頁参照)。ア ここで,特許異議の申立てに関する経緯をみると,審決書3頁記載のように ,以下の事情がある。

① 本件特許に対してされた特許異議申立てに係る平成13年1月24日付けの

取消理由通知書(乙12)に対して,原告は,平成13年4月5日付けの特許異議意見書(乙13)を提出して意見を述べ,かつ,同日付けの訂正請求書(乙14)を提出し ,「Ia値が1.5以上」を「Ia値が2.3以上」にするなどの訂正をした。なお,本件出願の当初明細書(甲18の1)において,本発明例7∼12として,下記記載(実施例の表1,表2)がされていた。番号 膜質 ピーク強度比 臨 界 荷 重 値 切削長 m)((N)

7 (Ti,Al)N 2.3 54 2.9

8 (Ti,Zr)N 1.6 50 3.1

9 (Ti,V)N 2.5 45 2.7

10 (Ti,Hf)N 3.1 47 3.0

11 (Ti,Cr)N 2.7 51 2.8

12 (Ti,Nb)N 1.9 42 2.7

これによると,最も高性能で切削長が長かったのは本発明例8(訂正前)である「 Ti,Zr)N」のIa値「1.6」であった。(

② その後,この訂正請求書(乙14)は,訂正請求取下書(乙15。審決参考

資料9)により取り下げられた。

③ そして,平成14年10月8日付けで,「本件出願は,明細書及び図面の記

載が下記の点で不備のため,特許法第36条第4項乃至第6項に規定する要件を満たしていない。 記 本件発明の『Ia値』の臨界的条件やその効果に関する記載が不明確である。」ことを理由とする取消理由通知書(乙16)が発送された。

④ これに対し,原告は,平成14年10月17日付けで特許異議意見書(乙1

)を,同年9月17日付けの実験結果報告書(乙18)を添付して,提出し,かつ,同年10月17日付けで訂正請求書(乙19)を提出して「Ia値が2.3以上」とする訂正を含む訂正を請求した。原告が提出した上記「実験結果報告書」(乙18)には,その表1と表3において,本件明細書には全く記載されていない「 Ti,Al)N」の「Ia値」「ピ( (ーク強度比」)が1.5(訂正により本件発明の範囲外となった1.5以上で2.未満の範囲内)の試料番号3と,「Ia値」が2.3を超える試料番号5∼8が記載されている。

⑤ また,原告は,上記④の特許異議意見書(乙17)において,「本件特許公

報の実施例における密着性の評価,耐摩耗性の評価は,本件特許が ,『TiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系』であり,異なる金属を用いた本発明例・比較例しか記載していないため,今回新たに本願発明と同様の条件で,同じ組みわせでIa値が2.3以上の密着性及び耐摩耗性の試験を行いました。成膜後に,X線回折により算出したIa値,スクラッチ試験により求めた臨界強度及びフライス切削による耐摩耗性の測定結果は実験報告書に記載した通りであります。」と主張し(2頁20∼26行 )「実験結果報告書,より,・・・,TiAlの窒化物の皮膜を,Ia値で0.5∼10.3迄,8試料,・・・,臨界強度及び切削試験による耐摩耗性では,Ia値を2.3以上とする事により臨界強度も向上し,フライス試験による・・・切削長が安定しています。従って,本件発明は ,(Ti,Al)N・・・のIa値の限定範囲について,前述の通り,確固とした臨界的意義を有するものであり,決して,結晶構造の同定のデータより簡単に導き出せるものではなく,よって,特許法第36条第3∼5項の規定に違反するものではなく,十分に特許性を具備しているものと確信いたします。」と主張した(2頁27∼3頁9行)。

⑥ その後,平成14年10月18日付けで「訂正を認める。特許第30167

号の請求項1ないし2に係る特許を維持する 。」との異議の決定(乙20)がされている。イ 以上によれば,原告は,異議申立ての審理においては,膜質が異なるので明細書に記載された本発明例同士を比較することはできないとの理由から,当初明細書に記載された本発明例の番号7のIa=2.3のTiAlN膜を根拠とし,これに後付けで提出した実験結果報告書に基づいてIa値の臨界的意義を説明しておきながら,本件訴訟の訴状等では,数例(4つ)の発明例が記載されているので十分当業者が理解できると考えられると主張しており,明らかに以前の主張とは矛盾する主張となっている。ウ そして,本件明細書の発明の詳細な説明における記載だけでは,本件出願時の技術常識を参酌して,請求項1の数式の「Ia値が2.3以上」の範囲であれば所望の効果(性能)が得られると当業者において認識できる程度に具体例を示して記載しているとはいえず,特許請求の範囲の請求項1の記載が,明細書のサポート要件に適合しないことは明らかであるところ(知財高裁平成17年(行ケ)第10号同年11月11日判決参照 ),特許異議申立ての審理において原告がした主張は,本件特許請求の範囲の記載が旧36条5項1号に規定する要件を満たしていないことを裏付けるものである。

