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平成17(行ケ)10042行政訴訟 特許権

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裁判所 請求棄却 知的財産高等裁判所
裁判年月日 平成17年11月11日
事件種別 民事
当事者 被告特許庁長官中嶋誠
原告日本合成化学工業株式会社
法令 特許権
特許法36条6項1号3回
特許法36条5項1号2回
特許法195条の31回
特許法36条5項1回
特許法36条4項1回
特許法36条1回
特許法113条4号1回
キーワード 実施77回
特許権5回
審決3回
無効審判2回
無効2回
拒絶査定不服審判1回
主文 原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。
事件の概要 本件は,原告を特許権者とする「偏光フィルムの製造法」の特許につき,平 成15年法律第47号の施行(平成16年1月1日)前にされた特許異議申立 てについて,特許出願の願書に添付した明細書(平成14年法律第24号によ る改正前の,「特許請求の範囲」を含む出願書類としての「明細書」を指す。 以下,同じ。)の記載不備を理由に特許庁が特許取消決定をしたため,これに 対し,原告が,平成15年法律第47号附則2条9項に基づき,決定の判断の 誤りを主張して,その取消しを求めた事案である。

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判決文

平成17年(行ケ)第10042号 特許取消決定取消請求事件(平成17年10
月7日口頭弁論終結)
判 決
原 告 日本合成化学工業株式会社
訴訟代理人弁理士 朝 日 奈 宗 太
同 秋 山 文 男
被 告 特許庁長官 中 嶋 誠
指 定 代 理 人 豊 岡 静 男
同 鹿 股 俊 雄
同 末 政 清 滋
同 宮 下 正 之
同 柳 和 子
主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事 実 及 び 理 由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
( 1) 特許庁が異議2003-70728号事件について平成16年11月2
6日にした決定を取り消す。
( 2) 訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告
主文と同旨
第2 事案の概要
本件は,原告を特許権者とする「偏光フィルムの製造法」の特許につき,平
成15年法律第47号の施行(平成16年1月1日)前にされた特許異議申立
てについて,特許出願の願書に添付した明細書(平成14年法律第24号によ
る改正前の,「特許請求の範囲」を含む出願書類としての「明細書」を指す。
以下,同じ。)の記載不備を理由に特許庁が特許取消決定をしたため,これに
対し,原告が,平成15年法律第47号附則2条9項に基づき,決定の判断の
誤りを主張して,その取消しを求めた事案である。
当該特許は,特性値を表す二つの技術的な変数(パラメータ)を用いた一定
の数式により示される範囲をもって特定した物を構成要件とするものであり,
いわゆるパラメータ発明に関するものである。これにより,耐久性及び偏光性
能に優れ,かつ,製造時の安定性に優れた性能を有する偏光フィルムを製造す
ることができるという効果を奏するものとされているが,本件訴訟においては,
明細書の記載の適法性,すなわち,明細書に特許による独占的,排他的な保護
に見合う発明が特許法36条の規定に適合するように開示されているかをめぐ
り,①明細書のいわゆるサポート要件ないし実施可能要件の適合性の有無,②
実験データの事後的な提出による明細書の記載内容の記載外での補足の可否,
③特許・実用新案審査基準の遡及適用の可否が主な争点となっている。
第3 当事者間に争いがない事実
1 特許庁における手続の経緯
(1) 原告は,平成5年10月21日,発明の名称を「偏光フィルムの製造
法」とする発明につき特許出願(特願平5-287608号。以下「本件出
願」という。)をした。本件出願について,特許庁は,特許をすべき旨の査
定をし,平成14年7月12日,特許第3327423号として設定登録が
された(以下,この特許を「本件特許」という。)。
(2) その後,本件特許については特許異議の申立て(以下「本件異議申立
て」という。)がされ,特許庁は,同申立てを異議2003-70728号
事件として審理した上,平成16年11月26日,「特許第3327423
号の請求項に係る特許を取り消す。」(注,特許第3327423号の請求
項1ないし3に係る特許を取り消すとの趣旨であると解される。)との決定
をし,その謄本は同年12月18日に原告に送達された。
2 本件出願の願書に添付した明細書(甲3,以下「本件明細書」という。)の
特許請求の範囲の請求項1ないし3(以下,請求項1を「本件請求項1」とい
う。)の記載
【請求項1】 ポリビニルアルコール系原反フィルムを一軸延伸して偏光フィ
ルムを製造するに当たり,原反フィルムとして厚みが30~100μmであ
り,かつ,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係が下式で
示される範囲であるポリビニルアルコール系フィルムを用い,かつ染色処理
工程で1.2~2倍に,さらにホウ素化合物処理工程で2~6倍にそれぞれ
一軸延伸することを特徴とする偏光フィルムの製造法。
Y>-0.0667X+6.73 ・・・・(I)
X≧65 ・・・・(II)
但し,X:2cm×2cmのフィルム片の熱水中での完溶温度(℃)
Y:20℃の恒温水槽中に,10cm×10cmのフィルム片を15分間浸
漬し膨潤させた後,105℃で2時間乾燥を行った時に下式浸漬後のフィル
ムの重量/乾燥後のフィルムの重量より算出される平衡膨潤度(重量分率)
【請求項2】 完溶温度が65~90℃であるポリビニルアルコール系原反フ
ィルムを用いることを特徴とする請求項1記載の製造法。
【請求項3】 平均重合度が2600以上のポリビニルアルコール系原反フィ
ルムを用いることを特徴とする請求項1記載の製造法。
(以下,請求項1ないし3記載の発明をそれぞれ「本件発明1」ないし「本件
発明3」といい,本件発明1ないし3を併せて「本件発明」という。)
3 決定の理由
決定の理由は,別添「異議の決定」謄本写し記載のとおりであり,その要旨
は,①本件発明1は,原反フィルムとして,熱水中での完溶温度(X)と平衡
膨潤度(Y)との関係が,Y>-0.0667X+6.73〔以下「式
(I)」という。〕及びX≧65〔以下「式(II)」という。〕で示される
範囲であるポリビニルアルコール系フィルム(以下,「PVAフィルム」とい
い,ポリビニルアルコールを「PVA」という。)を用いることを構成要件と
するものであるところ,これらの二式が規定する範囲は,広範囲に及ぶもので
あり,この数式を満たすものがすべて偏光性能及び耐久性能が優れた効果を奏
するとの心証を得るには,実施例が十分ではなく,また,他に,本件明細書の
記載及び当該分野の技術常識に照らして,上記二式を満足するものが上記の優
れた効果を奏するとの確証を得られるものではなく,上記二式が,どのように
して導き出されたのか,その根拠,理由が不明であるから,結局,特許を受け
ようとする発明,すなわち,本件発明1並びに本件発明1を引用する本件発明
2及び3が,発明の詳細な説明に記載されたものとは認めることはできず,し
たがって,本件明細書の特許請求の範囲の記載は,特許法36条5項1号(注,
平成6年法律第116号〔以下「平成6年改正法」という。〕による改正前の
特許法36条5項1号〔同改正後は特許法36条6項1号〕の趣旨であると解
される。以下「特許法旧36条5項1号」という。)の規定に違反するもので
ある,②請求項1に規定する上記二式が満たす範囲は広範囲に及ぶところ,ど
のような製造条件(PVAの重合度,乾燥基材,乾燥温度,乾燥時間等)であ
れば,上記二式を満たし,かつ,偏光性能及び耐久性能が優れたフィルムが得
られるのか,本件明細書の発明の詳細な説明を参酌しても不明りょうである
(注,どのような製造条件であれば,上記二式を満たすPVAフィルムが得ら
れるのか,本件明細書の発明の詳細な説明を参酌しても不明りょうであるとの
趣旨であると解される。)から,本件明細書の発明の詳細な説明は,当業者が
容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果が
記載されたものとは認められず,特許法36条4項(注,平成6年改正法によ
る改正前の特許法36条4項の趣旨であると解される。以下「特許法旧36条
4項」という。)に違反するものである,③以上のとおりであるから,本件発
明1ないし3に係る特許は,特許法旧36条4項及び同条5項1号の規定する
要件を満たしていない特許出願に対してされたものであり,特許法113条4
号に該当し,取り消されるべきである(注,平成6年改正法附則14条に基づ
く平成7年政令第205号4条2項により取り消されるべきであるとすべきと
ころを,法令の適用を誤ったものであると解される。),というものである。
第4 原告主張の決定取消事由
本件明細書の記載が特許法旧36条5項1号及び同条4項の規定に違反する
