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平成18(行ケ)10498審決取消請求事件

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裁判所 請求棄却 知的財産高等裁判所
裁判年月日 平成19年8月21日
事件種別 民事
当事者 被告特許庁長官肥塚雅博
原告セプラコール・インコーポレイテッド
法令 特許権
特許法29条2項1回
キーワード 分割28回
審決26回
優先権7回
進歩性5回
刊行物1回
実施1回
主文 原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事件の概要 本件は,原告が,下記1(1)の特許出願(以下「本件特許出願」という。)に係 る特許についての拒絶査定に対する不服審判請求を成り立たないとした審決の取消 しを求める事案である。

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判決文

平成18年(行ケ)第10498号 審決取消請求事件
平成19年8月21日判決言渡,平成19年6月28日口頭弁論終結
判 決
原 告 セプラコール・インコーポレイテッド
訴訟代理人弁護士 阿部隆徳
訴訟代理人弁理士 青山葆,岩崎光隆,伊藤晃,橋本諭志
被 告 特許庁長官 肥塚雅博
指定代理人 横尾俊一,森田ひとみ,徳永英男,森山啓
主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1 原告の求めた裁判
「特許庁が不服2004−2550号事件について平成18年6月26日にした
審決を取り消す。」との判決
第2 事案の概要
本件は,原告が,下記1(1)の特許出願(以下「本件特許出願」という。)に係
る特許についての拒絶査定に対する不服審判請求を成り立たないとした審決の取消
しを求める事案である。
1 特許庁における手続の経緯
(1) 本件出願手続(甲12,19,20)
出願人:サンド・アクチエンゲゼルシヤフト
出願日:平成4年4月3日
発明の名称:「ベータ−2−気管支拡張薬の改善使用」
優先権主張:1991年(平成3年)4月5日(イギリス)
-1 -
出願番号:特願平4−81971号
原告は,出願人サンド・アクチエンゲゼルシャフトから,本件特許出願に係る発
明につき,特許を受ける権利の譲渡を受け,平成7年10月19日に特許庁長官に
対する届出をした。
(2) 本件手続
拒絶査定日:平成15年10月31日(甲14)
審判請求日:平成16年2月9日(不服2004−2550号)
手続補正日:平成16年3月9日(甲13)
審決日:平成18年6月26日
審決の結論:「本件審判の請求は,成り立たない。」
審決謄本送達日:平成18年7月11日
2 本願発明の要旨(甲13)
審決が対象とした発明は,平成16年3月9日付け手続補正書による補正後の特
許請求の範囲の請求項1に記載された発明(以下「本願発明」という。)であり,
その要旨は以下のとおりである。
「【請求項1】 R−エナンチオマーを95%以上含有するテルブタリン又はR,
R−エナンチオマーを95%以上含有するフォルモテロールを有効成分とする,副
作用の抑制された,ヒトにおける炎症性または閉塞性気道疾患処置用医薬組成
物。」
3 審決の理由の要点
審決は,本願発明が,1973年(昭和48年)発行の「Br.J.Pharmac., Vol.4
8」144∼147頁(甲1,以下「引用例1」という。),1974年(昭和4
9年)発行の「The Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics,Vo
l.189, No.3」616∼625頁(甲2,以下「引用例2」という。),1987
年(昭和62年)発行の「Clinical Chemistry, Vol.33, No.6」1026(71
2)頁(甲3,以下「引用例3」という。)及び1990年(平成2年)発行の
-2 -
「Br.J.Clin.Pharmac., Vol.30」127∼133頁(甲4,以下「引用例4」とい
う。)にそれぞれ記載された発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることがで
きたものであり,特許法29条2項により特許を受けることができないとした。