(2) 上記の本件特許に対してされた特許異議の申立てに関する経緯に照らして,

本件発明1についてみると,本件明細書の発明の詳細な説明には,出願当初の記載が変更され,実施例として,例示的な4点つの発明例7,8,9,10の膜質の記載のみが残り,1つの膜質については1点の例しか記載がなく,4つの膜質それぞれに対し「1点」の記載があるのみであるから,本件明細書の発明の詳細な説明には「実施例の数としては数例」の記載があるとはいえず,実施例の記載はないというべきである。すなわち,本件明細書の「表1」及び「表2」には,以下のように, 本発明例」「∼10が「比較例」に対して記載されているにすぎない(甲18の1,2,審決書14,15頁の「表1」及び「表2」参照)。膜質 Ia値(表1,表2ではピーク強度比と記載)(Ti,Al)N 2.3(本発明例7) 1.2(比較例1)(Ti,V)N 2.5(本発明例8) 1.1(比較例3)(Ti,Hf)N 3.1(本発明例9) 0.8(比較例4)(Ti,Cr)N 2.7(本発明例10) 1.4(比較例5)このような本件明細書の発明の詳細な記載からすれば,4点の窒化物以外の窒化物や,全く記載されていない炭化物の炭窒化物について,どのように作ることができるのか,その「Ia値」がどのようなものか,全く不明であり,当業者にとって請求項1に記載された発明が発明の詳細な説明に記載されたものと理解することは到底できない。

(3) 原告は,審決が「Ia値」に関して「5,10,20等の数値」に言及し

ていること(17,18頁)に疑念を呈する。しかしながら,審決は ,「本件発明1は,本件請求項1の記載からみて明らかなように,・・・Ia値が2.3以上であるとの構成を採用するものであるところ,当該『Ia値が2.3以上』といえば,その数値が(200)面と(111)面の比をいうだけのものであるから上限なく高い値の比が想定でき,かつ,その比の値に制限があるとする特段の事情も存在しないことから,当該Ia値の数値としては,.3を超える高い数値,すなわち,5,10,20等の数値を含み得るものである。(17頁25∼35行)と認定判断するものであり,これに誤りはない 。」 「Ia値が2.3以上」といえば,その上限に制限がないことは極めて明白である。なお,審決は,前記に続いて「事実,当該Ia値として,5,10程度のものが存在することは特許異議の申立の審理段階で原告自身が提出した特許異議意見書に添付した実験結果報告書(参考資料12 )(判決注:乙18)の表1∼4において確認される。(17頁36∼38行)と言及する。」そして,前記審決の前記説示からみても,特許請求の範囲の記載に係るサポート要件違反に関する判例(前掲知財高裁平成17年11月11日判決)を考慮してみても,審決が,サポート要件の認定判断に関して「実験結果報告書」の記載の参照記載を認めたとは到底解する余地はないところ,審決は,原告自ら提出したものの記載から,本件明細書の記載における「2.3以上」は,それに上限がないこと,少なくとも5,10程度のものを含むこと,を原告自ら認めて言及していたことを確認的に説示したものである。

(4) 原告は,「前記Ia値のように,上限を限定しない場合には範囲が漠然とし

ており,技術的に的確性を欠くといわれることもあるが,実施例に裏付けられた結果から,より特性の向上する範囲が予測できる場合には,上限の限定をすることなく記載しても何ら不明瞭ではなく,そのような表現も使用されている。したがって,この表現が直ちに明細書の記載不備に当たるものとはいえない 。」と主張する。しかし,これは,何らの根拠もない矛盾した主張であり,また,本件明細書の記載に基づかない主張であって,原告独自の誤った見解に基づくものである。すなわち,本件明細書の発明の詳細な説明においては ,「バイアス電圧値を中電圧(50∼100V) 高電圧(150∼200V)・・・の条件で・・・作製し」, ,と記載され【0007】,また,「高バイアス電圧値」も「低バイアス電圧値」も本件発明に係る課題を達成することができないことが記載され,本件発明に係る課題を達成するためのものとして「中電圧を最適バイアス電圧値」とすることが記載されている【0009】。その記載にもかかわらず,本件請求項1の「Ia値」は,発明の詳細な説明の表1からみて,「中バイアス電圧」ではない「高バイアス電圧値」で作製されたものの範囲が除かれているものの,「低バイアス電圧値」で作製されたものの範囲が除かれているとはいえない。すなわち, Ia値が2.3以上」「の範囲には,発明の詳細な説明において本件発明に係る課題を達成することができないとされた「低バイアス電圧値」も含まれていることを否定できない。このような本件明細書の発明の詳細な説明からすれば,本件請求項1に係る発明が発明の詳細な説明に記載されたものであるためには ,「Ia値が2.3以上」では明確ではなく,「Ia値」に上限が必要であることは明らかである。したがって,「前記Ia値のように上限を限定しない場合には,範囲が漠然としており,技術的に的確性を欠く」ことは明らかである。原告は,「実施例に裏付けられた結果から,より特性の向上する範囲が予測できる場合」に言及するが,本件明細書の発明の詳細な説明には実施例を裏付ける記載はないに等しく,また ,「より特性の向上する範囲が予測できる」と理解できるようなものはない。