とした決定の判断は誤りであり(取消事由1,2),その誤りが決定の結論に
影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべきである。
1 取消事由1(特許法旧36条5項1号違反の判断の誤り)
( 1) 決定は,「Y>-0.0667X+6.73及びX≧65の二式が規
定する範囲は,広範囲に及ぶものであり,この数式を満たすものが全て偏
光性能及び耐久性能が優れた効果を奏するとの心証を得るには,実施例が
十分ではなく,また,他に,本件特許明細書(注,本件明細書)の記載及
び当該分野の技術常識に照らして上記二式を満足するものが前述の優れた

果を奏するとの確証を得られるものではない。」(決定謄本4頁第2段
落)と判断しているが,この判断は,原告が,本件異議申立ての審理の段
階で,10点の実験データを記載した実験成績証明書(甲6,以下「甲6
証明書」という。)を提出したにもかかわらず,これを全く考慮せず,本
件明細書記載の実施例1,2の2点及び比較例1,2の2点の合計4点の
みを基にして,これら4点以外の実験データがないことを前提にされたも
のであり,以下に述べるとおり,誤りである。
すなわち,「Y>-0.0667X+6.73」の式〔式(I)〕は,
本件明細書記載の実施例等の4点の実験データのほか,原告が本件出願前
の平成5年5月から同年8月にかけて行った実験に基づく甲6証明書記載
の10点のデータを併せ,合計14点の実験データをプロットして導き出
されたものである。また,本件明細書の段落【0013】には,熱水中で
の完溶温度(X)が65℃以下のPVAフィルムでは,延伸時にフィルム
が一部溶解したり劣化が起こったりして,実用にならないことが記載され
ている。したがって,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との
関係が式(I)及び式(II)の二式が限定する範囲内であるPVAフィ
ルムが,偏光性能及び耐久性能が優れた効果を奏することは,当業者であ
れば容易に理解できることである。
決定は,上記二式が限定する範囲が広範囲に及ぶとしている。しかし,
平衡膨潤度(Y)は,(浸漬後のフィルムの重量)/(乾燥後のフィルム
の重量)より求められる値であり,下限値は浸漬前後の重量が同じとなる
1であるから,必ず1以上となる。また,本件発明における「完溶温度」
は「耐熱水温度」とほぼ同じになるので,長野浩一ほか著「ポバール改訂
新版」(昭和56年4月1日・株式会社高分子刊行会発行。甲8,以下
「甲8文献」という。)に記載のPVAの熱処理温度と耐熱水温度との関
係を示す図100によれば,「完溶温度65℃以上」は「熱処理温度11
0℃以上」となり,同文献記載の熱処理温度と膨潤度との関係を示す図1
01によれば,「熱処理温度110℃以上」であれば膨潤度は約1.5以
下となることが分かる。そして,平衡膨潤度=膨潤度+1(高分子学会論
文集12巻128号「高分子化学」昭和30年12月25日・高分子学会
発行。甲10)であるから,本件発明における熱水中での完溶温度65℃
以上では,平衡膨潤度の上限は高々2.5程度となっており,測定誤差等
の諸条件を考慮しても実質的な上限が3.0を超えることはない。他方,
熱水中での完溶温度(X)の下限値は本件請求項1で規定する65℃であ
り,上限値は実質90℃程度である。このように,式(I)及び式
(II)の二式を満足する範囲は,決して無制限に広い範囲を示すもので
はない。また,本件明細書記載の2点の実施例及び2点の比較例のほか,
甲6証明書記載の8点の実験データ及び2点の比較実験データを加えた合
計14点のデータをプロットしたものが別紙2の図1であり,これによっ
て明らかなとおり,これら実施範囲は,上記二式が限定する範囲と対比し
て,極めて狭い範囲となっているというものでもない。
なお,被告は,甲8文献の図100に基づき算出した熱処理温度110
℃と本件明細書記載の実施例2の熱処理温度90℃とが合致しないので,
平衡膨潤度の上限が3.0であるとの原告の主張は根拠がないとしている。
しかし,他の条件が完全に一致する場合には,両熱処理温度は完全に一致
するが,甲8文献の図104には,ケン化度の違いが1%もあれば,同じ
熱処理温度でも膨潤度が大きく異なることが示されており,上記実施例2
の樹脂と甲8文献の樹脂とでは,ケン化度が0.4%異なるだけでなく,
重合度も大きく異なるのであるから,上記実施例2の熱処理温度が甲8文
献の図100に基づき算出した値と異なるのは当然であり,被告の主張は
失当である。
以上のとおり,甲6証明書の10点の実験データと本件明細書記載の4
点の実験データを参酌すれば,上記二式を導き出すための具体例の数とし
て十分であり,上記二式を満足するものが優れた効果を奏するとの確証を
得るにも十分である。
( 2) 決定は,「実験条件の大きく異なる実験の追加は,本件発明の実施例
を補足するものではなく,新たな実施例の追加となり,本件事件(注,本
件異議申立て)の審理にあたってそれらの実験結果を参酌することはでき
ないものである。」(決定謄本5頁第4段落)と判断するが,以下に述べ
るとおり,誤りである。
ア 甲6証明書に記載した実験1ないし8は,単に周知の技術を用いて熱
水中での完溶温度と平衡膨潤度を制御したにすぎない。同実験1ないし
8では,本件明細書記載の実施例における乾燥温度30℃,40℃より
も高い90℃以上の温度で乾燥を行っているが,その分乾燥時間が同実
施例における24時間よりも極めて短い10分以内となっている。実験
室レベルで実験した上記実施例では,乾燥時間の制約がないので長い乾
燥時間で行ったが,上記実験1ないし8は,実機レベルで実験したもの
であり,製造時間との関係で乾燥時間が大きく制限されているため,短
い乾燥時間で行い,乾燥時間の短縮化に伴い乾燥温度を高くしたにすぎ
ない。乾燥温度を高くすればその分乾燥時間を短くすればよいという一
般常識を考慮すると,これらの実験条件は大きく異なるものではない。
したがって,甲6証明書記載の実験データは,本件明細書記載の実施
例を補足するものであって,甲6証明書を参酌できないとする決定の判
断は失当である。
イ 被告は,甲6証明書の実験1ないし8は,本件明細書の実施例と実験
条件が異なるとしてるる主張するが,以下のとおり,いずれも誤りであ
る。
(ア) 被告は,甲6証明書記載の実験1ないし8と本件明細書記載の実
施例とでは,乾燥条件が大きく異なる旨主張する。
しかし,乾燥とは水が蒸発すればよく,乾燥温度は適宜選択される
ものであって,特定の温度でなければ乾燥できないというものではな
いし,乾燥時間についても,乾燥温度が高ければ乾燥時間は短くなり,
逆に乾燥温度が低ければ乾燥時間は長くなるのは技術常識である。こ
のように,乾燥温度も乾燥時間も適宜選択して行われるものであって,
単に乾燥温度が相違することから乾燥条件が大きく異なる,という被
告の主張は失当である。
(イ) 被告は,乾燥温度がガラス転移温度よりも高い場合(甲6証明書
記載の実験1~8)と低い場合(本件明細書記載の実施例)とではP
VAの組織状態に与える影響が大きく異なることが普通に予測される
から,両者は実験条件が大きく異なる旨主張する。
しかし,乾燥工程におけるPVAとは,水にPVAが溶解したPV
A水溶液であり,このような溶媒に溶解したPVAにはそもそもガラ
ス転移温度など存在しない。したがって,化学大辞典編集委員会編
「化学大辞典 2」(523頁~524頁,平成5年6月1日・共立
出版株式会社発行。乙1),同編集委員会編「化学大辞典 8」(7
67頁,平成5年6月1日・共立出版株式会社発行。乙2)に記載さ
れた固体状態のPVAのガラス転移温度を基にして,乾燥温度がガラ
ス転移温度よりも高い場合と低い場合とではPVAの組織状態に与え
る影響が大きく異なることが普通に予測される,とする被告の主張は
失当である。
(ウ) 被告は,甲8文献の記載を基にして,本件特許明細書記載の実施
例と甲6証明書記載の実験1ないし8とは,乾燥温度が前者が30℃
~40℃,後者が85℃~102℃であって,その乾燥温度に応じて
異なる結晶化度を呈するものであるから,その点からも両者は実験条
件が大きく異なる旨主張する。
しかし,甲8文献には,乾燥して作製したPVAフィルムの熱処理
温度と結晶化度の関係が記載されているのであって,PVA水溶液か
ら水分を蒸発させてPVAフィルムを作製する場合の乾燥温度と結晶
化度との関係が記載されているのではない。被告の上記主張は,乾燥
条件と熱処理条件を混同するものであって,失当である。
なお,被告主張のとおり,乾燥温度が高いと結晶化度が高くなり,
乾燥温度が低いと結晶化度が低くなることもあるが,それは他の多く
の製造条件が全く同一の場合にのみ成立することである。甲6証明書
記載の実験1ないし8と本件明細書記載の実施例とは他の製造条件が
全く同一ではないので,乾燥温度だけで単純に整理することはできな
い。
( 3) 本件発明は,優れた偏光性能を有する液晶用の偏光フィルムの製造法
として,産業の発達に大きく寄与しており,このような有用な発明に係る
特許を,仮に,本件明細書の発明の詳細な説明にわずかの記載不備がある
としても,それのみを理由で取り消すことは納得できない。特に明細書の
記載要件は,時代とともに変遷しており,少なくとも本件出願時において,
本件発明のようないわゆるパラメータ発明の特許出願については,明細書