審決の理由中,各引用例の記載事項の認定,本願発明と引用例4記載の発明との
対比及び相違点についての判断の部分は,以下のとおりである(略称及び審決が引
用する引用例の記載に係る符号を本判決で用いたものに改めてある。)。
(1) 各引用例の記載事項の認定
ア 引用例1
(ア)「 『サルブタモールの光学異性体について薬学的活性が研究された。β-アドレナリン受
容体に対して(-)サルブタモールは(+)サルブタモールよりもはるかに効能があった。』(144
頁Summaryの1)」
(イ)「 『この薬剤は不斉中心を有するため,アドレナリン受容体に作用する他の交感神経様
アミンの例と同様に,活性が主に左旋性(-)異性体(R配置)に存するかどうか,また,ラ
セミ体と同様の選択性を有するかどうかを確かめることに関心が持たれた。』(144頁Introdu
ctionの10∼14行) 」
イ 引用例2
「『組織選択的作動薬,すなわち,ソテレノール,トリメトキノール及びサルブタモールのそ
れぞれのエナンチオマーについて,モルモットの心房及び気管のβアドレナリン受容体につい
て研究した。……,
有効性の数値からの組織選択性についての解析結果は,ソテレノール,トリメトキノール及
びサルブタモールの(-)異性体はそれぞれ,3.3,9,24倍心房よりも気管に対して有効であっ
たことを示した。』(616頁要約) 」
ウ 引用例3
「『サルブタモール(アルブテロール)は,R(-)及びS(+)サルブタモールの二つの立体異性体
の混合物として,喘息の治療に用いられている。しかし,β作動性は主にR(-)エナンチオマー
に存在する。』(1026頁左欄下14∼下11行) 」
-3 -
エ 引用例4
(ア)「 『5 これらの発見は,キラルなフェノール性交感神経様アミン薬剤の硫酸抱合にお
けるエナンチオ選択性が,これらの薬剤の臨床で使用する際に考慮されるべきエナンチオ選択
的な薬物動態に関連することを示唆する。』(127頁) 」
(イ)「 『数多くのβ-アドレナリン受容体作動薬が閉塞性肺疾患の治療や早産の予防に用いら
れている。これらの薬剤は全てキラル炭素原子に結合したヒドロキシ基をもつフェノール性2-
ヒドロキシエチルアミンである。これらのほとんどの薬剤はラセミ体,すなわち薬学的に活性
な(-)エナンチオマーと不活性な(+)エナンチオマーの50:50混合物,として使用される。最近
の2つの臨床研究によって,これらの医薬の一つ,すなわちテルブタリンのそれぞれのエナン
チオマーの薬学的動態が異なることが示された(……)。』(127頁左欄1∼12行) 」
(2) 本願発明と引用例4記載の発明との対比
「引用例4の記載事項から,テルブタリンは閉塞性肺疾患の治療薬として用いられており,薬
学的に活性な(-)エナンチオマーと不活性な(+)エナンチオマーの50:50混合物,すなわちラセ
ミ体で用いられていることは明らかである(上記(1)のエの(イ))。
本願発明と引用例4に記載の発明とを比較すると,両者はテルブタリンを有効成分とするヒ
トにおける炎症性または閉塞性気道疾患処置用医薬組成物である点で一致する一方,本願発明
はR−エナンチオマーを95%以上含有するテルブタリンを有効成分とする副作用の抑制され
たものであるのに対し,引用例のものはテルブタリンのラセミ体を有効成分とするものであ
り,副作用について特段の記載がない点で相違する。 」
(3) 相違点についての判断
「本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝については異性体間で
著しい差があることが明らかとなり,医薬品としてラセミ体の開発,使用に問題が投げかけら
れていた。そして,異性体間で薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質で
あっても生体に対する負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましいとされ,
このような医薬品開発の重要性が当業者の間で既に認識されていた。(『月刊薬事』Vol.29,
No.10,p2039∼2042,(1987),平成元年10月10日学会出版センター発行,日本化学会編『季刊化
-4 -
学総説No.6,1989 光学異性体の分離』の2頁,16頁,212∼214頁,『ファルマシア』Vol.25,No.