(5) 原告は,平成19年8月30日付けの請求項1及び請求項2の訂正(請求

項2の発明(本件発明2)を削除し,また,同様に請求項1の発明(本件発明1)における「・・・3元系の」も削除)を前提に審決の誤りを主張する。しかし,請求項2の「多層」及び請求項1の「3元系」については,本件出願当初の明細書にも本件明細書にもそれを裏付ける記載が全くなかったのであるから,仮に,請求項2の削除及び請求項1の 3元系」「 の削除自体が当然のこととしても,請求項1の「2元系」についても,本件出願当初の明細書にも本件明細書にもそれを支持する記載があるとはいえないから,原告主張の訂正をするとしても,依然として,本件特許請求の範囲の記載にはサポート要件違反の記載不備があることには変わりがない。

2 取消事由2(旧36条4項違反の判断の誤り)について

(1) 原告は,本件発明が「物」の発明であるから,本件明細書に「Ia値が2.

以上のものを得るうえで特有の製造方法が記載されていない」としても問題にならない旨主張をする。しかしながら ,「物」の発明の場合,その物を作ることができなければその発明を実施することができないことが明らかであり,その物を作ることができるように発明の詳細な説明に記載されていなければ,発明の詳細な説明の記載に実施可能要件違反の記載不備があることも明らかである(知財高裁平成17年(行ケ)第10号平成18年2月16日判決参照)。本件明細書の発明の詳細な説明において,4点の実施例(本発明例7,8,9,)の作製方法としては,いずれも審判書における甲1ないし4に記載の作製方法と変わらないものが記載されているにすぎず 審決書6頁1行∼8頁末行参照)( ,本件発明1の「物」を作るための具体的な記載がない。そして,具体的な記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願時の技術常識に基づき当業者が本件発明1の物を製造できる特段の事情もないので,本件発明の 物」「 をいかにして作るのか,当業者に不明であって,本件発明を実施することができない。したがって,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,実施可能要件を満たすものとはいえず,記載不備があることは明らかである。そして,この記載不備は,平成19年8月30日付け訂正申立てのとおりに請求項1の記載を訂正したとしても解消されるものではない。

(2) 原告は,審決書Ⅵ−3には公知発明との対比における相違点として公知文

献にはIa値が示されていないことが記載されている旨主張をする。しかしながら,原告が指摘する審決書Ⅵ−3 23頁29行∼31頁17行) ,( は特許法29条1項3号に係る無効理由 3頁33∼37行)( に関するものであって ,実施可能要件違反の旧36条4項に係る無効理由(4頁29行∼5頁9行)についての審決の認定判断を示す審決書Ⅵ−2(22頁1行∼23頁28行)とは全く別個の無効理由に係るものであって,原告の上記主張は失当である。

(3) 原告は,「本件発明の『物』は,公知の方法で製造可能であり,審決で引用

した公知例においても本件発明の『物』ができている場合もある。すなわち,本件発明は,既にあった物の中から,特定の技術的目的,効果を奏するもののみを選び出しているのである。」と主張するが,これには何らの根拠もなく,本件明細書には原告が主張するような記載は何もされておらず,

(原告の主張)

は明細書の記載に基づかない独自の誤った見解に基づくものである。なお,本件発明は「既にあった物」の中にあるとの

(原告の主張)

は,本件発明は路傍の石を拾い集めるがごときのものである,というに等しいものであり,本件発明が特許保護に値する「発明」であるというにはほど遠いものであることを自認するものである。

(4) 原告は「本件発明は,発明を特定する技術的条件として特許請求の範囲に

『Ia値が2.3以上』を規定しており,この条件を満たしている『物』でさえあればいいのであって」と主張するが,請求項1に係る Ia値が2.「 3以上」 「物」のをいかに作るかについて,本件明細書の発明の詳細な説明には具体的な記載がされていないのであるから,同説明には,当業者が容易に実施をすることができる程度に,その発明の構成及び効果が記載されているということができないことは明らかであり,「本件請求項1に記載の発明については,本件明細書に当該Ia値が2.以上のものを得るうえで特有の製造方法が記載されていない」とした審決の認定判断(23頁15∼17行)に誤りはない。