に実施例として根拠となるすべての実験データを記載することは要求され
ていなかった。
すなわち,本件出願に適用される特許法旧36条5項1号及び同条4項
の規定の解釈・運用の基準となる特許・実用新案審査基準は,平成5年6
月に全面改訂されたものであるところ,この特許・実用新案審査基準には,
いわゆるパラメータ発明の特許出願に係る明細書の記載要件についての基
準は全く規定されていなかった。平成6年改正法による改正により,同改
正前の特許法旧36条4項の規定が改正され,同改正後の特許法36条5
項,同条6項2号の規定が創設されるなど,明細書の記載要件が大幅に改
正された。これらの規定の解釈・運用の基準となる特許・実用新案審査基
準は,平成12年10月改訂に係る特許・実用新案審査基準であり,ここ
で初めていわゆるパラメータ発明の特許出願に係る明細書の記載要件につ
いての基準が加えられた。また,平成15年10月改訂に係る特許・実用
新案審査基準には,いわゆるパラメータ発明の特許出願に係る明細書の記
載要件に関して,以下のような基準が記載されている。
(ア) 「第36条第6項第1号違反の類型」として,「(3) 出願時の技
術常識に照らしても,請求項に係る発明の範囲まで,発明の詳細な説明
に開示された内容を拡張ないし一般化できるとはいえない場合」を規定
し,その例10として,「機能・特性等の数値限定をすることにより物
(例えば,高分子組成物,プラスチックフィルム,合成繊維又はタイ
ヤ)を特定しようとする発明において,請求項に記載された数値範囲全
体にわたる十分な数の具体例が示されておらず,しかも,発明の詳細な
説明の他所の記載をみても,また,出願時の技術常識に照らしても,当
該具体例から請求項に記載された数値範囲全体にまで拡張ないし一般化
できるとはいえない場合。」を掲げている。
(イ) 「特許法第36条第6項第2号違反の類型」として,「(2) 発明
を特定するための事項の内容に技術的な矛盾や欠陥があるか,又は,技
術的意味・技術的関連が理解できない結果,発明が不明となる場合。」,
その一場合としての「② 発明を特定するための事項の技術的意味が理
解できない場合。」を規定し,その例1として,「特定の数式Xの特定
の数値範囲で特定される着色用粉体」(特定の数式Xは,単に得られた
結果として示されるのみであり,明細書及び図面の記載並びに出願時の
技術常識を考慮しても,その技術的意味を理解することができない。た
だし,明細書中に,その技術的意味を理解できる程度にその数式を誘導
した過程及びその数式の数値範囲を定めた理由等(実験結果から求めた

合も含む)が記載されていれば,技術的意味が理解できる場合が多
い。)」を掲げている。
しかしながら,これらの基準は,現行特許法36条6項1号及び同項2
号の解釈・運用基準であって,遡及して適用されるとしても,その対応規
定が存在する平成6年改正法による改正後の特許法が適用となる平成7年
1月1日以降にされた特許出願に限られるというべきである。
本件明細書が記載要件を具備しているか否かについては,本件出願の審
査においては全く問題にならなかったのに,本件特許の出願後に定められ
た明細書の記載要件に関する特許・実用新案審査基準を遡及適用して,本
件特許を本件明細書の記載不備のみを理由として取り消すことは極めて不
合理であって許されないというべきである。
( 4) 特許法旧36条5項1号の規定からすれば,特許請求の範囲の請求項に
係る発明は,発明の詳細な説明に記載したものと実質的な対応関係がなけれ
ばならず,また,特許・実用新案審査基準では,「発明の詳細な説明には,
請求項に係る発明をどのように実施するかを示す『発明の実施の形態』」の
うち特許出願人が最良と思うものを少なくとも一つ記載することが必要であ
る」とされているところ,本件明細書(甲3)の発明の詳細な説明には,熱
水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係が式(Ⅰ)及び式
(ⅠⅠ)の二式で示される範囲である特定のPVAフィルムが,「ポリビニ
ルアルコール系フィルムの製膜時の乾燥条件,あるいは製膜後の熱処理条件
等を調整することにより作製できる」(段落【0012】)ことが記載され,
また,実施例としては,特許権者が最良と考える実施例が二つ記載されてい
る。したがって,本件発明は,特許請求の範囲の請求項に係る発明が,発明
の詳細な説明に記載された発明と実質的に対応しており,また,上記審査基
準の内容とも合致している。
本件発明は,公知のPVAフィルムの中でも,熱水中での完溶温度(X)
と平衡膨潤度(Y)との関係が特定の数値の範囲内であるフィルムが偏光フ
ィルムの原料として適することを見いだしてされた発明であって,公知のP
VAフィルムの特定方法を詳細に記載しなければならないとする理由はない。
2 取消事由2(特許法旧36条4項違反の判断の誤り)
( 1) 決定は,「どのような製造条件(PVAの重合度,乾燥基材,乾燥温度,
乾燥時間,等)であれば,上記二式を満たし,かつ,偏光性能及び耐久性能
が優れたフィルムが得られるのか,本件特許明細書(注,本件明細書)の発
明の詳細な説明を参酌しても不明瞭である。したがって,本件特許明細書は,
当業者が容易にその実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成
及び効果が記載されたものとも認められない。」(決定謄本4頁第3段落)
とし,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は特許法旧36条4項に違反す
ると判断しているが,以下に述べるとおり,誤りである。
( 2) 完溶温度(X)とは,特定の条件で測定されるフィルムの溶解性を示す
もので,非晶部と比較して溶解しにくい結晶が完全に溶解する温度を示すも
のである。完溶温度が高いということは,PVAの結晶が高温度まで溶解し
ないので,結晶サイズが大きいことを示し,完溶温度が低いということは,
PVAの結晶が低温度で溶解するので,結晶サイズが小さいことを示してい
る。一方,平衡膨潤度(Y)とは,特定の条件で測定されるフィルムの水に
よる膨潤の程度を示している。一般に,水による膨潤はPVAの非晶部で生
じるものであり,平衡膨潤度が高いということは,非晶部が多くなって結晶
化度が低いことを示し,平衡膨潤度が低いということは,非晶部が少ないの
で結晶化度が高いことを示している。
直接的に結晶サイズ又は結晶化度を問題にする場合には,これらの値をX
線回折などにより測定する必要があるが,PVAは完全な非晶体が得られな
いため,X線回折であっても,正確な値を得ることはできない。そこで,本
件発明においては,完溶温度及び平衡膨潤度を,結晶サイズ及び結晶化度の
代わりの指標として用い,特定の完溶温度及び平衡膨潤度のPVAフィルム
とそれから得られる偏光フィルムの特性との関連に着目して,本件請求項1
に規定する二式に想到し得たのである。
( 3) ところで,PVAフィルムを作製する場合,その結晶化度や結晶サイズ
を制御するための条件としては,乾燥条件や製膜後の熱処理条件など〔本件
明細書(甲3)の段落【0012】〕のほか,PVAの重合度,PVAの水
溶液濃度,乾燥ロールなどを挙げることができる。例えば,本件明細書記載
の実施例1,2及び比較例1,2では,すべて24時間という同一の乾燥時
間でPVAフィルムを作製しているが,同一乾燥時間では,他の条件が同じ
である限り,乾燥温度が低ければ急冷され,結晶が十分に成長せず結晶化度
が低くなるとともに結晶サイズも小さくなり,逆に乾燥温度が高ければ徐冷
され,結晶が成長して結晶化度が高くなるとともに結晶サイズも大きくなる。
上記の例において,24時間よりも短い乾燥時間で同じ結晶化度のPVAフ
ィルムを作製するためには,乾燥温度を高くすればよいことになる。
そして,PVAフィルムのような高分子フィルムの結晶化には,寄与率に
差はあるものの,種々の条件が複雑に関与しているから,特定の結晶化度の
ものを作製する場合に,直接的,かつ,一義的に作製条件が決定されるもの
ではなく,したがって,乾燥温度と乾燥時間を特定すれば,PVAフィルム
の結晶化度又は結晶サイズが直接的,かつ,一義的に決定されるとか,また,
逆に,PVAフィルムの結晶化度又は結晶サイズを特定すれば,同フィルム
の製造条件が直接的,かつ,一義的に決定できるとかいうものではない。
結晶化度や結晶サイズを制御するための条件を適宜に設定,変更して,高
分子フィルムの結晶化度や結晶サイズを制御する方法としては,高分子の立
体規則性の制御,溶融状態から急冷(結晶サイズが小さくなる),溶融状態
から徐冷(結晶サイズが大きくなる),熱処理など様々な方法がある。PV
Aフィルムについて具体的にみると,例えば,甲8文献には,PVA水溶液
をキャストしたのちの乾燥過程において,乾燥方法を,高温乾燥,高湿乾燥,
風乾などと変更することにより,膨潤度や結晶化度を制御できること,結晶
化を進めるために,乾燥過程の後,更に熱処理することも一般的に行われて
いること,この熱処理温度を上げることで,結晶化度を増大させ,また,P
VAフィルムの耐熱水温度を上げ,逆に膨潤度は低下させることが可能であ
ることなどが記載されている(215頁の図103,219頁8,9行目,
212頁の図98,214頁の図100及び図101)。また,「ポリビニ