4,p333∼336(1989)等参照。)
上記の異性体間における代謝速度の差は薬物の作用持続時間や副作用に影響を与えるもので
あって(上記「ファルマシア」の333頁左欄参照),この種の薬物を臨床で使用する際にはエ
ナンチオマーによる薬物動態の差を考慮すべきことも引用例4に記載されている(上記(1)のエ
の(ア))。
そうすると,テルブタリンについても有効成分として活性のある(-)エナンチオマーのみの
使用が望ましいことは当業者が容易に想到するところである。
そして,テルブタリンはサルブタモール等の他のβ-アドレナリン受容体作動薬と同様にフ
ェノール性-2-ヒドロキシエチルアミン構造を有する化合物であるから,活性のある(-)エナン
チオマーの立体配置がRであることは当業者が容易に理解できることである(上記(1)のア∼
ウ,エの(イ)参照)。
さらに,光学異性体の一方のみを使用する利点として副作用の発生が抑えられることもよく
知られていること(サリドマイドの例等)であるから,薬理作用のあるR-エナンチオマーが95
%以上のテルブタリンにおいて副作用が抑制されるという効果が奏されること自体も当業者が
十分に予測し,容易に確認しうる範囲のものである。
したがって,本願発明はその優先日前に頒布された刊行物である引用例1∼4に記載された
発明に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものであるというべきである。
なお,請求人は・・・引用文献のいずれにも光学対掌体の副作用について着目した記事は存
在しないからそのような引用文献の記載から本願発明の構成及び効果を想到することは不可能
である旨主張しているが,上記のとおり光学対掌体の存在する化合物について異性体を分割
し,薬理作用や副作用の有無について検討すべきであることは当業者に広く認識されていたこ
とと認められるから,かかる主張を採用することはできない。 」
第3 当事者の主張の要点
審決の本願発明と引用例4記載の発明(以下「引用発明」という。)との一致点
及び相違点の認定については,当事者間に争いがない。
-5 -
1 原告主張の審決取消事由
(1) 取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)
審決は,1989年(平成元年)発行の「ファルマシア」Vol.25, No.4, 333∼3
36頁(甲7。以下「甲7文献」という。)の336頁右欄8∼12行の記載を引用して,
「本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体内動態,特に代謝については
異性体間で著しい差があることが明らかとなり,医薬品としてラセミ体の開発,使
用に問題が投げかけられていた。そして,異性体間で薬効に著しい差がある場合,
他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考慮すると有効な異
性体のみを投与することが望ましいとされ,このような医薬品開発の重要性が当業
者の間で既に認識されていた。」と認定している。
しかしながら,甲7文献の上記記載の直後には,「(有効な異性体のみを医薬品
として開発することは)技術的にも経済的にも現時点では容易ではない」,「合成
医薬品の開発・研究の段階において各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正
確に把握しておくことは必要なことと考えられる」と記載されている。また,審決
が引用する1987年(昭和62年)発行の「月刊薬事」Vol.29, No.10, 2039∼2
042頁(甲5。以下「甲5文献」という。)にも「一番の問題点は,不斉合成の難
易度と分離・精製の生産コストであり,これらを含めて開発方針を決定せねばなら
ないであろう」(2042頁右欄13∼15行)と記載されている。
これらの記載から導かれる本件出願当時の技術常識は,「開発・研究しようとす
る化合物がラセミ体の場合は,各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に
把握して,光学分割して活性異性体のみを医薬品として開発するメリットと,光学
分割の技術的困難性及び光学分割をすることにより高い費用が発生するというデメ
リットを比較考量することにより開発方針を決定する」というものである。このこ
とは,日経サイエンス1994年3月号(甲8)31頁右下の図からも窺えるところであ
る。
したがって,本件出願当時の技術常識についての審決の認定は,「光学分割して
-6 -
活性異性体のみを医薬品として開発するメリット」にのみ着目し,「各異性体の薬
理作用等を把握して,光学分割のメリット,デメリットを比較考量して開発方針を
決定する」という点を看過した誤りがある。
そして,引用例4は,「不活性なS(+)テルブタリンが,活性なR(−)テル
ブタリンよりヒトにおいて2倍早く代謝される」ことを実験により証明している
(127頁6行∼8行(要約の項目3))のであるから,当業者は,「不活性体が
活性体より早く代謝され,早く体内より消失するのであるから,わざわざ高い費用