第5 当裁判所の判断

1 取消事由1(旧36条5項1号違反の判断の誤り)について

(1) 本件明細書(平成14年10月17日付けで訂正後のもの。甲18の2の

内容を乙19によって訂正したもの。)には,以下のアないしサの記載がある。ア 「・・・PVD,CVD法などで基体上にTi,Zr等の炭化物,窒化物を形成した場合,基体表面の結晶性,及び成膜装置でのガス雰囲気,条件により特定の面に配向した皮膜を得ることができる。特開昭56−156767号公報には,超硬合金またはサーメットの基体表面に被覆されたTi,Zr,Hfの炭化物,窒化物,炭窒化物の皮膜の結晶性が(200)面に強く配向されてなる被覆硬質合金について記載されている。このようにして形成される皮膜の結晶配向性を制御することにより膜特性を向上させることが出来,被覆硬質合金の耐摩耗性,耐欠損性は改善される。【0004】」イ 「 発明が解決しようとしている課題】よって,前記(Ti,Al)N膜に【ついてはTi/Al比により皮膜の特性も変わるため,高硬度の膜を得ることが難しい。さらに皮膜の結晶配向性について検討されたことはなく,皮膜と基体との密着性に問題がある。本発明は,前記問題点を解決したものであり硬質部材上にTiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆させる場合に,皮膜の結晶配向性を最適にすることにより密着性を向上させ耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質部材の提供を目的とする。【0005】」ウ 「 課題を解決するための手段】本発明者は,超硬部材表面にTiとTi以【外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系の窒化物を被覆して皮膜の結晶配向性と基体との密着性について検討を行った結果,最適な結晶配向面があることを見い出した。すなわち,本発明の被覆硬質部材は,基体表面にPVD法によってTiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材において,前記PVD法はアークイオンプレーティングで,皮膜のX線回折パターンにおける(200)面のピーク強度をI(200)(111)面のピーク強度を,I(111)としたときに,次式Ia=I(200)/I(111)で表されるIa値が2.3以上であることを特徴としている。・・・」【0006】エ 「 作用】表1に,各種合金ターゲットを用意してアークイオンプレーティ【ング法により,バイアス電圧値を中電圧(50∼100V ),高電圧(150∼2V),反応ガス(窒素)圧力10-1 Paの条件で各種皮膜を3μm作製し,前記Ia値が異なる場合のスクラッチ試験機による臨界荷重値の評価結果を示す。 ,尚成膜に用いた基体は84WC−3TiC−1TiN−3TaC−9vol%Co組成の超硬工具である。【0007】」オ 「 表1】【試料 膜質 ピーク 臨界荷重値 バイアス番号 強度比 (N) 電圧値(V)

1 (Ti,Al)N 1.2 31 150

比 2 (Ti,Zr)N 0.9 27 200較 3 (Ti,V)N 1.1 24 180例 4 (Ti,Hf)N 0.8 25 160

5 (Ti,Cr)N 1.4 28 150

6 (Ti,Nb)N 1.0 21 190

本 7 (Ti,Al)N 2.3 54 80発 8 (Ti,V)N 2.5 45 60明 9 (Ti,Hf)N 3.1 47 90例 10 (Ti,Cr)N 2.7 51 60」【0008】カ 「ところで,表1より,Ia=I(200)/I(111)の値はバイアス電圧値により調節することが可能である。中電圧と低バイアス電圧値では適当なイオン衝撃のために残留圧縮応力も小さく密着性に優れているが,高バイアス電圧値にするとイオン衝撃が大きくなって残留圧縮応力も大きくなり膜は剥離し易くなる。しかしながら逆に50V未満の低バイアス電圧値では充分なイオン衝撃が得られないために膜は剥離してしまう。そのため,本検討に用いたアークイオンプレーティング装置では,中電圧を最適バイアス電圧値とした。【0009】」キ 「これから,どの皮膜においてもIa=I(200)/I(111)が1.を越えると臨界荷重値が大きくなり密着性が向上することがわかる。このことから,Iaの値は2.3以上と決定した。本発明は前記窒化物の他に炭化物,炭窒化物にも適用することができる 。また本発明はTiとTi以外の周期律表4a,5a,a族,Alの中から選ばれる3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物にも適用することができる。さらにまた本発明は皮膜を形成する基体を限定するものではなく,WC超硬合金やサーメット,ハイス,或いは耐摩合金等用途に応じて適宜選択すれば良い。以下,実施例により本発明を詳細に説明する。【0010】」ク 「 実施例】84WC−3TiC−1TiN−3TaC−9vol%Coの【組成になるように市販の平均粒径2.5μmのWC粉末,同1.5μmのTiC粉末,同TiN粉末,同1.2μmのTaC粉末をボールミルにて96時間混合し,乾燥造粒の後,SEE42TNのスローアウェイチップをプレスし,焼結後,所定の工具形状に加工した。【0011】」ケ 「このチップ上にアークイオンプレーティング法により各種合金ターゲットを用意して,表2に示すような皮膜を形成した。そしてこれらの被覆超硬工具を以下の切削条件によりフライス切削試験を行い最大摩耗量が0.2mmに達するまでの切削長を求めた。その結果を表2に併記する。被削材 SKD61切削速度 250m/min送り 0.2mm/刃切り込み 2.0mm切削油 なし工具形状 SEE42TN−G9Y」【0012】コ 「 表2】【試料 膜厚 ピーク 切削長 摩耗状態番号 μm 強度比 (m)

1 3 1.2 2.3 正常摩耗

従 2 3 0.9 2.1 〃来 3 3 1.1 1.9 剥離による異常摩耗例 4 3 0.8 1.7 〃

5 3 1.4 2.2 〃

6 3 1.0 2.1 〃

本 7 3 2.3 2.9 正常摩耗発 8 3 2.5 2.7明 9 3 3.1 3.0 〃例 10 3 2.7 2.8 〃」【0013】サ 「本発明の被覆硬質部材はX線回折パターンの強度比Ia=I(200)/I(111)が2.3以上の皮膜を有することにより,基体との密着性を向上させ耐摩耗性に優れ格段に長い寿命が得られるものである。【0015】」