ルアルコール(トリフルオロ酢酸ビニルを出発モノマーとした)」(第1版
第1刷,平成3年6月15日・株式会社高分子刊行会発行。甲9)にも,熱
処理温度により,結晶化度,結晶間間隔,結晶領域の大きさなどを制御でき
ることが記載されている(80頁表6-6)。
( 4) 上記したPVAフィルムの結晶サイズや結晶化度を制御する方法は,本
件出願時,当業者に周知であったものであり,当業者にとって,同フィルム
の乾燥方法,乾燥温度,熱処理温度等を適宜設定,変更して,結晶化サイズ
(完溶温度)や結晶化度(平均膨潤度)を制御することは,極めて容易であ
ったということができる。
そして,上記のように結晶サイズ(完溶温度)や結晶化度(平均膨潤度)
を制御する方法が当業者に周知である以上,式(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式
を満たすPVAフィルムを作製することは,本件明細書の詳細な説明に記載
するまでもなく,本件出願時の技術常識から,当業者であれば極めて容易に
できることであるから,本件明細書の発明の詳細な説明には,当業者が容易
に本件発明を実施することができる程度に,その発明の目的,構成及び効果
が記載されているというべきである。
第5 被告の反論
本件明細書の記載が特許法旧36条5項1号及び同条4項の規定に違反する
とした決定の判断に誤りはなく,原告主張の取消事由はいずれも理由がない。
1 取消事由1(特許法旧36条5項1号違反の判断の誤り)について
( 1) 特許請求の範囲の記載が特許法旧36条5項1号違反の規定に適合して
いるか否かの判断は,特許請求の範囲記載の請求項に係る発明と,明細書の
発明の詳細な説明に発明として記載したものとの実質的な対応関係を検討す
ることにより行い,上記請求項に係る発明が,発明の詳細な説明において発
明の課題が解決できることを当業者が認識できるように記載された範囲を超
えるものであると判断された場合は,同号の規定に適合するということはで
きないと解すべきである。
( 2) 本件明細書の特許請求の範囲の記載は,以下に述べるとおり,特許法旧
36条5項1号の規定に適合するものということができない。
ア 本件明細書の発明の詳細な説明において,PVAフィルムの熱水中での
完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の値と,それらの値のPVAフィルム
を原反フィルムとして用いて得られた偏光フィルムの具体的性質との関連
を記載しているのは,実施例及び比較例の4種のフィルムの製造方法のみ
である。
上記実施例及び比較例で用いられたPVAフィルムの熱水中での完溶温
度(X)と平衡膨潤度(Y)の値をプロットしたグラフ(別紙1の第1
図)からは,完溶温度(X)が70℃~75℃程度のものにおいて,平均
膨潤度(Y)は1.8(又は1.9以上,2.0以上)のとき,所望の特
性の偏光フィルムが得られ,それ以下のときは得られないことが認められ
るとしても,これら4点のみから,所望の特性が得られる熱水中での完溶
温度(X)と平衡膨潤度(Y)の範囲は,完溶温度(X)が65℃以上で
あり,かつ,平衡膨潤度(Y)が-0.0667X+6.73の式〔式
(Ⅰ)〕による数値を超える範囲であるとまで導き出すことは到底できな
い。
そうすると,本件明細書の発明の詳細な説明には,本件発明1に係る製
造法,すなわち,本件請求項1で規定する特定の厚み,特定の完溶温度
(X)及び平衡膨潤度(Y)を有するPVAフィルムを原反フィルムとし
て用い,かつ,本件請求項1で規定する特定の延伸条件で製造すれば,得
られる偏光フィルムは所望の特性を有するものであることを当業者におい
て把握することができる程度に記載されているということはできない。そ
して,そのようなPVAフィルム及び延伸条件で製造すれば,所望の特性
の偏光フィルムが得られるということが,本件出願時の当業者の技術常識
であったとも認められない。すなわち,本件出願時の当業者の技術常識に
照らしても,本件請求項1に係る発明の範囲まで,本件明細書の発明の詳
細な説明に開示された内容を拡張ないし一般化できるとはいえない。
イ したがって,本件発明1並びに本件発明1を引用する本件発明2及び3
は,発明の詳細な説明において,発明の課題が解決できることを当業者が
認識できるように記載された範囲を超えるものであるから,本件明細書の
特許請求の範囲の記載は,特許法旧36条5項1号の規定に適合するもの
ということはできない。
なお,原告は,本件発明1において,熱水中での完溶温度(X)が65
℃以上では,平衡膨潤度(Y)の上限は高々2.5程度となっており,測
定誤差等の諸条件を考慮しても実質的な上限が3.0を超えることはない
旨主張するが,甲6証明書によれば,本件明細書(甲3)に記載の実施例
2の熱処理温度は90℃であり(7頁の表1),原告主張における「熱処
理温度が110℃以上であれば」という前提と合致しない。したがって,
原告の上記主張は根拠が不明である。
原告は,平衡膨潤度(Y)は1以上で上限値が3.0を超えることはな
く,熱水中での完溶温度(X)は下限値が65℃で上限値は実質90℃で
あるから,式(I)及び式(II)の二式を満足する範囲は無制限に広い
範囲を示すものではないとも主張するが,仮に,熱水中での完溶温度
(X)と平衡膨潤度(Y)の値の範囲がその主張のとおりであるとしても,
本件明細書の発明の詳細な説明に記載された二つの実施例と比較すれば広
範囲であることは明らかであり,実際に効果が確認されたわずか二つの実
施例を根拠に,実施例で使用された以外のPVAフィルムも,式(I)及
び式(II)の二式を満足しさえすれば必ず優れた効果を奏するとはいえ
ないことに変わりはない。また,仮に,平衡膨潤度(Y)の上限が3.0
であるとしても,本件明細書記載の二つの実施例の分布領域に比して,熱
水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の値の範囲が依然として広範
囲に及ぶことは明らかである。
( 3) 特許法旧36条5項1号違反の有無の判断に当たり,甲6証明書記載の
実験データを参酌することができないことは,以下のとおりである。
ア 甲6証明書記載の実験内容との関係における参酌の可否
(ア) 甲6証明書記載の実験と本件明細書記載の実施例の実験条件を比較
すると,以下のとおり,大きく異なっている。
a 本件明細書記載の2点の実施例の乾燥温度,乾燥時間及び乾燥基材
は,それぞれ30℃~40℃,24時間及びPET(ポリエチレンテ
レフタレート)であるのに対し,甲6証明書記載の実験1ないし8で
は,乾燥温度,乾燥時間がそれぞれ85℃~102℃,2分~10分,
そして乾燥基材については実験1ないし3がPET,実験4ないし8
がSUS(注,ステンレス鋼)である。
b 上記実験条件のうち,乾燥温度に着目すると,甲6証明書記載の実
験1ないし8における乾燥温度は,水の沸点近傍の温度である85℃
~102℃であって,本件明細書記載の実施例1,2における常温近
傍の30℃~40℃とは大きくかけ離れ,水の状態変化及び乾燥時間
も併せて考慮すれば,両者は乾燥条件において大きく異なるものであ
る。
PVAのガラス転移温度は約65℃~85℃であって(上記第4の
1(2)のイ(イ)掲記の乙1,2),乾燥温度がガラス転移温度よりも
高い場合(甲6証明書記載の実験1ないし8)と低い場合(本件明細
書記載の実施例1,2)とではPVAの組織状態に与える影響が大き
く異なることが普通に予測される。また,甲8文献の記載によれば,
PVAは,熱処理温度が30℃~100℃の範囲であっても,熱処理
温度に応じて結晶化度が異なるとされているところ,本件明細書記載
の実施例と甲6証明書記載の実験1ないし8とでは乾燥温度が異なり,
その乾燥温度に応じて異なる結晶化度を呈するものである。したがっ
て,これらの点からも,両者は実験条件が大きく異なるものである。
なお,乾燥条件に関する実験条件は大きく異なるものではないとす
る原告の主張は,上記の理由からも失当であるが,更にいえば,乾燥
温度を200℃,300℃にしても,乾燥時間を短くすれば結果は同
じとする主張に等しく,明らかにその材料のガラス転移温度,軟化温
度,水の状態変化等を無視したものであり,失当である。
c 乾燥基材についても,甲6証明書記載の実験1ないし8のうち,半
数以上に当たる実験4ないし8が本件明細書記載の実施例で用いられ
ているPETとは異なるSUSが使用されている。何ゆえ,わざわざ
異なる乾燥基材を用いるのか,その意図が不明であるが,乾燥基材の
材料が異なることで乾燥過程における基材が有する熱的特性も異なる
ことが普通に予想されるから,異なる乾燥基材を用いた実験4ないし
8は,この点においても,本件明細書記載の実施例とは実験条件が異
なるものである。
(イ) 上記のとおり,甲6証明書記載の実験1ないし8は,乾燥温度と乾
燥時間が本件明細書記載の実施例のものと大きく異なり,かつ,甲6証
明書記載の実験4ないし8及び比較実験1,2は乾燥基材が本件明細書
の実施例と異なるものであって,総合的にみて本件明細書記載の実施例
の実験条件とは大きく異なるものであるから,甲6証明書記載の実験デ
ータは,本件明細書記載の実施例及び比較例を補足するものではなく,
新たな実施例の追加である。したがって,特許法旧36条5項1号違反
の有無の判断に当たり,その実験データを参酌することはできないもの
である。