が発生する光学分割をする必要がない」と判断するものである。つまり,「ラセミ
体テルブタリンを光学分割して,活性のあるR(−)エナンチオマーのみを使用す
る」動機付けが存在しない。
したがって,テルブタリンのR(−)エナンチオマーのみを使用することが容易
想到であるとした審決の判断は誤りである。
さらに,1984年(昭和59年)発行の「Acta Pharmacol.et toxicol」285∼
291頁(甲9。以下「甲9文献」という。)の図1及び表1には,S(+)テルブ
タリンが,本願発明に係る「副作用」である「気道抵抗(過反応)性の増加」と実
質的に正反対の作用である気道平滑筋弛緩作用を発揮することが示されていること
を考慮すれば,当業者は,光学分割によりラセミ体からS−テルブタリンを排除し
ても,本願発明に係る「副作用」を回避することができず,むしろ「気道抵抗(過
反応)性の増加」をより招来する可能性すらあると予測するものというべきである
から,光学分割によりラセミ体からS−テルブタリンを排除することについては,
阻害要因が存在する。
(2) 取消事由2(本願発明の作用効果についての判断の誤り)
審決は,本願発明の効果に関して,「光学異性体の一方のみを使用する利点とし
て副作用の発生が抑えられることもよく知られていること(サリドマイドの例
等)」との技術常識のみから,「(本願発明の)薬理作用のあるR−エナンチオマ
ーが95%以上のテルブタリンにおいて副作用が抑制されるという効果が奏されるこ
-7 -
と自体も当業者が十分に予測し,容易に確認しうる範囲のものである」と判断し,
本願発明の進歩性を否定している。
進歩性については,本願明細書(甲12)に記載されている発明の有利な作用効
果を参酌して判断すべきであるところ,本願明細書には,本願発明の「副作用」が
「気道抵抗(過反応)性の増加」を含む概念であり,この「気道抵抗(過反応)性
の増加なる副作用が抑制される」という,従来技術に報告のない有利でかつ異質な
作用効果が明確に記載されている(段落【0026】参照)のであるから,この作
用効果が「十分に予測し,容易に確認しうる」ものであるか否かを本件出願当時の
技術水準から判断するべきである。
本件出願当時,S−テルブタリンが,気道平滑筋弛緩作用を有することが,甲9
文献によって報告されていたことは上記のとおりであるから,当業者は,当然,気
道平滑筋弛緩作用を有する化合物であるS−テルブタリンが,ヒスタミンが惹起す
る気管支平滑筋収縮(気道抵抗増加)を抑制すると予測するが,本願明細書の実施
例1及び2に記載されているように,S−テルブタリンは,予想外にも逆に気道抵
抗(過反応)性を増加させるものである。
したがって,このような効果を有するS−テルブタリンを排除して得られた本願
発明の「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という作用効果
は,本件出願当時,当業者に予測不可能であったものというべきである。
また,フェノール性−2−ヒドロキシエチルアミン構造を有するS−テルブタリ
ン等のβ2アゴニストのこのような予測不可能な気道抵抗増加作用は,簡単には確
認することができない。実際,S−サルブタモールは,ヒスタミン投与の5分前に
単回静脈内投与されれば気道抵抗を低減し(引用例1の144頁最終行および14
5頁下から9∼8行目),S−アルブテロールは,ヒスタミン投与前に1時間静脈
内注入されれば気道抵抗を増加させる(明細書段落【0025】)。このような微
妙な実験方法の相違で正反対の作用を検出する事実は,フェノール性−2−ヒドロ
キシエチルアミン構造を有するS−テルブタリン等のβ2アゴニストの気道抵抗増
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加作用が,発明者の創意工夫により確認されるものであり,単なるルーチンワーク
ではその確認が容易でないことを示している。
以上のとおり,「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制される」という
本願発明における作用効果は,当業者が十分予測し,容易に確認することができな
いものであったというべきである。したがって,本願明細書に記載された,予測に
反し,容易に確認できない作用効果を参酌せずに,「副作用が抑制されるという効
果が十分に予測され,容易に確認される」とした,審決の判断は誤りである。
2 被告の反論
(1) 取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)に対し
原告は,甲7文献の「光学異性体を医薬として開発することは,技術的にも経済
的にも容易ではない」との記載や,甲5文献の「一番の問題点は,不斉合成の難易
度と分離・精製の生産コストであり,これらを含めて開発方針を決定せねばならな
いのであろう」との記載を挙げて,本件出願当時の技術常識が,「開発・研究しよ
うとする化合物がラセミ体の場合は,各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を