(2) 上記(1)によれば,審決における認定判断(16頁17行∼17頁9行)の

とおり,本件明細書には,①Ia値につき,従来,Ti,Zr,Hfの炭化物,窒化物,炭窒化物の皮膜の結晶配向性を制御することにより膜特性を向上させることができ,被覆硬質合金の耐摩耗性,耐欠損性は改善されるが,(Ti,Al)N膜については皮膜の結晶配向性について検討されたことはなく,皮膜と基体との密着性に問題があるところ,本件発明1は,この課題を解決するものであること,②硬質部材上にTiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆させる場合において,皮膜の結晶配向性を最適にすることにより皮膜と基体との密着性を向上させ耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質部材を提供することを発明の目的とするものであること,③本件明細書の請求項1に記載される構成を採択することにより,皮膜と基体との密着性を向上させた摩耗性に優れ格段に長い寿命の被覆硬質部材が得られたこと,④具体的には,本件発明の実施例である,膜質(Ti,Al)Nで被覆され,皮膜のIa値が,それぞれ2.3〔本発明例7〕 2.5〔本発明例8〕 3.1〔本, ,発明例9〕及び2.7〔本発明例10〕である各超硬工具については,皮膜と基体との密着性を向上させ耐摩耗性に優れ格段に長い寿命のものであること,⑤そのIa値が本件発明1の数値を満たさない比較例である,膜質(Ti,Al)Nで被覆され,皮膜のIa値が,それぞれ1.2〔従来例1〕,0.9〔従来例2〕,1.1〔従来例3〕,0.8〔比較例4〕,1.4〔比較例5〕及び1.0〔比較例6〕である各超硬工具については,皮膜と基体との密着性が十分でなく耐摩耗性に劣ること,が記載されているということができる。一方,本件明細書においては,当該被覆硬質部材の皮膜につきIa値を2.3以上とすることで,発明の課題を解決し発明の目的を達成することができることが,上記実施例の記載があることを除き,見当たらない。

(3) ところで,旧36条5項は ,「第3項4号の特許請求の範囲の記載は,次の

各号に適合するものでなければならない。」と規定し,その1号において,「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであること」と規定している(なお,平成6年法律第116号による改正により,同号は,同一文言のまま特許法36条6項1号として規定され,現在に至っている。以下「明細書のサポート要件」という。)。特許制度は,発明を公開させることを前提に,当該発明に特許を付与して,一定期間その発明を業として独占的,排他的に実施することを保障し,もって,発明を奨励し,産業の発達に寄与することを趣旨とするものである。そして,ある発明について特許を受けようとする者が願書に添付すべき明細書は,本来,当該発明の技術内容を一般に開示するとともに,特許権として成立した後にその効力の及ぶ範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにするという役割を有するものであるから,特許請求の範囲に発明として記載して特許を受けるためには,明細書の発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決できることを当業者において認識できるように記載しなければならないというべきである。旧36条5項1号の規定する明細書のサポート要件が,特許請求の範囲の記載を上記規定のように限定したのは,発明の詳細な説明に記載していない発明を特許請求の範囲に記載すると,公開されていない発明について独占的,排他的な権利が発生することになり,一般公衆からその自由利用の利益を奪い,ひいては産業の発達を阻害するおそれを生じ,上記の特許制度の趣旨に反することになるからである。そして,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断すべきものである 知財高裁平成17年 行ケ)( ( 第10042号同年11月11日判決参照)。以下,上記の観点に立って,本件について検討する。

(4) 本件発明1の課題は,上記(1)及び(2)のとおり,(Ti,Al)N膜につい

ては皮膜の結晶配向性について検討されたことはなく,皮膜と基体との密着性に問題があるところ,硬質部材上にTiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆させる場合において,皮膜の結晶配向性を最適にすることにより皮膜と基体との密着性を向上させて耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質部材の提供を目的とするところにあると認められ,当該被覆硬質部材の皮膜につきIa値を2.3以上とすることが同目的を達成するために有効であることが客観的に開示される必要があるというべきである。この点,本件発明の場合,これまで知られていなかった被覆硬質部材の皮膜におけるX線回折パターンにおけるI(200)とI(111)面の強度比に着目し,その比率であるIa=I(200)/I(111)と皮膜の強度・剥離特性の間に相関があることを見い出したものであり,その結果として,Ia値が2.3以上の皮膜が良い性能を持つとしたものであるが,何ゆえ,そのような値であると皮膜の特性が良くなるのかにつき,因果関係,メカニズムは一切記載されておらず,またそれが当業者にとって明らかなものといえるような証拠も見当たらない。また ,「Ia値が2.3以上」といえば,その数値が(200)面と(111)面の比をいうだけのものであるから,上限なく高い値の比が想定でき,かつ,その比の値に制限があるとする特段の事情も存在しないことから,当該Ia値の数値としては,2.3を大きく超える高い数値をも含み得るものであって,実際にも,原告作成の実験結果報告書(乙18)によれば,Ia値が10を超える値の被覆も存在することが示されている。これに対し,本件明細書では,Ia値について,本件発明の実施例として開示されたIa値は,上記(1)オの【表1】における本発明例7ないし10の2.3から.1までという非常に限られた範囲の4例だけであり,これらの実施例をもって ,上限の定まらないIa値2.3以上の全範囲にわたって,本件発明の課題を解決し目的を達成できることを裏付けているとは到底いうことができない。