なお,原告は,甲6証明書記載の実験1ないし8は,実機レベルで実
験したものであり,製造時間との関係で乾燥時間が大きく制限されてい
る関係で,短い乾燥時間で行った旨主張しているが,実機レベルである
からといって乾燥時間を長くできない理由はなく,この点からも,甲6
証明書の実験結果は信ぴょう性に乏しく,本件明細書記載の実施例及び
比較例を補足するものとはいえない。
イ 本件出願時の技術水準との関係における甲6証明書記載の実験データの
参酌の可否
(ア) 特許請求の範囲の記載が特許法旧36条5項1号の規定に適合する
か否かの判断は,特許出願の願書に添付した明細書及び図面の記載のほ
か,特許出願時の当業者の技術常識をも参酌して行うべきである。
したがって,甲6証明書記載の実験データが本件出願時の当業者の技
術常識である場合には,上記の判断において,これを参酌することがで
きるが,そうでない場合にはこれを参酌することはできないと解される。
(イ) ところで,本件発明1は,本件請求項1記載の特定の厚さ,特定値

上の完溶温度(X)及びその関数である式(Ⅰ)を超える平衡膨潤度
(Y)以上であるPVAフィルムを原反フィルムとして用い,本件請求
項1記載の特定の条件で延伸することにより,高度の偏光性能や耐久性
能等の特性を有する偏光フィルムを製造する方法である。
原告は,本件明細書記載の実施例及び比較例の4点の実験データのほ
か,甲6証明書記載の実験データ10点を加え,合計14点の実験デー
タをプロットし,Y>-0.0667X+6.73の式〔式(Ⅰ)〕を
導き出したものであると主張するが,このように多数の実験データを整
理して所望のものが得られる範囲を見いだすことが,本件発明のような
偏光フィルム等の化学分野において常とう手段であるとしても,その実
験データから導き出される好適な範囲は,当業者にとって本件出願時の
技術常識といえるものではない。むしろ,原告は,上記所望の特性とP
VAフィルムの熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係
につき,上記の複数の実験データに基づいて初めて導き出したというの
であるから,上記好適とされる範囲及びその根拠となった実験データが
技術常識であったとはいえないことを自ら認めているのにほかならない。
そうすると,甲6証明書記載の実験データは,本件出願時に当業者の
技術常識であったということができないものであるから,特許法旧36
条5項1号違反の有無の判断に当たり,これを参酌することができない
ものである。
ウ したがって,特許法旧36条5項1号違反の有無の判断に当たり,甲6
証明書記載の実験データは参酌することができないものであるとした決定
の判断に誤りはない。
原告は,本件明細書記載の2点の実施例及び2点の比較例のほか,甲6
証明書記載の8点の実験データ及び2点の比較実験データを加え,合計1
4点のデータをプロットし(別紙2の図1参照),本件請求項1に規定さ
れているY>-0.0667X+6.73の式〔式(Ⅰ)〕及びX≧65
の式〔式(ⅠⅠ)〕の二式を導き出した旨主張するが,上記のとおり,特
許法旧36条5項1号違反の有無の判断に当たり,甲6証明書記載の実験
データはこれを参酌することができないものであるから,原告の上記主張
はその前提において誤りである。
( 4) 原告は,本件明細書が記載要件を具備しているか否かについて,本件特
許の出願後に定められた明細書の記載要件に関する特許・実用新案審査基準
を遡及適用して,本件特許を本件明細書の記載不備のみを理由に取り消すこ
とは許されない旨主張する。
しかし,決定は,本件明細書が記載要件を具備しているか否かについて,
飽くまでも法令に従って判断したものであり,本件特許の出願後に定められ
た特許・実用新案審査基準を遡及適用したということはなく,原告の主張は
失当である。
2 取消事由2(特許法旧36条4項違反の判断の誤り)について
( 1) 本件発明1は,平衡膨潤度(Y)と熱水中での完溶温度(X)に関する,
Y>-0.0667X+6.73〔式(Ⅰ)〕,X≧65〔式(ⅠⅠ)〕の
二式を同時に満足するように乾燥温度等を制御するものであるところ,仮に,
原告主張のように,本件出願時,平衡膨潤度(Y,結晶化度)又は熱水中で
の完溶温度(X,結晶サイズ)を別個にそれぞれ制御する方法が周知であっ
たとしても,上記二式を同時に満足するフィルムの製造条件が当業者に周知
であったとはいえないから,「フィルムの製造方法は,発明の詳細な説明に
記載するまでもなく,本件出願時の当業者の技術常識から明らかである」と
の原告の主張は根拠がないものである。
また,特定の結晶サイズ,結晶化度を有するPVAフィルムの製造条件は
直接的,かつ,一義的に特定できるものではないとの原告の主張は,試行錯
誤でしか本件発明において原反フィルムとして用いるPVAフィルムを製造
できないことを自認するものであり,当業者が本件発明を容易に実施できな
いことは明らかである。
( 2) 別紙1の第1図から明らかなとおり,本件明細書記載の2点の実施例は,
同図に図示する二式を同時に満足する領域内の小さな領域に分布しているの
に対し,本件明細書において式(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式を同時に満たす
範囲は,上記2点が占める範囲を大きく超えて広範囲に及ぶところ,どのよ
うな製造条件であれば,平衡膨潤度(Y)と熱水中での完溶温度(X)との
関係がそのような範囲にあるPVAフィルムを作製できるかは,当業者が容
易に想定できることではない。
なお,本件明細書には,2点の実施例と2点の比較例が記載されていると
ころ,特定の結晶サイズ,結晶化度を有するPVAフィルムの製造条件は直
接的,かつ,一義的に特定できるものではないとの原告の主張は,上記実施
例及び比較例の記載と矛盾するものであり,かつ,最良の実施の形態が具体
的に示されるべき実施例の意味さえ否定するものであって,失当である。
( 3) 本件明細書の発明の詳細な説明の記載のみからは,本件発明1の構成を
採用することにより,所望の特性の偏光フィルムが得られると当業者におい
て把握することができないことは,上記1( 2)で述べたとおりである。そし
て,その構成と効果との関係が,本件出願時の当業者の技術常識でもないこ
とは,原告も認めるとおりである。
そうすると,本件発明1の構成によれば,水中退色温度が60℃以上であ
って,「ホウ酸処理中6.4倍に延伸しても,フィルムの切断や亀裂がみら
れな」い偏光フィルムが得られるという所望の効果との対応関係が,本件明
細書の発明の詳細な説明に記載されているということはできない。
原告が,甲6証明書記載の実験データをも併せて,本件明細書において,
熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の値が,Xが65℃以上〔式
(ⅠⅠ)〕,Yが-0.0667X+6.73の式〔式(Ⅰ)〕による数値
を超える範囲のPVAフィルムであれば,所望の特性の偏光フィルムが得ら
れることを開示し,その知見から本件発明1につき特許を受けたと主張する
ためには,そのような知見を裏付ける実験データがそもそも本件明細書の発
明の詳細な説明に記載されている必要があるのである。
( 4) 以上のとおり,本件明細書の発明の詳細な説明は,当業者が容易にその
実施をすることができる程度に,その発明の目的,構成及び効果が記載され
たものとは認められないとした決定の判断に誤りはない。
第6 当裁判所の判断
1 取消事由1(特許法旧36条5項1号違反の判断の誤り)について
( 1) 特許法旧36条5項は,「第三項四号の特許請求の範囲の記載は,次の

号に適合するものでなければならない。」と規定し,その1号において,
「特許を受けようとする発明が発明の詳細な説明に記載したものであるこ
と。」と規定している(なお,平成6年改正法により,同号は,同一文言の
まま特許法36条6項1号として規定され,現在に至っている。以下「明細
書のサポート要件」ともいう。)。
特許制度は,発明を公開させることを前提に,当該発明に特許を付与して,
一定期間その発明を業として独占的,排他的に実施することを保障し,もっ
て,発明を奨励し,産業の発達に寄与することを趣旨とするものである。そ
して,ある発明について特許を受けようとする者が願書に添付すべき明細書
は,本来,当該発明の技術内容を一般に開示するとともに,特許権として成
立した後にその効力の及ぶ範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにすると
いう役割を有するものであるから,特許請求の範囲に発明として記載して特
許を受けるためには,明細書の発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決
できることを当業者において認識できるように記載しなければならないとい
うべきである。特許法旧36条5項1号の規定する明細書のサポート要件が,
特許請求の範囲の記載を上記規定のように限定したのは,発明の詳細な説明
に記載していない発明を特許請求の範囲に記載すると,公開されていない発
明について独占的,排他的な権利が発生することになり,一般公衆からその
自由利用の利益を奪い,ひいては産業の発達を阻害するおそれを生じ,上記
の特許制度の趣旨に反することになるからである。