正確に把握して,光学分割して活性異性体のみを医薬品として開発するメリット
と,光学分割の技術的困難性及び光学分割をすることにより高い費用が発生すると
いうデメリットを比較考量することにより開発方針を決定する」というものである
と主張する。
しかしながら,甲7,甲5文献の上記記載に係る「開発」との文言は,「実用化
すること」(広辞苑第5版)という意味で使用されているのであって,原告のいう
「各異性体の薬理作用を把握して,光学分割のメリット,デメリットを比較考量し
て開発方針を決定する」とは,活性のある異性体のみを有効成分とする医薬品を実
用化する際に考慮する事項であるにすぎず,活性のある異性体のみを有効成分とす
る医薬品の発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術常識とは異なるものであ
る。
審決が,本件出願当時の技術常識として認定したのは,「異性体間で薬効に著し
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い差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対する負担を考
慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましい」ということである。そし
て,この技術常識に照らせば,ラセミ体を有効成分として用いていた医薬につい
て,それぞれの異性体を分離し,各異性体の作用を調べ,有効とされる異性体のみ
を有効成分とする医薬品とすることについての動機付けが,当業界には既に存在し
たということができる。
原告の上記主張は,発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術常識と,発明を
実用化する際に考慮すべき事項とを混同したものというほかはない。
サルブタモールやテルブタリン等のβ 2−作動薬の気管支拡張剤は,そのほとん
どの化合物について光学分割が行われ,気管支拡張作用はR−異性体にあり,S−
異性体にはないかほとんどないことが知られており(審決の認定に係る引用例1∼
4の記載事項参照),また,テルブタリンについては引用例4においてそれぞれの
光学異性体を用いた動物実験で代謝の研究が行われており(甲9文献においても
(+)及び(-)異性体について比較試験がされている。),本件出願に係る優先権主張
日である平成3年当時には,既に光学分割が行われていたことが明らかである。
そうすると,テルブタリンの光学異性体について,合成の困難性は技術的に解決
済みの問題であるから,上記の動機付けがあれば当業者が本願発明に到達すること
はたやすいというべきである。
また,不活性なS(+)テルブタリンが,活性なR(−)テルブタリンより早く
代謝されるとしても,活性な異性体であるR−テルブタリンを医薬品として使用す
ることには,十分な動機付けがある。
すなわち,甲5文献には「ラセミ体中の他の半分の化学物質が,それ自体明らか
な薬理活性が欠ける場合でも,まったく無関係なものではなく,ラセミ体というも
のは50%の不純物(impurity)を含んでいる化合物であるという考え方も提出され
てきた。この50%のimpurityのものが,まったく無関係なものではなく,生体内に
おける薬物動態に著しい影響を及ぼすとともに副作用発現の原因ともなっているこ
ともまま見られる。有名な催奇性薬であるthalidomideは,l−体及びd−体はと
もに同程度の催眠作用を持つが,l−体とそのグルタミン酸代謝物のみが催奇形作
用を持つので,もしd−体のみを市販していたら,あのような惨事は起きなかった
と考えられている。」(2039頁右欄)との,1989年(平成元年)10月10日
発行の「光学異性体の分離(季刊化学総説No.6)」(甲6。以下「甲6文献」とい
う。)には「医薬品の多くは生体にとって異物(xenobiotics)であり,副作用が
認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に必要な最少限
度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである.したがって,医薬品の構造中
に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの
生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみ
を提供すべきであると主張されるようになった.換言すれば,このようなラセミ体
は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱であり,これが
共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである.」(16頁8行∼15行),「近年の
有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光学分割を容易にし
つつある.また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学活性薬物の分離分