(5) 以上述べたところに照らせば,本件明細書に接する当業者において,本件

発明1に記載される構成を採択することによって皮膜と基体との密着性を向上させて耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質部材を提供するとの課題を解決できると認識することは,本件出願時の技術常識を参酌しても,不可能というべきであり,本件明細書における本件発明1に関する記載が,明細書のサポート要件に適合するということはできない。そうすると,本件発明1の特許請求の範囲の記載を引用して構成される本件発明についても,本件発明1と同様にサポート要件に適合していないと解すべきことになる。

(6) もっとも,原告は,通常,本件発明のような場合,実施例の数としては数

例が一般的であり,それらにより発明の目的,課題解決の方向が示されておれば,実施例以外の箇所ではIa値の条件を満たされていることで十分当業者が理解できると考えられると主張する。確かに,数例の実施例によってもサポート要件違反とされない事例も存在するであろうが,そのような事例は,明細書の特許請求の範囲に記載された発明によって課題解決若しくは目的達成等が可能となる因果関係又はメカニズムが,明細書に開示されているか又は当業者にとって明らかであるなどの場合といえる。ところが,本件発明1の場合,上記のとおり,本件明細書には,何ゆえIa値が.3以上であると皮膜の特性が良くなるのかにつき,因果関係,メカニズムは一切記載されておらず,また,それが当業者にとって明らかなものといえるような証拠も見当たらないものであるから,原告の上記主張は採用することはできない。

(7) また,原告は,本件明細書においてIa値の上限の記載がないことにつき,

実施例に裏付けられた結果から,より特性の向上する範囲が予測できる場合には,上限の限定をすることなく記載しても何ら不明瞭ではないので,明細書の記載不備には当たらない旨主張する。ア 本件発明1の場合,明細書に開示された発明の実施例は,4例だけであるところ,これらを,前記(1)オの【表1】と同コの【表2】から摘記すると以下のとおりである。本発明例 膜質 ピーク強度比 臨界荷重値 N) 切削長 m)( (

7 (Ti,Al)N 2.3 54 2.9

8 (Ti,V)N 2.5 45 2.7

9 (Ti,Hf)N 3.1 47 3.0

10 (Ti,Cr)N 2.7 51 2.8

そして,上記値においては,臨界荷重値は値が大きいほど密着性が向上して剥離強度が強まり,また切削長が長いほど耐摩耗性が高まることを意味することになるから,これを実施例を順に見ていくと,剥離強度が強い順では実施例7,10,9,となり,耐摩耗性が高い順では実施例9,7,10,8となるが,ピーク強度比では高い順に実施例9,10,8,7とある。このように,ピーク強度比と臨界荷重値,切削長の関係はバラバラであって,何らかの相関関係を見い出すことはできず,明細書に開示された4つの実施例から,ピーク強度比が2.3以上のすべての範囲において本発明の課題が達成可能であると認めることはもちろん,

(原告の主張)

するピーク強度比の上限を予測することも不可能であるといわざるを得ない。イ これに対し,原告実施に係る追加実験の実験結果報告書(乙18)には,実験結果として,次の記載がある。「試験結果

(1)I(200)/I(111)強度比と密着性試験結果

スクラッチ試験による臨界荷重を(TiAl)N皮膜の結果を表1に,(TiAl)(CN)皮膜の結果を表2に,それぞれ示す。表1.(TiAl)N膜の強度比と臨界荷重値試料 ピーク強度比 臨界荷重値 バイアス番号 (200)/(111) (N) 電圧値(V)

1 0.5 20 150

2 1.2 31 120

3 1.5 41 100

4 2.3 54 80

5 3.0 62 60

6 5.2 62 50

7 7.5 80 40

8 10.3 85 30

表2.(TiAl)(CN)膜の強度比と臨界荷重値試料 ピーク強度比 臨界荷重値 バイアス番号 (200)/(111) (N) 電圧値(V)