そして,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するか否
かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請
求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明
の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識でき
る範囲のものであるか否か,また,その記載や示唆がなくとも当業者が出願
時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のもの
であるか否かを検討して判断すべきものであり,明細書のサポート要件の存
在は,特許出願人(特許拒絶査定不服審判請求を不成立とした審決の取消訴
訟の原告)又は特許権者(平成15年法律第47号附則2条9項に基づく特
許取消決定取消訴訟又は特許無効審判請求を認容した審決の取消訴訟の原告,
特許無効審判請求を不成立とした審決の取消訴訟の被告)が証明責任を負う
と解するのが相当である。
以下,上記の観点に立って,本件について検討することとする。
( 2) 本件明細書の特許請求の範囲の記載について
本件発明1に係る本件請求項1には,ポリビニルアルコール系原反フィル
ムを一軸延伸して偏光フィルムを製造するに当たり,原反フィルムとして厚
みが30~100μmであり,かつ,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤
度(Y)との関係が式(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式で示される範囲であるポ
リビニルアルコール系フィルム(PVAフィルム)を用いる製造法が記載さ
れている。また,本件発明2及び3に係る特許請求の範囲の請求項2及び3
は,いずれも本件請求項1を引用するものである。
( 3) 本件明細書の発明の詳細な説明の記載について
ア 本件明細書(甲3)には以下の事項が記載されている。
(ア) 「【産業上の利用分野】本発明(注,本件発明)は耐久性及び偏光
性能に優れ,かつ製造時の安定性に優れた偏光フィルムの製造法に関す
る。」(段落【0001】)
(イ) 「【従来の技術】・・・ポリビニルアルコール系偏光フィルムの場
合,ヨウ素染色品は偏光性能は良好であるが耐湿性や耐熱性が劣り,高
湿度雰囲気下や高熱雰囲気下にさらされると偏光度の低下いわゆる耐久
性が劣る難点があり,一方染料染色品は逆に偏光性能は劣るが耐久性は
優れているという利点を持っている。このように,ポリビニルアルコー
ル系偏光フィルムは一長一短があるので,その最終用途の必要性能に応
じて適宜使い分けることが余儀なくされるのが実情である。従って,偏
光性能と耐久性のいずれもが優れたポリビニルアルコール系偏光フィル
ムが開発できれば,その用途の拡大を含めて非常に有用であるといえる。
そこで,本出願人は,上記課題を解決するために,ポリビニルアルコー
ル系原反フィルムを染色工程及びホウ素化合物処理工程の少なくとも一
方の工程において,一軸延伸して偏光フィルムを製造する際に,原反フ
ィルムとして厚みが30~100μmで,かつ熱水中での完溶温度が6
5~90℃のPVA系フィルムを用いることを提案した(特開平4-1
73125号公報)。該方法により,高温,高湿状態での耐久性が改善

れ,長期間放置してもその偏光度が変化しない偏光フィルムが得られ
た。」(段落【0002】ないし【0005】)
(ウ) 「【発明が解決しようとする課題】しかしながら,本発明者等が更
に検討を重ねた結果,特開平4-173125号公報では,確かに高温,
高湿での耐久性に優れた偏光フィルムが得られてはいるものの,ポリビ
ニルアルコール系原反フィルムの厚み,熱水中における完溶温度の規定
だけでは偏光性能や耐久性能等が安定しない,即ち,製造条件のわずか
な変動において製品の偏光度にバラツキが生じたりすることがあり,細
心の工程管理が必要とされるということが判明した。又,該公報におけ
る製造法については,一軸延伸が最終的に7.2倍までの偏光フィルム
を作製し実験を行っているが,生産工程において精度良く延伸倍率を制
御することは容易ではなく,該工程中に延伸が7.2倍を越えてしまう
と,フィルムが切断したり,亀裂が生じたりする等の問題が発生したり
して,この点でもその生産管理には充分な注意を払わなければならない。
即ち,偏光フィルム製造時に,特にフィルムの延伸時において工程中避
けることの難しい延伸過剰にも耐え得るだけの原反フィルムが要求され
るようになってきた。そのため,高度の偏光性能や耐久性能をもち,し
かも上記のような延伸過剰となった時にもフィルム切れのない,つまり
高延伸倍率に耐え得る優れた偏光フィルムの製造法の開発が望まれてい
るのである。」(段落【0006】【0007】)
(エ) 「【課題を解決するための手段】しかるに,本発明者等はかかる課
題を解決すべく鋭意研究を重ねた結果,ポリビニルアルコール系原反フ
ィルムを一軸延伸して偏光フィルムを製造するに当たり,原反フィルム
として厚みが30~100μmであり,かつ熱水中での完溶温度(X)
と平衡膨潤度(Y)との関係が下式で示される範囲であるポリビニルア
ルコール系フィルムを用い,かつ染色処理工程で1.2~2倍に,さら
にホウ素化合物処理工程で2~6倍にそれぞれ一軸延伸するとき,特に
平均重合度が2600以上のポリビニルアルコール系フィルムを用いる
場合,上記の目的が達成できることを見出し,本発明を完成した。
Y>-0.0667X+6.73 ・・・・(Ⅰ)
X≧65 ・・・・(ⅠⅠ)
但し,X:2cm×2cmのフィルム片の熱水中での完溶温度(℃)
Y:20℃の恒温水槽中に,10cm×10cmのフィルム片を15分
間浸漬し膨潤させた後,105℃で2時間乾燥を行った時に下式浸漬後
のフィルムの重量/乾燥後のフィルムの重量より算出される平衡膨潤度
(重量分率)」(段落【0008】)
(オ) 「完溶温度が65℃以下のフィルムでは延伸時にフィルムが一部溶
解したり劣化が起こったりして実用にならず,一方90℃以上のフィル
ムでは充分な延伸が行われなかったり,延伸時のトラブルが発生し易く
なったりする。又,完溶温度が上記範囲であっても,(Ⅰ)式で示す平
衡膨潤度が上式範囲外のフィルムでは,偏光フィルムの偏光性能,耐久
性能,更には製造時の製造安定性等が低下する等の問題が発生し,目的
とする偏光フィルムが得難くなるのである。」(段落」【0013】)
(カ) 「【実施例】膜厚が80μmで,完溶温度(X)と平衡膨潤度
(Y)が下記の値であるPVAフィルムを,ヨウ素0.2g/l,ヨウ
化カリ60g/lよりなる水溶液中に30℃にて240秒浸漬し,同時
に1.2倍に一軸延伸し,次いでホウ酸60g/l,ヨウ化カリ30g
/lの組成の水溶液に浸漬すると共に,同時に6倍に一軸延伸しつつ5
分間にわたってホウ酸処理を行った後,室温で24時間乾燥して,偏光
フィルムを得,その得られた偏光フィルムについて,耐湿熱性の評価の
ために水中退色温度を測定したところ,それぞれ下記の値となったこと,
実施例1及び2ではフィルムの染色後ホウ酸処理中6.4倍に一軸延伸
してもフィルムの切断や亀裂は見られなかったのに対し,比較例1及び
2ではフィルムの染色後ホウ酸処理中の延伸倍率が6倍を越えたところ
でフィルムの切断が見られたこと。
実施例1 実施例2 比較例1 比較例2
完溶温度(X) (℃) 71.6 72.0 74.5 75.3
平衡膨潤度(Y) 2.4 2.2 1.6 1.6
(Y)の範囲<計算値> Y> 1.95 Y> 1.93 Y> 1.76 Y> 1.71
水中退色温度(℃) 63 62 52 54 」
(段落【0020】~【0026】の記載の要約)
(キ) 「【発明の効果】本発明では,原反フィルムとして特定の完溶温度
及び平衡膨潤度を有するポリビニルアルコール系フィルムを使用し,さ
らに少なくともホウ素化合物処理工程中で一軸延伸することによって,
偏光フィルムの偏光性能及び耐久性能に優れ,かつ偏光フィルム製造時
の安定性に非常に優れた効果を示す。」(段落【0027】)
イ 上記認定の本件明細書の記載によれば,本件明細書の発明の詳細な説明
には,従来のPVA系偏光フィルムには一長一短があり,偏光性能と耐久
性のいずれもが優れたPVA系偏光フィルムの開発が望まれていたこと
(上記ア(イ),(ウ)),特開平4-173125号公報に記載された方法
によれば,高温,高湿状態での耐久性が改善され,長期間放置しても偏光
度が変化しない偏光フィルムが得られるが(上記ア(イ)),この方法では,
偏光性能や耐久性能等が安定しない,すなわち,製造条件のわずかな変動
で偏光度にバラツキが生じ,また高延伸倍率でフィルムが切断したり亀裂
が生じたりする問題が発生していたこと(上記ア(ウ)),従来技術におけ
るこのような課題の存在にかんがみ,本件明細書の特許請求の範囲の本件
請求項1に記載された構成を採用することにより,高度の偏光性能や耐久
性を持ち,しかも高延伸倍率に耐え得る偏光フィルムを製造できることを
見いだしたこと(上記ア(ウ),(エ))が記載されていると認められる。
具体的には,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)が,71.