析を可能なものとした.薬物の体内動態が的確に解明される結果,光学活性体の形
での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされることになった.」
(同頁下から4行∼末行)との,甲7文献には「ここでは医薬品に見られる光学活
性の薬理作用について異性体間で顕著な差を示す例を紹介し,現在論議されてい
る"50% inpurity"の問題についても一部ふれてみたい.」(333頁左欄下から4行
∼末行)との各記載があり,これらの記載によれば,本件出願に係る優先権主張日
当時,医薬品は生体にとって異物であり,薬効を期待できない異物は,たとえ早く
代謝されるものであろうと,医薬品としては不純物であると認識され,一方の光学
異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,これを光学
分割して,目的に適合した異性体(エナンチオマー)のみを提供すべきであること
が提唱されていたことは周知であるから,審決が,活性のあるR−エナンチオマー
のテルブタリンのみを有効成分として使用することが容易想到であると判断したこ
とに誤りはない。
(2) 取消事由2(本願発明の効果についての判断の誤り)に対し
R−エナンチオマー95%以上のテルブタリンを有効成分とすることにより,従来
のラセミ体に比べて,S−エナンチオマーを含まない分だけ投与量は半減するの
で,投与された医薬を代謝する生体の負担が減少するという効果が得られ,また,
サリドマイドの例が知られているように,異性体の一方に予期し得ない副作用が潜
んでいる危険性も減少するという効果が得られると期待できることは明らかであ
る。
さらに,原告は,本願発明に「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制さ
れる」と主張するところ,本願明細書には,S−異性体を用いたモルモットによる
実験の結果からS−異性体に気道抵抗(過反応)性の増加という副作用があること
は記載されているが,R−異性体に気道抵抗(過反応)性の増加という副作用がな
いことについては,「本発明の有用性は,例えば以下のように行われる臨床試験で
でも示すことができる」(段落【0039】)との記載の下に,臨床試験の想定例
が記載されているにすぎず,実際に試験して確認した結果は,本願明細書には何ら
記載されていない。
原告が主張する本願発明の効果とは,本願発明の組成物はS−異性体を含まない
から,S−異性体による副作用はないであろうと推測したものにすぎない。
そうすると,S−異性体を含まないことによって期待される副作用の軽減が,当
業者の予測を超えた格別顕著なものであるということはできないから,審決が,本
願発明の効果の判断を誤ったものということはできない。
第4 当裁判所の判断
1 取消事由1(本願発明と引用発明との相違点についての判断の誤り)について
原告は,審決が技術常識の認定を誤っており,引用発明から本願発明を想到する
動機付けがなく,阻害要因が存在すると主張するので,以下において検討する。
(1) 技術常識について
ア 一般に,製造工程の簡素化,生産性の向上,費用の低減などは,発明を製品
化して事業化する際に,当然に考慮されるべき技術的・経済的要請であるというこ
とができるところ,甲7文献(333頁左欄20∼25行)によれば,合成医薬品
の分野においても,かかる技術的・経済的要請の下で,薬物の光学異性体の一方に
のみ高い薬理効果があることが分かっていても,その分割が難しく,費用が嵩むこ
とや,体内動態研究のレベルで生体組織中の異性体を分離定量することが難しかっ
たことなどの理由で,他方の異性体は不活性な添加物として扱うとの認識が,当業
者において一般的であった時期が存在していたことが窺われる。
そこで,仮に,このような認識が,発明の進歩性を評価する際に参酌すべき技術
常識に当たるものであったとして,本件出願に係る優先権主張日当時においても,
上記のような認識が一般的であり,なお技術常識であったということができるか否
かについて検討する。
イ まず,上記甲7文献には,異性体間における代謝速度や代謝経路の違いが,
薬物の作用持続時間や副作用に影響を与えること(同欄14∼18行),異性体間
で,その薬理作用及び動態における差が著しいことが「最近」数多く報告されるよ
うになってきていること(同欄25∼28行)が記載された上,光学活性体の薬理
作用について,異性体間で顕著な差を示す実例が,サリドマイドを含み10例余り
紹介されており,「まとめ」として,「異性体間で薬効に明らかな差のある場合,
他方が全く作用のない物質であったとしても,生体への負担を考えると多くの例で
は有効な異性体のみを投与することが当然好ましいと考えられるが,技術的にも経
済的にも現時点では容易ではない。しかしながら合成医薬品の開発・研究の段階に
おいて各異性体の薬理作用・毒性および体内動態を正確に把握しておくことは必要
なことと考えられる。」(336頁右欄8∼15行)と記載されている。
次に,甲6文献には,「医薬品の多くは生体にとって異物(xenobiotics)であ