9 0.5 19 150

10 1.2 28 120

11 2.0 26 100

12 2.3 45 70

13 3.0 51 60

14 4.0 52 50

15 5.1 58 40

16 8.2 63 30

表1より ,(TiAl)N皮膜では,スクラッチ試験における臨界強度値がバイアス電圧を調整することにより,臨界強度が向上し,密着性が高まる傾向を示した 。次いで,表2より,(TiAl)(CN)皮膜,C/(C+N)比を0.2では,臨界強度値はバイアス電圧を調整することにより,特に,バイアス電圧70V以上で向上している。(乙18の2頁)」上記記載によれば,バイアス電圧値が下がるほど,Ia値が上昇するとともに,臨界荷重値(N)が上昇しており,皮膜形成のために加えるバイアス電圧値が低いほど,Ia値が高くなり,剥離強度も向上している結果となっている。一方,本件明細書には ,「ところで,表1より,Ia=I(200)/I(11)の値はバイアス電圧値により調節することが可能である。中電圧と低バイアス電圧値では適当なイオン衝撃のために残留圧縮応力も小さく密着性に優れているが,高バイアス電圧値にするとイオン衝撃が大きくなって残留圧縮応力も大きくなり膜は剥離し易くなる。しかしながら逆に50V未満の低バイアス電圧値では充分なイオン衝撃が得られないために膜は剥離してしまう。そのため,本検討に用いたアークイオンプレーティング装置では,中電圧を最適バイアス電圧値とした。【0」】との記載がある。同記載によれば,バイアス電圧値が中電圧であることが望ましく,低い電圧になりすぎると,皮膜の剥離強度が低下する,すなわち密着性が低下することになる。そうすると,バイアス電圧値が低くなるとIa値が高くなる傾向が見られる乙1の試験結果と,バイアス電圧値が低くなりすぎると密着性が低下するという本件明細書の【0009】の記載を併せ考慮すると,本件発明1の「密着性を向上させ耐摩耗性,耐欠損性に優れた被覆硬質膜」を得るという課題を達成可能なIa値は,何らかの上限を有することは明らかであるということができる。しかしながら,本件明細書の記載からその上限は明らかではない。以上によれば,原告の上記主張は採用することができない。

(8) さらに,原告は,本件明細書には,スクラッチ試験機による臨界荷重値の

評価結果より皮膜の密着性が向上していることが記載され,本件発明が異議の決定により特許された訂正明細書には本件発明が実施できる条件が記載されており,当業者であれば,この記載事項に基づいて追試可能なことは明らかである旨主張する。しかしながら,後記2のとおり,本件発明が当業者において容易に実施できるものであるとはいえないものである上に,実施例の範囲で追試が可能であることと,Ia値について上限の設定されていないことに起因する特許がその請求の範囲すべてで発明の課題等が解決可能かのように記載されていることは,別の問題である。また,原告主張に係る特許異議の決定(乙20)における判断が,本件審決及び本件訴訟の判断を何ら拘束するものではないことはいうまでもないところ,同異議申立手続においては,特許法29条1項3号,2項違反に該当するか否かが主たる争いとなっており,明細書の記載要件が直接的な争いとなっていたものでもないから(乙20),異議の決定において特許が維持されたことをもって上記判断に影響を与えるものとはいえない。

(9) したがって,本件明細書の特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要

件に適合しておらず,旧36条5項1号に違反するとした審決の判断の誤り(取消事由1)をいう

(原告の主張)

は,理由がないことになる。

2 取消事由2(旧36条4項違反の判断の誤り)について

さらに,念のため,原告が旧36条4項違反の判断の誤りをいう点についても検討する。

(1) 旧36条4項は,「前項第3号の発明の詳細な説明には,その発明の属する

技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果を記載しなければならない。 と規定する(な」お,現行の特許法においては,36条4項1号が明細書の発明の詳細な説明の記載につき「経済産業省令で定めるところにより,その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものであること。」との要件に適合するものでなければならないことを規定しており,旧36条4項とほぼ同様の内容が規定されている。以下「実施可能要件」ということがある。。)

(2) 金属表面技術便覧〔改訂新版〕(3版発行:昭和54年12月20日。乙2

)によれば,イオンプレーティング技術においては,そのイオンプレーティングによる得られる皮膜の特性は,(ガス)圧力P,イオン衝撃電力W,堆積速度R,サブストレート(基板)温度Tの各プロセスパラメータに依存して変位することは周知の事実であることが認められる(同566頁26行∼569頁17行)。また,社団法人表面技術協会第82回講演大会(平成2年10月17,18日)要旨集「アークイオンプレーティング(AIP)法によるTiAlN皮膜の形成」(甲1)によれば,アークイオンプレーティング法により作成したTiAlN膜につき,その皮膜組成の成分割合の違いにより,X線回折したときの(111)面及び(200)面への配向に差異が生ずることが認められる。さらに,神戸製鋼技報(平成2年7月)「次世代の硬質膜コーティング技術」(甲)によれば,アークイオンプレーティング法により作成した(Ti1−xAlx)N膜のx数値 皮膜組成におけるTi成分とAl成分の割合による変位)( によって,当該膜のX線回折パターンにおける(111)及び(200)における強度又はパターンの有無に差異が生ずることが示されている(第5図)。以上によれば,アークイオンプレーティング法により皮膜を形成するに際しては,その皮膜の物性の一種であるX線回折パターンにおける(200)面,(111)面のピーク強度及びその比であるIa値は,イオン衝撃電力W,堆積速度R,サブストレート(基板)温度Tの各プロセスパラメータにより影響を受けるものであって,特に,皮膜の組成の成分割合により強く影響を受け,そのIa値はその成分割合の選定により大きく変位するものであるということができる。