6℃と2.4〔式(Ⅰ)で示される範囲内〕であるPVAフィルム(実施
例1),72.0℃と2.2〔式(Ⅰ)で示される範囲内〕であるPVA
フィルム(実施例2)から,それぞれ,水中退色温度が63℃,62℃と
いう,高耐久性で,かつ,延伸倍率が6.4であっても切断や亀裂が生じ
ない偏光フィルムが得られたのに対し,熱水中での完溶温度(X)と平衡
膨潤度(Y)が,74.5℃と1.6〔式(Ⅰ)で示される範囲外〕であ
るPVAフィルム(比較例1),75.3℃と1.6〔式(Ⅰ)で示され
る範囲外〕であるPVAフィルム(比較例2)からは,それぞれ,水中退
色温度が52℃,54℃という,耐久性が十分でなく,しかも,延伸倍率
が6倍を越えると切断が発生する偏光フィルムが得られたことが記載され
ている(上記ア(カ))と認められる。
そして,上記ア(エ),(オ)の記載によれば,熱水中での完溶温度(X)
と平衡膨潤度(Y)とが式(I)及び式(II)の二式を満足する関係に
あることが従来技術の有する課題を解決するために不可欠な手段であると
されていることが認められるが,上記実施例以外には,熱水中での完溶温
度(X)と平衡膨潤度(Y)とが式(I)及び式(II)の二式を満足す
る範囲に存在する関係にあることで当該課題を解決できることを当業者に
おいて認識できることを裏付ける記載は存在しない。
( 4) 発明の詳細な説明に記載された発明と特許請求の範囲に記載された発明
との対比
ア 特許請求の範囲に発明として記載して特許を受けるためには,明細書の
発明の詳細な説明に,当該発明の課題が解決できることを当業者において
認識できるように記載しなければならないというべきことは,上記(1)で
説示したとおりである。そして,上記(2)から明らかなとおり,本件発明
は,特性値を表す二つの技術的な変数(パラメータ)を用いた一定の数式
により示される範囲をもって特定した物を構成要件とするものであり,い
わゆるパラメータ発明に関するものであるところ,このような発明におい
て,特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するためには,
発明の詳細な説明は,その数式が示す範囲と得られる効果(性能)との関
係の技術的な意味が,特許出願時において,具体例の開示がなくとも当業
者に理解できる程度に記載するか,又は,特許出願時の技術常識を参酌し
て,当該数式が示す範囲内であれば,所望の効果(性能)が得られると当
業者において認識できる程度に,具体例を開示して記載することを要する
ものと解するのが相当である。
イ そこで,本件明細書の記載が,特許請求の範囲の本件請求項1の記載と
の関係で,上記アの明細書のサポート要件に適合するか否かについてみる
と,上記( 3)で検討したとおり,本件明細書の発明の詳細な説明には,従
来のPVA系偏光フィルムが有する課題を解決し,耐久性及び偏光性能に
優れ,かつ製造時の安定性に優れた性能を有する偏光フィルムを製造する
ための手段として,本件請求項1に記載された構成を採用したことが記載
されているものの,その構成を採用することの有効性を示すための具体例
としては,特定の完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の値を有するPVA
フィルムから,高度の耐久性を持ち,かつ,高延伸倍率に耐え得る偏光フ
ィルムを得たことを示す実施例が二つと,特定の完溶温度(X)と平衡膨
潤度(Y)の値を有するPVAフィルムから,耐久性が十分でなく,高延
伸倍率に耐えられない偏光フィルムを得たことを示す比較例が二つ記載さ
れているにすぎない。
他方,本件発明は,原反フィルムとして用いられるPVAフィルムが満
たすべき完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)とが,本件請求項1に規定さ
れた,Y>-0.0667X+6.73〔式(I)〕及びX≧65〔式
(II)〕の二式で画定される範囲に存在する関係にあることにより,上
記所望の性能を有する偏光フィルムが得られるというのであるところ,少
なくとも,上記範囲が,式(Ⅰ)の基準となるY=-0.0667X+6.
73の式(以下「式(Ⅰ)の基準式」という。)及び式(ⅠⅠ)の基準と
なるX=65℃の式(以下「式(ⅠⅠ)の基準式」という。)を基準とし
て画されるということが,本件出願時において,具体例の開示がなくとも
当業者に理解できるものであったことを認めるに足りる証拠はない。
また,PVAフィルムの熱水中での完溶温度(X)を60℃~100℃
のX軸,平衡膨潤度(Y)を1.0~3.0のY軸に取ったXY平面に,
式(Ⅰ)の基準式を斜めの実線で,式(ⅠⅠ)の基準式を縦の破線で表し
た上,これに上記実施例及び比較例で用いられたPVAフィルムの熱水中
での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の値をプロットした別紙1の第1
図(その図示の内容自体は当事者間に争いがない。)に見るとおり,同X
Y平面において,上記二つの実施例と二つの比較例との間には,式(Ⅰ)
の基準式を表す上記斜めの実線以外にも,他の数式による直線又は曲線を
描くことが可能であることは自明であるし,そもそも,同XY平面上,何
らかの直線又は曲線を境界線として,所望の効果(性能)が得られるか否
かが区別され得ること自体が立証できていないことも明らかであるから,
上記四つの具体例のみをもって,上記斜めの実線が,所望の効果(性能)
が得られる範囲を画する境界線であることを的確に裏付けているとは到底
いうことができない。
そうすると,本件明細書に接する当業者において,PVAフィルムの完
溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)とが,XY平面において,式(Ⅰ)の基
準式を表す上記斜めの実線と式(ⅠⅠ)の基準式を表す上記破線を基準と
して画される範囲に存在する関係にあれば,従来のPVA系偏光フィルム
が有する課題を解決し,上記所望の性能を有する偏光フィルムを製造し得
ることが,上記四つの具体例により裏付けられていると認識することは,
本件出願時の技術常識を参酌しても,不可能というべきであり,本件明細
書の発明の詳細な説明におけるこのような記載だけでは,本件出願時の技
術常識を参酌して,当該数式が示す範囲内であれば,所望の効果(性能)
が得られると当業者において認識できる程度に,具体例を開示して記載し
ているとはいえず,本件明細書の特許請求の範囲の本件請求項1の記載が,
明細書のサポート要件に適合するということはできない。
ウ 原告は,平衡膨潤度(Y)は1以上で上限値が3.0を超えることはな
く,熱水中での完溶温度(X)は下限値が65℃で上限値は実質90℃で
あるから,式(I)及び式(II)の二式を満足する範囲は無制限に広い
範囲を示すものではないとも主張する。
しかしながら,仮に,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の
値の範囲がその主張のとおりであるとしても,式(Ⅰ)の基準式が上記四
つの具体例により的確に裏付けられているということができないことは上
記イのとおりであるから,実際に効果が確認された二つの実施例を根拠に,
実施例で使用された以外のPVAフィルムも,式(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の
二式を満足しさえすれば必ず上記所望の効果を奏するということができな
いことに変わりはない。したがって,原告の上記主張は,採用の限りでは
ない。
( 5) 原告は,本件異議申立ての審理の段階で提出した,甲6証明書記載の1

点の実験データと本件明細書記載の4点の実験データを参酌すれば,式
(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式を導き出すための具体例の数としては十分であ
り,上記二式を満足するPVAフィルムが優れた効果を奏するとの確証を得
るにも十分であるのに,決定は,甲6証明書を全く考慮せずに,上記のとお
り,本件明細書記載の実施例1,2の2点及び比較例1,2の2点の合計4
点のみを基にして,上記二式を満たすものがすべて偏光性能及び耐久性能が
優れた効果を奏するとの心証を得るには,実施例が十分ではなく,本件明細
書の記載及び当該分野の技術常識に照らしても,上記二式を満足するものが
上記の優れた効果を奏するとの確証を得られるものではないとしたが,この
判断は誤りである旨主張する。
ア しかしながら,上記(4)アのとおり,特性値を表す二つの技術的な変数
(パラメータ)を用いた一定の数式により示される範囲をもって特定した
物を構成要件とする,本件発明のようないわゆるパラメータ発明において,
特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要件に適合するために,発明
の詳細な説明に,特許出願時の技術常識を参酌してみて,パラメータ(技
術的な変数)を用いた一定の数式が示す範囲内であれば,所望の効果(性
能)が得られると当業者において認識できる程度に,具体例を開示して記
載することを要すると解するのは,特許を受けようとする発明の技術的内
容を一般に開示するとともに,特許権として成立した後にその効力の及ぶ
範囲(特許発明の技術的範囲)を明らかにするという明細書の本来の役割
に基づくものであり,それは,当然のことながら,その数式の示す範囲が
単なる憶測ではなく,実験結果に裏付けられたものであることを明らかに
しなければならないという趣旨を含むものである。そうであれば,発明の
詳細な説明に,当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる程度に,