り,副作用が認められない場合でも,疾病という異常状態から正常状態への復帰に
必要な最少限度の用量を(必要期間だけ)投与されるべきである。したがって,医
薬品の構造中に不斉中心が存在している薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に
対して何らの生理活性を示さないラセミ体であっても,光学分割して目的に適合し
た対掌体のみを提供すべきであると主張されるようになった。換言すれば,このよ
うなラセミ体は『50%の不純物を含有する医薬品』とみなすべきであるとの提唱
であり,これが共感を呼ぶに至ったのはごく自然のことである。」(16頁8∼1
5行),「近年の有機化学の進歩は,従来困難とされていた化合物の不斉合成や光
学分割を容易にしつつある.また,分析化学の進歩は,生体内における微量な光学
活性薬物の分離分析を可能なものとした.薬物の体内動態が的確に解明される結
果,光学活性体の形での開発が刺激され『50%不純物問題』が力強く後押しされ
ることになった.」 (同頁下 4∼末行)との記載がある。
ウ そうすると, かつての一時期においては,薬理効果がなく,不活性な異性
体は添加物として扱うことが技術常識であったとしても,本件特許出願に係る優先
権主張日前に,そのような認識を改めるべきであることが指摘されるに至り,上記
優先権主張日当時には,既に当業者において,一般に,「異性体間で薬効に明らか
な差のある場合,他方が全く作用のない物質であったとしても,生体への負担を考
えると多くの例では有効な異性体のみを投与することが当然好ましい」こと,「合
成医薬品の開発・研究の段階において各異性体の薬理作用・毒性及び体内動態を正
確に把握しておくことは必要なこと」,「医薬品の構造中に不斉中心が存在してい
る薬物は,たとえ一方の光学異性体が生体に対して何らの生理活性を示さないラセ
ミ体であっても,光学分割して目的に適合した対掌体のみを提供すべきである」こ
とが,技術常識となっていたと認められる。
エ しかるところ,審決の「本願出願(優先日)当時,合成キラル医薬品の生体
内動態,特に代謝については異性体間で著しい差があることが明らかとなり,医薬
品としてラセミ体の開発,使用に問題が投げかけられていた。そして,異性体間で
薬効に著しい差がある場合,他方が全く作用を示さない物質であっても生体に対す
る負担を考慮すると有効な異性体のみを投与することが好ましいとされ,このよう
な医薬品開発の重要性が当業者の間で既に認識されていた」との技術常識について
の認定は,上記ウの認定と実質的に変わるところはないから,審決の上記認定に誤
りはないというべきである。
(2) 動機付けについて
ア 上記(1)で認定した技術常識を前提とすると,当業者は,ラセミ体を有効成
分とする公知の医薬組成物について,異性体を光学分割し,各々の異性体につきそ
の薬理作用を確認し,より目的に適った異性体のみを有効成分とする医薬組成物を
得ようと動機付けられるというべきである。
このことを引用発明に係るテルブタリンについてみれば,当業者は,その薬理活
性が高い(−)エナンチオマーがR−エナンチオマーであると容易に理解すること
ができるから,テルブタリンの光学分割が技術的に不可能でない限り,S−テルブ
タリンを排除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高いR−テルブタリ
ンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられるというべきである。
そして,引用例4及び甲9文献には,テルブタリンにつき,(-)エナンチオマー
と不活性な(+)エナンチオマー((-)-テルブタリンと(+)-テルブタリン)の両異性
体を用いた実験(試験)を行った結果が記載されているから,本件出願に係る優先
権主張日当時,テルブタリンを光学分割すること自体は,技術的に可能となってい
たと認められる。
イ 原告は,不活性なS−テルブタリンの代謝が活性なR−テルブタリンの2倍
早く,体内から消失するのが早いため,当業者は,わざわざ費用をかけて光学分割
をする必要がないと判断するから,動機付けが存在しないと主張する。
しかし,上記(1)で認定した技術常識の下で,当業者が,S−テルブタリンを排
除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高いR−テルブタリンのみを有
効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられることについては,上記アのとお
りであり,ラセミ体のうち薬理活性の低いS−テルブタリンは,代謝が早くても,
生体にとって異物であることに変わりはないから,S−テルブタリンの代謝が早い
ことは上記アの判断に影響を与えるものではない。
(3) 阻害要因(S−テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用)について
原告は,甲9文献に,S(+)テルブタリンが,本願発明に係る「副作用」であ