(3) 本件明細書において,本件発明1の被覆硬質部材の製造方法については,

前記1(1)エないしカ,ク及びケ( 0007】∼【0009】【0011】及び【0【 ,】)によれば,基材として84WC−3TiC−1TiN−3TaC−9vol%Coの組成のスローアウェイチップと各種合金ターゲットを用意して,バイアス電圧を中電圧(50∼100V ),反応ガス(窒素)圧力10-1 Paの条件でアークイオンプレーティング法により各種皮膜を3μm作製することによって製造できることが示されるだけであって,アークイオンプレーティング法により必要とされる製造条件につき説明するところはなく,また,サブストレート(基板)温度T等の他のプロセスパラメータにつき記載されるところもなく,さらに,その製造条件の中でも,被覆硬質部材の皮膜のIa値に強く影響する皮膜組成におけるTi成分とAl等の他成分の割合につき記載されるところはない。

(4) 以上によれば,本件明細書では,被覆硬質部材の製造条件として,皮膜組

成の成分割合等のIa値にとって重要であるパラメータにつきその開示を欠くものであって,その記載に係る製造条件のみでは皮膜のIa値を決定又は特定することができず,所定のIa値を保有する皮膜を製造することができないものといわざるを得ない。したがって,TiとTi以外の周期律表4a,5a,6a族,Alの中から選ばれる2元系,ないし3元系の炭化物,窒化物,炭窒化物を被覆してなる被覆硬質部材の皮膜につき,そのIa値が2.3以上であると規定する本件発明1については,本件明細書に当該Ia値が2.3以上のものを得る上で特有の製造方法が記載されておらず,本件明細書の発明の詳細な説明には,その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者 当業者)( が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の構成及び効果が記載されているということができず,旧36条4項に規定する要件を満たしていないことになる。また,本件発明1の特許請求の範囲の記載を引用して構成される本件発明2についても,本件発明1と同様に旧36条4項に規定する要件を満たしていないものと解すべきことになる。

(5) もっとも,原告は,本件発明は「製造方法」の発明ではなく,

「物の発明」に係るものであり,特有の製造方法は必要ないので,「本件明細書に当該Ia値が.3以上のものを得るうえで特有の製造方法が記載されていない」として,本件明細書には当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されていない,とした審決の判断は誤りである旨主張する。ところで,特許制度は,発明を公開する代償として,一定期間発明者に当該発明の実施について独占的な権利を付与するものであるから,明細書には,当該発明の技術内容を一般に開示する内容を記載しなければならないというべきであって,旧条4項や現行特許法36条4項1号が前記のとおり規定するのは,明細書の発明の詳細な説明に,当業者が容易にその実施をできる程度に発明の構成等が記載されていない場合には,発明が公開されていないことに帰し,発明者に対して特許法の規定する独占的権利を付与する前提を欠くことになるからである。そうであるから,物の発明については,その物をどのように作るかについて具体的な記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願時の技術常識に基づき当業者がその物を製造できる特段の事情のある場合を除き,発明の詳細な説明にその物の製造方法が具体的に記載されていなければ,実施可能要件を満たすものとはいえないことになる。したがって,本件発明は,「物の発明」であるから「製造方法」の開示は必要がないとの

(原告の主張)

の見解は正当ではないことになる。

(6) また,原告は,本件発明の「物」は,公知の方法で製造可能であって,前

記審決で引用した公知例においても本件発明の「物」ができている場合もあり,本件発明は,既にあった物の中から,特定の技術的目的・効果を奏するもののみを選び出しているから,実施可能要件に違反しない旨主張する。しかしながら,前記(2)のとおり,アークイオンプレーティング技術においては,そのアークイオンプレーティングによる得られる皮膜の特性は ,(ガス)圧力P,イオン衝撃電力W,堆積速度R,サブストレート(基板)温度Tの各プロセスパラメータに依存して変位するものであるところ(乙21 ),本件明細書には,パラメータ選定に関する指針などの開示がないことから,当業者が,本件発明の条件に合う硬質被覆膜を得るには,膜の成形に関連する多数のパラメータの最適な値を探るために必要以上の試行錯誤を行わなければならないことになってしまうものであって,本件明細書には,本件発明が当業者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の構成及び効果が記載されているとする

(原告の主張)

は採用できない。

(7) さらに,原告は,本件発明は,発明を特定する技術的条件として特許請求

の範囲に「Ia値が2.3以上」を規定しており,この条件を満たしている「物」でさえあればいいのであって,審決が無効とした理由のいずれもそれに該当するものではなく,公知の製造法でもできる「物」の発明である本件特許の無効理由として「特有の製造方法の記載がない」としてされた審決は,「物」の発明である本件特許の技術内容の把握を誤っており,それに基づいてされた判断は違法である旨主張する。しかしながら,上記(5)のとおり,「物」の発明であっても,その「物」が容易に製造可能なように明細書にその「製造方法」を示す必要があるものであるから,原告の上記主張は採用できない。

3 以上によれば,本件明細書の記載が,明細書のサポート要件に適合しておら

ず旧36条5項1号に違反し,また,実施可能要件に適合しておらず旧36条4項に違反するとの,審決の誤りをいう

(原告の主張)

は理由がないから,原告主張の取消事由はいずれも理由がないことになる。よって,原告の請求は上記いずれの見地からも棄却されるべきである。知的財産高等裁判所第1部裁判長裁判官 塚 原 朋 一裁判官 本 多 知 成裁判官 田 中 孝 一

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