具体例を開示せず,本件出願時の当業者の技術常識を参酌しても,特許請
求の範囲に記載された発明の範囲まで,発明の詳細な説明に開示された内
容を拡張ないし一般化できるとはいえないのに,特許出願後に実験データ
を提出して発明の詳細な説明の記載内容を記載外で補足することによって,
その内容を特許請求の範囲に記載された発明の範囲まで拡張ないし一般化
し,明細書のサポート要件に適合させることは,発明の公開を前提に特許
を付与するという特許制度の趣旨に反し許されないというべきである。
イ 本件についてみると,甲6証明書は,原告従業員であるA(中央研究所
機能材料研究室主任)作成に係る平成16年8月3日付け実験成績証明書
であって,これには,同人において,偏光性能及び耐久性能等に優れた偏
光フィルムが,式(I)及び式(II)の二式を満たすPVAフィルムを
用いるときに得られることを明らかにし,また,式(I)及び式(II)
の二式が導き出された根拠を明確にすることを目的として,本件出願日前
である平成5年5月18日から同年8月25日にかけて実験1ないし8,
比較実験1,2の各実験を行ったこと,実験1ないし8は,PVAの平均
重合度,PVAの平均ケン化度,乾燥温度,乾燥時間等を適宜に設定して,
熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係がいずれも式
(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式の範囲内であるPVAフィルムを得,そのP
VAフィルムから製造した偏光フィルムの水中退色温度を測定したほか,
ホウ酸処理工程中,フィルムを6.4倍に一軸延伸した場合の切断可能性
を検証したものであること,比較実験1,2は,上記PVAの重合度等の
各条件を適宜設定して,熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)と
の関係がいずれも式(Ⅰ)及び式(ⅠⅠ)の二式の範囲外であるPVAフ
ィルムを得,そのPVAフィルムから製造した偏光性フィルムの水中退色
温度を測定したほか,ホウ酸処理工程中,フィルムをそれぞれ6.4倍,
5.1倍に一軸延伸した場合の切断可能性を検証したものであること,こ
れらの実験の結果を取りまとめたものが別紙2の図1(注,図示の内容は
別紙1の第2図と実質的に同じである。)であり,これにより,熱
水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係が式(Ⅰ)及び式
(ⅠⅠ)の二式を満たすPVAフィルムを用いた場合,水中退色温度の高
い,偏光性能及び耐久性能に優れた偏光フィルムが得られることが分かっ
たことが記載されている。
ウ そうすると,甲6証明書の記載をそのまま信用するとしても,甲6証明
書記載の実験データは,本件明細書の発明の詳細な説明に具体的に開示さ
れていない,特定の完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)の数値を有するP
VAフィルムから得られた偏光フィルムの性能の測定結果と,その測定デ
ータに基づき判断されるPVAフィルムの完溶温度(X)及び平衡膨潤度
(Y)の数値と偏光フィルムの性能との関係を,本件出願後になって開示
するものにほかならず,これを上記発明の詳細な説明の記載内容を記載外
で補足するものとして参酌することは,上記アに説示したところに照らし,
許されないというべきである。したがって,原告の上記主張は,採用する
ことができない。
( 6) 以上検討したとおり,本件明細書の発明の詳細な説明に記載された事項
及び本件出願時の技術常識からは,従来のPVA系偏光フィルムが有する課
題を解決し,耐久性及び偏光性能に優れ,かつ,製造時の安定性に優れた性
能を有する偏光フィルムを製造するための手段として必要なPVAフィルム
の熱水中での完溶温度(X)と平衡膨潤度(Y)との関係が式(I)及び式
(II)の二式で示される範囲を画定することが可能であることを当業者に
おいて認識することができないから,上記発明の詳細な説明には,XとYと
の関係が式(I)及び式(II)の二式で示される範囲にあるPVAフィル
ムを原反フィルムとして用いる偏光フィルムの製造法の発明が記載されてい
るということはできない。
他方,上記( 2)のとおり,本件請求項1には,熱水中での完溶温度(X)
と平衡膨潤度(Y)との関係が式(I)及び式(II)の二式で示される範
囲にあるPVAフィルムを原反フィルムとして用いる偏光フィルムの製造法
の発明が記載されていることから,本件請求項1に係る本件発明1及びこれ
を引用する請求項2,3に係る本件発明2,3の特許請求の範囲の記載は,
本件明細書の発明の詳細な説明に記載された発明の範囲を超えるものである
というほかはない。
したがって,本件明細書の特許請求の範囲の記載は,明細書のサポート要
件に適合しておらず,特許法旧36条5項1号の規定に違反するものという
べきであるから,これと同旨の決定の判断に誤りはない。
( 7) これに対し,原告は,本件出願時において,本件発明のようないわゆる
パラメータ発明に関する特許出願については,明細書に実施例として根拠と
なるすべての実験データを記載することは要求されていなかったものであり,
本件明細書が記載要件を具備しているか否かについては,本件出願の審査に
おいては全く問題にならなかったのに,本件特許の出願後に定められた明細
書の記載要件に関する特許・実用新案審査基準を遡及適用して,本件特許を
本件明細書の記載不備のみを理由として取り消すことは極めて不合理であっ
って許されないというべきである旨主張する。
ア しかしながら,本件明細書の特許請求の範囲の記載が,特許法旧36条
5項1号所定の明細書のサポート要件に適合しているか否かは,特許法の
当該規定の趣旨に則って判断されるべきであり,その規定の趣旨からすれ
ば,本件発明のようないわゆるパラメータ発明についての明細書のサポー
ト要件に関しては,上記(4)アのとおり解釈すべきである。
イ 特許・実用新案審査基準は,特許要件の審査に当たる審査官にとって基
本的な考え方を示すものであり,出願人にとっては出願管理等の指標とし
ても広く利用されているものではあるが,飽くまでも特許出願が特許法の
規定する特許要件に適合しているか否かの特許庁の判断の公平性,合理性
を担保するのに資する目的で作成された判断基準であって,行政手続法5
条にいう「審査基準」として定められたものではなく(特許法195条の
3により同条の規定は適用除外とされている。),法規範ではないから,
本件特許の出願に適用される特許・実用新案審査基準に特許法の上記規定
の解釈内容が具体的に基準として定められていたか否かは,上記(4)アの
解釈を左右するものではない。また,平成15年10月改訂に係る特許・
実用新案審査基準(甲11)では,明細書のサポート要件違反の類型の一
つとして,「出願時の技術常識に照らしても,請求項に係る発明まで,発
明の詳細な説明に開示された内容を拡張ないし一般化できるとはいえない
場合」を掲げ,更にその例示として,「機能・特性等を数値限定すること
により物・・・を特定しようとする発明において,請求項に記載された数
値範囲全体にわたる十分な数の具体例が示されておらず,しかも,発明の
詳細な説明の他所の記載をみても,また,出願時の技術常識に照らしても,
当該具体例から請求項に記載された数値範囲全体にまで拡張ないし一般化
できるとはいえない場合」を掲げており,この具体的基準が特許法旧36
条5項1号の規定の趣旨に沿うものであることは,上記(5)アの判示に照
らして明らかであって,そうである以上,これをその特定の基準が適用さ
れる特許出願より前に出願がされた特許に係る明細書に遡及適用したのと
同様の結果になるとしても,違法の問題は生じないというべきである。
ウ この点に関し,原告は,平成15年10月改訂に係る特許・実用新案審
査基準は,現行特許法36条6項1号及び同項2号の解釈・運用基準であ
って,遡及して適用されるとしても,その対応規定が存在する平成6年改
正法による改正後の特許法が適用となる平成7年1月1日以降にされた特
許出願に限られるというべきである,本件発明は,特許請求の範囲の請求
項に係る発明が,発明の詳細な説明に記載された発明と実質的に対応して
おり,また,特許・実用新案審査基準の,「発明の詳細な説明には,請求
項に係る発明をどのように実施するかを示す『発明の実施の形態』」のう
ち特許出願人が最良と思うものを少なくとも一つ記載することが必要であ
る」との内容とも合致している旨主張するが,以上の説示に照らし,採用
することができない。
2 以上の次第で,本件明細書の特許請求の範囲の記載が,明細書のサポート要
件に適合しておらず,特許法旧36条5項1号に違反するとした決定の判断の
誤り(取消事由1)をいう原告の主張は,理由がないから,本件明細書の発明
の詳細な説明の記載が同条4項に違反するとした決定の判断に誤りがあるか否
かについて判断するまでもなく,原告主張の取消事由は理由がなく,他に決定
を取り消すべき瑕疵は見当たらない。なお,上記第3の3③において注記した
とおり,決定には法令の適用を誤った違法があるが,その違法が決定の結論に
影響を及ぼすものでないことは明らかである。
よって,原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとお
り判決する。
知的財産高等裁判所特別部
裁判長裁判官 篠 原 勝 美
裁判官 塚 原 朋 一
裁判官 佐 藤 久 夫
裁判官 青 柳 馨
裁判官 岡 本 岳

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