る「気道抵抗(過反応)性の増加」と実質的に正反対の作用である気道平滑筋弛緩
作用を発揮することが示されているとし,当業者は,ラセミ体からS−テルブタリ
ンを排除すると,「気道抵抗(過反応)性の増加」をより招来する可能性すらある
と予測するものというべきであるから,光学分割によりラセミ体からS−テルブタ
リンを排除することについては,阻害要因が存在すると主張する。
確かに,甲9文献の図1(286頁)及び表1(287頁)には,(+)-テルブタ
リン(S−テルブタリン)が,(-)-テルブタリン(R−テルブタリン)とともに,
気管支弛緩作用を有することが示されていると認められるが,甲9文献の「Abstra
ct」(要約)には,「(+)-テルブタリンは,気管の弛緩・・・において,(-)-テル
ブタリンより3000倍以上作用が弱かった。」(抄訳文1頁)との記載があるか
ら,S−テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用は,R−テルブタリンの気道平滑筋弛
緩作用に比べ,3000分の1以下であることも認められる。
しかるところ,上記(2)のとおり,当業者は,引用発明に係るテルブタリンに関
し,S−テルブタリンを排除し,より目的に適った異性体として,薬理活性が高い
R−テルブタリンのみを有効成分とする医薬組成物を得ようと動機付けられるもの
であるが,その際,甲9文献により,S−テルブタリンに,R−テルブタリンの3
000分の1以下の気道平滑筋弛緩作用があることを認識したとしても,その程度
の薬理効果があるために,S−テルブタリンを排除することが阻害されるとは到底
認められず,かえって,より効果的な医薬組成物とすることを求めるのであれば,
気管支弛緩作用の点でも薬理効果の大きいR−テルブタリンのみを有効成分とする
医薬組成物を得ようとする動機付けが更に増大するだけであると認められる。
したがって,原告の上記主張を採用することはできない。
2 取消事由2(本願発明の効果についての判断の誤り)について
(1) 原告は,本願明細書に,本願発明の「副作用」が「気道抵抗(過反応)性の
増加」を含む概念であり,この「気道抵抗(過反応)性の増加なる副作用が抑制さ
れる」という,従来技術に報告のない有利でかつ異質な作用効果が記載されている
とした上で,S−テルブタリンを排除して得られた本願発明のかかる作用効果は,
甲9文献のS−テルブタリンが気道平滑筋弛緩作用を有するとの報告から,当業者
が予測する内容と逆であり,当業者に予測不可能であったとか,容易に確認するこ
とはできなかったと主張する。
しかしながら,甲9文献に,S−テルブタリンの気道平滑筋弛緩作用が,R−テ
ルブタリンの気道平滑筋弛緩作用に比べ,3000分の1以下であることも記載さ
れていることは,上記1の(3)のとおりであるから,引用発明に係るテルブタリン
に関し,S−テルブタリンを排除して,R−テルブタリンのみを有効成分とする医
薬組成物を得ようとの動機付けに従って想到し得る医薬組成物が,「気道抵抗(過
反応)性の増加なる副作用」を抑制する作用効果を奏することは,当業者におい
て,当然に予測し得るところであり,原告の上記主張を採用することはできない。
(2) それのみならず,そもそも,本願発明のような,医薬についての用途発明に
おいては,一般に,物質名や化学構造からその有用性を予測することは困難であっ
て,明細書の発明の詳細な説明に有効量,投与方法,製剤化のための事項がある程
度記載されていたとしても,それだけでは,当業者は当該医薬が実際にその用途に
おいて有用性があるか否かを知ることはできず,発明の課題が解決できることを認
識することはできないから,更に,発明の詳細な説明に,薬理データ又はこれと同
視することのできる程度の事項を記載してその用途の有用性を裏付ける必要がある
というべきである。
そして,本願発明の要旨に照らし,本願発明の「ヒトにおける炎症性または閉塞
性気道疾患処置用医薬組成物」の有効成分は,R−テルブタリン又はR,R−フォ
ルモテロールであると認められるところ,本願明細書には,テルブタリンについて
は,「[1・3群薬]の非気管支拡張薬光学対掌体」,すなわち,S−テルブタリ
ンの及ぼす影響に関する記載(段落【0024】∼【0029】),ラセミ体
(R,S)−テルブタリンに言及した記載(段落【0028】)及び吸入量に関す
る記載(段落【0037】)があるものの,これ以外の記載はなく,フォルモテロ
ールについては,一切記載がない。
そうすると,本願発明は,有効成分であるフォルモテロールに関し,本願明細書
において,その有用性が裏付けられていないというべきであるから,本願発明の作
用効果をいう原告の主張は,いずれもその前提を欠く失当なものであるというべき
である。
(3) したがって,取消事由2についての原告の主張は理由がない。
第5 結論
以上のとおり,原告主張の取消事由はいずれも理由がないから,原告の請求を棄
却すべきである。
知的財産高等裁判所第4部
裁判長裁判官
石 原 直 樹
裁判官
古 閑 裕 二
裁判官
杜 下 弘 記

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